江戸時代、幕府が定めた制度の中に「参勤交代」という制度がありました。
「参勤交代」とは、全国の諸大名や交代寄合などを交替で江戸に出仕させる制度です。
寛永12年(1635)3代将軍・徳川家光の時代に「武家諸法度」が改定(寛永令)され、その第2条で「大名小名在江戸交替相定也、毎歳夏四月中可参勤」と規定されたことにより徳川将軍家に対する軍役奉仕を目的として「参勤交代」が明文化されます。
「参勤」とは自分の領地から江戸へ赴くこと、「交代」とは自分の領地に帰還することを指し、鎌倉幕府から続く慣習としては、武家の棟梁(=征夷大将軍)である徳川将軍に「御恩」として領知を宛行われた事に対して、「奉公」として将軍の許に出仕する、との意味合いがあります。
但し、「参勤」は実際に、「参」(まい)って「覲」(まみ)える(=目上の人に会う)」という意味で、正しくは「参覲交代」と表記すべきところ、誤って「参勤交代」と記載してしまったために、慣例化してしまったのだとか―
東海道と
寛永12年(1635)6月、田中七左衛門が本陣役(本陣職)を拝命して以降、大名や旗本、幕府役人、勅使、宮、門跡などの宿泊所として明治3年(1870)10月に本陣としての名目が制度廃止されるまで務めました。
そんな田中七左衛門本陣で大変な騒動があったのです。
江戸時代後期の天保10年(1839)4月7日、江戸への参勤途中だった日向
突然の忠徹の死に随行の家臣たちは慌てふためきます。
忠徹は享年43歳。世継ぎである
家臣たちは、忠徹の死を伏せたまますぐさま急飛脚を出し、江戸藩邸には「病気の為、草津にて逗留中」、国許には「殿様死亡」を知らせ、善後策を講じます。
忠寛への跡目相続の許可を得るには急飛脚を使っても約50日は掛かります。
家臣たちはは本陣当主の田中七左衛門に忠徹の遺体安置の協力を求め、忠徹の死を隠し、忠徹が存命しており、本陣で病気逗留中であるかのように装って時間を稼ぎます。
その間、田中七左衛門本陣も窮地に陥り、他の大名たちの宿泊予定を、別の本陣や脇本陣に振り替えたり、前後の宿場町に変更するよう要請したり、と交渉や工作に難渋したようです。
また、跡目相続のための願書には現藩主であるに忠徹の判と花押が必須なのですが、「手が震えるので花押は省略する」との一文を添えるなど、家臣たちの苦心が窺えます。
家臣らの奔走もあって忠寛への跡目相続の書類が全て揃ったのが翌月の5月25日、忠徹の死は翌日の26日に公表され、田中七左衛門本陣の表門前に掛かる札が「島津飛騨守遺骸宿」に替えられたとあります。
関札(関所手形)が出て、忠徹の遺体が本陣を出発したのが6月25日。この日までの77日間、本陣は大切に安置されたのです。
さらに出発の際、忠徹に随行していた家老が心労で倒れてしまったため、代わりに田中七左衛門が
佐土原藩は改易・お取り潰しの危機を脱し、その感謝の礼として田中七左衛門に金300両や「丸に十文字」の家紋入りの
また、その後明治に至るまでの30年近く、毎年5月に米10俵を贈り続けたそうです。
上記の島津忠徹の急死事件を扱った特別展「本陣職はつらいよ~佐土原藩主急死事件とその後~」が「国指定史跡草津宿本陣」で催されています。
同展では七左衛門が忠徹の
新たに発見された史料は、本陣の調査で今年7月に見つかったもので、忠徹の参勤に付き従った家臣の狩野勇が七左衛門に宛てた礼状「田中七左衛門宛狩野勇書状」といい、「こまやかな心遣い誠にありがとうございました…(中略)…来春に帰国する際には1泊お願いの予定でおりますので、積もる話はその時まで残しておきます」などと感謝の気持ちが丁寧に綴られています。
さらに特別展では、「四月七日御逝去」と実際には4月7日に亡くなった忠徹の死亡日時を「御病に付き御滞留遊ばされ候」と病気療養を装い続け、5月26日と記載した表向きの大福帳(宿泊簿)や、七左衛門が事態の一部始終を記録した
また、この事件を機に佐土原藩は定宿をこの田中七左衛門本陣に代えたそうです。七左衛門の役割や苦労などに思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
開催期間は11月29日まで。詳細は史跡草津宿本陣まで。