「江戸時代」っていつまで?

朝日放送で放送していた「クイズプレゼンバラエティー Qさま!」を観てました。「アナウンサー軍団 vs インテリ芸人軍団」の対決で、「プレッシャーSTUDYスペシャル」をやってましたが、その上級編での「江戸時代ドボンクイズ」(=11項目の歴史的事件のうち、1つだけ江戸時代でないのが入っている…)でちょっと「あれっ?」と思うような事がありました。

それは、「江戸時代」でない歴史的事件は「龍馬暗殺」だったわけですが、最初に11個の歴史的事件を観た時、「全部江戸時代やん!」と感じてしまったのが事実なんですよね。

そう思って、最終的に「龍馬暗殺」がそれだったとわかった時もなかなか疑問が解けなかったんです。

確かに、学生時代から愛用している『角川日本史辞典』に依れば、

徳川家康が征夷大将軍になった慶長8年(1603)から15代将軍慶喜が大政奉還し辞職した慶応3年(1867)まで

とはなっています。もっと細かく見れば、

慶長8年(1603)2月12日に徳川家康が征夷大将軍に任ぜられてから、慶応3年(1867)10月15日に徳川慶喜が大政奉還するまで

って感覚なのでしょうね。

クイズ的にいえば、坂本龍馬が暗殺されたのは、慶応3年(1867)11月15日だから、上記の感覚で行けば、「『江戸時代』ではない」って事になるのはわかりますね。

しかしながら―

  • 徳川慶喜が慶応3年(1867)10月13日に上洛していた40藩重臣らを二条城に招集し、大政奉還を諮問した結果、翌14日に大政奉還を朝廷に「奏上」し、翌15日に御所で開かれた朝議において勅許が得られた日、すなわち大政奉還を朝廷に申し出た日である事

  • さらに、

  • 同年10月24日は、慶喜が征夷大将軍職の辞任を朝廷に申し出た日である事

などから、現在風に言えば、慶喜が朝廷に2つの案件について「退職願」「辞職願」を提出した日に過ぎない、わけですね。

そしてそれらが、慶応3年(1867)12月9日に王政復古の大号令が発せられた際、承認されたのだという事を考えると、12月9日までは江戸幕府は存続しているし、将軍であった事になります。

徳川内府、從前御委任大政返上、將軍職辞退之兩條、今般斷然被 聞食候。…(中略)…自今、攝關幕府等廢絕

かいつまんでいえば、王政復古の大号令によって、朝廷が「ほな、政事やってみますわ」って事になって、徳川氏はお払い箱になって感じかな(笑)。

そうなって、先の征夷大将軍辞任という申し出=「辞職願」はほぼ解雇処分ぽくなって決定されます。

すなわち、12月9日までは徳川氏主導による幕藩体制の路線が敷かれていましたが、12月9日以後は朝廷主導による朝藩体制となったんですね(→明治4年=1871=の廃藩置県まで)。これを維新政権といいます。

そうのように考えれば、「江戸時代」の終結は「慶応3年(1867)12月9日」って事になりませんか?

そうなると、先の「龍馬暗殺」はまだ「江戸時代」って事になるんですけどね(笑)

ところが、慶応3年(1867)12月22日に朝廷は、

徳川内府宇内之形勢を察し政權を歸し奉り候に付き、朝廷に於て萬機御裁決候に付ては、博く天下の公儀をとり偏黨の私なきを以て衆心と休威を同ふし、徳川祖先の制度美事良法は其儘被差置き、御變更これ無くの候間、列藩此聖意を体し、心付候儀は不憚忌諱極言高論して救縄補正に力を盡し、上勤王の實效を顯し下民人の心を失なはず、皇國をして一地球中に冠超せしむる樣淬勵致すべき旨御沙汰候事、

という告諭を出しています。

これは事実上徳川幕藩体制による大政委任の継続を承認したと言えるもので、王政復古の大号令は取り消されなかったものの慶喜の主張が完全に認められたものと言えますよね。つまり、新政府内部の列侯(諸侯)会議派が主導権を握っていた事になります。

しかし、討幕派の薩長の挑発に乗った旧幕府軍は慶応4年正月3日に鳥羽・伏見の戦いで大敗し、「朝敵」としての汚名を受けて戊辰戦争への道に突入します。

旧幕臣でジャーナリストの福地源一郎(桜痴)は、著書『幕府衰亡論』の中で慶応4年4月11日の「江戸開城を以て江戸幕府は滅亡した」としています―


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