「本能寺の変」の謎―なぜ光秀は信長に謀叛したのか?

天正10年(1582)6月2日、明智光秀軍が洛中・本能寺に宿所をとる織田信長を急襲しました―いわゆる「本能寺の変」です。

光秀はなぜ信長に対し謀叛を起こしたのでしょう?色々な説が飛び交っていますね。

徳川家康を饗応している場所で信長から罵倒されたこと、信長が安土にいる波多野氏の人質を殺してしまったために、人質に行っていた光秀の母親が殺されてしまったこと…など、怨恨説、野望説の類いが舞台劇や時代劇ドラマで一般的によく採り上げられていますが、ほとんどの場合、憶測での物言いなので信憑性は皆無です。

最近の学説では、

 ①三職推任問題
 ②足利義昭と反信長ネットワーク
 ③四国政策を巡る秀吉と光秀の対立

というキーワードで論争がなされているようです。

「本能寺の変」時点の織田政権の版図と諸将図

まず①の「三職推任問題」について。

「三職推任」とは、天正10年(1582)3月に甲斐武田氏を滅ぼし、かつ関東の大名衆の仕置を完遂した時点の4月25日に安土城への勅使下向を命ぜられた勧修寺晴豊が、誠仁親王からの「太政大臣か関白か将軍か、御すいにん候て可然よし」(『日々記』天正10年4月25日条)という、いわば朝廷が信長に対して、太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかの職に就くように勧めたもので、5月4日に安土に到着した晴豊が「関東打はたされ珍重候間、将軍ニなさるへきよし」(『日々記』天正10年5月4日条)との旨を伝えました。

信長は前年の天正9年(1581)3月1日に正親町天皇からの叡慮として「左府に被仰出由」(『立入左京亮入道隆佐記』天正9年3月1日条)の左大臣推任を固辞しており、朝廷も信長に「そろそろいかがですか?」と勧めたものと解釈されていましたが、その実、信長の側から朝廷に圧力をかけて勧めるように言わせたのではないか―という論拠から、これに屈辱を感じた朝廷が信長を亡き者にしようと謀議を図り、光秀を実行犯に仕立てて信長を葬ったんやないか―とする説です。

これに対し①と相対するのが②の「足利義昭と反信長ネットワーク」で、征夷大将軍・足利義昭こそ「本能寺の変」の首謀者で、この義昭の背後にある広範囲なネットワークの一員として光秀が存在し、実行犯となった―とする説です。

確かに義昭は京都における"室町"幕府としての機能を失っただけで、征夷大将軍を解任されたわけではありません。

『公卿補任』を見ても、天正元年条以降、将軍在職のまま、備後鞆に「在国」という記載がなされています。

そもそも間違えやすいのは、幕府=征夷大将軍その人であって、幕府=構成組織ではないのです。

義昭が将軍である限り、幕府という屋台骨が崩れる事はなく、側近たちの任免も将軍である義昭自身が自由に任免できるのです。

それ故、京都に居なくても将軍である以上、義昭の発する御内書などは十分な効力を有するのです。これが「鞆幕府」という発想ですね。

③の「四国政策を巡る秀吉と光秀の対立」については、光秀が信長を殺した理由として、四国政策を巡る信長の路線変更がもたらしたものとする説です。

信長は四国の制圧を視野に入れていたのですが、四国のどの大名を配下に置いて、攻略の先鋒にするかが当面の問題でした。

当初、信長は土佐の長宗我部氏を重用し、同氏を通して四国を支配しようと考えていました。そして、その窓口には光秀が任じられていました。

ところが、天正9年(1581)6月の時点から信長が方針転換をしちゃったんですね―すなわち、長宗我部氏ではなく、讃岐の三好氏を自分の配下にして、四国を制圧しようと考えたわけです。

当時、三好康長の養子になっていたのが、羽柴秀吉の甥でもある孫七郎(のち、三好信吉、秀次)だったので、秀吉が三好氏との間の取次役を担っていました。信長の方針転換によって、四国政策の中心が秀吉へ変わり、光秀の立場は危うくなり、追い込まれた光秀は、このままでは信長政権の中で生きる道はないと考えたのか、好機逸するべからず、と「本能寺の変」で一気に信長を叩いてしまった―という信長政権内の対立がきっかけとなって、「本能寺の変」が起きたと考える説だったのですが…

さて、この③の説については、尾下成敏氏の「羽柴秀吉勢の淡路・阿波出兵―信長・秀吉の四国進出過程をめぐって―」(『ヒストリア』214)によって、秀吉の淡路及び阿波への進出・出兵が天正10年(1582)9月である事、つまり清洲会議以降、織田家宿老の中で勢力範囲を拡大しようとした意図があった―と実証され、少なくとも光秀と秀吉の間には対立関係はなかった事が判明しました。(…という事は、孫七郎が三好康長の養子だったのも本能寺の変以降という、別な史実も見えてきますね!)

いずれにしてもさしたる確証はなく、信憑性にかけるので、真実は「薮の中」なのが現状ですね!

※〔参照〕(書斎の窓)『証言 本能寺の変』

 

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