特別企画「黒田官兵衛博覧会」テーマ展「秀吉・官兵衛の戦いを支えた武将たち」

1月19日から始まった特別企画「黒田官兵衛博覧会」(~12月28日まで)が催されている長浜城歴史博物館(滋賀県長浜市)に久々に行って来ました。

「黒田官兵衛博覧会」の「歴史館」としての会場が長浜城歴史博物館3階展示室となっているのですが、現在、4月から本格的な博覧会展示イベントが催されるに先立ち、プレ展示イベントとして「秀吉・官兵衛の戦いを支えた武将たち」が開催中なのを観覧するためです。

その1回目のテーマ展である「長浜城主秀吉と家臣たち」の最終日(23日)と第2回目のテーマ展「石田三成と秀吉奉行たち」(~4月6日〔日〕まで)の初日を観たのですが―

「長浜城主秀吉と家臣たち」においては、豊臣秀吉の家臣の中でも北近江の出自である宮部継潤、田中吉政、新庄直頼など、あまり知られていない人物が採り上げられていました。

「石田三成と秀吉奉行たち」では、石田三成や五奉行関係の史料、及び大谷吉継に関連した史料等が展示されていました。

今回の観覧で私が一番注目したのは、田中吉政の出自が浅井郡の人だった―て事を証明する史料を拝めた事です。

◎慶長9年(1604)竹生島宛田中吉政書状(宝厳寺蔵)

従来、田中吉政の出生地は、江戸幕府編纂による『寛政重修諸 ちょうしゅう 家譜』「先祖は 近江国高島郡田中村に住しと記載されています。「近江国高島郡田中村」とは現在の滋賀県高島郡安曇川あどがわ町田中にあたります。

従来、この『寛政重修諸家譜』は各大名家の家伝や家譜などをそっくりそのまま書き写して編纂されたものである事から、こちらの説が信憑性を持っていました。

しかし、その一方で吉政の出身地を浅井郡三川みかわ村(現在の滋賀県長浜市三川町)とする説 浅井郡宮部村(現在の滋賀県長浜市宮部町)とする説もあったのです―
  • 田中家は大名家としては廃絶しますが、江戸幕府の旗本として家が残ります。このうち、吉政の三男・吉興の家に係わる系図(柳川古文書館蔵)で、吉政の父・重政の項に「江州浅井郡三河村に蟄居、病死」したとの記載がみられる事

  • 米原市飯の徳善寺に伝来した「新庄福永順光寺図」には「此田中筑後守者近江国浅井郡三河村出生大名也」と見える事
さらには、
  • 吉政が宮部村の地侍でじざむらいある宮部継潤に仕えた事

  • 吉政の母が浅井郡国友村(現在の滋賀県長浜市国友町)の地侍・国友与左衛門の姉で、国友与左衛門は宮部継潤の家臣であった事

  • 慶長9年(1604)正月に筑後柳川城主となった吉政が同国三潴みずま郡大善寺村(現在の福岡県久留米市大善寺町)の玉垂宮たまたれぐうに寄進した梵鐘の銘文に「大施主田中筑後守橘朝臣四位吉政、生国江州浅井郡宮部あがた子也」とある事
等の様な吉政の出生伝承も残されています。

それがこの「慶長9年(1604)付竹生島宛田中吉政書状」によって裏付けられたようなんですね。

詳細は、慶長9年(1604)5月12日、吉政が翌慶長10年(1605)の竹生島の行事・蓮華会という弁財天の祭礼の頭役を夫婦で務める事を申し出ている内容でした。その蓮華会の構成メンバーは浅井郡の住人に限られていた訳です。それ故に、田中吉政は浅井郡の出自である事が確証立てられた感じですね。
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※(関連)「田中吉政とその時代」展
※(参照)太田浩司「田中吉政の出生と立身」(『秀吉を支えた武将田中吉政 近畿・東海と九州をつなぐ戦国史』所収)

(トピックス)「山国隊」、鳥取に143年越しの凱旋!軍楽行進を披露

143年を経て鳥取に凱旋し、樗谿神社に参拝する山国隊軍楽保存会による軍楽行進

幕末・維新期に因幡鳥取藩に付属し、戊辰戦争を官軍として戦い、功績を挙げた丹波国桑田くわだ山国やまぐに郷(現京都市右京区京北けいほく町)で結成された農兵隊山国隊やまぐにたいの子孫たちが伝え遺している「山国隊軍楽保存会」が25日、鳥取市上町の樗谿おうちだに神社を訪れ、参道で「軍楽行進」を披露した。

この行進は、同神社近くの鳥取市歴史博物館(やまびこ館)で現在開催中の特別展「因州兵の戊辰戦争」(~10月30日まで)で、「山国隊」を取りまとめた隊中取締役の藤野近江守いつきが、戦争で着ていた服や、これまで門外不出にされてきた「山国隊」の血判状が展示されたのがきっかけなのだとか―

それらが展示されている事を知らせた上で、「山国隊軍楽保存会」に来訪と鳥取での「軍楽行進」を呼び掛けたところ、「初の鳥取凱旋なら本式に」「史上初めて鳥取を行進する。無様にはできん」という事になり、小中学生を含む47人の軍楽隊が毎年地元の神社で行っている「軍楽行進」を披露する事となったのです。

143年の時を超えて初めて鳥取へ凱旋した羽織姿の「山国隊軍楽保存会」のメンバーは「山国隊」のぼりを先頭に約30分間、大鳥居から本殿までの参道を笛隊、太鼓隊、鉄砲隊などが軽快なリズムにのって往復行進。勇壮な歴史絵巻が繰り広げて鳥取藩第12代藩主池田慶徳よしのりを祀った本殿を参拝し、奉納演奏しました。

ちょうど墓参のため帰郷中だった現当主で鳥取池田家第16代当主である池田百合子さんが「軍楽行進」を見学されたのですが、「オリジナルの曲を聴いたのは池田家では慶徳よしのりと私の2人だけだと聞き、大変光栄です」と一行にお礼を述べたそうです。

保存会の川崎輝男会長は「先人が鳥取藩13番隊として戊辰戦争に参加し、慶徳よしのり公に京都で演奏を聴いて頂いた。霊前で演奏できて大変感無量です。これからも先人の歴史を残していきたい」と話した。

元鳥取県立図書館長の森本良和さんは、4年前に「山国隊」の地元を訪れて以降、毎年訪ねては「山国隊軍楽保存会」の行進に加わっているそうですが、「明治維新といえば薩長同盟や新選組ばかり目立つが、歴史の転換点には鳥取藩や、「山国隊」の活躍もあった事を知って欲しい」と話す。

森本さんによれば、7年後の平成30年(2018)の明治維新150周年に向け、鳥取所縁の志士たちを顕彰する機運を盛り上げる動きがあると話していた。

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さて、「山国隊」は勤王派の農民ら約80人が西園寺公望の要請で慶応4年(1868)に結成されました。

元々、山国郷は太閤検地の頃まで禁裏直轄の荘園「山国庄」だった事もあって、古くから皇室との関係が深く、平安京(城)造営の際は御杣みそまとして木材を供給した伝承を持つ程でしたし、その他にもちまき・餅・若菜・鮎・茶・釣瓶つるべ柄杓ひしゃくたらい・桶といった特産物を献上していました。

この山国郷の「山国隊」と同じように古くから皇室と深いつながりがあり、勤王の志が強い地域として、丹波桑田くわだ馬路うまじ郷(現・亀岡市馬路町)の弓箭隊きゅうせんたい(→因みにこの弓箭隊も時代祭の弓箭組列として時代行列の最後尾を守っています。但し、参加しているのは弓箭隊ではなく、弓箭組である事に留意しましょう。「組」とは幕藩体制下の軍役奉仕で召集された組織を指し、主に本百姓=地主惣代レベルでした。それに対し、弓箭隊は中間層・小百姓レベルの組織なのです)であったり、大和十津川とつかわ村(現、奈良県吉野郡十津川村)の十津川郷士の3つが有名で、この3つは「丹波馬路は制外の地とて日本制外三ヶ所の一也、殊に王城に近き所なる故勤王と云う事を忘れぬ様常に親父子の咄也…」(『中川禄左衝門手記』)とある様に“日本制外の地”と自認していたようです。

慶応4年(1868)正月3日に鳥羽・伏見の戦いが勃発し、戊辰戦争が始まりますが、正月5日には各方面に治安維持のための鎮撫隊が派遣され、山陰道鎮撫総督・西園寺公望が丹波領内で「勤王有志之輩は各武具得物相携へ速に官軍に可馳加事」(『丹波山国隊誌』)の激文を飛ばし、兵を募ったのに応じて結成されます。

同年正月11日、山国郷内11か村から山国神社(現、京都市右京区京北鳥居町)に集結し出陣した農兵隊は山陰道鎮撫総督・西園寺公望との合流を目指しますが、その途次の正月18日に鳥取藩の周旋方で京都御留守居加役の伊王野いおうのひろし(資明)の仲介と岩倉具視から鳥取藩に付属し「山国隊」と称するようにとの指示を受け、ここに「山国隊」が誕生します。

その後の2月13日、東征大総督・有栖川宮熾仁親王の京都出陣に伴い、「山国隊」に東征への従軍指令が下り、「山国隊」の1個小隊(隊士28名、客士2名)が東山道軍の鳥取藩部隊「13番隊」として京を出発します。

「山国隊」はその装備がミニエー銃な事もあって、西洋式の軍事教練を受けていました。しかも、銃の射撃精度が山村の狩猟などで慣らしていたために非常に正確で優れていたそうです。

そうして、新選組との甲州勝沼戦争や下野安塚戦争(激戦だったようで戦死者2名、負傷者5名、行方不明者1名を出す)、彰義隊との上野戦争(交戦の中で戦死者1名 負傷者4名を出す)、奥羽戦線にも従軍し、相馬中村、陸奥亘理及び仙台と転戦し、閏4月25日にようやく江戸に凱旋。以降は錦の御旗の警衛を任されます。

江戸に駐屯する期間、江戸にいた外国人からフランス式訓練と軍楽教育を受け、後の観るような和楽器を用いた西洋音楽風のメロディーを奏でる姿はマーチングの草分けとも言えるでしょう。

山国護国神社の例祭で行進する山国隊軍楽保存会

結果として、「山国隊」は戦死者4名(行方不明者1名を含む)、病死者3名という多大な犠牲を出す程の活躍を果たします。

しかも、彼ら「山国隊」の出兵費用は自弁(=自己負担)で、鳥取藩にも必要の都度借金をしていました。(鳥取藩だけでも996両、総借財額は7800両に上っていました)

彼らは膨大な借金を抱え、山国郷内の山林を売るなどをして返済して行きます。

翌明治2年(1869)2月18日、「山国隊」は大勢の見物人・出迎えのなか、鼓笛を奏して京から山国郷へ凱旋し、山国神社を参拝。2月25日には死者の慰霊祭を行ない、辻村(現、京都市右京区京北辻町)に招魂場(山国護国神社)を設けます。

最終的には、鳥取を訪れる事なくそのまま解隊。しかし、上記に挙げた様に御所の西側に在った鳥取藩京屋敷(現、京都市上京区油小路通中立売下ル甲斐町)に詰めていた藩主・池田慶徳には「軍楽演奏」を披露したと云います。

私たちが現在、映画やテレビドラマで官軍行進のテーマソングとして聞いている「山国隊」の行進(京都人としてはその昔、王将のCMで流れていたのが懐かしいところ…)ですが、

「山国隊」の地元で催される山国護国神社の例祭(招魂祭、4月22日)と山国神社の例祭・還幸祭(毎年10月の第2日曜日) では「山国隊」の子孫たちで創る「山国隊軍楽保存会」による「山国隊軍楽行進」の奉納が観られますが、片や時代祭での先頭を行進する「維新勤王隊列」は実は山国の人たちではないのです。

というのも、参加費用が馬鹿にならないのですね。

時代祭は明治28年(1895)に平安京(城)に都が遷され、桓武天皇が大極殿で初めて正月の拝賀を受けた延暦15年(796)から1100年目に当たり、これを記念して催された「平安遷都千百年紀念祭」の余興として実施された時代行列が平安神宮の祭礼となって現在まで続いている行事です。

「山国隊」もこの時代行列に参加していますが、決して依頼や招待されたのではなく、これもまた自腹を切っての参加なのでした。

とてもじゃないけど、衣裳の新調や旅費宿泊費の工面などに平安講社からの補助金だけではとても賄い切れず、困窮しながらも参加を続ける中、明治35年(1902)以降は5年ごとの参加に縮小し、とうとう大正8年(1919)を最後に参加を止めたという経緯があるのです。

翌9年(1920)以降は同年に京都市に編入された壬生朱雀地区(現、京都市中京区朱雀学区)の人々に山国出身者が多いらしく、代役を務める事で継承されています。

ところが、最近では担当する平安講社第八社(京都市中京区朱雀学区)も人材が集まらず、殆んど学生ボランティアが代役を務めている始末…

正直なところ、山国護国神社の例祭(招魂祭)と山国神社の例祭・還幸祭で演じられる「山国隊軍楽保存会」による「軍楽行進」をこそ観るべきでしょうね。

ましてや、鳥取での「山国隊軍楽保存会」による「軍楽行進」をもっと定着させてくれたら、鳥取まで観に行く事間違いないです!

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ところで、「山国隊」を取りまとめた隊中取締役で正五位近江守の藤野斎という人物ですが、元は丹波桑田郡山国郷の名主・藤野五右衛門の長男で、元々は漢方医であったり、山国神社の神職を務めていました。

この藤野斎の私生児として生まれたのが日本で最初の職業的映画監督であり、“日本映画の父”マキノ(牧野)省三なんですよね。

マキノ(牧野)省三は藤野斎と北野上七軒かみしちけんの芸妓で娘義太夫・竹本弥奈太夫こと牧野やなとの間に生まれました。

因みに、このマキノ(牧野)省三の四女にあたるマキノ智子(加藤恵美子)が4代目澤村國太郎と結婚して生まれてのが長門裕之氏と津川雅彦さんの兄弟です。津川さんはが映画での監督・プロデュースの際は「マキノ雅彦」を名義として名乗っており、藤野斎の曾孫にあたる事になります。

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※(参考文献)岡本幸雄「幕末・明治維新における郷士の政治的運動の展開―旗本領丹波馬賂両苗郷士ついて―」『立命館経済学』第9巻第2号

“病父を尋ねて三百里”―「豊後国二孝女」の孝養

今は昔…とは言っても、ほんの200年前のお話―

豊後臼杵うすき藩領内の大野郡川登かわのぼり村字泊村(現、大分県臼杵市野津町のつまち大字泊)に「豊後国二孝女」と賞賛された姉妹が居りました。

姉妹の名は、姉がつゆ、妹がときと言いました。

江戸時代の寛政8年(1796)、姉妹の母親が急病で亡くなりますが、姉妹は父である川(河)野初衛門と共に農作業に精出していました。

その後、文化元年(1804)3月5日、熱心な浄土真宗の門徒である初衛門が、親鸞聖人所縁の地を巡りながら、亡き妻の菩提を弔おうと供養巡礼の旅に出ます。

京都の寺々を巡った後、信濃、越後を目指し、途中上州辺りで持病の足痛の治療を兼ねて草津温泉に逗留。そこから、越後、奥羽地方を巡り、常陸に入り、久慈郡東蓮寺村(現、常陸太田市東連地町)辺りで足の痛みが再発してしまい、同領内に在る青蓮寺しょうれんじに逗留して療養する事を余儀なくされます。

こうした初衛門の窮状が故郷で待つ姉妹の許に伝わる事はなく、7年もの歳月が経ちました。

ところが―

文化8年(1811)、京の龍谷山本願寺(浄土真宗本願寺派本山、通称「西本願寺」「お西さん」)で親鸞上人の550回忌大遠忌おんき法会ほうえが催された際に出席した青蓮寺の住職が川野家の菩提寺である善正寺(大分県臼杵市大字二王座におざ)の住職と歓談した折に初衛門の消息が判明し、姉妹の耳に伝わったのです。

実は初衛門が常陸に居るという噂はあったのです。そこで、つゆは幾度か父親探しの密行を計画したのですが、その都度事前に発覚したり、追っ手に抑えられたりして実現できずにいたのです。

しかし、初衛門の消息が確実のものとなった今、姉妹は居ても立っても居られず、臼杵藩の許可を得て豊後臼杵から常陸水戸の青蓮寺まで2か月近い旅の末に父と再会を果たします。

そうした姉妹の父親への孝養を尽くす姿が、水戸藩や臼杵藩の共感を呼んで様々な支援を受けて、翌文化9年(1812)春、無事に親子3人で帰国を果たすのです。

姉妹の地元では“豊後国の二孝女伝説”として伝わっていて、供養碑が建てられていたり、旧盆の25日に「孝女祭」と銘打った供養法会が催されていました。

ところが、平成16年(2004)に臼杵市の郷土史研究家が青蓮寺に照会した事をきっかけに、翌17年(2005)に青蓮寺で臼杵藩江戸屋敷から青蓮寺宛の手紙や姉妹からの礼状等の17通の書簡が発見され、史実である事が判明したのです。

青蓮寺境内に完成した二孝女の記念碑

これらの書簡は『豊後国二孝女関係資料』として、同22年(2010)9月、常陸太田市の文化財に指定され、同年10月には青蓮寺の境内に記念碑が建立されました。

また、平成19年度(2007・4~08・3)の茨城県の県立高校の道徳副読本である『ともに歩む』に要約された内容が掲載され、青蓮寺が在る地元の小学校では、郷土学習や総合学習の教材として採用されたと聞きます。

姉妹の地元に在る臼杵市立川登小学校には校庭に記念碑が建てられているほか、校歌(3番)の中で、
緑したたる 校庭に
二孝女の碑を 仰ぎつつ
友愛 信義 勉学の
誉れも高き わが母校
という様に「豊後二孝女」が唱われています。

「豊後国二孝女」の三百里の旅路
泊村

臼杵港 8月11日発(この時、つゆ22歳、とき19歳であった…)

(船便で)森口(守口)(現、大阪府守口市) 8月27日着

(陸路、京街道を道行き)京 9月2日着 西本願寺に参拝

箱根関所 9月25日通過

江戸・臼杵藩江戸屋敷 9月29日着

江戸・臼杵藩江戸屋敷 10月2日発

(水戸街道を道行き)小幡(現、茨城県東茨城郡茨城町) 10月7日着

水戸

東蓮寺村・青蓮寺 10月9日着

青蓮寺 2月9日発

江戸・臼杵藩江戸屋敷 2月13日着

江戸・臼杵藩江戸屋敷 3月5日発

大坂 3月25日着

大坂 3月29日発

臼杵 4月6日着

といった行程で、
泊 ⇔ 臼杵   …7里
臼杵 ⇔ 江戸 …258里
江戸 ⇔ 東蓮寺村…36里半
と、約300里(約1200km)の旅路を踏破した事になりますね。

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「豊後国二孝女」の美談を書き記している古文書(下)と書幅(左上)

私がちょうどこの「豊後国二孝女」の事を知ったのが、今年の4月5日にオープンしたばかりの龍谷ミュージアム開館記念・親鸞聖人750回大遠忌法要記念展「釈尊と親鸞」展の第1期期間中(~5月22日まで)にだけ「豊後国二孝女」関連の資料を出展するという新聞記事を観たのが初見でした。

出展されていたのは、
  1. 二孝女碑・二孝女像
  2. 二孝女関係文書
だったのですが、

1は昭和15年(1940)に製作された掛け軸で明治20年(1887)に臼杵にて建てられた顕彰碑の碑文と共に「豊後国二孝女」の肖像が描かれたもの

2は2通あって、

1つは、青蓮寺宛平生忠剛書状(文化8年=1811)で、水戸藩と交渉した臼杵藩江戸屋敷留守居役の平生ひらお左介(助)忠剛ただたかが青蓮寺に宛てた依頼状で、姉妹が初衛門の消息を善正寺から聞いて朧気おぼろげながら知っていた事。つゆの嫁ぎ先では舅姑の病気の介護に追われ、つゆの夫も奉公に出るなどで家庭が苦しかった様子を説明し、はからずも父親の迎えが遅延した事を姉妹に代わって詫びた内容が書かれています。

もう1つは、青蓮寺宛つゆとき書状(文化9年=1812)父・初衛門を江戸まで送り戻した姉妹(つゆ・とき)が青蓮寺に宛てた礼状でした。

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「豊後国二孝女」のこうした美談から思うのは、周辺の人々の反対を押し切り、危険を覚悟で命がけの旅に出た姉妹のひたむきさ、親を思う気持ちに共感に覚える事です。

私自身、一人っ子として育ち、体の弱い母にかわって祖母に育ててもらいました。(だから完全に“お婆ちゃん子”ですけどね…笑)

それ故に、周りから言われる以前に「親の面倒は自分がみる」と思ってますし、それが当然だと感じています。

周りの友人からすれば、このご時世に旧態依然としたオールドタイプな奴とみられがちですけどね…

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もう1つ感じたのは、この親子に対して我が身のように心配し、温かい手を差し伸べた、当時の人々の心の持ち様に深い感銘を受けずにはいられません。

当時は侍・武士が身分や権力を傘に大威張り散らしていたし、ましてや庶民レベルでさえ、他国者よそものを蔑視するような排他的で閉鎖的な風潮だあったのは周知の事実。

それなのに、初衛門やつゆ・とき姉妹に関わった人たちは何と人道主義に溢れている事でしょう。

姉妹が帰国して周囲の人々に漏らした言葉の中に「御国様(=水戸藩領)へ参りましたれば、御慈悲深い事で、地獄より極楽へ生まれました…」と述べ、かの地を「御仁国」と語っています。

“何だろう”、水戸藩といえば“黄門様”徳川光圀以来の伝統として水戸学が有名ですね。

有名な話として、『史記』に記載された伯夷・叔斉の兄弟のエピソードを知った光圀が兄の頼重を差し置いて自分が水戸藩主になった事を心の痛手とし、頼重の子供を自分の養子として水戸家を継がせた話ですが、そうした光圀以来、水戸学の基礎となった儒学精神が御領内に息づいた結果なのでしょうか!

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※(参照)『広報ひたちおおた』2010年9月号

(トピックス)向日市文化資料館「乙訓・西岡の戦国時代と西岡衆」展

西岡の武士文化の名残を示す品として貴重な江戸期制作の甲冑

向日市文化資料館(京都府向日市寺戸町)で秋のラウンジ展示乙訓おとくに西岡にしのおかの戦国時代と西岡衆」が開催中です。

中世の時代、すなわち鎌倉時代から室町時代にかけて、山城国中西部に位置する乙訓郡(現在の向日市と長岡京市の全域、大山崎町、京都市南区および西京区にしきょうく、伏見区の一部)と、葛野郡(現在の京都市右京区および西京区の一部)を合わせた広範囲にわたる地域を西岡にしのおかと呼んでいました。

「西岡」は桂川の西側に位置し、桂川の水を用水として利用するなど、当時から農業用水路が発達して経済力も豊かな土地柄で、村を支配する土豪たちがそれぞれの支配地域に居城(館)を築いて、相互に連帯して連合して広域的な自治(合議制)を展開していました。

雍州府志ようしゅうふし』には「西郊三十六人衆は、公方譜代の士なり」との記載が見られ、「西岡」には室町将軍家の被官が36人いた事が判り、代表的な土豪として鶏冠井かいで氏、物集女もづめ氏、神足こうたり氏、中小路氏、革嶋氏などの名が挙げられます。

応仁元年(1467)より勃発する応仁・文明の乱では、「西岡衆」は細川勝元が属する東軍として、西国から京都へ入洛する路々の警護にあたっています。

この時代、1つの地区のまとまりは「郷」、幾つかの郷の集まりを「惣」、更に広域のまとまりを「国」あるいは「惣国」と言っていました。

「西岡」の地では自治的な「郷」が発展し、応仁・文明の乱終息直後には機運が高まり、「国」と呼ばれる地域連合体が生まれます。

「国」の構成員=土豪たちは「国衆」と呼ばれ、彼らが独自に「国」としての方針を定めていく訳です。

しかし、室町将軍家の衰退と共に台頭した戦国武将の介入を招き、その抗争の中で「西岡衆」も分裂したために惣国自治は崩壊。

そうした乱世の目まぐるしい時代の変化の中で、「西岡衆」は、あるいは帰属した武将の移封・転封と共に移住する者、あるいは先祖伝来の土地に残らんがために武士を捨てて帰農し、やがて村の有力者としてなる者に分かれていきます。

企画展示では、こうした経緯や、江戸期以降に「西岡衆」がどのような道を辿っていったかを、古文書を中心に、出土品やパネルなど、30点余りの展示物で紹介しています。

そのうち、初公開となる三好長慶書状は、戦国時代の一時期に畿内一帯を支配した武将、三好長慶が永禄元年(1558)、室町幕府第13代将軍・足利義輝との合戦を控え、「西岡衆」らに軍事行動を命じた書状で、この時点で「西岡」は戦国武将の介入を受けていた事が判る訳ですね。

開催期間は10月16日(日)まで。但し、月曜と祝日の翌日などは休館となるので詳細は、同資料館まで。

(トピックス)大坂城鎮守社・玉造稲荷神社に豊臣秀頼の銅像がそびえ立つ

玉造稲荷神社の境内に建てられた秀頼の銅像


豊臣=羽柴家の家督を継ぎ、大坂おおざか夏の陣(慶長20年=1615)で大坂城落城時に数え年23歳(満年齢21歳9か月)で生害した豊臣秀頼の復権を図ろうと、大坂城の鎮守神である玉造稲荷神社(大阪市中央区)境内に秀頼の銅像が建立されました。

秀頼の銅像が立つ玉造稲荷神社は大坂城の三の丸だった場所に在り、秀頼や淀殿も参拝に訪れた場所―

境内には、秀頼を出産した際の淀殿の胞衣えな(=胎児を包んでいた膜や胎盤などを指す)を祀る「胞衣よな塚大明神」が鎮座していたり、慶長8年(1603)に秀頼.から奉納された鳥居が現存する形で今も残っています。

ちょうど今年は復興天守(大阪城天守閣)が昭和6年(1931)に大阪市民たちの寄付金により再建されてから80周年に当たり、それを記念した事業の一環で計画が進められてきたようです。

同神社では所縁の秀頼を顕彰し、太閤さん時代の大坂城下のにぎわいを取り戻そうやないかと銅像建立を計画。

豊臣秀頼の銅像の原型

制作にあたっては、以前に豊國神社に立った陣羽織姿の豊臣秀吉の銅像を製作された彫刻家の中村晋也さんに依頼。

銅像は台座を含めて高さ5・3m。身長195cm、体重100kgを超える体格に衣冠束帯いかんそくたい姿の精悍せいかんな姿になっています。

アトリエで豊臣秀頼の銅像の制作に取り組む中村晋也さん

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豊臣秀頼といえば、女丈夫で“大坂城の女主おんなあるじ”とまで言われた淀殿の陰に隠れて存在感が希薄なために“ひ弱でマザコンのイメージ”が強いようですね。(徳川家康などは大坂の陣の際、味方を鼓舞する意味で、秀頼の事を「乳臭」やから”と言っていますが…)

これは、秀頼の画像として最も知られている少年期の直衣のうし姿を映した養源院(京都市東山区)所蔵の画像からくるイメージが大きいところ…

結局のところ、“そんなんやから、御家の繁栄を維持できなかったんや”と言わしめんがために歴史の勝者である徳川幕府の創作だった訳です。

しかし、実際の秀頼は幼い頃より当代の博識から種々の帝王学を学び、「カシコキ人ナリ、中々人ノ下知ナト請ヘキ様子ニアラス(=たいへん賢い人なので、他人の臣下となってその命令に従うような人物ではない)」(『明良洪範』)という様に頭脳明晰で人望も厚かった人物であり、再評価を求める声も―

実際の秀頼「大兵にて御丈六尺五寸余り(=約195cm)」(『明良洪範』)の並外れた体格の持ち主で、『当代記』慶長8年(1603)7月28日条には「秀頼十一歳、常之十三四ばかり之比也」と、実際には11歳だが、パッと見で13、4歳ぐらい…と感想が書かれています。

また、慶長12年(1607)細川忠興の家臣だった米田こめだ監物けんもつ(米田興季)が大坂に入場して秀頼に謁見した際、秀頼は着用していた小袖を脱いで監物に賜与したのですが、この小袖を監物が着用してみると、秀頼の帯の跡が監物の膝の辺りに位置したといいます。

そういう意味では、青年期の束帯姿を描いた東京芸術大学美術館所蔵の画像(※参照)が広く知れわたってもいいのではと思います。

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昔、NHK大河ドラマ「春日局」で渡辺徹さんが秀頼を演じられたのですが、まさに青年期の束帯そくたい姿にピッタリ!なくらい(笑)…

今回の銅像建立で本当の秀頼のイメージが芽生えればいいな!と感じますが…

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※(参考文献)井上安代(私家版)『豊臣秀頼』
※(参考文献)大阪城天守閣特別展図録『生誕400年記念特別展 豊臣秀頼展』

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※(参照)豊國神社の秀吉像
※(参照)豊臣秀頼画像