(トピックス)岩宿遺跡発見の相沢忠洋氏の偉業を常設展示で!

岩宿博物館の常設展示

岩宿博物館(群馬県みどり市笠懸町阿左美)に、日本に旧石器時代が存在したことを明らかにした岩宿遺跡の発見者で、在野の考古学者として知られる故相沢忠洋氏所縁の槍先形尖頭器やりさきがたせんとうきなどを常設展示するコーナーが設けられた。

相沢忠洋氏は昭和21年(1946)、群馬県新田郡笠懸村字岩宿(現、みどり市笠懸町阿左美)の稲荷山、琴平山とも称される小さな丘陵(岩宿小丘)が接する間に赤土が露呈している切通し、すなわち「関東ローム層」の下部(岩宿地層)から一片の石片を発見します。岩宿遺跡発見への序幕ですね―

それから約3年後の昭和24年(1949)9月20日、黒曜石製で完全な形をした石槍(槍先形尖頭器)の発見し、それ以外にも旧石器時代特有の形をした横刃型、尖刃型石器をはじめ粘板岩製グトボアン(握槌形石器)も発見。これにより、日本にも旧石器時代が存在したことが明らかになります。

槍先形尖頭器

常設展示される石器は250点ほどで、岩宿遺跡以前の権現山遺跡(伊勢崎市)、夏井戸遺跡(桐生市)、桐原遺跡(みどり市)などから見つかった手斧、スクレイパー(削器さくきをはじめ、岩宿遺跡で最初に発掘された石刃や、石器を作りだす際に割られた剥片、ナイフ形石器も並ぶ。縄文草創期の石山遺跡(伊勢崎市)の石槍もあり、時代順に展示されています。

(トピックス)「公衆衛生」の先駆け後藤新平に脚光!125年前に防疫先進国たらしめた功績を展示

検疫所の写真などを展示する特別展

岩手県奥州市水沢大手町出身の実務官僚、後藤新平が125年前に手掛けた日清戦争帰還兵の検疫事業に関する特別展「日清戦争帰還兵検疫事業~帰還兵23万人への世界史上最大規模の検疫事業~」が、後藤新平記念館(岩手県奥州市)で催されています。

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時は日清戦争直後の明治28年(1895)7月―

当時、戦地である中国大陸や台湾では衛生状態が悪いこともあって、コレラなどの感染症が蔓延していたため、戦地からの帰還兵がそのまま帰国すれば国内での流行が懸念されていました。

台湾平定のために出兵した乙未いつび戦争では、近衛師団長の北白川宮能久親王(輪王寺宮公現入道親王)がマラリアで陣没、近衛歩兵第二旅団長の山根信成も戦病死、国内においても大本営で参謀総長の有栖川宮熾仁たるひと親王が腸チフスを発症するなど、国内も決して安全ではありませんでした。

戦地入院患者で病死した13216人のうち、

  • コレラ   5211人、
  • 消化器疾患 1906人、
  • 脚気    1860人、
  • 赤痢    1611人、
  • 腸チフス  1125人、
  • マラリア   542人、
  • 凍傷      88人、

であったといいます。(陸軍省編『明治二十七八年戦役統計』第七編 衛生より)

こうした状況の中で当時、陸軍省医務局長として大本営陸軍部の野戦衛生長官であった石黒忠悳ただのりは、かつて西南戦争終結後に軍兵たちを輸送していた船内で多数のコレラ患者が発生し、帰国する軍兵たちによって全国的にコレラが大流行し全国を震撼させた経験を踏まえて検疫の重要性を痛感し、戦争では傷者よりも病者の方が多いから、戦地からの凱旋兵に防疫対策として検疫をすべきだと建議していました。

そこで、同年3月に陸軍次官兼陸軍省軍務局長の児玉源太郎を部長とする臨時陸軍検疫部が発足。

さらに石黒は、先にその才能を見い出していた中央衛生会委員の後藤新平を文官資格のまま、臨時陸軍検疫部事務官長に就任させて日清戦争の検疫事業を担当させるのです。

後藤は検疫を行う場所として瀬戸内海の広島湾に浮かぶ似島にのしま(現、広島市南区似島町)に消毒部14棟、停留舎24棟、避病院16棟、さらに事務所、兵舎、炊事場、火葬場、汚物焼却場などの付随施設139棟、彦島(現、山口県下関彦島江の浦町)には153棟、桜島(大阪府大阪市此花区桜島)には109棟、など3カ所に検疫所を設置し、帰還兵全員の検疫を実施します。

戦地などからの帰還兵23万2346人の検疫や687隻の船舶の消毒にあたるなど、当初3カ月と計画していたのがわずか2ヶ月で完了させ、戦後のコレラの国内流入を何とか防ぎました。

こうした検疫事業は『臨時陸軍検疫部報告摘要』として遂次刊行物として世界各国に贈呈されるのですが、その成果についてドイツ皇帝ヴィルヘルム2世から激賞され、日本は防疫の先進国と認識されたといいます。

しかし、検疫事業を成し遂げた後藤は、水際作戦の限界を知ります。

根本的に病原菌の蔓延を防ぐには、街の衛生環境、上下水道や道路、家屋の設計などが重要だとし、公衆衛生の重要性、医療保険の大切さなどを実感するのです。

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特別展では、検疫所の写真や後藤が作成した検疫手順図など9点を展示。新型コロナウイルス感染症が流行する中、その功績が注目されており、4月19日までだった会期を11月1日まで延長しています。入場料200円、高校生以下無料。月曜休館。詳しいい問い合わせは同館まで。

(トピックス)大垣城特別展「石田三成~幻の大垣城決戦~」

関ヶ原の戦いに向けた前哨戦や幻となった大垣城決戦などを解説するパネル

関ヶ原の戦いで西軍方を率いた武将、石田三成に焦点を当てた特別展「石田三成〜幻の大垣城決戦〜」が、大垣城(岐阜県大垣市郭町)で開かれています。会期は来年1月11日まで。

関ヶ原の戦いから420年を記念して催される企画で、三成の戦略構想や大垣城入城、福束ふくつか城や杭瀬くいせ川での前哨戦などを時系列にしてパネルで解説しています。

展示の中には、もし仮に西軍方が関ヶ原での決戦を選択せず、大垣城での決戦を選んだ場合を考察した「幻の大垣城決戦」の解説もあり、籠城する西軍方を南宮山から支援する毛利秀元らの軍勢の存在や、東軍方が大垣城を水攻めする可能性など、混戦模様になっていた状況を推測しています。

会場では、大垣城籠城や落城寸前の脱出の様子について、三成の家臣、山田去暦の娘が少女時代に体験した大垣城の戦いの頃の様子を年老いてから子供たちに語った体験記『おあむ物語(御庵物語)』も絵巻の挿絵と共に紹介しています。

大垣城特別展「石田三成~幻の大垣城決戦~」

入館料200円(18歳未満は無料)。休館日は原則として火曜日、あるいは祝日の翌日(その日が日曜日または火曜日にあたる場合は、その翌日、その日が月曜日または土曜日にあたる場合は、その翌々日)、年末年始(12月29日から1月3日)となっています。

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※(参照)大垣城―「肝心」な場所―

(トピックス)明智光秀、438年の時を経て出生地・明智荘に帰参を果たす‼

明智光秀のブロンズ立像

岐阜県可児市所縁の戦国武将・明智光秀のブロンズ像が完成し、光秀の命日にあたる13日、明智長山城・本丸跡(同市羽生ヶ丘)で除幕式がで行われました。

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」が放送され、明智光秀の出生地と伝わっている「明智荘」などが注目を集める中で地元が誇る智将を次世代に伝えようと可児市が建立を計画。事業費は約3100万円で個人や法人からの寄付、ふるさと応援寄付金も活用されました。

光秀のブロンズ像は、像の高さが2・3mで高さ2mの台座の上に乗り、40歳ぐらいで甲冑に陣羽織を纏い、左手には火縄銃を携えて明智荘を見渡している立像姿になっています。

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「麒麟が来る」明智光秀

光秀の出自については諸説ありますが、通説では土岐氏の流れをくむ「土岐明智氏」の一族であるとされています。

土岐氏は美濃国土岐郡を本拠地とした氏族ですが康永元年(1342) に土岐氏庶流の土岐十郎頼兼が可児郡明智荘(可児市北東部と可児郡御嵩町西部の一帯)に明智長山城(同市瀬田長山)を築いて居城とし、以降「明智」の名字を名乗るようになったとされています。

同時代に禁裏御蔵職みくらしきであり、金融業を営んだ立入宗継の日記には、光秀「美濃国住人とき(土岐)の随分衆也 明智十兵衛尉」(『立入左京亮入道隆左記』天正7年=1579=6月10日条)と記載しています。

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今回のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の放送が起爆剤となって、新たな発見が見つかるといいな!

城戸俊三選手と「久軍号」―観客すべてが感銘し賞賛した"愛馬精神"―1932・ロサンゼルス五輪にて

昭和7年(1932)7月30日から8月14日までの16日間、アメリカ合衆国カリフォルニア(California)州のロサンゼルス(Los Angeles)で行われたオリンピアード競技大会(通称、オリンピック、Games of the Olympiad)で8月10日から14日までの期間に開催された馬術競技の日本代表選手は次のようなメンバーでした―

  • 総合馬術:城戸俊三選手久軍号
  • 総合馬術:山本盛重選手(錦郷号)
  • 総合馬術:奈良太郎選手(孫神号)
  • 障害馬術(障害飛越、大障害):今村安選手(ソンネボーイ号)
  • 障害馬術(障害飛越、大障害):吉田重友選手(ファレーズ号)
  • 障害馬術(障害飛越、大障害):西竹一選手(ウラヌス号)

選手の殆んどが習志野原(千葉県千葉郡二宮町薬園台、現在の船橋市薬円台)にあった陸軍騎兵学校(習志野騎兵学校)出身者だそうです。

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競技は3日間をかけて同一人馬により競技が行われ、初日に馬場馬術(調教審査)、2日目にクロスカントリー(耐久審査)、3日目に障害馬術〔障害飛越〕(余力審査)がそれぞれ行われました。

また、これら3種目を同じ人馬のコンビネーションで減点合計の少なさを競う複合競技を総合馬術といいます。

馬場馬術とは、長方形(20m×60m)の競技施設内を演技の正確さや美しさを競う競技で、「常歩(なみあし)」「速歩(はやあし)」「駈歩(かけあし)」といった3種類の歩き方を基本に、様々なステップを踏んだり、図形を描いたりしながら、規定演技と自由演技を行ないます。

クロスカントリー競技は、通常のコースだけではなく、自然に近い状態の地形に竹柵や生垣、池、水濠、乾壕といった障害物が設置され、
32・29㎞というコースの長さに加え、飛越する障害物は50を超えます。選手の技術と騎乗する馬の能力、さらにそのコンビネーションが合わさってコースを走りに抜きます。障害物の前で止まったり、回避したりすると減点となり、選手が落馬すると失権(競技停止)となります。また、既定の時間を超過しても減点となるため、スピードも重要な要素となります。

ハードなクロスカントリー競技の翌日、獣医師によるホースインスペクション(馬が競技への参加を続けるだけのコンディションにあるかどうかをチェック)が行われます。選手やスタッフは、馬のコンディションを維持するためにあらゆるケアをしてインスペクションに臨み、合格した馬がこの競技への参加を許されます。馬の体力は勿論の事、心理状態もかなり追い詰められる競技なので、人が心身ともに元気があっても、馬の調子がよくないと進みません。いかに休ませるかも重要になってきます。

障害馬術〔障害飛越〕とは、競技施設内に設置された10~13個の様々な障害物(高さ160㎝、幅200㎝=大障害)を、決められた順番通りに飛越、走行する競技で、障害物の落下や馬が不従順な態度を示すと減点となる「標準競技」、障害物の落下による過失をタイムに換算したスピード&ハンディネス競技があります。

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さて、選手たちは、同年5月28日に各国選手団よりも一番乗りでロサンゼルスに到着します。

この頃の移動は、現在のように飛行機とかではなく船旅で、日本からロサンゼルスまで2週間余もかかる長旅でした。

しかも、馬術の選手団は競技用の馬を運ばなければならないため、別便として馬用の貨物船を用意しなければなリません。

加えて、選手団は7人の他にも到着後に馬の世話をするためのスタッフ(馬丁など)が必要なため、かなりの大所帯であったと云います。

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2日目に催されたクロスカントリー競技でのエピソードは現在も語り草となっています―

馬術競技の日本代表チームの主将も務めていた城戸俊三選手が競技に臨んだのですが、本来の担当馬及び予備馬がロサンゼルス到着以降、2頭とも故障が発生し、完治する見込みがない、という事態が生じてしまったのです。

そこで、翌日の障害馬術〔障害飛越〕用に同行させていた「久軍号」を代替馬として出場します。

実際、城戸選手が初めてオリンピックの馬術競技に参加したのは、前回大会である昭和2年(1928)のアムステルダム大会で、同じく「久軍号」とのコンビで総合競技を完走していました(21位)。

城戸選手は1番出走で出発します。最終障害まで障害無過失で疾走していたのですが、突然「久軍号」の身に異変を感じ取ります。

それでなくても、「久軍号」も年老いており、急なエントリー変更で熟練の技能はあっても鍛練不足は否めません。

最後の障害に向かう事、計3回!しかし、3回目に臨もうとしたその時―

城戸選手は突然、「久軍号」から下馬し、なおも進もうとする「久軍号」を押し留めたのです。

そう、城戸選手は完走を目前にしながら棄権を選択したのですね。

実は「久軍号」は息も絶え絶えで、全身からも汗が吹き出し、鼻孔は開ききっていた状態で、とうに全力を出し切っているのにも拘わらず、微かに残る力で次に進もうと踏ん張っていたようです。

その状態を2回目の時に感じた城戸選手は無理はさせられない、と咄嗟の判断で下馬したんですね。

城戸選手「久軍号」に「よく頑張った」とたてがみを撫でてやると、「久軍号」も主人の心を知ってか、城戸選手の胸に鼻を埋めてきたそうです。まるで「ごめんなさい」と謝りながら泣いているかのように―

結果、最終障害物を目前にして城戸選手「久軍号」は失権となります。

下馬した城戸選手はすぐに「久軍号」のケアを始めます。

疲労著しい「久軍号」をスタッフには任せずに、城戸選手自ら労わり続ける姿に観客やスタッフ、そして取材陣は感銘を受けたといいます。

城戸選手は後にこう語っています―「自分は馬の使い方が下手だとつくづく感じた。『久軍号』には気の毒なことをした」と…

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大会後、現地のカリフォルニア動物愛護協会は城戸選手を表彰しようとします。

城戸選手「久軍号」の光景を観ていた観客たちの「彼は疲労した馬のために走行を止めたのだ!」と大きな感銘と称賛の声が広がった事もあって、当時ロサンゼルスで発行されていた、北米で現存する最古の邦字新聞『羅府(らふ)新報』(Rafu Shimpo)に「熱涙を呑んで 城戸少佐 馬を救う 最後の障害で棄権」との見出しで書かれています。

"愛馬精神"に徹した城戸選手「久軍号」のエピソードにアメリカ人道協会は、昭和9年(1934)に城戸選手の行為を讃え、2枚の記念碑を鋳造します。

1枚はカリフォルニア州リバーサイド(Riverside)郡リバーサイド市にそびえるルビドー山(Mt.Rubidoux)にある「友情の橋」に取り付けられ、もう1枚は同じくリバーサイド市内のホテル「ザ・ミッション・イン」に保管されます。

「友情の橋」に取り付けられた記念碑には「情けは武士の道」という文言が日本語で刻まれています。太平洋戦争が勃発し、アメリカ国内で敵国となった日本を讃える石碑が撤去されそうになる事態が生じますが、城戸選手「久軍号」には罪はないのだから…とアメリカ人道協会は撤去ぜす、現在に至っているそうです。

また、「ザ・ミッション・イン」に保管されたいた記念碑は、この大会で城戸選手が使用し、日本馬術チームを親切に世話してくれたアメリカ人に寄贈していた鞍とともに、昭和39年(1964)に東京オリンピック開催の記念として日本オリンピック委員会に贈呈され、現在は秩父宮スポーツ博物館に展示されています。

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エピローグとして―

ところで、戦時中に徴用されたおよそ100万頭の馬が戦場に斃れたと云われています。

そんな彼らの犠牲を悼み、戦後になって記念碑建立の話が持ち上がります。

城戸氏は旧軍人や馬主など多方面への働きかけによって、靖国神社に「戦没軍馬の像」が建立され、現在も毎年4月7日の「愛馬の日」には「戦歿馬慰霊祭」が同神社で行われています。

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※(参照)NHKスペシャルより~ドラマ「さよなら、アルマ ~赤紙をもらった犬~」