西郷隆盛の末弟で明治10年(1877)に勃発した西南戦争に参戦し、同年2月27日、熊本県玉名郡高瀬町(現、熊本県玉名市高瀬)での戦いにおいて政府軍の銃弾を受けて戦死した西郷小兵衛の遺体が、同県内の
遺体は現在、鹿児島市の南洲墓地(鹿児島県鹿児島市
詳細な記録を発見したのは熊本近代史研究会の会員の水野公寿さん=熊本市=で、熊本県立図書館(熊本県熊本市出水)が所蔵する『熊本県政資料』の明治期の記載部分から発見されました。
『熊本県政資料』は明治20年(1887)に編纂が始まり、全57部で編成されています。
『熊本県政資料』の記載によると、明治11年(1878)3月6日付で当時の熊本県
西郷南洲顕彰館(鹿児島県鹿児島市)の高柳毅館長によれば、
小兵衛の遺体が運ばれた経緯の記録は鹿児島県側には残っていないが、「賊軍の妻が自分の名前で改葬願を出せなかったので、薩軍に関わっていなかった親族の
西郷小兵衛は、薩軍の一番大隊一番小隊長に選任され、副司令格兼一番大隊指揮長となった
一番大隊は2月15日に鹿児島を出発し、同22日の本営軍議で一旦は
この点、小兵衛は「人格沈重にして思慮深い人物であった」と評されています。兄である西郷隆盛も年齢の離れた小兵衛を大層可愛がっていたそうで、兄の傍にいて、その言動や行動力に感化されて事で身についたのではないでしょうか。
小兵衛は熊本城の攻撃に加わった後、2月25日からは政府軍と菊池川を挟む形で稲荷山を巡って小競り合い、27日には
古老の話によると、小兵衛の遺体は永徳寺(熊本県玉名市永徳寺)付近の堤防に退避、焼け残った民家である橋本鶴松方の雨戸を1枚借り受けて、
現在、永徳寺側堤防上には昭和10年(1935)の小兵衛の命日に建てられた「西郷小兵衛戦死の地」という石碑が立っています。
水野さんの調査では、、小兵衛以外にも熊本県内に仮埋葬された戦死者に対する改葬願が把握できただけでも60件を超えていたとの事。
それこそ、戦争終盤になって死者が急増すると戦場でそのまま仮埋葬していたという事なんでしょうね。
また、当時薩軍本営の近くにあった
同じく『熊本県政資料』に記載がある『薩賊死亡姓名』という資料があるのですが、これは西南戦争によって熊本県内で死亡した薩軍兵士たちの所属部隊や出身地、年齢、死亡した日付や場所までが詳細に記載された名簿で、表紙に「川尻町圓寿寺(=延壽寺)不動堂ニテ」とあり、明治10年(1877)2月から同4月までに戦死した計1394人(但し、内102人は重複)が収録されているんですよね。
同寺の蔵原恒海住職によれば「『853名を仮埋葬した』という記録が残っている。後に遺骨を郷里に持ち帰った例も多い」と語っておられます。
水野さんによると、西南戦争直後、コレラが流行し、熊本県は明治10年(1877)12月と翌11年(1878)5月の2回、改葬禁止令を出しているのだとか―
西郷小兵衛らの改葬はその間(=明治11年3月6日)に許可されている事から、「恐らく一周忌頃に遺族からの改葬願が続出したため、明治11年に入って一時改葬を許可したのではないか」「熊本県は賊軍であっても丁重に改葬に応じている。薩軍幹部の遺体がどのようにして南洲墓地まで移されたかという経緯の一端が判った事に加え、戦後処理の大変さも読み取れる」と話している。
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