殉教者へ祈りの行進―「浦上四番崩れ」と乙女峠まつり

聖母マリア像を担ぎ、乙女峠を目指す乙女たち

毎年5月、“山陰の小京都”として知られ、キリシタン殉教の地としても知られる島根県鹿足かのあし郡津和野町で開催される行事の1つに「乙女峠まつり」というものがあります。

昭和27年(1952)から行われている催しで、約2000人のカトリック信者が全国から集まり、聖母マリア像を中心に行列を作り、賛美歌や祈りの言葉を唱えなえながら、津和野カトリック教会(島根県鹿足郡津和野町後田うしろだ、以下、カトリック教会)からJR津和野駅の裏山の中腹にひっそりと建つ「乙女峠マリア記念堂」(以下、マリア聖堂)までの約2kmを行進し、殉教者の霊を慰めます。

参加したカトリック信者らはカトリック教会を出発。白いベール姿の女子生徒8人が薔薇バラの花で飾られたマリア像を肩に乗せて静かに運び、その前を、やはりベール姿の地元保育園児らが花びらを撒きながら先導。賛美歌を口遊くちずさみながら、約2kmの道程を歩き、「乙女峠」マリア聖堂を目指します。その後、「乙女峠殉教者を偲ぶミサ」が厳粛に催されます。

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津和野では石見いわみ国津和野藩主の姫が不慮の事故にあって亡くなった際に枕流軒ちんりゅうけん(島根県鹿足郡津和野町寺田)と呼ばれる山の麓に埋葬されたことから乙女山と呼ぶようになり、そこから「乙女峠」と呼称するようになります。また、島根県松江市出身で長崎に投下された原爆の後遺症で亡くなった永井隆氏の著書『乙女峠』にも由来するようです。

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この周辺は千人塚と呼ばれる、天保13年(1842)の大飢饉の犠牲者が埋葬され、弔われた万霊塔が建っており、その奥に殉教者たちの遺骨も埋葬され、追福碑「至福の碑」が建っています。

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昭和26年(1951)5月13日、イエズス会宣教師として来日したドイツ人のパウロ・ネーベル(Paul Nebel)神父(のちに帰化されて岡崎祐次郎神父)によって「浦上四番崩れ」の流配地の1つ、津和野藩で殉教した36人の冥福を祈るために、昭和14年(1939)に日本カトリック教会広島司教区が流配者たちが幽閉されていた光琳寺の跡地を購入し、建立されたマリア聖堂を記念しようと翌27年(1952)5月11日に第1回目が開催され、その後毎年5月3日を例祭日として開催されているのです。

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さて、「浦上四番崩れ」とは、江戸幕府天領(直轄領)であった肥前国彼杵そのぎ郡浦上村(現在の長崎県長崎市)において、江戸時代中期から明治時代初期にかけて4度にわたって発生した大規模な隠れキリシタン信徒の摘発事件です。

浦上村は戦国時代、大村氏の領国内でしたが、その後有馬氏の領国となります。天正12年(1584)にはキリシタン大名となった有馬晴信によって、浦上村はイエズス会に寄進されています。

江戸時代、幕藩体制下で寺請制が敷かれ、この地は浄土宗系の聖徳寺の檀徒となりますが、密かにキリシタン信仰を続けていました。

元治2年(1865)正月24日、日仏修好通商条約に基づき、居留するフランス人のため長崎の居留地内にカトリック教会の大浦天主堂(長崎県長崎市南山手町、当時は「フランス寺」と呼ばれていました)が建てられます。

そんな折り、同年2月12日に浦上村の住民十数名が大浦天主堂を訪れ、信徒である事を表明(「信徒発見」)。

浦上村近郊図

浦上村のキリシタン信徒らは、大浦天主堂の巡回教会として浦上村内の4か所に、
 サンタ・クララ教会堂(家野郷)、
 聖フランシスコ・ザべリオ堂(中野郷)、
 聖ヨゼフ会堂(本原郷)、
 聖マリア会堂(本原郷)、
などの秘密教会を創設します。

さらに、檀那である聖徳寺に届けずに自分たちで勝手に葬儀を行なった事や、浦上村の住民の多くが毎日のように大浦天主堂を訪れる様子を不審に思った長崎奉行所が探索の手をのばしたところ、浦上村の5つの郷(馬込郷、里郷、中野郷、本原郷、家野郷)のうち、馬込郷を除く4つの郷に暮らす人々のほとんどはキリスト教を信仰するキリシタンである事が発覚します。

慶応3年(1867)6月13日の深夜、長崎奉行所の役人が秘密教会を急襲し、信徒ら68人が一斉に捕縛され、激しい拷問を受けますが、諸外国(とくにフランス)の領事からの釈放要求があり、9月14日までに全員が一旦は解放されます。

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その年の12月9日に江戸幕府が瓦解し、王政復古がなされると、祭政一致の立場から神道国家を目指した維新政府は翌慶応4年(1868)3月14日に「神仏分離令」を発して旧来の神仏習合を禁じると共に、翌15日には「五榜の掲示」が公布され、その第三札に「切支丹邪宗門厳禁」を提唱して旧幕府の政策を踏襲し、改めてキリスト教を禁止します。

同じ年の2月14日、九州鎮撫総督(のち長崎府知事)として長崎に着任した沢宣嘉さわのぶよしは浦上のキリシタン信徒たちを呼び出して改宗を説得しますが、改宗の意思が無い事から「中心人物の処刑と一般信徒の流罪」と言う厳罰の提案を新政府に諮問したため、4月25日に処分に関する御前会議が開かれた結果、閏4月18日、維新政府による浦上のキリシタン信徒の流罪が決定。5月20日には信徒の中心人物114名が山口藩66人・津和野藩28人・福山藩20人の3藩へ移送されます。(第一次配流)

さらに、明治2年(1869)12月4日、浦上村のキリシタン信徒3394名が一斉検挙される事が決まり、名古屋、和歌山、金沢、松江、津和野、岡山、広島、福山、高知、萩など20藩22か所に移送されます(第二次配流)。

津和野へは新たに第一次配流で移送された114名の家族125名も移送され、総勢153名となります。

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津和野に送られた浦上のキリシタン信徒153名は、長崎から廿日市港に上陸し、津和野藩の御船屋敷(広島県廿日市市桜尾本町)まで船で運ばれた後、津和野街道を2泊3日かけて90㎞ほど歩かされ、津和野城下の異宗徒御預所となった光琳寺に男子は本堂に、女子は小さい庫に幽閉されます。

当初は津和野藩は維新政府の「右宗門元来御国禁不容易事ニ付、御預ノ上ハ人事ヲ尽シ、懇切ニ教諭致シ、良民ニ立戻リ候様厚ク可取扱候」「異宗信仰ヲ厳禁シ、人事ヲ尽シ教諭ヲ加へ、良民ニ復シ候様精々教化可致事」という指示に従い、説得方が改宗の説諭に務めますが、改宗する者はなく、そこで説得方は方針を変更し、同じく維新政府から若シ悔悟不仕者ハ不得止可被処厳刑候間、此趣相心得、改心ノ目途不相立者ハ可届出事」との方針に改めます。

津和野藩による、水責め、雪責め、氷責め、火責め、飢餓拷問、箱詰め、磔、親の前でその子供を拷問する、など数多くの拷問は過酷であり、陰惨であり、残虐であったため、結果として37人の殉教者を出すこととなったのです。

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『異宗門徒人員帳』(国立公文書館所蔵『公文録』所収)によれば「改宗者:53名、信仰を守った者:63名、殉教者:37名、計153名」とされている。

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西欧列強の強い抗議・批判を受けた維新政府は明治6年(1873)2月24日にキリスト教禁止の高札を撤去し、キリスト教は黙認されます。(但し、全面的な「信教の自由の公認」が保障されるのは、明治22年〔1889〕2月11日発布の大日本帝国憲法で「信教の自由を保障する規定」(第28条)が定められ、明治32年〔1899〕7月27日に発令された内閣省訓令の「神仏道以外の宣教宣布並堂宇会堂に関する規定」(第41号)でキリスト教の宣教が公に認められたのを経て、昭和21年〔1946〕11月3日公布の日本国憲法で「信教の自由と政教分離原則について規定」(第20条)が定まるまで待たなければなりませんが…)

これにより明治6年(1873)にキリシタン禁制は廃止され、慶長18年(1613)12月19日に禁教令が布告されて以来、260年ぶりに日本でキリスト教信仰が解禁される事になったのです。

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明治6年(1873)3月14日、浦上のキリシタン信徒の釈放と帰村命令が出され、8月7日に1900人が浦上村に帰還を果たします。

慶応3年(1867)から明治6年(1873)の足掛け6年間、「浦上四番崩れ」で捕らえられ流罪にあった浦上村のキリシタン信徒3394名のうち613名が命を落とし、生き残って帰還した者らは流罪で遭遇した苦難を“旅”と呼んで信仰を篤くし、

明治12年(1879)土井に新たに「サンジュアン・バブチスタ小聖堂」をつくり、翌13年(1880)6月4日に「浦上四番崩れ」の発端となった庄屋の跡地を買い取り、ここにに浦上天主堂(現、カトリック浦上教会)を建てるのです。

「浦上四番崩れ」から帰還した生存者たち

大正9年(1920)8月、流罪から50年経った節目の年に記念祭が催されました。生存者たちは50年前の“旅”に感慨を新たにし、50周年を記念して建てられた記念碑「信仰の礎」の除幕式が行われたそうです。

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さて、乙女峠マリア聖堂の内部には美しいステンドグラスがあります。このステンドグラスには、拷問の悲しい様子が描かれているのですが、その中の1枚に描かれているのが、明治4年(1871)7月20日に 天に召され殉教した6歳の女の子・岩永もりちゃん(洗礼名・カタリナ)に行った役人の拷問の様子です。

飢えに苦しんでいるもりちゃんに、説得方の役人は美味しいお菓子を見せて言いました。「食べてもいいけど、その代わりにキリストは嫌いだと言いなさい」と―

しかし、もりちゃんは「お菓子をもらえばパライゾ( 天国)へは行けない。パライゾへ行けば、お菓子でも何でもあります」と言って断り、永遠の幸せ(殉教の道)を選んだのだそうです―

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