その夫婦とは近松門左衛門の人形浄瑠璃『
作品は義理と愛情の板挟みになった半兵衛・千代夫婦が心中へと向かう姿を描いています。
近松門左衛門最晩年である70歳の作品で、享保6年(1721)か同7年(1722)(※1)4月6日“
※1 享保6年(!721)か同7年(1722)
半兵衛と千代の墓は来迎寺の他に銀山寺(大阪市天王寺区生玉寺町)にもあり、その墓石には、正面に「一連通月融心心士」、その右左に「声応貞現信女、離身童子」、右側面に「享保七寅年四月六日」とあり、また同寺の過去帳には享保七年四月六日に「声応貞現女廿四/離身童子/川崎や源平へ養子娘/油掛町八百ヤ半兵ヘ妻/山城上田村兵右衛門妹也」とあるそうです。(精華町教育委員会の文化財担当者様よりご指摘頂きました。)
※2 生國魂神社(大阪市天王寺区生玉町)東側の「馬場先」(※2)
生國魂神社の東側に建つ鳥居から現在の近鉄大阪上本町駅付近までの道は生國魂神社の「馬場先」と称される参道だったようで、
大まかな内容・あらすじは、
大坂新靱 油掛町の八百屋半兵衛。元は武士の出だが、八百屋の養子になった。半兵衛の嫁が山城国相楽郡植田村(京都府相楽郡精華町植田)の大庄屋・島田平左衛門の二女・千代。二人は仲睦まじく暮らし、千代は妊娠4か月でした。
しかし、幸せな生活は続きませんでした。姑は千代と折り合いが悪く、半兵衛の留守中、勝手に千代を実家に帰してしまったのです。平右衛門は「半兵衛が自分の留守中に親に追い出させた。親に自分の罪を塗りつける不孝者」と責めます。半兵衛は腹を切って侘びようとしますが、それでは恩義ある義母の非を世間に曝すことになってしまい、半兵衛は弁解せず、ただ千代を連れ帰るのです。
半兵衛は千代を匿います。しかし、それを知った姑は怒り狂い、「世話してやった親が嫌う女房に孝行を尽くし、親に不孝を尽くす恩知らず」と罵ります。
嫁を憎んで追い出したとあっては義母の悪名は甚だしい―
半兵衛は「千代を呼び戻して下さい。自分が離縁しますから」と頼みます。
「その約束破ったら死ぬからね。母を殺すか、女房を離縁するか、あんたの勝手次第」と迫る姑。
義母への恩と平右衛門への義理、そして千代への愛情。どちらも捨て切れない―
半兵衛は千代と死ぬ決心をします―「あなたの孝行の道が立てば心残りはない」と従う千代。
庚申の夜、生國魂 神社の境内で半兵衛は来世での再会を誓い、身重の千代を刺し、切腹する。
平右衛門は娘夫婦の非業の死を悼み、島田家の菩提寺である来迎寺に墓石を建て、永代供養を行った。墓石には半兵衛と千代、そして千代の腹にいた子の戒名が刻まれている―
といったもの―
ところが、この心中事件には以下のような異聞もあったりするのです―
山城国相楽郡植田村の豪農・島田平右衛門の娘千代は10歳の時、行儀見習いのため大坂難波の蔵屋敷に出仕、安芸広島藩士の川崎家の小間使いとなります。
当主に気に入られた千代は養女となり、行儀作法や読み書きの手習いなどを受けさせます。
千代が18歳の時、川崎家の養子で元は遠江浜松藩士だった半兵衛の嫁となります。
しかし、この頃の川崎家は、何とも災禍続きでかつての栄華を誇れずに零落の様態でした。
ある時、千代の郷里より父が病気になったとの便りがあったために、その看病のため暇を得て実家に戻って来てみると、父は病気でなく、植田村の富豪である金蔵の息子に千代を嫁がさんと仕組んだ方策だったのです。
金蔵は千代の器量の良さを聞きつけ、わが息子の嫁に!と平右衛門に執拗に懇望していました。
この頃には千代の実家も零落の様態になっていたために、父は千代を手許に置こうと考え、千代に対し、半兵衛との縁を切って金蔵の息子の嫁となるように勧めます。
金蔵からの懇請もますます執拗となり、その脅迫に平右衛門は屈服し、婚礼の日取りが定まってしまいます。
思い余った千代は半兵衛に手紙を送ります。それには、
近頃他家へ嫁すこと勧めるに遭う、悲嘆に絶えず、道義をもって懇説するも聴き入れられず、父の身にかゝる禍難如何ともし難い、父に従い良人君を棄てることはならず、進退窮まる、故に一死をもって君に報いんと思うのように現在の経緯と共に千代の心情が、したためられてあったのです。
驚いた半兵衛は、すぐ様植田村に駆けつけ、平右衛門に「三行半」の書状を手渡しますが、まさにその時、別室から悲鳴が聞こえ、その場に駆けつけて見ると千代は小刀を喉元に突き刺し自害を遂げていたのです。
千代の傍らには遺書らしき、
一筆申残し候、近年家運零落し、この時に乗じ、心を変えて他家に赴く、独人富貴を請けるは、何の面白あって世人は見る、父に孝ならんとすれば良人に貞ならず、進退ここに谷まる唯死あるのみ、享保七年四月六日 ちよ、半兵衛殿と書かれた書状がありました。
半兵衛は千代の喉元に刺さったままの小刀を抜き取り、我が喉元を引き裂いて自害して果てます。
平右衛門は2人を遺体を来迎寺に葬り、碑を建てて弔ったそうです―(『精華町の郷土誌』より)
といったもの…但し、地元ではこの異聞が確かな伝承ではないようですので、実証する術(古文書とか)があれば調べてみたいな‼
※(参考)(史料紹介)日本最古の「三行り半」
(2020-12-24)追伸
精華町教育委員会生涯学習課の文化財担当者の方から以下のようなご指摘を頂きました(以下、引用抜粋)―
当町の名所である、来迎寺のお千代・半兵衛の墓について、貴ホームページにてご紹介いただき、ありがとうございます。
さて、その件につきまして、精華町立図書館では書籍『精華町の郷土誌』を配架しており、その本には確かにご紹介いただいている内容が書かれているところです。
しかしながら、書籍『精華町の郷土誌』は「精華町の自然と歴史を学ぶ会」という民間の任意団体が編集・発行し、その内容については、個人それぞれが独自の調査によって執筆されているものです。
当教育委員会が地元の植田地区において、お寺様方をはじめ地元の方々に聞き取り調査をおこなったところ、『精華町の郷土誌』の「お千代、半兵衛の碑」の項にて書かれていた様な内容は、伝わってはいませんでした。
「お千代、半兵衛の碑」の筆者がどのような調査によってこの内容を執筆されたのか、今となっては判りませんが(歌舞伎の演目では、お千代半兵衛の物語は時代が経つにつれ台本がどんどん脚色され改変されていき、様々な種類の「お千代半兵衛の物語」が作られていきました。
郷土誌の筆者が紹介された異聞も、そのように脚色され改変された物語に由来するのかもしれません)、お千代の出身地である植田地区には、この(掲載されている)ような話は伝わっていない、ということを、貴ホームページの当該ページの末文にでも付け加えていただけましたら、幸甚に存じます。どうかご配慮方いただきますよう、よろしくお願い申し上げます。
ご指摘、ご教示のほど、ありがとうございます。
この記事へのコメント
御堂
今日、文楽劇場に行かはったんですね。どんな感じでしたでしょう?
娘さんは良い体験をなされたと思いますよ。
私が高校生の時でしたが、京都府では高校生の時に現代国語の授業の一貫として、歌舞伎入門講座が主催されます。
その際には、前もって現国の授業で歌舞伎の演目となる台本が生徒たちに配られ、それを授業の中で素読した上で当日に臨むんですね。
しかし、これって私自身悔しい想い出がありまして、私が卒業して以降、場所が南座に替わったんですよね。それを聞いた時、“何でやねん!”と思いましたもん(笑)
私は文楽を観た事がないので、それだけでもsakiさんたちが羨ましい限りです。
大学の事務職を務めていた頃、京都の大学が所属する図書館協会の会議に出席したのですが、その際に主催者側の催しで文楽人形の良さを講演されたんですね。
その会議に出席していたメンバーの中で私は一番年齢が若かったのですが、突然、その若いメンバー2人(私ともうお一人)が代表で文楽人形を触って操作する事になったんです。私は素浪人で刀を振りかざして、もう一方の老女を斬り殺す役どころ―
片方の手で人形を支えて、もう片方の手で顔の表情や手の動きを操作するのですが、五本の指を操作する器具に引っ掛けるなどして、結局は両の手で細かな操作を施すのですから、その大変さが身にしみて体験できました。
sakiさんの娘さんもまだ小さいとはいえ、これから先も色々なモノに触れさせてあげる事を考えたら、良き出発点になったと思いますよ!
saki
今日、国立文楽劇場へ「心中宵庚申」を小二の娘と見に行きます。
予習のため、御堂様のサイトを拝見いたしました。
とてもわかりやすく、実情まで記されていて、
大変助かりました。
ありがとうございました。
演目を知らずにチケットを申し込みましたが
小二には不向きな内容かもしれませんねㆀ