「朱蒙」異聞―召西奴南進、百済建国へ―

「朱蒙」召西奴

BSフジで放送されていた朱蒙チュモンが全81話を終了しましたね。朱蒙チュモンによる古朝鮮コジョソン領土の奪還へ夢と多勿タムル政策はまだまだ続く―って感じでエンドマークでしたね。

この朱蒙チュモンは、高麗時代にキム富軾プシクによって編纂された歴史書『三国史記サムグクサギ』の中に収載された『百済本紀』の分注の別伝に記された神話伝承や、同じく高麗時代に僧侶の一然イリョンが著したという『三国遺事サングクユサ』にある故事をベースにして、高句麗コグリョ初代国王とされる朱蒙チュモン東明聖王トンミョンソンワン)を主人公とし製作されました。

僕としては、先に「最近ハマってる韓ドラ!―『朱蒙』『商道』『海神』」でも注目していた様に、召西奴ソソノの動向がやはり気になるところでした。

役者さんとしては、「頑張れクムスン」を観て好感を持ったハン恵珍ヘジンさんだし、声優さんも坂本真綾さんだったから、一番ベストな配役だったですよね。

― ◇ ◇ ◇ ―

  • BC.37 朱蒙チュモン卒本チョルボン卒本扶余チョルボンプヨ高句麗コグリョ)を建国
  • BC.19 朱蒙チュモン崩御、瑠璃ユリ即位
  • BC.18 召西奴ソソノ沸流ピリュ温祚オンジョ百済ペクチェを建国
  • BC.06 召西奴ソソノが崩御
  • AD.22 高句麗コグリョ扶余プヨ(東扶余)を攻撃し帯素テソが敗死。扶余プヨ(東扶余)が帯素テソの弟を擁立し、曷思国カルサを建国

  • ―と、上に羅列したのは、ドラマの展開以降の出来事を集めて年表にしたものです。以下、史書・紀伝記を基に見ていきましょう。

    朱蒙 自北扶餘逃難 至卒本扶餘

    朱蒙チュモンは北扶余プヨから逃れて、卒本扶余チョルボンプヨ(現在の中華人民共和国遼寧省本渓市桓仁県)に辿り着いた。

    扶餘王無子 只有三女子 見朱蒙 知非常人 以第二女妻之

    扶余プヨ王(=延陀勃ヨンタバル)には男子がおらず、娘が3人いた。王は朱蒙チュモンが非才な人物だ、と観て取り、2番目の娘(=召西奴ソソノ)の婿とした。

    未幾 扶餘王薨 朱蒙嗣位

    やがて、扶余プヨ王は崩御し、朱蒙チュモンが即位した。

    及朱蒙在北扶餘所生子來爲太子 沸流・温祚…(中略)…遂與烏干・馬黎等十臣南行 百姓從之者多

    朱蒙チュモンの許に嘗て北扶余プヨに居た時の子である瑠璃ユリ(のちの第2代高句麗コグリョ国王・瑠璃明王ユリミョンワン)が訊ねて来て王太子となったので、召西奴ソソノは自分の故郷である卒本扶余チョルボンプヨの土地を去り、自分たちの国を建てようと沸流ピリュ温祚オンジョ烏干オガン馬黎マリョら10人の家臣とその一族、そして自身の部族である桂婁ケル部族の多くの民を従えて南方へ向かった。

    遂至漢山 登負兒嶽 望可居之地

    やがて一行は北漢プカン山(京畿道広州市)に至り、負兒嶽に登って辺りを見渡し、拠点となるべき場所を遠望した。

    沸流欲居於海濱 十臣諫曰 惟此河南之地 北帶漢水 東據高岳 南望沃澤 西阻大海 其天險地利 難得之勢 作都於斯 不亦宜乎 沸流不聽 分其民 歸彌鄒忽以居之 温祚都河南慰禮城 以十臣爲輔翼 國號十濟

    沸流ピリュは海浜を臨む場所を希望した。しかし、10人の臣下たちは「この土地は北には河川(漢水)が流れ、東には高く険しい山が聳え、南には肥沃な沼沢があり、西は大海(黄海)に阻まれており、天険の地の利があります」と言って、この地が都に相応しいと諌めますが、沸流ピリュは聞き容れません。そこで、民たちを分け、引き連れて彌鄒忽ミチュホル(現在の仁川インチョン広域市))に都を定めた。一方、温祚オンジョは10人の臣下たちの意見に容れ、臣下や残りの民衆と共に北漢プカン山(京畿道広州市)の河南に在る慰礼(山)城ウィレソン(現在の畿道広州郡)を都と定め、10人の臣下が補佐した事に因んで、国の名前を十済シプチェと定めた。

    沸流以彌鄒 土濕水鹹 不得安居 歸見慰禮 都邑鼎定 人民安泰 遂慙悔而死 其臣民皆歸於慰禮 後以來時百姓樂從 改號百濟

    沸流ピリュが移り住んだ彌鄒忽ミチュホルは、土地が大変な湿地帯で水も塩辛く、とても暮らしにくく、生活できる所ではなかった。沸流ピリュ温祚オンジョの様子を見に慰礼(山)城ウィレソンへ来てみると、そこでは皆が何の不足なく暮らしています。自分を恥じた沸流ピリュは、それを苦にして病気となり亡くなります。沸流ピリュの許に従っていた民たちも慰礼(山)城ウィレソンに帰属したので、十済シプチェの勢力は大きくなりました。温祚オンジョは、たくさんの民(=百)が楽しく暮らしている、という事から、国の名前を百済ペクチェと改めました。

    其世系與高句麗 同出扶餘 故以扶餘爲氏

    百済ペクチェの王族は、系譜が扶余プヨに連なるので姓を扶余プヨ姓に定めました。というのも、彼らの父の朱蒙チュモン扶余プヨの出であり、自分たちもまた扶余プヨの流れを汲んでいたからです。

    ―というのが、百済ペクチェの建国伝説です。

    ― ◇ ◇ ◇ ―

    さて、召西奴ソソノに関する記述としては―

    召西奴 卒本人延勃之女 始歸于優台 生子二人 長曰沸流 次曰温祚 優台死 寡居于卒本 後朱蒙不容於扶餘…(中略)…南奔至卒本 立都號高句麗 娶召西奴爲妃 其於開基創業 頗有内助 故朱蒙寵接之特 厚 待沸流等如己子 及朱蒙在扶餘所生禮氏子孺留來 立之爲太子 以至嗣位焉 於是 沸流謂弟温祚曰 始大王避扶餘之難 逃歸至此 我母氏傾家財 助成邦業 其勸勞多矣(『三国史記』卷第23 百済本紀第1 始祖 温祚王)

    ―とあり、さらに、召西奴ソソノが崩御した年についても、

    (百濟温祚王)十三年 春二月 王都老嫗 化爲男 五虎入城 王母薨 年六十一歳(『三国史記』卷第23 百済本紀第1 始祖 温祚王)

    ―と記載されています。召西奴ソソノは建国過程で朝鮮半島の中南部に位置する小諸国と交易をしながら冨を蓄え、建国に助力したと云います。

    ところが、召西奴ソソノと共に南進し、建国を果たした沸流ピリュ温祚オンジョですが、実際には何時の頃からか、兄弟間の争いが生じたようです。

    召西奴ソソノは母親として兄弟間の亀裂を修復しようと試み、その不和の原因が温祚オンジョの重臣烏干オガン馬黎マリョの策謀だと突き止めます。そこで彼らを粛清しようと、5人の将軍を従えて王都に入ったのですが…暗殺を察知していた彼らによって召西奴ソソノたちは逆に殺されてしまうのです。

    「王都から、老婆が男に身を変え、5匹の虎が入城したが、61歳の王母は死んだ」と記述されていますが、「5匹の虎」って一体、誰をイメージしますか?

    ドラマの流れから見たら、サヨンはいて欲しいよね?チャンスもいそうかな?意外な所では陝父ヒョッポもいたりして…ね(笑)(実は、陝父ヒョッポは、 AD3年以降、政事を疎かにし始めた瑠璃ユリに諫言したが、怒りを買ったために左遷され、これに不満を示し、南方に移住したそうなんですよね。そうなると、頼る所はサヨンの所しかないもんね!笑)

    召西奴ソソノが関わった人たちは皆いて欲しいな!生きるは恥、死んでこそ美徳なんだから…

    ― ◇ ◇ ◇ ―

    さらに気になるところでは、帯素テソですね。

    (大武神王)五年 春二月 王進軍於扶餘國南…(中略)…扶餘王擧國出戰 欲掩其不備 策馬以前 陷濘不能進退 王於是揮怪由 怪由拔劍號吼撃之 萬軍披靡 不能支 直進執扶餘王斬頭(『三国史記』卷第14 高句麗本紀第2 大武神王)

    帯素テソ、すなわち扶余プヨ国の息の根を止めたのは、朱蒙チュモン東明聖王トンミョンソンワン)の孫であり、瑠璃ユリ瑠璃明王ユリミョンワン)の子である高句麗コグリョ第3代の王となった無恤ムヒュル大武神王テムシンワン)でした。

    AD22年、無恤ムヒュル扶余プヨ南部に先制攻撃を仕掛けます。帯素テソは全兵力を率いて対抗しますが、高句麗コグリョの将軍怪由クェユによって殺され、扶余プヨは滅亡するのです。

    (大武神王五年)夏四月 扶餘王帶素弟 至曷思水濱 立國稱王 是扶餘王金蛙季子 史失其名 初帶素之見殺也…是爲曷思王(『三国史記』卷第14 高句麗本紀第2 大武神王)

    但し、帯素テソの弟が担ぎ出されて、中国のバックアップの下で曷思カルサ王(北扶余プヨ)として命脈を永らえます。(帯素テソの弟…ヨンポをイメージしちゃいますね…しかも、「帯素之見殺」とあります。ヨンポだったら遣りかねない?)

    ― ◇ ◇ ◇ ―

    結局、召西奴ソソノ卒本チョルボン扶余プヨを統合した国を建国するという目標を(朱蒙チュモン多勿タムル軍の合力を得て)達したが、自らの故郷である卒本チョルボン扶余プヨを去らねばなりませんでした。召西奴ソソノ48歳、沸流ピリュ30歳、温祚オンジョ25歳の時だと云われています。

    卒本チョルボン扶余プヨは、桂婁ケル沸流ピリュ椽那ヨンナ貫那クァンナ桓那ファンナの5部族で構成された部族国家でした。

    召西奴ソソノたち一行に付き従ったのは、桂婁ケル部族であったり、延陀勃ヨンタバル商団に心寄せていた人々だったと思います。

    ところが、高句麗コグリョに残った部族勢力とその後の動静を見た時、召西奴ソソノはどう感じていた事でしょう。

    高句麗コグリョは元々、桂婁ケル消奴ソノ絶奴チョルノ順奴スンノ灌奴カンノという5つの有力部族(五族という)を中心勢力として成り立っていきます。王は消奴ソノ部から、王妃は絶奴チョルノ部から出るのが慣習だったようです。

    したがって、初期の頃は各部族が自治権を持ち、独自に外交を行っていたため、王といっても部族の代表とにしか過ぎない力しかありませんでした。

    (瑠璃明王)二年 秋七月 納多勿侯松讓之女爲妃(『三国史記』卷第13 高句麗本紀第1 瑠璃明王)

    初期において、強大な権力を有していたのが沸流ピリュ部族の松讓ソンヤンでした。瑠璃ユリの妃は松讓ソンヤンの娘だったからです。

    そう考えた時、召西奴ソソノの選択肢は良かったの?って思っちゃいますよね。しかもその後、第6代のクン太祖王テジョワン)は桂婁ケル部族出身の王で、以降、5つの部族をまとめ王権を整えていくのですから…

    ― ◇ ◇ ◇ ―

    召西奴像


    朱蒙チュモンが国の基礎を築き上げ王になれたのは、召西奴ソソノの内助の功が大きかった故に、朱蒙チュモン召西奴ソソノを特別に愛し優遇し、自分の息子のように沸流ピリュに接した」(『三国史記サムグクサギ』百済建国期史)という記述は、女性蔑視が当たり前な史書や伝記の中では異例なほどのだし、それだけ召西奴ソソノを讃えている事が感じられますね。

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