六地蔵めぐり

毎年8月22〜23日にかけて、昔から京都の町々では子供を中心に地蔵盆が盛んです。なかでも京都への6つの街道沿いに建つお地蔵さまを巡る“六地蔵めぐり”は「疫病退散!頼んまっせ!」という願いが込められた人々の賑わいを魅せています。

『今昔物語集』によれば平安時代前期の仁寿2年(852)、小野篁が熱病を患い夢うつつの中で冥土を彷徨っていたところ、地蔵菩薩と出会いこの世に戻ってくる事ができたそうです。

その際、地蔵菩薩が「私は毎日諸々の地獄に入って衆生済度しているが、私の力でも救えない人がいる。とにかく、縁なき衆生だけは私でも救う事ができない。だから、たとえ一度であっても、私の姿を拝んだり私の名を唱えたりすれば必ず救われるのだから、地獄の恐ろしさを人々に告げて帰依する事を勧めてほしい」と頼みました。

小野篁はその心に感激し、末法の衆生に地蔵菩薩を信心する功徳を広めようと、木幡山の1本の桜の大木から6体の地蔵像を刻み、伏見六地蔵の地に安置しました。(大善寺所蔵『六地蔵縁起』)

その後、後白河天皇が深く六地蔵尊を信仰し、保元2年(1156)、平清盛に勅命を下し、清盛西光法師に命じて、街道の入口6か所に1体ずつの地蔵を分置し、「まわり地蔵」と名付けました。

六地蔵とは地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上という六道のそれぞれで、衆生を救済してくれるという6体の地蔵菩薩を指します。

仏教の思想ではこの世のあらゆる生命が死ぬと、それぞれの業に従って、苦の世界に輪廻転生を繰り返すという考え(六道輪廻)があります。

六道とは衆生が再び生まれてくる6つの迷いの世界を指します。「天上」などは良さそうに思えますが、この世界の生命にも死が訪れる事から、苦から自由ではないらしい―このような六道の考えが日本に入り、独自に形成されたのが六地蔵信仰だと云われます。

“お地蔵さん”と気軽に親しまれていますが、地蔵菩薩は衆生を救済するために、あえて仏にならずに悟りを開く一歩手前の菩薩の状態に留まって、身代わりとなって衆生を救ってくれるという菩薩の1つなのです。

さて、六地蔵のそれぞれとは、

 1.奈良街道からの入口に建つ伏見六地蔵(大善寺)
 2.西国街道からの入口に建つ鳥羽地蔵(浄禅寺)
 3.丹波・山陰街道からの入口に建つ桂地蔵(地蔵寺)
 4.周山街道からの入口に建つ常盤地蔵(源光寺)
 5.鞍馬街道からの入口に建つ鞍馬口地蔵(上善寺)
 6.東海道からの入口に建つ山科地蔵(徳林庵)

です。次にそれぞれを見ていきましょう。

1.伏見六地蔵(大善寺)

伏見区桃山西町。京阪電車宇治線・JR奈良線六地蔵駅下車、徒歩15分。浄土宗の寺院で法雲山浄妙院大善寺(通称六地蔵)と呼ばれて親しまれている浄土宗の寺院で法雲山浄妙院大善寺(通称六地蔵)と呼ばれて親しまれています。

地蔵堂に安置されている地蔵菩薩立像(重要文化財)は仁寿2年(852)に小野篁により作られたものとされている。小野篁が48才の時、熱病で一度息絶えて冥土へ逝き、そこで地蔵尊に出会って蘇った後、木幡山から切り出した1本の木から6体の地蔵菩薩を刻み、この地に納めたことから六地蔵と呼ばれるようになった。

その後保元2年(1156)、後白河天皇の勅命により、平清盛西光法師に命じて、京都の街道の入口6か所に六角堂を建て、それぞれのお地蔵様を祀りました。その西光法師六地蔵を巡られたのが、六地蔵めぐりの始まりなんですよ―と寛文5年(1665)に当時の大善寺の住職が『京の六地蔵めぐり』と題して広めたのが始まりのようです。

2.鳥羽地蔵(浄禅寺)

南区上鳥羽岩ノ本町。市バス18号系統、地蔵前下車、バス停前。浄土宗西山禅林寺派の寺院で恵光山浄禅寺と云う。平安時代後期の寿永元年(1182)、文覚上人の開基と伝えられ、境内に袈裟御前の首塚(恋塚)と言われる五輪石塔がある事から恋塚浄禅寺の名で知られている。

3.桂地蔵(地蔵寺)

西京区桂春日町。阪急電車桂駅下車、徒歩10分。久遠山と号す浄土宗の寺院です。ここに祀られている地蔵尊は一木で6体彫られた内の最下部の部分で世に姉井菩薩と呼ばれています。

4.常盤地蔵(源光寺)

右京区常盤馬塚町。京福電車北野線常盤駅下車、徒歩5分。常盤山を号し、また源光庵とも呼ばれる尼寺で、平安時代前期の弘仁2年(811)、勅旨によって建立され 嵯峨天皇の皇子源常を創業開基とする。のちに後白河法皇が当山に深く帰依され中興開山として源光寺本尊に全ての救済を願われ 宗教宗派に関係のない庶民の信仰の根源地と定めた。毎年、全国地蔵信仰の唯一の総本山天地万霊総菩提寺として春夏秋冬の年4回、源光寺神聖霊場大祭が行われている。

5.鞍馬口地蔵(上善寺)

北区鞍馬口通寺町。地下鉄烏丸線鞍馬口駅下車、徒歩5分。千松山遍照院と号する浄土宗知恩院派の寺院です。平安時代前期の貞観5年(863)、天台宗の僧慈覚大師円仁によって天台密教の道場として千本今出川に創建されたと伝えられている。その後、一時は衰退の一途を辿るが、文明年間(1469〜1487)に、改めて天台念仏道場として中興開基され、後柏原天皇の勅願寺として隆盛を極めます。桃山期の文禄3年(1594)、豊臣秀吉の命で寺町鞍馬口に寺域を移し、さらに浄土宗に転じています。地蔵堂に安置されている地蔵菩薩は当初、洛北の御菩薩池(深泥池)の畔に祀られていたものが当寺に移されたとされ、深泥池地蔵とも呼ばれています。

6.山科(廻)地蔵(徳林禅庵)

山科区四ノ宮泉水町。京阪電車京津線四ノ宮駅下車、徒歩15分。柳谷山と号する臨済宗南禅寺派の寺院で南禅寺第260世雲英うんえい正怡しょうい禅師が開山したと云われています。

元々、この辺りは仁明にんみょう天皇の第四皇子である人康さねやす親王(山科宮人康親王)が両眼を患われ、貞観元年(859)に出家され、この地に隠棲された場所(→故に「四ノ宮」という地名が付いたのだとか…)です。

雲英禅師人康親王を先祖とする四宮家出自であり、隠居する際に人康親王の菩提を弔おうと創建したそうです。

東海道の出口にあたり、物詣でや疫神の送り御霊会などの交流から道祖神の信仰となり、地蔵菩薩信仰として栄えました。

以上、これらのお地蔵さまが京都への入口に建ち町の人々を守ってくれているのです。訪れた人々は、6体の地蔵尊を巡って、各地蔵で赤、青、黄、緑、黒、白の6色のお札を貰い、そのお札をお守りとして家の玄関先に吊すと無病息災、五穀豊穣、家内安全、商売繁盛などの御利益があり、とくに初盆の家はこの供養で故人が六道の苦を逃れられるという信仰があります。

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伏見桃山城、生まれ変わる!

野球場の整備が進む伏見桃山城運動公園

近畿日本鉄道の関連会社でもあった(株)桃山城が経営していた遊園地・伏見桃山城キャッスルランドが、経営不振で平成15年(2003)1月に閉鎖されて以来、「あの天守閣、どーなるんやろ?」と思ってましたが、どーやら、装いを変えて、来年4月1日に「伏見桃山城運動公園」としてリニューアルオープンするようです。

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外野が芝生張りの野球場と、多目的グラウンドが使用可能なスポーツ施設として整備が進められていたようですね。

そして京都市としては、管理・運営は指定管理者制度を活用して民間事業者に委ねるのだとか―(→採算が取れなかったら、前の二の舞だぞー)

また、伏見城を模した同公園のシンボルである「天守閣」の活用方法についても、管理者を選ぶ過程でアイデアを募るらしい…

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公園の西半分については、その「天守閣」を中心とした樹木の多い散策路となるようで…(ジョギング&ウォーキングなどをする人たちにとっては、良い環境かも!…あそこまであがっていくのも結構キツいんやけどね 笑)

※因みに。この「天守閣」について、皆さんはどう呼んでましたか?

 1)やはり、「伏見城」ですか!
 2)それとも、キャッスルランドの影響で「伏見桃山城」ですか?
 3)または、経営していた会社にちなんで「桃山城」とか?

昔、駿々堂という書店があったのですが、そこのブックカバーは京洛の景観図を洛東・洛西・洛南・洛北に分けて描いておられた画家の方のイラストを使ってらっしゃいました。

それで、そこには「桃山伏見城」と記載してあったんですよ。

それを観た時、妙に「なるほど!」と思っちゃいました。だって、最初の伏見城が指月山に建てられた伏見城指月山伏見城)で、慶長の大地震で崩壊の後、木幡山に建て替えられます(木幡山伏見城)。

その後、関ヶ原の前哨戦で西軍方に攻め落とされ、落城。さらに同じ場所にて建て直されますが、最終的には廃城となり、取り壊されます。

その跡地に桃の木が植樹され、いつしか地元の人がこの一帯を「桃山」と呼ぶようになって、大正時代になり、正式に桃山が地名になります。

そして、昭和39年(1964)に現在の「天守閣」が桃山の地に建ったわけですから、「桃山伏見城」って呼び方も一理あるなぁーと思うのですけどね!

posted by 御堂 at 21:45 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

2016年夏季五輪の候補地選定争い!

毎日、暑いですねぇー平均体温35℃前半の僕としては38℃はもう灼熱地獄!(笑)

しかも、買い物に出かけて腕なんかが日焼けしようもんなら、何気に火ぶくれ&火傷状態です(悲惨!)

9月の中旬まではおとなしく何もしたくない…そんな夏眠状態を保っていたい、そんな日々を過ごし中ぅ〜(遊びの誘いをかけてくる友人には「オマエ、何考えてんねん!(怒)」と返事してます…)

さて、今日はこんな記事を目にしました―

東京都福岡市が平成28年(2016)の夏季五輪の国内候補都市の選定争いを行っています。

とりあえずは、五分五分?少し東京都がリードって感じのようですね。

僕の個人的な意見としては、山や海に囲まれ、自然に調和した福岡市と、人工的に造られた自然の中にある東京都、人間として生活するのはどちらが一番良いでしょうね。

設備投資や財政的な問題として、どうやら東京都に決まりそうな雰囲気ですね…

まだ、国内の候補というレベルで、世界の各都市との競争もあるわけですが、もし決まったとしても、過去にソウル(韓国)と争って、絶対有利と言われつつも投票で負けてしまった名古屋市を思い出すにはいられません。

名古屋人にとって、この時のショックはかなり響いたようで、愛知万博での好景気で立ち直るまで、相当かかりましたもんね。

福岡市にはそんな目に遭ってほしくないです。(東京ならどーなっても構いませんが…)

さて、皆さんは五輪の国内候補地についてはどう考えますか?

ちょっとした参考意見を1つ!―東京って、テロに遭う確立が高いと思いませんか?開催中にテロ被害にでも遭ったなら、思いっきり“恥”ですよね(でも、何となく、そういった事件が期待できそう!←被害をこうむるのは東京人だし、京都人の僕には何ら関係ないですから…)

posted by 御堂 at 20:01 | Comment(3) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

五山の送り火

「五山の送り火」配置

京都では土着信仰の1つとして、盂蘭うら盆会ぼんえの行事が行われます。

盂蘭盆会という呼称からして仏教行事と思われがちですが実際には、土着信仰における先祖供養の風習と単一仏教行事の盂蘭盆とが神仏習合された結果、現在のような盂蘭盆会の風習が形成されたのだと云います。

その盂蘭盆会を略した呼称が、私たちが現在よく使っているお盆という訳なのです。

まず8月7日から10日頃にかけて精霊しょうらい迎え」をします。

京都ではご先祖さまの霊の事を「精霊しょうらいさん」と呼び、「お精霊さん」が迷わずに冥土から自分たちの家族や子孫のもとに帰って来られるように各寺院では提灯ちょうちんあかりを灯したり、灯籠とうろうをかざしたりして、「迎え火」を照らし出します。

さて、12日の夜頃には「お精霊さん」も無事「迎え火」を頼りに帰って来られ、翌13日から15日の間は家にとどまられて、16日の夜に再び冥土に戻って行かはります。それ故、普段逢う事のない「お精霊さん」と過ごすための休みをお盆休みと言うんですね。

「お精霊さん」がおられる間の13日の朝食から16日の朝食まで各家庭では「お精霊さん」のために、特別に料理を作ります。

特に「お精霊さん」の好物を作ってあげたりするのですが、どちらかと言えば「薄味で、柔らかくてさっぱりした」精進料理風で生臭さを避けるために、お出汁だし昆布こぶだけで取るんですよね。

そうして16日は、「迎え火」と同じ所に火を焚き、帰り道を照らして「お精霊さん」を送り出すのですが、これを“送り火”と呼んでいます。

五山の送り火はこれを大掛かりにした盂蘭盆会の行事の1つで、松明の火を空に投げ上げ、虚空を行く「お精霊さん」をお見送りするという虚空蔵こくうぞう信仰から来たものといわれています。今はあまり見かけなくなっていますが、昔は迎え火として鴨川の河原や家の門口に火を灯したといいます。現在では、新暦の8月16日午後8時から、京都盆地の周囲の山々に「大」の文字から順に、「妙」「法」の文字、鳥居をかたどった火が次々に灯されます。

最近では、観光目的の一部として、京都三大祭(葵祭・祗園祭・時代祭)にこの五山の送り火を加えて、京都四大行事と俗称しています。さらに、東山如意ヶ岳の「大文字」が最もよく知られているので、“送り火”の代名詞になり、「大文字焼き」などと間違って覚える人も多いようですね。(奈良の若草山の山焼きみたいに山の草全体を焼くんじゃないんだし、「〜焼き」と付くからには、大文字山を焼いて山火事を引き起こさなきゃダメでしょ!相も変わらず、「大文字焼き」と言ってくる輩は“心の底からバカにしてやります!”笑)

五山の送り火とは東山如意ヶ岳(大文字山)の「大文字送り火」、松ヶ崎西山(万灯籠山)、松ヶ崎東山(大黒天山)の「松ヶ崎妙法送り火」、西賀茂明見山(船山)の「船形万燈籠送り火」、大北山の「左大文字送り火」、嵯峨水尾山(曼荼羅山)の「鳥居形松明送り火」の五山を総称したものであり、各々、異なる“送り火”行事の寄り合いで、それぞれに“送り火”を守る保存会が個別に存在し、互いに干渉せずに独自性を保って運営されているのです。現在のような形になったのは、近世初頭といわれており、如意ヶ岳の「大文字送り火」は17世紀中頃作成の絵図にしっかりと描かれているし、18世紀中後期の絵図には、五山全ての“送り火”が描かれています。興味深いのは、かつては市原野の「い」、鳴滝の「一」、西山の「竹の先に鈴」、北嵯峨の「蛇」、観音寺村の「長刀」なども“送り火”として点火されていましたが、明治の頃までに廃絶してしまっています。これらが残っていたら現在のように「五山の〜」と冠ぶる事もなかったでしょうね。

“送り火”の日には「あらめ」をお供えし、茹で汁を門口に撒いて「お精霊さん」を、お送りする「追い出しあらめ」の習わしなどの先祖供養に加え、厄除けとして、送り火を酒杯に映し出して飲むと無病息災でいられるとか、“送り火”の燃え炭を奉書紙でくるみ、水引でしばり厄除けとして玄関先に吊るすなどの風習があります。では、それぞれを見ていきましょう。

1.大文字送り火

大文字送り火

京都市北東部、東山三十六峰と呼ばれる連山に属する如意ヶ岳の支峰である大文字山にある。左大文字との区別で右大文字と俗称されています。五山の中では最も規模が大きく、一番初めに点火されます。元々は、浄土寺村の村民よる私的な行事であったのが、人々に親しまれる京都の盂蘭盆会行事として定着しました。

大文字山送り火に関する初見史料としては、舟橋秀腎が記していた日記の慶長8年(1603)の7月16日の箇所に「山々焼灯、見物ニ東河原へ出了」(=鴨川に出て、山々の送り火を見物した)〔『慶長目件録』慶長8年7月16日条〕と記されていたのが最初と云われています。但し、この送り火が「大」の形だったかどうかは定かではありません。

始まりの起源については、次の3説が挙げられます―

  1. 平安時代、弘法大師空海が始めたという説で、かつて大文字山麓の寺院の浄土寺が火災に見舞われた際に、本尊の阿弥陀仏が光を放ちながら山上に飛び、火を免れたという風聞を耳にした弘法大師空海がそれを真似て、人の体を表す「大」を描いて実施した(『都名所図会』、安永9年=1780=刊)との記述に基づいていますが、他のどの記録にも大文字のことが記されていない事から、これは俗説に過ぎないでしょう。


  2. 室町時代中頃、足利義政が延徳元年(1489)、近江国まがりの合戦で死亡した息子・義尚の冥福を祈るために、家臣に命じて始めたという説で、大の字形は山の斜面に白布を添え付け、その様子を慈照禅寺銀閣寺)から相国寺の僧侶・横川景三が眺め定めた(『山城名跡巡行志』、宝暦4年=1754=刊)とありますが、他方で、足利義政の妻・日野富子が命じたという風聞もある訳で、信憑性はかなり薄いでしょう。


  3. 江戸時代初期、近衛信尹が始めたという説で、
    山々の送り火、但し雨ふればの(延)ぶるなり。…(中略)…松ヶ崎には妙法の二字を火にともす、山に妙法といふ筆画に杭をうち、松明を結びつけて火をともしたるものなり。北山には帆かけ船、浄土寺には大文字皆かくの如し。大文字は三みやく(藐)院殿(=近衛信尹)の筆画にてきり石をた(建)てたりといふ(『案内者』、寛文2年=1662=刊)
    との記載があります。
こうして見ると、3の説が一番説得力があるのかな?

―さらに注目すべき史実として、室町時代後期のの天文19年(1550)の段階で、大文字山に築かれていた「如意岳城」が落城した記述(『言継卿記』天文19年11月23日条)がみられ、山頂には城郭が築かれていた事実が明らかです。

また、この辺り一帯が永禄元年(1558)の如意ヶ岳の戦いにおいて広範囲にわたって戦火にまみれてしまった後は、近衛前久さきひさの邸宅地になっていました。そして、それは慶長17年(1612)に前久が死去するまでの期間だったようです。

故に、江戸時代初期、近衛信尹が始めたという説が、一番間違いのないところではないでしょうか。

さて、当日16日の午後7時、山頂の弘法大師堂で浄土院(大文字寺)住職および保存会員ならびに参詣者などの有志によって般若心経があげられ、護摩酢(仏前酒)で心身を清め、親火を灯明から松明に火を移し、午後8時に金尾の部分にある親火に点火された後、合図により一斉に点火されます。

2.松ヶ崎妙法送り火

松ヶ崎妙法送り火の「妙」 松ヶ崎妙法送り火の「法」

京都市北東部・妙は松ヶ崎西山(万灯籠山)、法は松ヶ崎東山(大黒天山)にあり、二山から成ります。麓の涌泉寺の寺伝によると、当寺が鎌倉時代後期のの徳治2年(1307)、日像が天台宗から法華宗に改宗した際、「妙」の字を書き点火したのが始まりだと云い、「法」の字は、涌泉寺の末寺下賀茂大妙寺の日良が東山に書いた事が始まりだと云われています。少なくとも、「妙・法」の2字が同時につくらたものでないことは、「妙」「法」の左に画されていること(右読みでなければならない)からでも推定されます。また、「妙」の字がある万燈籠山が共有地であるのに対し、「法」は区画ごとに所有者が決まっていることも、山林所有権の発達史から考えて「妙」の方が古いことを示しています。さらに「妙」は草書体であるのに対し、「法」は楷書体の字形です。点火時刻は午後8時10分。京都地方簡易保険局屋上からの合図によって点火が行われます。点火終了後の9時頃から、桶泉寺で、日本最古の盆踊り「題目踊り」や「さし踊」が催されます。

3.船形万燈籠送り火

船形万燈籠送り火

京都市北東部・西賀茂の明見山にある。麓の西方寺の開祖慈覚大師円仁平安時代前期の承和14年(847)、唐留学からの帰路、暴風雨に遭ったが、南無阿弥陀仏と唱えたので、無事帰国できた事から、その船をかたどって始めたと伝えられる。しかし、円仁の事故が想起されたとしても、その始まりの起源を西暦1100年より以前に遡る事は困難で、「鳥居形松明送り火」と同様に、愛宕神社との関係と考えるべきでしょう。俗にこの船形は精霊船との異名を持ち、船首は西方浄土に向いているといわれます。明見山は、船山という名前で呼ぶ方が一般的です。「妙法」と共に『案内者』や『扶桑京華誌』(寛文5年=1665=刊)に記事が登場する事から、少なくとも300年近い伝統がある事のは確かです。点火時刻は午後8時15分。朝早くから割木を山に運んで点火の準備が行われ、西方寺で鳴らす鐘を合図に点火。送り火終了後は、西方寺で西方寺六斎念仏が行われます。

4.左大文字送り火

左大文字送り火

京都市西部、大北山にある。大北山も通称で大文字山と呼ばれています。字形は右大文字と酷似していますが、規模や点火手法に至るまで全ての面で異なっています。左大文字の始まりについては、『洛陽名所集』(万治元年=1658=刊)や『案内者』」に記載はないが、『扶桑京華誌』や『日次紀事』(延宝7年=1679=刊)、『山城四季物語』(延宝年間=1673〜1681=刊)には記載があります。『扶桑京華誌』には、

「大文字、北山村の西山に火を以て大の字を燃やす。伝えるところ、これまた筆画なり、左大文字、京の町より北山をのぞんで左にあるところなり」
との記載があり、また、「大文字送り火」の炎が御所の池に照らされて大北山に移ったという故事も残っています。特に守寺の法音寺にて、篝火から火を移した松明を山上に抱えて走る松明行列は勇壮です。大の字に一画加えて「天」とした時代もあったそうです。点火時刻は午後8時15分。左大文字は、岩石が多くて火床が掘りにくいため、以前は全部篝火を燃やしていましたが、現在は斜面に栗石をコンクリートで固めて火床をつくっています。

5.鳥居形松明送り火

鳥居形松明送り火

京都市西部・北嵯峨の水尾山(曼荼羅山)にある。嵐山や広沢池の近くにあり、市内で見える場所はかなり限定される。弘法大師空海が石仏千体を刻み、その開眼供養を営んだ時に点火されたとも伝えられるが、18世紀初頭の書物『翁草』の記述に基づいて、江戸時代中期に登場したとの見解が一般的である。火の神で有名な愛宕山の登り口にあり、愛宕神社参道を示す一の鳥居に由来しており、愛宕神社との関係から発生したと考えられている。点火手法は独特で、他の山と異なり、薪を井桁に組む手法を採用せず、薪を束ねた松明を火床(燭台のような鉄製の火皿)に乗せます。太鼓を合図に親火の所で松明に火を移し、一斉に松明をもって走り、各火床に突立てられて火が付けられます。あらかじめ各火床に点火が準備されていません。その手法は素朴で、五山の中で最も美しく、かつ勇壮な点火手法として知られる。点火時刻は午後8時20分。五山の最後に点火されますが、これは始めに点火させる大文字が下火になってくる時間で、大文字を見てからでも間に合うようにと配慮されています。

―以上が五山の送り火です。各山の足並みが揃うようになったのは、昭和戦後になって各保存会の意見を調整する保存会連合会が結成された後の事で、現在の点火順序に定められたのも連合会結成と同時期の事です。さらに、昭和58年(1983)には京都市無形民俗文化財に指定され、平成11年(1999)には大文字保存会が特定非営利活動促進法(NPO法)に基づいて法人格を申請、京都市に受理されました。

いかがですか。これが“京都人の、京都人ににおける、京都人のための”盂蘭盆会お盆行事の1つ、「五山の送り火」のあらましです。

最近では、京都固有の行事にもかかわらず、その幽玄さから観光行事と化し、正直迷惑を被っていますが、鄙びた他道府県の他所者よそもんたちに伝統と格式を重んじる京都人の先祖供養の仕法を目を見はって頂ければ幸いです。(但し、ご自分のご先祖さまをちゃんと供養なさってから来て下さいね!他所よそさま=ここでは京都人=の先祖供養を楽しんで、自分の先祖供養を疎かになさらないように…嘲笑)

― ◇ ◇ ◇ ―

※(関連)ハイビジョン特集「銀閣よみがえる〜その500年の謎〜」→
※(関連)大文字焼き?!→


 

posted by 御堂 at 22:53 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

バカ虎たちの不始末―虎の送り火

もうすぐ、「五山の送り火」ですね。

今から3年前の9月、頭の程度の低いおバカな連中が大文字山にてとんでもない事をしでかしてくれたんですよ。

この年、プロ野球は阪神タイガースが昭和60年(1985)以来、18年ぶりのリーグ優勝に沸いた年でもあったんですが、その熱気がとんでもない所に飛び火しちゃうのです。

なんと、大文字山にて「トラの送り火」を実行してしまったやからがいたのです。

大文字山の火床に浮かび上がったのは「大」の文字ではなく、阪神タイガースの「HT」マークでした。

事件が起きたのは、ちょうど、優勝へのマジックが2とせまっていた9月13日のこと。

「阪神の快進撃にあやかろう」と、京都市や宇治市のフリーター(←ほらね、こんな事やらかす輩に限って、実社会への適応能力のないカスに決まってる!)や学生およそ25人が懐中電灯を手に山に登り、光の文字を描きやがったのです。

当然、大文字保存会の人たちは立腹!下山してきた若者たちを、警察署員と一緒に厳重に注意したのだそうです。(そいつら全員、どうしようもないバカなんだから、その場で銃殺刑にでもすればよかったのにネ…)

「送り火」というのは、先祖供養のための信仰儀式であって、決して観光用のイベントではありません。

こういう、おバカな連中やその家族には、“お精霊さん”も末代まで祟ってやれば良かったのにね!

ちなみにこの年の阪神タイガースはリーグ優勝こそすれ、日本シリーズでは我らが“若鷹軍団”福岡ダイエーホークスに敗退…常識のない連中が応援するようなチームだし、応援する価値もないし、ホントざまあみろ、それみたことか!って感じです(嘲笑!)

posted by 御堂 at 23:41 | Comment(3) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

色即是空…


「色即是空。空即是色」『般若心経』に記載される文言の1つです。

よみかたは「しき・そく・ぜ・くう」と読んでいるかと思います。

意味は?というと、

この世にある全てのもの(=)は、因と縁によって存在しているだけで、固有の本質をもっていない(=

という解釈がほとんどですね。

すなわち、「色」(→私たちにとって目に見える全ての存在の事の総称)は、実は実体がなく“からっぽ”(→「空」)なんだ

と言うんですね。この一節は

しきくう くうしき しきそくくう くうそくしき
の流れで読むとわかるのですが、基本知識として『般若心経』サンスクリット語で書かれた物を音訳したものを私たちは『般若心経』として扱っています。

つまり、「しき・ふ・い・くう くう・ふ・い・しき…」と聞こえたのでそれを、その音の漢字に当てはめたものが『般若心経』というわけです。

したがって、「色即是空」「しき・そく・ぜ・くう」を聞こえたので、その聞こえた音に見合った漢字を当てはめたらこうなった―わけです。

それ故、「色」「しき」であり、「空」「くう」と考える事が大前提です。

さて、「色(しき)」は、目に見えるもの、形づくられたものという意味ですが、問題なのは「空(くう)」の解釈です。

「空(くう)」とは、上述したような“空っぽ”とか、「実体のないもの」という意味では決してなく、「色(しき)」と同じく、「空(くう)」という存在物だと解釈しましょう。

例えば、ここに1つの物体があります。私たちの目には幾つかの「色(しき)」の存在が確認できます。

ところが、この物体の中には「空(くう)」もその存在が見えているのです。でも私たちの目では確認ができません。(それだけ小さなモノと思ってください)

物体の構成要素の中には、「色(しき)」もあれば、「空(くう)」も存在しているのです。

その昔、ノーベル物理学賞を受賞された湯川英樹氏は禅宗の僧侶との対談の中で、上記に挙げたお話を聞き、それをヒントにして「中間子論」を論立てられたそうです。

posted by 御堂 at 02:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

祗園(御霊)会

7月、夏到来!って感じですね。

京都では祗園祭(の真っ最中です。今日で前半のヤマ場・山鉾巡行が終了。

残すは半月、まだまだ続きます―

しかし、どの新聞やニューズを観ても。山鉾巡行の事を祗園祭のハイライト」と表現していますね。

確かに、観光客も一番多く観覧するのは宵山から山鉾巡行にかけてだとは思いますが、ここで祗園祭(会)が終了したわけではありません。

祭事としての祗園祭(会)は終了したかもしれませんが、むしろ、ここからは神事としての祗園祭(会)が始まるのです。

― ◇ ◇ ◇ ―


平安京城は遷都して以来、急激な人口の増加に伴い、劣悪な公衆衛生環境が原因で疫病なども流行・蔓延しました。当時の人たちは、疫病の原因は疫神の仕業であったり、政争などで非業の最期を遂げた者たちの怨霊の仕業と考えていました。

そうした怨霊を鎮め、慰める行事として御霊会ごりょうえが催されたのです。

その先駆けとして、貞観5年(863)、早良親王、伊予親王など政争によって非業の最期を遂げた6名の怨霊を鎮め慰めるための官主導の御霊会が、神泉苑で行われました。

一方、民間の間では怨霊を鎮め慰めるのではなく、疫神自体を鎮め慰めるための御霊会が催されていました。

なかでも疫病を退治する神である牛頭ごず天王を祀る祗園社(明治時代以前の八坂神社の名称)の御霊会が一番の賑わいを見せていました。

そうして、貞観11年(869)全国的に疫病が流行した際に、卜部うらべの日良麿ひよしまろが当時の国の数に準じて66本の矛を立て、更に神泉苑にて祗園社のお神輿さん3基を迎えて牛頭天王をお祀りし、病気平癒・開運除災・五穀豊穣を祈ったのがその起源であると云われています。

それから約1世紀後の天禄元年(970)には御霊会は「毎年の儀」(=毎年の恒例行事)となりました

さらに天延2年(974)には御旅所を朝廷より賜り、6月7日に祗園社から御旅所へ、14日に御旅所から祗園社に3基の神輿が渡るという日程であ始まったのが、祗園祭としての正式な発足だとされています。

長保元年(999)には無骨むこつという芸人が大嘗祭の標山しめやまに似た作山を作って行列に加わり、これが山鉾巡行の始まりとされています。

その後、「応仁・文明の乱」を経た明応9年(1500)に再興され、現在のような様式へと定着していくのです。

明治維新以降、太陽暦の採用により、7月14日と24日の両日に山鉾巡行が変わり、昭和41年(1966)より7月17日の1日開催となりました。

― ◇ ◇ ◇ ―


さて、今日7月17日、山鉾巡行が終わった後の午後4時30分頃から八坂神社境内から祗園石段下に勢揃いした八坂神社に鎮座する御神霊を遷したお神輿さん3基(東御座みくら・中御座・西御座)が八坂神社の各氏子町内を巡行し、四条寺町の御旅所に御神幸(おいで)になります。これを神幸祭、御霊迎え、御霊送りなどと言います。

そして、1週間鎮座(=お泊り)された八坂の神さんたちは、24日の午後5時30分に御旅所を出発し、堀川通から大宮通までの三条小通りの中にある、所縁のとても深い神泉苑跡近くにある御供社を巡って、八坂神社に御還幸(おかえり)になるのです。これを還幸祭と言います。

なぜ、御旅所に1週間も鎮座(=お泊り)されるのかというと、昔の四条通には現在のような鉄橋ではなく、必要に応じて架橋された木橋しか存在しませんでした。

それ故、普段は参れそうにない氏子の人たちが参拝できるように、御旅所に鎮座されておられるわけです。

山鉾巡行は、その八坂の神さんが乗ってられるお神輿さんの通り道を先頭に立って掃き浄める露払い的存在になります。

それに対し、御旅所から八坂神社に御還幸(おかえり)になる還幸祭で通り道を掃き浄める役割お務めるのが当日に催される花傘巡行です。

まだまだ祗園祭(会)は続きますよぉ〜


posted by 御堂 at 23:16 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

木曽三川、治水との闘い

木曽三川

木曽三川とは、濃尾平野を流れる木曽川長良川揖斐川の総称で、濃尾三川とも呼ばれます。

この3つの川は下流部で合流・分流を繰り返し、度々水害を起こしていたため、付近の住民は水害との闘いの歴史を繰り返してきました。

木曽川長良川揖斐川の流域面積を見てみると凡そ4・5:1:1という割合になり、木曽川は他の2川に比べて圧倒的に規模の大きな河川である事が判ります。

即ち、濃尾平野とは木曽川から運ばれてきた大量の土砂が堆積して形成されたものなのです。

これは「濃尾傾動運動」といって、濃尾平野の西側ほど沈降し、東側はより上昇することで,平野部全体が西側へ傾く運動で、濃尾平野へ出た木曽川はしばらく西へ向かって流れ、笠松町付近から南下を始めています。

この運動は数百万年前から始まっていて、平均して毎年約0・5o程の速度で沈降しており、それは現在も続いているのです。

この事から何が言えるのか―

濃尾傾動運動のために下流に行けば行く程西へ偏り、互いが接近しているために、各河川は低い方へ向かって流れようとします。

つまり、木曽川の水は長良川へ、長良川の水は揖斐川へ流れ込む―といった具合です。

更に、濃尾平野の西には養老・伊勢湾断層があり,それを境に西側の養老山地側が上昇活動をしているのも重なって、揖斐川流域の住民は洪水の多発に悩まされ続けてきたのです。

今現在は、三川とも他の河川に一切負担をかけず伊勢湾まで流れ着いていますが、この木曽三川を巡る治水の攻防を紹介します。

先ず最初が、慶長13年〜14年(1608〜1609)に築かれた御囲おかこい堤」です。

御囲堤と輪中堤防

「御囲堤」は現在の愛知県犬山市から弥富市に至る木曽川左岸に、約48kmにわたって築造されたといわれる長大な堤防で、慶長12年(1607)に徳川義直が清洲城に入城した事で、木曽川を西国に対する防衛ラインの意味合いがありました。尾張平野をスッポリと囲む形でなので、「御囲堤」と呼ばれます。

その反面、木曽川右岸の美濃側には、本格的な河川堤防の築造を許されず、しかも尾張領への洪水を防ぐために、美濃国側の領主たちに「対岸美濃の諸堤は御囲堤より低きこと三尺たるべし」と、「御囲堤」に対し3尺(約1m)低い堤防しか築造してはならないという差別的治水政策しか施さなかったので、洪水は木曽川右岸の小規模な堤防を乗り越え、美濃国に屡々しばしば被害をもたらしました。

尾張を木曽川の洪水から守るために美濃を犠牲にした施策であったといえますね。

果たして、それ以降は美濃側だけが水害常習地帯となり,尾張側では殆んど水害がなくなっています。

「御囲堤」によって、美濃側の水害による被害は甚大を極めるようになりましたが、江戸時代も中頃の宝暦3年(1753)12月、「御手伝普請」として薩摩藩に木曽川長良川揖斐川の治水工事の命令が下りました。世に云う「宝暦治水」です。

宝暦治水

工事は大きく2種類に分けられ、1つは長良川の支流で揖斐川に流れ込む大槫おおぐれ長良川と洗堰で分ける工事、もう1つが「千本松原」でも有名な油島あぶらじま新田締切堤工事です。

前者が長良川揖斐川の分流工事に対して、後者は木曽川揖斐川の分流工事でした。

ところが、この「宝暦治水」工事は見事大失敗に終わります。

皮肉にも、堤防完成後に洪水の回数が以前よりも寧ろ増大してしまったのです。

これは、完成した堤防が河床への土砂の堆積を促進させてしまったためでした。

でも、仕方なかったのです。ここまでが当時の日本の技術の限界だったからです…

その後、明治になって、ようやく水害との闘いに終止符を打つ瞬間がやって来ました。

木曽三川公園に建つヨハネス・デレーケ像

“日本の近代治水の父”ヨハネス・デレーケ(Johannis de Rijke)による「木曽三川改修計画」です。

デレーケは、明治6年(1873)、お雇い外国人として内務省土木局に招かれて来日。明治10年(1877)より木曽三川改修計画を担当します。

翌11年(1879)には木曽長良揖斐の三川をはじめ支派川の調査を実施します。

この調査に基づいて起草したのが『木曽川下流概説書』と呼ばれるもので、

その中でデレーケは水害多発の原因を木曽三川をはじめとする諸川の流出する土砂の堆積にあると指摘し、またその要因として河川流域における樹木の伐採によって引き起こされていると述べています。

「川を治めるにはまず山を治めるべし」―

日本人に森林伐採をやめさせ、植林を勧めるなど、環境保護の大切さを教えたのです。

こうした治山治水の思想のもと、デレ−ケは最後まで上流部の水源地砂防の重要性を強調。これが、“近代砂防の祖”と称せられる由縁なのです。

やがて、明治20年(1887)工事が着工、明治45年(1912)3月に完成しています。

現在、木曽三川公園にはヨハネス・デレーケの銅像が建ち、私たちが間違った方向に行かないよう見守ってくれています。

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参照)大垣城―「肝心」な場所―→

※(参考)木曽三川の洪水と治水の歴史(「長良川河口堰管理所」−長良川河口堰資料室、より)→
※(参考)木曽三川治水の歩み(「木曽川下流河川事務所」−木曽三川資料室、より)→
※(参考)木曽三川治水事業、明治大改修の建造物と輪中(「趣味と家族をつなぐ道」−地域の歴史&観光名所、より)→
※(参考)福原輪中と木曽三川の治水の自然史的背景について(「SeaMountの雑記と書庫」より)→
※(参考)濃尾平野・輪中の歴史(「お米の学習」−地域による米作りの歴史、より)→
※(参考)輪中が典型発達した乱流河川の低湿平野における洪水−1976年台風17号による長良川の破堤氾濫など(防災基礎講座「災害はどこでどのように起きているか」−独立行政法人防災科学技術研究所、より)→


posted by 御堂 at 03:34 | Comment(2) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

「チャールズ」は不吉?

イギリスのチャールズ皇太子(Charles,the Prince of Wales)は、将来、国王に即位する際に、名前を「チャールズ(Charles)」ではなく「ジョージ(George)」に変更することを希望しているのだそうです。

即位後「ジョージ国王」に 英皇太子、改名を希望(共同通信2005-12-24)

「チャールズ」という国王は不吉って事?

ちなみに、このまま皇太子が王位を継承するとチャールズ3世となるわけですが、「チャールズ」を冠した先代のうち、チャールズ1世は清教徒(ピューリタン)革命でオリヴァー・クロムウェル(Oliver,Cromwell)によって処刑されるというイギリス王室で唯一の国王なんですよね。

チャールズ2世は共和派の中の王党派の支持によって王政復古を果たしますが、旧教支持派で、イギリス国教会と対立。しかも、オランダとの間で英蘭戦争が起こり、財政は常に火の車状態となり、ついには軍事費以外の国庫支出の一時停止(=事実上の財政破綻)を宣言して国内経済を大混乱に陥らせました。

このように王室の歴史の中で「チャールズ」を名乗った国王が不運な生涯を送った例が多く、チャールズ皇太子としては忌み嫌ったのでしょうね。

では、何故「ジョージ」なのかというと、

チャールズ皇太子のフルネームは「チャールズ・フィリップ・アーサー・ジョージ」(Charles Philip Arthur George)。

「ジョージ」は国民から最も親しまれた国王の1人とされる祖父のジョージ6世に敬意を表したもので、皇太子は、それを引き継ぐジョージ7世を熱望しているようです。

過去にもイギリス国王が改名した例はあって、ヨーク公アルバートが即位してジョージ6世と名乗ったというのが一番近いところ―

ちなみにこのジョージ6世が前述したように現国王エリザベス2世の父であり、チャールズ皇太子の祖父にあたる人物です。

改名については、即位後に開かれる枢密院で、新国王がどう名乗るかを決めることに決まっていて、決定に際し議会や首相の同意は必要ないという事です。

posted by 御堂 at 02:21 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

清水の舞台の寿命が短くなるワケ!

2年前に張り替えられたばかりの清水の舞台。小さな窪みが目立つ

京都でもっとも観光客が訪れている場所といえば、清水寺(京都市東山区)でしょうね。

しかし、ここ20年くらいで「舞台」(国宝)の床板に窪んだ箇所が目立ち始め、寺側は頭を抱えているという。

清水の「舞台」は広さ190uで、縦5・5m、横0・3m、厚さ0・1mの檜(ひのき)板約500枚が敷き詰められている。15〜20年ごとに張り替えられ、最近では平成16年(2004)に張り替えられたばかり―

ところが、再び直径1p程の窪みがあちこちで目立つようになってきたそうです。

しかも、今まで以上に深い窪みが―

原因はどーやら、女性観光客の履くハイヒールとみられます。

檜(ひのき)板は結構軟らかな板材なんですが、雨が降って水を含むと、さらに床板が軟らかくなり、へこみがひどくなるのだとか―

近年になって、ハイヒールよりさらにヒールが細い「ピンヒール」を履く女性観光客が増え、余計に深い窪みが目立つようになったそうです。

寺側は、ヒールを履いた人のみを排除するなど、ファッションへの規制はできないし、国宝なので舞台にシートを張る訳にもいかない。モラルに訴えるしかない、と頭を痛めているようです。

また、傷みが激しくなると、床板の張り替え時期(15〜20年)を早める措置の必要性もでてくると心配しています。

うぅーん、要はその場所に訪問しようとする際の最低限のモラルに気付いているのかいないのか、の問題でしょうね!

まぁ、京都の場合、とくに東山方面は上って、下って…ですから、ヒールではなく、せめてパンプスぐらいで行動しましょう!

以前、女性の友人と散策したとき、ヒールを履いていたその女性があの辺りの坂を下る途中に、石畳と石畳の間にヒ−ルの先が引っ掛かって、ねんざしちゃった事があります…気をつけましょ!

posted by 御堂 at 19:30 | Comment(4) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

京の通り名

京都の街並みは、中国の首都機能の都城制(条坊制)を摸倣した「平安京(城)」の名残を現在もとどめており、東西と南北が碁盤の目のように整然と区割りされています。

両方の通りの名を言えば交差する地点がわかるので、住所も町名ではなく、通りの名前で表しています。

交差する地点から北へ向かう事を「あが」、南へは「さが」、東へ向かう事を「東」、西へは「西入ル」と言っています。

例えば、四条通と河原町通が交差する地点は、河原町通側から見れば「河原町四条」、四条通から見れば「四条河原町」となります。

また同じように、丸太町通と河原町通が交差する地点では、「丸太町河原町」、「河原町丸太町」って感じになります。

※但し、店舗によっては、作為的に住所に変化を付けてはるトコも若干あったりします。例えば、店の場所は明らかに四条通から北に1軒ほど「上ル」場所に立地していて、「●●通四条上ル」でええんちゃうん?」と思うけど、実際にこの店舗の住所表記は「●●通三条下ル」としてはるんですね。(どんだけ「下る」ねん!って感じやけど…笑)

…なので、中には作為的に住所を変化させてはるトコもあり、住所表記だけを頼りにしない事も京都を散策する場合には頭の隅に入れておきましょう!

そんな京都の街並みですが、京都以外の方でも迷子にならない位、覚え易い歌を幾つか紹介したいと思います。

まる たけ えべす  おし 御池おいけ 

あね さん 六角ろっかく たこ にしき 

 あや ぶっ たか まつ まん 五条ごじょう 

雪駄せった ちゃらちゃら うおたな

六条ろくじょう 七条ひっちょう とおりすぎ

八条はっちょう こえれば 東寺道とうじみち

九条大路くじょうおおじで とどめさす
これは地口歌じぐちうた(=語呂ごろ合わせをもじったもの)といって、正式な譜面はなく、生活や遊びの中から口伝えで広まっていったわらべ歌です。

例えば、子供が遊びに行った帰りに、道に迷わぬように、「九九」を覚えるような感じで親から子に代々謡い継いだと言います。

京都人でも若い世代のそのほとんどが知らないし、謡えもしない人が増えてきましたね、嘆かわしい話です。

それに比べて、年配の方々は皆さん、誰でもすぐに口遊む事ができる歌と言えるでしょう。京都人である“証”とも言い切れる代物です。

僕自身、子供の頃に母や祖母が謡っているのを聴いてるうちに自然に覚えちゃいましたからね…(笑)

さて、最初に挙げたのは、東西の通り名の歌で丸竹夷まるたけえべすと言います。それぞれを解説しますと、

  • 丸=太町まるたまち通…平安京期の春日小路

  • 竹=屋町たけやまち通…平安京期の大炊御門大路

  • 夷=えびすがわ通…平安京時期の冷泉小路

  • 二=じょう通…平安京時期の二条大路

  • 押=小路おしこうじ通…平安京時期の押小路

  • 御池=御池おいけ通…平安京時期の三条坊門小路


  • 姉=小路あねやこうじ通…平安京時期の姉小路

  • 三=さんじょう通…平安京時期の三条大路

  • 六角=六角ろっかく通…平安京時期の六角小路

  • 蛸=薬師たこやくし通…平安京時期の四条坊門小路

  • 錦=小路にしきこうじ通…平安京時期の錦小路


  • 四=じょう通…平安京時期の四条大路

  • 綾=小路あやのこうじ通…平安京時期の綾小路

  • 仏=光寺ぶっこうじ通…平安京時期の五条坊門小路

  • 高=たかつじ通…平安京時期の高辻小路

  • 松=まつばら通…平安京時期の五条大路

  • 万=寿寺まんじゅじ通…平安京時期の樋口小路

  • 五条=五条ごじょう通…平安京時期の六条坊門小路


  • 雪駄(→履き物の雪駄せった)=雪駄せきだ屋町=現揚梅ようばい通…平安京時期の揚梅小路

  • ちゃら(→鍵の擬音)=鍵屋町かぎやまち

  • ちゃら(→貨幣の擬音)=銭屋町ぜにやまち

  • 魚の棚・六条=六条魚棚ろくじょううおのたな通=現六条ろくじょう通…平安京時期の六条大路


  • 七条=七条しちじょう通…平安京時期の七条大路

  • 八条=八条はちじょう通…平安京時期の八条大路

  • 東寺道=東寺道とうじみち…平安京時期の九条坊門小路

  • 九条大路=九条くじょう通…平安京時期の九条大路

といった感じで、京都御苑(=昔の大内裏)の南の端(=丸太町通)から平安京(城)の玄関口の羅城門があった九条大路(=九条通)までの26の通りを謡っています。

いつ頃できたのかというと、京都町奉行所の与力だった神沢貞幹(杜口)が書いた随筆集翁草おきなぐさ(安永元年=1772=刊)や三浦庚妥の著書便用謡びんよううたい(享保8年=1723=刊)に出典の記述が見られますが、なかでも『便用謡』は、江戸時代以降、町会所で使われていただろう教本で、九九や日本の地名、社会生活上のマナーなど、実用的な知識に節をつけたうたい曲が収載されており、その中の九重ここのえこそ、「京の通り名」のオリジナルであろうと云われています。

この事から、室町末期あたりから貴族たちばかりではなく、広く武家や町衆に普及し始め、必須の教養であったと考えられ、江戸時代の中頃には「丸 竹 夷 二 押 御池 … 」とメロディやリズムを付けて謡う覚え方が常識になっていたようです。

以上が「丸竹夷」の概要ですが、正直、僕が祖母から、母から聴かされていたのは違うバージョンでした。

例えば、「〜魚の棚」までは同じなんですが、それ以降、

六条 三哲さんてつ とおりすぎ

七条 こえれば 八 九条

十条じゅうじょう 東寺で とどめさす

というものでした。こちらを考えてみると、

  • 六条=六条通

  • 三哲=三哲さんてつ(※1)=現塩小路しおのこうじ通…平安京時期の八条坊門小路

※1 京都タワーと京都駅の間の通りのことです。20年ほど前の市バスに乗車された方なら「三哲」のバスターミナルで聞き覚えがありますよね!

と下って、また

  • 七条=七条通

に上がり、

  • 八条=八条通

  • 九条=九条通

  • 十条=十条通

と来て、また八条通と九条通の間に建っている東寺に戻っています。深く考えて、

  • 東寺=東寺口?

とも考えたけど、東寺口は羅城門の近くであり、西国街道の出発点だから今で言えば、九条新千本にあたり、やはり戻らなきゃならない。

さらに、十条通は第二次大戦後にできた通りなので、だったらこの歌はいつ頃成立した歌なんだろうとの疑問が頭の中によぎります。

そう考えた時、一番最初に挙げた「丸竹夷」のバージョンはこうしたわらべ唄を監修する方々が伝統を無視して勝手に現代風に歌詞をアレンジしちゃったものとみてよいでしょう!(←時代は進んでるのだから、歌詞を変化させてもいいじゃない、という発想でしょうね。しかしながら、こうしたわらべ唄は民俗芸能といってもいいのだから、“温故知新”じゃないけど、旧き人から新しき人へ“口伝え”しながら残していくのが“良き伝統”と言えるのに、わざわざ譜面にしなくてもいいやん!って感じ…何だか、馬鹿にされ、見下された気分になります!)

さて次は違った方向から見る事にしましょう―

てら 御幸ごこ 麩屋ふや とみ やなぎ さかい 

たか あい ひんがし 車屋町くるまやちょう

からす 両替りょうがえ むろ ころも

新町しんまち 釜座かまんざ 西にし 小川おがわ

あぶら 醒井さめがいで 堀川ほりかわの水
   
葭屋よしや いの くろ 大宮おおみや

まつ 日暮ひぐらしに 智恵光院ちえこういん

浄福じょうふく 千本せんぼん はては西陣にしじん
これは逆に南北の通り名の歌で寺御幸てらごこと言います。それぞれ解説しますと、

  • 寺町=てらまち通…平安京時期の東京極大路

  • 御幸=御幸ごこうまち

  • 麩=麩屋ふやちょう通…平安京時期の富小路

  • 富=小路とみのこうじ

  • 柳=馬場やなぎのばんば通…平安京時期の万里小路

  • 堺=さかいまち


  • 高=たかくら通…平安京時期の高倉小路

  • 間=之町あいのまち

  • 東=洞院ひがしのとういん通…平安京時期の東洞院大路

  • 車屋町=車屋町くるまやちょう


  • 烏=からす通…平安京時期の烏丸小路

  • 両替=両替りょうがえまち

  • 室=むろまち通…平安京時期の室町小路

  • 衣=ころもだな


  • 新町=新町しんまち通…平安京時期の町尻小路

  • 釜座=釜座かまんざ

  • 西=西洞院にしのとういん通…平安京時期の西洞院大路

  • 小川=小川おがわ


  • 油=小路あぶらのこうじ通…平安京時期の油小路

  • 醒井=醒ヶ井さめがい

  • 堀川=堀川ほりかわ通…平安京時期の堀川小路


  • 葭屋=葭屋よしやまち

  • 猪=いのくま通…平安京時期の猪隈小路

  • 黒=くろもん

  • 大宮=大宮おおみや通…平安京時期の大宮大路


  • 松=松屋町まつやまち

  • 日暮=日暮ひぐらし

  • 智恵光院=智恵光院ちえこういん


  • 浄福=浄福じょうふく

  • 千本=千本せんぼん通…平安京時期の朱雀大路

  • 西陣=西陣にしじん

といった感じで、平安京(城)の東の端だった東京極大路(=寺町通)から洛陽城域(平安京(城)は右京区域を長安城、左京区域を洛陽城と呼んでいました。しかし右京区域は湿地帯が多く、都市機能が発達できなかったので、田畑へと様変わりし、そのため、左京区域が平安京(城)の区域となり、洛陽城と呼んでいた所から、内側を洛中、外側を洛外=洛北・洛南・洛東・洛西と称するようになった)の西の端だった千本通(=昔の朱雀大路)までを謡っています。

以上の歌はよく知られた方ですが、その他にも、

ぼんさん頭は 丸太町まるたまち

つるっとすべって 竹屋町たけやまち

水の流れは 夷川えべすがわ

二条にじょううた 生薬を

ただでやるのは 押小路おしこうじ

御池おいけで出うた あねさん

ろく銭もろうて たこ買うて

にしきで落として かられて

あやまったけど ぶつ々と

たかがしれてる どしたろ
という歌で「坊さん頭は丸太町」という子供たちが親しみやすく覚えやすいように作られた歌もあります。(ちなみに、最後の「松どしたろ」は、まどす=京ことばで、弁償する、という意味です)

ここまでに挙げた3つの唄で何か気付いた点はありませんか?

実は、3つの唄は共に唄のリズムが「8・5調」の旋律になっているんですよね。

例えば、「まるたけえべすに/おしおいけ」「てらごこふやとみ/やなぎさかい」「ぼんさんあたまは/まるたまち」という感じで同じように「8・5調」で区切られ、分かり易くなっているんですよ。

最後にもう1つ、

一条いっちょう戻り橋 二条の薬屋

三条のみすや針 四条芝居

五条の橋弁慶 六条の本願寺

七条停車場ひっちょうのそばみせ 八条はっちょうのおいも掘り

九条羅生門らしょうもんに 東寺の塔
という感じの歌ですが、これは一条いっちょう戻り橋」という歌で、東西の通りの中で代表する名所や、事跡、町の暮らしを唄っています。

まずは一条通。一条戻り橋が有名です。

この橋は堀川一条に架かる小さな橋で、平安時代初頭の延喜18年(918)、文章博士もんじょうはかせであった三善清行の葬列がこの橋を通りかかった時、紀伊熊野で修験道の修行をしていた息子の浄蔵八坂の塔で有名!)が火急の事に京に舞い戻り、橋の上で父親の柩と出会い、浄蔵が読経を唱えると、柩の中が動き、父の清行が生き返って対面、2人が話すのを人々が見たという逸話から、“死者が戻る橋”=「一条戻り橋」と呼ばれるようになりました。

二条通では、今でも多くの薬屋さんが多く並んでいます。

三条通では、江戸時代から京みやげの代表(今現在では「よーじ屋」が人気ですが…)であった「みすや針」の店が有名です。裁縫には欠かせませんもんね。(先日店の前を通ったら、ビル経営ななさっておられたのですが、店頭販売からは退かれておられました。裁縫とかしなくなったからかなぁー寂しいです)

四条通では、阿国歌舞伎発祥の地として有名で、現在でも唯一残っている顔見世興行の南座が繁盛しています。

五条通では、もちろん弁慶と牛若丸の故事が有名ですね。(実は本当に対決した五条大橋や通りは現在の松原通なんですけどね 笑)

六条通では、河原町通に面する渉成園から烏丸の「お東さん」東本願寺、堀川の「お西さん」西本願寺まで門前町筋として今も栄えています。

七条のそば店は、八条や九条の名産ねぎや京野菜の運搬の中継地として、休憩のため一服する場所として蕎麦そば店が軒をつらねていたそうです。

そして最後の九条通では、京の玄関口だった羅城門らじょうもんと東寺の五重塔が有名ですしね。

いかがですか?憶えておくとホンマ便利ですよ!時代が進むにつれ、通りが無くなったり名前が変わったり、また謡いやすいように歌詞が変わったりもしてますが、肝心なのは伝わっていく事なので、自分が覚えやすいメロディやリズムで覚えていくと案外、耳になじむんじゃないでしょうか。京都に来た際には是非口遊んでみて下さい!

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参照)寺御幸のわらべ唄(京都銀行のサイトから)→

   

posted by 御堂 at 23:38 | Comment(3) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

「信濃の国」と分県騒動


  1. 信濃の国は十州じっしゅうに   境連つらぬる国にして
    そびゆる山はいや高く   流るる川はいや遠し
    松本伊那佐久善光寺   四つの平は肥沃の地
    海こそなけれ物さわに  よろず足らわぬ事ぞなき


  2. 四方よもに聳ゆる山々は   御嶽乗鞍駒ヶ岳
    浅間は殊に活火山    いずれも国の鎮めなり
    流れ淀まずゆく水は   北に犀川千曲川
    南に木曽川天竜川    これまた国の固めなり


  3. 木曽の谷には真木茂り  諏訪の湖には魚多し
    民のかせぎも豊かにて  五穀の実らぬ里やある
    しかのみならず桑採りて 蚕飼こがいの業の打ちひらけ
    尊きよすがも軽からぬ  国の命を繋ぐなり


  4. 尋ねまほしき園原そのはらや   旅のやどりの寝覚ねざめの床
    木曽のかけはしかけし世も  心してゆけ久米路橋
    くる人多き筑摩の湯   月の名に立つ姥捨おばすて
    しるき名所と風雅損みやびおが   詩歌に詠てぞ伝えたる


  5. 旭将軍義仲も      仁科の五郎信盛も
    春台太宰先生も     象山佐久間先生も
    皆此国の人にして    文武のほまれたぐいなく
    山と聳えて世に仰    川と流れて名は尽ず


  6. 吾妻はやとし日本武やまとたけ   嘆き給いし碓氷山
    穿うが隧道トンネル二十六     夢にもこゆる汽車の道
    みち一筋に学びなば   昔の人にや劣るべき
    古来山河の秀でたる   国は偉人のある習い
長野県民なら誰でも口遊くちずさめる「信濃の国」という県の歌があります。平成10年(1998)2月の長野オリンピックの開会式で参加した各国選手団が入場する際、その国に因んだ、所縁のある楽曲が演奏されたのですが、日本選手団が入場する際、なんと、この「信濃の国」が奏でられたのです。

すると、会場から大合唱の嵐が巻き起こりました。長野県民の中では、「君が代」を知らない人はいてもこの「信濃の国」を知らない人はいないだろうという程県民に浸透している歌で、小学校入学と同時に教わるのだそうです。県外でも長野県民が集えば必ずと言っていい位「信濃の国」が合唱されると云います。

元々「信濃の国」は長野師範学校の記念運動会で女子部生徒のお遊戯用として作られたのですが、後になって長野師範学校の校歌になり、昭和43年(1968)に長野県歌に指定されました。

この「信濃の国」がある時期、現在の長野県を分断の危機から救った出来事があったのです。それが昭和23年(1948)に起こった分県騒動です。

信濃国は一般に地域を東信・北信・中信・南信の4地域に区分されます。

当初、明治4年(1871)の廃藩置県直後は東信4郡(佐久・他県・更級・埴科)・北信2郡(高井・水内)を併せた長野県と、中信4郡(安曇・筑摩)・南信3郡(諏訪・伊那)・飛騨国全域3郡を併せた筑摩県に分かれていました。

ところが、筑摩県は明治9年(1876)に廃止され、飛騨3郡が岐阜県へ、中信2郡(安曇・筑摩)、南信2郡(諏訪・伊那)が長野県に編入され、現在の長野県が成立しました。それは旧来の信濃国全体を統合するものであり、この時歴史上初めて信濃国は統一されたのです。

しかし、中信ではしばしば木曽が独立した地域として扱われ、南信は通常、諏訪と伊那、さらに伊那は上伊那と下伊那とに細分されます。更級・埴科両郡は、犀川以南の善光寺平(長野盆地)南部から、上田平(上田盆地)への回廊地帯を占めていますが、長野と上田の両方とも結びつきが強く、善光寺平の篠ノ井・川中島地区(更級郡)と松代地区(埴科郡)が長野市に編入されて以降も残ったこの地域はしばしば東信に含まれます。

まさに、その実態は4つの地域からなる“信濃合州国”というべきでしょう。

さらに、元筑摩県の県庁があった松本の長野に対する対抗心は強烈なものでした。以後、幾度となく、松本では長野県からの分県運動、あるいは県庁の松本属庁請願運動が湧き起こります。東信・北信を代表する長野と中信・南信を代表する松本との対立という構図です。

そして、この分県論争の最も紛糾したものが、昭和23年(1948)3月の県の定例議会会期中に起こります。

県議会において分離賛成派の南信選出議員と反対派の北信選出の議員の主張が激しく対立し、県議会の定数(北信30・南信30の計60名)のうち、北信側に欠員が1名あったため、議決に持ち込めば南信側が勝つという状況が生まれたのです。賛成派30名、反対派29名という均衡ですね。

県政は大きな危機を迎えました。3月19日、いよいよ本会議での採決ということになり、北信側は議事の引き延ばし戦術を図り、議場は大混乱となりました。

一方で、聞きつけた大多数の長野市民が県庁を囲み、分県反対を呼び掛けました。やがて議会が開会し、議事が進んでいきます。

そして、いよいよ採決かという時、傍聴席から誰が指揮するまでもなく「信濃の国」が唱われ出したのです。

涙ぐみながら合唱する人たちの声―それはやがて、分離賛成派も反対派も加わって議場全体に広まる大合唱となります。

それが機縁となって採決は延期され、結果的に分県案は廃案となりました。しかし、「信濃の国」の大合唱がなかったら現在の長野県は2つに分かれていたかもしれないんですよね。「信濃の国」は長野県民にとって心の拠り所と言っても過言じゃないと思うのです。

 

つい先日の事です―

夏の高校野球の長野代表は創立100周年の年に見事、県の代表になったという県立松代高校だったのですが、その初戦、倉吉北高校(鳥取)との試合で、応援団が陣取るアルプス席からなんと!「信濃の国」を演奏してましたね。やはり、郷土を代表する音楽=曲なんだ…ってのを改めて感ぜずにおれません。

※(補追)
上記の映像は平成20年(2008)の第80回センバツに出場した長野日大と平成22年(2010)の第92回夏の大会に出場した松本工業の「信濃の国」での応援の様子です

― ◇ ◇ ◇ ―

今から26〜27年前、僕の住む宇治市の高校(宇治=現、立命館宇治と東宇治です!)が2年連続で夏の甲子園に出場しました。

私は違う区域の高校だったのですが、両校とも試合の当日には応援しに甲子園へ観に行ってました…

その時、♪宇治のなー 茶音頭〜♪って感じで、「信濃の国」のようにご当地・宇治の人だけが知っている「宇治音頭」のメロディが流れてきたんですね。アルプススタンドにいる応援団のブラバンでの演奏でした!これは流石に地元の人間としては感動モノです。

この「宇治音頭」、僕が小さい頃は町内会での盆踊りは勿論の事、小学校や中学校の運動会でも踊ってました(祖母も、母も、叔父も、従兄弟も…家族で一緒に!笑)

最近では、宇治の観光協会に問い合わせても「宇治音頭」なんて知らない?」と答えが返ってきます。知らない世代ばかりが勤めてはるのでしょうね。

すごく寂しいデス…(T-T)

それに比べたら、「信濃の国」でいつでもまとまれる長野の人たちって羨ましいなぁーという気がします。

posted by 御堂 at 04:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

残念石―大坂城になれなかってん!―

“残念石”って聞いたことありますか―

とくに有名なのが大阪城天守閣の入り口である大手門をくぐって正面に据えられた巨石で、この石は、豊臣氏が滅んだ大坂夏の陣後、徳川幕府の威信をかけた将軍秀忠の号令の下、元和6年(1620)から寛永6年(1629)まで3期にわたる工程で大坂城を再建した際に石垣として使われた御影石のうち、用材として使われなかった、すなわち石垣になれなかったので“残念石”と呼ばれます。

しかし、そうした“残念石”が今も多数残っている場所があります。香川県の小豆島です。波止場には横倒しになった墓標のように、巨石が数十も並んでいます。小豆島は良質の花崗岩が採れる山が港に近く、いかだなどによる海上輸送が容易だったようで、大坂城の巨石を表面露出面積で見ても、ベスト10の半数を小豆島産が占めているのです。

― ◇ ◇ ◇ ―

元和6年(1620)、小豆島で西国の大名が採石を命じられ、小海、小瀬原・千軒(土庄町)、岩谷(内海町)など20か所以上の丁場(採石場)で御影石を切り出し、船で大坂へ運びました。

このうち、小海は豊前小倉の細川忠興・忠利父子、小瀬原・千軒は肥後熊本の加藤忠広が分担。工事を請け負った大名は担当の証として、石に担当を示す△や◎、田の刻印や「八百九内」などの刻文を残しています。

寛永6年(1629)、足かけ10年に及ぶ築城工事が終わりました。島に築城の終わりの知らせは突然、届いたのでしょう。割り出された石はいつでも船に積み込める状態で波打ち際に佇んだまま放置され、それ以外にも島のあちこちに点在しました。

「残石を動かすな」との命令が幕府より下ります。大名の勝手な持ち出しは許さない、石は公儀=幕府のものだというのです。

結果、小海に1236個、千軒付近に920個、その他、島の至るところ、合わせて2815個の石が残されます。(「小豆島石目録」)

小海の庄屋・三宅家が寛文11年(1634)、細川家に対して再三、撤去を願い出た訴状が今に残っています。

残石八百九つ私御年貢地之畑ニ御上ケさせ被成 今ニ御座候ニ付畑壱町余之御年貢私弁 毎年上納仕候ニ付迷惑ニ奉存
(残石809個が私の年貢地の畑にあります。今に至るまで1町余になるその広さ分の年貢も私が納めさせられ、迷惑に存じます)
訴えは、その後代々、少なくとも3回に及びます。しかし、動かしてもいいと許可が出たのは明治15年(1882)、明治政府になってからでした。石は250年以上も放置され、厄介者扱いされてきたのです。

また、石の切り出しには島民が徴用され使役させられました。当時の島の人口は1万9000人ほど。働き手の大半が駆り出されます。

巨石の切り出しは命がけの作業でした。島の東部・岩谷の「八人石」には、悲しい伝承が残ってます。

「八人石」とは長さ6・5mの大小2つの岩で、ある時、9人がかりで石を割りかけ、休んでいると「般若出よ」と声がしたので、般若経を信じる1人が傍を離れた瞬間、石が割れ落ちて横倒しになり、下敷きになって8人が犠牲になったといいます。

明治15年(1882)、せめて防波堤代わりにと一部の石が集められ、防波堤代わりとなります。

― ◇ ◇ ◇ ―

現在、土庄町と香川県は小海の波止場一帯に「大坂城残石記念公園」を整備。5つの棟があり、残石棟では丁場の分布や刻印を紹介。切り出し棟では石を割るげんのう、加工棟では細工用のみを展示。運搬棟では巨石を運ぶ「石曳図屏風」のパネルが並び、体験棟では石に絵や文字を彫り込めます。屋外には刻印のある“残念石”48個が並び、筏(縦9m、横4・5m)のほか、石を載せた修羅やそれを引っ張る轆轤ろくろ(木製のウインチ)が展示されています。

posted by 御堂 at 17:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

鹿児島に漂流した一人の外国人 Francisco de Xavier について

彼は天文18年(1549)7月3日に鹿児島に漂流し、日本にキリスト教を伝道した人物です。名前はフランシスコ=ザビエルと習った記憶があるでしょう。

しかし、その彼の名前について、古記録には「しびえる」「ジャビエル」「サベイリウス」との表記が見られます。現在も「ザビエル」「ザベリオ」「シャヴィエル」など様々に表記されています。

また、彼の出身国スペインでも「Xavier」「Javier」両様の綴りがあてられ、ともにハビエルと表音されます。彼はスペイン北東部ピレネー山麓のナバーラ出身でバスク人の血をひくので、「Xavier」はバスク・ポルトガル読みでは「シャヴィエル」となります。

この事はよく留意しておきましょう。教科書ではまだ「ザビエル」と習う機会の方が多いようですが、歴史学では「シャヴィエル」と覚える傾向になりつつあるからです。

posted by 御堂 at 02:54 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

大学ノート

『日刊ゲンダイ』のネット版「ゲンダイネット」の5月20日付「街中の疑問」の記事で「大学ノートの“大学”って何なの?」って記事を見つけました。

「大学ノート」―よく使ってますが、何で「大学ノート」呼ぶのかは考えた事ありませんでしたよね。

全日本紙製品工業組合が仰るのには「厳密な決まりはな」くて、「大学ノートは一般的に使われている普通ノートの総称で」で、「固有の商品名ではなく、商標登録もされてい」ないんだとか―

それに、「どの大きさやどういう形式のものを大学ノートと呼ぶという決まりもなく、B5判やA4判といったJIS規格に則った横罫のノートをそう呼ぶことが多い」んだそうです。

市販されているノートには「普通ノート」「学習帳」「ファンシーノート」の3種類に大別され―

「普通ノート」はB5、A4、A5、A6、B4、B6判などの種類があって、紙の枚数が30枚と決まっている。

「学習帳」は表紙が多色印刷で、「国語」や「算数」など、科目を明記したものが該当する。(♪ジャポニカ学習帳、ってCMのフレーズが思い浮かぶ(笑)←小学校低学年ではかなり使ってましたっけ!)

「ファンシーノート」は表紙に流行のデザインやキャラクターを使ったもので、紙自体ににデザインやキャラクターを使ったノート(←仮面ライダーノートとか、キャンディキャンディノートとかあったっけ!笑)も存在する―

など、ほとんどのノートがこの3種類に当てはまるのだそうで、「大学ノート」は「普通ノート」の部類になるそうです。

では何故、「大学ノート」と呼ばれるのか?

一番有力な説は、明治時代の初期、東京帝国大学(現東京大学)の校門の前にあった文房具店で扱っていたノートが学生の間で人気を博し、一般にも広まっていきました。

当時、商店などでよく使われていた縦罫の「大福帳」と区別するために、「大学ノート」と呼び始めたのだそうです。

「大学ノート」の“大学”は東京大学ってわけですね!

posted by 御堂 at 01:17 | Comment(6) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

女系天皇

『京都新聞』5月14日朝刊に掲載された記事から、京都女子大学教授・瀧浪貞子氏の「皇位継承要件は柔軟に」という記事を読みました。

小泉首相によって、厳格なる皇室が清掃の道具に成りかねなかった「女性天皇」問題。とりあえずは秋篠宮妃紀子妃殿下の懐妊で一時的にトーンダウンしましたが、小泉流の「国民が真実を知らない、理解していないうちに決定を下す」手法の政治に待ったをかけたのは良かったことですね。

瀧浪氏は論議の焦点が「『女性天皇』(=愛子内親王)容認論から、その次の世代、すなわち愛子内親王の子ども(男女にかかわらず)を天皇として認めるか否かという「女系天皇」問題に移っている」と指摘しています。

「女系天皇」―天皇の血脈を父方ではなく、母方を通して受け継ぐことを意味していますが、過去にそういった事例はありません。

前近代までの朝廷や皇室は「先例主義」が常の時代なので、新しき事をしようものなら、異端視扱いです。(ただし、建武政権期の後醍醐天皇が政治理念として語ったとされる「今の例は昔の新儀なり。朕が新儀は未来の先例たるべし」(『梅松論』「天下一統の事」)のようなケースもあったのは事実ですが…そんな後醍醐天皇の所業について「主上御謀叛」と記した公家の感覚はまさに「先例主義」ですよね)

ところが、かつて「女系天皇」が誕生したかもしれない状況がありました。

それは、奈良時代末期の宝亀2年(771)正月、光仁天皇の皇子である他戸(おさべ)親王が皇太子に立てられます。

この他戸親王は、天智天皇の孫である光仁天皇と聖武天皇の皇女である皇后の井上(いがみ)内親王との間に生まれた皇子で、前代の同じ聖武天皇の皇女である孝謙・称徳天皇が未婚であったため、聖武天皇の血脈を受け継ぐ者がいなくなったので、窮余の一策として他戸親王に白羽の矢が立てられたのです。

これってはまさに、云うところである「女系」皇太子の擁立ですよね。

その他戸親王へ将来譲位するための中継ぎ的役割して光仁天皇が即位したに過ぎなかったのですが、政争によって他戸親王は廃太子されてしまい、即位は実現しませんでした。(ちなみに、他戸親王に代わって擁立され、即位したのが山部(やまべ)親王、後の桓武天皇になります)

この結果、「女系天皇」は避けられたのですが、聖武天皇(すなわち天武天皇)の系統は断絶してしまいました。

親から子へ、子から孫へという直系相続は今でこぞ普遍的なものと思われがちですが、実は近代的な発想・思想で、皇位継承を直系相続に規定したのが明治期に成立した皇室典範です。

今上天皇は18世紀末、閑院宮系から即位した光格天皇の7代目の直系にあたります。これだけで見ると、直系相続がが当たり前の感じですが、平安時代の初頭、前述した桓武天皇やその皇子である平城天皇・嵯峨天皇・淳和天皇の御世は専ら兄弟間の相続でしたし、平安時代後期の白河法皇から後鳥羽上皇までの院政期は父子間、兄弟間、叔父や甥の間柄など…状況によって様々なケースが見られます。

直系相続に拘らず、皇族の中から広く候補者を選んできたことが、今日まで天皇家が継続してきた最大の要因で、それこそが「万世一系」の実態であり、日本の王権が存続し得た1つの知恵だと述べられている。

まさに「先例主義」の賜物と言えますよね。

そう考えると、「男系の男子が継承する」と規定したがために、極めて制約の強いものとなった皇室典範こそが悪法にみえてきます。

それならば、「継承(者)の要件は皇族であること以外に規定する必要はない」とする瀧浪氏の私見が妙に納得できる感じがします。

「瀧浪貞子氏 皇位継承要件は柔軟に」(「きょうと文化発信 ソフィア」『京都新聞』平成18年(2006)5月14日朝刊)


posted by 御堂 at 10:19 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

天平文化の創造者たち

国際観光都市=奈良、その多くは東大寺を、東大寺といえば金堂(大仏殿)や「毘盧舎那(びるしゃな)仏坐像」(大仏)を思い浮かべる事でしょう。

そうした奈良の代名詞的な意味合いを持つ大仏と深い関わりを持った人物を3人ピックアップします。

まずは、天平文化、なかでも仏像彫刻を代表する東大寺三月堂(法華堂)の不空羂索(ふくうけんさく)観音像の制作に関与した(←天平19年=747=正月に公麻呂が不空羂索観音像のために鉄20挺を要請している記述が『続日本記』が見られる)国中連公麻呂(くになか・の・むらじ・きみまろ)
という人物。

彼の祖父は国骨富(こくこつふ)という名の朝鮮半島の百済(くだら)の官人で、天智天皇2年(663)、百済の争乱を避けて日本に亡命し、大和国葛下(かつらぎのしも)郡国中村(奈良県)に居住したので、国中連姓を名乗りました。

また、大仏造営に対し黄金900両を献上した(←「陸奥國始貢黄金於是」:陸奥国より始めて黄金を貢ぐ、『続日本紀』天平勝宝元年=749=2月条→注:実際には天平21年)百済王敬福(くだら・の・こにきし・きょうふく)


彼は百済の義慈王の息子で日本に渡来してきた善光(禅広)王の曽孫にあたります。

「百済王(くだら・の・こにきし)」の姓は持統天皇から賜わったもので、王という特殊な姓の示すとおり、かつての百済を象徴する存在であったと思われ、百済系氏族の長的な地位(=三位相当)にあっようです。

桓武天皇の御世では、国母(高野朝臣新笠:たかの・の・あそみ・にいがさ)が百済系の和(倭)史(やまと・の・ふびと)であったため、桓武天皇に「百済王等者朕之外戚也」『続日本紀』延暦9年=790=2月条)と言わしめています。

そして、大仏造立の勧進をした(←「弟子らを率いて衆庶を勧誘」『続日本紀』天平15年=743=10月条)僧侶・行基


彼は河内国大鳥郡蜂田郷(大阪府堺市家原寺町)の渡来人の家に生まれます。

彼の父は百済系の王仁(わに)の後裔の西文氏(かわちのふみうじ)の流れを汲む高志才智(こし・の・さいち)、母も渡来系で蜂田古爾比売(はちた・の・くにひめ)といいます。

彼は畿内を中心に諸国を巡り、貧困救済や社会事業の推進に努め、(→その思いは現在、“仏教福祉”という概念で伝えられてる)恭仁(くに)京(京都府相楽郡加茂町)の建設や紫香楽(しがらき)宮(滋賀県甲賀市信楽町)の甲賀寺(最初の大仏建立予定地)の建設、大仏の建立などに尽力します。

以上挙げた3人がいずれも朝鮮半島から渡来した集団ゆかりの人々なのです。そう考えた時、奈良に都が栄えた―とくに天平という時代がいかにインターナショナルな要素を帯びていたかを垣間見る事ができますね。

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posted by 御堂 at 05:17 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

アンコール・ワットの落書き

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法隆寺(奈良県斑鳩町)東大門(国宝)の檜製の柱に「みんな大スき」と彫られた落書きがなされていました。完全な文化財保護法違反&器物損壊モノですね。

落書きは縦約60cm、幅約8cm。石のような硬いもので刻まれおり、文字の一部は柱を深くえぐっています。

東大門三棟造と呼ばれる珍しい様式で、五重塔や金堂を主体とする西院伽藍と夢殿を中心とした東院伽藍の間にあり、観光客らの往来が一番多い場所にあります。

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また、名古屋城(愛知県名古屋市)の東南隅櫓表二之門(共に国の重要文化財)にも人名など多数の落書きがあったようです。

東南隅櫓(見張りや武器貯蔵施設などに使われた所)では3階南側の柱2本に「かず」「みゆ」などの人名や相合い傘がコインのようなもので彫って書かれてあり、「2000年」という記述も残されています。

表二之門(正門から天守閣へ向かう際の主要な門。高さ約3・5mの木の扉と柱に鉄板が張られている)では左右の鉄製扉の左右に「メグ」「井下」など人名を中心に50文字以上が書かれてあり、文字の多くが大人の背丈より高い位置にあり、扉によじ登って、錆が付いた部分に書いたようです。

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更に、彦根城(滋賀県彦根市)の太鼓門櫓(国の重要文化財)の柱にも落書きが見つかったらしいです。

太鼓門櫓(天守に通じる最後の関門で、高さ8・2m、幅16・8m)を支える10本の柱(高さ約3・5m、直径約30cm)のうちの1本の柱の高さ約1・5mの位置に幅約7cm、長さ32pにわたって、「横」「井」の2文字と「一」のような横線が釘ようのもので引っ掻いた落書きが見つかりました。

― ◇ ◇ ◇ ―

ところで!

こうした落書き沙汰を耳にした時、ふとアンコールワット(カンボジア)の落書きを思い出さずにはいられません。

アンコールワットは12世紀(1140年頃)に建てられたヒンズー教の寺院で廃墟となっていた建物で、ポル・ポト政権時代には、基地と化していました。

このアンコールワットに、結構落書きが見られ、日本人の手による物が10数例も見つかっています。

当時のカンボジアは南天竺と呼ばれたようで、アンコールワットは、東南アジア一帯から仏教信者のメッカ的な聖地となっていて、仏像を奉納する習慣があったようです。

寛永9年(1632)、森本右近太夫一房という人物がこのアンコールワットを訪れました。彼の父・森本儀太夫一久肥後熊本城主加藤清正の家臣で飯田覚兵衛庄林隼人と並んで加藤家三傑(または三中老)と称された重臣でした。

右近太夫は、父・儀太夫の死後、清正の遺児・忠広の相続問題で家中で内紛が生じ、それに嫌気がさして寛永9年(1632)5月の加藤家改易以前の段階で肥前平戸城主松浦まつらに仕えたようです。

右近太夫は、熱心な仏教徒で、父・儀太夫の菩提を弔うために、噂に聞く祗園精舎ぎおんしょうじゃを訪れようと、寛永8年(1631)の暮れから同9年(1632)の初めにかけて朱印船に乗船して日本を旅立ち、明国経由でアンコールワットに辿り着きます。

松浦静山(第9代肥前平戸城主松浦清)が著した随筆集甲子かっし夜話』によれば、

清正ノ臣森本儀太夫ノ子宇右衛門(右近太夫)ト称ス…(中略)…此人嘗テ明国ニ渡リそれヨリ天竺ニ往キタルニ…(中略)…夫ヨリ檀特山ニ登リ祗園精舎ヲモ覧テコノ伽藍ノサマハ自ラ図記シテ携還セリ
とあります。

祗園精舎ぎおんしょうじゃ(正式名には(祗樹給孤独園精舎ぎじゅぎつこどくおんしょうじゃは、中インドのコーサラ国首都シュラーヴァスティー〔舎衛城:現ウッタル・プラデーシュ州シュラーヴァスティー県〕にあった精舎(伽藍・寺院)で、釈迦が説法を行った場所であり、古代インド、釈迦が在世中に存在したに初期仏教の5つの精舎(伽藍・寺院)である天竺五精舎てんじくごしょうじゃ、または天竺五山=竹林精舎ちくりんしょうじゃ祗園精舎菴羅樹園精舎あんらじゅおんしょうじゃ、大林精舎〔重閣講堂、彌猴池精舎〕、霊鷲精舎りょうじゅしょうじゃ)の1つです。

当時、アンコールワット祗園精舎だと信じられていたらしく、右近太夫の来訪の前後に祗園精舎視察に訪れた長崎の通詞・島野兼了という人物もアンコールワット祗園精舎だと思い込んで、その見取り図を作成ていますが、アンコールワットにぴったり当てはまっています。(現在では、その模写が水戸の彰考館に保存されているとの事)

さて、右近太夫は「寛永9年(1632)正月30日」にアンコールワットに訪れ、仏像4体を献納し、正面中回廊の柱など3か所に墨で落書きをしています。

なかでも十字回廊と呼ばれる場所の落書きには、

寛永九年正月此処生国日本
肥州之住人藤原之朝臣森本右近太夫
一房 御堂カケ数千里之海上渡一念
之儀生々世々娑婆寿世之思者也
為其四躰立奉者也
摂州津国池田之住人森本義太夫
右実名一吉善魂道仙士娑婆
書物也
尾州之國名谷之都後室其
老母之魂明信大姉為後世
書物也
    寛永九年正月廿日


寛永九年正月に初めて此所に来る。生国日本、
肥州の住人、藤原の朝臣森本右近太夫
一房、御堂を心がけ、数千里の海土を渡り、一念
の儀を念じ、生々世々娑婆寿世の思いを清める者なり。
其の為に仏四体を奉るものなり。
摂州津国の住人森本儀太夫
右実名一吉、善魂道仙士、娑婆の為に
是を書くものなり。
尾州の国名谷の都、後、其の室
老母の亡魂、明信大姉の後世の為に是を書くものなり。
    寛永九年正月廿日


(大意)日本の肥州の住人である藤原朝臣森本右近太夫一房は、寛永九年正月にはるばる数千里の海上を渡ってこの御堂(祗園精舎)に参詣し、摂津池田の住人である父森本儀太夫一吉の現世利益と、尾張名古屋出身の亡母明信大姉の後世の為に四体の仏像を奉納したことを書くものである。
    寛永九年正月廿日
とあり、日本から海を渡りこの地へ来た事、仏像を4体奉納し母の後生と父の菩提を伴うため―と書き記しています。

この右近太夫落書きは一時、ポル・ポト政権時代に兵士らが青ペンキで塗り潰してしまったそうです。しかし、最近ペンキが剥がれ、下から再び姿を現したのだとか―

― ◇ ◇ ◇ ―

ちょっと横道にそれた感はありますが、こうした落書きはよくない出来事です。私たち人間は100年あまりの人生ですが、こうした文化遺産は決して現在に生を受ける私たちだけの所有物ではなく、これから何十年、何百年後に生を受ける人たちにとってもかけがえのない知的所有物でもあるのです。

“自分さえ良ければ!”という考え方でこうした落書き行為が行われたのであれば、決して許される訳にはいきません!


posted by 御堂 at 20:53 | Comment(4) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

参政権の問題について―国籍取得特例法案に関して

台湾や朝鮮が日本の植民地であった時は、日本の4つの島に住んでいる朝鮮人なり台湾人には、国政レベル及び地方レベルにおいて参政権(選挙権および被選挙権)を有し、投票権と立候補権のいずれも認められていました。(朝鮮人に対してはハングル文字での投票も可能でした)

昭和20年(1945)10月に発表された婦人参政権付与の衆議院議員選挙法改正要綱案でも内地にいる朝鮮人、台湾人については、引き続き参政権を認めるとありました。

ところが、その年の12月に成立した改正法には「戸籍法の適用を受けない者は、当分の間停止する」という条文が加わり、その結果、参政権がなくなりました。

たった2か月の間に何が起きたのでしょうか―

当時弁護士であり、国会議員で、東条英機の弁護士もやった清瀬一郎は、

「選挙権を認めれば、有権者の数は200万人に及ぶだろうし、少なくても10人位の当選者を獲る事は容易い。もし思想問題と結び付けば、次の選挙で天皇制廃絶を叫ぶ者は国籍を朝鮮や台湾に有し、内地に住所を有する候補者であろうから『引き続き認める』などとんでもない事だ」

と述べています。

天皇制護持の思想が背景に強く見られる発言ですね。この事が大きな影響を与え、2か月の間にひっくり返って、参政権はなくなったのです。

さて「在日」と呼ばれる人はどういう形で「外国人」になったのでしょう。

昭和27年(1952)4月のサンフランシスコ講和条約発効で日本が主権を回復する際、「在日」と呼ばれる人たちは日本国籍がなくなって外国人となった、というのが日本政府の見解です。

つまり日本側は一方的に「今日からあなたたちは外国人ですよ」とした訳です。

外国人となった「在日」と呼ばれる人たちが日本国籍を取る方法は帰化しかありません。

帰化というのは日本側が朝鮮人を選ぶ事で、決定権は日本側が握っているのです。

サンフランシスコ講和条約が効力を発し、日本国籍が無くなった日が昭和27年(1952)4月28日ですが、同じ日に交付・施行された法律に外国人登録法があります。その中に指紋押捺義務が初めて登場します。

すなわち「今日からあなたたちは外国人、だから指紋を登録しなさい」と強要した訳です。

さらに、4月30日に成立した戦傷病者戦没者遺族等援護法―戦争でけがをしたり、死んだ人の遺族に国家補償する為の法律―においても「国家条項」を設けました。

すると、2日前に外国人になった「在日」と呼ばれる人たちには国家補償しなくていい訳です。

極端な言い方をすれば、人間として扱っていない。人間扱いしてくれるのは税金を取る時だけなんですね。

ですから、巷で沸騰している「特別永住者等の国籍取得の特例に関する法律案」(国籍取得特例法案)というべき緩和法案は、本来ならば日本が50年前にしなければならなかった“忘れ物”なのです。

現在、「在日」と呼ばれる人たちは「特別永住者」という扱いで、日本国民と同様に社会保障制度(国民年金制度など)が適用されています。

この「国籍取得特例法案」では、一歩進んで(1)法務大臣に届け出るだけで日本国籍を取得でき、さらに(2)日本国籍を取得するに際して従前の民族名を使用できる(=本名を名乗って日本国民になることを保障)、などの内容が盛り込まれています。

「在日」と呼ばれる人たちにとって、「日本に定住する人」から「日本国民になる人」への質的変化が待望視されますね。

posted by 御堂 at 21:11 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

豊臣体制論ノート(3)―軍役体系―

豊臣体制が統一政権であり得た事で、軍役基準と知行石高の関連性が窺い知る事ができます。

三鬼清一郎氏は「朝鮮役における軍役体系について」(『史学雑誌』75−2)において朝鮮出兵で朝鮮への渡海を命ぜられた諸大名の軍役の人数が、その大名の知行石高に応じて一定の照応関係を示し、この時期に石高制に基礎をおいた軍役体系が完成したと述べらています。

天正20年(1592)の「陣立書」(『天正記』)は、豊臣体制の軍役体系を包括的にあらわす史料としては、殆んど唯一のもので、初の封建的統一を成し遂げた権力者の立場において、外様の旧族大名をも含んだ全国の大名に対して、出陣すべき軍役人数を個々に指示した史料です。

三鬼氏はこの「陣立書」における諸大名の軍役人数と知行石高との関係を検討され、知行石高を軍役人数で除した数値で、軍役1人当たりの知行高を示されました。

例えば、毛利輝元(安芸広島城主)の場合、知行高112万石のうち、役高は73万4000石なので、朝鮮出兵時の際の軍役人数3万人で除すと24・5となり、それを100石当たりで換算すると、100石につき4人役となっています。

小早川隆景(筑前名島城主)の場合は、知行高30万7300石のうち、役高は20万石なので、これを軍役人数1万人で除すと20・0となり、100石につき5人役となっています。

また、小西行長(肥後宇土城主)は知行高14万6000石に対して7000人の軍役を指定されているので、割合は20・1石に1人となり、100石につき4人役

蜂須賀家政(阿波徳島城主)は、知行高17万6000石に対して7200人の軍役を指定されているので、割合は24・5石に1人で、100石につき4人役

そして、五島純玄(肥前福江城主)は知行高1万4000石に対して700人の軍役が指定されており、割合は20・0石に1人で、100石につき5人役となっています。

この様に、朝鮮出兵における軍役体系は、天正20年の「陣立書」の検討によって、九州大名は知行高100石につき5人の軍役、四国・中国大名は100石につき4人の軍役―と、極めて整然としていた事が分かります。

これを裏付ける史料として、前述した五島純玄に対する天正20年(1592)正月の「九州ハ…(中略)…本役之人数ヲ可出」という指示があった事が記されていて、100石につき5人というのが「本役」だった様ですね。

この当時、敵に隣接する大名は「本役」というのが慣習で、朝鮮出兵については、西国大名の軍勢を主力として動員がかけられたために「九州ハ…(中略)…本役之人数」と指示されていました。

坂西(ばんざい、大坂より西側)以東の諸大名に軍役負担が軽かったのは、天正17年10月10日付の「小田原陣陣立書」にみられるように、

  一、来春関東陣軍役之事
  一、五畿内半役、中国四人役之事
  一、四国より尾張迄六人役之事
  一、北国六人半役之事
  一、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃七人役之事

と、かなりの負担があった事や敵に隣接していない遠国であるという理由がこ考慮された結果だと見られます。

以上のように、豊臣体制朝鮮出兵における軍役体系からみて、統一した軍役基準が存在し、それは秀吉個人の意思決定によって変動をみせていたのです。

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※(関連)豊臣体制論ノート→
※(関連)豊臣体制論ノート(2)―「在京賄料」について―→
※(関連)豊臣体制論ノート(4)―「豊臣の子」―→


 

posted by 御堂 at 22:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム