(トピックス)仙台市博物館で「支倉常長帰国400年」展 慶長遣欧使節団の足跡たどる

支倉常長帰国400年

現在から400年前の元和6年(1620)8月24日、陸奥仙台藩主である伊達政宗の命を受けた慶長遣欧使節団の一行が7年間の旅を終え、仙台に帰国しました。

支倉常長

この慶長遣欧使節団の副使を担ったのが、仙台藩士・支倉はせくら六右衞門(常長)です。

彼はアジア人として唯一無二のローマ貴族、及びローマ・カトリック教会フランシスコ派の教徒となり、洗礼を受けます。(洗礼名はドン・フィリッポ・フランシスコ)。

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支倉常長帰国400年

仙台市博物館(宮城県仙台市青葉区川内)では「旬の常設展2020夏 特集展示『支倉常長帰国400年』」が開催中です。

同博物館の常設展示は春夏秋冬の季節ごとにテーマを設置し、旬の作品や資料が展示されるのですが、今回の常設展では「世界の中の日本」と題し、伊達政宗によってスペイン、ローマへと派遣された慶長遣欧使節団の旅の背景にあった16世紀から17世紀にかけての日本と海外との交流の歴史を古地図や絵画、工芸品などから紹介します。

また、支倉慶長遣欧使節団の旅については「文書と記録でたどる支倉常長の旅」と題し、国内外に残された文書と記録から、支倉六右衞門(常長)慶長遣欧使節団一行の旅の軌跡を紹介。『ローマ市公民権証書』などユネスコ記憶遺産3点を含む国宝「慶長遣欧使節関係資料」全47点が6年半ぶりに一挙公開されます。

会期は9月22日(火曜日・祝日)までとなっています。

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支倉使節団180余人の一行は、慶長18年(1613)9月15日に正使であるイスパニア(現、スペイン王国)人でフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロ(Luis Sotelo)神父と共に、西洋式帆船(ガレオン船=大型木造帆船)「サン・ファン・バウティスタ(San Juan Bautista)号」で「遠島月浦」(『真山記』、『政宗君記録引証記』所収)、すなわち牡鹿半島の月浦(現、宮城県石巻市月浦)を出港して太平洋を横断し、「のびすばん」(ノビスパン、『慶長見聞録案紙』)と呼ばれたイスパニア領ヌエバ・エスパーニャ("新イスパニア"という意)副王領のアカプルコ(Acapulcom、現、メキシコ合衆国ゲレーロ〔Guerrero〕州)に到着します。

支倉ら一行はアカプルコからメキシコシティ(Ciudad de México)、その後、大西洋を横断するためにベラクルス(Veracruz、現、メキシコ合衆国ベラクルス州)からスペイン艦隊に便船。その途次、キューバ総督領(現、キューバ共和国)のハバナ(Habana)を経由してイベリア(Iberia)半島南部に上陸。

到着した一行はイスパニアのサンルーカル・デ・バラメーダ(Sanlúcar de Barrameda、現、スペイン・アンダルシア〔Andalucía〕州セビリア〔Sevilla〕県)から小型帆船に乗り換えてグアダルキビル川を遡航し、セビリア郊外のコリア・デル・リオ(Coria del Río)に上陸します。

コリア・デル・リオに使節団の主だった者以外を留め置いて、支倉ら一行30人はマドリード(Madrid、現、スペイン・マドリード州マドリード県)に到着。イスパニア国王フェリペ(Felipe)3世に謁見し、政宗からの親書を渡します。、

さらにイベリア半島を陸路バルセロナ(Barcelona、スペイン・カタルーニャ〔Catalunya〕州バルセロナ県)に到達し、地中海北部を船で渡り、当時「ローマの外港」と呼ばれていた教皇領のチヴィタヴェッキア(Civitavecchia、現、イタリア共和国ラツィオ〔Lazio〕州ローマ〔Roma〕県)に上陸し、陸路ローマに入ってヴァチカン(Vaticanae)宮殿で教皇パウロ(Paolo)5世に拝謁しますが、交渉(宣教師の派遣とノビスパンとの通商交易)は難航。

文禄5年(1596)8月28日に起きた「サン・フェリペ(San Felipe)号事件」とその余波として翌慶長元年(1597)12月19日に起きたフランシスコ会員(なかでもアルカンタラ派)6名を含むカトリック教徒26人(宣教師3人、修道士3人、および日本人信徒20人)が長崎で処刑された「二十六聖人の殉教」などの迫害状況が影響していたようですね。

一旦、マドリードに戻ろうとしますが。イスパニア政府からの国外退去命令が出され、止むなく帰国の途につくこととなり、イスパニア領東インド(現、フィリピン共和国など)のマニラ(Maynilà)のイントラムロス(Intramuros)から長崎を経て、仙台に帰国するのです。

結果的には交渉はまとまらず、失意の帰国でした―

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時が過ぎ、慶長遣欧使節団の存在は歴史の闇の中に埋もれていきます。

しかし、明治の初めに再び脚光を浴びるのです。

それは維新政府が派遣した岩倉使節団がヨーロッパを訪れた際、支倉の書状を発見したことがきっかけでした。

そこで日本人はようやく、江戸時代の初め、遥かヨーロッパに赴き、スペイン国王やローマ教皇に面会して、堂々と交渉した日本人がいたことを知るのです。

「支倉常長帰国400年」という節目の年にあたり、支倉使節団の足跡をたどってみてはいかがでしょうか。

同博物館の開館時間は9時~16時45分(入館は16時15分まで)。月曜日は休館(8月10日、9月21日は開館し、8月11日、9月23日が休館となります)。観覧料は、一般・大学生=460円、高校生=230円、小・中学生=110円。詳しいことは同博物館まで。



(トピックス)岩宿遺跡発見の相沢忠洋氏の偉業を常設展示で!

岩宿博物館の常設展示

岩宿博物館(群馬県みどり市笠懸町阿左美)に、日本に旧石器時代が存在したことを明らかにした岩宿遺跡の発見者で、在野の考古学者として知られる故相沢忠洋氏所縁の槍先形尖頭器やりさきがたせんとうきなどを常設展示するコーナーが設けられた。

相沢忠洋氏は昭和21年(1946)、群馬県新田郡笠懸村字岩宿(現、みどり市笠懸町阿左美)の稲荷山、琴平山とも称される小さな丘陵(岩宿小丘)が接する間に赤土が露呈している切通し、すなわち「関東ローム層」の下部(岩宿地層)から一片の石片を発見します。岩宿遺跡発見への序幕ですね―

それから約3年後の昭和24年(1949)9月20日、黒曜石製で完全な形をした石槍(槍先形尖頭器)の発見し、それ以外にも旧石器時代特有の形をした横刃型、尖刃型石器をはじめ粘板岩製グトボアン(握槌形石器)も発見。これにより、日本にも旧石器時代が存在したことが明らかになります。

槍先形尖頭器

常設展示される石器は250点ほどで、岩宿遺跡以前の権現山遺跡(伊勢崎市)、夏井戸遺跡(桐生市)、桐原遺跡(みどり市)などから見つかった手斧、スクレイパー(削器さくきをはじめ、岩宿遺跡で最初に発掘された石刃や、石器を作りだす際に割られた剥片、ナイフ形石器も並ぶ。縄文草創期の石山遺跡(伊勢崎市)の石槍もあり、時代順に展示されています。

(トピックス)「公衆衛生」の先駆け後藤新平に脚光!125年前に防疫先進国たらしめた功績を展示

検疫所の写真などを展示する特別展

岩手県奥州市水沢大手町出身の実務官僚、後藤新平が125年前に手掛けた日清戦争帰還兵の検疫事業に関する特別展「日清戦争帰還兵検疫事業~帰還兵23万人への世界史上最大規模の検疫事業~」が、後藤新平記念館(岩手県奥州市)で催されています。

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時は日清戦争直後の明治28年(1895)7月―

当時、戦地である中国大陸や台湾では衛生状態が悪いこともあって、コレラなどの感染症が蔓延していたため、戦地からの帰還兵がそのまま帰国すれば国内での流行が懸念されていました。

台湾平定のために出兵した乙未いつび戦争では、近衛師団長の北白川宮能久親王(輪王寺宮公現入道親王)がマラリアで陣没、近衛歩兵第二旅団長の山根信成も戦病死、国内においても大本営で参謀総長の有栖川宮熾仁たるひと親王が腸チフスを発症するなど、国内も決して安全ではありませんでした。

戦地入院患者で病死した13216人のうち、

  • コレラ   5211人、
  • 消化器疾患 1906人、
  • 脚気    1860人、
  • 赤痢    1611人、
  • 腸チフス  1125人、
  • マラリア   542人、
  • 凍傷      88人、

であったといいます。(陸軍省編『明治二十七八年戦役統計』第七編 衛生より)

こうした状況の中で当時、陸軍省医務局長として大本営陸軍部の野戦衛生長官であった石黒忠悳ただのりは、かつて西南戦争終結後に軍兵たちを輸送していた船内で多数のコレラ患者が発生し、帰国する軍兵たちによって全国的にコレラが大流行し全国を震撼させた経験を踏まえて検疫の重要性を痛感し、戦争では傷者よりも病者の方が多いから、戦地からの凱旋兵に防疫対策として検疫をすべきだと建議していました。

そこで、同年3月に陸軍次官兼陸軍省軍務局長の児玉源太郎を部長とする臨時陸軍検疫部が発足。

さらに石黒は、先にその才能を見い出していた中央衛生会委員の後藤新平を文官資格のまま、臨時陸軍検疫部事務官長に就任させて日清戦争の検疫事業を担当させるのです。

後藤は検疫を行う場所として瀬戸内海の広島湾に浮かぶ似島にのしま(現、広島市南区似島町)に消毒部14棟、停留舎24棟、避病院16棟、さらに事務所、兵舎、炊事場、火葬場、汚物焼却場などの付随施設139棟、彦島(現、山口県下関彦島江の浦町)には153棟、桜島(大阪府大阪市此花区桜島)には109棟、など3カ所に検疫所を設置し、帰還兵全員の検疫を実施します。

戦地などからの帰還兵23万2346人の検疫や687隻の船舶の消毒にあたるなど、当初3カ月と計画していたのがわずか2ヶ月で完了させ、戦後のコレラの国内流入を何とか防ぎました。

こうした検疫事業は『臨時陸軍検疫部報告摘要』として遂次刊行物として世界各国に贈呈されるのですが、その成果についてドイツ皇帝ヴィルヘルム2世から激賞され、日本は防疫の先進国と認識されたといいます。

しかし、検疫事業を成し遂げた後藤は、水際作戦の限界を知ります。

根本的に病原菌の蔓延を防ぐには、街の衛生環境、上下水道や道路、家屋の設計などが重要だとし、公衆衛生の重要性、医療保険の大切さなどを実感するのです。

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特別展では、検疫所の写真や後藤が作成した検疫手順図など9点を展示。新型コロナウイルス感染症が流行する中、その功績が注目されており、4月19日までだった会期を11月1日まで延長しています。入場料200円、高校生以下無料。月曜休館。詳しいい問い合わせは同館まで。

(トピックス)大垣城特別展「石田三成~幻の大垣城決戦~」

関ヶ原の戦いに向けた前哨戦や幻となった大垣城決戦などを解説するパネル

関ヶ原の戦いで西軍方を率いた武将、石田三成に焦点を当てた特別展「石田三成〜幻の大垣城決戦〜」が、大垣城(岐阜県大垣市郭町)で開かれています。会期は来年1月11日まで。

関ヶ原の戦いから420年を記念して催される企画で、三成の戦略構想や大垣城入城、福束ふくつか城や杭瀬くいせ川での前哨戦などを時系列にしてパネルで解説しています。

展示の中には、もし仮に西軍方が関ヶ原での決戦を選択せず、大垣城での決戦を選んだ場合を考察した「幻の大垣城決戦」の解説もあり、籠城する西軍方を南宮山から支援する毛利秀元らの軍勢の存在や、東軍方が大垣城を水攻めする可能性など、混戦模様になっていた状況を推測しています。

会場では、大垣城籠城や落城寸前の脱出の様子について、三成の家臣、山田去暦の娘が少女時代に体験した大垣城の戦いの頃の様子を年老いてから子供たちに語った体験記『おあむ物語(御庵物語)』も絵巻の挿絵と共に紹介しています。

大垣城特別展「石田三成~幻の大垣城決戦~」

入館料200円(18歳未満は無料)。休館日は原則として火曜日、あるいは祝日の翌日(その日が日曜日または火曜日にあたる場合は、その翌日、その日が月曜日または土曜日にあたる場合は、その翌々日)、年末年始(12月29日から1月3日)となっています。

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※(参照)大垣城―「肝心」な場所―