歴史秘話ヒストリア「ぴあのすとおりい~ピアノが語る明治・大正・昭和~」(2)

今回もNHK総合で放送している「歴史秘話ヒストリア」の感想です。今回ピックアップされたのは、ピアノに情熱を傾けた方々のお話で、テーマは「ぴあのすとおりい~ピアノが語る明治・大正・昭和~」というもの。

エピソードのピックアップ(番組からの引用)―

エピソード2 大正・ふたりの天才ピアニスト

大正時代、日本に突如登場したふたりの天才ピアニスト。久野久子、小倉末子。
ふたりは、急激に西洋化が進む時代の中で、日本のピアノ芸術がついに西洋に追いつくのかともてはやされます。しかし、本人たちだけが感じていた西洋芸術の壁。ふたりは、栄光と悲劇、双方に彩られた人生を送ることに…。
日本人のピアニストはどう誕生したのか?―

最初の挙げる人物として、明治4年(1871))に第1回海外女子留学生として渡米し、10年間アメリカで過ごした永井繁(のちの瓜生うりゅう繁子)が浮かび上がります。

次いで、東京音楽学校瓜生繁子に教授を受けた幸田のぶが有名ですね。

時代が下って大正時代、2人の女流ピアニストが現れます―

片や久野くの久子。そして、もう一方が小倉末子です。

久野久子は、滋賀県大津市膳所町馬場(現、大津市馬場町)出身で、幼少期に近所の平野神社の石段から転落して右脚を負傷。久子の怪我の事実を隠した使用人のために適切な処置が受けられず、以降右脚に障害が残ります。(のちの事、ピアノのペダルが上手く踏めない程だったと云われています)。

しばらくして、久子は叔父に引き取られ、叔父の勧めで長唄や琴・三味線を習い、13歳の時に師範免状を授与されます。

しかしながら、「これからの音楽は邦楽ではなく洋楽」と邦楽の世界に限界を感じていた兄・弥太郎の勧めで、明治34年(1901)15歳の時に東京音楽学校に仮入学します。(当時の入学試験では専門実技はなく、邦楽実技が必修だったので、久子は難なく合格できたのだが、専攻すべきピアノについては仮入学してからのスタートをしている)

音楽学校の教官たちは、仮入学の久に対し、15歳という遅いスタートだという事、また、右脚の障害を考えた場合の適性などが問題視(これについては、退学勧告を受けた久子がすぐさま病院へ行って検査を受け、「支障ナシ」との診断書をもらって学校側に叩きつけている―)され、諦めて退学する事を奨めたと云います。

久子の成績は当初は芳しくなかったのですが、連日7時間以上に及ぶ猛練習を行って上達(「指から血が出るのも知らずに」練習したという…)し、実技成績もドンドン上がっていき、翌35年(1902)に東京音楽学校本科器楽科として正式に入学します。

明治39年(1906)には本科器楽科を主席で卒業し、研究科に進む傍ら、翌40年(1907)から助手を兼任します。

さらに明治41年(1908)に研究科を修了。そのまま教官(講師)として母校に残り、同43年(1910)に助教授に昇格します。

ところが、大正3年(1914)久子は交通事故に遭い、頭と胸を負傷。自動車事故で一時生死を彷徨うが翌4年(1916)に復帰します。

大正6年(1917)、東京音楽学校の教授に昇格します。

大正12年(1923)、文部省の海外研究員という名目(実は自費)で渡欧し、ドイツのベルリンで生活を始め、翌13年(1924)にはオーストリアのウィーンに移住。

翌14年(1925)、ウィーン郊外のバーデンでエミール・フォン・ザウアー(Emil von Sauer)に師事し、個人レッスンを受け始めます。

しかし、同年4月20日、バーデンの滞在中のホテルの屋上から中庭に投身。発見され病院に搬送されるが、約8時間後に死去。享年38歳。

自殺の原因として、師事したザウアーから基礎からのやり直しを言い渡された事に絶望したなどの憶測(現場近くに久子が演奏の難しさをメモした多くの楽譜が残されていたために…)が飛び交っている。

― ◇ ◇ ◇ ―

一方の小倉末子は、岐阜県大垣町(現・大垣市寺内町)出身で、幼少期に両親を失って以降は、貿易業者だった兄・庄太郎に引き取られ、神戸に移住します。

資産家である兄の邸宅にはピアノがあり、末は割と早い時期に兄の妻で義姉のマリア・ニッチェ(ドイツ・ベルリン出身の女性)からピアノの手解きを受けます。

その後、兄の奨めにより神戸女学院音楽科(現、神戸女学院大学音楽学部)に進学。

明治44年(1911)、東京音楽学校に入学するも、翌45年(1912)、マリアの進言によって留学を奨められ、東京音楽学校を中退。

同年、通訳として同行するマリアと共に、ドイツ・ベルリンに渡欧。ベルリン王立音楽院ピアノ科に見事合格し、カール・ハインリヒ・バルト(Karl Heinrich Barth)に師事します。

だが大正3年(1914)、第一次世界大戦が勃発したため、日本とドイツは国交断絶状態となり、末は戦禍を避けるためベルリンを去り、アメリカ・ニューヨークに渡ります。

この間、コンサートに出演して激賞(『ニューヨーク・タイムズ』)され、翌年のコンサート契約を勝ち取ります。

大正4年(1915)、シカゴのメトロポリタン音楽学校から招聘され、ピアノ科の教授に就任します。

大正5年(1916)4月、日本へ凱旋帰国し、同年5月、東京音楽学校の講師に就任。翌6年(1917)には教授に昇格します。

久野久子小倉末子は揃って同時期に東京音楽学校の教授に就任しています。それぞれに欧米に対し一歩も引けを取らないという期待が一心に集まります。しかし当の本人たちは欧米とのレベルの差を充分過ぎる程痛感していたのです。

久野久子の悲劇は、まさにそんな風潮での出来事でした。

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エピソード3 昭和・戦争とピアノ
太平洋戦争中、日米両軍は、ピアノを兵器とし、意外な方法で戦場に投入します。日本でピアノは、敵の潜水艦や戦闘機の音を聞きわけるための「音感教育」に使われ、一方、アメリカ軍は戦地用ピアノを開発し、兵士たちの士気を向上させます。そんな中、ひとりの日本人少女のピアノが、敵味方だった日本人とアメリカ人を結びつけます。外国の戦場から日本に連れてこられた外国人捕虜たちが、収容所の外から聞こえてくる少女のピアノを聴き、終戦後、感謝の気持ちを伝えに来たのです。
大正時代も末期の1920年代になると、ジャズが流行し始め、また、ラジオ放送の開始により、大衆文化が花開くとピアノもそのブームの一部として大衆に受け容れられます。

ところが、昭和に入り、戦時色の様相が強く表れると、ピアノは戦争の小道具として使われるようになり、そうした中で、小倉末子も否応なく、戦争という風潮の中に巻き込まれていきます。

太平洋戦争が勃発し、学校教育の場も愈々戦時色に染まり出すと、軍事教練などが幅を効かせ、末子たち芸術教科の教員たちは居場所を失っていきます。

芸術・文化の象徴でもあるピアノでさえ、軍務教育の一環として利用されるのです。

甲陽学院に現在残るピアノがあります。「聴覚」を戦争に役立てるという方針の下、「音感教育」に使われたのです。

陸軍船舶情報連隊(兵庫県西宮市)では対潜水艦警戒が任務となっていて、聴音機などを使って音波を発射し、その反射から魚雷なのか潜水艦なのかを判定をするための「音感教育」を育むためにピアノが使われたのです。

一方でアメリカ軍は、スタインウェイ&サンズ製の「ヴィクトリー・モデル」という戦地で使用するピアノが投入されます。その目的は海外で戦う兵士の慰問や士気高揚のためでした。

昭和19年(1944)、末子東京音楽学校を退職し、各地を巡って演奏会を開きます。過去に関東大震災(大正12年=1923)の時もピアノ演奏で慰問をしています。

ピアノが戦争に使用されていく様を、末子はどんな思いで見ていた事でしょう。末子は同年に死去。享年53歳。

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そんな戦時下も押し詰まってきた状況の中、1人の少女がある奇跡を起こすのです。

この少女の家に残されたピアノは小倉末子が生前に使っていたものだそうです。

実はこの少女は音楽学校に入学して小倉末子に師事する予定でした。

ところが、小倉末子の突然の死去に伴い、そのピアノを譲り受け、このピアノで毎日練習に励んでいました。

そんな少女の奏でるピアノの音色に温かな視線を送る人たちがいました。

それは外国人捕虜の人たちでした。

実は、少女の家の前には外国人捕虜の収容所があったのです―

それは昭和20年(1945)の夏の暑い盛り、少女がいつものようにピアノの練習をしていると、その演奏を収容所の捕虜たちが聴いていたようです。

その数は日に日に増え、収容所の屋根の上にずらっと並んで人だかりだでき、少女が奏でるピアノ演奏に聴き入っていたのだとか…

終戦後、この捕虜の人たちが帰国の途に着く前に少女の家にお礼の挨拶としてチョコレートなどの軍事物資を持参して訪問したそうです。

そして別れ間際、ジープに乗って帰国の途に着こうとする彼らは、少女に向かって、笑顔で何度も何度も手を振っていたのだとか―

これってまさに、“音楽に国境はない”って理念の実践ではないでしょうか。国籍や人種を超えて、小倉末子の想いと、それを受け継ぎ、奏で続けた少女の思いがピアノの音色にのって響き渡ったといってもいいのでしょうね。

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この秋、神戸女学院大学図書館本館において、「100年前の卒業生:世界が認めた最初の日本人ピアニスト小倉末子(1891~1944)の軌跡」という展示会が催されます。

期間は10月1日(金)~12月23日(木)まで。入場無料。詳細は神戸女学院大学企画広報室まで。

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※(関連)歴史秘話ヒストリア「ぴあのすとおりい~ピアノが語る明治・大正・昭和~」(1)→

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※(参照)大津市膳所出身のピアニスト―久野 久―(「Yagiken Web Site」)→
※(参照)母のピアノ…①(「michaela's diary」)→
※(参照)母のピアノ…②(「michaela's diary」)→
※(参照)ピアノ物語~エピソード2(「michaela's diary」)→


 

歴史秘話ヒストリア「ぴあのすとおりい~ピアノが語る明治・大正・昭和~」(1)

今回もNHK総合で放送している「歴史秘話ヒストリア」の感想です。今回ピックアップされたのは、ピアノに情熱を傾けた方々のお話で、テーマは「ぴあのすとおりい~ピアノが語る明治・大正・昭和~」というもの。

エピソードのピックアップ(番組からの引用)―

エピソード1 明治・武士とピアノ

明治時代、国産ピアノ開発に挑戦した職人・山葉寅楠(元紀州藩士)と東京音楽学校初代校長・伊澤修二(元信州高遠藩士)。ふたりの元武士は、西洋楽器の王様といわれるピアノの開発に果敢に挑みます。その背景には、西洋の仲間入りを目指そうという明治時代の日本人の強烈な思いがありました。
日本に最初にピアノをもたらしたのは、現在いまから187年前の文政6年(1823)から同12年(1829)まで長崎・出島のオランダ商館付医官として赴任したフィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold)で、イギリス・ロンドンのロルフ父子商会(William Rolf & Sons)が1814年(文化11)頃から1820年(文政2)にかけて製造したと思われるターフェルピアノ(独・蘭語)、またはスクエアピアノ(英語)と呼ばれていた5オクターブ半の鍵盤を持つピアノを日本にもたらします。

それから約60年後―日本初の国産ピアノが誕生します!

明治21年(1888)、元士族の出で、医療器具の修理工をしていた山葉やまは寅楠とらくす日本最初の本格的なオルガン(リード・オルガン)の製造に成功するのです。

元々、寅楠の父親が出仕先の和歌山藩で天文方を務め、天文暦数や土地測量・土木設計などの技師を担っていた事もあって、幼少時から機械いじりが得意でした。

寅楠は大阪でまず時計商の徒弟として奉公し、その後長崎のイギリス人の下で5年間時計の修繕法を学び、その後大阪の医療器具店に修理工として働きます。やがて、寅楠は大阪で店を構えますが失敗し、夜逃げ同然に東京へ逃げ出すのです。しかし、東京に出ても何一つ上手くいく事はなく、各地を転々とする中、浜松の県立病院で修理工を捜している事を知人から聞いて同17年(1884)頃にそこに就職。そこで医療器具の修理や時計など機械器具全般の修理などを請け負って生計を立てていました。

そんな寅楠に明治20年(1887)、浜松尋常小学校(現、浜松市立元城小学校)からアメリカ製のリードオルガンの修理の依頼があったのです。

ひょんな事からリードオルガンの修理を手掛けた寅楠は、リードオルガンの内部を調べ、その構造を細かく何十枚もの図面に模写し、故障の原因(→バネが2本壊れていた)を突き止め、約1か月後、オルガンを修繕したのです。

修繕をする過程で、寅楠はこの仕組みなら自分にも作れそうだという探究心が沸き、 オルガン作りへの夢が花開くのです。

寅楠は知り合いで飾り職人である河合かわい喜三郎きさぶろうに協力を仰ぎ、オルガンの製作に取り掛り、翌21年(1888)に国産第1号となるオルガンの製造に成功するのです。

― ◇ ◇ ◇ ―

早速、寅楠たちは浜松尋常小学校や静岡師範学校(現、静岡大学教育学部)に持ち込みますが、その評価は芳しいものではありませんでした。

どうやら音程がばらばらだったようなんですね。そこで、静岡県令(現在の静岡県知事)の関口隆吉(旧幕臣)に東京音楽学校(現、東京芸術大学音楽学部)の校長である伊沢修二を紹介してもらい、東京で調べてもらう事にしました。

寅楠喜三郎の2人は、天秤棒でオルガンを担いで運び、“天下の嶮”で名高い箱根の難所を越えて徒歩で250km先の東京へ向かいます。

東京に辿り着き、伊沢修二にオルガンをみてもらった2人ですが、伊沢の評価から「調律が不正確」な事が原因でした。

すっかり落胆した寅楠に対し、伊沢は調律の勉強を勧めます。そこで、寅楠は1か月程東京音楽学校で聴講生として調律や音楽理論を学びます。

この点、伊沢自身もアメリカに留学した際、元来、三味線や琴の音色に馴染んでいた日本人には感覚的に西洋の音階が上手く呑み込められず、かなり苦労した経験を持っていたのです。(※1)


※1
日本古来の雅楽や能楽、三味線などのメロディーは、黒鍵だけで弾けるような5音階(♪ドレミソラ)であった。それに対し、西洋のメロディーは、♪ドレミファソラシの7音階であるために、 育った音楽環境の違いから、7音階になかなか馴染めなかったようですね。

すなわち、ハ長調でいうところの4番目の♪ファと7番目と♪シの感覚が日本には馴染みがなかったのです。

そこで、考え出されたのかは知りませんが、日本古来の音階も含みつつ西洋の音階に似せるという感じで、長調の音の構成音を使った♪ドレミソラ♪の「ヨナ抜き音階」を創り出したのだとか…

明治初期の頃の日本の音名(階名)は主に、

1(ヒ)、2(フ)、3(ミ)、4(ヨ)、5(イ)、6(ム)、7(ナ)
と言っていました。これでみると、4番目の♪ファは「ヨ」、7番目と♪シは「ナ」になってますよね。

但し、西洋の音楽の中でも「ヨナ抜き音階」と同じ音階で出来ている曲―例えばスコットランド民謡の♪蛍の光―などは、馴染み易かったようですが…

こうした「ヨナ抜き音階」で作曲された楽曲って、例えば「上を向いて歩こう」、「木綿のハンカチーフ」、「北国の春」、「夢追い酒」、「昴」などが有名の様です。

これが明治後期に入って、西洋音楽が導入されて、

音名
英米式-C(シー)、D(ディー)、E(イー)、F(エフ)、G(ジー)、A(エー)、B(ビー)
独逸式-C(ツェー)、D(デー)、E(エー)、F(エフ)、G(ゲー)、A(アー)、H(ハー)
日本式-ハ、ニ、ホ、ヘ、ト、イ、ロ
階名
♪ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ド♪
※なお、フランスやイタリアでは音名と階名は統一されていて、♪ドレミファソラシ♪となってます。

という形になったんですね。


― ◇ ◇ ◇ ―

東京で調律法を身に付けた寅楠は、再び喜三郎と共にオルガンの製作を始め、その2か月後、第2号目のオルガンが完成するのです。

再び、箱根の山を越えたこのオルガンですが、この度は伊沢の前で素晴らしい音色を響かせる事になりました。(そのまま東京音楽学校に寄贈されます)

こうして、寅楠のオルガンが誕生し、さらに明治22年(1889)には合資会社山葉風琴製造所が設立されます。(オルガンの事を風琴と云っていました―)この山葉風琴製造所は出資引き揚げにより2年後に解散しますが、寅楠喜三郎らと共同で「山葉楽器製造所」として再出発し、明治30年(1897)日本楽器製造株式会社(現、ヤマハ株式会社)初代社長となります。

― ◇ ◇ ◇ ―

寅楠はその技術を基にかねてからの懸案だったピアノ製造へと着手します。

明治32年(1899)、寅楠はアメリカへ5か月間の視察旅行に出て、キンボールやメイソン&ハムリン、スタインウェイ&サンズなどを視察したり、生産加工機械を購入します。

アメリカから帰った寅楠はまず会社の組織を改変し、優秀な若い世代を抜擢していきます。その中には11歳で入社し、“発明小市”と呼ばれるなど才能を発揮する河合小市(のち河合楽器製作所創始者や山葉直吉(虎楠の姪の養子)、松山大三郎らがいました。

明治33年(1900)、いよいよ寅楠がアメリカで買ってきた加工機械を使って、国産第1号となるアップライトピアノを誕生させます。さらに、同35年(1902)にはグランドピアノを完成させるのです。

― ◇ ◇ ◇ ―

※(関連)歴史秘話ヒストリア「ぴあのすとおりい~ピアノが語る明治・大正・昭和~」(2)→


「幻の甲子園~戦時下の球児たち~」

幻の甲子園

今年で太平洋戦争終結から65年、今年も阪神甲子園球場において全国高等学校野球選手権大会が開催されますね。

今大会で第92回を迎えますが、過去に出場校が出揃っていたが米騒動の煽りを受けた第4回大会(大正7年=1918)や日中戦争の激化のため各地区大会の段階で開催が中止となった第27回大会(昭和16年=1941)、そして以降、昭和21年(1946)に再開するまでの4年間は戦争による中断が存在します。

ところが、昭和17年(1942)に全国大会が開催されていたのです。

実は、前年の昭和16年(1941)に全国大会が中止していましたが、「戦意高揚」を目的として、野球をやらせようと文部省(現、文部科学省)とその外郭団体である大日本学徒体育振興会主催という形で「大日本学徒体育振興大会」が開催される事となり、その競技の一部として、中等学校野球選手権甲子園球場で開催されます。

「戦意高揚」を目的とした分、軍事色が強く、スコアボードには「勝って兜の緒を締めよ 戦い抜こう大東亜戦」というスローガンが掲げられたり、ユニフォームのロゴもローマ字から漢字に変更されました。また「打者は球を避けてはいけない。球に当たっても死球にならない」といった特別ルールも存在した程です。

そうして、大会が開催されたにも拘らず、この年の大会の主催が全国中等学校野球連盟と朝日新聞社ではなく、文部省(現、文部科学省)の主催だったために正式な歴史としては数えられず、“幻の甲子園”と呼ばれています。

朝日新聞社から「大会の回数継承」と「優勝旗の使用」を文部省(現、文部科学省)側に申し入れたのですが、文部省(現、文部科学省)が却下したために、現在に至っても全国高等学校野球選手権大会の公式記録としては個人レベルの記録でさえも認められてはいないのです―

この“幻の甲子園”と呼ばれた大会のデータを以下掲載しますね。

◆出場校:16校(岩手県、福島県、山梨県、富山県、島根県、沖縄県、朝鮮、満州は不参加)

○北海道大会=北海道(札幌地区のみ、釧路・旭川・函館・小樽地区では未開催)
→北海中(札幌地区)4-2 札幌二中(現 札幌西、札幌地区)

(旧来)奥羽大会=青森県、岩手県、秋田県
(旧来)東北大会=山形県、宮城県、福島県
○東北大会=青森県、岩手県、秋田県、山形県、宮城県、福島県
→仙台一中(現 仙台第一、宮城県)6-2 弘前工(青森県)

(旧来)北関東大会=茨城県、栃木県、群馬県
○北関東大会=茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県
→水戸商(茨城県)4-0 桐生中(現 桐生、群馬県)

(旧来)南関東大会=埼玉県、千葉県、神奈川県
(旧来)東京大会=東京府(※)
○南関東大会=千葉県、東京府、神奈川県
→京王商(現 専修大附、東京府)7-6 帝京商(現 帝京大高、東京府)

※ 東京府
東京府とは、慶応4年(1868)7月17日から昭和18年(1943)6月30日まで存在していた日本の行政単位の1つ。


(旧来)山静大会=山梨県、静岡県
(旧来)信越大会=新潟県、長野県
○甲信静大会=山梨県、長野県、静岡県
→松本商(現 松商学園、長野県)6-0 静岡商(静岡県)

(旧来)北陸大会=富山県、石川県、福井県
○北陸大会=新潟県、富山県、石川県、福井県
→敦賀商(現 敦賀、福井県)8-4 金沢商(石川県)

(旧来)東海大会=愛知県、岐阜県、三重県
○東海大会=愛知県、岐阜県
→一宮中(現 一宮、愛知県)3-2 岐阜商(現 県岐阜商、岐阜県)

○京津大会=滋賀県、京都府
→平安中(現 龍谷大平安、京都府)7-0 膳所中(現 膳所、滋賀県)

○大阪大会=大阪府
→市岡中 (現 市岡)7-5 浪華商(現 大体大浪商)

(旧来)紀和大会=奈良県、和歌山県
○近畿大会(三重県、奈良県、和歌山県
→海草中(現 向陽、和歌山県)5-0 天理中(現 天理、奈良県)

(旧来)兵庫大会=兵庫県
(旧来)山陰大会=鳥取県、島根県
(旧来)山陽大会=岡山県、広島県、山口県
○東中国=兵庫県、岡山県、鳥取県
→滝川中(現 滝川、兵庫県)6-0 鳥取一中(現 鳥取西、鳥取県)
○西中国=広島県、島根県、山口県
→広島商(広島県)5-0 萩商(山口県)

○四国大会=香川県、徳島県、愛媛県、高知県
→徳島商(徳島県)2-1 松山商(愛媛県)

○北九州大会=福岡県、佐賀県、長崎県
→福岡工(福岡県)6-5 豊国商(現 豊国学園、福岡県)

○南九州大会=熊本県、大分県、宮崎県、鹿児島県、沖縄県
→大分商(大分県)1-0 熊本工(熊本県)

○台湾大会
→台北工(現 台北科技大学)4-2 高雄中(現 高雄中)

○朝鮮大会
○満洲大会

◆試合結果
◇1回戦
京王商 000 000 000 100 00 =1
徳島商 000 000 000 100 01X=2(延長14回)

水戸商 000 104 004= 9
滝川中 000 000 030= 3

台北工 100 000 000 1 = 2
海草中 000 000 001 2X= 3(延長10回)

敦賀商 000 001 002= 3
福岡工 200 035 01X=11

市岡中 000 000 000= 0
平安中 003 000 00X= 3

一宮中 301 020 010= 7
松本商 200 000 000= 2

北海中 001 000 100= 2
広島商 203 002 30X=10

大分商 020 000 000= 2
仙台一 110 000 01X= 3

◇2回戦
水戸商 000 000 000= 0
徳島商 000 000 10X= 1

海草中 031 000 001= 5
福岡工 110 000 000= 2

平安中 100 000 001= 2
一宮中 000 000 000= 0

仙台一 003 002 320=10
広島商 300 301 174X=28

◇準決勝
徳島商 000 000 100=1
海草中 000 000 000=0

広島商 000 0
平安中 000 0(5回途中ノーゲーム)

広島商 301 000 000=4
平安中 000 040 40X=8

◇決勝
平安中 100 001 040 01 =7
徳島商 010 000 500 02X=8(延長11回)

という様に、見事、徳島商が県勢として初めての全国制覇を成し遂げました。しかし、徳島商のこの優勝は公式記録には残りません。ただ、優勝した証として1枚の賞状だけが渡されました。(※1)


※1 この賞状ですが、昭和20年(1945)の徳島大空襲で焼失してしまったそうです。その後、昭和52年(1977)に改めて文部省(現、文部科学省)から賞状と優勝盾が贈られているとの事。

そんな球児たちの熱い想いをドキュメントした番組が放送されます―8月7日(土)にNHK総合で放送される「幻の甲子園~戦時下の球児たち~」(午後8時~8時45分)という番組です。概要はこんな感じ―

昭和17年(1942)、太平洋戦争の期間中、ただ一度だけ行われた夏の甲子園大会。球児たちは、戦場へ向かう前に甲子園で野球をやりたいと夢見た。その切実な思い故、この年の甲子園は異様な熱気に包まれた。ところがこの大会は、高校野球の公式記録には一切残されなかった。あの汗、あの涙、球児たちの熱戦は、幻であったのだろうか…

実は、「幻の大会」の主催者は朝日新聞社から強引に開催権を奪った文部省であった。軍の協力の下、甲子園を戦意高揚のために利用しようとしたのである。スコアボードには、「戦い抜こう大東亜戦」というスローガンが掲げられ、軍隊式ルールが野球の姿を歪めた。

それでも球児たちは精一杯白球を追い、大会の後は野球への思いを断ち切り戦場へ赴いた。沖縄戦、原爆の惨禍、そしてシベリア抑留。過酷な運命に翻弄された球児たちは何を思い、どう生きたのか。甲子園大会のはじまる8月7日、歴史に埋もれた大会を映像で再現し、元ちとせさんがテーマソングを歌って球児たちの魂を蘇らせる。野球を愛する多くの日本人と共に、戦争の時代を生きた球児たちへ深い鎮魂の祈りを捧げたい―
現在の高校球児たちと同様に甲子園目指して日々頑張っていた球児の皆さんにとって、甲子園という舞台は主催者が何であろうと関係ないはず…彼らの熱い想いを受け止めてみませんか!

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※(関連)幻の甲子園―兵庫県予選(日めくりアマチュア野球)→
※(関連)幻の甲子園 京王商(☆甲子園出場校ぶらり散策日記)→
※(関連)高校野球の100年(徳島の20世紀)→
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※(参照)「出口のない海」→


歴史秘話ヒストリア「妻の私が支えねば~天平のスーパーウーマン・光明皇后~」

「歴史秘話ヒストリア」から光明皇后

NHK総合で放送している「歴史秘話ヒストリア」を観ました。今回、ピックアップされたのは、光明こうみょう皇后「妻の私が支えねば~天平のスーパーウーマン・光明皇后~」というテーマでの進行となります。

まずは予習として、

Q.光明皇后って誰?―

光明皇后は奈良時代の女性で、聖武天皇の皇后。父は藤原不比等、母はあがた犬養いぬかい三千代(橘三千代)。名は安宿あすかべのひめ。通称として、光明皇后光明子こうみょうし藤三娘とうさんじょうなど、と呼ばれています。以下、簡単な略歴を掲載―

大宝元年(701)安宿媛、藤原不比等と県犬養三千代(のち橘三千代)との間の三女として誕生
和銅4年(714)おびとの皇子(のちの聖武天皇)元服・立太子
霊亀2年(716)安宿媛(光明子)、首皇子の夫人ぶにん(律令制における天皇の后妃の称号で、皇后・妃に次ぐ地位)となる
養老2年(718)光明子、阿倍皇女(阿倍内親王、のちの孝謙・称徳天皇)を産む
養老7年(723)興福寺に施薬院せやくいん(中世以降は“やくいん”)・悲田院ひでんいんを建てる
神亀元年(724)首皇子が即位し、聖武天皇となる
神亀4年(727)聖武天皇、光明子との間に皇子某王誕生、皇太子とする
神亀5年(728)皇太子某王薨去こうきょ
神亀6年(729)長屋王の変
天平元年(729)藤原夫人光明子、聖武天皇のみことのりにより皇族以外から初めての人臣皇后(光明皇后)となる
天平元年(729)皇后宮職が設置される
天平2年(730)興福寺に施薬院・悲田院を置く
天平9年(737)疫病(天然痘)が大流行し、光明皇后の兄弟である藤原四子(武智麻呂むちまろ房前ふささき宇合うまかい麻呂まろ)が相次いで薨去
天平10年(738)阿倍内親王(のちの孝謙・称徳天皇)を皇太子とする。
天平13年(741)国分寺、国分尼寺建立の詔が発せられ、その際に光明皇后は父・不比等の遺産の内から封弧3000戸を国分寺に施入する
天平16年(744)安積親王薨去
天平17年(745)旧皇后宮を宮寺に改める(法華寺=総国分尼寺、法華滅罪之寺=の創建)
天平19年(747)光明皇后、新薬師寺を建立。
天平21年(749)聖武天皇及び光明皇后、大僧正・行基を戒師として受戒し、出家する。聖武天皇の法名は「勝満」、光明皇后は「万福」と号す
天平勝宝元年(749)安倍内親王が即位して孝謙天皇となる
天平勝宝元年(749)皇后宮職を紫微中台しびちゅうだいに改める
天平勝宝4年(752)東大寺金堂(大仏殿)の盧舎那るしゃな仏坐像が完成し、開眼供養が催される
天平勝宝8歳(756)聖武太上天皇崩御
天平宝字4年(760)光明皇太后逝去せいきょ
―というように、

聖武天皇が皇太子の時代に結婚し、やがて阿倍内親王を出産。聖武天皇の即位に伴い、夫人の官位を授かります。

待望の皇子某王を産みますが、わずか1年後に夭折してしまいます。

長屋王の変後、聖武天皇より皇后にするとの詔が発せられて立后。王族以外から初めて立后した例となります。

その後、娘である阿倍内親王(のちの孝謙・称徳天皇)の立太子及び即位に伴い、臨時朝政をする意味で、皇后宮職を紫微中台と改称し、甥である藤原仲麻呂(恵美えみの押勝おしかつ)を長官に任じて様々な施策を行います。

夫である聖武太上天皇が崩御すると、後を追うかのようにその2年後に逝去します。

光明皇后は能書家としても知られており、正倉院に所蔵されている『楽毅がっき論』(=おう羲之ぎしの『楽毅論』を臨書した名品。「天平十六年十月三日藤三娘」と署名されてある)は有名な作品の1つである。

また、光明皇后は篤く仏教に帰依していて、『続日本紀』に記載された光明皇后逝去の条には、
東大寺、及び天下国分寺を創建する者は、本太后の勧むる所なり
との記述がみられ、光明皇后が聖武天皇>に東大寺、国分寺の建立を勧めた可能性を示唆しています。

仏教の庇護者としても様々な伝説も伝えられていて、

また貧しい人に施しをするための施設「悲田院」、医療施設である「施薬院」を設置し、慈善事業を催すなど、今日の社会福利厚生事業の先駆者としても有名である。

以下、エピソーソのピックアップ(番組からの引用)―

エピソード1 バリバリ働く皇后様登場!

奈良時代初め、聖武天皇の妻になった光明皇后。しかし、当時は天災や争乱が続く混乱の時代。仏教に深く帰依した光明皇后は民衆を救うため医療施設の運営など慈善事業に着手します。さらに災いが収まることを願い仏教を中心とした国造りを積極的にすすめていきます。聖武天皇の事業とされる大プロジェクトをプロデュースしたのも、実は光明皇后でした。

エピソード2 ようこそ!幻の巨大寺院へ

2年前に奈良市で見つかった巨大寺院の跡。光明皇后が聖武天皇の病気回復を願い建立し、平安時代に倒壊後、行方がわからなくなっていた新薬師寺の金堂跡と推定されました。古代建築や仏教美術の専門家が1年以上かけ、発掘成果の分析や古文書の解読などから幻の巨大寺院をCG復元。光明皇后の力と祈りの強さを伺わせる絢爛豪華な仏の大宇宙の全貌を紹介します。

エピソード3 妻の私が支えねば

跡継ぎの男子に恵まれなかった聖武天皇と光明皇后は長女の阿倍内親王を女性初の皇太子にします。しかしこの異例の人事に光明皇后の実家、藤原氏の台頭を危惧する他の貴族が反発、争乱がおこります。聖武天皇は病状が悪化し譲位。阿倍内親王が孝謙天皇として即位しますが、貴族の反発が強く経験も少ない彼女では国政がさらに混乱することは明らかでした。この事態に光明皇后は自ら政治の前面に立ち、中国の女帝・則天武后にならった改革を始めますが…

観てへんかった!って方は、再放送でチェックして観て下さい。
― ◇ ◇ ◇ ―

実は、この光明皇后を採り上げる回は先に予告編を観た段階で興味を持っていたのですが、実際に観てかなり収穫のあった内容でしたね。

私にとって、光明皇后へのイメージはほぼ里中満智子さんの『女帝の手記―孝謙・称徳天皇物語』の影響力が強く、その印象は“藤原氏をベースに権力に執着した人”ってなモノでしたが、藤原氏に限らず、国家ないしは民衆に向けてアプローチする姿はまさに新しい発見となりました。

加えて、ちょうど執筆途中の「武則天と武周革命」であったり、来月からCSで始まる「北魏馮太后」のネタを一層充実させ得るものでした。

そして、もう1つは今回、光明皇后役を演じられた坂本真衣さんという女優さん、結構役どころにハマってた感じです。(これが一番のキーポイントだったりする…笑)

これからドンドン時代劇モノに出演されへんかな、期待しよ!

ハイビジョン特集「銀閣よみがえる~その500年の謎~」

NHK BS-hiで放送されたハイビジョン特集「銀閣よみがえる~その500年の謎~」を観ました。

室町幕府第8代将軍・足利義政によって創建された東山殿(山荘)。現在は“銀閣寺”として親しまれるこの名刹で、大正2年(1913)以来となる3年がかりの大規模な解体調査・修理が行われました。

その結果、明らかになった様々な新事実から、今とはかなり違う創建当時の“銀閣寺”の様子が浮き彫りになったのです―
といった内容だったのですが、“銀閣”について、いささか書こうと思います。

― ◇ ◇ ◇ ―

“銀閣寺”、正式には臨済宗相国寺派、東山とうざん慈照寺と言います。

開基(創立者)は、室町幕府第8代将軍・足利義政、開山は夢窓むそう疎石そせきとされています。夢窓疎石は実際には創建時より1世紀程前の人物であり、このような例を勧請開山と云います。

義政は、寛正6年(1465)頃から東山殿経営のための土地の選定をしていたようです。しかし、間もなく起こった応仁・文明の乱(1467~1477)により、計画は一時頓挫してしまいます。

争乱の最中にある文明5年(1473)、嗣子・義尚よしひさに将軍職を譲った義政は、 同12年(1480)頃より東山殿造営の計画を再開します。

そして、候補地として嘗て弟の義視よしみが居していた東山山麓の浄土寺が戦乱により焼失し、荒廃したままであるのに着目し、同14年(1482)、待望の東山殿の造営を始めます。

去四日武家浄土寺山荘事始(『後法興院政家記』文明14年2月8日条)
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東山殿のモデルとなったのは、現在、“苔寺”として有名な西芳寺である(※1と云われています。

それは義政西芳寺に足繁く参詣していた以下の回数によっても明らかです。

・長祿元年(1457)3月14日、
・長祿2年(1458)2月30日、10月3日、
・長祿3年(1459)3月10日、10月7日、
・寛正元年(1460)3月20日、
・寛正2年(1461)2月27日、6月20日、10月4日、
・寛正3年(1462)6月23日、10月11日、
・寛正5年(1464)2月27日、
・寛正6年(1465)10月5日、
・文正元年(1466)閏2月21日、
・文明12年(1480)10月9日、

また、東山殿が如何に西芳寺を意識していたかをその伽藍配置を文献に記載された建造物から比較検討してみると、

西芳寺   東山殿
西来堂 … 東求堂
縮遠亭 … 超然亭
瑠璃殿 … 観音殿
邀月橋 … 龍背橋
指東庵 … 西指庵
湘南亭 … 釣秋亭
潭北亭 … 弄清亭
向上関 … 太玄関
合同船 … 夜泊船
の様に、見事な程に対応しており、東山殿西芳寺をモデルとして造られた様子が浮かび上がってきますね。


※1

但し、現在の西芳寺が“苔寺”と呼ばれる様になったのは、江戸時代末期の大洪水で枯山水かれさんすいの庭園が苔で覆われて以降の話であり、義政が参考にしたのは、“苔寺”と呼ばれる以前、すなわち創建当時の西芳寺の姿でしょうね。

― ◇ ◇ ◇ ―

当時は応仁・文明の乱が終息した直後で京都の経済はかなり疲弊していましたが、義政は前将軍という立場を大いに活用し、諸国に段銭たんせん(=臨時の税)や夫役ぶやく(労役)を課したり、鹿苑禅寺から石や松などを徴収するなどして、1年余りの工期を経て完成に至ります。

文明十五年癸卯六月廿七日、准三宮大相公(=義政)初移東山新府、…(中略)…天子(=後土御門天皇)降勅、賜名東山殿横川おうせん景三けいさん作詞「洞庭秋月」より、『補庵ほあん京華けいか別集』)文明15年6月27日条)
まず、つねの御所(日常生活の場)が落成し、次いで同17年(1485)に西指庵、翌18年(1486)には東求堂(持仏堂)、長享元年(1487)には御会所(文芸や遊芸、接客など社交のための場)、弄清亭が完成します。そうして同3年(1489)に念願の観音殿(“銀閣”)の上棟が行われます。

造営工事は義政の死の直前まで8年にわたって続けられましたが、義政自身は東山殿の完成を待たず、延徳2年(1490)正月に死去しまったので、その遺言により東山殿を禅寺に改め、相国寺の末寺「東山慈照寺」として創始されます。

戦国の世になり、慈照寺は何度となく、戦火にまみれます。それは、上述の中尾山に造られた物見櫓の存在でも判る様に慈照寺の場所が戦略上のポイントになっていたがために

第13代将軍・義晴及び第14代将軍・義輝三好勢との合戦、とくに永禄元年(1558)の如意ヶ岳の戦いにおいて勝ち誇った三好勢の掠奪行為などにより戦火にまみれ、東求堂と観音殿を残して大半の伽藍が焼失し、荒廃してしまいます。

東山殿の御旧蹟名のみ。あばらやの民の家にまじりて一宇見えおわんぬ(『多聞院日記』元亀元年3月20日条)
その後、天正13年(1585)より慶長17年(1612)の死去するまでの間、近衛前久さきひさの邸宅になっていました。

これは慈照寺の歴代住持に近衛家出身者が多かった事や足利将軍家近衛家との婚姻関係にも関係があったのだと思われますが、実のところは近衛前久慈照寺の土地を押領していたようです。

前久の死後、慈照寺の土地は還付され、再び相国寺の末寺として再興されます。

― ◇ ◇ ◇ ―

慈照寺の復興計画が動き出したのが慶長20年(1615)6月の事で、宮城丹波守豊盛普請奉行に庭園が大改修され、

丹波(=豊盛)慈照古寺再建す。池水をうがち、庭を掃き除き、梵字一新す。新奇観る可し(『鹿苑日録』慶長20年閏6月17日条)
と生まれ変わり、さらに寛永16年(1639)には、その孫である豊嗣によって方丈(本堂)が再建されるなど、大々的な修理事業が施される、という様に、観音殿(“銀閣”)の位置といい、景観といい、ほぼ現在の慈照寺に等しい姿に整備されたのです。

そうした意味合いから、現在の慈照寺については、多分に宮城氏一族の作品といっても過言ではないと思われます。

という事は、現在そびえ立つ銀閣宮城氏一族がその当時描いていた構想を具現化したもの―という解釈もできますね。

つまり、義政が構想していた東山殿当時の銀閣=観音殿とは幾分かイメージが異なるかもしれない―という事だって考えられるのです。

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観音殿(“銀閣”)は創建時に銀箔が押されていたかどうかを巡って様々な論議が繰り返されてきました。すなわち、

  • 金箔で押された義満鹿苑寺舎利殿(“金閣”)に対し、観音殿(“銀閣”)も銀箔が押されていた

  • 当初は銀箔を押す予定であったが、幕府の財政事情か、あるいは義政の死去で実現しなかった

  • 錦鏡池の反射光が漆塗の外壁に映って銀色に輝いて見えた
等々―様々な諸説が飛び交っていたのですが、

観音殿(“銀閣”)が上棟された長享3年(1489)から85年が過ぎた天正2年(1574)に描かれたという『洛中洛外図屏風』には「東山殿」と記載されている。

江戸時代に入った万治元年(1658)に刊行された『洛陽名所集』には「慈照寺」と記載され、

銀薄にて彩しければ、銀閣寺とも云うなり
との補足があるので、この頃から “銀閣寺”の名で呼称されたようです。

さらに下って幕末頃の元治元年(1864)に刊行された『花洛名所図会ずえにはもう完全に「銀閣」との記載がなされています。

― ◇ ◇ ◇ ―

現在、“銀閣寺”への参詣に訪れる観光客の見処の1つとなっている向月台こうげつだい銀沙灘ぎんしゃだんですが、これらは江戸時代後期に造られたもので、創建時の足利義政の構想には全くなかった代物です。

享保20年(1735)刊行の『築山庭造伝』には未だ記載がありません。

安永9年(1780)刊行の『都名所図会』には両者共に見られますが、向月台は高さが低く、渦巻き状態で描かれています。

寛政11年(1799)刊行の『都林泉名勝図会』にも両者が描かれているが、銀沙灘の形が変化しており、向月台も僅かだが盛り上がっています。

元治元年(1864)刊行の『花洛名所図会』には現在と同じ姿で描かれています。

つまり、観音殿(“銀閣”)も住む場所から、物見遊山=観光の場所へと変貌した事がこうした変遷から浮かび上がってきますね。

これらは、江戸時代になって“銀閣寺”へ参詣に訪れる観光客の目を惹こうとして考え出されたアイデアだった訳です。

― ◇ ◇ ◇ ―

さて、平成19年(2007)に行われた調査で、X線による元素分析とICP/MS(誘導結合プラズマ質量分析法)という極少量の元素も検出可能な検査方法によって、外壁の一部から試料を採取して実施された結果、銀は検出されませんでした。すなわち、創建当時から銀箔は押されていなかったのです。

その代わり、新しい発見がありました―

2階の外壁に塗られた彩色の成分分析を行った結果、白土と明礬みょうばんが検出されました。

実験的に、檜材の上に漆を塗って下地を作り、その上に接着剤としてにかわを加えた白土を塗り重ねた結果、鮮やかな白さが彩られたのです。

そうなると、“銀閣”の由来というのは銀箔が押されていた事で銀色の輝きを照らしていた訳では決してなく、白土が外壁に塗装されていた事で、鮮やかな白さが月の光に映えて、銀色のように輝いて観えたから“銀閣”の呼ばれたのでしょうね?