(トピックス)篤姫の実像に迫る日記を発見!

発見された薩摩藩士・仙波市左衛門の日記と書類

今年のNHK大河ドラマ「篤姫」によって話題を集めている天璋院篤姫が13代将軍・徳川家定の正室となるために薩摩から江戸に向かった道中や、薩摩藩の姫君らの動静を詳細に記述した藩士の日記などが見つかりました。

江戸の薩摩藩邸にあった日記類は、幕末の焼き打ち事件で殆んどが焼失していて、保存記録としては極めて貴重。また当時、女性についての記録は少なく、幕末史と女性史の空白を埋める重要な史料となりそう。

― ◇ ◇ ◇ ―

現物は、群馬県高崎市の古書店「名雲書店」の名雲純一さんが今年、東京都内で入手。山本博文東京大学史料編纂所教授が鑑定されました。

日記を残していたのは、薩摩藩主・島津斉彬の側役として、篤姫らの護衛や世話などをしていたとみられる仙波市左衛門で、その妹・さかは斉彬の指示で篤姫に従い、安政3年(1856)に御中臈として大奥に入っている。江戸城開城以降も天璋院に従い、女中頭を勤め、娘も女中となっています。

そのタイトルは『天璋院篤姫御側付御中臈實兄仙波市左衛門日記』と呼ばれる、仙波市左衛門が江戸と薩摩との間の往復道中を日記他に書き綴ったもの―

発見されたのは、嘉永3年(1850)と同6年(1853)、篤姫が家定と結婚した安政3年(1856)から翌4年(1857)、薩摩藩士が英国人3人を殺傷した生麦事件を起こす文久2年(1862)の断続的な時期に書かれた日記6冊のほか、仙波家の由緒、市左衛門の業績書類の計8冊。それぞれ縦約15cm、横約20cmの和紙に毛筆で書かれ、計約2000ページもありました。

『浦乃藻屑』と題された日記や薩摩と江戸との間の道中記には、篤姫が、生家の今和泉家から薩摩の鶴丸城に入り、江戸に出立した時期や様子、神社など立ち寄り先、藩主の行列のうち、数十名とみられる市左衛門の一団の行列順や、薩摩から江戸までの一団の旅費が166両だった事なども分かります。

また、日々の天気も詳細に記されており、幕末の気象研究にも大いに貢献しそうな感じ。

さらに供物とみられる「鮮鯛」といった文言や、贈答品らしい「西洋肌着」などの記載も見られます。

「篤姫」の文字が書かれた薩摩藩士・仙波市左衛門の日記の一部

興味深いところでは、篤姫の日記での呼び名が近衛家の養女となった後に「篤姫」から「篤君」へ、家定との婚儀が行われた後は「御台様」へと変わっていく様子も見られます。

他に、文久2年(1862)の日記には、参勤交代が廃止されたため、島津斉彬の実の娘・寧姫らが江戸から薩摩に戻る様子や、薩摩で受け取った祝儀や祝いの様子なども記述されていた。

山本教授は「藩政よりも、篤姫ら女性について書かれているのは幕末の文書としては珍しい。従来の史料と対照する事で、様々な事が分かると思う。幕末の薩摩藩士から見た藩主の家族の歴史が新たに浮かび上がるだろう」と評価されています。

― ◇ ◇ ◇ ―

余談ですが、日記の主である薩摩藩士「仙波市左衛門」と聞いて、直木三十五氏の小説『南国太平記』とそれを原作に書かれたドラマ「風の隼人」を思い出しちゃいました(笑)

確か、主人公が仙波小太郎(勝野洋さん)だったはず…思わず、元ネタってこの人?と考えちゃったりします(笑)

― ◇ ◇ ◇ ―

※(関連)NHK大河ドラマ「篤姫」
※(関連)NHK大河ドラマ特別展「天璋院篤姫展」

この記事へのコメント


この記事へのトラックバック