❝天下の嘉農❞―嘉義農林、昭和6年の夏〜映画「KANO 1931海の向こうの甲子園」

映画「KANO 1931海の向こうの甲子園」

毎年、夏場になるとお馴染みの❝夏の甲子園❞、すなわち全国高等学校野球選手権大会が開催されますが、その第1回目の大会=第1回全国中等学校優勝野球大会が催された大正4年(1915)から今年で100周年目を迎えようとしています。

私自身、高校野球ファンで、小学校4年生の夏(=第56回大会・昭和49年=1974)の頃から昭和63年(1988)のは第60回選抜高等学校野球大会までは春夏連続で甲子園球場まで観戦に通ってた程でした。

一番盛り上がっていたのが故尾藤公監督率いる和歌山県立箕島高等学校が活躍した頃である昭和52年(1977)から同55年(1980)の時期でしら。予選の頃から新聞記事をスクラップブックに貼って整理したり、本大会が始まると注目する試合はスコアブックを付けたり、と一番熱中していた感じで…(笑)

そうした状況でも歴史好きな自分の一面が生じてしまうのは仕方のない話で…やはり高校野球の歴史っていうか、過去の大会はどんな盛り上がりを見せたのだろうかというのが気になって調べたりもしたんですよね(笑)

今回はそんな過去の大会の歴史から―

時は中等学校野球大会が開催されていた時分、日本が大日本帝国と名乗っていた頃のお話です。

この頃は、植民地して、朝鮮半島、満洲地区(関東州)や台湾などの外地も領有していましたので、大会には外地からの出場校もありました。

 ・朝鮮代表…第7回大会(大正10年=1921)から参加
 ・満洲代表…第7回大会(大正10年=1921)から参加
 ・台湾代表…第9回大会(大正12年=1923)から参加

これらの地区の代表は戦争のために中断する第27回大会(昭和16年=1941)まで続きました。
そんな外地からの出場校のうち、一際異彩を華って輝いたのが、

 ・第12回大会(大正15年=1926)の満洲代表・大連商業学校(現在の大連三十六中学校)の準優勝
 ・第17回大会(昭和6年=1931)の台湾代表・台南州立嘉義農林学校(現在の国立嘉義大学)の準優勝

などでした。

― ◇ ◇ ◇ ―

昨年、台湾で1つの映画が上映されました―

KANO(KANO 1931海の向こうの甲子園)
というタイトルの映画です。すなわち、上記に挙げた台湾代表・台南州立嘉義農林学校が準優勝した際のエピソードを取り上げて物語化したものです。

あらすじはこんな感じ―

海を越え、民族を超えて、僕らは同じ夢を見た。
1931年、甲子園、台湾代表。
日本中を感動で包み込んだ伝説の試合。
台湾から、まだ見ぬ甲子園、そして決勝へ。
弱小チームが起こした奇跡の実話。
1931年、日本統治時代の台湾から甲子園に出場し、決勝まで勝ち進んだ伝説のチームがある。嘉義農林学校野球部。KANO。それまで1勝もしたことのなかった弱小チームが甲子園を目指し、大人たちや他校の嘲笑をよそに予選で快進撃を始める。その陰には、かつて名門・松山商業を監督として率いた近藤兵太郎の特訓があった。守備に長けた日本人、打撃力のある台湾人(漢人)、俊足の台湾原住民。それぞれの強みを生かし、分け隔てない指導で育てられた彼らは、ついに甲子園への切符を手にする。
多感な少年時代の叶わぬ恋、夢半ばに去る卒業生、厳しい生活に野球を続けることを悩む者―。様々な思いを背負い、彼らは海を越える。無名の嘉義農林甲子園でも強豪を破り勝ち進んだ。そのひたむきなプレーは、やがて多くの観客の共感を呼び起こす。迎えた決勝戦。一球たりともあきらめない渾身の姿にスタンドから熱い声援が拡がる。「天下の嘉農、天下の嘉農」。皆が、心からのエールを送りながら、一球一球に固唾をのみ、試合の行方を見守っていた―
嘉義農林の出場登録メンバーは、
嘉義農林、甲子園準優勝メンバー
 部 長・濱田次箕
 監 督・近藤兵太郎
 投手、主将・呉明捷選手(台湾人)
 捕 手・東和一選手(アミ族…本名ラワイ)
 一塁手・小里初雄選手(日本人)
 二塁手・川原信男選手(日本人)
 三塁手・真山卯一選手(アミ族…本名マヤウ)
 遊撃手・上松耕一選手(プユマ族…本名アシワツ)
 左翼手・平野保郎選手(アミ族…本名不詳)
 中堅手・蘇正生選手(台湾人)
 右翼手・福島又男選手(日本人)
 補 欠・崎山敏雄選手(日本人)
 補 欠・里正一選手(日本人)
 補 欠・谷井公好選手(日本人)
 補 欠・積真哉選手(日本人)
 補 欠・劉蒼麟選手(台湾人)

の皆さんで、彼らは民族を超えて、❝甲子園で力を発揮する❞という1つの 夢を目指したんですね!
それでは、嘉義農林甲子園までの戦績及び甲子園での戦績を詳しく視ていきましょう!

昭和6年(1931)第17回中等学校野球
○台湾予選
1回戦(7/19)○15− 0 台中一中(コールド勝ち)
2回戦(7/21)○17−10 台中二中
準決勝(7/22)○14− 3 台南一中
嘉義農林、台湾大会決勝でのスコアボード
決 勝(7/23)○11−10 台北商業
 嘉義農 123 011 010 2=11
 台北商 000 420 003 1=10
○本大会
1回戦(8/15)○3−0 神奈川商工(甲神静代表=山梨、神奈川、静岡)
 嘉義農 000 000 210=3
 神商工 000 000 000=0
2回戦(8/18)◯19−7 札幌商(北海道代表)
 札幌商 300 010 300=7
 嘉義農 430 004 26X=19
準決勝(8/20)◯10−2 小倉工(北九州代表=福岡、佐賀、長崎)
 小倉工 000 000 020=2
 嘉義農 210 000 25X=10
決 勝(8/21)●0−4 中京商〔現、中京大中京〕(東海代表=愛知、岐阜、三重)
 嘉義農 000 000 000=0
 中京商 002 200 00X=4
― ◇ ◇ ◇ ―

映画の中で使用されている主題歌がすごくいいです。歌詞を載せてみました!

◎主題歌「勇者的浪漫〜風になって〜」
 作曲:Rake
 作詞:Rake、嚴云農(中文)
  歌:Rake、中孝介、范逸臣、舒米恩(中文)、羅美玲(中文)

 一人泣いた 胸の奥
 一個人哭泣的時候 胸口的深處
 ちっぽけな プライド震えてる
 顫動著微小的驕傲
 言葉にしたら 何かが 壊れそうだから
 唯有沉默能讓一切不再崩壞
 音もなく そっと流れてる 涙を握り締め
 我會強忍住眼淚 無聲的泛流
 風になって 僕らは奔り出す
 乘風奔跑的時候
 夢で見た 光の指す方へ
 我們奔向夢中的微光
 いつかきっと キミに出会うために 旅は続いていく
 這旅程將不斷前進 直到與你相遇
 風になった 僕らは空高く
 在高高天際 我們轉瞬為風
 舞い上がって 時の橋を渡る
 飛舞翻越時光之橋
 明日また 君と笑いたくて心 未来を見つめてる
 我的明日 期待有你的微笑陪伴 一起邁向未來

 一つ痛み知るたびに
 痛苦的時候
 優しさにまたそっと包まれる
 總有莫名的溫柔守護著我
 言葉にしたら 思い出になってしまうから
 已述說的都將成為回憶
 今はそっと少し遠くから 昨日に触れていたい
 現在我只想遠遠回顧昨天 再輕輕地被觸動
 風になって 僕らは奔り出す
 乘風奔跑的時候
 夢で見た 光の指す方へ
 我們奔向夢中的微光
 いつかきっとキミに出会うために旅は続いてく
 這旅程將不斷前進直到與你相遇
 風になった 僕らはそうさ ほら
 看吶 轉瞬為風的我們
 愛を知って こんなにも強くなる
 因為學會愛而彌堅
 明日また 君と笑いたくて心 未来を見つめてる
 我的明日 期待有你的微笑陪伴 一起邁向未來

 LA〜LA〜LA〜
 LA〜LA〜LA〜LA LA LA
 LA〜LA〜LA〜
 LA〜LA〜LA〜LA LA LA
 We Are Going Together
 You Are Feeling Forever Love
 We Are Going Together
 You Are Feeling Forever Love Love Love

 起風的時候 我們用奔跑 追逐期待
 qi feng de shi hou wo men yong ben pao zhui zhu qi dai
 チーフェンタシーホウ ウォーメンヨンベンパオ ツゥェイツゥチータイ
 前進的時候 手指向遠方 就該吶喊
 qian jin de shi hou shou zhi xiang yuan fang jiu qai na han
 チェンチンタシーホウ ショウツィーシャンユゥェンファン チウクァイナーハン
 勝利的時候 當我們並肩
 sheng li de shi hou dang wo men bing jian
 ションリータシーホウ タンウォーメンビンチェン
 我不會忘記 那天陽光的燦爛
 wo bu hui wang ji na tian yang quang de can lan
 ウォープーファイワンチー ナーティエンヤンクァンタツァンラン
 想哭的時候 我們用仰望 止住遺憾
 xiang ku de shi hou wo men yong yang zhi zhu yi han
 シャンクータシーホウ ウォーメンヨンヤン ツィチゥーイーハン
 寂寞的時候 手指向天空 就有蔚藍
 ji mo de shi hou shou zhi xiang tian kong jiu you wei lan
 チームォタシーホウ ショウツィーシャンティエンコン チゥーヨウウェイラン
 有你的陪伴 帶著傷與驕傲去
 you ni de pei ban dai zhe shang yu jiao ao qu
 ヨウニーターペイバン トゥァイツェシャンユーチァオアオチュー
 未知的未來 是勇者間的浪漫
 wei zhi de wei lai shi yong zhe jian de lang man
 ウェイツィタウェイライ シーヨンツェチァンタランマン

 LA〜LA〜LA〜
 LA〜LA〜LA〜LA LA LA 
 We Are Going Together
 You Are Feeling Forever Love

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日本での公開は今月24日からとなっています。「KANO 1931海の向こうの甲子園」、注目ですよ!!

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※(参照)「KANO 1931海の向こうの甲子園」日本公開版公式Webサイト→

※(参照)元箕島高校野球部監督・尾藤公氏死去!→
※(参照)華開いた“魂・知・和”野球!―沖縄県勢3度目の正直、夏初制覇!興南高校春夏連覇!→
※(参照)「幻の甲子園〜戦時下の球児たち〜」→
※(参照)「出口のない海」→
※(参照)駒大苫小牧、初優勝!優勝旗、北の大地へ!→


昭和20年8月、ヒロシマ 夏服の少女たちが綴った日記帳

毎年、この時期になると観返すドキュメント作品が2つあります―

1つは、

  • NHK特集「夏服の少女たち〜ヒロシマ・昭和20年8月6日〜」(昭和63年=1988)
もう1つは、
  • ハイビジョン特集「少女たちの日記帳 ヒロシマ 昭和20年4月6日〜8月6日」(平成21年=2009)
というタイトルの作品です。

この2つに共通する舞台があります。それは広島県立広島第一高等女学校(第一県女=現皆実高、以下、第一県女)の生徒たちであった事です。

昭和20年(1945)8月6日午前8時15分、広島は原爆を投下され、当時の人口35万人の4割に当たる14万人が被爆死します。

舞台となる第一県女の1年生223人も建物疎開の作業中に被爆し、全員亡くなっているのです。

ちょうどこの日、8月6日には軍需工場など49事業所に学生や中学上級生の1万6947人、広島市内の建物疎開に中学1年生・2年生の生徒8187人、計2万5134人の学徒が動員され、6833人(そのうち6295人が建物疎開作業の従事していた学徒たち)が死亡しています。(『広島原爆被災誌』、昭和43年=1968=調査より)

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亡くなった1年生223人のうち、1年6組の生徒は42人が犠牲となっています。彼女たちは当日、爆心地から西南に約800mほど離れた、中区小網町一帯の建物疎開が完了し、取り壊された家屋の後片付け作業に学徒隊として初めて動員されていたのです。

― ◇ ◇ ◇ ―

前者の「夏服の少女」は当時、第一県女2年生だった大野允子みつこさんは自身の実体験や遺族たちを訪ね、遺されていた生徒日誌などを基にした作品です。(『夏服の少女たち』(平成元年=1989=)

当時は物資が不足していた時代。県女の生徒たちは母親の古着をほどいて染め直したりするなど、自分たちで夏用の制服(以下、夏服)を作製します。(制服には身元票を縫いつけます。)

やがて夏服が完成し、生徒たちはその喜びの中で♪夏は来ぬ♪を唄わせて下さい、と先生にお願いし、先生の伴奏の下で唄うのです―

の花の 匂う垣根に
 時鳥ほととぎす はやも来鳴きて
 忍音しのびねもらす 夏は来ぬ♪
しかし、彼女たちにとって最後の夏、その日=8月6日が訪れます。

作業をしている中、雲一つない夏空にキラキラと光る美しい物体(=原爆)に彼女たちは見とれていましたが一瞬の閃光が…

― ◇ ◇ ◇ ―

22年前の昭和63年(1988)、8月6日を来月に控えたある夏の日、風呂敷包みを持った老夫婦が広島平和記念資料館(原爆資料館、平和資料館)を訪れました。

その老夫婦は「長い間、娘の形見として守り続けて来たが、私たち夫婦も老い先短い。代わって面倒をみてもらいたい」と言って包みを差し出しました。

大下靖子さん 大下靖子さんの夏服 大下靖子さんのシュミーズ

包みの中身は丁寧に畳んだ、燃えてボロボロになった女学生の夏服とシュミーズ(chemise)でした。

持ち主だった女学生は第一県女1年6組だった大下靖子のぶこさん(当時13歳)。

大下靖子さんは、土橋地区の建物疎開作業に動員され、被爆しました。

同級生と2人で己斐こいに避難し、夕暮まで民家にいた後、己斐国民学校に収容されていたのを発見され、夕刻頃に両親のいる大竹国民学校に運ばれました後、自宅に運ばれました。

その時点ではまだ息があったようで、その日の様子を両親に語り、水を欲しがりましたが、当日深夜12時前に死亡されたそうです。

靖子さんのお姉さんは靖子さんの「昭和20年度の生徒日誌」を大切に保管しているそうです。生徒日誌は「4月6日」の入学式に始まり、戦時下を直向ひたむきに生きた日々を「7月15日」まで鉛筆でびっしりと書き込まれています。その中で、

4月17日 火曜日 天候晴
今日一二校時は裁縫でモンペの型を取りました。私は早くモンペを作りたくてたまりません。

6月13日 水曜日 天気雨
制服は去年までは白色でしたが、今年は白色ではなくて国防色かネズミ色のような布で制服を作るようになりました。それは何故かと申しますと、敵機来襲の時、白いものは目標になりやすいので、今年は国防色かネズミ色にしたのだそうです。それで、今日、制服の型紙を取りました。
とあり、夏用の制服は6月13日から縫製しているようです。靖子さんたち県女1年生223人は自らで縫った夏服を着て、8月6日に爆心地から約800mとなる小網町一帯の建物疎開作業へ初めて参加し、被爆死するのです。

靖子さんのお姉さんも別な学校での「昭和20年度の生徒日誌」も残しておられますが、さすがに8月6日は空欄で、翌7日に

「たった一人の可愛い可愛い妹!」の死を

お父さんとお母さんの泣き声 もしやと飛(び)起きていつて見るともう手の先の方のつめたくなった靖ちゃんをお父さんとお母さんがだきしめておられた
と書き留めておられます。靖子さんの手にはトマトが握り締められていたそうです。

現在、靖子さんの夏服原爆資料館の廃虚を再現したパノラマのそばにあり、入館者の多くが足を止めて見入っています。

靖子さんのお姉さんは「勉強したくても満足にできず容赦なく焼かれた事を、あの夏服から分かって頂ければ、語り継いで頂ければ、有り難いですね」と述べられています。

― ◇ ◇ ◇ ―

後者の「少女たちの日記帳 ヒロシマ 昭和20年4月6日〜8月6日」は上述の大下靖子さん同様に書き記していた第一県女の生徒10人の遺品となってしまった生徒日誌の記載内容を同級生や遺族の証言を基に、学校生活や家族、友人についてなど、戦争に追い詰められながらも精一杯生きた思春期の日々を再現したドキュメンタリー作品です。(大野充子著『ヒロシマ、遺された九冊の日記帳』、ポプラ社刊)

残された生徒日誌は組ごとに先生に提出していたもので、第一県女に入学してからの日々の生活が綴られています。万年筆で書いたもの、筆や鉛筆で書いたもの、また表紙に千代紙を貼って装丁したもの…など記載内容もそれぞれ個性に溢れています。以下、一部抜粋―

熊本悦子さん4月6日
今日はいよいよあこがれていた第一県女に入学し、その式がこの最も激しい戦の真最中に行われた。私達は校長先生を始め諸先生、上級生の方々の御指導のもとに一日も早くりっぱな県女の生徒になることをお誓いした。
1年5組 熊本悦子さん(当時13歳)

4月6日 金曜日 天候晴
今日は楽しい私たちの入学式があって校長先生を始め諸先生方の注意を受けました。私はいろいろな注意を頭にしっかり入れて広島県立広島第一高等女学校の生徒として恥ずかしくない態度を取って、今日からだれにも負けないよう学業に励もうと決心しました。
1年6組 大下靖子さん(当時13歳)

4月10日
今日弟が四国へ疎開をして行った。家に居る時はやかましくて家にいない方がよいと思っていたが、弟がああして行って見るとなんだかさみしい気がして、思い出すと涙が出る。弟をもう少しか愛がってやればよかったとしみじみ感じる。
1年1組 石堂郁江さん(当時13歳)

5月26日
帰ると父からお手紙が来ていたので、かばんもおろさないで読んでいると、母が「かばんもおろさないで読んでいるの。まあおちついて読みなさい」とおっしゃった。私はあまりのうれしさにかばんもおろさないであわてて手紙を読んでいた。
1年6組 大下靖子さん(当時13歳)

森脇瑤子さん5月31日
今日は、何だか歯が痛むので、何も面白くなかった。あまり痛いので、もうやめます。上級生は、この日記帳へ千代紙をはっていらっしゃいますが、私たちもはってよいでしょうか。
1年6組 森脇瑤子さん(当時13歳)

山田緑さん6月17日
今日は一日中家に居た。そして夏服を縫った。夕方それを着て、お使いに行った。初めて着たのでうれしくてたまらない。
1年6組 山田緑さん(当時13歳)

6月26日
実業の時間に先生が一人ずつ呼ばれて、自分の将来の希望をお問いになられた。私は先生になりたいと今では思っております。その気持ちで一生懸命勉強に励もうと思います。
1年6組 大下靖子さん(当時13歳)

7月1日
今日は日曜日ですがお勉強がありました。4校時は組常会があって、…(略)…組長役員を発表されました。今度は奥津さんが(副)組長になられました。今日から二人で力を合わせて組を立派にして行こうと思った。
1年6組 大下靖子さん(当時13歳)

8月5日
午後小西さんと泳ぎに行った。私はちっともよう泳がないのに、みんなよく浮くなと思うとなさけなかった。今日は大へん良い日でした。
1年4組 石崎睦子さん(当時12歳)

8月5日
今日、美智子を私が風呂に入れたので、よろこんでいた。お母さんだと、ゆをとばせばしかられて、私だと、一しょにゆをとばすので、おもちゃを浮かせたりしてよく入った。夕飯は、うどんだった。私が、おしるに味をつけてこしらえたので、お父さんも、お母さんも、おいしいおいしいと言われた。
1年4組 梅北トミ子さん(当時13歳)

8月5日
今日は叔父がきてひさしぶりににぎやかであった。こんな日がつづくといいと思う。明日から家屋疎開の作業だ。がんばろうと思う。以上。
1年6組 森脇瑤子さん(当時13歳)
という感じです。

番組の後半で、一番涙を誘うのが、石堂郁江さんの川を挟んでの、「手旗てばた」の告白シーンかな!実際、手旗信号の実習訓練もあった訳ですが…

当時は道徳観念として「男女、六歳にして席を同じくせず」の時代なので道端で会っても挨拶なんかもってのほか

しかし彼女は、普段通学する川べりの道の反対岸を行き来する少年を意識するようになるんですね。

言葉を交わしたいけど、気恥ずかしい!…でも気持ちに嘘は付けない!石堂さんは内面に沸々と感じていた思いを生徒日誌にぶちまけたようです。実際、彼女の日記は6月24日以降の分が破り捨てられている形跡がみられるんですね。そこにはある種の葛藤があったんでしょう!

ある日、彼女は手旗信号による自己紹介を思い立ち、

「ワ・タ・シ・イ・シ・ド・ウ・イ・ク・エ」
と告白するのですが…

番組のラスト、1枚の肖像画が映し出されます。

石堂さんが被爆死してから50年経った平成7年(1995)のある日、遺族の許に1通の手紙と配達物が届けれました。

ある男性から寄せられたもので、裏面に「五十年前を思い出しながら描いてみた」とあります。

素性を知る術は「あの頃、知り合いだった男性」としか判りませんが、遺族の方が見ると、それはまさに石堂さんの面影が描かれた肖像画だったのです。

作者は石堂さんが思いを寄せていたあの少年だったのでしょうか。石堂さんの面影が鮮明に残っていたかのように描かれていたのですから…

― ◇ ◇ ◇ ―

「あなたは生きとるんね…」
昭和20年(1945)の年末、広島市内の寺院で学校の慰霊祭が営まれました。慰霊祭に出席したある生徒はその折に、1年6組だった娘を失った母親から上記のような非難めいた感情がこもる言葉で責められるように言われたそうです。

あの8月6日、偶々たまたま欠席して難をまぬがれた生徒は、周囲から「生き残り組」と呼ばれるのだとか―

「生き残り組」が原爆を落とした訳でない事は分かっているけど、遺族たちには少数の生存者のいる事が許し難い現実と映るのです。

「生き残り組」は「生き恥をさらすという思い」、「生きながらえた負い目」に苦しめられ、在校生の幾人かはいたたまれなくなり、私学へ転校した者もいたそうです。

「生き残り組」の生徒の方がこう言っています―

「8時15分に何処にいたかが、人の命の分かれ目だった」と―

以来、「生き残り組」にとっては「生き残ったのが申し訳ない気がして、卒業後は同期で集まることはなかった」と原爆で心の傷を背負う事になったのです。

昭和52年(1977)の夏、原爆三十三回忌法要を営んだ際も遺族たちの多くは、「生き残り組」と言葉を交わす事はなかったそうです。

― ◇ ◇ ◇ ―
第一県女が在った旧所在地に建てられた正門の門柱 第一県女が在った旧所在地に建てられた慰霊碑

その遺族と「生き残り組」のわだかまりが解けたのが、平成6年(1994)の五十回忌の事。

実際、遺族の方々も高齢化が進み、「生き残り組」の方々も還暦を過ぎ、年々その姿が少なくなってきているのが現状です。

この年の原爆忌に第一県女の1年生だった梶山(旧姓、中本)雅子さんは小学校からの同級生で仲良しだった石堂郁江さんの両親から、初めて石堂さんの墓参りをする事を許されたのだとか―

被爆から60年以上が経っています。被爆体験と記憶の風化が叫ばれる状況を鑑み、決して風化させてはいけない、と思いつつ今年も8月6日を迎えます。

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参照)禎子ちゃんの想い―クミコ♪INORI〜祈り〜→
※(参照)聞こえなかった原爆―被爆ろう者の叫びを聴いてあげて!→


   

Eテレ 直伝 和の極意 あっぱれ!江戸のテクノロジー

6月からEテレ(NHK教育テレビ)で始まる趣味講座において、「直伝 和の極意 あっぱれ!江戸のテクノロジー」(全8回)と題したシリーズが放送されます。

テーマとしては、「鎖国江戸時代、日本は独自の科学技術が発展、目を見張るものであった。その極意を伝える」という事です。

その概要は以下の通り―

【直伝 和の極意 あっぱれ!江戸のテクノロジー】
○毎週木曜日午後10時25分〜10時50分(再放送は翌週の火曜日午前10時30分〜10時55分)

  • 第1回 田中久重(1) からくり人形の極意
    =6月7日/再:6月14日

  • 第2回 田中久重(2) からくり人形の極意
    =6月14日/再:6月21日

  • 第3回 大野弁吉−箱形写真機の極意
    =6月21日/再:6月28日

  • 第4回 華岡青洲−全身麻酔手術の極意
    =6月28日/再:7月5日

  • 第5回 渋川春海−日本初!「暦」の極意
    =7月5日/再:7月12日

  • 第6回 関孝和−円周率解法の極意
    =7月12日/再:7月19日

  • 第7回 国友一貫斎−反射望遠鏡の極意
    =7月19日/再:7月26日

  • 第8回 伊能忠敬−日本地図225枚の極意
    =7月26日/再:8月2日


NHK教育 歴史は眠らない「海がつないだニッポン」

さて、3月期のNHK教育テレビの「歴史は眠らない」シリーズは「海がつないだニッポン」(全4回)だそうです。

聴講するにおいて―

海洋国家・ニッポン。四方を海に囲まれたこの国では、古来、海に生きた人々のエネルギーあふれる活動が時代を動かしてきた。中世、対馬では、倭寇宗氏が貿易の担い手となって隣国との関係の鍵を握り、戦国時代には瀬戸内の水軍が強大な軍事力として天下統一の行方を左右した。鎖国下においても廻船商人たちが国内通商の大動脈として徳川幕府に繁栄をもたらし、世界に開かれてからは海運会社が外洋航路を切り開いて貿易立国の原動力となった。だが、現代の日本人の意識は海から遠ざかっている。海は国家間が主権を争って線引きする場となり、他国を隔てる“壁”という閉ざされたイメージがつきまとう。番組では、歴史上の海に生きた人々に改めて光を当てることで、人々や社会をつなぐ道としての海の役割に目を向ける
というテーマに絞って観るといいですね!その概要は以下の通り―

◎【NHK教育 歴史は眠らない 「海がつないだニッポン】
○毎週火曜日午後10:25〜10:50(再放送は翌週の火曜日午前05:35〜06:00)

  • 第1回 中世の“境界の民”


  • 朝鮮半島までおよそ50kmに位置する"国境の島"、対馬。14世紀以降、この地に生まれた2種類の"境界の民"が、日本と朝鮮半島をつなぐ役割を果たした。ひとつは、海賊集団「倭寇(前期倭寇)」、もうひとつは、対馬島主「宗氏」の一族である。1350年頃、南北朝の内乱で九州との交易路が絶たれた対馬では、海の民の一部が島内では自給できない米を求めて海賊行為を行い、「倭寇」と呼ばれるようになる。しかし、陸の政権の安定と共に再び広い海の世界に乗り出し、貿易商としての側面を強めていく。一方、対馬島主「宗氏」は、朝鮮への渡航認可書文引ぶんいんの発給権を得ることで島内の倭寇たちを統制し、巧みな外交交渉で両国の調整役としての顔を持つようになっていく。倭寇宗氏によって東アジア世界がつながり、一大交易圏が発展していく経緯を描く

  • 第2回 海賊大将、戦国の海を駆ける

  • →3月8日(火)午後10:25〜10:50(再放送:3月15日=火=午前05:35〜06:00)

    戦国時代に入ると、海の民たちは海上軍事力「水軍」として再編成されていく。京の都と外海を結ぶ一大流通路であった瀬戸内海では、組織的な軍事力と巧みな経済制度を武器に、「村上水軍」が海上権益を握り、独立した海の一大勢力に成長。戦国の乱世の中、「厳島合戦(1555)」を始めとする歴史に残る海戦に次々と勝利し、その名を天下に轟かすことになる。しかし、織田豊臣という強大な統一政権とぶつかる中で、次第にその自立性を奪われていくことになった。自立して生きた海の民が、軍事力として陸に組み込まれ、解体されゆく経緯を追うことで、海の歴史の一大転換点を見つめる

  • 第3回 江戸時代の海運革命

  • →3月15日(火)午後10:25〜10:50(再放送:3月22日=火=午前05:35〜06:00)

    江戸時代、海は国内通商の主要ルートとして飛躍的な発展をとげ、商品経済の成長に寄与して徳川幕府の繁栄の屋台骨となる。その立役者が、13歳で江戸に出て材木屋で財を蓄えた立志伝中の人物・河村瑞賢だ。瑞賢は、1671年、奥州から江戸への米の輸送に利根川を使わず、直接江戸湾に入るという新たな航路「東廻り航路」を開拓。翌年には、出羽酒田から日本海沿岸を回り、瀬戸内海・遠州灘を経て江戸に入る「西廻り航路」を開き、輸送に要する時間と費用を大幅に軽減することに成功。また、途中の寄港地を定めて灯台や水先案内船の設置も行うことで海運の発展に尽力した。海の廻船ルートの整備によって安定した繁栄がもたらされ、近海が国内通商の大動脈へと役割転換した時代を見る

  • 第4回 そして世界の海へ

  • →3月22日(火)午後10:25〜10:50(再放送:3月29日=火=午前05:35〜06:00)

    明治維新を経て、外海に開かれた日本。欧米の海運業者に通商ルートを握られていたこの時代に、“海上王”の異名をとった男がいる。坂本龍馬の世界貿易への夢を継ぎ、海運業から三菱財閥を築き上げた岩崎弥太郎だ。弥太郎は持ち前の剛腕で政府の後ろ盾を得て、海外業者から国内海運業の利権をわずか3年で取り戻し、さらに日本初の外国定期航路・上海航路を開設するにいたる。その後、三菱の覇権に異を唱える渋沢栄一らの「共同運輸」と熾烈な闘いが繰り広げられたが、弥太郎の病没を機に両者は合併。後に世界第2位の海運会社となる「日本郵船」が誕生する。弥太郎の遺志を継いだ日本郵船は、綿花を輸入するインド航路を開拓し、資源に乏しい島国がモノづくりの技術で勝負するための土台を形作った。現代につながる貿易立国の原点を明治維新期に探る
    といった内容で、講師として村井章介・東京大学教授に教わります。


NHK趣味講座 趣味工房シリーズ・直伝<和>の極意「体感・実感!にっぽんの名城」

ある日、ふと城下町でも散策しようかな!と思い立つ。

いざ出かけてみると、眼前にはそびえ立った天守閣の姿。

その場所に近づくにつれ、城下町の街並みを観ては「この城の縄張りはこうなんだな!」って考える。

また、立派な石垣や土塁の数々、中には自然の河川を有効利用したお堀も面白い―

そんな楽しさが味わえる“お城巡り”がブームだとか―

財団法人日本城郭協会が選定した「日本100名城」に則り、選定された全国の城郭を巡る『「日本100名城」選定記念スタンプラリー』という企画もあるそうです。

― ◇ ◇ ◇ ―

さて、1月からNHK教育テレビで始まる趣味講座において、趣味工房シリーズ・直伝<和>の極意「体感・実感!にっぽんの名城」(全12回)と題したシリーズが放送されます。

講師として千田嘉博・奈良大学文学部文化財学科教授を迎え、“歴ドル”の美甘子さんが生徒として教わります。

その概要は以下の通り―

【NHK趣味講座 趣味工房シリーズ・直伝<和>の極意「体感・実感! にっぽんの名城」】
○毎週木曜日午後10時〜10時25分(再放送は翌週の木曜日午後1時05分〜1時30分)

  • 第1回 世界遺産の華麗な技と美 姫路城 【城歩きの道具】
    =1月6日/再:1月13日

  • 第2回 「日本最強?」のひみつ 熊本城(1) 【天守を撮る】
    =1月13日/再:1月20日

  • 第3回 「日本最強?」のひみつ 熊本城(2) 【やぐら・堀を撮る】
    =1月20日/再:1月27日

  • 第4回 天下人家康の「究極の城」 名古屋城 【絵図を読む】
    =1月27日/再:2月3日

  • 第5回 天下無双の「要塞ようさい」 大坂城(1) 【歴史資料を読み解く(1)】
    =2月3日/再:2月10日

  • 第6回 天下無双の「要塞ようさい」 大坂城(2) 【歴史資料を読み解く(2)】
    =2月10日/再:2月17日

  • 第7回 独眼竜政宗の「野望の跡」 仙台城 【政宗像を撮る】
    =2月17日/再:2月24日

  • 第8回 真田一族ここにあり 上田城&松代城(1) 【模型をつくる(1)】
    =2月24日/再:3月3日

  • 第9回 真田一族ここにあり 上田城&松代城(2) 【模型をつくる(2)】
    =3月3日/再:3月10日

  • 第10回 浅井三姉妹のふるさと 小谷城 【山城歩きの装備】
    =3月10日/再:3月17日⇒再放送決定!4月9日(土)午後3:00〜3:24(教育テレビ)にて…

  • 第11回 「縄張り図」を読む 鹿背山城かせやまじょう
    =3月17日/再:3月24日⇒再放送決定!4月9日(土)午後3:24〜3:48(教育テレビ)にて…

  • 第12回 「縄張り図」をかいてみよう!
    =3月24日/3月29日(火)午前10時30分〜55分⇒再放送決定!4月9日(土)午後3:48〜4:12(教育テレビ)にて…

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この番組のテキスト本には、特別付録として上田城の組み立てペーパ−クラフトが巻末に付いています。興味ある方は是非!

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“お城巡り”、最近殆んどやってません!(笑)

初めて“お城巡り”をやったのは、もう何年前になるのかな?父と一緒に安土城築城400年まつりってのに行った安土山ですね。現在の様に発掘や整備もされていない完璧な登山ルートって感じでしたが、今思えば“原風景”に何パーセントか近かった光景ですよね。(史学科在学中、ゼミで朝倉氏の一乗谷の話題になった時、先生が“文字に書いてある内容だけではなく、現場の地形や情景、気候・風土も考察して論じるべき”と仰ったので、友人たちと連休を利用して一乗谷遺跡まで出向いた事を想い出します!)

その時、安土山の麓周辺では「楽市・楽座」に引っかけて、露店などが出回ってましたが、陶器茶碗を売っておられたご主人が見世物として、陶器で作った安土城天主閣の模型を展示されていて、撮影の許可を頂いた上で写真におさめました。

昨今、歴女ブームとかの悪影響もそうだけど、観光産業の目玉として城下町を大々的に宣伝して観光客を呼ぼうとする余り、昔の風景に何パーセントか近かった“原風景”が破壊されつつあります。

そうした観光公害に晒されている城下町の存在を見るにつけ、今想い返すとまだ手付かずな時代が一番良き時代だったのかもしれませんね!

― ◇ ◇ ◇ ―

講師である千田先生は奈良大学文学部文化財学科の教授でいらっしゃいますね。私事ですが、約25年前に奈良大学の文化財学科目指して受験の日々を送っていました。当時の定員25人枠に対し、1次試験および2次試験の受験者数2000人、つまり80倍の難関という具合でしたもんね。まぁ、結果として違う学校の史学科に合格でき、歴史研究のイロハを習う事になりますが、懐かしさが溢れてきます!!(笑)


歴史秘話ヒストリア「ぴあのすとおりい〜ピアノが語る明治・大正・昭和〜」(2)

今回もNHK総合で放送している「歴史秘話ヒストリア」の感想です。今回ピックアップされたのは、ピアノに情熱を傾けた方々のお話で、テーマは「ぴあのすとおりい〜ピアノが語る明治・大正・昭和〜」というもの。

エピソードのピックアップ(番組からの引用)―

エピソード2 大正・ふたりの天才ピアニスト

大正時代、日本に突如登場したふたりの天才ピアニスト。久野久子、小倉末子。
ふたりは、急激に西洋化が進む時代の中で、日本のピアノ芸術がついに西洋に追いつくのかともてはやされます。しかし、本人たちだけが感じていた西洋芸術の壁。ふたりは、栄光と悲劇、双方に彩られた人生を送ることに…。
日本人のピアニストはどう誕生したのか?―

最初の挙げる人物として、明治4年(1871))に第1回海外女子留学生として渡米し、10年間アメリカで過ごした永井繁(のちの瓜生うりゅう繁子)が浮かび上がります。

次いで、東京音楽学校瓜生繁子に教授を受けた幸田のぶが有名ですね。

時代が下って大正時代、2人の女流ピアニストが現れます―

片や久野くの久子。そして、もう一方が小倉末子です。

久野久子は、滋賀県大津市膳所町馬場(現、大津市馬場町)出身で、幼少期に近所の平野神社の石段から転落して右脚を負傷。久子の怪我の事実を隠した使用人のために適切な処置が受けられず、以降右脚に障害が残ります。(のちの事、ピアノのペダルが上手く踏めない程だったと云われています)。

しばらくして、久子は叔父に引き取られ、叔父の勧めで長唄や琴・三味線を習い、13歳の時に師範免状を授与されます。

しかしながら、「これからの音楽は邦楽ではなく洋楽」と邦楽の世界に限界を感じていた兄・弥太郎の勧めで、明治34年(1901)15歳の時に東京音楽学校に仮入学します。(当時の入学試験では専門実技はなく、邦楽実技が必修だったので、久子は難なく合格できたのだが、専攻すべきピアノについては仮入学してからのスタートをしている)

音楽学校の教官たちは、仮入学の久に対し、15歳という遅いスタートだという事、また、右脚の障害を考えた場合の適性などが問題視(これについては、退学勧告を受けた久子がすぐさま病院へ行って検査を受け、「支障ナシ」との診断書をもらって学校側に叩きつけている―)され、諦めて退学する事を奨めたと云います。

久子の成績は当初は芳しくなかったのですが、連日7時間以上に及ぶ猛練習を行って上達(「指から血が出るのも知らずに」練習したという…)し、実技成績もドンドン上がっていき、翌35年(1902)に東京音楽学校本科器楽科として正式に入学します。

明治39年(1906)には本科器楽科を主席で卒業し、研究科に進む傍ら、翌40年(1907)から助手を兼任します。

さらに明治41年(1908)に研究科を修了。そのまま教官(講師)として母校に残り、同43年(1910)に助教授に昇格します。

ところが、大正3年(1914)久子は交通事故に遭い、頭と胸を負傷。自動車事故で一時生死を彷徨うが翌4年(1916)に復帰します。

大正6年(1917)、東京音楽学校の教授に昇格します。

大正12年(1923)、文部省の海外研究員という名目(実は自費)で渡欧し、ドイツのベルリンで生活を始め、翌13年(1924)にはオーストリアのウィーンに移住。

翌14年(1925)、ウィーン郊外のバーデンでエミール・フォン・ザウアー(Emil von Sauer)に師事し、個人レッスンを受け始めます。

しかし、同年4月20日、バーデンの滞在中のホテルの屋上から中庭に投身。発見され病院に搬送されるが、約8時間後に死去。享年38歳。

自殺の原因として、師事したザウアーから基礎からのやり直しを言い渡された事に絶望したなどの憶測(現場近くに久子が演奏の難しさをメモした多くの楽譜が残されていたために…)が飛び交っている。

― ◇ ◇ ◇ ―

一方の小倉末子は、岐阜県大垣町(現・大垣市寺内町)出身で、幼少期に両親を失って以降は、貿易業者だった兄・庄太郎に引き取られ、神戸に移住します。

資産家である兄の邸宅にはピアノがあり、末は割と早い時期に兄の妻で義姉のマリア・ニッチェ(ドイツ・ベルリン出身の女性)からピアノの手解きを受けます。

その後、兄の奨めにより神戸女学院音楽科(現、神戸女学院大学音楽学部)に進学。

明治44年(1911)、東京音楽学校に入学するも、翌45年(1912)、マリアの進言によって留学を奨められ、東京音楽学校を中退。

同年、通訳として同行するマリアと共に、ドイツ・ベルリンに渡欧。ベルリン王立音楽院ピアノ科に見事合格し、カール・ハインリヒ・バルト(Karl Heinrich Barth)に師事します。

だが大正3年(1914)、第一次世界大戦が勃発したため、日本とドイツは国交断絶状態となり、末は戦禍を避けるためベルリンを去り、アメリカ・ニューヨークに渡ります。

この間、コンサートに出演して激賞(『ニューヨーク・タイムズ』)され、翌年のコンサート契約を勝ち取ります。

大正4年(1915)、シカゴのメトロポリタン音楽学校から招聘され、ピアノ科の教授に就任します。

大正5年(1916)4月、日本へ凱旋帰国し、同年5月、東京音楽学校の講師に就任。翌6年(1917)には教授に昇格します。

久野久子小倉末子は揃って同時期に東京音楽学校の教授に就任しています。それぞれに欧米に対し一歩も引けを取らないという期待が一心に集まります。しかし当の本人たちは欧米とのレベルの差を充分過ぎる程痛感していたのです。

久野久子の悲劇は、まさにそんな風潮での出来事でした。

― ◇ ◇ ◇ ―

エピソード3 昭和・戦争とピアノ
太平洋戦争中、日米両軍は、ピアノを兵器とし、意外な方法で戦場に投入します。日本でピアノは、敵の潜水艦や戦闘機の音を聞きわけるための「音感教育」に使われ、一方、アメリカ軍は戦地用ピアノを開発し、兵士たちの士気を向上させます。そんな中、ひとりの日本人少女のピアノが、敵味方だった日本人とアメリカ人を結びつけます。外国の戦場から日本に連れてこられた外国人捕虜たちが、収容所の外から聞こえてくる少女のピアノを聴き、終戦後、感謝の気持ちを伝えに来たのです。
大正時代も末期の1920年代になると、ジャズが流行し始め、また、ラジオ放送の開始により、大衆文化が花開くとピアノもそのブームの一部として大衆に受け容れられます。

ところが、昭和に入り、戦時色の様相が強く表れると、ピアノは戦争の小道具として使われるようになり、そうした中で、小倉末子も否応なく、戦争という風潮の中に巻き込まれていきます。

太平洋戦争が勃発し、学校教育の場も愈々戦時色に染まり出すと、軍事教練などが幅を効かせ、末子たち芸術教科の教員たちは居場所を失っていきます。

芸術・文化の象徴でもあるピアノでさえ、軍務教育の一環として利用されるのです。

甲陽学院に現在残るピアノがあります。「聴覚」を戦争に役立てるという方針の下、「音感教育」に使われたのです。

陸軍船舶情報連隊(兵庫県西宮市)では対潜水艦警戒が任務となっていて、聴音機などを使って音波を発射し、その反射から魚雷なのか潜水艦なのかを判定をするための「音感教育」を育むためにピアノが使われたのです。

一方でアメリカ軍は、スタインウェイ&サンズ製の「ヴィクトリー・モデル」という戦地で使用するピアノが投入されます。その目的は海外で戦う兵士の慰問や士気高揚のためでした。

昭和19年(1944)、末子東京音楽学校を退職し、各地を巡って演奏会を開きます。過去に関東大震災(大正12年=1923)の時もピアノ演奏で慰問をしています。

ピアノが戦争に使用されていく様を、末子はどんな思いで見ていた事でしょう。末子は同年に死去。享年53歳。

― ◇ ◇ ◇ ―

そんな戦時下も押し詰まってきた状況の中、1人の少女がある奇跡を起こすのです。

この少女の家に残されたピアノは小倉末子が生前に使っていたものだそうです。

実はこの少女は音楽学校に入学して小倉末子に師事する予定でした。

ところが、小倉末子の突然の死去に伴い、そのピアノを譲り受け、このピアノで毎日練習に励んでいました。

そんな少女の奏でるピアノの音色に温かな視線を送る人たちがいました。

それは外国人捕虜の人たちでした。

実は、少女の家の前には外国人捕虜の収容所があったのです―

それは昭和20年(1945)の夏の暑い盛り、少女がいつものようにピアノの練習をしていると、その演奏を収容所の捕虜たちが聴いていたようです。

その数は日に日に増え、収容所の屋根の上にずらっと並んで人だかりだでき、少女が奏でるピアノ演奏に聴き入っていたのだとか…

終戦後、この捕虜の人たちが帰国の途に着く前に少女の家にお礼の挨拶としてチョコレートなどの軍事物資を持参して訪問したそうです。

そして別れ間際、ジープに乗って帰国の途に着こうとする彼らは、少女に向かって、笑顔で何度も何度も手を振っていたのだとか―

これってまさに、“音楽に国境はない”って理念の実践ではないでしょうか。国籍や人種を超えて、小倉末子の想いと、それを受け継ぎ、奏で続けた少女の思いがピアノの音色にのって響き渡ったといってもいいのでしょうね。

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この秋、神戸女学院大学図書館本館において、「100年前の卒業生:世界が認めた最初の日本人ピアニスト小倉末子(1891〜1944)の軌跡」という展示会が催されます。

期間は10月1日(金)〜12月23日(木)まで。入場無料。詳細は神戸女学院大学企画広報室まで。

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※(関連)歴史秘話ヒストリア「ぴあのすとおりい〜ピアノが語る明治・大正・昭和〜」(1)→

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※(参照)大津市膳所出身のピアニスト―久野 久―(「Yagiken Web Site」)→
※(参照)母のピアノ…@(「michaela's diary」)→
※(参照)母のピアノ…A(「michaela's diary」)→
※(参照)ピアノ物語〜エピソード2(「michaela's diary」)→


 

歴史秘話ヒストリア「ぴあのすとおりい〜ピアノが語る明治・大正・昭和〜」(1)

今回もNHK総合で放送している「歴史秘話ヒストリア」の感想です。今回ピックアップされたのは、ピアノに情熱を傾けた方々のお話で、テーマは「ぴあのすとおりい〜ピアノが語る明治・大正・昭和〜」というもの。

エピソードのピックアップ(番組からの引用)―

エピソード1 明治・武士とピアノ

明治時代、国産ピアノ開発に挑戦した職人・山葉寅楠(元紀州藩士)と東京音楽学校初代校長・伊澤修二(元信州高遠藩士)。ふたりの元武士は、西洋楽器の王様といわれるピアノの開発に果敢に挑みます。その背景には、西洋の仲間入りを目指そうという明治時代の日本人の強烈な思いがありました。
日本に最初にピアノをもたらしたのは、現在いまから187年前の文政6年(1823)から同12年(1829)まで長崎・出島のオランダ商館付医官として赴任したフィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold)で、イギリス・ロンドンのロルフ父子商会(William Rolf & Sons)が1814年(文化11)頃から1820年(文政2)にかけて製造したと思われるターフェルピアノ(独・蘭語)、またはスクエアピアノ(英語)と呼ばれていた5オクターブ半の鍵盤を持つピアノを日本にもたらします。

それから約60年後―日本初の国産ピアノが誕生します!

明治21年(1888)、元士族の出で、医療器具の修理工をしていた山葉やまは寅楠とらくす日本最初の本格的なオルガン(リード・オルガン)の製造に成功するのです。

元々、寅楠の父親が出仕先の和歌山藩で天文方を務め、天文暦数や土地測量・土木設計などの技師を担っていた事もあって、幼少時から機械いじりが得意でした。

寅楠は大阪でまず時計商の徒弟として奉公し、その後長崎のイギリス人の下で5年間時計の修繕法を学び、その後大阪の医療器具店に修理工として働きます。やがて、寅楠は大阪で店を構えますが失敗し、夜逃げ同然に東京へ逃げ出すのです。しかし、東京に出ても何一つ上手くいく事はなく、各地を転々とする中、浜松の県立病院で修理工を捜している事を知人から聞いて同17年(1884)頃にそこに就職。そこで医療器具の修理や時計など機械器具全般の修理などを請け負って生計を立てていました。

そんな寅楠に明治20年(1887)、浜松尋常小学校(現、浜松市立元城小学校)からアメリカ製のリードオルガンの修理の依頼があったのです。

ひょんな事からリードオルガンの修理を手掛けた寅楠は、リードオルガンの内部を調べ、その構造を細かく何十枚もの図面に模写し、故障の原因(→バネが2本壊れていた)を突き止め、約1か月後、オルガンを修繕したのです。

修繕をする過程で、寅楠はこの仕組みなら自分にも作れそうだという探究心が沸き、 オルガン作りへの夢が花開くのです。

寅楠は知り合いで飾り職人である河合かわい喜三郎きさぶろうに協力を仰ぎ、オルガンの製作に取り掛り、翌21年(1888)に国産第1号となるオルガンの製造に成功するのです。

― ◇ ◇ ◇ ―

早速、寅楠たちは浜松尋常小学校や静岡師範学校(現、静岡大学教育学部)に持ち込みますが、その評価は芳しいものではありませんでした。

どうやら音程がばらばらだったようなんですね。そこで、静岡県令(現在の静岡県知事)の関口隆吉(旧幕臣)に東京音楽学校(現、東京芸術大学音楽学部)の校長である伊沢修二を紹介してもらい、東京で調べてもらう事にしました。

寅楠喜三郎の2人は、天秤棒でオルガンを担いで運び、“天下の嶮”で名高い箱根の難所を越えて徒歩で250km先の東京へ向かいます。

東京に辿り着き、伊沢修二にオルガンをみてもらった2人ですが、伊沢の評価から「調律が不正確」な事が原因でした。

すっかり落胆した寅楠に対し、伊沢は調律の勉強を勧めます。そこで、寅楠は1か月程東京音楽学校で聴講生として調律や音楽理論を学びます。

この点、伊沢自身もアメリカに留学した際、元来、三味線や琴の音色に馴染んでいた日本人には感覚的に西洋の音階が上手く呑み込められず、かなり苦労した経験を持っていたのです。(※1)


※1
日本古来の雅楽や能楽、三味線などのメロディーは、黒鍵だけで弾けるような5音階(♪ドレミソラ)であった。それに対し、西洋のメロディーは、♪ドレミファソラシの7音階であるために、 育った音楽環境の違いから、7音階になかなか馴染めなかったようですね。

すなわち、ハ長調でいうところの4番目の♪ファと7番目と♪シの感覚が日本には馴染みがなかったのです。

そこで、考え出されたのかは知りませんが、日本古来の音階も含みつつ西洋の音階に似せるという感じで、長調の音の構成音を使った♪ドレミソラ♪の「ヨナ抜き音階」を創り出したのだとか…

明治初期の頃の日本の音名(階名)は主に、

1(ヒ)、2(フ)、3(ミ)、4(ヨ)、5(イ)、6(ム)、7(ナ)
と言っていました。これでみると、4番目の♪ファは「ヨ」、7番目と♪シは「ナ」になってますよね。

但し、西洋の音楽の中でも「ヨナ抜き音階」と同じ音階で出来ている曲―例えばスコットランド民謡の♪蛍の光―などは、馴染み易かったようですが…

こうした「ヨナ抜き音階」で作曲された楽曲って、例えば「上を向いて歩こう」、「木綿のハンカチーフ」、「北国の春」、「夢追い酒」、「昴」などが有名の様です。

これが明治後期に入って、西洋音楽が導入されて、

音名
英米式−C(シー)、D(ディー)、E(イー)、F(エフ)、G(ジー)、A(エー)、B(ビー)
独逸式−C(ツェー)、D(デー)、E(エー)、F(エフ)、G(ゲー)、A(アー)、H(ハー)
日本式−ハ、ニ、ホ、ヘ、ト、イ、ロ
階名
♪ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ド♪
※なお、フランスやイタリアでは音名と階名は統一されていて、♪ドレミファソラシ♪となってます。

という形になったんですね。


― ◇ ◇ ◇ ―

東京で調律法を身に付けた寅楠は、再び喜三郎と共にオルガンの製作を始め、その2か月後、第2号目のオルガンが完成するのです。

再び、箱根の山を越えたこのオルガンですが、この度は伊沢の前で素晴らしい音色を響かせる事になりました。(そのまま東京音楽学校に寄贈されます)

こうして、寅楠のオルガンが誕生し、さらに明治22年(1889)には合資会社山葉風琴製造所が設立されます。(オルガンの事を風琴と云っていました―)この山葉風琴製造所は出資引き揚げにより2年後に解散しますが、寅楠喜三郎らと共同で「山葉楽器製造所」として再出発し、明治30年(1897)日本楽器製造株式会社(現、ヤマハ株式会社)初代社長となります。

― ◇ ◇ ◇ ―

寅楠はその技術を基にかねてからの懸案だったピアノ製造へと着手します。

明治32年(1899)、寅楠はアメリカへ5か月間の視察旅行に出て、キンボールやメイソン&ハムリン、スタインウェイ&サンズなどを視察したり、生産加工機械を購入します。

アメリカから帰った寅楠はまず会社の組織を改変し、優秀な若い世代を抜擢していきます。その中には11歳で入社し、“発明小市”と呼ばれるなど才能を発揮する河合小市(のち河合楽器製作所創始者や山葉直吉(虎楠の姪の養子)、松山大三郎らがいました。

明治33年(1900)、いよいよ寅楠がアメリカで買ってきた加工機械を使って、国産第1号となるアップライトピアノを誕生させます。さらに、同35年(1902)にはグランドピアノを完成させるのです。

― ◇ ◇ ◇ ―

※(関連)歴史秘話ヒストリア「ぴあのすとおりい〜ピアノが語る明治・大正・昭和〜」(2)→


「幻の甲子園〜戦時下の球児たち〜」

幻の甲子園

今年で太平洋戦争終結から65年、今年も阪神甲子園球場において全国高等学校野球選手権大会が開催されますね。

今大会で第92回を迎えますが、過去に出場校が出揃っていたが米騒動の煽りを受けた第4回大会(大正7年=1918)や日中戦争の激化のため各地区大会の段階で開催が中止となった第27回大会(昭和16年=1941)、そして以降、昭和21年(1946)に再開するまでの4年間は戦争による中断が存在します。

ところが、昭和17年(1942)に全国大会が開催されていたのです。

実は、前年の昭和16年(1941)に全国大会が中止していましたが、「戦意高揚」を目的として、野球をやらせようと文部省(現、文部科学省)とその外郭団体である大日本学徒体育振興会主催という形で「大日本学徒体育振興大会」が開催される事となり、その競技の一部として、中等学校野球選手権甲子園球場で開催されます。

「戦意高揚」を目的とした分、軍事色が強く、スコアボードには「勝って兜の緒を締めよ 戦い抜こう大東亜戦」というスローガンが掲げられたり、ユニフォームのロゴもローマ字から漢字に変更されました。また「打者は球を避けてはいけない。球に当たっても死球にならない」といった特別ルールも存在した程です。

そうして、大会が開催されたにも拘らず、この年の大会の主催が全国中等学校野球連盟と朝日新聞社ではなく、文部省(現、文部科学省)の主催だったために正式な歴史としては数えられず、“幻の甲子園”と呼ばれています。

朝日新聞社から「大会の回数継承」と「優勝旗の使用」を文部省(現、文部科学省)側に申し入れたのですが、文部省(現、文部科学省)が却下したために、現在に至っても全国高等学校野球選手権大会の公式記録としては個人レベルの記録でさえも認められてはいないのです―

この“幻の甲子園”と呼ばれた大会のデータを以下掲載しますね。

◆出場校:16校(岩手県、福島県、山梨県、富山県、島根県、沖縄県、朝鮮、満州は不参加)

○北海道大会=北海道(札幌地区のみ、釧路・旭川・函館・小樽地区では未開催)
→北海中(札幌地区)4−2 札幌二中(現 札幌西、札幌地区)

(旧来)奥羽大会=青森県、岩手県、秋田県
(旧来)東北大会=山形県、宮城県、福島県
○東北大会=青森県、岩手県、秋田県、山形県、宮城県、福島県
→仙台一中(現 仙台第一、宮城県)6−2 弘前工(青森県)

(旧来)北関東大会=茨城県、栃木県、群馬県
○北関東大会=茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県
→水戸商(茨城県)4−0 桐生中(現 桐生、群馬県)

(旧来)南関東大会=埼玉県、千葉県、神奈川県
(旧来)東京大会=東京府(※)
○南関東大会=千葉県、東京府、神奈川県
→京王商(現 専修大附、東京府)7−6 帝京商(現 帝京大高、東京府)

※ 東京府
東京府とは、慶応4年(1868)7月17日から昭和18年(1943)6月30日まで存在していた日本の行政単位の1つ。


(旧来)山静大会=山梨県、静岡県
(旧来)信越大会=新潟県、長野県
○甲信静大会=山梨県、長野県、静岡県
→松本商(現 松商学園、長野県)6−0 静岡商(静岡県)

(旧来)北陸大会=富山県、石川県、福井県
○北陸大会=新潟県、富山県、石川県、福井県
→敦賀商(現 敦賀、福井県)8−4 金沢商(石川県)

(旧来)東海大会=愛知県、岐阜県、三重県
○東海大会=愛知県、岐阜県
→一宮中(現 一宮、愛知県)3−2 岐阜商(現 県岐阜商、岐阜県)

○京津大会=滋賀県、京都府
→平安中(現 龍谷大平安、京都府)7−0 膳所中(現 膳所、滋賀県)

○大阪大会=大阪府
→市岡中 (現 市岡)7−5 浪華商(現 大体大浪商)

(旧来)紀和大会=奈良県、和歌山県
○近畿大会(三重県、奈良県、和歌山県
→海草中(現 向陽、和歌山県)5−0 天理中(現 天理、奈良県)

(旧来)兵庫大会=兵庫県
(旧来)山陰大会=鳥取県、島根県
(旧来)山陽大会=岡山県、広島県、山口県
○東中国=兵庫県、岡山県、鳥取県
→滝川中(現 滝川、兵庫県)6−0 鳥取一中(現 鳥取西、鳥取県)
○西中国=広島県、島根県、山口県
→広島商(広島県)5−0 萩商(山口県)

○四国大会=香川県、徳島県、愛媛県、高知県
→徳島商(徳島県)2−1 松山商(愛媛県)

○北九州大会=福岡県、佐賀県、長崎県
→福岡工(福岡県)6−5 豊国商(現 豊国学園、福岡県)

○南九州大会=熊本県、大分県、宮崎県、鹿児島県、沖縄県
→大分商(大分県)1−0 熊本工(熊本県)

○台湾大会
→台北工(現 台北科技大学)4−2 高雄中(現 高雄中)

○朝鮮大会
○満洲大会

◆試合結果
◇1回戦
京王商 000 000 000 100 00 =1
徳島商 000 000 000 100 01X=2(延長14回)

水戸商 000 104 004= 9
滝川中 000 000 030= 3

台北工 100 000 000 1 = 2
海草中 000 000 001 2X= 3(延長10回)

敦賀商 000 001 002= 3
福岡工 200 035 01X=11

市岡中 000 000 000= 0
平安中 003 000 00X= 3

一宮中 301 020 010= 7
松本商 200 000 000= 2

北海中 001 000 100= 2
広島商 203 002 30X=10

大分商 020 000 000= 2
仙台一 110 000 01X= 3

◇2回戦
水戸商 000 000 000= 0
徳島商 000 000 10X= 1

海草中 031 000 001= 5
福岡工 110 000 000= 2

平安中 100 000 001= 2
一宮中 000 000 000= 0

仙台一 003 002 320=10
広島商 300 301 174X=28

◇準決勝
徳島商 000 000 100=1
海草中 000 000 000=0

広島商 000 0
平安中 000 0(5回途中ノーゲーム)

広島商 301 000 000=4
平安中 000 040 40X=8

◇決勝
平安中 100 001 040 01 =7
徳島商 010 000 500 02X=8(延長11回)

という様に、見事、徳島商が県勢として初めての全国制覇を成し遂げました。しかし、徳島商のこの優勝は公式記録には残りません。ただ、優勝した証として1枚の賞状だけが渡されました。(※1)


※1 この賞状ですが、昭和20年(1945)の徳島大空襲で焼失してしまったそうです。その後、昭和52年(1977)に改めて文部省(現、文部科学省)から賞状と優勝盾が贈られているとの事。

そんな球児たちの熱い想いをドキュメントした番組が放送されます―8月7日(土)にNHK総合で放送される「幻の甲子園〜戦時下の球児たち〜」(午後8時〜8時45分)という番組です。概要はこんな感じ―

昭和17年(1942)、太平洋戦争の期間中、ただ一度だけ行われた夏の甲子園大会。球児たちは、戦場へ向かう前に甲子園で野球をやりたいと夢見た。その切実な思い故、この年の甲子園は異様な熱気に包まれた。ところがこの大会は、高校野球の公式記録には一切残されなかった。あの汗、あの涙、球児たちの熱戦は、幻であったのだろうか…

実は、「幻の大会」の主催者は朝日新聞社から強引に開催権を奪った文部省であった。軍の協力の下、甲子園を戦意高揚のために利用しようとしたのである。スコアボードには、「戦い抜こう大東亜戦」というスローガンが掲げられ、軍隊式ルールが野球の姿を歪めた。

それでも球児たちは精一杯白球を追い、大会の後は野球への思いを断ち切り戦場へ赴いた。沖縄戦、原爆の惨禍、そしてシベリア抑留。過酷な運命に翻弄された球児たちは何を思い、どう生きたのか。甲子園大会のはじまる8月7日、歴史に埋もれた大会を映像で再現し、元ちとせさんがテーマソングを歌って球児たちの魂を蘇らせる。野球を愛する多くの日本人と共に、戦争の時代を生きた球児たちへ深い鎮魂の祈りを捧げたい―
現在の高校球児たちと同様に甲子園目指して日々頑張っていた球児の皆さんにとって、甲子園という舞台は主催者が何であろうと関係ないはず…彼らの熱い想いを受け止めてみませんか!

― ◇ ◇ ◇ ―

※(関連)幻の甲子園―兵庫県予選(日めくりアマチュア野球)→
※(関連)幻の甲子園 京王商(☆甲子園出場校ぶらり散策日記)→
※(関連)高校野球の100年(徳島の20世紀)→
― ◇ ◇ ◇ ―

※(参照)「出口のない海」→


歴史秘話ヒストリア「妻の私が支えねば〜天平のスーパーウーマン・光明皇后〜」

「歴史秘話ヒストリア」から光明皇后

NHK総合で放送している「歴史秘話ヒストリア」を観ました。今回、ピックアップされたのは、光明こうみょう皇后「妻の私が支えねば〜天平のスーパーウーマン・光明皇后〜」というテーマでの進行となります。

まずは予習として、

Q.光明皇后って誰?―

光明皇后奈良時代の女性で、聖武天皇の皇后。父は藤原不比等、母はあがた犬養いぬかい三千代(橘三千代)。名は安宿あすかべのひめ。通称として、光明皇后光明子こうみょうし藤三娘とうさんじょうと呼ばれています。以下、簡単な略歴を掲載―

大宝元年(701)安宿媛、藤原不比等と県犬養三千代(のち橘三千代)との間の三女として誕生
和銅4年(714)おびとの皇子(のちの聖武天皇)元服・立太子
霊亀2年(716)安宿媛(光明子)、首皇子の夫人ぶにん(律令制における天皇の后妃の称号で、皇后・妃に次ぐ地位)となる
養老2年(718)光明子、阿倍皇女(阿倍内親王、のちの孝謙・称徳天皇)を産む
養老7年(723)興福寺に施薬院せやくいん(中世以降は“やくいん”)・悲田院ひでんいんを建てる
神亀元年(724)首皇子が即位し、聖武天皇となる
神亀4年(727)聖武天皇、光明子との間に皇子某王誕生、皇太子とする
神亀5年(728)皇太子某王薨去こうきょ
神亀6年(729)長屋王の変
天平元年(729)藤原夫人光明子、聖武天皇のみことのりにより皇族以外から初めての人臣皇后(光明皇后)となる
天平元年(729)皇后宮職が設置される
天平2年(730)興福寺に施薬院・悲田院を置く
天平9年(737)疫病(天然痘)が大流行し、光明皇后の兄弟である藤原四子(武智麻呂むちまろ房前ふささき宇合うまかい麻呂まろ)が相次いで薨去
天平10年(738)阿倍内親王(のちの孝謙・称徳天皇)を皇太子とする。
天平13年(741)国分寺、国分尼寺建立の詔が発せられ、その際に光明皇后は父・不比等の遺産の内から封弧3000戸を国分寺に施入する
天平16年(744)安積親王薨去
天平17年(745)旧皇后宮を宮寺に改める(法華寺=総国分尼寺、法華滅罪之寺=の創建)
天平19年(747)光明皇后、新薬師寺を建立。
天平21年(749)聖武天皇及び光明皇后、大僧正・行基を戒師として受戒し、出家する。聖武天皇の法名は「勝満」、光明皇后は「万福」と号す
天平勝宝元年(749)安倍内親王が即位して孝謙天皇となる
天平勝宝元年(749)皇后宮職を紫微中台しびちゅうだいに改める
天平勝宝4年(752)東大寺金堂(大仏殿)の盧舎那るしゃな仏坐像が完成し、開眼供養が催される
天平勝宝8歳(756)聖武太上天皇崩御
天平宝字4年(760)光明皇太后逝去せいきょ
―というように、

聖武天皇が皇太子の時代に結婚し、やがて阿倍内親王を出産。聖武天皇の即位に伴い、夫人の官位を授かります。

待望の皇子某王を産みますが、わずか1年後に夭折してしまいます。

長屋王の変後、聖武天皇より皇后にするとの詔が発せられて立后。王族以外から初めて立后した例となります。

その後、娘である阿倍内親王(のちの孝謙・称徳天皇)の立太子及び即位に伴い、臨時朝政をする意味で、皇后宮職紫微中台と改称し、甥である藤原仲麻呂恵美えみの押勝おしかつ)を長官に任じて様々な施策を行います。

夫である聖武太上天皇が崩御すると、後を追うかのようにその2年後に逝去します。

光明皇后は能書家としても知られており、正倉院に所蔵されている楽毅がっき論』(=おう羲之ぎし『楽毅論』を臨書した名品。「天平十六年十月三日藤三娘」と署名されてある)は有名な作品の1つである。

また、光明皇后は篤く仏教に帰依していて、『続日本紀』に記載された光明皇后逝去の条には、

東大寺、及び天下国分寺を創建する者は、本太后の勧むる所なり
との記述がみられ、光明皇后聖武天皇東大寺国分寺の建立を勧めた可能性を示唆しています。

仏教の庇護者としても様々な伝説も伝えられていて、

また貧しい人に施しをするための施設「悲田院」、医療施設である「施薬院」を設置し、慈善事業を催すなど、今日の社会福利厚生事業の先駆者としても有名である。

以下、エピソーソのピックアップ(番組からの引用)―

エピソード1 バリバリ働く皇后様登場!

奈良時代初め、聖武天皇の妻になった光明皇后。しかし、当時は天災や争乱が続く混乱の時代。仏教に深く帰依した光明皇后は民衆を救うため医療施設の運営など慈善事業に着手します。さらに災いが収まることを願い仏教を中心とした国造りを積極的にすすめていきます。聖武天皇の事業とされる大プロジェクトをプロデュースしたのも、実は光明皇后でした。

エピソード2 ようこそ!幻の巨大寺院へ

2年前に奈良市で見つかった巨大寺院の跡。光明皇后が聖武天皇の病気回復を願い建立し、平安時代に倒壊後、行方がわからなくなっていた新薬師寺の金堂跡と推定されました。古代建築や仏教美術の専門家が1年以上かけ、発掘成果の分析や古文書の解読などから幻の巨大寺院をCG復元。光明皇后の力と祈りの強さを伺わせる絢爛豪華な仏の大宇宙の全貌を紹介します。

エピソード3 妻の私が支えねば

跡継ぎの男子に恵まれなかった聖武天皇と光明皇后は長女の阿倍内親王を女性初の皇太子にします。しかしこの異例の人事に光明皇后の実家、藤原氏の台頭を危惧する他の貴族が反発、争乱がおこります。聖武天皇は病状が悪化し譲位。阿倍内親王が孝謙天皇として即位しますが、貴族の反発が強く経験も少ない彼女では国政がさらに混乱することは明らかでした。この事態に光明皇后は自ら政治の前面に立ち、中国の女帝・則天武后にならった改革を始めますが…
観てへんかった!って方は、再放送でチェックして観て下さい。再放送の放送予定は、

  • 7月21日(水)08:15〜08:58 NHK−BS2

  •     〃    16:05〜16:48 NHK総合

  • 7月23日(金)02:30〜03:13 NHK総合
となっています。

― ◇ ◇ ◇ ―

実は、この光明皇后を採り上げる回は先に予告編を観た段階で興味を持っていたのですが、実際に観てかなり収穫のあった内容でしたね。

私にとって、光明皇后へのイメージはほぼ里中満智子さんの『女帝の手記―孝謙・称徳天皇物語』の影響力が強く、その印象は“藤原氏をベースに権力に執着した人”ってなモノでしたが、藤原氏に限らず、国家ないしは民衆に向けてアプローチする姿はまさに新しい発見となりました。

加えて、ちょうど執筆途中の「武則天と武周革命」であったり、来月からCSで始まる「北魏馮太后」のネタを一層充実させ得るものでした。

そして、もう1つは今回、光明皇后役を演じられた坂本真衣さんという女優さん、結構役どころにハマってた感じです。(これが一番のキーポイントだったりする…笑)

これからドンドン時代劇モノに出演されへんかな、期待しよ!


ハイビジョン特集「銀閣よみがえる〜その500年の謎〜」

NHK BS-hiで放送されたハイビジョン特集「銀閣よみがえる〜その500年の謎〜」を観ました。

室町幕府第8代将軍・足利義政によって創建された東山殿(山荘)。現在は“銀閣寺”として親しまれるこの名刹で、大正2年(1913)以来となる3年がかりの大規模な解体調査・修理が行われました。

その結果、明らかになった様々な新事実から、今とはかなり違う創建当時の“銀閣寺”の様子が浮き彫りになったのです―
といった内容だったのですが、“銀閣”について、いささか書こうと思います。

― ◇ ◇ ◇ ―

“銀閣寺”、正式には臨済宗相国寺派、東山とうざん慈照寺と言います。

開基(創立者)は、室町幕府第8代将軍・足利義政、開山は夢窓むそう疎石そせきとされています。夢窓疎石は実際には創建時より1世紀程前の人物であり、このような例を勧請開山と云います。

義政は、寛正6年(1465)頃から東山殿経営のための土地の選定をしていたようです。しかし、間もなく起こった応仁・文明の乱(1467〜1477)により、計画は一時頓挫してしまいます。

争乱の最中にある文明5年(1473)、嗣子・義尚よしひさに将軍職を譲った義政は、 同12年(1480)頃より東山殿造営の計画を再開します。

そして、候補地として嘗て弟の義視よしみが居していた東山山麓の浄土寺が戦乱により焼失し、荒廃したままであるのに着目し、同14年(1482)、待望の東山殿の造営を始めます。

去四日武家浄土寺山荘事始(『後法興院政家記』文明14年2月8日条)
― ◇ ◇ ◇ ―

東山殿のモデルとなったのは、現在、“苔寺”として有名な西芳寺である(※1と云われています。

それは義政西芳寺に足繁く参詣していた以下の回数によっても明らかです。

・長祿元年(1457)3月14日、
・長祿2年(1458)2月30日、10月3日、
・長祿3年(1459)3月10日、10月7日、
・寛正元年(1460)3月20日、
・寛正2年(1461)2月27日、6月20日、10月4日、
・寛正3年(1462)6月23日、10月11日、
・寛正5年(1464)2月27日、
・寛正6年(1465)10月5日、
・文正元年(1466)閏2月21日、
・文明12年(1480)10月9日、

また、東山殿が如何に西芳寺を意識していたかをその伽藍配置を文献に記載された建造物から比較検討してみると、

西芳寺   東山殿
西来堂 … 東求堂
縮遠亭 … 超然亭
瑠璃殿 … 観音殿
邀月橋 … 龍背橋
指東庵 … 西指庵
湘南亭 … 釣秋亭
潭北亭 … 弄清亭
向上関 … 太玄関
合同船 … 夜泊船
の様に、見事な程に対応しており、東山殿西芳寺をモデルとして造られた様子が浮かび上がってきますね。


※1

但し、現在の西芳寺が“苔寺”と呼ばれる様になったのは、江戸時代末期の大洪水で枯山水かれさんすいの庭園が苔で覆われて以降の話であり、義政が参考にしたのは、“苔寺”と呼ばれる以前、すなわち創建当時の西芳寺の姿でしょうね。

― ◇ ◇ ◇ ―

当時は応仁・文明の乱が終息した直後で京都の経済はかなり疲弊していましたが、義政は前将軍という立場を大いに活用し、諸国に段銭たんせん(=臨時の税)や夫役ぶやく(労役)を課したり、鹿苑禅寺から石や松などを徴収するなどして、1年余りの工期を経て完成に至ります。

文明十五年癸卯六月廿七日、准三宮大相公(=義政)初移東山新府、…(中略)…天子(=後土御門天皇)降勅、賜名東山殿横川おうせん景三けいさん作詞「洞庭秋月」より、『補庵ほあん京華けいか別集』)文明15年6月27日条)
まず、つねの御所(日常生活の場)が落成し、次いで同17年(1485)に西指庵、翌18年(1486)には東求堂(持仏堂)、長享元年(1487)には御会所(文芸や遊芸、接客など社交のための場)、弄清亭が完成します。そうして同3年(1489)に念願の観音殿(“銀閣”)の上棟が行われます。

造営工事は義政の死の直前まで8年にわたって続けられましたが、義政自身は東山殿の完成を待たず、延徳2年(1490)正月に死去しまったので、その遺言により東山殿を禅寺に改め、相国寺の末寺「東山慈照寺」として創始されます。

戦国の世になり、慈照寺は何度となく、戦火にまみれます。それは、上述の中尾山に造られた物見櫓の存在でも判る様に慈照寺の場所が戦略上のポイントになっていたがために

第13代将軍・義晴及び第14代将軍・義輝三好勢との合戦、とくに永禄元年(1558)の如意ヶ岳の戦いにおいて勝ち誇った三好勢の掠奪行為などにより戦火にまみれ、東求堂と観音殿を残して大半の伽藍が焼失し、荒廃してしまいます。

東山殿の御旧蹟名のみ。あばらやの民の家にまじりて一宇見えおわんぬ(『多聞院日記』元亀元年3月20日条)
その後、天正13年(1585)より慶長17年(1612)の死去するまでの間、近衛前久さきひさの邸宅になっていました。

これは慈照寺の歴代住持に近衛家出身者が多かった事や足利将軍家近衛家との婚姻関係にも関係があったのだと思われますが、実のところは近衛前久慈照寺の土地を押領していたようです。

前久の死後、慈照寺の土地は還付され、再び相国寺の末寺として再興されます。

― ◇ ◇ ◇ ―

慈照寺の復興計画が動き出したのが慶長20年(1615)6月の事で、宮城丹波守豊盛普請奉行に庭園が大改修され、

丹波(=豊盛)慈照古寺再建す。池水をうがち、庭を掃き除き、梵字一新す。新奇観る可し(『鹿苑日録』慶長20年閏6月17日条)
と生まれ変わり、さらに寛永16年(1639)には、その孫である豊嗣によって方丈(本堂)が再建されるなど、大々的な修理事業が施される、という様に、観音殿(“銀閣”)の位置といい、景観といい、ほぼ現在の慈照寺に等しい姿に整備されたのです。

そうした意味合いから、現在の慈照寺については、多分に宮城氏一族の作品といっても過言ではないと思われます。

という事は、現在そびえ立つ銀閣宮城氏一族がその当時描いていた構想を具現化したもの―という解釈もできますね。

つまり、義政が構想していた東山殿当時の銀閣=観音殿とは幾分かイメージが異なるかもしれない―という事だって考えられるのです。

― ◇ ◇ ◇ ―

観音殿(“銀閣”)は創建時に銀箔が押されていたかどうかを巡って様々な論議が繰り返されてきました。すなわち、

  • 金箔で押された義満鹿苑寺舎利殿(“金閣”)に対し、観音殿(“銀閣”)も銀箔が押されていた

  • 当初は銀箔を押す予定であったが、幕府の財政事情か、あるいは義政の死去で実現しなかった

  • 錦鏡池の反射光が漆塗の外壁に映って銀色に輝いて見えた
等々―様々な諸説が飛び交っていたのですが、

観音殿(“銀閣”)が上棟された長享3年(1489)から85年が過ぎた天正2年(1574)に描かれたという『洛中洛外図屏風』には「東山殿」と記載されている。

江戸時代に入った万治元年(1658)に刊行された『洛陽名所集』には「慈照寺」と記載され、

銀薄にて彩しければ、銀閣寺とも云うなり
との補足があるので、この頃から “銀閣寺”の名で呼称されたようです。

さらに下って幕末頃の元治元年(1864)に刊行された『花洛名所図会ずえにはもう完全に「銀閣」との記載がなされています。

― ◇ ◇ ◇ ―

現在、“銀閣寺”への参詣に訪れる観光客の見処の1つとなっている向月台こうげつだい銀沙灘ぎんしゃだんですが、これらは江戸時代後期に造られたもので、創建時の足利義政の構想には全くなかった代物です。

享保20年(1735)刊行の『築山庭造伝』には未だ記載がありません。

安永9年(1780)刊行の『都名所図会』には両者共に見られますが、向月台は高さが低く、渦巻き状態で描かれています。

寛政11年(1799)刊行の『都林泉名勝図会』にも両者が描かれているが、銀沙灘の形が変化しており、向月台も僅かだが盛り上がっています。

元治元年(1864)刊行の『花洛名所図会』には現在と同じ姿で描かれています。

つまり、観音殿(“銀閣”)も住む場所から、物見遊山=観光の場所へと変貌した事がこうした変遷から浮かび上がってきますね。

これらは、江戸時代になって“銀閣寺”へ参詣に訪れる観光客の目を惹こうとして考え出されたアイデアだった訳です。

― ◇ ◇ ◇ ―

さて、平成19年(2007)に行われた調査で、X線による元素分析とICP/MS(誘導結合プラズマ質量分析法)という極少量の元素も検出可能な検査方法によって、外壁の一部から試料を採取して実施された結果、銀は検出されませんでした。すなわち、創建当時から銀箔は押されていなかったのです。

その代わり、新しい発見がありました―

2階の外壁に塗られた彩色の成分分析を行った結果、白土と明礬みょうばんが検出されました。

実験的に、檜材の上に漆を塗って下地を作り、その上に接着剤としてにかわを加えた白土を塗り重ねた結果、鮮やかな白さが彩られたのです。

そうなると、“銀閣”の由来というのは銀箔が押されていた事で銀色の輝きを照らしていた訳では決してなく、白土が外壁に塗装されていた事で、鮮やかな白さが月の光に映えて、銀色のように輝いて観えたから“銀閣”の呼ばれたのでしょうね?


  

その時歴史が動いた「奇兵隊〜幕末に命を賭けた若き庶民たち〜」

「その時歴史が動いた」「奇兵隊〜幕末に命を賭けた若き庶民たち〜」を見ました。

幕末長州藩の風雲児・高杉晋作によって結成された戦闘部隊・奇兵隊。身分より実力を重視し一般庶民の入隊を募った奇兵隊は、徳川幕府を破り明治維新を実現させる原動力となった。

番組では高杉の功績として語られることの多い奇兵隊に、隊士として戦った農民や町人たちの視点から迫る。隊士の日記や彼らが使った日用品などを手がかりに、庶民出身の隊士たちが何を思い、いかに戦ったのかを浮き彫りにしながら奇兵隊の苦闘と勝利の瞬間を描く
というのがテーマ内容だったのですが、僕にとって大事な瞬間だったのは最後のエピローグのシーンだけでした。

すなわち、「脱退騒動」のくだりです。確かに奇兵隊を含め諸隊の人たちは大田・絵堂からの内戦で藩兵(干城隊など)を破り、「正義派」と呼ばれるメンバーが藩内の実権を握ります。

それと同時に、奇兵隊を含めた諸隊の人たちも「諸隊会議所」を形成し、そこから出された案件を政府に異見する仕組みを生み出します。

事実、奇兵隊の創設者である高杉晋作などは、政治に口を出す彼らに対して、ある種の危惧を抱くようになり、正規兵である藩兵(干城隊)の傘下に治めようと画策していたのですから…

奇兵隊にとっては、番組中でも紹介された、庶民を守る部隊であることを宣言した「隊中諭示」のように、“庶民の味方であるべき!”と庶民の立場から意見しようとしているのですが、藩内の政事家や官僚たちから見れば、「何を余計な口出ししやがって!」っいう感じで煙たがられていました。

桂小五郎(のちの木戸孝允)や広沢兵助真臣)は彼らの事を「尾大の弊」と蔑んでいます。

そんな彼らの生活状況が、戊辰戦争の内乱が終結した明治2年(1869)の終わり頃から一変します。

元々、「奇」兵隊とあるように、彼らは長州藩にとって非常な事態の中で創設させられた軍隊の一種。

平時の世の中になれば、正規兵である藩兵(干城隊)以外は必要なく、彼らは現在の言い方で言えば、“税金の無駄遣い”な立場となります。

そういう状況下で「精選」にかけられ、ある者は常備兵として残り、ある者は非常事態以前の元の生活に戻るように強制されるのです。

元の生活に戻るように言われた者は、殆んどが陪臣や農家の次男・三男坊たちでした。

彼らにとっては折角、身分も関係なしに自分の言いたい事やしたい事が実現・発揮できる場があったのにまた元の生活に戻らねばならないのか―という不平不満が生じたのは勿論の事です。

そんな彼らが遂に爆発しちゃったのが「脱退騒動」なわけです。

騒動を起こした彼らにとって、不平不満の対象はあくまで「長州藩」のみだったのですが、木戸孝允井上馨らは「明治政府」への反逆行為として彼らを鎮圧し、見せしめの為に処罰者を斬首します。

番組の中でも、武装蜂起に参加し処刑された隊士の言葉として「国のためにした事が こんな事になろうとは」とありましたね。この隊士にとって「国」とはまさに「長州藩」レベルしにか過ぎなかったのです。

よく奇兵隊近代国民皆兵軍のモデルだとして採り上げられますね。奇兵隊での経験があって、その流れで近代国民皆兵軍が創出される、という感じで―

しかし、実際には長州藩内での内戦から「脱退騒動」に至るまでの奇兵隊諸隊の動きを全く否定して、大きな反省材料として体験した長州人たちの教訓の下に創出されたのが近代国民皆兵軍なのです。

そう考えると、奇兵隊諸隊の人たちはまさに中国・漢楚の頃の韓信の故事じゃないけど「狡兎死して走狗らる」(=必要な時は重宝されるけど、要らなくなれば捨てられる)立場だったんですね。

奇兵隊諸隊の人たちは“勝者の中の敗者”として使い捨てられていったのです―

PS.
番組のラストで「隊中様」が紹介されていたのは嬉しかったですね!

「隊中様」とは、諸隊の中で振武隊に属していた藤山佐熊すけくま正道の墓碑を言うのですが、山口市郊外の鎧ヶたおに建っています。

22歳の藤山佐熊は明治3年(1870)2月9日に長州藩の鎮圧部隊との交戦中にその場所で狙撃死します。

藤山佐熊は軍医として活躍していて、鎧ヶ垰付近に駐屯した時に村人の病気を親切に診てあげた事で尊敬を集めていたといいます。

そのため、村人たちは彼の遺体を葬り、墓を立てて供養するのですが、それがいつしか「隊中様」と呼ばれ、墓に参ると病気が治り、願い事が叶うという噂が広まり、参詣者が増えたのだそうです。

明治5年(1872)、山口県は賊徒(=藤山佐熊)の墓が信仰を集めている事に危惧し、参詣を禁止するなどの布告を出しますが、その後も参詣する人が途絶える事はなかったのだとか―

長州贔屓な僕としては「脱退騒動」は勿論ですが、やっとこさ「隊中様」を紹介してくれた!との感慨がありました。

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→※(参照)「平川に伝わる『隊中様』」(サンデー山口2003-04-06)


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※(参照)NHK大河ドラマ「花神」、新たに2話発掘される!→
※(参照)NHK土曜ドラマ「遠雷と怒涛と」→
※(参照)待ちに待った「風が燃えた」、33年ぶりの再放送!→
※(参照)映画「獄に咲く花」―松陰先生と久子女史を描いた物語→
※(参照)NHK大河ドラマ「花神」第19話「上海みやげ」→
※(参照)「長州ファイブ」→
※(参照)すべてはこの時から―昭和52年!→