(トピックス)島津義弘没後400年 企画展「鬼島津が遺したもの~島津義弘と文禄・慶長の役~」

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昨年は島津義弘没後400年に当たり、鹿児島県内を中心に島津義弘をテーマとする多くの企画展やイベントが開催されましたが、今年も義弘の新たな魅力や文禄・慶長の役前後の活動状況などを紹介する企画展「鬼島津が遺したもの~島津義弘と文禄・慶長の役~」が、9月18日(金)より佐賀県立名護屋城博物館(佐賀県唐津市鎮西町名護屋)で開催されます。

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戦国大名・島津貴久たかひさの二男として生まれた義弘は、初陣の岩剣いわつるぎ城(現、鹿児島県姶良あいら市平松)の合戦を皮切りに、三州(薩摩・大隅・日向)統一などにおいて多くの軍功を挙げ、兄の義久を助け、勢力拡大に大きく貢献しましたが、九州統一を目前にして豊臣秀吉に阻まれ、島津氏は豊臣体制下で臣従の道を歩みますが、その中でも義弘は積極的に重い任務にあたることで一族の存続を図ります。

秀吉の「唐入り」が決まると義弘は島津家を代表して、一族の久保ひさやす義弘の次男)や忠恒ただつね義弘の三男、島津宗家を継ぎ、のち 家久)、豊久とよひさ義弘の甥)と共に肥前松浦郡名護屋(名久野)に参陣。義弘自身は名護屋城(現、佐賀県唐津市、東松浦郡玄海町)の築城にも積極的に関わっています。

文禄・慶長の役(壬辰倭乱じんしんわらん)では朝鮮半島に渡り各地を転戦し、特に慶長の役では、慶長2年(1597)8月12日~16日にかけての南原なんげん(現、大韓民国全羅北道チョルラプクト南原ナモン市)城の戦いや、翌3年(1598)9月19日~翌10月1日にかけての泗川しせん(現、大韓民国慶尚南道キョンサンナムド泗川サチョン市)倭城の戦い等で大きな戦功を挙げて明・朝鮮軍から「鬼石曼子(ぐいしーまんず)」、すなわち"鬼島津"と恐れられます。

ちなみに、韓国時代劇ドラマ『不滅の李舜臣(イ・スンシン)』の中で文禄・慶長の役(壬辰倭乱)が描かれた際、日本軍の補給・連絡の前線基地が肥前名護屋ではなく尾張名古屋となっていたんですよね。作中に描かれた航路図も本陣である尾張名古屋から出航し、摂津大坂経由で瀬戸内海航路を通り、玄界灘を渡って朝鮮半島に渡った、という長距離航海になっていたんですよ。厳密にいえば、この頃は名古屋城(現・愛知県名古屋市中区、北区)はまだ築城されておらず、那古野城(現・愛知県名古屋市中区)跡地が存在しただけなのにね…

関ヶ原の戦いでは西軍の敗戦が決まると、寡兵で「敵中突破」を敢行し、その脱出劇は「島津の退き口」として後世に広く語り継がれ、「島津の軍勢といえば"鬼島津"のごとし」という心理的影響を植え付けていくことになるのです。

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島津義弘陣跡主郭部の南面石垣

同館では平成28年度(2016・4~)より、義弘が築いた陣の跡地(国が指定する特別史跡)の発掘調査を実施しており、その結果、石垣・玉石敷たまいじき虎口こぐち空間など、陣屋の構造や在陣生活の一端を示す多くの手掛かりが確認されました。

この陣跡地は名護屋城跡から北西約3㎞の波戸岬付近に位置する佐賀県唐津市鎮西町波戸にあります。

企画展では、こうした発掘調査の最新成果を発表するとともに、義弘の名護屋在陣前後に関する様々な資料を紹介することで、新たな義弘像を明らかにし、その動向を通して文禄・慶長の役の実像や名護屋在陣中の義弘の生活に迫り、その足跡たどります。11月8日まで。観覧料は無料。

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※(参照)豊臣体制論ノート(2)―「在京賄料」について―