特別企画「黒田官兵衛博覧会」テーマ展「秀吉・官兵衛の戦いを支えた武将たち」

1月19日から始まった特別企画「黒田官兵衛博覧会」(〜12月28日〔日〕まで)が催されている長浜城歴史博物館(滋賀県長浜市)に久々に行って来ました。

「黒田官兵衛博覧会」の「歴史館」としての会場が長浜城歴史博物館3階展示室となっているのですが、現在、4月から本格的な博覧会展示イベントが催されるに先立ち、プレ展示イベントとして「秀吉・官兵衛の戦いを支えた武将たち」が開催中なのを観覧するためです。

その1回目のテーマ展である「長浜城主秀吉と家臣たち」の最終日(23日)と第2回目のテーマ展「石田三成と秀吉奉行たち」(〜4月6日〔日〕まで)の初日を観たのですが―

「長浜城主秀吉と家臣たち」においては、豊臣秀吉の家臣の中でも北近江の出自である宮部継潤、田中吉政、新庄直頼など、あまり知られていない人物が採り上げられていました。

「石田三成と秀吉奉行たち」では、石田三成五奉行関係の史料、及び大谷吉継に関連した史料等が展示されていました。

今回の観覧で私が一番注目したのは、田中吉政の出自が浅井郡の人だった―て事を証明する史料を拝めた事です。

◎慶長9年(1604)竹生島宛田中吉政書状(宝厳寺蔵)

従来、田中吉政の出生地は、江戸幕府編纂による『寛政重修ちょうしゅう諸家譜』「先祖は 近江国高島郡田中村に住しと記載されています。「近江国高島郡田中村」とは現在の滋賀県高島郡安曇川あどがわ町田中にあたります。

従来、この『寛政重修諸家譜』は各大名家の家伝や家譜などをそっくりそのまま書き写して編纂されたものである事から、こちらの説が信憑性を持っていました。

しかし、その一方で吉政の出身地を浅井郡三川みかわ村(現在の滋賀県長浜市三川町)とする説 浅井郡宮部村(現在の滋賀県長浜市宮部町)とする説もあったのです―

田中家は大名家としては廃絶しますが、江戸幕府旗本として家が残ります。このうち、吉政の三男・吉興の家に係わる系図(柳川古文書館蔵)で、吉政の父・重政の項に江州浅井郡三河村に蟄居、病死したとの記載がみられる事

●米原市飯の徳善寺に伝来した「新庄福永順光寺図」には此田中筑後守者近江国浅井郡三河村出生大名也と見える事

さらには、

吉政が宮部村の地侍じざむらいである宮部継潤に仕えた事

吉政の母が浅井郡国友村(現在の滋賀県長浜市国友町)の地侍国友与左衛門の姉で、国友与左衛門宮部継潤の家臣であった事

●慶長9年(1604)正月に筑後柳川城主となった吉政が同国三潴みずま郡大善寺村(現在の福岡県久留米市大善寺町)の玉垂宮たまたれぐうに寄進した梵鐘の銘文に大施主田中筑後守橘朝臣四位吉政、生国江州浅井郡宮部あがた子也とある事

等の様な吉政の出生伝承も残されています。

それがこの「慶長9年(1604)付竹生島宛田中吉政書状」によって裏付けられたようなんですね。

詳細は、慶長9年(1604)5月12日、吉政が翌慶長10年(1605)の竹生島の行事・蓮華会という弁財天の祭礼の頭役を夫婦で務める事を申し出ている内容でした。その蓮華会の構成メンバーは浅井郡の住人に限られていた訳です。それ故に、田中吉政は浅井郡の出自である事が確証立てられた感じですね。

― ◇ ◇ ◇ ―

(関連)「田中吉政とその時代」展→
(参照)太田浩司「田中吉政の出生と立身」(『秀吉を支えた武将田中吉政 近畿・東海と九州をつなぐ戦国史』所収)

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(トピックス)「山国隊」、鳥取に143年越しの凱旋!軍楽行進を披露

143年を経て鳥取に凱旋し、樗谿神社に参拝する山国隊軍楽保存会による軍楽行進

幕末・維新期因幡鳥取藩に付属し、戊辰戦争を官軍として戦い、功績を挙げた丹波国桑田くわだ山国やまぐに郷(現京都市右京区京北けいほく町)で結成された農兵隊「山国隊」の子孫たちが伝え遺している「山国隊軍楽保存会」が25日、鳥取市上町の樗谿おうちだに神社を訪れ、参道で「軍楽行進」を披露した。

この行進は、同神社近くの鳥取市歴史博物館(やまびこ館)で現在開催中の特別展「因州兵の戊辰戦争」(〜10月30日まで)で、「山国隊」を取りまとめた隊中取締役の藤野近江守いつきが、戦争で着ていた服や、これまで門外不出にされてきた「山国隊」の血判状が展示されたのがきっかけなのだとか―

それらが展示されている事を知らせた上で、「山国隊軍楽保存会」に来訪と鳥取での「軍楽行進」を呼び掛けたところ、「初の鳥取凱旋なら本式に」「史上初めて鳥取を行進する。無様にはできん」という事になり、小中学生を含む47人の軍楽隊が毎年地元の神社で行っている「軍楽行進」を披露する事となったのです。

143年の時を超えて初めて鳥取へ凱旋した羽織姿の「山国隊軍楽保存会」のメンバーは「山国隊」のぼりを先頭に約30分間、大鳥居から本殿までの参道を笛隊、太鼓隊、鉄砲隊などが軽快なリズムにのって往復行進。勇壮な歴史絵巻が繰り広げて鳥取藩第12代藩主池田慶徳を祀った本殿を参拝し、奉納演奏しました。

ちょうど墓参のため帰郷中だった現当主で鳥取池田家第16代当主である池田百合子さんが「軍楽行進」を見学されたのですが、「オリジナルの曲を聴いたのは池田家では慶徳と私の2人だけだと聞き、大変光栄です」と一行にお礼を述べたそうです。

保存会の川崎輝男会長は「先人が鳥取藩13番隊として戊辰戦争に参加し、慶徳公に京都で演奏を聴いて頂いた。霊前で演奏できて大変感無量です。これからも先人の歴史を残していきたい」と話した。

元鳥取県立図書館長の森本良和さんは、4年前に「山国隊」の地元を訪れて以降、毎年訪ねては「山国隊軍楽保存会」の行進に加わっているそうですが、「明治維新といえば薩長同盟新選組ばかり目立つが、歴史の転換点には鳥取藩や、『山国隊』の活躍もあった事を知って欲しい」と話す。

森本さんによれば、7年後の平成30年(2018)の明治維新150周年に向け、鳥取所縁の志士たちを顕彰する機運を盛り上げる動きがあると話していた。

― ◇ ◇ ◇ ―

さて、「山国隊」は勤王派の農民ら約80人が西園寺公望の要請で慶応4年(1868)に結成されました。

元々、山国郷は太閤検地の頃まで禁裏直轄の荘園「山国庄」だった事もあって、古くから皇室との関係が深く、平安京(城)造営の際は御杣みそまとして木材を供給した伝承を持つ程でしたし、その他にもちまき・餅・若菜・鮎・茶・釣瓶つるべ柄杓ひしゃくたらい・桶といった特産物を献上していました。

この山国郷の「山国隊」と同じように古くから皇室と深いつながりがあり、勤王の志が強い地域として、丹波桑田くわだ馬路うまじ郷(現・亀岡市馬路町)の弓箭隊きゅうせんたい(→因みにこの弓箭隊時代祭弓箭組列として時代行列の最後尾を守っています。但し、参加しているのは弓箭隊ではなく、弓箭組である事に留意しましょう。「組」とは幕藩体制下の軍役奉仕で召集された組織を指し、主に本百姓=地主惣代レベルでした。それに対し、弓箭隊は中間層・小百姓レベルの組織なのです)であったり、大和十津川とつかわ村(現、奈良県吉野郡十津川村)の十津川郷士の3つが有名で、この3つは「丹波馬路は制外の地とて日本制外三ヶ所の一也、殊に王城に近き所なる故勤王と云う事を忘れぬ様常に親父子の咄也…」(『中川禄左衝門手記』)とある様に“日本制外の地”と自認していたようです。

慶応4年(1868)正月3日に鳥羽・伏見の戦いが勃発し、戊辰戦争が始まりますが、正月5日には各方面に治安維持のための鎮撫隊が派遣され、山陰道鎮撫総督西園寺公望が丹波領内で「勤王有志之輩は各武具得物相携へ速に官軍に可馳加事」(『丹波山国隊誌』)の激文を飛ばし、兵を募ったのに応じて結成されます。

同年正月11日、山国郷内11か村から山国神社(現、京都市右京区京北鳥居町)に集結し出陣した農兵隊は山陰道鎮撫総督西園寺公望との合流を目指しますが、その途次の正月18日に鳥取藩の周旋方で京都御留守居加役の伊王野いおうのひろし(資明)の仲介と岩倉具視から鳥取藩に付属し「山国隊」と称するようにとの指示を受け、ここに「山国隊」が誕生します。

その後の2月13日、東征大総督有栖川宮熾仁親王の京都出陣に伴い、「山国隊」に東征への従軍指令が下り、「山国隊」の1個小隊(隊士28名、客士2名)が東山道軍の鳥取藩部隊「13番隊」として京を出発します。

「山国隊」はその装備がミニエー銃な事もあって、西洋式の軍事教練を受けていました。しかも、銃の射撃精度が山村の狩猟などで慣らしていたために非常に正確で優れていたそうです。

そうして、新選組との甲州勝沼戦争下野安塚戦争(激戦だったようで戦死者2名、負傷者5名、行方不明者1名を出す)、彰義隊との上野戦争(交戦の中で戦死者1名 負傷者4名を出す)、奥羽戦線にも従軍し、相馬中村、陸奥亘理及び仙台と転戦し、閏4月25日にようやく江戸に凱旋。以降は錦の御旗の警衛を任されます。

江戸に駐屯する期間、江戸にいた外国人からフランス式訓練と軍楽教育を受け、後の観るような和楽器を用いた西洋音楽風のメロディーを奏でる姿はマーチングの草分けとも言えるでしょう。

山国護国神社の例祭で行進する山国隊軍楽保存会

結果として、「山国隊」は戦死者4名(行方不明者1名を含む)、病死者3名という多大な犠牲を出す程の活躍を果たします。

しかも、彼ら「山国隊」の出兵費用は自弁(=自己負担)で、鳥取藩にも必要の都度借金をしていました。(鳥取藩だけでも996両、総借財額は7800両に上っていました)

彼らは膨大な借金を抱え、山国郷内の山林を売るなどをして返済して行きます。

翌明治2年(1869)2月18日、「山国隊」は大勢の見物人・出迎えのなか、鼓笛を奏して京から山国郷へ凱旋し、山国神社を参拝。2月25日には死者の慰霊祭を行ない、辻村(現、京都市右京区京北辻町)に招魂場(山国護国神社)を設けます。

最終的には、鳥取を訪れる事なくそのまま解隊。しかし、上記に挙げた様に御所の西側に在った鳥取藩京屋敷(現、京都市上京区油小路通中立売下ル甲斐町)に詰めていた藩主・池田慶徳には「軍楽演奏」を披露したと云います。

私たちが現在、映画やテレビドラマで官軍行進のテーマソングとして聞いている「山国隊」の行進(京都人としてはその昔、王将のCMで流れていたのが懐かしいところ…笑)ですが、

「山国隊」の地元で催される山国護国神社の例祭(招魂祭、4月22日)と山国神社の例祭・還幸祭(毎年10月の第2日曜日) では「山国隊」の子孫たちで創る「山国隊軍楽保存会」による「山国隊軍楽行進」の奉納が観られますが、片や時代祭での先頭を行進する「維新勤王隊列」は実は山国の人たちではないのです。

というのも、参加費用が馬鹿にならないのですね。

時代祭は明治28年(1895)に平安京(城)に都が遷され、桓武天皇大極殿で初めて正月の拝賀を受けた延暦15年(796)から1100年目に当たり、これを記念して催された「平安遷都千百年紀念祭」の余興として実施された時代行列が平安神宮の祭礼となって現在まで続いている行事です。

「山国隊」もこの時代行列に参加していますが、決して依頼や招待されたのではなく、これもまた自腹を切っての参加なのでした。

とてもじゃないけど、衣裳の新調や旅費宿泊費の工面などに平安講社からの補助金だけではとても賄い切れず、困窮しながらも参加を続ける中、明治35年(1902)以降は5年ごとの参加に縮小し、とうとう大正8年(1919)を最後に参加を止めたという経緯があるのです。

翌9年(1920)以降は同年に京都市に編入された壬生朱雀地区(現、京都市中京区朱雀学区)の人々に山国出身者が多いらしく、代役を務める事で継承されています。

ところが、最近では担当する平安講社第八社(京都市中京区朱雀学区)も人材が集まらず、殆んど学生ボランティアが代役を務めている始末…

正直なところ、山国護国神社の例祭(招魂祭)と山国神社の例祭・還幸祭で演じられる「山国隊軍楽保存会」による「軍楽行進」をこそ観るべきでしょうね。

ましてや、鳥取での「山国隊軍楽保存会」による「軍楽行進」をもっと定着させてくれたら、鳥取まで観に行く事間違いないです!

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ところで、「山国隊」を取りまとめた隊中取締役で正五位近江守の藤野齋という人物ですが、元は丹波桑田郡山国郷の名主・藤野五右衛門の長男で、元々は漢方医であったり、山国神社の神職を務めていました。

この藤野齋の私生児として生まれたのが日本で最初の職業的映画監督であり、“日本映画の父”マキノ(牧野)省三なんですよね。

マキノ(牧野)省三藤野齋と北野上七軒かみしちけんの芸妓で娘義太夫・竹本弥奈太夫こと牧野やなとの間に生まれました。

因みに、このマキノ(牧野)省三の四女にあたるマキノ智子(加藤恵美子)が4代目澤村國太郎と結婚して生まれてのが長門裕之氏津川雅彦さんの兄弟です。津川さんはが映画での監督・プロデュースの際は「マキノ雅彦」を名義として名乗っており、藤野齋の曾孫にあたる事になります。

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参考文献)仲村研『山国隊』(中公文庫)
※(参考文献)岡本幸雄「幕末・明治維新における郷士の政治的運動の展開―旗本領丹波馬賂両苗郷士ついて―」『立命館経済学』第9巻第2号

posted by 御堂 at 10:19 | Comment(4) | TrackBack(0) | 歴史:散策&観覧

“病父を尋ねて三百里”―「豊後国二孝女」の孝養

今は昔…とは言っても、ほんの200年前のお話―

豊後臼杵うすき領内の大野郡川登かわのぼりあざ泊村(現、大分県臼杵市野津町のつまち大字泊)に「豊後国二孝女」と賞賛された姉妹が居りました。

姉妹の名は、姉がつゆ、妹がときと言いました。

江戸時代の寛政8年(1796)、姉妹の母親が急病で亡くなりますが、姉妹は父である川(河)野初衛門と共に農作業に精出していました。

その後、文化元年(1804)3月5日、熱心な浄土真宗門徒である初衛門が、親鸞聖人所縁の地を巡りながら、亡き妻の菩提を弔おうと供養巡礼の旅に出ます。

京都の寺々を巡った後、信濃、越後を目指し、途中上州辺りで持病の足痛の治療を兼ねて草津温泉に逗留。そこから、越後、奥羽地方を巡り、常陸に入り、久慈郡東蓮寺村(現、常陸太田市東連地町)辺りで足の痛みが再発してしまい、同領内に在る青蓮寺しょうれんじに逗留して療養する事を余儀なくされます。

こうした初衛門の窮状が故郷で待つ姉妹の許に伝わる事はなく、7年もの歳月が経ちました。

ところが―

文化8年(1811)、京の龍谷山本願寺(浄土真宗本願寺派本山、通称「西本願寺」「お西さん」)で親鸞上人の550回忌大遠忌おんき法会ほうえが催された際に出席した青蓮寺の住職が川野家の菩提寺である善正寺(大分県臼杵市大字二王座におざ)の住職と歓談した折に初衛門の消息が判明し、姉妹の耳に伝わったのです。

実は初衛門が常陸に居るという噂はあったのです。そこで、つゆは幾度か父親探しの密行を計画したのですが、その都度事前に発覚したり、追っ手に抑えられたりして実現できずにいたのです。

しかし、初衛門の消息が確実のものとなった今、姉妹は居ても立っても居られず、臼杵藩の許可を得て豊後臼杵から常陸水戸の青蓮寺まで2か月近い旅の末に父と再会を果たします。

そうした姉妹の父親への孝養を尽くす姿が、水戸藩臼杵藩の共感を呼んで様々な支援を受けて、翌文化9年(1812)春、無事に親子3人で帰国を果たすのです。

姉妹の地元では“豊後国の二孝女伝説”として伝わっていて、供養碑が建てられていたり、旧盆の25日に「孝女祭」と銘打った供養法会が催されていました。

ところが、平成16年(2004)に臼杵市の郷土史研究家が青蓮寺に照会した事をきっかけに、翌17年(2005)に青蓮寺臼杵藩江戸屋敷から青蓮寺宛の手紙や姉妹からの礼状等の17通の書簡が発見され、史実である事が判明したのです。

青蓮寺境内に完成した二孝女の記念碑

これらの書簡は『豊後国二孝女関係資料』として、同22年(2010)9月、常陸太田市の文化財に指定され、同年10月には青蓮寺の境内に記念碑が建立されました。

また、平成19年度(2007・4〜08・3)の茨城県の県立高校の道徳副読本である『ともに歩む』に要約された内容が掲載され、青蓮寺が在る地元の小学校では、郷土学習や総合学習の教材として採用されたと聞きます。

姉妹の地元に在る臼杵市立川登小学校には校庭に記念碑が建てられているほか、校歌(3番)の中で、

緑したたる 校庭に
二孝女の碑を 仰ぎつつ
友愛 信義 勉学の
誉れも高き わが母校
という様に「豊後二孝女」が唱われています。

「豊後国二孝女」の三百里の旅路
泊村

臼杵港 8月11日発(この時、つゆ22歳、とき19歳であった…)

(船便で)森口(守口)(現、大阪府守口市) 8月27日着

(陸路、京街道を道行き)京 9月2日着 西本願寺に参拝

箱根関所 9月25日通過

江戸・臼杵藩江戸屋敷 9月29日着

江戸・臼杵藩江戸屋敷 10月2日発

水戸街道を道行き)小幡(現、茨城県東茨城郡茨城町) 10月7日着

水戸

東蓮寺村・青蓮寺 10月9日着

青蓮寺 2月9日発

江戸・臼杵藩江戸屋敷 2月13日着

江戸・臼杵藩江戸屋敷 3月5日発

大坂 3月25日着

大坂 3月29日発

臼杵 4月6日着

といった行程で、

泊 ⇔ 臼杵   …7里
臼杵 ⇔ 江戸 …258里
江戸 ⇔ 東蓮寺村…36里半
と、約300里(約1200km)の旅路を踏破した事になりますね。

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「豊後国二孝女」の美談を書き記している古文書(下)と書幅(左上)

私がちょうどこの「豊後国二孝女」の事を知ったのが、今年の4月5日にオープンしたばかりの龍谷ミュージアム開館記念・親鸞聖人750回大遠忌法要記念展「釈尊と親鸞」展の第1期期間中(〜5月22日まで)にだけ「豊後国二孝女」関連の資料を出展するという新聞記事を観たのが初見でした。

出展されていたのは、
  1. 二孝女碑・二孝女像

  2. 二孝女関係文書
だったのですが、

1は昭和15年(1940)に製作された掛け軸で明治20年(1887)に臼杵にて建てられた顕彰碑の碑文と共に「豊後国二孝女」の肖像が描かれたもの

2は2通あって、

1つは、青蓮寺宛平生忠剛書状(文化8年=1811)で、水戸藩と交渉した臼杵藩江戸屋敷留守居役の平生ひらお左介(助)忠剛ただたか青蓮寺に宛てた依頼状で、姉妹が初衛門の消息を善正寺から聞いて朧気おぼろげながら知っていた事。つゆの嫁ぎ先では舅姑の病気の介護に追われ、つゆの夫も奉公に出るなどで家庭が苦しかった様子を説明し、はからずも父親の迎えが遅延した事を姉妹に代わって詫びた内容が書かれています。

もう1つは、青蓮寺宛つゆとき書状(文化9年=1812)父・初衛門を江戸まで送り戻した姉妹(つゆ・とき)が青蓮寺に宛てた礼状でした。

― ◇ ◇ ◇ ―

「豊後国二孝女」のこうした美談から思うのは、周辺の人々の反対を押し切り、危険を覚悟で命がけの旅に出た姉妹のひたむきさ、親を思う気持ちに共感に覚える事です。

私自身、一人っ子として育ち、体の弱い母にかわって祖母に育ててもらいました。(だから完全に“お婆ちゃん子”ですけどね…笑)

それ故に、周りから言われる以前に「親の面倒は自分がみる」と思ってますし、それが当然だと感じています。

周りの友人からすれば、このご時世に旧態依然としたオールドタイプな奴とみられがちですけどね…

― ◇ ◇ ◇ ―

もう1つ感じたのは、この親子に対して我が身のように心配し、温かい手を差し伸べた、当時の人々の心の持ち様に深い感銘を受けずにはいられません。

当時は侍・武士が身分や権力を傘に大威張り散らしていたし、ましてや庶民レベルでさえ、他国者よそものを蔑視するような排他的で閉鎖的な風潮だあったのは周知の事実。

それなのに、初衛門やつゆ・とき姉妹に関わった人たちは何と人道主義に溢れている事でしょう。

姉妹が帰国して周囲の人々に漏らした言葉の中に「御国様(=水戸藩領)へ参りましたれば、御慈悲深い事で、地獄より極楽へ生まれました…」と述べ、かの地を「御仁国」と語っています。

“何だろう”、水戸藩といえば“黄門様”徳川光圀以来の伝統として水戸学が有名ですね。

有名な話として、『史記』に記載された伯夷・叔斉の兄弟のエピソードを知った光圀が兄の頼重を差し置いて自分が水戸藩主になった事を心の痛手とし、頼重の子供を自分の養子として水戸家を継がせた話ですが、そうした光圀以来、水戸学の基礎となった儒学精神が御領内に息づいた結果なのでしょうか!

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参照)『広報ひたちおおた』2010年9月号
koho-hitachiota_2010-09.jpg

※(参照)二孝女(77段物)(大分よいとこ、より)→
※(参考文献)『豊後国の二孝女』 豊後国の二孝女研究会
※(参考文献)橋本留美『実話 病父を尋ねて三百里―豊後国の二孝女物語』新日本文芸協会


posted by 御堂 at 00:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:散策&観覧

(トピックス)向日市文化資料館「乙訓・西岡の戦国時代と西岡衆」展

西岡の武士文化の名残を示す品として貴重な江戸期制作の甲冑

向日市文化資料館(京都府向日市寺戸町)で秋のラウンジ展示乙訓おとくに西岡にしのおかの戦国時代と西岡衆」が開催中です。

中世の時代、すなわち鎌倉時代から室町時代にかけて、山城国中西部に位置する乙訓郡(現在の向日市と長岡京市の全域、大山崎町、京都市南区および西京区にしきょうく、伏見区の一部)と、葛野郡(現在の京都市右京区および西京区の一部)を合わせた広範囲にわたる地域を西岡にしのおかと呼んでいました。

「西岡」は桂川の西側に位置し、桂川の水を用水として利用するなど、当時から農業用水路が発達して経済力も豊かな土地柄で、村を支配する土豪たちがそれぞれの支配地域に居城(館)を築いて、相互に連帯して連合して広域的な自治(合議制)を展開していました。

雍州府志ようしゅうふしには「西郊三十六人衆は、公方譜代の士なり」との記載が見られ、「西岡」には室町将軍家の被官が36人いた事が判り、代表的な土豪として鶏冠井かいで氏、物集女もづめ氏、神足こうたり氏、中小路氏、革嶋氏などの名が挙げられます。

応仁元年(1467)より勃発する応仁・文明の乱では、「西岡衆」細川勝元が属する東軍として、西国から京都へ入洛する路々の警護にあたっています。

この時代、1つの地区のまとまりは「郷」、幾つかの郷の集まりを「惣」、更に広域のまとまりを「国」あるいは「惣国」と言っていました。

「西岡」の地では自治的な「郷」が発展し、応仁・文明の乱終息直後には機運が高まり、「国」と呼ばれる地域連合体が生まれます。

「国」の構成員=土豪たちは「国衆」と呼ばれ、彼らが独自に「国」としての方針を定めていく訳です。

しかし、室町将軍家の衰退と共に台頭した戦国武将の介入を招き、その抗争の中で「西岡衆」も分裂したために惣国自治は崩壊。

そうした乱世の目まぐるしい時代の変化の中で、「西岡衆」は、あるいは帰属した武将の移封・転封と共に移住する者、あるいは先祖伝来の土地に残らんがために武士を捨てて帰農し、やがて村の有力者としてなる者に分かれていきます。

企画展示では、こうした経緯や、江戸期以降に「西岡衆」がどのような道を辿たどっていったかを、古文書を中心に、出土品やパネルなど、30点余りの展示物で紹介しています。

そのうち、初公開となる三好長慶書状は、戦国時代の一時期に畿内一帯を支配した武将、三好長慶が永禄元年(1558)、室町幕府第13代将軍・足利義輝との合戦を控え、「西岡衆」らに軍事行動を命じた書状で、この時点で「西岡」戦国武将の介入を受けていた事が判る訳ですね。

開催期間は10月16日(日)まで。但し、月曜と祝日の翌日などは休館となるので詳細は、同資料館まで。

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※(参照)向日市:文化資料館2011秋のラウンジ展示「乙訓・西岡の戦国時代と西岡衆」→


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(トピックス)大坂城鎮守社・玉造稲荷神社に豊臣秀頼の銅像がそびえ立つ

玉造稲荷神社の境内に建てられた秀頼の銅像


豊臣=羽柴家の家督を継ぎ、大坂おおざか夏の陣(慶長20年=1615)で大坂城落城時に数え年23歳(満年齢21歳9か月)で生害した豊臣秀頼の復権を図ろうと、大坂城の鎮守神である玉造稲荷神社(大阪市中央区)境内に秀頼銅像が建立されました。

秀頼銅像が立つ玉造稲荷神社大坂城の三の丸だった場所に在り、秀頼淀殿も参拝に訪れた場所―

境内には、秀頼を出産した際の淀殿胞衣えな(=胎児を包んでいた膜や胎盤などを指す)を祀る「胞衣よな塚大明神」が鎮座していたり、慶長8年(1603)に秀頼から奉納された鳥居が現存する形で今も残っています。

ちょうど今年は復興天守(大阪城天守閣)が昭和6年(1931)に大阪市民たちの寄付金により再建されてから80周年に当たり、それを記念した事業の一環で計画が進められてきたようです。

同神社では所縁の秀頼を顕彰し、太閤さん時代の大坂城下のにぎわいを取り戻そうやないかと銅像建立を計画。

豊臣秀頼の銅像の原型

制作にあたっては、以前に豊國神社に立った陣羽織姿の豊臣秀吉銅像を製作された彫刻家の中村晋也さんに依頼。

銅像は台座を含めて高さ5・3m。身長195cm、体重100kgを超える体格に衣冠束帯姿精悍せいかんな姿になっています。

アトリエで豊臣秀頼の銅像の制作に取り組む中村晋也さん

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豊臣秀頼といえば、女丈夫で“大坂城の女主おんなあるじ”とまで言われた淀殿の陰に隠れて存在感が希薄なために“ひ弱でマザコンのイメージ”が強いようですね。(徳川家康などは大坂の陣の際、味方を鼓舞する意味で、秀頼の事を「乳臭」やから”と言っていますが…)

これは、秀頼の画像として最も知られている少年期の直衣のうし姿を映した養源院(京都市東山区)所蔵の画像からくるイメージが大きいところ…

結局のところ、“そんなんやから、御家の繁栄を維持できなかったんや”と言わしめんがために歴史の勝者である徳川幕府の創作だった訳です。

しかし、実際の秀頼は幼い頃より当代の博識から種々の帝王学を学び、「カシコキ人ナリ、中々人ノ下知ナト請ヘキ様子ニアラス(=たいへん賢い人なので、他人の臣下となってその命令に従うような人物ではない)」(『明良洪範』)という様に頭脳明晰で人望も厚かった人物であり、再評価を求める声も―

実際の秀頼「大兵にて御丈六尺五寸余り(=約195cm)」(『明良洪範』)の並外れた体格の持ち主で、『当代記』慶長8年(1603)7月28日条には「秀頼十一歳、常之十三四ばかり之比也」と、実際には11歳だが、パッと見で13、4歳ぐらい…と感想が書かれています。

また、慶長12年(1607)細川忠興の家臣だった米田こめだ監物(米田興季)が大坂に入場して秀頼に謁見した際、秀頼は着用していた小袖を脱いで監物に賜与したのですが、この小袖を監物が着用してみると、秀頼の帯の跡が監物の膝の辺りに位置したといいます。

そういう意味では、青年期の束帯姿を描いた東京芸術大学美術館所蔵の画像(拙稿「豊臣秀頼画像」参照のこと→
)が広く知れわたってもいいのではと思います。

― ◇ ◇ ◇ ―

昔、NHK大河ドラマ「春日局」で渡辺徹さんが秀頼を演じられたのですが、まさに青年期の束帯姿にピッタリ!なくらい(笑)…

今回の銅像建立で本当の秀頼のイメージが芽生えればいいな!と感じますが…

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参考文献)井上安代(私家版)『豊臣秀頼』
※(参考文献)大阪城天守閣特別展図録『生誕400年記念特別展 豊臣秀頼展』

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参照)豊國神社の秀吉像→
※(参照)豊臣秀頼画像→


    

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特別企画「浅井三代と三姉妹―大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」の登場人物とその生き様を知る展覧会―」テーマ展「謎の秀吉子息たち〜三人の秀勝〜」展

羽柴於次秀勝像

特別企画「浅井三代と三姉妹―大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」の登場人物とその生き様を知る展覧会―」(〜12月4日(日)まで)が催されている長浜城歴史博物館(滋賀県長浜市)で現在会期中のテーマ展の第5回目、「謎の秀吉子息たち〜三人の秀勝〜」(〜7月18日(月)まで)を観覧して来ました。

ちょうど、テーマ展の展示説明会が6月26日(日)午後1時30分から催されるとの事だったので観覧に行くと…

◎「謎の秀吉子息たち〜三人の秀勝〜」

秀吉の子息といえば、淀殿とのあいだに出来た「鶴松」「秀頼」が有名である。しかし長浜城時代の秀吉には、『実子が生れたが夭折した。』という伝承が現存し、追善のための肖像画(後に焼失)と、墓石や位牌が現存している。この「本光院朝覚居士」が天正4年(1576)10月14日に没した後に、信長の四男を養子に迎え「於次秀勝」と名付けている。この「於次秀勝」が、天正13年(1585)に18歳で病死すると、秀吉は姉「とも」の次男「小吉」を迎え再び「秀勝」と名付けている。「小吉秀勝」は、「於次秀勝」の領地を引継ぎ、丹波亀山城主となる。秀吉九州攻めに従軍し、越前敦賀城主から小田原の役後は甲斐国が与えられた。その後に、岐阜城主となる。文禄元年(1592)5月に秀吉が策定した三国国割計画では、朝鮮全土の統治者となっている。同年9月9日に朝鮮出兵中に、唐島(巨済島コジェド)で病死した。享年24。

浅井三姉妹「江」が二度目に嫁ぐ夫が、この「小吉秀勝」である。「江」は、『徳川幕府家譜』や『柳営りゅうえい婦女伝系』によれば、20歳の時に秀勝に嫁入る。天正20年(1592)2月で、「小吉秀勝」岐阜城主であった。しかし夫の秀勝は、前述したように同年9月9日に朝鮮出兵中に病死する。「江」秀勝の間には、一女(のちの九条完子さだこ)が生れていたが、によって養育され、その養女となって公卿九条幸家に嫁いだ。

この展覧会では、「朝覚」ゆかりの位牌や秀吉寄進状、「於次秀勝」の木造を始め、「於次秀勝」の判物などを展示する―
といった趣旨の展示会でした。以下、展示資料を観てみると、

〔次郎秀勝について〕
  1. 豊臣秀吉朱印状 妙法寺宛 1幅(妙法寺蔵)

  2. 秀吉妙法寺(長浜市大宮町)に寺領を寄進した朱印状。坂田郡南小足村(長浜市南小足町)と北小足村(長浜市新栄町の一部)で30石を寄進している。寺伝では、早世した「朝覚」の菩提を弔うために寄進されたと伝えている。天正14年(1586)12月8日付けであるため、没後10年が経過しての寄進である。なお、昭和27年(1952)の火災によって本堂が焼失した際、下部に焼損が生じている。

    この「朝覚」の夭折に当たっては、妙法寺をはじめとして、長浜周辺の幾つかの寺院に対し、秀吉から供養料が寄進された形跡があり、知善院(長浜市元浜町)には、天正4年(1576)10月22日付けで供養料として伊香郡井口村(現在の高月町大字井口)で30石が寄進され、徳勝寺(長浜市平方町)の前身寺院の1つである医王寺にも天正4年(1576)10月15日付けで伊香郡井口村(現在の高月町大字井口)に供養料として30石の寄進がみられる。

    しかし、書状自体にはその目的が表記されておらず、「朝覚」の菩提を弔うための寄進で、その供養料なのかどうかは判別できない。

    妙法寺に埋葬された人物が、秀吉の実子だという伝承があります。

    享保19年(1734)に成立したとされる『近江輿地史略』の中で「妙法寺 長浜にあり…(中略)…豊臣秀吉公の末子、次郎早逝そうせいすなわち当寺に葬る、本光院朝覚居士おくりなす」とあり、「朝覚」「次郎」と呼び、秀吉の男子であると記載している。

    また、長浜における曳山ひきやまの起源に関する伝承で、寛文6年(1666)に書かれた『江州湖東八幡宮勧請並祭礼之由来』には「其後若様御誕生ニつき、町々へ砂金頂戴ス、是ヲ基トシテ曳山造営の志願ヲ発ス」と、長浜城主であった秀吉に男子が出生し、それを喜んだ秀吉が、長浜の町衆に砂金を振舞ったのを元手に長浜曳山祭の12基の山が建造されたという伝承です。

    しかしながら、実際に秀吉が長浜の町衆に対し「町屋敷年貢米300石免除」や諸役免除の特権を与えるなどの経済的な恩恵を与えたのは、天正19年(1591)の出来事(『(天正19年)5月9日付長浜町人中宛豊臣秀吉朱印状』下郷共済会蔵)であり、ここで云う男子誕生は棄丸(のちの鶴松)だと考えられ、矛盾を感じますね。

  3. 秀吉・秀勝位牌 1基(徳勝寺蔵)

  4. 浅井氏三代の菩提寺として知られる徳勝寺(長浜市平方町)に伝来した位牌。右側に「國泰寺殿雲山峻龍大居士 台閣秀吉公」という秀吉の法名と、左側に朝覚 大禅定門 次郎秀勝君妙法寺に葬られる「朝覚」の法名が刻まれ、その裏面には「天正四子年十月十四日」と命日が刻まれている。

  5. 竹生島奉加帳 1帖(竹生島宝厳寺蔵)

  6. 秀吉とその家族・家来たちが天正4年(1576)から同16年(1588)まで、竹生島ちくぶしま宝厳寺に金品を奉納した記録。冒頭の秀吉による「百石」の寄進に続いて、「御内方」(のちの北政所・おねね)「大方殿」(のちの大政所・なか)など上段に家族の寄進記録がある。その三番目の箇所に「石松丸」と記され、ち(乳)の人」の注記がある。秀吉の家族に乳幼児がいた事が伺えるが、だからと言って、「石松丸」秀勝と名乗っていたという証拠は何一つない。

  7. 妙法寺境内図(『近江農商工便覧』) 1冊(長浜歴史博物館蔵)

  8. 明治22年(1889)に発刊された『近江農商工便覧』に掲載された妙法寺の図で、「秀勝公御廟」が明記されている。しかし現在、描かれた形での現存はない。
〔於次秀勝について〕
  1. 木造 羽柴於次秀勝像 1躯(京都・瑞林院蔵)

  2. 秀吉の養子で信長の四男にあたる羽柴於次秀勝の肖像彫刻。伝来した瑞林院は、浄土宗大本山百万遍ひゃくまんべん知恩寺創建時から塔頭たっちゅうとして存在していたと云う。瑞林院蒲生氏郷夫人の「冬姫」が、早世した弟の「於次秀勝」の菩提を弔うために創建したと伝えている。開基は、知恩寺第30世「岌州上人」の弟子「岌方行西」で、信長の家臣で小谷の方(お市の方)浅井家に輿入れした際、お供の者として随従した藤懸永勝の一族だと伝えている。寺名は、「於次秀勝」の法名「瑞林院殿賢巖才公大禅定門」から付けられている。この像は、江戸時代前期頃に「於次秀勝」の菩提を弔って造立されたと考えられる。作風から京仏師の作品と推定される。若くして死んだ「於次秀勝」の容貌を伝えていると思われる。この他に、本像とそっくりの画像が知恩寺大徳寺に所蔵される。

  3. 羽柴於次秀勝禁制 1枚(長浜八幡宮蔵)

  4. 秀吉の養子となった「於次秀勝」が、長浜八幡宮の遷宮での千部会にあたって出した禁制。千部会は、祈願や追悼のために、同じ経典を1000人の僧が1部ずつ読む法会である。この八幡宮での千部読経は、秀吉による八幡宮の社殿復興の完成に伴って行われたと推定される。この時秀吉は、因幡鳥取城を包囲中で、太閤ヶ原にて対陣中だったため、秀吉に代わって湖北支配を代行していた「於次秀勝」が、長浜八幡宮の求めに応じて、禁制を掲げたものと思われる。

  5. 羽柴秀吉・於次秀勝判物 称名寺宛1通(称名寺蔵)

  6. 秀吉「於次秀勝」が連署して、称名寺(長浜市尊勝寺町)に対し、寺領63石が与えたもの。本能寺の変の際、長浜城内にいた秀吉の家族は美濃国広瀬(岐阜県揖斐郡坂内村)へ避難するが、この避難には称名寺の僧・性慶せいきょうも助力していた。称名寺は元は美濃国安八あんぱち郡津布良庄奥村(現在の岐阜県大垣市津村町付近)にあった天台宗系の寺院だったが、戦国期浄土真宗系の寺院に改まり、天文年間(1532〜1555)頃に湖北地方に移ったとされる。姉川の戦いで始まった元亀争乱(1570〜73)の際、浅井氏に味方したため、浅井氏滅亡後、信長により追放の憂き目に遭う。しかし、天正10年(1582)6月2日に起きた本能寺の変の際に、光秀長浜城にいる秀吉の家族などの殺害を企てている情報を知った、同寺5世の性慶が美濃へ避難させた功績で秀吉に帰郷を許され、寺院の復興が認められた。

  7. 羽柴秀吉・於次秀勝判物写 広瀬兵庫助宛1通(浅井歴史民俗資料館蔵)

  8. 秀吉「於次秀勝」が連署して、広瀬兵庫助に浅井郡高山村(長浜市高山町)・坂田郡甲津原村(米原市甲津原)・伊香郡杉野村(長浜市木之本町杉野)で500石を宛行ったもの。天正10年(1582)6月2日に起きた本能寺の変の時に、長浜城内にいた秀吉の家族を広瀬兵庫助は美濃国広瀬(岐阜県揖斐郡坂内村)に匿った。この連署状は、その礼として領地を宛行ったもの。但し原本は紛失してしまったらしいが、江戸時代に作られた写しが浅井歴史民俗資料館に所蔵されていたと云う。本能寺の変の際における秀吉家族の動向が判る貴重な文書

  9. 羽柴於次秀勝判物 徳昌寺宛1幅(徳勝寺蔵)

  10. 秀吉の養子となった「於次秀勝」が出した、徳勝寺への寺領安堵状。天正10年(1582)6月27日の清洲会議において、長浜城の領有権は柴田勝家に移り、勝家長浜城主に養子・勝豊を置いている。それに伴う勝豊の長浜入城は7月下旬と考えられるが、「於次秀勝」清洲会議の後、北庄に帰還する勝家の人質となったり、長浜城に在城し、7月15日に勝家方への城明け渡しの責任者として残っていたのではないかと考えられている。
〔小吉秀勝について〕
  1. 羽柴小吉秀勝書状 安岡寺宛1幅(安岡寺蔵)

  2. 「小吉秀勝」が摂津の安岡寺あんこうじ(高槻市浦堂本町)の寺領を安堵したもの。「小吉秀勝」秀吉の姉・ともの次男。秀吉の養子となって、秀勝と名付けられたのだが、従来、「於次秀勝」の死後に養子となったと考えられていたが、本状によって天正13年(1585)9月には秀勝を名乗っていた事が判明した。「於次秀勝」が亡くなるのが同年の12月10日である事から、9月から12月10日までの期間、秀勝を名乗る人物が2人いた事実が確認された事になる。

posted by 御堂 at 03:34 | Comment(2) | TrackBack(0) | 歴史:散策&観覧

(トピックス)仁吉を偲び総踊り!―仁吉まつり

「仁吉まつり」で市民らによる吉良小唄総踊り

吉良の仁吉にきちって知ってます?

江戸時代の後半、幕末期に活躍した侠客です。

本名は太田仁吉といい、三河国幡豆はず郡上横須賀村(現・愛知県西尾市吉良町)に没落武士の子として生まれ、18歳からの3年間を清水次郎長の下で過ごし、次郎長と兄弟分の盃を交わします。

その後、故郷に帰って吉良一家を興します。

慶応2年(1866)4月8日、侠客の穴太あのう(安濃、現・三重県東員町穴太)の徳次郎(通称、安濃徳、以下、安濃徳と略す)が、次郎長一家が世話をした神戸かんべ(現・三重県鈴鹿市神戸)長吉ながきちの縄張りであった伊勢鈴鹿郡荒神山こうじんやま(現・三重県鈴鹿市高塚町、元来は高神山だったが流布していくうちに、「荒神山」が広がったよう…)を奪ったため、神戸の長吉と助っ人の仁吉を含めた22名が荒神山の安濃徳の一家とその助っ人(黒駒の勝蔵など)130余名に対して乗り込んだ博徒同士の私闘で「荒神山の喧嘩」と呼ばれます。

結果、神戸の長吉側が勝利を収めたが、助っ人に入っていた仁吉は鉄砲で狙撃された上に、斬られて死亡します。享年28歳でした。

義理人情に厚く、僅かな恩にも報いようとした仁吉の非業に斃れた様は後世、人情物の講談(講談師の3代目神田伯山)や浪曲(浪曲師の2代目広沢虎造)によって大衆文化となって広く知られるになり、やがて演劇や数々の映画、歌謡曲などの題材として よく採り上げられるようになるのです。

但し、史実とは違い、創作の流布が一般的に伝えられてしまい、芝居や映画において仁吉安濃徳の妹・お菊を妻に娶るが、神戸の長吉への助太刀のために離縁する件りがありますが、実際には仁吉は結婚歴はありません。

仁吉の墓は、一周忌に次郎長仁吉の親族・太田家の遺族と共に建立したものが生誕地の吉良町にある源徳寺(愛知県西尾市吉良町上横須賀)に残っています。

同じ吉良町出身の尾崎士郎が書いた自叙伝的小説『人生劇場』の中で「吉良常」という登場人物がいますが、尾崎士郎も同郷の偉人である仁吉を慕っていたそうです。

『人生劇場』はさらに映画化されたり、歌謡曲が生まれたり…としていきます。

なかでも、歌謡曲「人生劇場」は佐藤惣之助氏作詞、古賀政男氏作曲でまず楠木繁夫氏の歌として昭和13年(1938)に発表されるのですが、特に早稲田大学出身者や学生に愛唱され、第二の早稲田大学校歌とも云われています。

戦後には村田英雄氏も唄われ、一般的には村田英雄氏の代表作として認知されていますね。

源徳寺の仁吉の墓の傍らには「義理と人情」という文字が刻まれた「人生劇場」歌碑も建っていて、そこには3番の歌詞である、

時世時節は 変ろとままよ
吉良の仁吉は 男じゃないか
おれも生きたや 仁吉のように
義理と人情の この世界
が刻まれているそうです。吉良町の人々の仁吉に対する思いが感じ取れますね。

現在、吉良町では吉良上野介義央尾崎士郎仁吉を加え、郷土の偉人として“吉良三人衆”として喧伝しており、仁吉の墓がある源徳寺では毎年6月の第1日曜日に仁吉を偲んで、墓前祭を兼ねた「仁吉まつり」がが催され、毎年吉良小唄総踊りパレードなどが繰り広げられ、子どもたちや女性ら約200人が、お揃いの赤い法被はっぴを着て鳴子の拍子で踊り歩いたそうです。

posted by 御堂 at 22:53 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:散策&観覧

今度は「熊野詣」―街道てくてく旅 熊野古道をゆく

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NHKで放送される「街道てくてく旅」のシリーズも平成18年(2006)4月から始まって、これまで東海道中山道甲州街道日光奥州街道、四国八十八か所、そして山陽道が踏破されました。

新しいシリーズでは、奈良時代以来、熊野大社への参詣の道として天皇家をはじめ各時代の老若男女が辿った熊野古道(熊野街道)が舞台となる「街道てくてく旅 熊野古道をゆく」というもの―

この熊野古道(熊野街道)は、平成16年(2004)に、「紀伊山地の霊場と参詣道」として、高野山などと共にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されました場所です。

今回、この熊野古道(熊野街道)を踏破する旅人は元プロテニスプレーヤーの森上亜希子さん。

そのルートとして、
  • 春編―大阪・八軒家浜(大阪市中央区)から熊野本宮大社まで

  • 秋編―和歌山県田辺市(道分け石)から伊勢神宮まで
の合わせて約650kmの旅が始まります。

放送日時は、

5月10日(月)スタート→6月18日(金):春編ゴール
9月13日(月)スタート→10月29日(金):秋編ゴール

  • 生放送:NHK BS-hi・BS-2 月〜金   午前08:00〜08:15

  • 再放送:NHK BS-2     月〜金   午後07:45〜08:00

  • 再放送:NHK BShi     火・木・金 午前00:45〜01:00

  •       〃      水     午前01:00〜01:15

  •       〃      土     午前01:05〜01:20
となっています。個人的な希望としては前回の山陽道同様、まるごと1週間まとめた番組を放送してくれへんやろか?今回はまともに関西圏だけなんやし、期待してまっせ、BKさん!

…と思ってたら、やっぱありましたBKさん、サンクス!

5月31日(月)〜6月22日(火)まで、毎日2日間分の旅の歩みをまとめて放送だとか―

また、10月4日(月)〜11月2日(火)まで、秋編が春編同様に毎日2日間分の旅の歩みをまとめて放送されまっせ!

時間帯は、NHK総合で午後03:15〜03:45、に放送されます。

さらに!―

東海三県(愛知・岐阜・三重県)の皆さんも10月19日(火)〜11月5日(金)までの期間に秋編が再放送されるとの事。こちらは毎日3日間分の旅の様子がまとめて放送される模様!

時間帯は、NHK総合で午後03:15〜04:00、に放送されます!

― ◇ ◇ ◇ ―

熊野詣とは―

紀伊半島南部、熊野地域にある熊野三山、すなわち熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の3つの神社を参詣する事です。

熊野という地名の初見は『日本書紀』で、熊野は伊邪那美命(イザナミノミコト)の葬られた土地(→熊野の有馬村=三重県熊野市有馬=の花窟神社)として登場しています。

延喜7年(907)、寛平法皇(宇多法皇)による熊野行幸をきっかけとして以降、熊野は日本国中の人々に知られるようになり、上下貴賤男女を問わず大勢の人々が訪れるようになるのです。

― ◇ ◇ ◇ ―

その広がりの要因の1つに熊野信仰にありました。

平安時代の中頃になると、末法思想の影響からか阿弥陀如来を信心しようとする浄土教信仰が盛んになっていきます。

そもそも、熊野地方は死者の国(死後の世界)に近い場所と考えられていたので、それが浄土教信仰と絡み合う事で、熊野、イコール死者の国、すなわち浄土と結び付けられるようになります。

本宮は阿弥陀如来の西方極楽浄土として来世の救済を、新宮は薬師如来の東方浄瑠璃浄土として過去世の罪悪の除去を、那智は千手観音の南方補陀落(ふだらく)浄土の地として現世の利益を叶えてくれる場と考えられ、それらが一体化して、熊野三山、あるいは熊野三所権現(さんしょごんげん)と呼ばれるようになります。

とくに本宮は阿弥陀如来の極楽浄土の場として、本宮に参詣すれば必ず極楽往生を遂げられるとされていたのです。

それが最も頻繁化したのが院政期で、きっかけは寛治4年(1090)の白河上皇熊野行幸からと云われています。以降、
  • 白河法皇   9回

  • 鳥羽法皇  21回

  • 後白河法皇 34回

  • 後鳥羽上皇 28回


  • 待賢門院(藤原璋子、鳥羽・中宮) 12回

  • 修明門院(藤原重子、後鳥羽・後宮)11回
のように熊野への行幸や御幸が頻繁化し、年中行事と化す程、京都の貴族の間に数多くの熊野詣が行われるようになった事で、熊野は浄土教信仰の日本第一の大霊験所として地位を確立していくのです。

鎌倉期以降、行幸や御幸は数を減らしますが、武家や一般庶民たちによる熊野詣が盛んになっていきます。江戸時代には、熊野付近の旅籠に1日で800人もの宿泊客が記帳されたそうです。

その様子は“蟻の熊野詣”(=蟻が餌と巣の間を行列を作って行き来する様)と喩えられる位、大勢の人々の群れが列をなして熊野を詣でたのです。

― ◇ ◇ ◇ ―

こうした、広がりのもう1つの要因として、熊野詣は女性への参詣を認めていたんですよね。

上記の女院やそれに付き従う女官たちもそうですが、記録では北条政子が参詣した史実も見受けられます。

これは特筆すべき事で、同じ山岳宗教の中心地である、お隣の高野山では女性の参詣を全く禁じているのに対し、熊野では禁じないどころか積極的に受け容れていたのです。

しかも熊野は、不浄とされる血の穢れ(例えば女性の生理)にさえも寛容な態度で対応していたとか―

― ◇ ◇ ◇ ―

平成16年(2004)に世界遺産(文化遺産)として指定されて以降、観光地として有名となった熊野古道(街道)ですが、問題点がない事もないのが現状!

そもそも明治維新後、廃仏毀釈神仏分離令などにより熊野古道(街道)周辺の神社の数は激減。熊野古道(街道)沿いも、国道が整備されるまで、周辺住民の生活道路として使用され続けました。

世界遺産(文化遺産)への登録の際も、周辺住民の合意を決して得た訳ではないのです。普段から生活に欠かせない場所が世界遺産(文化遺産)になったからといって、いきなり立ち入り禁止になってしまった住民の気持ちを考えた事があるのでしょうか?

世界史の舞台に例えて言えば、第二次世界大戦後、イギリスとの約束と取り付けていたユダヤ民族はアラブ・パレスチナ地域に建国しました。

その地は何千年もの昔、エルサレム王国としてユダヤ民族の住んでいた地域でもあったのです。しかし、王国は征服され、ユダヤ民族たちはその土地から強制移住させられます。

その後、その土地にはアラブ民族が住み着きます。

現にその土地に住民が居るのにも関わらず、大国のエゴでアラブ民族たちは土地を奪い盗られたのです―

確かに、残すべき文化遺産としては疑う事のない見識ですが、その場所に生活空間の一部として暮らしておられる方々の気持ちを考えるといたたまれない感じですね。

この点、歴史に携わる者の二律背反するところです。

― ◇ ◇ ◇ ―

さて、和歌山県那智勝浦町では毎年秋、10月末の日曜(今年は10月24日)に「あげいん熊野詣」という催しがあるんですよ。

一般の女性の参加型で皆それぞれが平安期の時代装束を着て御幸行列を再現する―というもの。

詳しいお問い合わせは、那智勝浦観光協会観光産業課まで。

― ◇ ◇ ◇ ―

NHKのてくてくのブログにTBしたら、断られました!何か不適切な表現があったのかな、わからん?

― ◇ ◇ ◇ ―

「街道てくてく旅 熊野古道をゆく」も10月29日をもって無事にゴールとなる伊勢神宮の内宮に到着しましたね。森上さん、お疲れさまです!

ところが―

放送終了後、午後9時かたNHK−BS2で「街道てくてく旅 熊野古道をゆく」達成スペシャルという番組が東京のスタジオから放送されましたが…

すごく、おかしな感じですよね。何で東京からなのか?…

少なくとも、今回は大阪から始まり、和歌山、三重と続く、いわば関西圏だけのお楽しみ企画!

それなのにどうして何ら関係もない東京のスタジオなのか?

寧ろ、それやったらBK(大阪)のスタジオで放送するのが常識じゃないのかなぁーと一気に醒めた雰囲気になってしまいました。

朝の連続テレビ小説でも同じ事が言えるけど、例えば今現在は「てっぱん」が放送されています。舞台は尾道から大阪に続くストーリーです。

この場合、はっきり言って、尾道の人と関西の人だけが楽しめば良い訳で、視聴率にせよ、尾道と関西の数字だけ良ければ、他の地域の数字なんてどうでもいいと思うんですよね。

当事者さえ楽しめれば、他の人は蚊帳の外に置いておけばいい!と改めて感じる思いです…

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参照)「街道てくてく旅〜中山道完全踏破」→

posted by 御堂 at 01:48 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:散策&観覧

“雪の殿さま”と大炊模様―土井利位

源利位撰『雪華図説』表紙 源利位撰『雪華図説』から雪の

ここ数日、肌寒い日々が続き、雪も吹雪いていますね。

ところで、雪の結晶を観た事がありますか?

江戸時代後期の天保の頃、雪の結晶を研究・観察した人物がいます。

下総国古河城主だった土井大炊頭おおいのかみ利位としつらという人物です。

土井利位画像

土井利位江戸幕府創成期の大老土井利勝の子孫にあたり、奏者番寺社奉行大坂城代京都所司代と抜擢され、ひいては老中首座に任命されるなど、実務官僚として優れた能力を発揮しています。

そんな彼のもう1つの功績として、自身が20年という歳月をかけて、丹念に観察してスケッチし続け、天保3年(1832)日本で最初の雪の結晶(→利位は雪の結晶を「雪華せっか」と命名した)の観察図鑑である『雪華図説』、『続雪華図説』という自然科学分野の名著を撰述したのです。

では、どのような方法で観察をしたのでしょう?

『雪華図説』によると、

  1. 雪が降りそうな夜に黒地の布を屋外に置いて冷却する。

  2. 降り落ちる雪をその布で受ける。

  3. 形を崩さないように注意し、手の温もりで雪が溶けない様ピンセットで採取して黒漆器に入れる。

  4. 吐息がかからない様注意しながら、「蘭鏡」(※1)で観察する。
といった感じで観察を試みた結果、183種にわたる「雪華」(『雪華図説』86種、『続雪華図説』97種)を図案化したのです。

利位が使ったであろうカルペパー型顕微鏡

※1 利位は観察に用いた顕微鏡の事を「蘭鏡」と記述しています。利位が使ったであろう顕微鏡は恐らく、天明元年(1781)に外国製顕微鏡を参考にして大坂で作られたカルペパー(Culpeper)型顕微鏡ではないかと云われています。
― ◇ ◇ ◇ ―

こうした利位の雪の結晶への探究心は何がきっかけだったのでしょう?

考えられる動機として以下の2つが挙げられます―

先ず、利位がこうした学究肌の人物だった事ではないでしょうか。そんな彼が興味を持ったきっかけではないかと思われるオランダの書物があります。

オランダの教育者・ヨハネス・フロウレンチウス・マルチネット(Johannes Florentius Martinet)(※2)が著した『Katechismus der Natuur』『格致問答』、1778年)という児童向けの教科書です。

実際、利位はこの書物に記載された雪に関する記述や雪の結晶のスケッチを『雪華図説』の参考文献或いは引用資料として取り扱っています。


※2 『雪華図説』の跋文に「西洋人瑪兒低涅多」と紹介されている。

また、当時の古河土井家家老だった鷹見泉石忠常の果たした役割が大きいと思われます。

泉石蘭学者としても知られた人物で、語学・地理・歴史・兵学・天文・暦数などに精通し、利位の懐刀として“土井の鷹見か、鷹見の土井か”と称されるほどの逸材でした。

実のところ、『雪華図説』は、初めから刊行する予定ではありませんでした。

という事は、泉石利位が成した20年に及ぶ実証研究の成果を刊行する必要性を利位に説いたのではないでしょうか。

こうした利位泉石という雪の結晶に魅せられた2人の集大成が『雪華図説』によって結実したのです。

― ◇ ◇ ◇ ―

こうして刊行された『雪華図説』は学問としての発展だけでなく、実は文化にも大きな影響をもたらします。

City_of_Koga_sekka-design_01.jpg City_of_Koga_sekka-design_02.jpg

現在、古河の街を散策すると、所々で雪の結晶をモチーフにしたデザインが見受けられます。

商店街の街灯、歩道ブロック、銀行のシャッターetc…

『雪華図説』や続編である『続雪華図説』は私家版であったので出版部数は限りがあり、書物としての普及はそんなにありませんでした。

後年の天保8年(1837)に越後魚沼郡塩沢で縮仲買商・質屋を営む鈴木牧之が著し、ベストセラーとなった『北越雪譜せっぷの中で雪の形として雪華模様の一部が紹介されると、デザイン文様のパターンとして使われるなど忽ちに流行し、江戸文化のニューモード(new mode)として花を添えたのです。

雪華文蒔絵印籠 雪華模様訪問着

人々は利位に対して親しみをこめて“雪の殿様”と呼び、雪の結晶をモチーフにしたデザイン文様の事を「雪華模様」とか、利位の官途名である大炊頭おおいのかみから大炊おおい模様」と称したのです。

毎年この時期から、古河歴史博物館の企画展として、「雪の殿さま・土井利位」展が催されますので、興味ある方は行ってみて下さい。

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参考文献)小林禎作『雪華図説考』『雪華図説新考』(築地書館)

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NHK大河ドラマ特別展「天璋院篤姫展」

「天璋院篤姫展」「天璋院篤姫展」2

大阪歴史博物館(大阪市中央区大手前)で「天璋院篤姫展」を観覧して来ました。

当日は団体客が多く、とてもじっくり観覧できないなぁーと感じましたが、じっくり観たかったので、約3時間は粘っちゃいました(笑)

構成は

プロローグ  篤姫のふるさと薩摩
第 一 章  御台所への道のり
第 二 章  婚礼〜将軍家定と敬子〜
第 三 章  江戸城大奥
第 四 章  幕府瓦解 〜徳川家存続への思い〜
エピローグ  明治の天璋院

ってな感じ!

まず、入り口から入ってすぐに、最晩年の天璋院篤姫を正面から捉えた肖像画がお出迎え!篤姫が亡くなった翌年の明治17年(1884)に完成した物そうです。

◇プロローグ 篤姫のふるさと薩摩

篤姫の実家である今和泉島津家を中心に、島津家の由緒や近衛家との関係など、篤姫を育んだ薩摩の風土を紹介しています。

なかでも注目したのは、「鹿児島城下絵図屏風(模本)」でしょうか。天保元年(1830)頃の鹿児島を描いた物だそうです。今和泉島津家小松家の屋敷の場所、或いは西郷吉之助大久保正助(一蔵)らが住んでいた加治木町の場所が示されていました。

また。ある意味、同じこの時期に薩摩藩の藩政改革を成し遂げた調所広郷を描いた「調所広郷画像」も印象的でしたよ。

◇第一章 御台所への道のり

篤姫が13代将軍徳川家定御台所として位置付けられてゆく道筋に起こった出来事を通して当時を回顧しています。

薩摩藩徳川宗家との縁は、島津家第22代藩主、島津継豊に嫁いだ5代将軍徳川綱吉の養女・竹姫から始まったと言ってよいでしょう。

その竹姫の遺言によって、薩摩藩主島津重豪の娘・茂姫ただ広大院)が11代将軍徳川家斉御台所となります。

その茂姫の家系(すなわち、重豪の血縁は)多産系であった事が、13代将軍徳川家定の知るところとなり、家定が「島津の姫を!」と幕閣に打診し、結果として島津の姫を御台所に!と決まります。

そんな中で、分家である今和泉島津家の娘であるかつに白羽の矢が立てられ、島津斉彬の養女となって、名を篤姫と改めるのです。

注目したのは、篤姫自らを「あつ」と称した貴重な書状「安政3年4月付 近衛忠煕宛篤姫口上書」ですね。

さらに注目したのは、島津斉彬の側役を務めた堅山利武が記した「公用控」のうち、斉彬篤姫縁組の成り行きを記した部分である「御一条初発よりの大意」という箇所が展示されていて、そこには篤姫の輿入れによって薩摩藩の武備拡張や密貿易に関わる琉球問題が有利に運べる―という婚姻の政略的目的が綴られていました。(決して、国を憂いた訳でなく、自藩の利益に沿った結果だったんですね!)

◇第二章 婚礼〜将軍家定と敬子〜

安政3年(1856)12月18日、篤姫は22歳で五摂家筆頭である近衛忠煕の養女となり敬子すみこと名を改めた上で、将軍家に嫁ぎます。

敬子の夫になったのは13代将軍徳川家定ですが、早くから政治的能力が疑問視され、継嗣の誕生も危ぶまれていました。しかも、家定に関する史料はほとんど乏しくその実像は明らかではありません。

そんな状況の中から、将軍継嗣問題が浮上します。一橋慶喜を擁する派閥(一橋派)と徳川慶福を擁する派閥(南紀派)の争いですが、敬子の養父・島津斉彬一橋派であり、敬子御台所である事を利用し、大奥での裏工作を期待します。

結果的に家定が強く希望し、その意をくんだ井伊直弼大老に就任する事で、徳川慶福が継嗣に決まりました。

その井伊直弼の側近・宇津木六之丞が同じく側近である長野主膳に宛てた書状(「安政5年(1858)5月9日付、長野主膳宛宇津木六之丞書状」)には、家定の様子について「御賢明」「御仁憐之御方」と評していましたよ。

やがて、安政5年(1858)7月6日に家定が亡くなり、篤姫は1年7か月という短い結婚生活で幕を閉じるのです。

◇第三章 江戸城大奥

家定の死後、敬子は落飾して天璋院と号し、若き将軍家茂の養母として、また大奥の総取締りとして、頑張るのです。

文久2年(1862)、家茂の正室として皇女和宮親子ちかこ内親王が輿入れします。いわゆる公武合体運動のための降嫁ですね。

ここでの注目は、何と言っても「天璋院画像」ですね。出だしにも書きましたが、時代が下がって最晩年の天璋院を正面から捉えた肖像画で、完成は天璋院死去の翌年の事でした。(生前から描き出されていたので、顔の向きは右向きですね!)

さらには、和宮親子内親王の写真である「静寛院宮肖像写真」は一番観たいと思っていた写真だったので良かったです。(今までは雑誌や書籍の中での掲載でしか観た事がなかったので…)

「徳川家茂肖像画写真」もあったのですが、陣羽織姿の物と束帯姿の2種類がありました。これらは第二次長州征伐で大坂城に遠征して際に、家茂和宮に贈った肖像画写真なのですが、最初に贈った陣羽織姿の物に対し和宮が武人姿の家茂は嫌だ、と言ってので、束帯姿の物に換えて贈ったそうです。
(陣羽織姿の肖像画写真は天璋院が受け取ったのだとか―この辺り、武家と公家の違いと言えますね!)

◇第四章 幕府瓦解〜徳川家存続への思い〜

幕末の動乱の中、14代将軍徳川家茂は慶応2年(1866)7月、大坂で陣没します。家茂の継嗣に対する意向は田安亀之助でしたが、政局の困難な状況から幕閣たちは一橋慶喜を推し、慶喜が15代将軍となります。

しかし、政局は大政奉還王政復古の大号令と変革してゆき、ついに慶応4年(1868)正月、鳥羽・伏見の戦いを皮切りに戊辰戦争が勃発。慶喜も戦場を離脱して江戸へ退き、戦争の大勢は決します。

自らの実家と婚家とが争う事となった天璋院和宮は、何とかして徳川家存続のために尽力しようと明治新政府薩摩藩に対して家名存続斡旋の嘆願書を差し向けます。

注目したのは、東山道先鋒総督岩倉具定に対して、恭順の意を示す事で家名存続を図ろうと宛てた和宮の書状(「慶応4年(1868)3月11日付、総督岩倉太夫(具定)宛静寛院宮書状」)と、天璋院が実家の薩摩藩に向けて徳川家の家名存続を嘆願した書状(「慶応4年(1868)3月付、官軍隊長宛天璋院書状(写)」)ですね。

天璋院が宛てた書状は、慶喜の立場と徳川宗家との立場を分離して考えていて、慶喜の処分は「是非もない」徳川宗家の処分は取り成してくれと依頼しています。

◇エピローグ 明治の天璋院

慶応4年(1868)4月10日、天璋院江戸城を退去します。さらに、嘆願書に込められた願いも虚しく、田安亀之助(後の徳川家達)への徳川宗家相続は認められますが、領地は駿河府中70万石に移封され、家臣団も解体されます。

注目したのは、天璋院がその事に対する無念の気持ちを表した「慶応4年(1868)7月9日付、輪王子宮公現法親王宛天璋院書状(写)」で、天璋院奥羽越列藩同盟の盟主となった法親王に内々に送った書状だそうです。そこには、徳川宗家の駿河移封、家臣団の解体に立腹した天璋院列藩同盟に対し「薩摩追討」「徳川再興」を期待した内容が書かれていました。

天璋院はその後幼い家達の養育に力を注ぎます。明治15年(1882)、家達近衛家の姫・泰子と結婚すると、安堵したかのように翌16年(1883)、生涯を終えるのです。

余談ですが、家達の子・家正島津忠義の娘・正子を妻に迎えています。これも天璋院が築き上げた縁がそうしたのかもしれませんね。

全てを観覧した後、図録(2300円)を購入しました。とても内容の濃かった展示で良かったですよ。昨年の「風林火山」展(参照→)も大阪での展示開催だったし、今年の「篤姫」も大阪で開催された事はすごく幸運だった感じです。

この特別展は、観覧料が大人1000円、高校・大学生750円となっています。6月1日まで開催中ですよ。

― ◇ ◇ ◇ ―

※(関連)「大河ドラマ『篤姫』」→
※(関連)「(史料紹介)篤姫の実像に迫る日記を発見!」→
※(関連)「『風林火山―信玄・謙信、そして伝説の軍師―』展」→


   

posted by 御堂 at 00:41 | Comment(2) | TrackBack(1) | 歴史:散策&観覧

山城郷土資料館企画展「中世文書の世界」展

「中世文書の世界」展1 「中世文書の世界」展2

京都府木津川市の山城郷土資料館企画展「中世文書の世界」を観覧して来ました。

先月の26日から、この地方の有力国人で、山城国一揆の主導的立場にあった国人領主(在地領主)のこまに関わる文書や、中世の南山城地方に関する所蔵文書を展示されているんですね。

京都、しかも宇治に住む僕にとって、中世の南山城を考えた時に、山城国一揆は最大の関心事なので、一度は行ってみたかった場所でもありました。

さらに現在調べている眞木島氏に関してどうやら槇島昭光以前は狛氏と同族だ、ってのが判明したので、更に何かヒントになるようなモノがないかな?(こーいう時は図録などをチェックするのですが…)と思っていたのもあります(ネタに詰まってて 笑)

狛氏関係で特に注目したのは、応仁・文明の乱で東陣方の大将だった細川勝元狛秀に対して文明2年(1470)7月25日の田辺城での戦闘を褒めた感状や、時代が下がって狛秀綱が天正5年(1577)7月10日付で織田信長から311石の領有を認められた朱印状、そして国人領主には極めて貴重な、数珠を片手に帯刀した姿を描いた秀綱肖像画も目を惹きましたよ。

この企画展は6月15日まで開催中です。

posted by 御堂 at 23:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:散策&観覧

「風林火山―信玄・謙信、そして伝説の軍師―」展

大阪歴史博物館で開催していたNHK大河ドラマ特別展「風林火山―信玄・謙信、そして伝説の軍師―」を観に行ってきました。

大阪歴史博物館へは「ファンと歩んだ70年 阪神タイガース展」以来の観覧です。

この展示は毎年、NHK大河ドラマに併せた特別展で、大阪での開催だったので絶対行こうと思ってたわけです。

“上杉謙信命”な大阪に住む学友(←卒論も上杉謙信でやった奴…笑)と阪神百貨店前で待ち合わせ、北新地駅から大坂城北詰で下車。そこから徒歩で博物館まで行ったのですが、かなり遠回りですよぉー。谷四(谷町四丁目)の方が近いのにねぇー(笑)

さて、今回の展示での特に印象深かった陳列品を以下紹介します。

・「プロローグ 伝説の軍師 山本勘助」

弘治3年(1557)6月23日付市河藤若宛武田晴信書状

山本勘助の名が登場する古文書ですね。武田晴信が北信濃に勢力を持つ市河藤若に対し書面を送り、「山本管助口上有るべく候」「山本管助」なる人物を使者として遣わした内容です。実物を拝めて感激しました!

佐野昌綱画像

佐野氏藤原秀郷の末裔で、藤原姓足利氏の庶流にあたる一族です。下野国安蘇郡佐野庄に土着し、唐沢山城を居城としました。

佐野氏といえば、謡曲『鉢の木』の主人公である佐野源左衛門常世とか、江戸幕府旗本老中田沼意次の子息、若年寄田沼意知を殺害した“世直し大明神”佐野政言のイメージしかありませんでした。

この佐野昌綱の代は、戦国真っ只中で、当初は古河公方に組し、その後、上杉氏後北条氏の間で翻弄されます。

ちょうど唐沢山城上杉氏の関東侵攻における進軍ルートにあったため、地政学的境界線だったわけですね。

この「佐野昌綱画像」佐野氏歴代当主としては唯一の画像なんだそうです。

・第2章「風林火山」の時代―戦国の武と文化―」
・第3章 決戦川中島

春日山城絵図

この絵図で注目したのは、上杉謙信の留守居役だった直江景綱の屋敷の位置が春日山麓の居館地区と本丸を結ぶ中間地点に描かれている点ですね。何となくですが、後の「御館の乱」直江兼続が先手をとって上杉景勝を勝利に導いた要因が見えてきた感じです。

・第4章 軍学と軍師伝説
・エピローグ 語り継がれる山本勘助

観覧を終えて、図録(2300円)を購入。関連グッズも販売していたのですが、友人は勘助の眼帯モチーフのキーホルダーを購入、僕は摩利支天(800円)を購入しちゃいました。


 

posted by 御堂 at 23:15 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:散策&観覧

木猿だけが知っている!―姉小路公知殺傷事件=朔平門外の変(猿ヶ辻の変)

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京都御所をぐるりと囲む築地塀。そのちょうど北東の方角に当たる場所の塀の一角だけが折り曲げられて建っています。

その場所は、うしとらの方角に当たり、まさに御所にとっての「鬼門」の場所に相当します。「鬼門除け」のために折り曲っているんですね。

江戸時代の末期、すなわち幕末の動乱の時期にこの「鬼門除け」の立地を利用して、何者かが尊王攘夷派の若い公家を殺傷する事件が起きました。

文久3年(1863)5月に起きた姉小路公知殺傷事件です。

襲われた姉小路公知は当時、三条実美と共に攘夷派の中心人物で、日米修好通商条約勅許について反対派の急先鋒だったり、和宮親子内親王の降嫁問題では推進派の岩倉具視らを弾劾したり、幕府に対し即今攘夷の実行を強く迫っていたりしました。

― ◇ ◇ ◇ ―

それは、5月20日夜の事、御所での会議を終え、朔平門を出た公知は従者3人と共に帰途につくのですが、「鬼門除け」に差しかかった時、突然、刀を持った黒い影に道を遮られてしまったのです。

公知は従者に「太刀を!」と求めますが、太刀と提灯を持った従者2人は後ずさりして逃げてしまいます。

仕方なく、公知は手元にあった扇でもって応戦しますが、顔や胸を切られて重傷を負い、その場に残った従者に抱えられて屋敷に戻りますが、間もなく出血多量で息絶えます。

その時の様子を、当時姉小路家と関わりの深かった跡見花蹊かけい(のちの跡見学園女子大学創立者)の日記から抜粋すると、

廿日之夜四ツ時、御所より御退出懸、朔平御門の廻り懸(=猿ヶ辻)にて、浪人物三人、面を包(み)、うしろはち巻にたすきかけにて、向より御胸を切付、此きつ(傷)長(さ)六寸深サ四寸ばかり、殿様、太刀ヲ太刀ヲと四度も仰付られ候へとも…
と、事細かに記しています。花蹊の姉が公知の嫡子(のちの公義)を産んだ関係で父は外戚の立場で「目付」に、弟が「近習」として仕えていたようで、事件の際に逃げなかった従者と親しかった事もあって、花蹊はこの従者から直接、事件の様子を聞いたのだと思われます。

事件後、現場に残されていた刀などの物的証拠から薩摩藩田中新兵衛などが特定され捕縛されましたが、取り調べ中に田中が自殺したため、真相は“薮の中”に消えました。

さて、この事件。もしも「鬼門除け」という死角がなかったら、待ち伏せは成功しなかったかもしれませんね。

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この「鬼門除け」には別な言い回しがあり、「猿ヶ辻」と呼んでいます。ちょうど、「鬼門除け」の築地塀の瓦の軒下に烏帽子を被り、御幣を担いだ木彫りのお猿さんが居てはります。

このお猿さん、比叡山延暦寺の地主神である日吉大社のお使いで、鬼門を守るために遣わされたそうです。それで「猿ヶ辻」と呼ばれるようになったのですが…

ところがこのお猿さん、夜な夜な築地塀から抜け出しては付近をうろついて悪戯が過ぎるので、金網が張られて、閉じ込められたのだそうです(笑)

もしかしたら、事件のあの夜、築地塀から真犯人を見ていたのやもしれませんね。

posted by 御堂 at 06:04 | Comment(4) | TrackBack(0) | 歴史:散策&観覧

豊國神社の秀吉像

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久し振りに大阪のキタとミナミをぶらりと巡りました。

先ずは梅田で大阪の友人と共に「スパイダーマン3」を観賞。

「スパイダーマン3」は初回作から続けて観ている作品で、原作自体も読んでいるのでオリジナルキャラの登場の仕方とか、注目してたんですが、割と面白いシナリオだったので良かったです。

◇ ◇ ◇

さて、続いて僕の希望で大阪城公園に向かいました。

JR東西線で北新地から大阪城北詰まで乗車し、そこから目的地まで南下。

目的地というのは公園内に鎮座する豊國(ほうこく/とよくに)神社で、4月に復元されたという豊臣秀吉の銅像をチェックしたいがためなんですよね。

先代の銅像は昭和18年(1943)の金属供出で撤去されてしまったので、関係者の方々も宿願だったようです。

新しい秀吉像は、台座を含めて高さ5・2mで、陣羽織姿となっていますよ!

posted by 御堂 at 15:45 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:散策&観覧

“越の国”で歴史散策!

2月24日、25日と1泊2日で福井市内と敦賀市内を散策してきました。

大阪の友人と計画立てをして、初日は1泊することも考えて、大阪駅から福井駅まで特急で出発。

心配だったのが、前日あたりから強風の影響で運転見合わせや運行状況の遅れなどでしたが、当初計画していた時刻よりも1本早い特急に乗り込み、大阪駅を出発。

しかしながら、やはり強風の影響は避けられなかったようで、湖西線経由でのルートが米原まで東海道線、そこから北陸線というルート変更、全体でも30〜40分遅れでの運行とのアナウンスが!…結果的には、当初の計画通りのタイムスケジュールとなりました。

いざ福井駅に到着し、宿泊する温泉旅館の送迎バスが来るまで時間まで3時間弱あるので、市内の歴史スポットを散策開始です!

福井へはほぼ10年前に大学(史学科)の友人たちと来て以来の訪問です。その時は、一乗谷丸岡城左内公園など周辺地域を中心に巡ったので、市内をじっくり巡るのは今回初めてです。

― ◇ ◇ ◇ ―


まずは福井城址を目指します。

由利公正(三岡八郎)像 岡田啓介像

中央公園内に入って、由利公正きみまさ(三岡八郎)像岡田啓介像をチェック。

松平春嶽像

続いて、福井神社に参って松平春嶽(慶永)像をチェック。

yuuki_hideyasu.JPG 由利公正(三岡八郎)・横井小楠像

そこから福井城址内の福井県庁横を通って、県庁正面の結城秀康像をチェックし、内堀公園由利公正(三岡八郎)・横井小楠像をチェックしました。

次に目指したのは、柴田神社北の庄城址公園です。

前回は苦労して苦労して探し当てた場所ですが、鬼瓦などの発掘(→こちらを参照)があって以降、多少の復原がなされて整備されているので、寄ってみました。

柴田勝家像

お決まりとして、柴田勝家像をチェック。10年前にはあった定食屋さんは見当たりませんでした。(お市定食、三姉妹弁当とか…懐かしいデス 笑)

ラストに丹羽長秀の墓(史学科の同級生である女性のご先祖様なんですが…)を巡って、初日の福井散策は終了!

― ◇ ◇ ◇ ―


さて、2日目は、旅行のメインでもある、敦賀城址巡りです。

福井駅から普通電車で約50分。

都怒我阿羅斯等像

まずは、「敦賀」の語源ともなっている、意富加羅国(今の朝鮮半島南部)の王子・都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)像がお出迎えです。

ちょうど、お昼時に到着したので、まずは腹ごしらえとアルプラザでランチタイム…(失礼ながら、こんな所でもHOPカードが使えるなんて…笑)

敦賀城等案内碑 来迎寺表門(元敦賀城中門) 大谷吉継幟旗

まずは敦賀西小学校前に立つ敦賀城等案内碑をチェック。そこから敦賀城の原風景(掘割りなど…)を感じるべく真願寺来迎寺を巡り歩きました。

武田耕雲斎像

最後は松原神社水戸天狗党ら烈士や武田耕雲斎の墓を巡って、目的を終了。

敦賀駅に迎い、新快速に乗って帰洛しました。

今回、旅行前日に体調を壊してしまい、いわば万全の状態で臨めなかったのが痛恨の極みでした。今度は暖かい時期にでも行こっ!

posted by 御堂 at 21:24 | Comment(2) | TrackBack(0) | 歴史:散策&観覧

京都国際マンガミュージアム

京都国際マンガミュージアムに行って来ました。

大阪の友人と阪急烏丸駅で待ち合わせし、目指す場所に向かって徒歩でてくてくと北に上がっていきます。

歩く事、およそ30分(僕の脚では大路から大路はだいたい約15分位なので…四条→三条→御池だから、こんな感じ!です)

あらかじめ、地図で確認しておいてのですが、何を(自分で)勘違いしたのか両替町通を行っちゃいました。あれ?おかしいなぁーでもよう見たら、建物の裏ですやん(笑)

でも、おかげで、大発見!

所在地で言えば、「京都市中京区両替町通御池上ル」になるのですが、龍池たついけ小学校跡地になります。

旧龍池小学校とは、明治5年(1872)の学制発布よりも前の明治2年(1869)に京都の町衆による小学校創設構想に基づき、当時の学校区)である「番組」で上京の第25番目として作られた「番組小学校」の1つで、都市化による少子化現象というべきドーナツ化現象の末、平成7年(1995)に廃校になった公立小学校です。

「龍池」という名は、ちょうどこの付近にあった二条殿邸宅の庭園の池「龍躍池」に由来したのだそうです。

二条殿址碑

その二条殿があった事を示す「此附近 二条殿址」という石碑を見つけたんですよね。

二条殿は、藤原氏九条流が所有し、支流である二条家の本邸宅で、室町時代に描かれた「洛中洛外図屏風」にも描かれています。

その後、安土桃山時代の天正5年(1577)に織田信長が移り住み、さらに天正7年(1579)に正親町天皇の東宮・誠仁親王に献上したので、「二条御所」と称されます。

しかし、天正10年(1582)の本能寺の変の際、織田信忠の手勢とと明智光秀の軍勢との戦闘の中で、信忠の自刃と共に焼失してしまいます。

まさに、侮りがたし、平安京って感じです!(笑)

さて…って事で、ぐるっと1周して竹屋町通を東入ってみると、ほとんど烏丸通に面したトコにありました。

「京都国際マンガミュージアム」

入場料500円を券売機で購入し、受付で「PASSPORT」なる折込案内図をもらって、いざ探検!

まず、お目にかかるのは「マンガの壁」ですが、

1F…少年マンガ
2F…少女マンガ
3F…青年マンガ

の所蔵本が作家別に50音順で配架されていました。懐かしい作品がたくさんありましたよ!

地下には収蔵庫があって、マンガ雑誌が閉架状態で陳列されてましたし、まだ整理されてないのか、何杯かのダンボール箱が詰まれてました。

時期的にイベントとして、「世界のマンガ展」「100人の舞妓展」が催されていたので、併せて展観しましたが―

「世界のマンガ展」で、地球環境などをテーマにした京都国際マンガ展入選作品の風刺マンガなど、結構面白かったですよ。

例えば、地球温暖化をテーマにした作品では、顔が地球の人が額には氷を乗せ、口には体温計を加え、ベットに横たわっています。そのベットには体温の上昇を示す折れ線グラフが書かれた紙が貼られている…みたいな感じですすね。

自然との共生をテーマにした作品では、旅客機と燕たちが仲良く横並びで飛んでいる…とかも面白かったですね。

「100人の舞妓展」では、100人のマンガ家さんたちが描く個性豊かな表情の舞妓さんの姿が壁に飾られて陳列してました。

友人と「えっ、この人も?」と驚いたのが、車だん吉さんです。

「車だん吉さん、あの喜劇役者さんだよね?」って感じだったんですが、そーいえば「お笑いマンガ道場」にレギュラで出演されてたし、そういう素養もあったのかな!とすぐに疑問は氷解しましたけど…

以上、こんな感じでしたよ!また行ってみようかな!と思わずにいられない場所でした。

posted by 御堂 at 20:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:散策&観覧

「淀屋展」

大阪に住む大学時代の友人(史学科で同じ中世ゼミだった奴)と「淀屋展」を観に行ってきました。

淀屋とは土木請負、材木業を行い、秀吉家康の時代に伏見城造営(文禄3年=1594)や淀川堤防の大改修(文禄5年=1596)で財をなし、大坂・中之島を開発します。

大坂夏の陣豊臣家が滅亡してから意気消沈していた大坂の町ですが、淀屋はその後、徳川幕府から肥料となる干鰯や材木の販売、営業を認められ、「青物市場」を開きます。

また、屋敷前で始めた米市場は「大坂米市場」の始まりで、やがて全国米相場の基準となり、寛永年間には諸藩への金融や特産物の取引を行っており、元禄の頃には日本一の豪商と云われます。

屋敷前で開いた米市場に集まってくる商人のために、屋敷前から米市までの間に架けた橋が「淀屋橋」(元和5年=1619)として有名です。

百万石の大名を凌ぐ財力と云われますが、5代目の時、「贅沢が過ぎる」という理由で、幕府から闕所けっしょ(財産没収)、大坂所払い(追放)の処分を受け、没落していきます。

淀屋「大名貸し」などで幕府や大名に貸した借金があまりにも多額になり、淀屋の力を恐れた幕府が強権を発動したのだとか―

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ところが、昭和54年(1979)、鳥取県倉吉市の大蓮寺で「淀屋清兵衛」と名乗る人物の墓石が発見されました。

何故、倉吉で「淀屋」を号する人物の墓が見つかったのでしょうか?

つまりは、こういう事だったようです―

4代目の当主の重当は何れ幕府からの圧力がかかる事を予感し、「闕所」処分の35年前から倉吉出身であった番頭の牧田仁右衛門じんえもん淀屋の再興を託します。それが「牧田淀屋」の始まりです。

牧田淀屋は「主家の血を絶やさない」「大坂に旗を掲げる」「決して突出しない」を守り、闕所処分から59年後、大坂・北浜に木綿問屋「淀屋清兵衛」を開いて、暖簾のれんを復活させたのです。

大蓮寺で見つかった墓は、大坂に店を復活させた初代清兵衛の息子「牧田孫三郎」の墓でした。

淀屋はその後、幕末動乱期の安政6年(1859)、大坂と倉吉の店をたたみ、財産の9割を倒幕資金として献じたと云います。(←鳥取藩主池田家が“勤皇派”だった事、現在の天皇家の祖である閑院宮家から即位し、生前から「天皇」を自称した光格天皇の生母が倉吉出身である事、その光格天皇の側近である中山家忠光「天誅組暴動」の失敗で倉吉に隠遁していた事、などが挙げられるようですね)

大坂の船場の商人たちは「淀屋の轍は踏まない」と贅沢はせず、慎ましやかに―をモットーとしていたそうですが、淀屋の先見性を見習うべきではないでしょうか。

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今回、観覧しましたが、まだ第3回目という事なので、これから発展途上な展示会と言えなくもないですね。

ビルの1階ロビーでのパネル展示。図録とか、パンフレット、リーフレットっぽいのが欲しかったのですが…(唯一、展示資料の説明が書かれたプリントがテーブルの上に置かれてありましたが、説明文章に誤字脱字が多かったです。ちゃんと校正しましょうよ!…「月堂」(→二月堂)とか「佐太神宮」(→佐太天満宮)など、掲載させてもらってる以上、マズイでしょ。ホント!次回から気を付けて!!)

― ◇ ◇ ◇ ―

さて、淀屋の初代・岡本常安(辰五郎)は、山城国岡本荘の出身だとか―

岡本荘って何処にあったっけ?調べてみなきゃ!

それに、元々武士の身分だったのが、織田信長に敗れて商人の身分に―とあるので、絞り込めば何か発見できそう!

また、八幡の地で商売が許されたので、「淀屋」と号したようですが、淀城主だった永井尚政と関連あるのかな?と思いながら、観ていました。

永井尚政は前老中職で、寛永10年(1633)から亡くなる寛文8年(1668)まで山城淀城主であった人物。

弟の永井直清も寛永10年(1633)から慶安2年(1649)まで山城長岡城主で、しかも慶安2年(1649)〜3年(1650)の間は大坂城代を勤めています。

尚政の三男・永井尚庸も寛文10年(1670)から延宝4年(1676)に京都所司代を勤めています。

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―で、帰宅して調べてみたら、やはり岡本淀屋永井家縁戚関係にあったようです。

そう考えたら、大坂における淀屋の活躍も存外あり得べき話に聞こえますね。

不思議なのは、延宝2年(1705)に処分が下ってから10年後の正徳5年(1715)に突然恩赦を受けている事実―

これも何か因果関係があると臭いませんか!―たとえば、一連の処分沙汰が示し合わせたものだったとか…ネ!

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※(参考)「淀屋研究会」公式サイト→


posted by 御堂 at 20:17 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:散策&観覧

「真田幸村と大坂夏の陣」展

「真田幸村と大坂夏の陣」A 「真田幸村と大坂夏の陣」B

大阪城天守閣にて現在開催中の「真田幸村と大坂夏の陣」展を観て来ました。

JR大阪駅で大学時代の学友と待ち合わせて、いざ出陣!(笑)

今回は正面突破と決めていたので、谷四(大阪市営地下鉄谷町線の谷町四丁目駅)から大阪歴史博物館と難波宮跡を通過して、大手門から突入開始!(そうそう、大阪歴史博物館の脇に高床式倉庫が復元されてましたよ!)

この間の長浜城歴史博物館もそうでしたが、平日だというのに、人がわんさかいるわいるわ…

遠足の帰りかな?幼稚園児の行列にまずは遭遇!次いで、菊の祭典とか植木市を開催していたようで御年配の方々もたくさん居られました。

入場券(600円)を購入し、いざ天守閣へ、と思った矢先。最大の難敵ではなかろうか?小学生のの社会見学っぽい一行とリアルタイム遭遇!嫌ぁーな予感がよぎりました…(じっくり観たいやん!)

さて、展示・陳列は4階→3階なのですが、思いがけず「大阪城再発見クイズ」なるモノを発見!

「大阪城再発見クイズ A」 「大阪城再発見クイズ B」

質問が8つあって、それに応えて回収ボックスに投函し、会期終了後に抽選で景品(ipodらしい…)が当たるんだとか…

8問中6問はすんなりわかったけど、残り2問だけがわからない!各階の展示・陳列物にヒントが隠されているとの事なので、順次チェックしながら展観開始です―(詳細は↓の方に…)

展示テーマとしては、

  1. 幸村の生い立ち


  2. 長篠・設楽原したらがはらの合戦昌幸の兄である信綱・昌輝が戦死し、昌幸が家督を継ぐ時点からスタートして、神川かんがわの戦い第一次上田城攻防)まで

  3. 関ヶ原の合戦


  4. 第二次上田城攻防を中心に関ヶ原の合戦の状況を―

    「関ヶ原合戦図絵巻」には先鋒として徳川軍に近付く幸村主従の姿が描かれていました。(友人と「左平次はどれやろ?」と冗談交じりに言っちゃってます 笑)

    同じ絵巻には、上田城攻防で時間をとられ、険しい木曽路を進む秀忠軍の様子も描かれていましたよ。

    女丈夫な小松殿の画像(「小松姫画像」)も目をを惹きました…

  5. 大坂の陣


  6. 今回一番感動してとすれば、幸村が所用していたという僕自身、初めて観た「六連銭文馬印」ですね。

    また、夏の陣の折、幸村軍と戦闘した井伊直孝軍と松平忠直軍関連の品々も目を惹きました。

    松平直政所用で兜に雉子きじのデザインをあしらった「雉子形きじなり兜」も新鮮な感じでしたよ。

  7. 幸村の英雄伝説


  8. その後の幸村についてどう伝承されていったのかを一同に集めていました。

    なかでもやはり、立川文庫や講談本による真田十勇士モノから池波正太郎氏の『真田太平記』までが展示・陳列していました―
と、こんな感じの構成でしたね。最後、1階には大坂の陣幸村関連の史跡ガイドマップが展示されており、改めて各史跡をチェック!

また、図録(1300円)を購入し、名残惜しくも天守閣を退去したわけです。

帰路の途次、残念石を観たかったので、そちらの場所に行って撮影チェック!

で、極楽橋を渡って、京橋沿いに帰途に着きました…正味3時間の展観でしたよ(爆)

ps.
展示会場にて携帯やデジカメで撮影しとる観覧者の人がたくさん居ました。史学科時代、そーいう行為は非常識と教わり、何処の美術館や博物館に行っても撮影するなんて最低!と身についてしまっているので、そうした行為にはとても信じられない気持ちです。(現実に「館内での撮影を禁ず」って貼ってあったのにもかかわらず…ネ!)

過去に、図書館事務の研修に参加した際(→龍大主催でした!)参加者のみ修理する前の飛雲閣を見学する、という事がありました。その時も撮影しまくってる人たちがたくさんいらっしゃいましたが、「これって、国宝やしアカン!」との思いで行動を抑止していたのを想い出します…以上、愚痴でした!

― ◇ ◇ ◇ ―

「大阪城再発見クイズ」の答え合わせです!

Q問1 真田家はもと甲斐の戦国大名武田家の重臣でしたが、ある合戦で武田家は敗れ、真田幸村のおじ2人が戦死しています。この合戦を何というでしょう?

A 長篠・設楽原したらがはらの合戦

Q問2 大坂の陣で、豊臣方の総大将だった豊臣秀頼は、秀吉と側室淀殿との子どもですが、秀頼が産まれたとき、秀吉は何歳だったでしょうか?

A 58歳

Q問3 大坂夏の陣において徳川家康本陣に攻め込み、獅子奮迅の活躍を見せた真田幸村。その父、真田昌幸によって天正11年(1583)に築城された城は何城でしょう?

A 上田城

Q問4 真田幸村が大坂の陣において秀頼の招きに応じて大坂城に入城するまで住んでいた場所はどこでしょう?→(1)妙見山 (2)九度山 (3)生駒山

A (2)九度山

Q問5 真田幸村が大坂城中と行き来するために掘ったといわれる“真田の抜け穴”が、ある神社の境内にあり、現在そこには幸村の銅像も立っていますが、その神社の名は何というでしょう?

A 三光神社

Q問6 慶長19年(1614)大坂冬の陣では徳川家康が、また夏の陣では真田幸村が本陣を置いたところは、どこでしょうか?

A 茶臼山

Q問7 大坂の陣で、真田幸村は具足・旗などを赤一色で統一しました。これを見た徳川方の松平忠直隊はその様子をある花の名にたとえています。その花の名を何というでしょう?

A 躑躅つつじ

「大坂夏の陣図屏風」で真田幸村隊は右雙のほぼ中央に描かれていて、幸村は栗毛の馬にまたがり、鹿角の兜を被って采配を振るっています。軍装は赤一色で統一された「赤備え」で、対峙した松平忠直隊は「躑躅つつじが花盛りに開いているようだ」との感想を残しています。

Q問8 幸村の活躍を支えた真田十勇士の物語は、大部分が後世の創作によるものです。さてその十勇士の一人に、実際は徳川家に仕えていたことが判明している人物がいます。その人物は誰でしょう?→(1)猿飛佐助 (2)霧隠才蔵 (3)三好伊三いさ入道

A (3)三好伊三入道

「(年不詳)12月19日付三好因幡守宛徳川秀忠書状」ってのが展示されていました。この三好因幡守が、三好伊三(為三)入道のモデルとなった人物で、三好長慶の従兄弟にあたる三好政勝といいます。彼は、元亀元年(1570)に織田信長に降って、摂津豊島てしま郡内に所領を得て以降、秀吉・家康にも仕え、さらには秀忠の旗本衆として大坂冬・夏の陣にも従軍。晩年は秀忠の御咄衆(御伽衆)となっています。




      

posted by 御堂 at 21:09 | Comment(5) | TrackBack(1) | 歴史:散策&観覧

「盟友―石田三成と大谷吉継―」展

久々に長浜城歴史博物館に出向きました。現在開催中の企画展「盟友―石田三成と大谷吉継―」と特別展示「一豊と秀吉が駆けた時代―夫人が支えた戦国史―」の第11回テーマ展「山内一豊と掛川」を観るために―です。

まず最初の「盟友―石田三成と大谷吉継―」展は敦賀市立博物館で開催中にはいけなかったのですが、今回長浜城の方に来たので観ることができました。

幾つか目に付いたものは、

「称名寺宛、天正十一年十二月廿三日付大谷紀之介書状」

天正11年(1583)12月23日に大谷吉継から領内の称名寺に発給された書状です。吉継は天正13年(1585)に形部少輔に補任され、それ以降は「大谷刑部」と署名しますので、「大谷紀之介」として署名されている貴重な古文書といえますね。

「西福寺宛、天正十七年十二月付大谷刑部書状」

天正17年(1589)12月に大谷吉継から領内の西福寺に発給された書状で、この年、吉継は前敦賀城主蜂屋頼隆の死去によって後任として敦賀城主として赴任してのですが、混乱にならないように蜂屋が執った政策を追認していることがわかります。

「天正十一年三月十三日付石田三也書状」

天正11年(1583)3月に石田三成が称名寺に出した書状で、賤ヶ岳の戦いの直前に発給されたもの。緊迫した湖北地方の情勢が伝わってきます。更には、署名にて「石田佐吉 三也」とあり、稀少価値があります。

「真願寺宛、(年未詳)十月廿二日付秋田実季書状」

出羽秋田城主秋田実季の書状ですが、上杉景勝しかり、最上義光しかり、日本海側の諸将が北陸方面ルートを通じて、上方(京、大坂)との最短ホットラインがあったことを示していますね。それに対し、伊達氏大崎氏など、三陸側の奥州の諸将にとっては陸路、というよりか北条氏の存在が情報収集の伝達を遅くさせた要因なんだな―と改めて気付かしてくれる史料と思います。

― ◇ ◇ ◇ ―

続きまして、「山内一豊と掛川」展については、これまであまり掛川城下のことを知らなかったので、是非知識を増やそうと展観しに来たのです。収穫としては、「御天守台石垣芝土手崩所絵図」「遠江国掛川城地震之節損所之覚図」を観ることができたことですね。

「遠江国掛川城地震之節損所之覚図」は、嘉永7年(1854)11月に起きた大地震の被害状況を、幕府に報告するために製図したもので、一豊が築いた掛川城の縄張を知ることができる史料です。

「御天守台石垣芝土手崩所絵図」は、嘉永4年(1851)に掛川城天守閣北側の石垣と芝土手が崩れた状況を、幕府に報告するために製図されたもので、一豊が築いた天守閣の面影はないにしても、現在復元されている掛川城の大ヒントとなった図面だそうで、じっくりと観ちゃいました!

チョット、残念なのは、僕にとっての山内一豊は槍働きでの武辺者というイメージよりかは、土木技術を駆使したテクノクラート、すなわち実務官吏としての一面が好きなんですね。

それで、一豊掛川城主時代に行使した最大の功績として有名な“天正の瀬替え”と呼ばれた大井川の築堤工事に関する史料も観たかったと思います。

“天正の瀬替え”というのは、駿府城主だった中村一氏と協力して大井川の本流を西向きから東向きに替えたもので、一豊堤(増岡堤)を築造したことで、領内での新田開発や洪水被害のの防止を促した政策として知られています。

それがなかったのは、チョット寂しいかな…

さて、来週23日からは第12回テーマ展示「豊臣秀次家臣団と一豊」が開催されます。こちらも注目度は大!(僕にとっては“秀次衆”はメーンテーマだし…)

ps.
北近江博覧会と併行して開催中なので、大型バスでのツアー観光客さん達が多かったです…その分、じっくりと観れなかった。(人が多いのは嫌いです…)

帰りの電車を長浜駅で待っていると、突然、♪ピンポン パンポーン、こちらは長浜市です。今朝発見された熊は捕獲されました♪とのアナウンスが聞こえてきました。山あいに散策してたら出くわしてたりして…


  

posted by 御堂 at 11:38 | Comment(2) | TrackBack(0) | 歴史:散策&観覧

世界遺産 大アンコールワット展〜壮麗なるクメール王朝の美〜

大阪歴史博物館(大阪市中央区)で7月22日(土)〜9月11日(月)にかけて、特別展「プノンペン国立博物館所蔵 世界遺産 大アンコールワット展〜壮麗なるクメール王朝の美〜」が開催されます。

アンコールワットについては「アンコール・ワットの落書き」でも触れましたが、私個人的な注目はやはり、森本右近太夫の落書きでしょうね。

今回、特別展が開かれるという事で、とく森本右近太夫に関する関連イベントを記載します。

プレ講演会「アンコールワットに魅せられた日本人」

 講 師 : 中尾芳治氏(元帝塚山学院大学教授)
 演 題 : 「アンコールワットに参詣した日本の武士・森本右近太夫をめぐって」
 日 時 : 平成18年7月9日(日) 午後1時から午後4時
 会 場 : 大阪歴史博物館 4階 講堂

※参加費300円で、定員250名(←当日は先着順、開始時刻のの30分前から受付開始)

併設展「アンコールワットに残された日本人墨書」

 期 間 : 特別展と同じ
 場 所 : 1階 エントランス(観覧無料)

僕も講演を拝聴しようかな、と思い起ってます。(レジメとかあったら勉強になるしね…)

posted by 御堂 at 00:15 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:散策&観覧