(トピックス)やはり光緒帝は毒殺だったのか?!

中国・清朝第11代皇帝である光緒帝はやはり毒殺だった―

光緒帝の死因を2003年から調べてきた「国家清朝史編纂修工程重大学術問題研究専門プロジェクト」チームの「清朝光緒帝死因研究報告会」(以下、報告会)による報告では光緒帝は病死ではなく、急性胃腸性砒素中毒により崩御した」という発表がなされました。

光緒帝の死因に関しては、まず1980年に行われた光緒帝の墓陵「崇陵」発掘の際の遺体調査で発見された遺骨(頸椎)と遺髪には中毒の痕跡が見い出せず、外傷も存在しなかった事や、光緒帝に関するカルテ及び処方箋などが故宮に遺されていた事などから、病死の可能性が疑われなかった。

しかし、2007年に報告会によって、改めて遺髪や遺骨、衣服などを最新の科学技術を駆使して検査・分析した結果、遺髪の一部に人間の致死量をはるかに上回る、1000倍から2000倍の猛毒である大量の三酸化砒素が確認されました。

また、遺骨や衣服も砒素が残留している状況から、体内に吸収された砒素を急激に摂取した原因による中毒死の疑いが濃厚となりました。

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さて、この光緒帝という人物、ほんの幼少期に即位し、初期は叔母である西太后による垂廉朝政が為されていました。

この時期の清王朝は、度重なる外圧(日本による琉球侵攻=1876、ロシアによるイリ侵攻=1871、清仏戦争=1884~85=によるベトナム喪失、日清戦争=1894~95=による台湾喪失)によって、危機に瀕していました。

光緒帝は、日清戦争の敗北を契機に、自国の国力回復を強く望み、康有為ら変法派と接近して、変法運動への興味を強く持つようになります。

1898年(光緒24)6月、光緒帝は変法の詔勅を宣言するのですが、同年9月、既得権益を侵害される事を嫌った西太后と保守派らが、袁世凱ら軍閥の武力を行使して光緒帝を軟禁し、変法派の人間を処刑したのです。(戊戌政変)

そうして、10年間も軟禁され続けた光緒帝は1908年(光緒34)11月に38歳の若さで崩御。その翌日、西太后も74歳で病死します。

光緒帝と西太后の死亡時期が近いため、自分の最期を悟った西太后が自分の死後に光緒帝が権力を握らせないために人を使って光緒帝を毒薬したとの噂が当初から流布していました。

実際、『後功口述歴史』という書物には、光緒帝は死の直前に西太后から賜ったヨーグルトを食べたという礼部尚書の証言を載せています。

この点については、報告会は何ら追及していないようですが、この研究成果に関しては、国家清史プロジェクト編纂委員会による『清史』(2013年完成予定)に記載されるという事です。

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