(トピックス)戦国武将・松永久秀の特徴捉えた肖像画が発見される!

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戦国時代、斎藤道三・宇喜多直家と並んで“戦国時代の梟雄”に数えられ、下剋上の風潮を代表する武将、松永久秀を描いたとみられる肖像画が見つかったそうです。

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見つかった肖像画は縦108・7㎝、横43・6㎝で、掛け軸に表装されてあり、薄い藍色の直垂ひたたれを着て烏帽子えぼしをかぶり、扇を持って腰刀を差した正装姿という構図は、戦国時代に描かれた武家肖像画の典型的な姿でした。

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腰刀の柄 ( つか )の部分には永禄4年(1561)2月3日に将軍・足利義輝あしかがよしてるから使用を許可され下賜された将軍家の御家紋である桐紋が入っています。

また、膝元には金糸を織り込んだ茶道具をしまう袋も描かれていて、茶人の武野紹鴎たけのじょうおうを師事していた久秀が所有していた茶入の「付藻茄子つくもなす(九十九髪茄子)」や茶釜の「平蜘蛛ひらぐも」など、名物茶器が収まっていたのでは、との推測ができます。

こうした武将の肖像画は、法要や祭祀のために制作される事が多く、本人を偲ぶ事ができるよう、実際の特徴をしっかりと捉えて描かれているのが一般的ですが、この肖像画は美化して描かれる事なく、唇が厚く、前歯が出た独特の顔立ちを描くなど、しっかりと特徴を捉えて写実的に描かれていました。

その事から、久秀の特徴を知っている、久秀に近い人がまだ存命中の時代に描かれた可能性が高いようです。

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それを裏付けるかのように、肖像画の上部には「天正五丁丑年冬十月十日薨 妙久寺殿祐雪大居士尊儀」と、久秀の命日と戒名が記されており、久秀を描いたものと断定し、顔の特徴などを知る子孫らが描かせたのでは、とみられています。

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さて、松永久秀のイメージとして描かれた画像(錦絵など)のほとんどが、江戸時代に備前岡山城主である池田氏に仕えた儒学者・湯浅常山ゆあさじょうざんによって著された逸話集『常山紀談じょうざんきだん』などで創作された「久秀の三悪」などを典拠としていて、

東照宮信長に御對面の時、松永彈正久秀側に在り。信長、此の老翁は世人の爲し難き事三つ成り者なり。將軍を弑し奉り、又己が主君の三好を殺し、南都の大佛殿を焚きたる松永と申す者なり、と申されしに、松永汗を流して赤面せり。

東照宮後長臣等を召して、御物語有りける時、此の事を仰せ出され、先年信長金崎を引き退きし時、所々に一揆起り危かりしに、朽木が淺井と一味を疑ひ進退極りしに、松永信長に告げて朽木が方へ參りて、味方に引き附け候べし。朽木同心せば人質を取りて打具し御迎に參るべし。若し又歸り參らずば、事成らずして朽木と刺違て死したりと知し召されよ、と言ひて、朽木が館に赴き事無く人質を出させ、夫より信長朽木谷にか〻りて引き返されしなり、と仰せられしとぞ。(『常山紀談』巻之四「信長公松永彈正を恥しめ給ひし事」より)

徳川家康(「東照宮」)が織田信長(「信長」)と対面した折り、信長の側にいた久秀(「松永彈正久秀」)を紹介します。

その際、信長が久秀は普通の人間では考えも及ばない仕業をやった奴―しかも3つも―なんだ(「世人の爲し難き事三つ成り者なり」)と、家康に紹介したわけです。

それは「將軍を弑し奉り、又己が主君の三好を殺し、南都の大佛殿を焚きたる」事で、これらは「久秀の三悪」として酷評されるきっかけとなっていきます。

この「久秀の三悪」とは、江戸時代に至り儒教思想が広まった時代背景もあって、久秀が「悪人」のイメージで語られるようになったきっかけとなった歴史事象を表し、

  • 主家である三好家中かちゅうの実権を握るため、三好家の要人を殺害した、
  • 対立していた将軍・足利義輝を襲撃し殺害に至らしめた、
  • 東大寺の寺院伽藍がらん及び大仏殿を焼き打ちした、

などの悪行から、久秀を「下剋上の代名詞」「謀反癖のある人物」といったイメージで見る風潮が生まれ、自然、小説を始めとした創作物においても、そうした人物像として描かれる事が定着するに至ったわけです。

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そうして生まれたイメージは久秀を「荒々しい極悪人風」に捉えられ描かれていったわけです。

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江戸時代も中頃になると、領主たちの家臣統制に対する倫理感を儒学に求めようとし、過去の故事から理想を追求する朱子学しゅしがくと、現実を見添えて物事を捉えようとする陽明学ようめいがくが普及します。

支配階層である武士層は立身出世という実益に叶った朱子学を重視し、結果として武士道という倫理観が生まれていきます。

そんな倫理観が浸透すると困った弊害が生じます。

江戸時代とは、単純にいえば差別階級が再生産された社会で、支配する者(=武士層)と支配される者(=それ以外の階層)が生まれ、さらに支配する者からも仕官する者と浪人する者が生じます。

『常山紀談』が著された時代は、身分の固定化が進んでいた一方で、家柄だけで仕官が決まる者と、才覚と能力で仕官への道をつかむ者が現れます。領国支配にとって代々譜代の者が政務を治めていたのに、時代が進むにつれ、才覚と能力で実務に秀でた者が立身出世する、といったように―

この時代で言えば、御側御用人おそばごようにん(=将軍の秘書)として五代将軍・綱吉つなよしに仕えた柳沢吉保やなぎさわよしやすや六代将軍・家宣いえのぶおよび七代将軍・家継いえつぐに仕えた元猿楽師の間部詮房まなべあきふさ、十代将軍・家治いえはるに仕えた田沼意次たぬまおきつぐなどは、その才覚と能力によって立身出世を果たした者たちでした。

柳沢吉保は御側御用人から老中格、大老格の地位に、間部詮房は家継が幼かった事もあって、将軍の意志決定代行者としての地位にありました。田沼意次に至っては、将軍の側近である御側御用人と共に政権運営を担う幕閣(幕府閣僚)の老中も兼任したために、やっかみを持った代々の譜代の者たちの嫉妬が一番集中したといえるでしょう。

実際、こうした御側御用人は家禄が低い下級幕臣が就任するケースが多いのですが、就任した者のうち、約2割が1万石以上の大名や若年寄、側用人、老中などの幕閣に昇進しているのです。

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家柄を重視する風潮のなか、氏素性うじすじょうの判らない、身分の低い者が才覚と能力で立身出世していく様が社会秩序を破壊している、として警鐘を鳴らし、久秀のようにその出自もはっきりしないのに異例の出世を遂げ、将軍からも家臣の身分なのに主君と同じ待遇を受けたのは、主君への敬意を軽視している、として儒学者から「社会秩序を壊す危険な存在」と認識されるようになったんですね。

その結果として、松永久秀は「下剋上の代名詞」「謀反癖のある人物」といったレッテルが貼られてしまったわけですね。

今回の肖像画の発見は従来の松永久秀の粉飾されたイメージを払拭し、新たに再評価される一翼となれば良いと思われます。

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大阪府高槻市のしろあと歴史館において第48回トピック展示「戦国武将・松永久秀と高槻」が6月2日(火)から8月2日(日)まで開催されます。

松永久秀の出自伝承として、

  • 「摂津国島上しまかみ五百住よすみ(現、高槻市東五百住町)の土豪出身」(『陰徳太平記』)という記載がみられる事、

  • 同地域にに「松永屋敷跡」(『郡家村・東五百住村境見分絵図』『摂津志』)と呼ばれる久秀に関連する屋敷跡が存在する事、

などから同地域が久秀の出身地ではないか、との見解もあるようですね。

それに伴い、「戦国武将・松永久秀と高槻」と題して今回初公開となる久秀の肖像画ほかに、久秀を描いた錦絵や高槻における久秀伝承に関する古文書など、久秀にまつわる21点が紹介されています。

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