(トピックス)姉川の敗戦から3年 浅井長政は織田信長にとってまだ脅威だった…

戦国時代の大名で北近江を支配していた浅井長政が姉川の戦い(現、滋賀県長浜市野村町付近)で織田信長に敗れた後、京都の寺院に送った古文書が発見されました。寺院への支配を示す内容で、長政が姉川の戦いで敗れた後も京都に影響力を残し、信長にとって脅威になっていたことを示す貴重な資料と注目されています。

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この文書は天台宗の寺院で「天台声明しょうみょう」「魚山ぎょざん声明」の道場の1つであった魚山大原寺勝林院しょうりんいん(京都市左京区大原勝林院町)で発見され、花押や内容から長政がこの寺に送った「安堵状」と判断されました。

「安堵状」とは、幕府や領主が支配下にある寺院などに対し、領地を保証するために発行したもので、今回見つかった古文書には「領地異議あるべからず候」と記されています。

この文書が書かれた日付である元亀元年(1570)11月、という点が大注目です―

長政はこの5か月前の同年6月28日の姉川の戦いで織田・徳川連合軍に敗れています。

従来の歴史観だと、姉川の戦いで長政が敗れた後、その勢力は衰退の一途を辿っていった、とされていましたが、実際にはそうではなく、北近江に限られずまだ一定の勢力を保っていたことを裏付ける内容だとしています。

姉川での敗戦の後、野田城・福島城の戦い(同年8月26日)、志賀の陣(宇佐山城の戦い、坂本の戦い、堅田の戦いなど、同年9月16日~12月17日)と続きますが、古文書の日付が同年11月となると、影響力のあった勝林院に決して信長に味方しないよう取られた措置の1つかもしれませんね。

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今回見つかった古文書から、信長による延暦寺焼き打ちの背景についても、新たな解釈が生まれそうです。

古文書が発見された勝林院一帯は比叡山の北西の麓にあり、比叡山延暦寺と深い繋がりがあります。

また、京都から琵琶湖や北陸方面に抜ける交通の要所(大原街道、または鯖街道)にあたり、長政がこの一帯に影響力を持っていたことが裏付けられるからです。

それ故、信長にとっては長政の存在が脅威となっていて、翌元亀2年(1571)9月12日に行使した、信長による延暦寺の焼き打ちについても、実は比叡山という中世的権威の破壊という思想上の目的ではなく、現状で信長にとって軍事的に不利な情勢の打開を図るために軍事的拠点になりやすい比叡山の戦略的価値をなくそうとしたのではないか、との解釈も考えられるのです。

さらに、信長は同じ天台宗でも山門系の比叡山より寺門系の園城寺おんじょうじ三井寺みいでら)とねんごろにしていたようなので、延暦寺焼き打ちについては、超現実主義からきた作戦と考えた方が良いのかもしれませんね。