浅井長政とお市の結婚時期

織田信長の妹・お市(小谷の方)浅井長政結婚時期には主として、

  1. 『川角太閤記』の永禄2年(1559)説

  2. 『東浅井郡志』の永禄4年(1561)説

  3. 高柳光秀氏が推す永禄6年(1563)説←高柳光秀『青史端紅』(『新書戦国戦記』)

  4. 『続応仁後記』や『浅井三代記』の永禄7年(1564)3月説←田中義成『織田時代史』、桑田忠親『淀君』

  5. 奥野高広氏が推す永禄10年(1567)年末から翌11年(1568)頃説←奥野高広「織田信長と浅井長政の握手」『日本歴史』248

  6. 『総見記』の永禄11年(1568)4月下旬説

  7. 小和田哲男氏が推す永禄11年(1568)4月説←小和田哲男『近江浅井氏の研究』
などの諸説が存在します。

それぞれの諸説となっている時期の信長の行動を見ると―

  • 永禄2年(1559)2月 信長、将軍足利義輝に謁見

  • 永禄3年(1560)5月 信長、桶狭間の戦いで今川軍を撃退

  • 永禄5年(1562)正月 信長、松平元康と盟約結ぶ

  • 永禄10年(1567)8月 信長、美濃稲葉山城を陥落させ、斎藤氏を逐う

  • 永禄11年(1568)7月 信長、美濃立政寺に足利義昭を迎える

  • 永禄11年(1568)9月 信長、近江観音寺城を陥落させ、六角氏を逐う
となっています。

このように、お市浅井長政がいつ頃結婚したのかは、とても重要な意味を持っています。

その時期がいつになるかで、結婚の意味合いが変わってくるからです。

これらの諸説と照応してみると、

(1)は未だ美濃攻めに入っていない段階、(2)は美濃攻めに入ろうかという段階なので、この同盟の意味が信長が背後の浅井氏と結んで、目的とする美濃を挟み撃ちにしようとするための“遠交近攻策”(=遠くと結んで近くを攻める)と解釈できます。

それに対し、一番広く支持されているのが、(5)と(6)だそうです。

すなわち、永禄11年(1568)4月頃の説ではないかという訳なんですね。この時期だとすれば、この結婚によって美濃と尾張を制した信長が京への通り道として近江を通過しない訳にはいかないため、北近江の浅井長政と同盟を結んだ―という解釈です。

さらに、上記の諸説を補足できる第一次史料を2点ほど紹介します―

まず1つ目として、浅井長政が永禄10年(1567)9月15日付で信長の側近である美濃の市橋伝左衛門尉(長利)に宛てた書簡(「堀部文書」『古文書纂』)です。

その中で長政尾張守殿江以書状申候、宜預御執(成)候」と、「尾張守」、すなわち信長への「執り成し」=お市との結婚を市橋伝左衛門尉に申し立てています。

次いで2つ目は、年不詳ながら12月17日付で六角氏の家臣である和田惟政が三雲新左衛門尉(成持)及び三雲対馬守(定持)に宛てた書簡(「福田寺文書」)です。

その中で惟政は「仍浅井備前守与信長縁変(辺)入眼候」と浅井長政と信長との間に婚姻関係が成立した事を報告しています。

以上の点から考えた時、この結婚による同盟関係は、どちらが得をしたといえるでしょうか?浅井氏お市を貰っていますが、信長は何も貰っていませんので、当然ながら浅井氏が得をしています。人質が浅井側にいる訳ですからね…

そうなると、この同盟は信長が必要に駆られて、望んだ同盟という事になりませんか。

そこで、もう一度(5)と(6)の永禄11年(1568)4月頃という時期を考えてみましょう。

美濃と尾張を制し巨大化した信長が自分にとって不利益な同盟関係を結ぶでしょうか?

結果論ですが、六角氏だって簡単に蹴散らされた軍事力の差を考えたら、浅井氏など相手にならないでしょう。

そんな段階で自分の肉親であるお市浅井氏に嫁=人質に出す、という事はしないでしょう。

それ故、この同盟関係は信長にとって必要だし、望んで同盟を結んだのだと言い切れるのですが…

最後に、1つ気になる第一次史料を紹介します―

それは、浅井長政が改名という事実です。永禄4年(1561)4月25日付で竹生島の年行事御坊中に宛てた書簡には「備前守 賢政」だったのが、永禄4年(1561)6月20日付で垣見助左衛門尉に宛てた書簡には「浅井備前守 長政」に改名しているのです。これはまさしく信長から「長」の字の偏諱を賜わったと解釈できますね。

そうなると、(2)の永禄4年(1561)説もありだと感じてしまいます。


 

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豊臣体制論ノート(2)―「在京賄料」について―

豊臣体制による諸大名への支配構造を端緒に示す史料で、天正19年(1591)3月13日付小早川隆景宛豊臣秀吉朱印状を照会し、その特徴として、20万石の軍役分の知行と、10万4300石の無役分の知行が存在する事を挙げました。

今回は、同史料で「此内五万石 在京料」と記載されている「在京賄料」について記します。

公儀(=ここでは豊臣体制を指します)から戦陣や城普請などに動員をかけるときの基準となる知行である軍役分に対し、無役分とは、諸大名が自分の裁量で賄える知行分をいいます。

小早川隆景無役分10万4300石で「此内五万石 在京料」とあるのは、単純に言えば自国の所領から京都や大坂・伏見に参勤してきた際の交通費用、滞在費用を捻出できる所領を与えられた事になります。

但し、注意すべきはこの「在京賄料」はあくまで公儀(豊臣体制)から拝領した領地である事を忘れてはいけません。

すなわち、この「在京賄料」では京都及び上方の物価で対応しなければならないのです。

極端な例えで言えば、自国の所領から京都や大坂・伏見に参勤し諸役奉公のため越年するとして、その滞在費用(衣食住に関わる費用)などを「在京賄料」から捻出しなければならない訳ですが、その支出額は京都及び上方の物価で考えないとダメなのです。

この事は、江戸幕府による幕藩体制下での参勤交代制度が諸大名たちにとって、全くの自腹で切り盛りしなければならなかった事例と比較すると、あたかも豊臣体制の力加減ががどのようなものであったかを図り知る1つの方法でもあります。

また、文禄年間以降、豊臣体制による太閤検地で新たに領知目録を宛行われた諸大名などには、この「在京賄料」の利点を活かし、「蔵入地」が設定されるのです。

諸大名にとって、自国の所領に「在京賄料」と同じ機能を示す「蔵入地」が設置されるという事は、例えばAという領主が公儀(豊臣体制)から「領内の蔵入地で木材を購入せよ」との命令書が届くとします。Aにとっては領内の蔵入地じゃない場所で購入すれば安値で買えるのですが、「領内の蔵入地で」と命令・指示されている以上、ここで購入せざるを得ません。

しかも、豊臣体制の吏僚たち(石田三成山口玄蕃など)が代官として配属されていますので、経済的圧迫は目に見えて明らかです。

現実に、徳川家康関ヶ原の合戦以降、自分に味方した領主たちの所領にある、或いはなくしたり、或いは改めて所領安堵しています。領主たちの苦しみを解放してやる事で後の江戸幕府による各領主に自治権を認めたうえで成立する幕藩体制が整う訳ですね。

逆に言えば、こうした「在京賄料」「蔵入地」徳川家康が亡くなるまでの間に残存していた地域こそ、「俺たちは豊臣体制の支配のままでいいんだ」と思ってた領主にほかならないと言えます。

代表的な事例として、島津氏への領知宛行にみる「在京賄料」を見ることにします。

為在京賄料、於摂州播州内壱万石目録別帋有之、事、宛行訖、全可有領知之状如件、
    天正十六
       七月五日(秀吉花押)
          嶋津修理大夫人道とのへ
と、摂津国(現在の大阪府・兵庫県の一部)・播磨国(現在の兵庫県内)に1万石の知行を宛行われています。

このうち、播磨国に設けられた「在京賄料」について面白い例を1つ―

田中耕一さんという人物を憶えていますか?

平成12年(2002)にノーベル化学賞を受賞された方ですが、この田中耕一さんが社員として勤務されておられる会社は島津製作所といって、精密機器、計測器、医療機器などのメーカーです。本社は京都市中京区にあります。(個人的な話ですが、僕が通っていた大学の帰り道にこの会社の前をよく通ってました 笑)

この島津製作所の社章は島津家と同じ「丸に十文字」だったりするのですが、これには由縁があって―

島津製作所の創業者である初代・島津源蔵の祖先・井上惣兵衛尉茂一島津義弘から「丸に十文字」の家紋と「島津」の姓を賜与られたのが始まりだそうです。

事の顛末は、島津義弘が、伏見から帰国する途上、播磨国姫路の領地に立ち寄りました。その際、そこに住んでいた井上惣兵衛尉茂一が領地の検分などを助力したので、それに対する褒美として「丸に十文字」の家紋と「島津」の姓を賜与られた―

というんですね。島津氏が天正16年(1588)に支給された「在京賄料」のうち、播磨国における分を確認すると、
 ・一乃保村(揖保郡新宮町)
 ・旦の上村(揖保郡新宮町)
 ・竹嶋(揖保郡揖保川町)
 ・蓮城寺村(揖保郡太子町)
 ・坂の上村(姫路市)
 ・福地村(太子町)
の6か村3097石5斗を確認する事ができ、さらに文禄4年(1595)の検地によって、
 ・揖東郡福地村
 ・蓮城寺村
 ・岩見講(揖保郡太子町)
 ・大市郷(姫路市)
で合わせて3082石3斗8升に改められている事が判ります。(『島津家文書』)

すなわち、島津氏「在京賄料」として与えられた所領である播磨国でのエピソードが島津製作所の創業者の由縁に関わっていたんですよね。

― ◇ ◇ ◇ ―

※(関連)豊臣体制論ノート→
※(関連)豊臣体制論ノート(3)―軍役体系―→
※(関連)豊臣体制論ノート(4)―「豊臣の子」―→


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豊臣体制論ノート

豊臣体制による支配構造を研究する上で、基本となる史料を幾つか挙げます。

羽柴秀吉がまだ織田信長の属将の頃で播磨国を支配した際の、天正8年(1580)9月21日付、一柳市助宛羽柴秀吉判物によれば

以揖西郡内弐千五百石、此内千石為自分遣也
との記載がみられます。

一柳市助(直末)は、播磨国揖西郡に2500石を宛行われた訳ですが、その内訳で1000石は「自分遣」、つまり直轄領として一柳氏の生計に充てる事ができ、残りの1500石は軍役分として家臣に与える所領でした。

軍役分とは、秀吉軍役として戦陣や城普請などに動員をかける時の基準となる知行の事を言います。

これに対して、「自分遣」というのは、軍役のかからない知行無役分を言います。

つまり、秀吉知行の中で、一柳市助(直末)の直轄領分と家臣を抱える分という様にその内容を指定しているのです。

そして、その比率は、1:1・5という基準でした。

― ◇ ◇ ◇ ―

天正19年(1591)3月13日付、小早川隆景宛豊臣秀吉朱印状によれば、小早川隆景は筑前を主に肥前・筑後を加えて30万7300石の知行を宛行われますが、その内訳は、

一、弐拾万石        軍役之分
   人数八千人 遠国たる之条、百石ニ付、四人宛之役也
一、拾万四千参百石    台所入無役
         此内五万石 在京料
一 参千石          安国寺
となっており、ここでも小早川隆景の知行を、軍役分20万石と無役分10万4300石に分けて宛行われています。

ここでは無役分「台所入」といっていますが、小早川隆景の直轄領の事をいい、隆景自分の裁量で賄える財政費用に相当する分を言います。なかに「在京料」とあるのは、隆景領地から秀吉の許へ参勤する費用代として割り当てられた所領を言います。

― ◇ ◇ ◇ ―

次に挙げる佐竹義宣などは、この支配方法の恩恵によって、自身の支配体制を確立した1人です。

豊臣秀吉に臣従するまでの佐竹義宣の知行は25万5800石で、その内訳を見ると、

・佐竹義宣 11万石(うち蔵入分1万石)
・佐竹義重  1万石(おそらく隠居料か)
・東義久   1万石(一門衆)
・与力家来 12万8800石
となっていて、佐竹氏全体と与力家来分の比率は、50・2:49・8と均衡しており、佐竹氏の領主権力は著しく不安定であった事が分かります。

それが、豊臣体制に臣従した後に改めて宛行われた文禄4年(1595)6月19日付の佐竹義宣宛豊臣秀吉朱印状で宛行われた知行54万5800石の内訳を見ると、

一、拾五万石         義宣
一、拾万石  無役      内義宣蔵入
一、五万石  無役      義重
一、六万石  此内壱万石無役 佐竹中務太輔(=東義久)
一、拾六万八千八百石     与力家来
一、千石           佐竹中務 御代官徳分
となり、佐竹義宣軍役分15万石との無役分10万石の比率は1:1・5という基準になっているし、無役分を宛行われた事で、佐竹氏全体と与力家来分の比率は、66・2:30・9となり、ここに佐竹氏の領国内における絶対性が確立された事になります。

こうした佐竹氏など旧族大名に対する豊臣体制の政策態度から、朝尾直弘氏は豊臣体制による統一の過程を、領国内での支配を確立する方法を教える代わりに平和への実現を協力させる―というギブ&テイクな政治形態だと仰っています。

私の研究活動としては、朝尾先生が仰った内容を基本ベースに豊臣体制とは、秀吉権力が室町幕府体制をM&A=吸収合併した形態と捉え、進めている感じです。

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※(関連)豊臣体制論ノート(2)―「在京賄料」について―→
※(関連)豊臣体制論ノート(3)―軍役体系―→
※(関連)豊臣体制論ノート(4)―「豊臣の子」―→


   

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豊臣秀頼画像!

慶長19年(1614)頃の豊臣秀頼生前画像

豊臣秀頼豊臣秀吉の次男として生まれますが、慶長20年(1615)の大坂夏の陣で大坂城落城時に生害(=自害)します。

秀頼は、秀吉の死後、羽柴家の家督を継ぎますが、結局は関白職に襲職できなかったため、❝豊臣なのに、豊臣になれない❞、すなわち「豊氏長者」になれなかったので、豊臣家の家督を継げずにその生涯を終えました。

― ◇ ◇ ◇ ―

豊臣秀頼の画像で最も知られているのは少年期の直衣のうし姿を映した養源院(京都市東山区)所蔵の画像でしょうね。

対して、青年期の束帯姿を描いた画像が東京芸術大学附属芸術資料館所蔵の画像です。

大坂の陣を間近にした時期に真田信繁から所望されて描き上げられ、信繁の許に下されたものと云われています。

それ故、秀頼顔の向きは右側に向いていますね。これは生前に描かれたものとしての証明にもなっています。

― ◇ ◇ ◇ ―

さて、この風貌を見る限りにおいては、母方(淀殿)の祖父・浅井長政の容姿を偲ばせていますし、体格は六尺以上はあった、という伝承にピタリとハマっていますね。

そんな巨漢な秀頼でイメージしたのはNHK大河ドラマ「春日局」秀頼を演じた渡辺徹さん?…まさか、一番ピッタリだったなんてね(笑)

ところがこの肖像画、そんなにメジャーな扱いを受けていませんね。発表されてから既に10年以上が経っていますが、未だに養源院所蔵の少年期の直衣姿ばかり使用されている…(扱われる豊臣ネタが関ヶ原前後が多いので、自然仕方ありませんが…)

『新修大阪府史』などでは既に秀頼像としてこちらが採用されているにもかかわらず、あまりに知名度が低すぎるのが現状ですね。

歴史に携わる研究者にしても、歴史好きを公言する一般の私たちにしても、持っている固定概念を取り払って、意識改革を常に心掛けておく必要性がありますよ!

※(参考文献)井上安代(私家版)『豊臣秀頼』
※(参考文献)大阪城天守閣特別展図録『生誕400年記念特別展 豊臣秀頼展』

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※(関連)(トピックス)大坂城鎮守社・玉造稲荷神社に豊臣秀頼の銅像がそびえ立つ→




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紀子さまご懐妊!

秋篠宮文仁親王妃の紀子妃殿下がご懐妊されたとのニュースがありましたね。

もし、生まれてこられる御子が皇子ならば、皇位継承順が3番目の御子になられる事になります。

現状での継承順1位が、皇太子の徳仁親王、2位が皇太弟の秋篠宮文仁親王となってますが、もし紀子妃殿下が皇子をお生みなさった場合、継承順3位が皇子になるということになります。

という事は…

可能性は低いが、秋篠宮文仁親王の皇位継承=即位も考えられるケースもでてきましたね。

そーなると、個人的な事ですが秋篠宮文仁親王と同じ誕生日の僕としては自分の誕生日が天皇誕生日になる―というささやかな希望が可能性がでてきたことになるのかな(あらへん、あらへん!笑)

いずれにせよ、天皇家は途絶えさせないようにしなくては!

歴史は繰り返すといいますが、政党政治を打倒して、何十年、何百年後かには再び王政復古の可能性だってあり得るのだしね。

ところで、今回、NHKのニュース速報で紀子妃殿下のご懐妊が周知となったわけですが、僕は以前に真言宗系の学校に勤務していたのですが、今上天皇の皇太后である香淳皇后が崩御された知らせを報道関連のニュースよりもいち早く聞いたという体験があります。

それは、真言宗系の寺院で泉涌寺(京都市東山区)という寺院があるのですが、ここに報道関連よりも先に宮内庁から香淳皇后が崩御の知らせが届き、その一報が泉涌寺より勤務先の学校に伝えられてきたわけです。

これって、すごいホットラインですよね。

なぜ泉涌寺なのかというと、南北朝時代に皇室が分裂した際の大覚寺統と持明院統という用語を聞いたことがありますか?

大覚寺統は後醍醐天皇側の一統で南朝の皇統の一派、対して持明院統というのが北朝の皇統の一派です。

この持明院統の流れを現在に受け継いで伝えているのが泉涌寺なのです。実際、泉涌寺は「御寺(みでら) 泉涌寺」とも云われます。

事実、江戸時代の天皇の菩提所は全て泉涌寺の中に存在します。(現在の皇統は北朝の皇統ですしね)

泉涌寺の塔頭のうちのどれかが持明院統の本拠でもあった持明院殿の流れを受け継いでいるのだとか―

どちらにしても、大覚寺統も持明院統も真言密教の系譜です。密接な関係は今も続いているんですね。


posted by 御堂 at 23:05 | Comment(0) | TrackBack(2) | 歴史:コラム

年号の表記について

元禄15年(1702)12月14日深夜、旧赤穂城主浅野内匠頭長矩家来47名が江戸本所松阪町の高家肝煎(筆頭)の家柄である吉良左兵衛義周邸に徒党を組んで襲撃。隠居した前当主・義央(62歳)や家臣26人を殺害するという残虐行為を行った―

「元禄15年(1702)12月14日深夜」

よく歴史の教科書や参考書、その他諸々の関連本にも同じような表記がなされていますが、「元禄15年(1702)」ははっきり言って間違いです。

現実に事件が起こったのは、確かに「元禄15年」ですが、西暦1702年ではなかったわけで、実際には1703年1月30日だとわかっています。

したがって、正しくは「元禄15年12月14日(1703年1月30日)」というのが正しいわけです。

しかも、家来の1人、小野寺十内の書簡には「14日寅の上刻」に討ち入った、とあります。

「寅の上刻」とは、午前4時4分から48分の間をさします。

つまり、14日の「深夜」に討ち入っているわけなんですが、これって、「15日早朝」じゃないか?と思う人もいるでしょうね。

当時においては、卯の刻が日の出であり、明六つ、すなわち午前6時6分頃が1日の始まりと解釈されていました。だから、討ち入りの時間の午前4時4分から48分の間というのは14日と認識しなければなりません。(今の感覚でいえば、深夜の番組を紹介するときに25時の…とか、26時の…と言いますよね。その感覚に近いかな?)

余談ですが、吉良上野介義央の墓標には「元禄15年12月15日没」と刻んであります。寅の上刻(午前4時4分から48分の間)に邸内を襲撃され、首級を討ち取られたが午前6時7分頃といいますから、まさしく「元禄15年12月15日」が亡くなった日になりますよね。ということは、「元禄15年12月15日(1703年1月31日)」が吉良上野介義央の命日となります。

ただ、明治5年までは日本人は西暦での表示をしていなかったのが事実です。

今現在、国際化だのといって何でもかんでも西暦で表示するのはいかがなもんでしょう。

確かに太陽暦を採用した明治6年1月1日以降ならば、西暦を採用して以降は、平成16年(2004)○月○日のような表記でいいのかもしれませんが、西暦を使用もしていなかった明治5年以前を今のものの見方で観てよいものでしょうか?

むしろ、当時のそのままのものの考え方、例えば、明智光秀が織田信長を討った「本能寺の変」が天正10年6月2日であれば天正10年6月2日、徳川慶喜が朝廷に政権返上を願い出た「大政奉還」が慶応3年10月14日であれば慶応3年10月14日で良いのではないかと思います。

皆さんはいかがですか―


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結城秀朝(秀康)とその子孫たち

結城秀朝(秀康)像

結城秀朝(秀康)戦国期安土・桃山時代の武将で、徳川家康の次男にあたる人物です。羽柴秀吉の養子となりますが、秀吉に実子鶴松誕生後、結城晴朝の養子となり、秀朝と名乗ります。

―安政3年(1856)4月に結城家の子孫によって催された250回忌の法要でも
「秀朝」としています。

さて、結城秀朝(秀康)は、関ヶ原合戦の後、下総結城10万1000石から越前北ノ庄(のち寛永年間に「福井」と改称)城主67万石に加増・移封となり、名を秀康に改め、松平姓に復したとされています。

―「結城」から「松平」への改姓は家康の命によるものとされていますが、例えば『公卿補任』慶長11年条には「結城源秀康」と記載されていて、、秀朝(秀康)は終生「結城」であった、との見解があります。

―「松平」に改姓していたのならば、「松平源秀康」と記載されていなければおかしいですよね。

―また、「結城」を名乗るならば、結城氏は本来、藤原秀郷流なので、「藤原」とすべき(現実的には、「豊臣秀康」と思うけど…)ところなのに、「源」としているのはおかしい?という疑問符も付きますね。

―実は、結城氏戦国期の永正〜天文年間(1504〜1554)に藤原姓から源氏姓に転換していたわけです。

―実は結城氏の始祖・朝光は小山政光と源頼朝の乳母だった女性の子どもで、そこから“朝光は頼朝の実子だったと権威付けしていたのです。(この点、実は同じく頼朝の乳母(惟宗氏)だった母から生まれた島津氏のケースと同じ思惑ですね)

―そう考えると、「結城源秀康」という記載も一層確信が持てます。

― ◇ ◇ ◇ ―

秀朝(秀康)の越前移封に従って同行していた養父晴朝は、秀朝(秀康)の死によって結城氏名跡の断絶する事を憂い、慶長12年(1607)結城氏存続を家康に嘆願して許され、秀朝(秀康)の四男・直基結城家名跡を継承する事となり、越前勝山を領する事になります。

神奈川県南足柄市大雄町にある大雄山最乗寺に眠る松平直基の墓石のレプリカ

直基は「制外の家」越前松平5家のうちの第4位、後の松平大和守家=結城松平家の始祖になります。

― ◇ ◇ ◇ ―

秀朝(秀康)の死去以降、越前北ノ庄(福井)の家督は長男の忠直が継ぎますが所業乱行のため、蟄居。その子・光長は越後高田、その子孫は美作津山へ移封となり、越前北ノ庄(福井)には忠直の弟の忠昌が入封します。

以後、幕藩体制下で、この2家は何かと確執―家格争いなど―が絶えませんでした。

松平春嶽(慶永)像

それは、華族制度下の授爵においても同様で、越前福井側が幕末・維新期松平春嶽(慶永)の(政事総裁職公武合体に尽力した)功績から侯爵に授されたのに対し、美作津山側は松平斉民が徳川宗家を継いだ田安亀之助(家達)の後見人という立場であり、慶喜からも「十六代様」と呼ばれていたがために子爵止まりであった。

なお、松平大和守家=結城松平家直克春嶽(慶永)の後の政事総裁職にあったので、伯爵となっている。こちらも「結城」という名跡を巡って、水戸徳川家の家臣となった結城家(幕末期に結城寅寿を出している―)と家格争いを転じたが、一方は大名、他方は陪臣という事で、松平大和守家=結城松平家が上位の家格を勝ち取っています。

― ◇ ◇ ◇ ―

(参考)市村高男「豊臣大名の歴史的位置―結城秀康を中心として―」『地方史研究』33-1
(参考)橋本政宏「結城秀康について」『國學院雑誌』67-4
(参考)大友真一「幕末期における結城氏由緒の復興―川越藩松平大和守家と結城氏旧臣町人の動向―」『日本史研究』489


 

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やまうちかずとよ?

平成18年(2006)のNHK大河ドラマは「功名が辻」が放送されますが、その主人公である山内一豊の呼び名が「やまうちかずとよ」となるそうです。(山内家のご当主の方が世間が一番呼び慣れた「かずとよ」で構わない、と許諾されたらしい…)

「やまうちかずとよ」―んっ?「やまのうち」じゃないの?と思う人も多いのではないでしょうか。

地元・高知では山内家の呼称に従って、山内という名字(苗字)は「やまうち」と呼んでいるそうです。

山内を「やまうち」と呼ぶ根拠として、

1.山内家代々の先祖の霊を祀っている山内神社も「やまうち」と呼称している

2.慶長10年(1605)に淀殿の乳母・大蔵卿局が山内家に出した書状の宛て先が平仮名で「やまうちつしま」殿(→慶長10年=1605=時点での対馬守となると、慶長10年7月1日付で任官した、養子の忠義に宛てられた書状って事になります)と記されている

3.先祖に遡って、応永25年(1418)8月に出された「山内通家所領売巻」という文書の端裏書に「やまうち」と記されている

などが挙げられます。

他に、江戸幕府が編纂した『寛政重修諸家譜』の巻829「藤原氏 秀郷流」の「山内」の項でも「やまうち」とルビが振ってあります。

この『寛政重修諸家譜』は大名家や旗本から幕府へ自家の家譜や伝承が書かれた物を提出させた上でまとめて編纂されたもので、緒言には「諱(いみな=実名)の訓(くん)うたがはしく、または家につたへざるたぐひ(類い)はすべてこれを闕(か)く」と、ルビがついているものは全て纂者が自信を持って付したものである―と唱っています。

さらに言えば、一豊という名前も、山内家では「かずとよ」と呼称しているのではなく、「かつとよ」と呼称しているのだそうです。

上記の『寛政重修諸家譜』巻829「藤原氏 秀郷流」の「山内」の項には「かつとよ」とルビが振られています。

そこには、一豊の甥の一唯には「かすたた」が、孫の一安には「かすやす」のルビが振られており、「かつとよ」とははっきりと区別されています。

普通、文書には「゛」(濁音)はルビとして付されてはいませんので、「か」は「ガ」、「た」は「ダ」と音読します。

『寛政重修諸家譜』においては、「つ」は「ヅ」ではなく「ツ」、「す」は「ズ」と音読されたようなので、一豊の発音は「カツトヨ」で間違いようです。

他に、土佐藩初期の家老である林家の初代・一吉(かずよし)は、一豊から山内家の家紋である「丸三葉柏紋」の使用と「山内」の称号や一豊の「一」の字の偏諱を許されます。

ところが、一吉の子は家督相続にあたり、「丸三葉柏紋」と「山内」の称号の使用は継続したのですが、「一」の字使用は主家を憚ってか、返上して自らは「勝久」と名乗りました。

この「一」から「勝」への変更は、当時一豊の「一」が「かつ」と読まれていた事実を端的に示しています。

それ以外に、「勝豊」と署名された書状もあるのだとか―

こういった名字(苗字)や名前の相違ってよく見かけますね。よく知られているところでは、戦国時代に北近江に勢力があった浅井氏は「あさい」ではなく「あざい」、また同じく戦国時代の山陰地方に勢力があった尼子氏は「あまこ」ではなく、「あまご」と呼び改められています。

他に、織田信長などもそうですね。一般的に「おだのぶなが」ですが、織田氏発祥の地といわれる織田剣神社のある越前国丹生郡織田郷(現在の福井県越前町織田町)では織田は「おた」と呼称されており、それならば「おたのぶなが」と呼称すべきと思われます。

一番大事な事は、その人物が本当に呼称されていた名称で呼ぶことです。上記のように書物や書状に記載されていたのならそれに従うのが道理だし、動かぬ証拠になるはずです。

山内一豊もで「やまうちかつとよ」とよばれているのなら、それで統一するのが真実ではないのかな?と思ったりします…



(追記:2006-01-28)山内「一豊」?

現在放送中のNHK大河ドラマ「功名が辻」では山内一豊の呼称について「やまうちかずとよ」
と呼ぶということで、以前書き込みをしましたが、今回はその続編です。

「山内」=やまうち、については、

1.慶長10年(1605)の山内忠義宛大蔵卿局書状に見られる「やまうちつしま」殿の宛て先の記述

2.『寛政重修諸家譜』巻第826「藤原氏 秀郷流」の「山内」の項に付された「やまうち」のルビ

3.応永25年(1418)8月の「山内通家所領売巻」の端裏書に見られる「やまうち」の記述

などの物的証拠から「やまうち」で間違いない事が判明しましたね。

では、「一豊」は?というと、

同じように、『寛政重修諸家譜』巻第826「藤原氏 秀郷流」の「山内」の項の系譜の「一豊」の業績の記述の欄に「かつとよ」とルビが振ってあると照会しました。

当時は「つ」は「ツ」、「す」は「ズ」と発音されたので、一豊の発音は「カツトヨ」で間違いないようです。

そうやって、調べていくうちに面白い史料を発見しました。

岐阜県郡上八幡市にある慈恩禅寺が所蔵している『東家遠藤氏書記』の中の記載で、一豊の妻を照会している「次ハ女子ニテ山内対馬守一豊ノ室」という記述があり、この文章の「一豊」のルビが「もととよ」と付されているんですね。

例えが違うけど、新選組のように「新選組」と記載するのもあれば「新撰組」と記載するのもあるけど、呼称は「しんせんぐみ」―というケースとは逆で、記載は「一豊」なんだけど、呼称が「かずとよ」「かづとよ」「かつとよ」「もととよ」といった風に異なるケースはあまり見た事がありません。

奥が深いですね。これだから文献史学は面白いです!


   

posted by 御堂 at 03:28 | Comment(0) | TrackBack(1) | 歴史:コラム

恩師の還暦祝いに参加する…の巻

大学の史学科時代のゼミの指導教授の還暦を祝う会に出席してきました。

場所は二条城の真向かいのホテル。まずは、京都駅にて大阪から来る友人と広島から来る友人と合流し、在学時代と同様にJR山陰線にて二条駅を目指しました。

この日の京都は人、人、人のオンパレード。電車に乗っても、ぎゅうぎゅう詰め状態でした。成程、広島の友人が京都駅内のコインロッカーに荷物を搬入しようと探しまくったのに、空いているロッカーが1つもない状態…

二条駅で降りて、駅のコインロッカーが空いていたのでひとまず友人はそこに荷物を搬入し、いざホテルへ!

二条駅が千本通で目的のホテルが堀川通なので、大通りから大通りって事は凡そ徒歩15分で到着。

受付にて発起人の先輩方に応対される。3人とも教務課や図書館、就職課で顔をご存知の方々なので懐かしさがこみ上げる…友人たちは先輩方とも卒業してから久しぶりのようですが、僕も大学の事務に勤めていた時分に会議などの出張で大学に行った際にお目にかかって以来かな…

ロビーでくつろいでいると、本日の主人公である先生が登場。お祝いの挨拶をする。ほぼ15年ぶりの対面です。

やがて開会し、祝う会に出席された面々は30人ほどのよう―

この先生、性格的に大袈裟な事は嫌う方なので、本当に過去にゼミを受けた方々だけに案内を送ったとの事を司会をされる先輩のお話を伺い聞く…そうそう、先生らしいや!(笑)

僕で史学科の11期生にあたるわけですが、僕が入学した年に卒業された先輩が出席メンバーの中では最古参な感じ。

で、その方から、先生との想い出語りやお祝いの言葉が始まっていく。

その途中、同じゼミの仲間2人が立ち寄ってきたので、思わず話しに花が咲いてしまった。これで5人もいるわけで、一番多く集まってるやんとビックリ!…とは言いつつ、1人は学部卒、僕ともう1人は1年進学して専攻科卒。もう2人は留年組だったから、卒業年度別に席が決まっていた分、席が違っていてわからなかったんですよね。

でも、やはり同じ時間を共有していた仲間同士、嬉しかったです。

さて、この先生から僕が教わった事として一番憶えている事、ましてや今も実践している事は、何か使いたい、あるいは調べたい史料が見つかった時にはコピーをするのではなく、筆写して憶えなさい―と指導を受けた事です。

コピーのみで憶えた事は忘れるのも早いが、筆写したもの、自力をつかって憶えたものは決して忘れることはない―ということなんですね。今も身をもって実践しています。

先生も還暦を迎え、年度末には最終講義、そして定年退官となります。ホント、お世話になりました。

posted by 御堂 at 01:33 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

雛人形の不思議?

京風の雛壇

雛祭りに飾り立てる「雛人形」。雛段の最上段に内裏雛を置き、その下に官女や五人囃子、随身を飾りますね。

(飾り方)
・最上段=内裏雛の男雛(お内裏さま)と女雛(お雛様)
・二段目=三人官女で、両端の官女は立ち、真ん中の官女は座っている。向かって左から銚子、三方、長柄の杓を持っている
・三段目=五人囃子で、向かって左から太鼓・大皮・小鼓・笛・謡の順
・四段目=左大臣と右大臣、あるいは左近衛大将と右近衛大将
・五段目=三人仕丁で、向かって左から台傘、沓台、立傘を持っている(京風では箒、熊手、塵取りを持っている)
・六、七段目=調度品で、御所軍や御駕籠,、貝桶などの婚礼調度品を飾る

最上段の男雛(お内裏さま)の位置については、東京と京都では置き場所が違います。東京は男雛(お内裏さま)は向かって左、女雛(お雛様)は右に対し、京都では男雛(お内裏さま)は向かって右、女雛(お雛様)は左となります。

これは、「天子南面の思想」といって、古来より北(上座)に御座す天子様から見て左側と右側があり、除目などの座次も左側が上位者でした。

雛人形の配置も例外ではなく、京都では左(向かって右)に男雛(お内裏さま)を、右(向かって左)に女雛(お雛様)を南向きにして飾ります。

また、雛飾りにセットされている桜や橘の木は、京都御所の「左近の桜」「右近の橘」を模しています。この場合も「天子南面の思想」に則って「左近の桜」が向かって右、「右近の橘」が向かって左に配置されるわけです。

「天子南面の思想」の起源は『周易』(しゅうえき)と呼ばれる中国の書物だそうです。

『周易』とは、周王朝時代に成立した、中国で最初の書物という伝承がありますが、実際には古い時代の御神籤(おみくじ)のような断片的な占いの言葉などが集積されて、1冊の書簡として編集されたもので、その過程で儒教の経典として重要視されて『易経』と呼ばれるようになり、四書(大学・中庸・論語・孟子)五経(詩経・書経・礼記・易経・春秋)の仲間入り、ひいては最も読むべき書物となった経緯があります。

断片的な占いの言葉に「伝」と呼ばれる解説部分が加わっているのですが、その中でも風水に関する自然現象などを取り上げている説卦(せっか)伝の第五章に、

 聖人南面而聴天下、

聖人南面して天下に聴き、

 嚮明而治、

明に嚮[むか]ひて〔世を〕治む

 蓋取諸此也

けだし諸をこれに取るなり
と書かれた箇所があります。

古代中国において、聖人君子は北の空に不動の姿で輝く北極星に例えられたため、南側を向いて着座する習慣がありました。この習慣が具現化され、都城では天子の宮殿が最北端に置かれ、それが長安城洛陽城に採用されます。

古代の日本で平城京(城)平安京(城)などは中国の都市計画の基本であるこの都城制を採用したので、宮城となる大内裏を最北端に置き、最南端に正門である朱雀門を置きました。その間にはメーンストリートである朱雀大路が延び、大路の東側を左京、西側を右京と呼びました。

遷都当初、左京区域は洛陽をモデルとしたため、洛陽城と別称。右京区域も長安をモデルしたので長安城と別称していました。その後、右京区域は水捌(は)けが悪く廃れてしまい、田畑が立ち並ぶようになります。残った左京区域にのみ平安京(城)機能が移ったため、別称である洛陽城から、平安京(城)内の事を洛中、その周辺部の事を洛外、地方から京都に来ることを上洛と称するようになるんですよ。

因みに余談ですが、元号である明治は、まさに上記の一文「聖人南面而聴天下 嚮明而治」から「明」「治」を採って元号とされたものなんですよ。

◎何故違いができたのか?

昭和3年(1928)の昭和天皇即位の大礼の際、天皇・皇后陵陛下が向かって左側が上手(かみて)、右側が下手(しもて)に並ぶという西洋式の並び方を採用されたのがきっかけで、それを1つの流行として東京(関東)の雛人形業界が便乗、乗っかってセールス商戦として創り上げたために、以降は「男雛(お内裏さま)が向かって左」が一般的な配置と勝手に言われてしまっているようです。

但し、その事で大きな弊害が生じているのも事実です。

東京の雛人形は天皇・皇后両陛下の並び方を改変し「男雛と女雛」だけを並び替えたので、それ以外の配置に矛盾してしまっているんですよね。

例えば、四段目の左大臣と右大臣(あるいは左近衛大将と右近衛大将)ですが、右大臣や右大将より偉い左大臣・左大将が向かって右のままになっています。「男雛と女雛」は左側を身分の上位者にしているのに、「大臣」級は身分の上位者を右側にしているわけなんですよね。

さらには、「左近の桜、右近の橘」も天皇の向きで左=向かって右に桜があり、向かって左側に橘が位置しています。

このように、「男雛と女雛」以外は昔ながらの並び方をしている分、並び方に対する説明に大きな矛盾が生じているんですよね。

posted by 御堂 at 21:35 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

高山彦九郎は「土下座」?いえいえ、これは「遥拝」!

高山彦九郎って人物を知ってますか?―

“尊王(注1)の父”と呼ばれる人物で、延享4年(1747)に上野国新田郡細谷村(現在の群馬県太田市細谷町)の豪農の家に生まれました。幕末好きなら知ってて当然、知っていなきゃおかしい人物です。


※注1 尊王
よく「尊王」と「尊皇」を同じ意味で使用するケースが多いのですが、この2つの用語は全く意味合い(イデオロギー的な)が異なるので注意しましょうね!「尊王」とは中国の幕末・維新期に思想から生まれた語で、「王権を尊ぶ」という意味として使われます。これに対して「尊皇」は「天皇を尊ぶ」という意味となり、昭和戦前期のファシズム的軍部のイデオロギー用語に使われました。


京都市東山区の三条大橋東詰南側には高山彦九郎の銅像が建っています。

この彦九郎さんの銅像と碑(正確には「高山彦九郎先生皇居望拝趾」)は、明和元年(1764)18歳になり、尊王思想を広める大学を京都に建てるのを目的に遊学に来た彦九郎さんが三条大橋から内裏の禁裏御所(=天皇が住む住居)があまりにもお粗末である事に心を痛め、御所の方角を向き、そこに御座おはします主上おかみ(天皇)に対して拝礼(=遥拝)し、「草莽の臣、高山彦九郎」と名乗って号泣したというエピソードを再現しているのです。

この逸話に基づき、昭和3年(1928)に昭和天皇即位の大礼が京都で行われたのを記念して、時の内閣総理大臣田中義一が発起人となり、東郷平八郎元帥が題字を揮毫され、旧東海道の五十三次の起点でり終点でもあるこの三条大橋東詰にこの彦九郎さんの銅像が建立されました。しかし、昭和19年(1944)に金属供出のため撤去され、昭和36年(1961)に再建されたものが現在に至っています。

この銅像、結構な割合で災難が続いているんですよ!

(エピソード1)
まだ京阪三条駅が地上にあった頃のお話―

昔、彦九郎さんの銅像の後方あたりに歩道橋が在ったのですが、ある時期、この歩道橋を渡って通学する華頂女子と当時の家政(現在の京都文教)の女子高生たちがこんなクレームを言い出します―

「下から覗かれているようで気持ち悪い!」

(お前ら何ぞに言われたないわぃ!と彦九郎さんも思ってた事でしょう!が…)

それが社会問題に発展しちゃって、この場所から彦九郎さんの銅像を撤去・移動しようって話が持ち上がっちゃいました―

(エピソード2)
京阪三条駅が地下に潜る事となり、歩道橋も撤去され、道路拡張の計画が進行したさなか、彦九郎さんの銅像も邪魔にあたるとこれまた撤去・移動の話が持ち上がりました。

結局、彦九郎さんの銅像を迂回する計画が再検討され現在に至っています。

(エピソード3)
京都での待ち合わせスポットとして今も昔もこの彦九郎さんの銅像が言われる事が多い(=東京・上野の西郷さん的感覚?)のですが、昨今の学生さんたちはこの彦九郎さんの銅像の事を「土下座像」と言っているんだとか―

すなわち、「今日はどげざまえに集合!」ってな感じなのだそうです。

オイオイ、ちょっと待て!…「どげざ」って、これは「遥拝」ですよ!…

「土下座」しているんだったら、顔を上げちゃいけないでしょ!

彦九郎さんは御所に御座おはします主上おかみ(天皇)に対して最大の敬意を表して拝礼している姿なんですよね。

それで想い出したのですが、昔、地方から上洛した大学時代の友人が「これ、誰に誤っとんのん?」と聞いてきた事がありました。

“あっ、そういう観方もあるんや!”と感じて、深く考えたのですが、「誤ってる=誰に?」って考えた時、主上おかみ(天皇)に対してちゃうのかな、という考え方を導き出した事があります。

彦九郎さんが上洛したのは上記の通り、明和元年(1764)になりますが、ちょうどこの時期から遡った宝永5年(1708)3月に起きた宝永の大火により、南北は今出川通以南から四条通まで、東西は鴨川から堀川までの地域が灰燼に帰しています。火災後に書かれた落首には「見渡せば/京も田舎となりにけり/芦の仮屋の/春の夕暮」(『元禄宝永珍話』)とあり、かなり荒廃していた事実が判ります。

朝廷独自ではなかなか復興の目処が立たなかったでしょうし、そんな京都の姿や禁裏御所の様子を彦九郎さんは目の当たりにしたのかもしれませんね!!

― ◇ ◇ ◇ ―

京都の五花街ではこんな謡曲が唄い継がれています―

人は武士/気概は高山彦九郎/京の三条/橋の上/はるかに皇居をネ/伏し拝み/落つる涙は/賀茂の水/サノサ

幕末期彦九郎さんを尊敬し、万延元年(1860)9月13日には細谷村の高山氏の墓を訪れた(『東行先生遺文』)事もある長州藩高杉晋作が作った俗曲「さのさ節」といいます。

posted by 御堂 at 22:27 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

八百屋お七

切ない恋心が16歳の乙女を放火犯にしました―恋人に会いたいばっかりに、自家に火をつけ、その科によって火焙りの刑に処せられたのです。

天和2年(1682)12月に江戸市中を襲った大火でお七の家も灰になり、他に頼るところもなかったので、菩提寺の円乗寺へ避難しました。その際、お七は美しい寺小姓吉三郎と情を通じ合います。

家再建が長引き、いつまでも寺にいたいと願うお七。家に戻ってからも一途に思いつめ、家が焼ければまた吉三郎さんに会えるとばかり、自家に火を放ったが、火は広がらずボヤ程度におわります。

大火でも小火でも放火犯には違いありません。加えてお七にとって不幸だったのは「放火犯人は火刑に処す」という法令が布告されたばかり―

お七はご定法通り、八百八町を引き廻しのうえ、千住小塚原で火焙りとなります。炎々と燃えさかる火の中で、黒焦げとなって焚死した残骸は、そのままにして三日二夜見せしめのために晒されたと云います。

円乗寺には「俗名八百屋お七、妙栄禅定尼、天和三癸亥年三月二十九日」と刻まれた墓石が残っています。


posted by 御堂 at 20:58 | Comment(3) | TrackBack(1) | 歴史:コラム

日本左衛門―日本で最初の全国指名手配犯―

日本左衛門日本で最初に全国指名手配となった盗賊団の首領の名前です。

最もこれは世間がつけた異名で、本名は浜嶋庄兵衛と言って、遠江国金谷の尾州七里(飛脚)役所の足軽の子として生まれたが、酒・女・博奕など放蕩三昧の暮らしのため、父親に勘当され、人別帳から外されて無宿となり、天竜川の西方、遠江豊田郡貴本村(貴平村?、現在の静岡県浜松市)に住みつき、近郷近村の資産家を荒らしまわり、いつしか手下も200人に増えて、盗賊団を形成し、その首領となります。

庄兵衛とその手下たちは、美濃、尾張、三河、遠江、駿河、伊豆、甲斐、相模の8か国を股にかけ、旋風の如く荒らし回り、金持ちの百姓、町人はもちろん、東海道筋に網を張って、諸大名・諸商人の現金輸送も襲いました。

一味の手口は、押し入った先々で家中の者を縛り上げるが、決して殺傷はしない―「盗みはすれど非道はせず」という“義賊”を意識した行動哲学でした。

とくに庄兵衛一味が根城にしていた遠江一帯は、数多くの旗本領が入り組んでいて、警察力が非常に乏しい状況でした。この事が一味がなかなか捕まらなかった大きな理由でもあったのです。

そうした中で延享3年(1746)9月3日、北町奉行所に訴えがありました。訴訟は早急に幕閣に上げられ、老中から火附盗賊改に捕縛命令が下ります。これは“御下知物”といい、特別の警察権がありました。

さらに幕府は、人相書を手配し、全国に配布します。内容はこんな感じ―

  重右衛門事 濱島庄兵衛
 一せい五尺八九寸程(=177pぐらい)
   小袖、くじらざしにて三尺九寸
 一年二九歳見かけ三一二歳に相見え候
 一月額さかやきこく引疵ひききず一寸五分ほど
 一色白く歯なみ常の通り
 一鼻筋通り
 一目の中細く
 一かお面長く
 一びん中少そり元結もつとい十ほど巻き
 一ゑり右のかたへ常にかたぶき有り
  右の外逃去候節着用の品々
 一こはくびんろうじ綿入小袖 但紋所丸に橘下単物ひとえものもえぎつむぎ白郡内じゅばん
 一脇指長二尺五寸つば無地金もようさめ真鍮しんちゅう筋金有り、小柄なな子生物色々、切羽○金鞘黒、小尻銀○
 一鼻紙袋もえぎ羅紗らしゃ、裏金入
 一印籠、鳥のまきゑ
 
右の者、悪党仲間にては異名日本左衛門と申候、其身は左様に名乗不申○、右のもの於有之は其所に留置、御料は御代官、私領は領主地頭へ申出、夫より江戸大坂京向寄奉行所へ可申達候、尤見及聞及候はば、其段可申出候、若隠置き、後日脇より相知候はば、可為曲事くせごと

という様に、延享3年(1746)10月16日に庄兵衛わが国初の全国指名手配犯となりました。

さすがの庄兵衛も身の置きどころがなくなったのか覚悟を決め、延享4年(1747)1月7日、庄兵衛京都東町奉行所に自首します。

  異名日本左衛門 
    無宿 十右衛門事
        浜島庄兵衛
          二九歳

このもの儀、同類大勢申し合わせ、美濃・尾張・三河・遠江・駿河・伊豆・近江・伊勢・右八ヶ国にて所々押し込み、金銀多く強盗いたし候段、重々不届至極につき、町中引廻の上、遠州見付宿において獄門(『徳川禁令考』)

庄兵衛は江戸に護送され、1月28日、江戸小伝馬町の牢屋敷に収監されます。そして、3月11日に江戸市中引き廻しのうえ、小伝馬町の牢屋敷で首を斬られ、その首は遠州見付宿に運ばれ、三本松の刑場に晒されたのです。


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赤松(斎村)広秀


赤松(斎村)広秀は安土・桃山時代の武将で、播磨国を支配していた赤松氏の一族で龍野赤松氏の出。但馬竹田城主。

播磨鶏籠山城主でしたが、天正元年(1573)に但馬竹田城を攻略します。天正5年(1577)、広秀が16歳のとき、播磨攻めで姫路城に入った羽柴秀吉に対し、徹底抗戦は無謀と判断し投降。鶏籠山城を明け渡し、家老である平井貞利の所領平井郷佐江村に隠遁する。これ以降、斎村広秀と名乗ります。

天正9年(1581)に羽柴秀吉の備中攻めが始まると、広秀も再び武将へと引き戻され、備中高松城攻め、賎ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦いなどに従軍し功績を重ねる。その後、蜂須賀氏の麾下として但馬竹田城主となり、朝来郡2万2000石を領有します。

広秀が着任して最初に行った事は領民たちの生活の実情観察で、戦国時代より竹田の土地は争奪戦の的になっており、疲弊のどん底にあったので、苦しむ領民たちのために、年貢を2割から3割に減免しました。

これは従来の半額以下の措置であり、広秀が在任中はずっと続けられました。

また他にも水害のための堤防工事、用水路工事、また農家の副業としての養蚕業の推奨、漆産業の研究など、見事な善政を敷きました。こうした善政を敷く広秀を領民たちは「福神様」と慕いました。

posted by 御堂 at 20:54 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

時国家

「平家に非ざれば人に非ず」、この言葉を残した人物である平時忠は、平清盛の義弟で、平家一門の実質上の統領で、平関白と称されました。

時忠の姉である時子が、平清盛の妻の二位尼です。栄耀栄華を極めた平家一門も、ついに壇ノ浦の戦いによって滅亡しましたが、時忠は天皇家の皇位の証である三種の神器の帰座の功を認められ、特別に死を免れて能登(石川県輪島市町野町)へ配流となり、主従16人、荒れすさぶ日本海の能登の最果て、珠洲の浦にたどり着きました。

文治元年(1185)9月23日のことです。その5年後に時忠は亡くなりました。時忠の子時国は源氏の追討を恐れ、名字を名前の「時国」に改めました。

そして鎌倉時代以降、周囲の開墾を続け、時国家は初代以来、何百年もの間、大地主として江戸時代には幕領の大庄屋を務め、苗字帯刀も許され、近隣の村々を治め、昭和23年(1948)に農地改革によって土地を手放すまで、時国家は大地主であり続けたのです。

本家が上時国家、分家が下時国家と呼ばれています。時国家第12代藤左衛門時保の次男千松が分家し下時国家と呼ぶようになりました。本家の上時国家が天領に属していたのに対し、下時国家は加賀藩に属していました。

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主君「押込」

戦国期から近世初期にかけては、主君=個人への忠義が第一とされていました。(「忠臣蔵」での浅野内匠頭に対する“赤穂浪士”たちが良き例ですね!)

しかし近世中期以降、武士社会が安定するにつれ、主君=個人よりも御家大事という意識が芽生え出す。

つまりは特定の主君の命令に忠実である事よりも、御家に対する忠義が第一だという考えが浸透していった。

そうした状況の中、主君の間違った行動や理不尽な命令に対し、事態を収拾する1つの方法が生まれました。「押込」と呼ばれる行為です。

「押込」とは拘禁する、という意の刑罰の一種です。家長が家の人間に対する懲戒の意を込めた行為で、逆に家長、とりわけ大名家の当主が放蕩であり暴虐であった時、この「押込」が発動されました。

一例を挙げれば、筑後久留米城主有馬家の第6代・則維は財政再建と藩政改革を推進したのだが、あまりに強引すぎて家中・領民の間から怨嗟の声が湧き起こり、遂には領内一円に5700人余からなる百姓一揆が勃発し、収拾不能の混乱に陥りました。

そこで事態の収拾をはかるため、一連の失政の責任者である藩主・則維を強制的に隠居せしめ、危機を救ったのです。

すなわち「押込」とは、決して謀叛とか、悪逆行為ではなく、家臣の側の正当な職務権限として認知されていたのですね。

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参照)「大名」→
※(参照)家格―「国持」大名の身分格式→


posted by 御堂 at 16:52 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

天誅組暴動と五條代官

幕末期の文久3年(1863)8月17日、大和国五條に置かれた代官所を白昼堂々と襲撃した者たちがいました。吉村寅太郎天誅組の暴徒たちです。

“最初の武力討幕行動”として有名な出来事なのですが、果たして五條代官所に勤仕する者たちが悪事めいた行状を働いていたでしょうか?

当時の五條代官であった鈴木源内「温厚な性格で公平無私な人物」(『十津川記事』)と評判の人でした。

別段、何にも“悪代官”呼ばわりされる行状もしていないのに、天誅組ら暴徒は幕府の役人というだけで、彼と彼の家族、そして一番許せないのは、たまたま居合わせていた按摩あんま師までも血祭りに挙げたのです。

“正義”という名目に守られて…


 

posted by 御堂 at 16:29 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

向島と徳川家康

京都市の最南端にある伏見区。その伏見区の最南端で宇治川をはさんだ対岸に位置する向島(むかいじま)地域。この地は文禄年間に豊臣秀吉伏見城を築城した事で一躍脚光を浴びます。

秀吉指月山伏見城の支城として、この向島地区に城を築こうとしました。伏見城が公的な場とすれば、この城は私的な場と考えたのでしょう。

しかし慶長の大地震が起き、指月山伏見城は壊滅。新たに木幡山に築城される事となり、この城は打ち捨てられます。

やがて秀吉の死後、徳川家康豊臣家の家老として木幡山伏見城に入るまでの間、向島にあった自分の屋敷とこの城を改築したのです。その際、宇治川を隅田川に見立てて、江戸にならって向島城と名付けました。

また向島城の別の名称として、四谷城とも呼ぶそうです。

そう言えば現在も四ッ谷池と呼ばれる一帯があります。

明治の初め頃まではこの一帯を四谷村と称していたそうで、その名残は現在、郵便局株式会社(日本郵便)の「京都向島四ツ谷池郵便局」という支社の名前にしっかり残っています。当時の面影が偲ばれますね。

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ニニンガシ、ニサンガロク、ニシガハチ…

私たちも馴染みのあるこの覚え方―「九九」は、日本では京都でまず産声をあげました。

元々は中国から伝わり、奈良時代の『万葉集』でも大伴家持の一首、

「足引乃 許乃立八十一 雀公鳥 如此聞始而 後将恋可聞」
(あしひきの 木の間立ち濳(く)く 雀公鳥 かく聞きそめて 後恋ひむかも)

にも「八十一」を「くく」と読んでいたりしますが、平安時代の天禄元年(970)12月27日に源為憲が作った『口遊(くちずさみ)』という子弟教育用に編集した初歩的教科書本において登場するのが最初のようです。

この『口遊』は、藤原為光の長男・誠信の教育のために、「声に出して憶えたい事柄」すなわち暗誦すべき事項をまとめた教科書で、全て漢文書体になっています。

しかしそれでも、文の出だしから「九九八十一、八九七十二、七九六十三、六九五十四…」と読めて、私たちにとっても分かりやすい内容です。

さて、お気づきでしょうが、現在の私たちは「ニニンガシ、ニサンガロク、ニシガハチ…」と憶えていますが、この当時は順序が逆で九の段から小さい数字へと降りてきています。だから「九九」というのですね。

それが、現在のように「ニニンガシ」から始まるようになったのは、江戸時代の初め頃だと云います。

それは、京都は嵯峨に生まれた数学者の吉田光由が寛永4年(1627)に書いた『塵却記(じんこうき)』という本で、この書の中で「ニニンガシ」から始まる「九九」の覚え方を紹介したのです。

吉田光由は、京の豪商・角倉了以と親戚関係があり、その家業である土倉(金融)業からヒントを得て、庶民の暮らし向きに合う形で、最も暗記しやすい例で「九九」を紹介したわけです。

この『塵却記』は、日本最初の数学書といわれ、日本最初の理系書のミリオンセラーとなります。やがては京都のみならず全国各地、日本人の必読書となっていきました。士農工商、誰もが使えて、どの家に言っても置いてある…といった具合に…


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大文字焼き?!

今日は「五山の送り火」がありました。お盆に還ってきはったご先祖様が冥土へ無事戻られるように灯した送り火の灯り…

「大文字」「妙・法」「鳥居形」「舟形」「右大文字」を総称して「五山の…」というわけですが、5つが5つとも行っている団体が違うわけで、ひとまとめにして語るのはかなり失礼にあたると思われます。

さらに、最近では少なくなったと思っていましたが、「五山の送り火」のニュースを語っている京都以外の他所者よそもんのテレビ局(←ほとんど全て)が全部を総称して「大文字の送り火」とか、ひどいのは「大文字焼き」とか言って報道sる始末!(悲!)

「○○焼き」という言い方では、例えば、山の芝草を燃やす奈良県の若草山の山焼きのように山全体を焼かなきゃいけないじゃないですか。

ましてや京都の人間は、「○○焼き」とくれば織田信長比叡山焼き討ちを真っ先にイメージしますので、不吉極まりないんですよね。

報道関係の方々…もうチョット学習して下さいね。心の底から馬鹿にしますよ!

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※(参照)→五山の送り火


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