広島城入城後も吉田郡山城は存続していた?

毛利輝元と二つの城~広島築城と残された吉田郡山城

戦国時代、中国地方を治めていた毛利輝元が天正19年(1591)正月月8日に本拠地を広島城(現、広島県広島市中区基町)に移して以降、旧本拠地の吉田郡山城(現、広島県安芸高田市吉田町郡山)は毛利氏の本拠としての役割を終えて廃城となり、家臣や城下町の商人らは広島城下に移住したと云われています。

しかし、吉田郡山城がその後少なくとも3年間は存続していたことが判明したのです。

それは大阪城天守閣に保管されている穂井田ほいだ元清(毛利輝元の叔父)の書状で、文禄3年(1594)に元清が兄の小早川隆景と共に吉田郡山城に出頭したとあるのです。

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縦約30㎝、横約50㎝の書状には「朝鮮(=朝鮮出兵)から帰国した元清が、小早川隆景と一緒に吉田に出頭した」と記されています。

厳島神社(現、広島県廿日市市宮島町)が所蔵する毛利氏関連の文献などから、元清が朝鮮(=朝鮮出兵)から帰国した年が文禄3年(1594)と特定でき、輝元が広島城(現在の広島県広島市中区基町)に入城した3年後であることが判明しました。

広島城に移転後も、元清、隆景ら毛利氏一族や重臣が吉田郡山城にて参集していた事実を見ると、吉田郡山城が何らかの形で維持されていたとも考えられ、広島城から吉田郡山城まで7里の道程があることから、輝元が吉田郡山城を「後詰めの城」と考えていた可能性もあるのでは、との推測されます。

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その後、毛利輝元は周防国・長門国に移封され、慶長6年(1601)3月、安芸国(広島)には福島正則が入封して以降、元和5年(1619)まで治めますが、その間の慶長20年閏6月13日、一国一城令により、広島城以外は破却されます。

さらに、元和5年(1619)8月に浅野長晟ながあきらが安芸国に入封しますが、寛永14年(1637)に島原の乱が起きた際、その拠点として一国一城令で廃城となった原城跡が使われたため、キリシタン衆徒の決起を恐れた幕府によって、廃城の石垣や堀などの完全破却・撤去が徹底されることとなり、吉田郡山城跡も徹底的に破壊されたようですね。

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※(参考)『毛利輝元と二つの城~広島築城と残された吉田郡山城』(吉田歴史民俗資料館 平成15年度特別企画展・図録)
※(参考)『郡山城―毛利氏260年の城―』(吉田歴史民俗資料館 平成19年度「日本百名城選定記念企画展」・図録)

※(参照)(トピックス)毛利氏時代の広島城天守閣の完成年が判明!

(トピックス)光秀の妻・煕子「病死説」裏付けか 戒名記した仏画発見!

聖衆来迎寺所蔵「仏涅槃図」「仏涅槃図」の裏面に記された寄進銘。熙子の戒名「福月真祐大姉」が記されている

戦国武将・明智光秀を献身的に支えたことで知られる妻、煕子ひろこが坂本城が落城よりも前に死去していた、という説を裏付ける新たな史料が大津市の寺で発見されたようです。

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発見されたのは、光秀が庇護ひごしたという所縁がある天台宗寺院・聖衆しょうじゅ来迎寺らいこうじ(滋賀県大津市比叡辻)が所蔵する仏画『仏涅槃ねはん図』の裏に寄進者と由来を示す「寄進銘」が記されていて、そこに煕子の戒名といわれている戒名が記されていたのが確認されたため、熙子の死亡時期を想起させる新たな史料として期待されています。

光秀を支えた良妻とされる熙子ですが、正確な事績を伝える史料は極めて少なく、その没年を巡っては、天正4年(1576)に病死したとする説と、同10年に光秀の居城だった坂本城が落城した際に自害したとする説があります。

光秀の菩提寺である天台真盛宗総本山の西教寺(滋賀県大津市坂本)にある墓石や過去帳(『西教寺塔頭実成坊過去帳』)には「福月真祐大姉 明智惟任日向守光秀御臺」と記された戒名と共に「天正4年11月7日」との記載がみられるので、天正4年に亡くなったとするのが有力とされる一方で、後年の編纂物である『美濃国諸旧記』(寛永末期~正保前期)や『明智軍記』(元禄年間)などの軍記物やイエズス会宣教師の報告書の記録では天正10年6月14日、光秀敗死後、坂本城落城の際に親族らとともに自害したと記されてあるからです。

しかし、この『仏涅槃図』は天正9年(1581)に煕子らを弔うため、寺に寄進・奉納されたとの記載があり、今回の発見によって熙子は本能寺の変の前、すなわち天正9年以前に亡くなっていたとが確実となり、天正4年の「病死説」を裏付ける可能性が高くなりました。

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煕子の戒名が見つかった『仏涅槃図』とは、釈迦が入滅した際の様子を描いた仏画で、縦144㎝、横135㎝。同寺が毎年3月15日に営んでいる涅槃会法要の際に使われているようです。

「寄進銘」の裏側には寄進・奉納した者などは不明だが、寄進・奉納された日付「天正九年壬午じんご八月時正じしょうが墨書きで記され、現世安穏や故人4名それぞれの戒名の冥福を願って同寺に寄進・奉納された経緯が記されています。

「時正」とは、秋分の日の前後3日間、合計7日間の秋のお彼岸の時期にあたります。

すなわち、熙子は天正9年8月の「時正」の時期には既に亡くなっていたことが確認できるのです。

但し、1つ気になるのは天正9年の干支えとの存在ですね。天正9年は辛巳しんしでなければならないのですが、翌10年の干支である「壬午」が記されている点が気になりますね。

光秀にとって天正9年8月頃の大事といえば、

去七日・八日ノ比歟、惟任ノ妹ノ御ツマキ死了、信長一段ノキヨシ也、向州無比類力落也、(『多聞院日記』天正9年8月21日条)

のように、「御ツマキ」殿の死去(8月7日、または8日)ですね。

とすれば、「御ツマキ」殿の法要も営まれていて、その流れのなかでこの『仏涅槃図』が寄進・奉納されたとも考え得るのですが…


その4名の戒名のうち、西教寺に伝わる煕子の戒名と一致する福月ふくげつ真祐しんゆう大姉だいしが記されていたのです。

西教寺以外で煕子の戒名が確認されたのは初めてだそうで、没年特定の有力な史料となり得るかもしれませんね。

『仏涅槃図』は、大津市歴史博物館(滋賀県大津市御陵町)で現在開催中のミニ企画展「明智光秀と在地土豪」(~10月11日まで)において10月4日まで展示された後、10月10日~11月23日まで催される開館30周年記念企画展「聖衆来迎寺と盛安寺―明智光秀ゆかりの下阪本の社寺―」でも出展される。問い合わせは同博物館へ。

(トピックス)秀吉襲来!天下人の総仕上げ―「宇都宮仕置」「奥州仕置」から430年

宇都宮・会津仕置430周年記念宇都宮・会津仕置430周年記念

天正18年(1590)7月13日、小田原の北条氏を滅ぼした豊臣秀吉は、天下統一の総仕上げとして7月から8月にかけて下野しもつけ宇都宮、続いて陸奥会津に進発し、関東・陸奥・出羽地方の諸領主に対して領土仕置を行ない、配下に収めます。これら戦後措置の事を「宇都宮仕置」「奥州仕置(会津仕置)」といいます。

日本史上の大きな転換点といえる「宇都宮仕置」「奥州仕置(会津仕置)」から430年目の今年、これに関連する地域の資料館・博物館が中心となって「宇都宮・会津仕置430周年記念の連携イベントが企画・実施されます。

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同年7月5日、小田原城主・北条氏直が降伏を申し出て、13日、秀吉が小田原城(神奈川県小田原市城内)に入城します。16日には小田原城を進発し、17日に鎌倉に入り、鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市雪ノ下)を参詣します。

19日、宇都宮へ向けて鎌倉を進発する途次、19日~20日には武蔵江戸城(東京都千代田区千代田)、25日、下総しもふさ結城城(茨城県結城市結城)に到着。

下総結城氏は小田原征伐に参陣しており、旧領安堵のうえ、改易された小山氏・小田氏・壬生氏の領地が加増されます。

26日、秀吉が下野宇都宮城(栃木県宇都宮市本丸町)に入城し、28日には伊達政宗が奥州への先導役として宇都宮入りします。

関東地方の諸領主に対に対する領土仕置が28日から8月4日にかけて行われ、佐竹氏と宇都宮氏は小田原~白河間の道普請を命ぜられ、秀吉らが行軍するための軍道を整備したこともあって旧領安堵されます。

7月13日の段階で関東転封が決まっていた徳川氏や与力衆も8月1日に関東の旧北条領へ移封など、関東諸大名の国分がほぼ確定されます。これを「宇都宮仕置」と呼びます。

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栃木県立博物館(宇都宮市睦町)で開催中なのがロビー展示「宇都宮・会津仕置430周年記念 豊臣秀吉の宇都宮仕置」展

ロビー展では豊臣秀吉の朱印状などが展示されている

ロビーを使ったミニ展示ですが、秀吉が宇都宮城に滞在した際の朱印状や伊達政宗の直筆の手紙など8点が展示されています。

政宗の書状は秀吉の側近に宛てたもので、小田原征伐に続き、この「宇都宮仕置」の際にも遅刻してしまい、宇都宮へ向かっている途中の天正18年(1590)7月27日の「戌刻いぬのこく」(=午後8時)に那須野が原周辺で書いた政宗直筆の書状です。

そこには、7月23日に米沢城を発ったが、「人馬ともに疲弊した」状態で宇都宮への到着が遅れていることを説明。26日に予定されていた秀吉の到着に間に合わなかった点について、「覚悟のほかに候」(=予想外でした)とし、「今夜に打ち立ち候いて、明日は四ころに参るべく候」(今夜には出発し、明日午後10時ごろまでには参上できると思います)と、「徹夜で急いでいる」という政宗が必死で弁解をしている興味深い内容。

秀吉の朱印状は宇都宮滞在中に出されたもので、人質として上洛する佐竹義重一行への対応を沿道の諸将に命じたもの。

会期は8月30日まで。開館時間は午前9時半~午後5時。月曜休館(祝日の場合は翌日休館)。一般260円、高校・大学生120円、中学生以下無料。問い合わせは同館まで。

那須与一伝承館(栃木県大田原市南金丸)では、豊臣秀吉と大田原の関わりや、那須衆の動向についての特別企画展「ひでよしが来た!―豊臣秀吉と大田原―」展が10月2日〜11月23日までの期間に開催される予定。大人(高校生以上)300円、中学生以下 無料。

栃木県さくら市ミュージアム(さくら市氏家)では、さくら市の歴史と文化 宇都宮・会津仕置430周年記念行事として秀吉が与えた領地が元となり、幕末まで存続することになる喜連川きつれがわ藩をテーマにした企画展「喜連川足利氏誕生の軌跡〜古河公方・小弓公方~」が11月28日〜12月23日までの期間に開催される予定。

喜連川氏は、室町幕府を開いた足利尊氏の系譜に連なる鎌倉公方の末裔で、戦国時代「古河こが公方」「小弓おゆみ公方」と分裂しましたが、秀吉の「宇都宮仕置」を経て、両公方家が婚姻によって統一され、喜連川氏が誕生。その軌跡が紹介されています。

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秀吉は政宗を先導役として8月4日、宇都宮城を進発。途中、勝山城(氏家城、現・栃木県さくら市氏家)を経て、大田原城(栃木県大田原市城山)に滞在し、6日には陸奥小峰城(白河城、福島県白河市)、7日には長沼城(福島県須賀川市長沼)、8日には御代(福島県郡山市湖南町三代字御代)、もしくは福良(福島県郡山市湖南町福良)にて一泊します。

翌9日、駕籠に乗って出発した秀吉は原(福島県会津若松市湊町原)の肝煎きもいり・坂内家で背炙せあぶり峠越えの服装に着替え、馬に乗り換えて峠を越えます。

秀吉らが行軍する道は、政宗に道普請を命じて整備させた軍道で「太閤道」として現在に伝承されています。

また、背炙山(標高863m)の山頂で休憩した際に見晴らしの良い背炙高原を褒めそやしたのに因んで「関白平」と伝承されているそうです。

黒川の領内に入り、輪王寺(現在の天寧寺、会津若松市東山町天寧)で再び服装を整えた秀吉は馬に乗り、会津黒川城(のちの会津若松城、福島県会津若松市追手町)に入城します。

会津では興徳寺を御座所とし、南部氏、最上氏など旧領を安堵する者、大崎氏、葛西氏など小田原征伐に参陣しなかったために所領を没収・改易処分とする者らを定め、伊達氏も旧領は安堵されますが、侵犯した旧蘆名領は収公され、奥州の抑えの地である黒川城には蒲生氏郷が配されます。

秀吉の逗留はわずか5日間で、14日には会津田嶋(福島県田島町)から山王峠を越えて再び宇都宮城に帰陣します。

下総古河(茨城県古河市)の古河公方家の改易、安房館山(千葉県館山市)の里見氏の上総領減封などに関する仕置を行なったと考えられます。

その後は、東海道を駿府城、掛川城、清州城などを経て、9月1日は京都に凱旋しています。

秀吉が奥州から去った後、その後を任された奉行たちと豊臣大名となった奥州の諸領主たちと共に、大崎氏の居城・名生みょう城(宮城県大崎市古川大崎字城内)、葛西氏の居城・寺池城〔館〕(宮城県登米市登米町)を収監。

さらに進軍して鳥谷ヶ崎とやがさき城(十八ヶ崎城、のちの花巻城、岩手県花巻市花城町)を収監し、奥州平泉(岩手県平泉町)周辺まで進発します。

これを「奥州仕置」と呼び、ここに秀吉の天下統一は完遂するのです。

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福島県立博物館(福島県会津若松市城東町)では10月まで、秀吉と会津に焦点を当てた展示を繰り広げています。

展示されている道中案内絵図には秀吉が辿ったと考えられる道が示されているouu-shioki_002.jpg

常設展示のポイント展(同館収蔵品を中心に特別に公開する資料などを紹介する小規模展)では、「宇都宮・会津仕置430周年記念② 秀吉がやってきた!」が8月21日まで、それ以降は「宇都宮・会津仕置430周年記念③ なるほど!太閤検地」が8月22日〜10月25日まで催されます。観覧には常設展観覧料が必要。大学生以上280円、高校生以下無料。

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小峰城歴史館(福島県白河市郭内)では、小田原征伐に参陣しなかったために秀吉から改易された、白河結城氏を採り上げた「奥羽仕置と白河結城家」展が9月6日まで催されます。

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豊臣秀吉は自らの強大な軍事力と関白職が有する公権力(公儀)を背景に、秀吉へ臣従した者に対しては"和与"による国分、抵抗した者には"征伐"あるいは"仕置"による強制執行の要素が強い国分が行使されたわけですね。

「宇都宮仕置」「奥州仕置(会津仕置)」は、そうした秀吉の天下統一政策が完遂し、関東・奥羽地方の戦国時代が終わりを迎えるのです。

(トピックス)大江選手の功績、故郷に ベルリン五輪で「友情のメダル」 舞鶴に記念碑建立

大江季雄選手の活躍を顕彰する記念碑

昭和11年(1936)8月1日から8月16日までの16日間、てドイツ第三帝国の首都・ベルリン(Berlin)で行われたオリンピアード競技大会(通称、オリンピック、Games of the Olympiad)で8月2日から9日までの期間に開催された陸上競技の男子棒高跳競技の決勝で5時間半にも及ぶ激闘があり、日本人選手が大活躍しました。

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棒高跳競技の決勝は8月5日に催されました。

この日は朝から天候が悪く、8月とは思えないくらいの寒冷えの様相でした。

競技は午後4時から始まり、5時間半にも及ぶ激闘となるや、周囲は夕闇に包まれ、スタジアムでは照明が灯ります。

競技開始から4時間が過ぎた頃には、日本代表のの西田修平選手(写真左)、大江季雄すえお選手(写真右)、アメリカのセフトン選手、メドウス選手の4人の争いに絞られます。

ベルリン五輪男子棒高跳びで跳躍する西田修平選手(左)と大江季雄選手

高さは4m35㎝―

1回目の試技は全員ともにが失敗。2回目の試技でメドウス選手が成功し、3回目の試技で他の3人がバーを落とした事でメドウス選手の金メダルが確定します。

順位決定のために4m15㎝に下げられた試技では西田選手、大江選手ともに跳び、セフトン選手が落とした事で、西田選手、大江選手の表彰台(メダル獲得)が確定します。

規則通りならば決着がつくまで順位決定戦を続けねばならないのですが、5時間以上にも及ぶ激闘で2人ともすでに疲労が限界に達していた事もあり、西田選手が順位決定戦の辞退を申し入れ、審判団もそれを了解します。

西田選手は複数の選手が同じ高さを跳んだ場合に試技数に関係なくすべて同じ順位とする、という慣例を考えての発言だったようです。

しかし、公式結果では、決勝競技で4m25㎝を1回目の試技で成功させた西田選手が2位、2回目の試技になった大江選手が3位となります。

表彰式で国旗掲揚を見つける西田選手、メドウス選手、大江選手

翌日の表彰式において、西田選手(写真左)は大江選手(写真右)に対し「これからの活躍、ひいては次の東京五輪での健闘を願う」という激励の意味を込めて2位の表彰台に登るように、そっと送り出します。

友情のメダル

帰国後、代わって2位の表彰台に立った大江選手が銀メダルをそのまま持ち帰ったため、間違いに気づいた大江選手のお兄さんが改めて西田選手の許に銀メダルを届けるのですが、西田選手は知人の経営する宝石店でお互いのメダルを半分に切断し繋ぎ合わせたメダルに作り直します。これが「友情のメダル」としてで知られ、道徳の副読本に掲載されました。

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その後、大江選手は同15年(1940)に開催が予定されていた東京五輪への出場を目指しましたが、日中戦争の影響で開催は返上。

戦時色が強まる中、大江選手も昭和14年(1939)陸軍に召集され、福知山の歩兵第20連隊に入隊。同16年(1941)12月24日にフィリピン・ルソン島南部ラモン湾の上陸作戦での戦闘で戦死されます。27歳の生涯を閉じました。。

余談ですが、私の大叔父(母の叔父)にあたる方も福知山の歩兵第20連隊で、その方は昭和20年(1945)3月、フィリピン・セブ島の洞穴の中で戦死されたようです。アメリカの陸軍兵士が大叔父の遺体から戦利品として幾つかのファイルに入った写真を持ち帰ったそうですが、平成4年(1992)に返還してこられたんですね。それで大叔父が亡くなった場所が「セブ島の洞穴」と確定できたわけです。

大江選手の遺品からベルリン五輪でのメダルや履いていたスパイクシューズが見つかり、これをきっかけとして2人がメダルを分け合ったエピソードが広く一般に知られるきっかけとなったんですね。

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大江季雄選手

さて、大江選手の地元・舞鶴市では大江選手の活躍を顕彰する記念碑が大聖寺(舞鶴市北吸)に完成しました。

大江選手の記念碑は大江選手の功績を故郷に残そうと、今年2月に同寺の住職や檀家さんたちが企画し、賛同を得て建立されたもの。

記念碑は高さ1・5mで上段に大江選手の肖像、下段に「故郷の地 とこしえに…」との言葉とともに大江選手の功績と大江選手同様に五輪での活躍を夢見ながら戦場に散っていったアスリートたちを追悼し、平和への祈りが込められています。

大江選手といえば、旧制舞鶴中学(現、西舞鶴高校)出身で、校舎内には大江選手の銅像が立っていますが、新たに記念碑が建ったわけですね。

(トピックス)仙台市博物館で「支倉常長帰国400年」展 慶長遣欧使節団の足跡たどる

支倉常長帰国400年

現在から400年前の元和6年(1620)8月24日、陸奥仙台藩主である伊達政宗の命を受けた慶長遣欧使節団の一行が7年間の旅を終え、仙台に帰国しました。

支倉常長

この慶長遣欧使節団の副使を担ったのが、仙台藩士・支倉はせくら六右衞門(常長)です。

彼はアジア人として唯一無二のローマ貴族、及びローマ・カトリック教会フランシスコ派の教徒となり、洗礼を受けます。(洗礼名はドン・フィリッポ・フランシスコ)。

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支倉常長帰国400年

仙台市博物館(宮城県仙台市青葉区川内)では「旬の常設展2020夏 特集展示『支倉常長帰国400年』」が開催中です。

同博物館の常設展示は春夏秋冬の季節ごとにテーマを設置し、旬の作品や資料が展示されるのですが、今回の常設展では「世界の中の日本」と題し、伊達政宗によってスペイン、ローマへと派遣された慶長遣欧使節団の旅の背景にあった16世紀から17世紀にかけての日本と海外との交流の歴史を古地図や絵画、工芸品などから紹介します。

また、支倉慶長遣欧使節団の旅については「文書と記録でたどる支倉常長の旅」と題し、国内外に残された文書と記録から、支倉六右衞門(常長)慶長遣欧使節団一行の旅の軌跡を紹介。『ローマ市公民権証書』などユネスコ記憶遺産3点を含む国宝「慶長遣欧使節関係資料」全47点が6年半ぶりに一挙公開されます。

会期は9月22日(火曜日・祝日)までとなっています。

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支倉使節団180余人の一行は、慶長18年(1613)9月15日に正使であるイスパニア(現、スペイン王国)人でフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロ(Luis Sotelo)神父と共に、西洋式帆船(ガレオン船=大型木造帆船)「サン・ファン・バウティスタ(San Juan Bautista)号」で「遠島月浦」(『真山記』、『政宗君記録引証記』所収)、すなわち牡鹿半島の月浦(現、宮城県石巻市月浦)を出港して太平洋を横断し、「のびすばん」(ノビスパン、『慶長見聞録案紙』)と呼ばれたイスパニア領ヌエバ・エスパーニャ("新イスパニア"という意)副王領のアカプルコ(Acapulcom、現、メキシコ合衆国ゲレーロ〔Guerrero〕州)に到着します。

支倉ら一行はアカプルコからメキシコシティ(Ciudad de México)、その後、大西洋を横断するためにベラクルス(Veracruz、現、メキシコ合衆国ベラクルス州)からスペイン艦隊に便船。その途次、キューバ総督領(現、キューバ共和国)のハバナ(Habana)を経由してイベリア(Iberia)半島南部に上陸。

到着した一行はイスパニアのサンルーカル・デ・バラメーダ(Sanlúcar de Barrameda、現、スペイン・アンダルシア〔Andalucía〕州セビリア〔Sevilla〕県)から小型帆船に乗り換えてグアダルキビル川を遡航し、セビリア郊外のコリア・デル・リオ(Coria del Río)に上陸します。

コリア・デル・リオに使節団の主だった者以外を留め置いて、支倉ら一行30人はマドリード(Madrid、現、スペイン・マドリード州マドリード県)に到着。イスパニア国王フェリペ(Felipe)3世に謁見し、政宗からの親書を渡します。、

さらにイベリア半島を陸路バルセロナ(Barcelona、スペイン・カタルーニャ〔Catalunya〕州バルセロナ県)に到達し、地中海北部を船で渡り、当時「ローマの外港」と呼ばれていた教皇領のチヴィタヴェッキア(Civitavecchia、現、イタリア共和国ラツィオ〔Lazio〕州ローマ〔Roma〕県)に上陸し、陸路ローマに入ってヴァチカン(Vaticanae)宮殿で教皇パウロ(Paolo)5世に拝謁しますが、交渉(宣教師の派遣とノビスパンとの通商交易)は難航。

文禄5年(1596)8月28日に起きた「サン・フェリペ(San Felipe)号事件」とその余波として翌慶長元年(1597)12月19日に起きたフランシスコ会員(なかでもアルカンタラ派)6名を含むカトリック教徒26人(宣教師3人、修道士3人、および日本人信徒20人)が長崎で処刑された「二十六聖人の殉教」などの迫害状況が影響していたようですね。

一旦、マドリードに戻ろうとしますが。イスパニア政府からの国外退去命令が出され、止むなく帰国の途につくこととなり、イスパニア領東インド(現、フィリピン共和国など)のマニラ(Maynilà)のイントラムロス(Intramuros)から長崎を経て、仙台に帰国するのです。

結果的には交渉はまとまらず、失意の帰国でした―

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時が過ぎ、慶長遣欧使節団の存在は歴史の闇の中に埋もれていきます。

しかし、明治の初めに再び脚光を浴びるのです。

それは維新政府が派遣した岩倉使節団がヨーロッパを訪れた際、支倉の書状を発見したことがきっかけでした。

そこで日本人はようやく、江戸時代の初め、遥かヨーロッパに赴き、スペイン国王やローマ教皇に面会して、堂々と交渉した日本人がいたことを知るのです。

「支倉常長帰国400年」という節目の年にあたり、支倉使節団の足跡をたどってみてはいかがでしょうか。

同博物館の開館時間は9時~16時45分(入館は16時15分まで)。月曜日は休館(8月10日、9月21日は開館し、8月11日、9月23日が休館となります)。観覧料は、一般・大学生=460円、高校生=230円、小・中学生=110円。詳しいことは同博物館まで。