❝天下の嘉農❞―嘉義農林、昭和6年の夏~映画「KANO 1931海の向こうの甲子園」

映画「KANO 1931海の向こうの甲子園」

毎年、夏場になるとお馴染みの“夏の甲子園”、すなわち全国高等学校野球選手権大会が開催されますが、その第1回目の大会=第1回全国中等学校優勝野球大会が催された大正4年(1915)から今年で100周年目を迎えようとしています。

私自身、高校野球ファンで、小学校4年生の夏(=第56回大会・昭和49年=1974)の頃から昭和63年(1988)のは第60回選抜高等学校野球大会までは春夏連続で甲子園球場まで観戦に通ってた程でした。

一番盛り上がっていたのが故尾藤公監督率いる和歌山県立箕島高等学校が活躍した頃である昭和52年(1977)から同55年(1980)の時期でしら。予選の頃から新聞記事をスクラップブックに貼って整理したり、本大会が始まると注目する試合はスコアブックを付けたり、と一番熱中していた感じで…(笑)

そうした状況でも歴史好きな自分の一面が生じてしまうのは仕方のない話で…やはり高校野球の歴史っていうか、過去の大会はどんな盛り上がりを見せたのだろうかというのが気になって調べたりもしたんですよね(笑)

今回はそんな過去の大会の歴史から―

時は中等学校野球大会が開催されていた時分、日本が大日本帝国と名乗っていた頃のお話です。

この頃は、植民地して、朝鮮半島、満洲地区(関東州)や台湾などの外地も領有していましたので、大会には外地からの出場校もありました。
  • 朝鮮代表 → 第7回大会(大正10年=1921)から参加
  • 満洲代表 → 第7回大会(大正10年=1921)から参加
  • 台湾代表 → 第9回大会(大正12年=1923)から参加
これらの地区の代表は戦争のために中断する第27回大会(昭和16年=1941)まで続きました。
そんな外地からの出場校のうち、一際異彩を華って輝いたのが、
  • 第12回大会(大正15年=1926)の満洲代表・大連商業学校(現在の大連三十六中学校)の準優勝
  • 第17回大会(昭和6年=1931)の台湾代表・<台南州立strong>嘉義農林学校(現在の国立嘉義大学)の準優勝
などでした。

― ◇ ◇ ◇ ―

さて、昨年、台湾で1つの映画が上映されました―
KANO(KANO 1931海の向こうの甲子園)
というタイトルの映画です。すなわち、上記に挙げた台湾代表・台南州立嘉義農林学校が準優勝した際のエピソードを取り上げて物語化したものです。


あらすじはこんな感じ―

海を越え、民族を超えて、僕らは同じ夢を見た。
1931年、甲子園、台湾代表。
日本中を感動で包み込んだ伝説の試合。
台湾から、まだ見ぬ甲子園、そして決勝へ。
弱小チームが起こした奇跡の実話。
1931年、日本統治時代の台湾から甲子園に出場し、決勝まで勝ち進んだ伝説のチームがある。嘉義農林学校野球部。KANO。それまで1勝もしたことのなかった弱小チームが甲子園を目指し、大人たちや他校の嘲笑をよそに予選で快進撃を始める。その陰には、かつて名門・松山商業を監督として率いた近藤兵太郎の特訓があった。守備に長けた日本人、打撃力のある台湾人(漢人)、俊足の台湾原住民。それぞれの強みを生かし、分け隔てない指導で育てられた彼らは、ついに甲子園への切符を手にする。
多感な少年時代の叶わぬ恋、夢半ばに去る卒業生、厳しい生活に野球を続けることを悩む者―。様々な思いを背負い、彼らは海を越える。無名のは甲子園でも強豪を破り勝ち進んだ。そのひたむきなプレーは、やがて多くの観客の共感を呼び起こす。迎えた決勝戦。一球たりともあきらめない渾身の姿にスタンドから熱い声援が拡がる。「天下の嘉農、天下の嘉農」。皆が、心からのエールを送りながら、一球一球に固唾をのみ、試合の行方を見守っていた―

嘉義農林の出場登録メンバーは、

嘉義農林、甲子園準優勝メンバー
  • 部 長・濱田次箕
  • 監 督・近藤兵太郎
  • 投 手・呉明捷 選手(台湾人)…主将
  • 捕 手・東和一 選手(アミ族…本名ラワイ)
  • 一塁手・小里初雄 選手(日本人)
  • 二塁手・川原信男 選手(日本人)
  • 三塁手・真山卯一 選手(アミ族…本名マヤウ)
  • 遊撃手・上松耕一 選手(プユマ族…本名アシワツ)
  • 左翼手・平野保郎 選手(アミ族…本名不詳)
  • 中堅手・蘇正生 選手(台湾人)
  • 右翼手・福島又男 選手(日本人)
  • 補 欠・崎山敏雄 選手(日本人)
  • 補 欠・里正一 選手(日本人)
  • 補 欠・谷井公好 選手(日本人)
  • 補 欠・積真哉 選手(日本人)
  • 補 欠・劉蒼麟 選手(台湾人)
の皆さんで、彼らは民族を超えて、"甲子園で力を発揮する"という1つの 夢を目指したんですね!
それでは、嘉義農林の甲子園までの戦績及び甲子園での戦績を詳しく視ていきましょう!

昭和6年(1931)第17回中等学校野球
○台湾予選
1回戦(7/19)○15- 0 台中一中
2回戦(7/21)○17-10 台中二中
準決勝(7/22)○14- 3 台南一中

嘉義農林、台湾大会決勝でのスコアボード

決 勝(7/23)○11-10 台北商業
 嘉義農 123 011 010 2=11
 台北商 000 420 003 1=10
○本大会
1回戦(8/15)○3-0 神奈川商工(甲神静代表=山梨、神奈川、静岡)
 嘉義農 000 000 210=3
 神商工 000 000 000=0
2回戦(8/18)◯19-7 札幌商(北海道代表)
 札幌商 300 010 300=7
 嘉義農 430 004 26X=19
準決勝(8/20)◯10-2 小倉工(北九州代表=福岡、佐賀、長崎)
 小倉工 000 000 020=2
 嘉義農 210 000 25X=10
決 勝(8/21)●0-4 中京商〔現、中京大中京〕(東海代表=愛知、岐阜、三重)
 嘉義農 000 000 000=0
 中京商 002 200 00X=4

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映画の中で使用されている主題歌がすごくいいです。歌詞を載せてみました!

◎主題歌「勇者的浪漫〜風になって〜」
 作曲:Rake
 作詞:Rake、嚴云農(中文)
  歌:Rake、中孝介、范逸臣、舒米恩(中文)、羅美玲(中文)

 一人泣いた 胸の奥
 一個人哭泣的時候 胸口的深處
 ちっぽけな プライド震えてる
 顫動著微小的驕傲
 言葉にしたら 何かが 壊れそうだから
 唯有沉默能讓一切不再崩壞
 音もなく そっと流れてる 涙を握り締め
 我會強忍住眼淚 無聲的泛流
 風になって 僕らは奔り出す
 乘風奔跑的時候
 夢で見た 光の指す方へ
 我們奔向夢中的微光
 いつかきっと キミに出会うために 旅は続いていく
 這旅程將不斷前進 直到與你相遇
 風になった 僕らは空高く
 在高高天際 我們轉瞬為風
 舞い上がって 時の橋を渡る
 飛舞翻越時光之橋
 明日また 君と笑いたくて心 未来を見つめてる
 我的明日 期待有你的微笑陪伴 一起邁向未來

 一つ痛み知るたびに
 痛苦的時候
 優しさにまたそっと包まれる
 總有莫名的溫柔守護著我
 言葉にしたら 思い出になってしまうから
 已述說的都將成為回憶
 今はそっと少し遠くから 昨日に触れていたい
 現在我只想遠遠回顧昨天 再輕輕地被觸動
 風になって 僕らは奔り出す
 乘風奔跑的時候
 夢で見た 光の指す方へ
 我們奔向夢中的微光
 いつかきっとキミに出会うために旅は続いてく
 這旅程將不斷前進直到與你相遇
 風になった 僕らはそうさ ほら
 看吶 轉瞬為風的我們
 愛を知って こんなにも強くなる
 因為學會愛而彌堅
 明日また 君と笑いたくて心 未来を見つめてる
 我的明日 期待有你的微笑陪伴 一起邁向未來

 LA~LA~LA~
 LA~LA~LA~LA LA LA
 LA~LA~LA~
 LA~LA~LA~LA LA LA
 We Are Going Together
 You Are Feeling Forever Love
 We Are Going Together
 You Are Feeling Forever Love Love Love

 起風的時候 我們用奔跑 追逐期待
 qi feng de shi hou wo men yong ben pao zhui zhu qi dai
 チーフェンタシーホウ ウォーメンヨンベンパオ ツゥェイツゥチータイ
 前進的時候 手指向遠方 就該吶喊
 qian jin de shi hou shou zhi xiang yuan fang jiu qai na han
 チェンチンタシーホウ ショウツィーシャンユゥェンファン チウクァイナーハン
 勝利的時候 當我們並肩
 sheng li de shi hou dang wo men bing jian
 ションリータシーホウ タンウォーメンビンチェン
 我不會忘記 那天陽光的燦爛
 wo bu hui wang ji na tian yang quang de can lan
 ウォープーファイワンチー ナーティエンヤンクァンタツァンラン
 想哭的時候 我們用仰望 止住遺憾
 xiang ku de shi hou wo men yong yang zhi zhu yi han
 シャンクータシーホウ ウォーメンヨンヤン ツィチゥーイーハン
 寂寞的時候 手指向天空 就有蔚藍
 ji mo de shi hou shou zhi xiang tian kong jiu you wei lan
 チームォタシーホウ ショウツィーシャンティエンコン チゥーヨウウェイラン
 有你的陪伴 帶著傷與驕傲去
 you ni de pei ban dai zhe shang yu jiao ao qu
 ヨウニーターペイバン トゥァイツェシャンユーチァオアオチュー
 未知的未來 是勇者間的浪漫
 wei zhi de wei lai shi yong zhe jian de lang man
 ウェイツィタウェイライ シーヨンツェチァンタランマン

 LA~LA~LA~
 LA~LA~LA~LA LA LA 
 We Are Going Together
 You Are Feeling Forever Love

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「KANO 1931海の向こうの甲子園」、大注目です‼

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※(参照)元箕島高校野球部監督・尾藤公氏死去!
※(参照)「幻の甲子園~戦時下の球児たち~」
※(参照)「出口のない海」

昭和20年8月、ヒロシマ 夏服の少女たちが綴った日記帳

毎年、この時期になると観返すドキュメント作品が2つあります―

1つは、
  • NHK特集「夏服の少女たち~ヒロシマ・昭和20年8月6日~」(昭和63年=1988)
もう1つは、
  • ハイビジョン特集「少女たちの日記帳 ヒロシマ 昭和20年4月6日~8月6日」(平成21年=2009)
というタイトルの作品です。

この2つに共通する舞台があります。それは広島県立広島第一高等女学校(第一県女=現皆実高、以下、第一県女)の生徒たちであった事です。

昭和20年(1945)8月6日午前8時15分、広島は原爆を投下され、当時の人口35万人の4割に当たる14万人が被爆死します。

舞台となる第一県女の1年生223人も建物疎開の作業中に被爆し、全員亡くなっているのです。

ちょうどこの日、8月6日には軍需工場など49事業所に学生や中学上級生の1万6947人、広島市内の建物疎開に中学1年生・2年生の生徒8187人、計2万5134人の学徒が動員され、6833人(そのうち6295人が建物疎開作業の従事していた学徒たち)が死亡しています。(『広島原爆被災誌』、昭和43年=1968=調査より)

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亡くなった1年生223人のうち、1年6組の生徒は42人が犠牲となっています。彼女たちは当日、爆心地から西南に約800mほど離れた、中区小網町一帯の建物疎開が完了し、取り壊された家屋の後片付け作業に学徒隊として初めて動員されていたのです。

― ◇ ◇ ◇ ―

前者の「夏服の少女」は当時、第一県女2年生だった大野允子みつこさんは自身の実体験や遺族たちを訪ね、遺されていた生徒日誌などを基にした作品です。(『夏服の少女たち』(平成元年=1989=)

当時は物資が不足していた時代。県女の生徒たちは母親の古着をほどいて染め直したりするなど、自分たちで夏用の制服(以下、夏服)を作製します。(制服には身元票を縫いつけます。)

やがて夏服が完成し、生徒たちはその喜びの中で♪夏は来ぬ♪を唄わせて下さい、と先生にお願いし、先生の伴奏の下で唄うのです―

の花の 匂う垣根に
 時鳥ほととぎす はやも来鳴きて
 忍音しのびねもらす 夏は来ぬ♪
しかし、彼女たちにとって最後の夏、その日=8月6日が訪れます。

作業をしている中、雲一つない夏空にキラキラと光る美しい物体(=原爆)に彼女たちは見とれていましたが一瞬の閃光が…

― ◇ ◇ ◇ ―

22年前の昭和63年(1988)、8月6日を来月に控えたある夏の日、風呂敷包みを持った老夫婦が広島平和記念資料館(原爆資料館、平和資料館)を訪れました。

その老夫婦は「長い間、娘の形見として守り続けて来たが、私たち夫婦も老い先短い。代わって面倒をみてもらいたい」と言って包みを差し出しました。

大下靖子さん 大下靖子さんの夏服 大下靖子さんのシュミーズ

包みの中身は丁寧に畳んだ、燃えてボロボロになった女学生の夏服とシュミーズ(chemise)でした。

持ち主だった女学生は第一県女1年6組だった大下靖子のぶこさん(当時13歳)。

大下靖子さんは、土橋地区の建物疎開作業に動員され、被爆しました。

同級生と2人で己斐こいに避難し、夕暮まで民家にいた後、己斐国民学校に収容されていたのを発見され、夕刻頃に両親のいる大竹国民学校に運ばれました後、自宅に運ばれました。

その時点ではまだ息があったようで、その日の様子を両親に語り、水を欲しがりましたが、当日深夜12時前に死亡されたそうです。

靖子さんのお姉さんは靖子さんの「昭和20年度の生徒日誌」を大切に保管しているそうです。生徒日誌は「4月6日」の入学式に始まり、戦時下を直向ひたむきに生きた日々を「7月15日」まで鉛筆でびっしりと書き込まれています。その中で、

4月17日 火曜日 天候晴
今日一二校時は裁縫でモンペの型を取りました。私は早くモンペを作りたくてたまりません。

6月13日 水曜日 天気雨
制服は去年までは白色でしたが、今年は白色ではなくて国防色かネズミ色のような布で制服を作るようになりました。それは何故かと申しますと、敵機来襲の時、白いものは目標になりやすいので、今年は国防色かネズミ色にしたのだそうです。それで、今日、制服の型紙を取りました。
とあり、夏用の制服は6月13日から縫製しているようです。靖子さんたち県女1年生223人は自らで縫った夏服を着て、8月6日に爆心地から約800mとなる小網町一帯の建物疎開作業へ初めて参加し、被爆死するのです。

靖子さんのお姉さんも別な学校での「昭和20年度の生徒日誌」も残しておられますが、さすがに8月6日は空欄で、翌7日に

「たった一人の可愛い可愛い妹!」の死を

お父さんとお母さんの泣き声 もしやと飛(び)起きていつて見るともう手の先の方のつめたくなった靖ちゃんをお父さんとお母さんがだきしめておられた
と書き留めておられます。靖子さんの手にはトマトが握り締められていたそうです。

現在、靖子さんの夏服原爆資料館の廃虚を再現したパノラマのそばにあり、入館者の多くが足を止めて見入っています。

靖子さんのお姉さんは「勉強したくても満足にできず容赦なく焼かれた事を、あの夏服から分かって頂ければ、語り継いで頂ければ、有り難いですね」と述べられています。

― ◇ ◇ ◇ ―

後者の「少女たちの日記帳 ヒロシマ 昭和20年4月6日~8月6日」は上述の大下靖子さん同様に書き記していた第一県女の生徒10人の遺品となってしまった生徒日誌の記載内容を同級生や遺族の証言を基に、学校生活や家族、友人についてなど、戦争に追い詰められながらも精一杯生きた思春期の日々を再現したドキュメンタリー作品です。(大野充子著『ヒロシマ、遺された九冊の日記帳』、ポプラ社刊)

残された生徒日誌は組ごとに先生に提出していたもので、第一県女に入学してからの日々の生活が綴られています。万年筆で書いたもの、筆や鉛筆で書いたもの、また表紙に千代紙を貼って装丁したもの…など記載内容もそれぞれ個性に溢れています。以下、一部抜粋―

熊本悦子さん4月6日
今日はいよいよあこがれていた第一県女に入学し、その式がこの最も激しい戦の真最中に行われた。私達は校長先生を始め諸先生、上級生の方々の御指導のもとに一日も早くりっぱな県女の生徒になることをお誓いした。
1年5組 熊本悦子さん(当時13歳)

4月6日 金曜日 天候晴
今日は楽しい私たちの入学式があって校長先生を始め諸先生方の注意を受けました。私はいろいろな注意を頭にしっかり入れて広島県立広島第一高等女学校の生徒として恥ずかしくない態度を取って、今日からだれにも負けないよう学業に励もうと決心しました。
1年6組 大下靖子さん(当時13歳)

4月10日
今日弟が四国へ疎開をして行った。家に居る時はやかましくて家にいない方がよいと思っていたが、弟がああして行って見るとなんだかさみしい気がして、思い出すと涙が出る。弟をもう少しか愛がってやればよかったとしみじみ感じる。
1年1組 石堂郁江さん(当時13歳)

5月26日
帰ると父からお手紙が来ていたので、かばんもおろさないで読んでいると、母が「かばんもおろさないで読んでいるの。まあおちついて読みなさい」とおっしゃった。私はあまりのうれしさにかばんもおろさないであわてて手紙を読んでいた。
1年6組 大下靖子さん(当時13歳)

森脇瑤子さん5月31日
今日は、何だか歯が痛むので、何も面白くなかった。あまり痛いので、もうやめます。上級生は、この日記帳へ千代紙をはっていらっしゃいますが、私たちもはってよいでしょうか。
1年6組 森脇瑤子さん(当時13歳)

山田緑さん6月17日
今日は一日中家に居た。そして夏服を縫った。夕方それを着て、お使いに行った。初めて着たのでうれしくてたまらない。
1年6組 山田緑さん(当時13歳)

6月26日
実業の時間に先生が一人ずつ呼ばれて、自分の将来の希望をお問いになられた。私は先生になりたいと今では思っております。その気持ちで一生懸命勉強に励もうと思います。
1年6組 大下靖子さん(当時13歳)

7月1日
今日は日曜日ですがお勉強がありました。4校時は組常会があって、…(略)…組長役員を発表されました。今度は奥津さんが(副)組長になられました。今日から二人で力を合わせて組を立派にして行こうと思った。
1年6組 大下靖子さん(当時13歳)

8月5日
午後小西さんと泳ぎに行った。私はちっともよう泳がないのに、みんなよく浮くなと思うとなさけなかった。今日は大へん良い日でした。
1年4組 石崎睦子さん(当時12歳)

8月5日
今日、美智子を私が風呂に入れたので、よろこんでいた。お母さんだと、ゆをとばせばしかられて、私だと、一しょにゆをとばすので、おもちゃを浮かせたりしてよく入った。夕飯は、うどんだった。私が、おしるに味をつけてこしらえたので、お父さんも、お母さんも、おいしいおいしいと言われた。
1年4組 梅北トミ子さん(当時13歳)

8月5日
今日は叔父がきてひさしぶりににぎやかであった。こんな日がつづくといいと思う。明日から家屋疎開の作業だ。がんばろうと思う。以上。
1年6組 森脇瑤子さん(当時13歳)
という感じです。

番組の後半で、一番涙を誘うのが、石堂郁江さんの川を挟んでの、「手旗てばた」の告白シーンかな!実際、手旗信号の実習訓練もあった訳ですが…

当時は道徳観念として「男女、六歳にして席を同じくせず」の時代なので道端で会っても挨拶なんかもってのほか

しかし彼女は、普段通学する川べりの道の反対岸を行き来する少年を意識するようになるんですね。

言葉を交わしたいけど、気恥ずかしい!…でも気持ちに嘘は付けない!石堂さんは内面に沸々と感じていた思いを生徒日誌にぶちまけたようです。実際、彼女の日記は6月24日以降の分が破り捨てられている形跡がみられるんですね。そこにはある種の葛藤があったんでしょう!

ある日、彼女は手旗信号による自己紹介を思い立ち、

「ワ・タ・シ・イ・シ・ド・ウ・イ・ク・エ」
と告白するのですが…

番組のラスト、1枚の肖像画が映し出されます。

石堂さんが被爆死してから50年経った平成7年(1995)のある日、遺族の許に1通の手紙と配達物が届けれました。

ある男性から寄せられたもので、裏面に「五十年前を思い出しながら描いてみた」とあります。

素性を知る術は「あの頃、知り合いだった男性」としか判りませんが、遺族の方が見ると、それはまさに石堂さんの面影が描かれた肖像画だったのです。

作者は石堂さんが思いを寄せていたあの少年だったのでしょうか。石堂さんの面影が鮮明に残っていたかのように描かれていたのですから…

― ◇ ◇ ◇ ―

「あなたは生きとるんね…」
昭和20年(1945)の年末、広島市内の寺院で学校の慰霊祭が営まれました。慰霊祭に出席したある生徒はその折に、1年6組だった娘を失った母親から上記のような非難めいた感情がこもる言葉で責められるように言われたそうです。

あの8月6日、偶々たまたま欠席して難をまぬがれた生徒は、周囲から「生き残り組」と呼ばれるのだとか―

「生き残り組」が原爆を落とした訳でない事は分かっているけど、遺族たちには少数の生存者のいる事が許し難い現実と映るのです。

「生き残り組」は「生き恥をさらすという思い」、「生きながらえた負い目」に苦しめられ、在校生の幾人かはいたたまれなくなり、私学へ転校した者もいたそうです。

「生き残り組」の生徒の方がこう言っています―

「8時15分に何処にいたかが、人の命の分かれ目だった」と―

以来、「生き残り組」にとっては「生き残ったのが申し訳ない気がして、卒業後は同期で集まることはなかった」と原爆で心の傷を背負う事になったのです。

昭和52年(1977)の夏、原爆三十三回忌法要を営んだ際も遺族たちの多くは、「生き残り組」と言葉を交わす事はなかったそうです。

― ◇ ◇ ◇ ―
第一県女が在った旧所在地に建てられた正門の門柱 第一県女が在った旧所在地に建てられた慰霊碑

その遺族と「生き残り組」のわだかまりが解けたのが、平成6年(1994)の五十回忌の事。

実際、遺族の方々も高齢化が進み、「生き残り組」の方々も還暦を過ぎ、年々その姿が少なくなってきているのが現状です。

この年の原爆忌に第一県女の1年生だった梶山(旧姓、中本)雅子さんは小学校からの同級生で仲良しだった石堂郁江さんの両親から、初めて石堂さんの墓参りをする事を許されたのだとか―

被爆から60年以上が経っています。被爆体験と記憶の風化が叫ばれる状況を鑑み、決して風化させてはいけない、と思いつつ今年も8月6日を迎えます。

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参照)禎子ちゃんの想い―クミコ♪INORI~祈り~
※(参照)聞こえなかった原爆―被爆ろう者の叫びを聴いてあげて!

Eテレ 直伝 和の極意 あっぱれ!江戸のテクノロジー

「直伝 和の極意 あっぱれ!江戸のテクノロジー」

6月からEテレ(NHK教育テレビ)で始まる趣味講座において、「直伝 和の極意 あっぱれ!江戸のテクノロジー」(全8回)と題したシリーズが放送されます。

テーマとしては、「鎖国の江戸時代、日本は独自の科学技術が発展、目を見張るものであった。その極意を伝える」という事です。

その概要は以下の通り―

【直伝 和の極意 あっぱれ!江戸のテクノロジー】
○毎週木曜日午後10時25分~10時50分(再放送は翌週の火曜日午前10時30分~10時55分)

  • 第1回 田中久重(1) からくり人形の極意
    =6月7日/再:6月14日

  • 第2回 田中久重(2) からくり人形の極意
    =6月14日/再:6月21日

  • 第3回 大野弁吉-箱形写真機の極意
    =6月21日/再:6月28日

  • 第4回 華岡青洲-全身麻酔手術の極意
    =6月28日/再:7月5日

  • 第5回 渋川春海-日本初!「暦」の極意
    =7月5日/再:7月12日

  • 第6回 関孝和-円周率解法の極意
    =7月12日/再:7月19日

  • 第7回 国友一貫斎-反射望遠鏡の極意
    =7月19日/再:7月26日

  • 第8回 伊能忠敬-日本地図225枚の極意
    =7月26日/再:8月2日


NHK教育 歴史は眠らない「海がつないだニッポン」

歴史は眠らない「海がつないだニッポン】

さて、3月期のNHK教育テレビの「歴史は眠らない」シリーズは「海がつないだニッポン」(全4回)だそうです。

聴講するにおいて―
海洋国家・ニッポン。四方を海に囲まれたこの国では、古来、海に生きた人々のエネルギーあふれる活動が時代を動かしてきた。中世、対馬では、倭寇や宗氏が貿易の担い手となって隣国との関係の鍵を握り、戦国時代には瀬戸内の水軍が強大な軍事力として天下統一の行方を左右した。鎖国下においても廻船商人たちが国内通商の大動脈として徳川幕府に繁栄をもたらし、世界に開かれてからは海運会社が外洋航路を切り開いて貿易立国の原動力となった。だが、現代の日本人の意識は海から遠ざかっている。海は国家間が主権を争って線引きする場となり、他国を隔てる“壁”という閉ざされたイメージがつきまとう。番組では、歴史上の海に生きた人々に改めて光を当てることで、人々や社会をつなぐ道としての海の役割に目を向ける
というテーマに絞って観るといいですね!その概要は以下の通り―

◎【NHK教育 歴史は眠らない 「海がつないだニッポン】
○毎週火曜日午後10:25~10:50(再放送は翌週の火曜日午前05:35~06:00)

  • 第1回 中世の“境界の民”
  • 朝鮮半島までおよそ50kmに位置する"国境の島"、対馬。14世紀以降、この地に生まれた2種類の"境界の民"が、日本と朝鮮半島をつなぐ役割を果たした。ひとつは、海賊集団「倭寇(前期倭寇)」、もうひとつは、対馬島主「宗氏」の一族である。1350年頃、南北朝の内乱で九州との交易路が絶たれた対馬では、海の民の一部が島内では自給できない米を求めて海賊行為を行い、「倭寇」と呼ばれるようになる。しかし、陸の政権の安定と共に再び広い海の世界に乗り出し、貿易商としての側面を強めていく。一方、対馬島主「宗氏」は、朝鮮への渡航認可書「文引ぶんいん」の発給権を得ることで島内の倭寇たちを統制し、巧みな外交交渉で両国の調整役としての顔を持つようになっていく。倭寇と宗氏によって東アジア世界がつながり、一大交易圏が発展していく経緯を描く
  • 第2回 海賊大将、戦国の海を駆ける

  • →3月8日(火)午後10:25~10:50(再放送:3月15日=火=午前05:35~06:00)
    戦国時代に入ると、海の民たちは海上軍事力「水軍」として再編成されていく。京の都と外海を結ぶ一大流通路であった瀬戸内海では、組織的な軍事力と巧みな経済制度を武器に、「村上水軍」が海上権益を握り、独立した海の一大勢力に成長。戦国の乱世の中、「厳島合戦(1555)」を始めとする歴史に残る海戦に次々と勝利し、その名を天下に轟かすことになる。しかし、織田・豊臣という強大な統一政権とぶつかる中で、次第にその自立性を奪われていくことになった。自立して生きた海の民が、軍事力として陸に組み込まれ、解体されゆく経緯を追うことで、海の歴史の一大転換点を見つめる
  • 第3回 江戸時代の海運革命

  • →3月15日(火)午後10:25~10:50(再放送:3月22日=火=午前05:35~06:00)
    江戸時代、海は国内通商の主要ルートとして飛躍的な発展をとげ、商品経済の成長に寄与して徳川幕府の繁栄の屋台骨となる。その立役者が、13歳で江戸に出て材木屋で財を蓄えた立志伝中の人物・河村瑞賢だ。瑞賢は、1671年、奥州から江戸への米の輸送に利根川を使わず、直接江戸湾に入るという新たな航路「東廻り航路」を開拓。翌年には、出羽酒田から日本海沿岸を回り、瀬戸内海・遠州灘を経て江戸に入る「西廻り航路」を開き、輸送に要する時間と費用を大幅に軽減することに成功。また、途中の寄港地を定めて灯台や水先案内船の設置も行うことで海運の発展に尽力した。海の廻船ルートの整備によって安定した繁栄がもたらされ、近海が国内通商の大動脈へと役割転換した時代を見る
  • 第4回 そして世界の海へ

  • →3月22日(火)午後10:25~10:50(再放送:3月29日=火=午前05:35~06:00)
    明治維新を経て、外海に開かれた日本。欧米の海運業者に通商ルートを握られていたこの時代に、“海上王”の異名をとった男がいる。坂本龍馬の世界貿易への夢を継ぎ、海運業から三菱財閥を築き上げた岩崎弥太郎だ。弥太郎は持ち前の剛腕で政府の後ろ盾を得て、海外業者から国内海運業の利権をわずか3年で取り戻し、さらに日本初の外国定期航路・上海航路を開設するにいたる。その後、三菱の覇権に異を唱える渋沢栄一らの「共同運輸」と熾烈な闘いが繰り広げられたが、弥太郎の病没を機に両者は合併。後に世界第2位の海運会社となる「日本郵船」が誕生する。弥太郎の遺志を継いだ日本郵船は、綿花を輸入するインド航路を開拓し、資源に乏しい島国がモノづくりの技術で勝負するための土台を形作った。現代につながる貿易立国の原点を明治維新期に探る
    といった内容で、講師として村井章介・東京大学教授に教わります。

NHK趣味講座 趣味工房シリーズ・直伝<和>の極意「体感・実感!にっぽんの名城」

ある日、ふと城下町でも散策しようかな!と思い立つ。

いざ出かけてみると、眼前にはそびえ立った天守閣の姿。

その場所に近づくにつれ、城下町の街並みを観ては「この城の縄張りはこうなんだな!」って考える。

また、立派な石垣や土塁の数々、中には自然の河川を有効利用したお堀も面白い―

そんな楽しさが味わえる“お城巡り”がブームだとか―

財団法人日本城郭協会が選定した「日本100名城」に則り、選定された全国の城郭を巡る『「日本100名城」選定記念スタンプラリー』という企画もあるそうです。

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さて、1月からNHK教育テレビで始まる趣味講座において、趣味工房シリーズ・直伝<和>の極意「体感・実感!にっぽんの名城」(全12回)と題したシリーズが放送されます。

講師として千田嘉博・奈良大学文学部文化財学科教授を迎え、“歴ドル”の美甘子さんが生徒として教わります。

その概要は以下の通り―

【NHK趣味講座 趣味工房シリーズ・直伝<和>の極意「体感・実感! にっぽんの名城」】
○毎週木曜日午後10時~10時25分(再放送は翌週の木曜日午後1時05分~1時30分)

  • 第1回 世界遺産の華麗な技と美 姫路城 【城歩きの道具】
    =1月6日/再:1月13日

  • 第2回 「日本最強?」のひみつ 熊本城(1) 【天守を撮る】
    =1月13日/再:1月20日

  • 第3回 「日本最強?」のひみつ 熊本城(2) 【やぐら・堀を撮る】
    =1月20日/再:1月27日

  • 第4回 天下人家康の「究極の城」 名古屋城 【絵図を読む】
    =1月27日/再:2月3日

  • 第5回 天下無双の「要塞ようさい」 大坂城(1) 【歴史資料を読み解く(1)】
    =2月3日/再:2月10日

  • 第6回 天下無双の「要塞ようさい」 大坂城(2) 【歴史資料を読み解く(2)】
    =2月10日/再:2月17日

  • 第7回 独眼竜政宗の「野望の跡」 仙台城 【政宗像を撮る】
    =2月17日/再:2月24日

  • 第8回 真田一族ここにあり 上田城&松代城(1) 【模型をつくる(1)】
    =2月24日/再:3月3日

  • 第9回 真田一族ここにあり 上田城&松代城(2) 【模型をつくる(2)】
    =3月3日/再:3月10日

  • 第10回 浅井三姉妹のふるさと 小谷城 【山城歩きの装備】
    =3月10日/再:3月17日⇒再放送決定!4月9日(土)午後3:00~3:24(教育テレビ)にて…

  • 第11回 「縄張り図」を読む 鹿背山城かせやまじょう
    =3月17日/再:3月24日⇒再放送決定!4月9日(土)午後3:24~3:48(教育テレビ)にて…

  • 第12回 「縄張り図」をかいてみよう!
    =3月24日/3月29日(火)午前10時30分~55分⇒再放送決定!4月9日(土)午後3:48~4:12(教育テレビ)にて…

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この番組のテキスト本には、特別付録として上田城の組み立てペーパ-クラフトが巻末に付いています。興味ある方は是非!

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“お城巡り”、最近殆んどやってません!(笑)

初めて“お城巡り”をやったのは、もう何年前になるのかな?父と一緒に安土城築城400年まつりってのに行った安土山ですね。現在の様に発掘や整備もされていない完璧な登山ルートって感じでしたが、今思えば“原風景”に何パーセントか近かった光景ですよね。(史学科在学中、ゼミで朝倉氏の一乗谷の話題になった時、先生が“文字に書いてある内容だけではなく、現場の地形や情景、気候・風土も考察して論じるべき”と仰ったので、友人たちと連休を利用して一乗谷遺跡まで出向いた事を想い出します!)

その時、安土山の麓周辺では「楽市・楽座」に引っかけて、露店などが出回ってましたが、陶器茶碗を売っておられたご主人が見世物として、陶器で作った安土城天主閣の模型を展示されていて、撮影の許可を頂いた上で写真におさめました。

昨今、歴女ブームとかの悪影響もそうだけど、観光産業の目玉として城下町を大々的に宣伝して観光客を呼ぼうとする余り、昔の風景に何パーセントか近かった“原風景”が破壊されつつあります。

そうした観光公害に晒されている城下町の存在を見るにつけ、今想い返すとまだ手付かずな時代が一番良き時代だったのかもしれませんね!

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講師である千田先生は奈良大学文学部文化財学科の教授でいらっしゃいますね。私事ですが、約25年前に奈良大学の文化財学科目指して受験の日々を送っていました。当時の定員25人枠に対し、1次試験および2次試験の受験者数2000人、つまり80倍の難関という具合でしたもんね。まぁ、結果として違う学校の史学科に合格でき、歴史研究のイロハを習う事になりますが、懐かしさが溢れてきます!!(笑)