(トピックス)「命のビザ」バトンを繋ぐ 根井三郎の発給ビザ、実物見つかる!

今回、発見された根井三郎が発給したビザ

第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの迫害から逃れたユダヤ系難民に発給した日本通過ビザ(査証、以下、ビザ"命のビザ"として知られています。

この"命のビザ"は3人の日本人によってバトンリレーされ、多くのユダヤ系難民を救うことになるのですが、今回、旧ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連、現ロシア連邦)・ウラジオストック(ウラジオストク)の日本総領事館の総領事代理だった外交官、根井三郎が発給したビザの実物が初めて見つかりました。

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旧ウラジオストック日本総領事館

事の発端は、第二次世界大戦中の最中、ナチス・ドイツの迫害によりポーランドなど欧州各地から逃れてきたユダヤ系難民が第三国に逃れるために日本への通過を求めて駐リトアニア領事代理だった杉原千畝ちうねにビザ発給を要求し、昭和15年(1940)7月から9月にかけて、外務省の訓令に反して人道目的から2139人分(その家族らも含め約6千人分)のビザを発給します。

リトアニアから国外脱出を目指したユダヤ系難民はシベリア鉄道で移動し、日本への航路があったウラジオストックに到着します。

当時の日本政府は最終的な行き先国の入国許可がない者へのビザ発給を認めておらず、また外務省は日独伊三国軍事同盟を結んでいたドイツに配慮し、条件不備で来日しようとするユダヤ系難民への対応に苦慮し、翌16年(1941)3月、杉原が発給したビザを再検閲するように命じ、要件を満たさない者は日本行きの船に乗せないようにせよ、と訓令を出します。

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ウラジオストック総領事館の総領事代理・根井三郎

総領事代理だった根井三郎は「日本の公館が発給したビザを無効にすれば、国際的信用を失う」と訓令に抗議、外務省とのやり取りは5回にも及んだそうです。(根井と外務省が交わした電信は外交史料館に残っています)。

根井ビザを持つユダヤ系難民には敦賀行きの船への乗船許可を与え、ビザを持たない者には根井の独断で渡航証明書やビザを新たに発給したのです。

リトアニアでユダヤ人たちに"命のビザ"を出した外交官・杉原千畝が発給したビザに、根井が追認して署名したものは既に確認されてはいましたが、根井自身が発給したビザはソ連側の記録(※)に残ってはいましたが、ビザの実物が立証されたのは初めてだそうです。

※ソ連側の記録
根井が昭和16年(1941)3月3日にソ連外務人民委員部(外務省)のウラジオストック駐在員と会談した際、「現地に滞留していた多数の難民に同情して、東京(本省)の許可を得ずに一定数の通貨ビザを発給した」と話した、という記録がロシア外務省の公文書館で発見されています。


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根井が発給したビザで日本を通過し、上海経由で米国に亡命した故シモン・コエンタイエルさん一家 inochi-visa_05.jpg

今回、ポーランド出身で米国に亡命したユダヤ人の子孫が、根井が発給したビザを持っていることが判明しました。

根井が発給したビザを持っていたのは、ポーランド・ワルシャワ出身の故シモン・コエンタイエルさんで、孫にあたるキム・ハイドンさんから現存するビザの画像データの提供を受けたのだとか―

ビザは昭和16年(1941)2月28日に発給されたもので、「昭和16年2月28日 通過査証」「敦賀 横浜経由『アメリカ』行」と記され、根井の署名と署名の下にウラジオストック総領事代理の公印が押され、パスポートとは別の用紙に記載されていました。

シモンさんはドイツがポーランドに侵攻した昭和14年(1939)9月に妻子と共にリトアニアへ脱出。同16年(1941)2月上旬にモスクワの米大使館で入国ビザを申請したが却下され、シベリア鉄道でウラジオストックに入ります。

根井が発給したビザを使って同年3月に福井・敦賀に上陸。神戸から中国・上海に渡り、昭和22年(1947)8月に米・サンフランシスコに亡命されています。

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根井は戦後、外交官当時のことを周囲に語らなかったと云います。自身の利益を顧みず、人道的に行動した気骨ある精神が貫かれた"命のビザ"バトンリレーの結実した姿ですよね!

※(参照)「日本のシンドラー杉原千畝物語・六千人の命のビザ」

(トピックス)近藤勇自ら記した新選組の役割表か?黎明期語る手紙の写し

新選組局長の近藤勇が書いた手紙を写したとみられる史料(群馬県立文書館所蔵)

幕末期に活動した新選組の局長、近藤勇が結成前後に自ら隊士の役割表を記した手紙を写したとみられる史料が、群馬県立文書館(群馬県前橋市)に遺されていました―

手紙の日付は文久3年(1863)9月20日付で、運営方針を巡り対立した芹沢鴨らの暗殺直後とみられます。

新選組の存在が広く知られるようになったのは、攘夷派を襲撃した翌元治元年(1864)6月5日に起こった池田屋事件以降であり、黎明期の様子を垣間見れる貴重な史料となりそうだ。

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手紙は、現在の群馬県伊勢崎市で旗本の家臣の家柄だった萩原信之家に残された文書(萩原信之家文書)のうち『梧桐叢書あおぎりそうしょ』と題した冊子に収められていた。近藤が出した他の手紙もあり、所縁の人物が所有していた史料を、纏めて写したようです。

内容は、江戸市中にあった剣術道場、試衛館の創設者で養父だった周助の容体悪化を伝えられながら、京都を離れられない理由を綴ったもので、道場の跡を継いだ近藤に代わり、留守を預かる幕臣の寺尾安次郎へ宛てたものとみられます。

幹部だった芹沢の暗殺を「変死」とした上で、自分ひとりで攘夷派の取り締まりや取り調べを指揮しなければならず「寸暇も無之」と記載。養父の世話などを任せていることを心苦しいとして金を送り、状況が落ち着いたら江戸へ下るとしている。

それに続き、役割表は21人の名前を記している。新選組を所管した京都守護職で会津藩主の「松平肥後守御預り」「右役割被 仰付候」と明記。「局長」に近藤勇、「助役」に山南敬介、土方歳三らが並び、「当番目付」には、後の小隊制でそれぞれ組頭となる沖田総司や永倉新八、井上源三郎、斎藤一らの名前がみられます。

芹沢や同じく暗殺された平山五郎の名前はなく、芹沢の仲間で脱走した平間重介が担っていた「勘定役」は、土方と永倉の2人で兼務とするなど、混乱ぶりも覗えます。

(トピックス)明智秀満「湖水渡り」の伝承を裏付ける一端を記した古文書見つかる!

明智秀満が船戦を挑んだことが記された古文書『山岡景以舎系図』

戦国武将・明智光秀の重臣で明智次右衛門光忠・斎藤内蔵助利三・藤田伝五行政・溝尾庄兵衛茂朝らと共に"明智五宿老"と称された明智弥平次秀満、通称、左馬(之)助が、織田信長を急襲した天正10年(1582)6月2日の本能寺の変の直後、近江瀬田城主の山岡景隆と琵琶湖で船戦ふないくさに及んだことを記した古文書東寺真言宗大本山 石山寺(滋賀県大津市石山寺)で発見されました。

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発見された古文書は、同寺の塔頭たっちゅう・世尊院の僧侶も務めた山岡家の由緒や系図がまとめられた『山岡景以舎系図いえのけいず(縦27㎝、横119㎝)で、天正19年(1591)に景隆の七男・景以かげもちによって書かれ、石山寺に奉納されますが、その後、別な人物が寛永18年(1641)3代将軍・徳川家光の命で江戸幕府主導により編纂された『寛永諸家系図伝』の素材資料として幕府に提出するために書き写したものが、同寺の塔頭・法輪院の蔵に保管されていました。

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明智秀満が船戦を挑んだことが記された古文書。秀満を表す「弥平次」の記述が見える

明智光秀の軍勢が本能寺で織田信長の手勢を襲った後、琵琶湖北岸の安土城(滋賀県近江八幡市)へ向かう途上、景隆を味方へと勧誘しますが、景隆に拒まれた上に瀬田の唐橋を焼き落されて進軍をはばまれたことは『信長公記』などによって知られていました。

しかし、今回発見された古文書によると、その軍勢を率いたのが「明智弥平次」、すなわち秀満で瀬田の唐橋が焼き落されて安土城への陸上ルートの進路が阻まれたため、水上ルートとして船で琵琶湖の対岸に渡ろうとしたところ、景隆の軍勢と湖上で戦闘に至っために少なからぬ損害を出し、止むなく先に進めずその後の進軍に遅れをとってしまったことが記されていました。

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明智左馬之介の湖水渡り

やがて、光満は安土城の守備に就きますが、6月13日の山崎の合戦で光秀が敗れて坂本城を目指して落ち延びる途中、山城国宇治郡小栗栖(現・京都府京都市伏見区小栗栖)で落ち武者狩りに遭って殺害されたことを知ると、14日未明、安土城を発して坂本城に向かいます。

しかし、坂本城への道を塞がれた秀満が打出浜から愛馬にまたがったまま柳ヶ崎まで琵琶湖を泳ぎ渡り、坂本城ヘ帰還したという「湖水渡り」の伝承があります。

湖に浮かぶ明智左馬之助秀満湖水渡像の完成予定図

琵琶湖で船戦が行われたことはこれまで知られておらず、当時の明智の軍勢の行動を伝える貴重な発見であり、秀満「湖水渡り」の伝承もこの船戦が伝説につながった可能性があるのでは?と「実像に迫る上で貴重な史料」と話しています。

古文書は10月31日から石山寺の本堂で公開される予定だそうです。

(トピックス)「海道一の弓取り」勇ましく 今川義元見参!

除幕式で披露された今川義元の銅像

静岡ゆかりの戦国時代の武将、今川義元の銅像が完成し、JR静岡駅北口広場に設置されることとなり、5月19日に除幕式が開かれました。

今川義元は駿河・遠江国の守護大名で戦国大名として三河国を実効支配した今川氏の第11代当主で「海道一の弓取り」の異名を持ちます。

義元といえば永禄3年(1560)5月には熱田湊から伊勢湾にかけての制海権を支配しようとして那古野なごや城を攻略するため駿河・遠江・三河の軍兵を率いて侵攻するも桶狭間おけなざまでの戦いで織田信長方の軍兵に急襲され、奮戦するも敗死し首級みしるしを奪われます。享年42歳。

今川義元の木像(臨済寺蔵)

義元公姿は今川家の菩提寺ぼだいじである臨済寺(静岡市葵区)の木像などが伝えています。

しかしながら、後世において義元を描いたイメージのほとんどが、烏帽子えぼし狩衣かりぎぬを身に着け、顔は白塗りにお歯黒、といった“お公家さん”キャラのいでたちで、戦国武将らしからぬ軟弱なキャラ立ちぶりだけが突出しているのが実情…

そんな「桶狭間で敗れた公家かぶれの武将」というイメージを払拭し、静岡のいしずえを築いた功績を広めようと今川義元公生誕五百年祭推進委員会(事務局・静岡商工会議所)が「生誕500年祭」を企画し、義元の銅像制作費をインターネットで資金を募るクラウドファンディングでまかなったところ、当所の目標だった300万円を超える517万5千円が集まったそうです。

銅像設置のためイメージとしてつくられた今川義元の粘土像

義元の銅像は台座を含め1・9m。彫刻家・堤直美氏が約2年の年月をかけて甲冑姿の銅像を作り上げました。

こうして、義元の銅像はその命日に当たる5月19日に除幕式が迎えることとなったわけです。

殉教者へ祈りの行進―「浦上四番崩れ」と乙女峠まつり

聖母マリア像を担ぎ、乙女峠を目指す乙女たち

毎年5月、“山陰の小京都”として知られ、キリシタン殉教の地としても知られる島根県鹿足かのあし郡津和野町で開催される行事の1つに「乙女峠まつり」というものがあります。

昭和27年(1952)から行われている催しで、約2000人のカトリック信者が全国から集まり、聖母マリア像を中心に行列を作り、賛美歌や祈りの言葉を唱えなえながら、津和野カトリック教会(島根県鹿足郡津和野町後田うしろだ、以下、カトリック教会)からJR津和野駅の裏山の中腹にひっそりと建つ「乙女峠マリア記念堂」(以下、マリア聖堂)までの約2kmを行進し、殉教者の霊を慰めます。

参加したカトリック信者らはカトリック教会を出発。白いベール姿の女子生徒8人が薔薇バラの花で飾られたマリア像を肩に乗せて静かに運び、その前を、やはりベール姿の地元保育園児らが花びらを撒きながら先導。賛美歌を口遊くちずさみながら、約2kmの道程を歩き、「乙女峠」マリア聖堂を目指します。その後、「乙女峠殉教者を偲ぶミサ」が厳粛に催されます。

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津和野では石見いわみ国津和野藩主の姫が不慮の事故にあって亡くなった際に枕流軒ちんりゅうけん(島根県鹿足郡津和野町寺田)と呼ばれる山の麓に埋葬されたことから乙女山と呼ぶようになり、そこから「乙女峠」と呼称するようになります。また、島根県松江市出身で長崎に投下された原爆の後遺症で亡くなった永井隆氏の著書『乙女峠』にも由来するようです。

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この周辺は千人塚と呼ばれる、天保13年(1842)の大飢饉の犠牲者が埋葬され、弔われた万霊塔が建っており、その奥に殉教者たちの遺骨も埋葬され、追福碑「至福の碑」が建っています。

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昭和26年(1951)5月13日、イエズス会宣教師として来日したドイツ人のパウロ・ネーベル(Paul Nebel)神父(のちに帰化されて岡崎祐次郎神父)によって「浦上四番崩れ」の流配地の1つ、津和野藩で殉教した36人の冥福を祈るために、昭和14年(1939)に日本カトリック教会広島司教区が流配者たちが幽閉されていた光琳寺の跡地を購入し、建立されたマリア聖堂を記念しようと翌27年(1952)5月11日に第1回目が開催され、その後毎年5月3日を例祭日として開催されているのです。

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さて、「浦上四番崩れ」とは、江戸幕府天領(直轄領)であった肥前国彼杵そのぎ郡浦上村(現在の長崎県長崎市)において、江戸時代中期から明治時代初期にかけて4度にわたって発生した大規模な隠れキリシタン信徒の摘発事件です。

浦上村は戦国時代、大村氏の領国内でしたが、その後有馬氏の領国となります。天正12年(1584)にはキリシタン大名となった有馬晴信によって、浦上村はイエズス会に寄進されています。

江戸時代、幕藩体制下で寺請制が敷かれ、この地は浄土宗系の聖徳寺の檀徒となりますが、密かにキリシタン信仰を続けていました。

元治2年(1865)正月24日、日仏修好通商条約に基づき、居留するフランス人のため長崎の居留地内にカトリック教会の大浦天主堂(長崎県長崎市南山手町、当時は「フランス寺」と呼ばれていました)が建てられます。

そんな折り、同年2月12日に浦上村の住民十数名が大浦天主堂を訪れ、信徒である事を表明(「信徒発見」)。

浦上村近郊図

浦上村のキリシタン信徒らは、大浦天主堂の巡回教会として浦上村内の4か所に、
 サンタ・クララ教会堂(家野郷)、
 聖フランシスコ・ザべリオ堂(中野郷)、
 聖ヨゼフ会堂(本原郷)、
 聖マリア会堂(本原郷)、
などの秘密教会を創設します。

さらに、檀那である聖徳寺に届けずに自分たちで勝手に葬儀を行なった事や、浦上村の住民の多くが毎日のように大浦天主堂を訪れる様子を不審に思った長崎奉行所が探索の手をのばしたところ、浦上村の5つの郷(馬込郷、里郷、中野郷、本原郷、家野郷)のうち、馬込郷を除く4つの郷に暮らす人々のほとんどはキリスト教を信仰するキリシタンである事が発覚します。

慶応3年(1867)6月13日の深夜、長崎奉行所の役人が秘密教会を急襲し、信徒ら68人が一斉に捕縛され、激しい拷問を受けますが、諸外国(とくにフランス)の領事からの釈放要求があり、9月14日までに全員が一旦は解放されます。

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その年の12月9日に江戸幕府が瓦解し、王政復古がなされると、祭政一致の立場から神道国家を目指した維新政府は翌慶応4年(1868)3月14日に「神仏分離令」を発して旧来の神仏習合を禁じると共に、翌15日には「五榜の掲示」が公布され、その第三札に「切支丹邪宗門厳禁」を提唱して旧幕府の政策を踏襲し、改めてキリスト教を禁止します。

同じ年の2月14日、九州鎮撫総督(のち長崎府知事)として長崎に着任した沢宣嘉さわのぶよしは浦上のキリシタン信徒たちを呼び出して改宗を説得しますが、改宗の意思が無い事から「中心人物の処刑と一般信徒の流罪」と言う厳罰の提案を新政府に諮問したため、4月25日に処分に関する御前会議が開かれた結果、閏4月18日、維新政府による浦上のキリシタン信徒の流罪が決定。5月20日には信徒の中心人物114名が山口藩66人・津和野藩28人・福山藩20人の3藩へ移送されます。(第一次配流)

さらに、明治2年(1869)12月4日、浦上村のキリシタン信徒3394名が一斉検挙される事が決まり、名古屋、和歌山、金沢、松江、津和野、岡山、広島、福山、高知、萩など20藩22か所に移送されます(第二次配流)。

津和野へは新たに第一次配流で移送された114名の家族125名も移送され、総勢153名となります。

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津和野に送られた浦上のキリシタン信徒153名は、長崎から廿日市港に上陸し、津和野藩の御船屋敷(広島県廿日市市桜尾本町)まで船で運ばれた後、津和野街道を2泊3日かけて90㎞ほど歩かされ、津和野城下の異宗徒御預所となった光琳寺に男子は本堂に、女子は小さい庫に幽閉されます。

当初は津和野藩は維新政府の「右宗門元来御国禁不容易事ニ付、御預ノ上ハ人事ヲ尽シ、懇切ニ教諭致シ、良民ニ立戻リ候様厚ク可取扱候」「異宗信仰ヲ厳禁シ、人事ヲ尽シ教諭ヲ加へ、良民ニ復シ候様精々教化可致事」という指示に従い、説得方が改宗の説諭に務めますが、改宗する者はなく、そこで説得方は方針を変更し、同じく維新政府から若シ悔悟不仕者ハ不得止可被処厳刑候間、此趣相心得、改心ノ目途不相立者ハ可届出事」との方針に改めます。

津和野藩による、水責め、雪責め、氷責め、火責め、飢餓拷問、箱詰め、磔、親の前でその子供を拷問する、など数多くの拷問は過酷であり、陰惨であり、残虐であったため、結果として37人の殉教者を出すこととなったのです。

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『異宗門徒人員帳』(国立公文書館所蔵『公文録』所収)によれば「改宗者:53名、信仰を守った者:63名、殉教者:37名、計153名」とされている。

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西欧列強の強い抗議・批判を受けた維新政府は明治6年(1873)2月24日にキリスト教禁止の高札を撤去し、キリスト教は黙認されます。(但し、全面的な「信教の自由の公認」が保障されるのは、明治22年〔1889〕2月11日発布の大日本帝国憲法で「信教の自由を保障する規定」(第28条)が定められ、明治32年〔1899〕7月27日に発令された内閣省訓令の「神仏道以外の宣教宣布並堂宇会堂に関する規定」(第41号)でキリスト教の宣教が公に認められたのを経て、昭和21年〔1946〕11月3日公布の日本国憲法で「信教の自由と政教分離原則について規定」(第20条)が定まるまで待たなければなりませんが…)

これにより明治6年(1873)にキリシタン禁制は廃止され、慶長18年(1613)12月19日に禁教令が布告されて以来、260年ぶりに日本でキリスト教信仰が解禁される事になったのです。

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明治6年(1873)3月14日、浦上のキリシタン信徒の釈放と帰村命令が出され、8月7日に1900人が浦上村に帰還を果たします。

慶応3年(1867)から明治6年(1873)の足掛け6年間、「浦上四番崩れ」で捕らえられ流罪にあった浦上村のキリシタン信徒3394名のうち613名が命を落とし、生き残って帰還した者らは流罪で遭遇した苦難を“旅”と呼んで信仰を篤くし、

明治12年(1879)土井に新たに「サンジュアン・バブチスタ小聖堂」をつくり、翌13年(1880)6月4日に「浦上四番崩れ」の発端となった庄屋の跡地を買い取り、ここにに浦上天主堂(現、カトリック浦上教会)を建てるのです。

「浦上四番崩れ」から帰還した生存者たち

大正9年(1920)8月、流罪から50年経った節目の年に記念祭が催されました。生存者たちは50年前の“旅”に感慨を新たにし、50周年を記念して建てられた記念碑「信仰の礎」の除幕式が行われたそうです。

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さて、乙女峠マリア聖堂の内部には美しいステンドグラスがあります。このステンドグラスには、拷問の悲しい様子が描かれているのですが、その中の1枚に描かれているのが、明治4年(1871)7月20日に 天に召され殉教した6歳の女の子・岩永もりちゃん(洗礼名・カタリナ)に行った役人の拷問の様子です。

飢えに苦しんでいるもりちゃんに、説得方の役人は美味しいお菓子を見せて言いました。「食べてもいいけど、その代わりにキリストは嫌いだと言いなさい」と―

しかし、もりちゃんは「お菓子をもらえばパライゾ( 天国)へは行けない。パライゾへ行けば、お菓子でも何でもあります」と言って断り、永遠の幸せ(殉教の道)を選んだのだそうです―