上杉景虎と関東管領職―御館の乱を背景にして

上杉三郎景虎

上杉謙信(輝虎)が天正6年(1578)3月13日に49歳で急死しました。

3月9日にかわやで倒れ、意識不明のまま、13日に死去したのです。死因は脳卒中と思われます。

謙信の突然の死によって、上杉家中に激震が走ります。謙信の死があまりにも突然だったために、後継者争いが生じます。それが「御館の乱」です。

謙信には実子がおらず、生前に景虎と景勝、義春という3人を養子がいました。

景虎は相模の北条氏康の七男・三郎で、永禄13年(1570)4月の越相同盟の折り、人質として越後に入り、謙信の姪と結婚し、謙信の初名である「景虎」を与えられます。

景勝は魚沼郡妻有庄(現在の新潟県南魚沼市)の坂戸城を本拠とする上田長尾氏の長尾政景の次男・顕景で、永禄7年(1564)7月の政景の死後、養子となります。

義春は能登の畠山義続の子で、天文22年(1553)、能越同盟の際、人質として越後に入り、弘治2年(1556)に養子となります。しかし、元亀2年(1571)、上条じょうじょう上杉家・上条定春の養嗣子となり、以降、親類衆として上条政繁を名乗ります。

この3人のうち、景虎と景勝が後継者の座を巡って争うことになり、結果、景勝が勝ち、越後上杉家を継承します。

しかし、この御館の乱によって、謙信の時代に培われた越後上杉家の勢力と威信は大きく衰退することになりました―

さて、謙信は遺言という形では後継者を定めませんでしたが、一体、景虎と景勝のどちらを後継者=意中の人物として決めていたのでしょう?

一説に、謙信は関東管領職(=山内上杉氏の跡目)を景虎に、越後国主(=越後上杉家=府中(三条)長尾氏の跡目)を景勝に、それぞれ継がせるつもりであったと云われています。

『北条五代記』には「誰もが家督は三郎(=景虎)殿が継ぐのであろう」と記しています。これが周知の事実だったのでしょう。

また、景勝が弾正少弼を譲り受けたのに対し、その死去まで「三郎」のままであった事についても、謙信が関東管領職景虎に譲るつもりであった事を示しています。

というのも、文安4年(1447)3月に出された後花園天皇の綸旨による補任と、それに伴う「天子の旗」を下賜された事によって、関東の諸将から関東管領職そのものが「副将軍」「天子之旗本」と認識され、関東管領職が足利将軍家とは同格の勅任官レベル=天皇から任命された職務として山内上杉氏に与えられたものと変貌した事も関連します。

すなわち、これ以降の関東管領=山内上杉氏が受領名も官途名もなく、ただ「四郎」「五郎」のままであった事実がそれを物語っています。

それ故、景虎「三郎」のままであった事は、景虎こそが関東管領職の後継者であった事が考えられますね。

また、景虎が後継者と認識されていた有力な根拠として天正3年(1575)の『上杉家軍役帳』には、景虎には軍役が課せられていないのに対し、景勝は他の諸将と同様に軍役が課せられている事実が見られます。

この点は、後年に徳川幕府が諸大名に対し禁裏(=御所)の普請役を命じた際の豊臣秀頼の立場と似通ったものがありますね。

そもそも、長尾氏は代々、守護代を務め、蒲原郡三条(現新潟県三条市)を本貫とし、越後府中に居を構えた府中(三条)長尾氏と上田長尾氏、古志郡蔵王堂・栖吉(現新潟県長岡市)を本拠とする古志長尾氏との間で抗争が激化していました。

永禄2年(1559)、関東管領職となる事が内定し上洛を果たした景虎(謙信)が帰国した際、越後の諸将は景虎(謙信)に太刀を献じてこれを祝したのですが、その目録『侍衆御太刀之次第』には「直太刀の衆」として上杉・長尾氏の一門衆が、続いて「披露太刀ノ衆」とされる外様・譜代の国人衆が、最後に「御馬廻年寄分ノ衆」として旗本衆が序列化されています。

その中で、古志長尾氏・長尾景信は一門衆の筆頭に位置付けれ、上田長尾氏・長尾政景は国人衆の第7番目に置かれています。

景勝の実父である政景は、謙信に最も近親なのにも拘わらず、一門衆ではなく国人衆の、しかも7番目に位置付けられているわけですね。

政景は一族の扱いからも外され、国人衆の筆頭にも置かれなかった待遇だったんですね。

景勝はその実父・政景と同様に国人衆の上田長尾氏の当主として、謙信への賦役に務めています。

すなわち、景勝は謙信の養子とは言っても、その待遇は謙信の後継者としてではなく、国人衆の1人、つまり家臣団の1人として扱われていたことになります。

― ◇ ◇ ◇ ―

逆に、景勝が謙信の生前より後継者だったと根拠に挙げているのが天正3年(1575)正月に顕景から景勝へ改名し、弾正少弼に任ぜられた点だと云われます。

謙信が弾正少弼の官位を譲り与えたんだ―というのが根拠なのですが、これは謙信が越後守護代・長尾景虎の時代に任官したものなので、謙信が越後守護代の立場としての上田長尾氏の当主であった景勝に下賜した―というのが正しい観方かもしれませんね。

また、景勝自身も“自分は越後上杉家を継いだのだ”という思いだった節が見受けられます。それは、景勝の嗣子である定勝の名に顕著に見受けられるのです。

定勝は慶長9年(1604)の生まれです。時代は徳川幕府草創期ですね。この時期に定勝と同世代の人物で伊達政宗の子で仙台藩を継いだ忠宗などは徳川秀忠の「忠」の字の偏諱を受けています。また、定勝の嗣子である綱勝は徳川家綱の「綱」の字の偏諱を受けています。

しかし、定勝は徳川将軍家の偏諱を受けなかったようですね。しかし、それよりも注目したいのは、定勝の「定」の字なのです。

実は、越後守護だった上杉定実の「定」の字を意識したものではないのだろうか?という疑問が想定されるのです。

定実は天文19年(1550)死去し、越後上杉家は断絶しますが、守護代だった景虎(謙信)は、その名跡を景勝に継がせたのではないのでしょうか?

景勝自身もそれを自覚していたので、越後上杉家の後継者として定勝と名付けたのではないのか―という憶測が芽生えます。

― ◇ ◇ ◇ ―

結果として、御館の乱は、越後上杉家の当主の座を巡って、「景虎=古志長尾氏を擁するグループ」と「景勝=上田長尾氏を擁するグループ」との対立抗争って事が分かります。

上田長尾氏出身である景勝を当主として仰ぐことに納得しない古志長尾氏などの重臣たちは、相模北条家という強大なバックボーンを持つ景虎を担いで敵対し、結果滅ぼされてしまいます。

景勝の立場からすれば、謙信一代で築いた上杉氏の勢力を越後のみしか力を発揮できないまで縮小してしまった―しかも、自分の手で―事になりますね。

景勝自身は「越後上杉家でいいんだ」と思っていたのかもしれませんが…

若しも、景虎御館の乱に勝ち、関東管領と越後上杉家を継承していたら、上杉=伊達=北条という同盟の壁が幾らか発揮されて、後年の豊臣秀吉の東国来襲にも違った展開になったことでしょうネ!

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