源融と河原院(六条院)

京都・本覚寺が所有する源融像


源融という人物は平安期の公卿で、嵯峨天皇の皇子。兄宮・仁明天皇の猶子。河原左大臣と呼ばれていました。源氏の姓をうけ臣籍に下り、斎衡3年(856)に参議、貞観6年(864)に中納言を歴任、貞観8年(866)閏3月10日、応天門が炎上、全焼した際(応天門の変)に大納言・伴善男が「これは左大臣・源信の兄宮)の仕業」と申し出たため、これに連座する形で、一時失脚をします。(『宇治拾遺物語』巻10)

この事件は藤原良房基経が、政敵である藤原良相大伴氏嵯峨源氏(主に源信源常源融の3兄弟)を政治中枢から駆逐しようと企んだ陰謀でした。

のちに政界に復帰し、貞観12年(870)に大納言、貞観14年(872)、51歳で左大臣に昇進します。

元慶8年(884)、陽成天皇が譲位の意向を表した際に、新帝(時康親王=光孝天皇)擁立をめぐって藤原基経と争い、「ちかき皇胤をたづねば、融らもはべるは」(『大鏡』藤原基経伝)と自らを皇位継承候補になぞらえるが、退けられます。

仁和3年(887)、宇多天皇即位直後の「阿衡の紛議」に際しては、宇多天皇藤原基経に味方するような意見を述べたため、信用をなくし、政界から退き、六条院(東六条院)や嵯峨棲霞観(のち清涼寺)、宇治の別荘(のち平等院)、河原院など耽美的な美の世界に執着するようになっていきます。

なかでも河原院は、平安京に営まれた邸宅の中でも、最もその豪壮さをうたわれました。南を六条大路、北を六条坊門小路、東を東京極大路、西を萬里小路に囲まれた4町(一辺250m)の広大な敷地を占めていました。

また、陸奥の名所塩竃(塩釜)の浦の景観を模した庭に、難波津から海水を運ばせては塩焼きの真似事をしたり、鴨川の水を引き入れて、大きな池を造り、その中に人工の島を作ってまがきの森」と名付けたりして、その風情を楽しむなど、その暮らしぶりは豪奢を極め、在原業平をはじめ多くの歌人や文人たちの遊興の場(サロン)でもありました。

「小倉百人一首」にも、河原左大臣の名で「みちのくの/しのぶもぢすり/たれゆえに/みだれそめにし/われならなくに」という歌が残っています。

また、『源氏物語』における六条院のモデルとなったのも河原院であると言われています。実際に、自身が「六条院」(東六条院)(『本朝文粋』巻14)と呼ばれていたそうです。

の死後、河原院はその子の昇が譲り受けましたが、昇はそれを寛平法皇(宇多法皇)に寄進したので、仙洞御所となりました。つまり、昇は、宇多天皇に入内した妃の1人である娘の貞子とその子依子内親王のために河原院を寄進したのです。

ところが、残念ながら宇多天皇の寵愛を一身に受けたのは、藤原時平の娘・褒子でした。

その後、寛平法皇(宇多法皇)はこれを僧仁康(の三男)に与え、寛平法皇(宇多法皇)没後に寺院に改まりましたが、長保2年(1000)に仁康が祗陀林寺を開創するに際し河原院の本尊を移して以降は、数度の火災に遭うなど荒廃が進み、建仁3年(1203)3月2日には、六条坊門富小路あたりから出火し、河原院は全焼し、灰燼に帰してしまいます。

現在、京都市下京区木屋町通五条下ルに「河原院址」の石碑と榎の老木が茂っています。

この榎にはいわれがあり、かつて、この辺りは「籬の森」と呼ばれ、もと河原院の邸宅内の庭の中の島「籬の島」が鴨川の氾濫によって埋没し、森として残ったものであると伝えられているのです。明治初年頃まではあったそうですが、押し寄せる都市化の波には逆らえず、今、この森を偲ばせるものと言えば、石碑の横の老木だけになってしまったそうです。また、石碑が建つ位置も、平安京復元図にあてはめてみると、ほんの少しでだけ、河原院の東側にはみだしているそうです。

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“精忠”岳飛鵬挙

岳飛は、中国・南宋期の武将で、元々は農民でしたが、北宋末期に義勇軍に志願しました。ちょうどその頃は、北宋が女真族の金によって滅ぼされ、漢民族王朝が危機に瀕している時であり、最初に金に抗った宋沢という文官出身の人物が、金の圧倒的な勢いに対し、義勇兵を募ったのです。岳飛は、そのなかに身を投じ、やがて大いに活躍して武名を高め、次第に頭角を現し始めます。

宋という国は文官統制(シビリアン・コントロール)されていたため、官軍はろくに組織されておらず、義勇軍こそが金に対抗し得る主力でした。そんな中で岳飛は軍閥(岳家軍と呼ばれる)を形成し軍功を重ねていきます。金も岳飛のことを“岳爺爺”と畏怖しました。

しかし、軍閥の力に国運を任せるしかない官僚たちは急に力をつけた軍閥を身の危険を感じるようになり、とりわけ岳飛は性格が不遜でありながら学識もあり軍功も第一であったために無用な敵を多く作ることになります。

岳飛“精忠岳飛”の旗を高宗より賜わる程の栄達を見せますが、宰相の秦檜岳飛の大きくなり過ぎた兵力を危険視し、また金との和平を模索する秦檜にとって主戦論者の筆頭である岳飛は和平への最大の障壁でもあったため、結局秦檜は強引に岳飛を無実の罪で投獄します。

岳飛は謀反を企てていた事の自白を強要され、筆を持たされますが「天日昭昭」(天は全て知っているぞ)と自白を拒絶します。どんな拷問を受けても自白をしない岳飛秦檜は焦りましたが、その妻王氏が「虎を捉えるのは簡単だけど、それを放つと大変なことになる」と早急に岳飛を殺すよう諭し、秦檜もその言葉で岳飛の殺害を決断し、毒を盛って獄死させました。

のちに秦檜は主戦論者を次々と退け、金王朝との屈辱的な和平を結び、結果、南宋は北宋を凌ぐ程の経済的・文化的発展を遂げます。しかし、中国の人々はそれを誰一人として秦檜のおかげだとは言わず、岳飛たち抗金の名将のおかげだ、と語っています。岳飛は無念の死を遂げましたが、その生涯は金に屈せず、姦吏に屈せず抵抗し続けました。まさに信念に生きたわけです。そんな岳飛を中国の人々は崇拝し続け、杭州に岳飛廟を建て、武神として祀りました。現在でも岳飛廟を参詣する人は絶えないといいます。

その岳飛廟の一角に、岳飛の獄死に係わった人間が繋がれた像もあり、なかでも後ろ手に縛られて跪かされている秦檜とその妻の座像に訪れた人たちは罵声を浴びせ、唾を吐きかけるのだそうです。権勢を極めたまま天寿をまっとうした秦檜は後世まで罵倒され、不幸で不本意な殺され方をした岳飛は神として祀られたわけです。中国で最大の人気を誇る英雄の1人の姿として…


posted by 御堂 at 20:26 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

純愛物語―勧修寺家と“玉の輿”―

説話集で有名な『今昔物語集』巻22(本朝世俗部)には藤原摂関家の歴史が語られています。その中に摂関家の本流ではなく傍流だが、末永く繁栄した一族である勧修寺家の祖先にあたる藤原高藤という人物の純愛物語が記されています。

高藤という人物は幼い頃から鷹狩りが好きで、15、6歳の時、鷹狩りに南山階やましな(山城国宇治郡山科、現在の京都市山科区)の山々を彷徨いました。ところが、急に雨風が強くなり、供の者たちとも離れ離れになってしまい、高藤は馬飼い1人を連れて小さな唐門のある家の庭に馬を引き連れて、寝殿の板敷きに休みました。

そこへ40歳ばかりになるこの家の主人がやってきて、「どういう(身分の)お方ですか」と訊ね聞いたので、馬飼いの男が高藤の身分素性を名乗ると、主人はそれを聞いて「こんなみすぼらしい家ですが、雨の止むまで家に入っていてください。お着物を炙り干して、馬にも草を遣りましょう」と言って奥に招きました。

高藤が横になっていると、暫くして年の頃13、4になる少女が恥ずかしそうに高杯を持ってやってきました。

少女はこのような田舎のとるに足らない家の子とも見えず、極めて美しい容姿でした。

夜も更け寝ようとしたが、先程の少女が心にかかっていたので主人に「独り寝るのも恐ろしい。あの少女にここに来いと言ってくれないか」と言いました。

この言葉通り少女がやってきて、供に寝たが、近くで見ると一層可愛らしい―それで高藤は行く末を約束して、長い秋の夜をまんじりともせずに少女と愛し合いました。

そして夜も明けたので、差していた大刀を形見に置き、「例え親が思慮もなく他の男と結婚させようとしても、決して体を許してはならないぞ」という言葉を残して、その家を去りました。

京の家では高藤が帰らないのをひどく心配していましたが、無事帰ってきたので大変喜び、「幼いうちはあれこれ喧しく止めたりしなかったが、このような事があるので、今後鷹狩りをしてはならないぞ」と厳しく戒められました。

そしてただ1人、家の在り処を知っている馬飼いも田舎へ帰っていったので、高藤はそれ以来二度とあの家を訪れることができず、高藤はあの家の少女の事が気にかかって心は晴れずにいました。

それから6年の月日が流れました。馬飼いが田舎から京へ帰って来たので、高藤は馬飼いに案内させて、再びあの家を訪れました。

家に着くと、思いがけない人の訪れに家の主人は喜んでおり、「あの人はいるか」という問いに、家の主人は「おります」と答えました。

高藤は喜んで、几帳の傍に半ば隠れている姿を見ると、すっかり大人びた女性になり、驚く程美しくなっていました。

また、その傍らには5、6歳ばかりの大層可愛い少女がいました。「これは誰だ」と高藤が問うと、ただただ泣くばかりで、はかばかしい答えもしません。

父親を呼んで問うと、ひれ伏して「あの時、あなたがお出でになった以後、娘には男を近づけませんでした。あの時に懐妊して生れた子が、この子でございます」と言いました。

これを聞いて高藤は憐れに思いましたが、ふと見るとあの形見に授けた大刀が置いてあり、そしてその少女をよく見ると、自分にそっくりでした。

その夜はそこに留まって、日を改めて、その主人の娘であるその女性と少女を京にある高藤の屋敷に連れて行き、その女性を正式に妻としたのです。

この家の主人は宇治郡の大領(=郡司)、宮道みやじの弥益いやますという人物でした。(実際は従五位下、下漏刻博士であったが、藤原氏を映えさせる意図で大領としたようです…)

高藤は生涯この女性だけを妻としました。一夫多妻を常とする平安時代にあって誠に珍しい純愛の美談と言えますよね。

― ◇ ◇ ◇ ―

高藤とその女性との間に生れた少女、胤子は、元慶8年(884)に定省さだみ(光孝天皇第7皇子)と結婚し、長男・維城これざねを産みます。

仁和3年(887)、夫の定省が再び親王宣下して皇籍に復帰し、宇多天皇となり、さらに子の維城も親王宣下、同5年(889)に立太子を経て、同9年(893)に醍醐天皇となります。

しかし、胤子醍醐天皇の即位を見る事なく、寛平8年(896)に亡くなります。胤子にとっては、自分が産んだ子が思いもかけず天皇となった事で、女御という身分になりました。そして、外祖父である高藤は内大臣になり、、宮道弥益も従四位修理大夫となったのです。大領の身分で、時の天皇の外祖父となった事は、異例中の異例であり、誠に稀有な出世というべきでしょう。

昌泰3年(900)、醍醐天皇は母・胤子の菩提を弔うため、この宮道弥益の家を寺にしました。それが現在の勧修寺かじゅうじ(なお、家名や寺名では「かじゅうじ」、地名・住所表記は「かんしゅうじ」と呼称されています…)です。勧修高藤の諡号(おくり名)に由来していて「勧学修身」の略したものだそうです。如何にも真面目な高藤の人生を象徴しているような名ですね。

― ◇ ◇ ◇ ―

高藤の妻となった宮道弥益の娘は、名を列子たまこと言いました。

この列子のエピソードが「玉の輿」という格言の語源と云われています。

『源氏物語』の著者紫式部(藤原為時むすめ)はこの高藤列子の4代の孫にあたり、彼女は一門の繁栄を物語の中で華咲かせようとしました。

実際、宇多天皇を桐壺帝、醍醐天皇を朱雀帝に見立てた紫式部は、その華やかな容姿と実生活から当時“玉光宮”と呼ばれていた弟宮の敦慶親王光源氏のモデルとするのです。(因みに、敦慶親王の正室は兄である醍醐天皇の皇女です。この点も、光源氏の後妻だった朱雀帝の皇女、女三宮と絡み合いますね!)

さらに、末弟である敦実親王宇多天皇第八皇子。まさに宇治八の宮ですよね。面白いのは、この敦実親王の子は臣籍降下し、源雅信、源重信と名乗りますが、彼らが宇治院平等院の前身)を所有していたんですよね。

こうした醍醐天皇敦慶親王敦実親王は皆、宇多天皇胤子との間の産まれた同母兄弟でもあります。まさに一門のサクセス・ストーリーなわけです。

そうした中で、紫式部列子のエピソードを大ヒントにして、明石の君の話を書いたのだそうですよ!

posted by 御堂 at 03:54 | Comment(2) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

「鎌倉幕府」と「鎌倉時代」

「鎌倉幕府」はいつ成立したのでしょう。

史実の上で、この政権の事を「鎌倉幕府」と呼ぶようになるのは、少なくとも江戸時代以降の話です。

「幕府」というとイコール「徳川幕府」とイメージされ、武士による政権の一本化と見られがちです。ほとんどの教科書も、「鎌倉幕府」があたかも「武士が政治を行った」「武士が政権を握った」かのように書かれています。

元来、「幕府」とは将軍の陣営を指し、同義語として「幕営」があります。また、近衛府の長官にあたる大将も唐名で「幕府」と呼ばれていました。この「近衛大将」は官位相当でみると従三位にあたります。三位以上の貴族は国衙や荘園内に政所という家政機関を置く事が許されています。

この当時、政治は内裏で行われていたわけではありません。上皇や法皇などの院政も藤原氏の摂関政治もその邸宅が政所となって、そこから政治を動かしています。

源頼朝は平治元年(1159)の平治の乱で捕らえられ、伊豆に配流となり、右兵衛佐という官職も剥奪されます。(「すけ殿」と呼ばれるのは右兵衛佐からきています)

治承4年(1180)に東国の在庁官人たちと呼応し、「平家打倒」のスローガンを掲げて挙兵し、鎌倉に拠点を設け一大勢力となり、頼朝を旗頭に置いた独立勢力の様相でした。

この時点、頼朝は朝廷にとって「謀反人」として扱われています。

しかし、平将門決起以来の念願だった東国の在庁官人たちにとってみれば、それはそれでOKでした―

しかも彼らは、朝廷がその後、養和、寿永と改元したにもかかわらず、治承の年号を使用していることで明らかですね。(しいて言えば、独立を積極的に唄うのであれば、私年号を用いてもいいんですけどね…)

転機が訪れたのが寿永2年・治承7年(1183)で、この年頼朝後白河院から東国における統治権的支配権(東海道・東山道の実質的支配権)を認める十月宣旨(「寿永二年十月宣旨」)を受けます。

宣旨の発布と同時に、頼朝は配流前の官位である従五位下、右兵衛権佐に復し、「謀反人」でなくなります。(年号も改められている)

宣旨を獲得した事で、頼朝が目指す路線は朝廷との協調へとその度合いを強めていきます。

反面、東国独立論は大きく後退していきます。東国独立論を強く主張していた平(上総)広常の暗殺はその一端を示しているものと考えられます。

このように東国における情勢は反乱から内乱へ様変わりします。東国の在庁官人たちにとっては独立勢力でなくなったわけで、ある意味、寝耳に水の話でしょうが…

その後、元暦2年(1185)に平家討滅の功により従二位を叙爵して三位以上の地位を有します。この状況で頼朝が官職につくパターンとしては、

(1)近衛大将
(2)鎮守府将軍
(3)征夷大将軍
の3つが考えられます。

このうち、(2)と(3)は将軍という長官職で官位相当は従五位にあたります。ただし臨時職です。源氏の名誉職として鎮守府将軍を欲していたとも考えられますが、従五位である以上、家政機関は持てません。これに対し(1)の近衛大将は官位相当では従三位にあたり、三位以上の者は自由に私的な家政機関である政所を設置できるわけだから、頼朝が要望していたのは(1)の近衛大将ではなかったのでしょうか。

文治元年(1185)には「日本国惣追捕使・惣地頭使」の勅許を得、支配権は平家没官領などへと侵食してゆきます。

さらに、文治5年(1189)には正二位に叙爵。その間、朝廷内で三つ巴だった藤原摂関家の勢力争い=平家と組んだ(近衛)基実木曽義仲と組んだ(松殿)基房頼朝と組んだ(九条)兼実=も兼実が勝利し、頼朝にとって上洛という示威行動を起こせる状況が芽生えます。

そして建久元年(1190)11月、頼朝は上洛して後白河院に謁見、右近衛大将に任官されます。一旦は就職しますが、辞任して鎌倉に帰り、翌建久2年(1191)正月に「前右大将」として「政所吉書始」を行います。

しかも、同じ年の3月に朝廷の国家統治の法制の再確認として発令された「建久二年三月廿二日 宣旨」(建久T令、三月廿二日法)17か条のうち、16番目の条項「可令京畿諸国所部官司、搦進海陸盗賊並放火事」(京畿・諸国の所部の官司をして、海陸の盗賊ならびに放火を搦め進むべき事)の中で、

自今以後、慥仰前右近衛大将源朝臣並京畿諸国所部官司等、令搦進件輩

のように海賊・陸賊・放火人の追捕について、京や諸国の担当部局(検非違使など)と共に頼朝に対し職務が命ぜられたのです。

すなわち、国家軍事警察制度上での頼朝の職権が公然と明記された訳ですね。

頼朝の死後、その子・頼家がその後継者として朝廷から相続を認められたのも実は征夷大将軍ではなくて、「日本国惣追捕使・惣地頭使」であった事もわかっています。

以上の点を考慮すると、頼朝が右近衛大将に任官し、国法に公称された、この時点が「鎌倉幕府」がスタートした時期として有力ではないでしょうか。

― ◇ ◇ ◇ ―


ただし、この「鎌倉幕府」は東海道・東山道、さらに平家没官領などに限定された東国中心の政治組織体です。

この時点で「鎌倉幕府」の命令に従わない武士も西国を中心に存在していました。その事は後に後鳥羽院北条義時追討の院宣を発した際に上皇側に味方した武士たちがいた事実が物語っています。

―とすれば、「鎌倉時代」の幕開けはいつからでしょうか?

単純に「いい国(1192)作ろう鎌倉幕府」と教科書で覚えたように建久3年(1192)とするのはおかしいですね。上記のように、この年は頼朝征夷大将軍に任官した年にしか過ぎず、「鎌倉幕府」が始まった時期でもなければ、時代が幕開けした年でもありません。

では、「鎌倉時代」はいつからと考えればいいでしょうか?

時代の節目は政権交替で考える場合が多いのですが、京には未だ天皇を中心とした朝廷が存在しており、幕府はこの時点では鎌倉に拠点を置く一地方政権にしか過ぎません。

むしろ、後鳥羽院が起こした北条義時追討の戦闘(=承久の乱)により鎌倉方が京都方に勝って、朝廷内での発言力が優位な状況にした承久3年(1221)が「鎌倉時代」の始まりと考えるべきではないでしょうか。

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(追記)
この記事の成稿後に、本郷和人氏著『人物を読む 日本中世史―頼朝から信長へ』(講談社選書メチエ361)の中の項目で「九条道家―朝廷再生」を読みました。その中で、示唆に富むヒントかな?と思える内容を発見!

九条道家という人物は、藤原兼実の孫にあたります。承久の乱後に一度失脚しますが、再度復帰し、摂関政治の最後の華を咲かせたとあります。

その内実を見てみると、息子たちは摂政・関白、征夷大将軍のポストを務め、娘は時の天皇の女御となって、親王を出産―外戚として、道家は「太閤」の立場で政務と執ったのです。

「太閤」として、政治の頂点も軍事の頂点も牛耳っていたわけですね。

それが、後嵯峨天皇の即位によって転換期を迎える、というのです。後嵯峨天皇は朝廷内をよりシステマチックに中級実務官人たちによる奉行制を導入し、朝廷政治を一新します。

平安期以来の摂関政治というものは、言ってみれば藤原氏とその血縁者のみによる政治組織といってよく、九条道家の力が没落し、後嵯峨天皇による政治一新も“血縁”から“組織”への変革だったというんですね。

そう考えると、上記の問題提起として「鎌倉時代」の幕開けを後嵯峨天皇の即位(仁治3年=1242)以降と考える観方もありかな?と思ったりしました。

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※(参照)「いいハコつくろう 鎌倉幕府?」→


 

posted by 御堂 at 04:42 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

“下剋上”と将軍暗殺

室町時代末期の永禄8年(1565)5月19日、二条御所(京都市上京区、東西は烏丸通から新町通、南北は下立売通から丸太町通を囲んだ一帯。現在も武衛陣町という名が残っている)において、当時“下剋上”が叫ばれた社会風潮での典型的な出来事が起こりました。

室町幕府第13代将軍・足利義輝松永久秀らの軍勢「一万ばかり(『言継卿記』)に襲われ、奮戦空しく討たれたのです。

松永久秀は、管領細川京兆家の執事三好長慶に仕え、博識と狡智と辣腕によって、京都検断職へと成り上がった人物。久秀長慶が病死すると、義輝を退け、義輝の従兄弟の阿波公方足利義栄を擁立し、その陰で権力を独占しようと企み、義輝の暗殺を計画したのです。

義輝も敏感にそれを察知し、密かに細川藤孝に各地の大名に久秀誅滅の命令を発そうとしていました。

義輝の身辺に諜報網を張り巡らせていた久秀はいち早くその情報を得て、密命が各地の大名に下知される前に一気に義輝を弑殺せんと謀ったのです。

二条御所は四方に深い堀を巡らせ、高い土塁と関を設けた堅固な城郭で、永禄6年(1563)2月には松永・三好方への警戒のために大堀を巡らしていました(『厳助往年記』永禄6年2月4日条)。

久秀は、ちょうど二条御所の門の扉が修復中であるとの情報を得て、清水寺参詣と偽って三好義継三好三人衆三好長逸三好政康岩成友通)、息子の松永久通と共に、二条御所に軍勢を押し寄せます。松永・三好方の軍勢は「公方さまに訴訟の儀あり」と称して訴状を提出。それを義輝らが見ている間に、時を稼いで二条御所を包囲し、機を見て周囲から一斉に鉄砲を撃ちかけ、あるいは火を放って、御所内に乱入したのです。

不意の夜襲を受けたこの時、二条御所には義輝の他には奉公衆および女房衆合わせて200人。そのうち戦力となり得るのは数十人程度でした。

松永・三好軍襲撃の注進が届き、義輝御所内にいた奉公衆と女房衆を集めさせ、最後の酒宴を張り、次いで正室(近衛稙家の女)を脱出させます。

奉公衆たちは義輝の御前で最期の舞謡を演じた後、一丸となって松永・三好の軍勢の真っ只中に斬り込んでいきました。

義輝も源氏重代の大鎧で武装し、「五月雨は/露か涙か/ほととぎす/わが名をとげん/雲の上まで」という辞世の句を残すと矢庭に立ちあがり、手に重籐の弓を持ち、傍らに典太光世、鬼丸國綱をはじめ、大包平、九字兼定、朝嵐勝光、綾小路定利、二つ銘則宗、三日月宗近など足利家伝来の秘蔵の銘刀を抜き払い、1本1本畳の上に突き刺し、臨戦態勢を整えます。

体力も運動神経も動体視力も並はずれた義輝は、敵が放った矢を悉くかわし、あるいは切り落とし、対する松永・三好勢には百筋を数える矢を放って、屍の山を築いていきますが、そのうちに、弓の弦も切れ、ついには白兵戦となり、太刀を手にすると、「されば斬り死にせん」と叫び、邸外に踊り出て、敵の手勢を斬って斬って斬りまくりました。

義輝は己の体力が及ぶ限りに敵の手勢を斬り、あるいは刺すなど獅子奮迅の働きを見せ、刀の刃がが血脂で凝り固まるとそれを放り出して邸内にとって返し、新たな1本を抜いてはまた邸外へと舞い戻っていきます。

松永・三好の軍勢も義輝の凄まじい剣腕を恐れ、業を煮やすと、襖と障子を盾にして義輝を取り囲み、そうして四方から義輝を押し包み、背後に控えていた兵士が槍で義輝の臑を払い、義輝がうつ伏せに転んだところに無数の襖と障子で義輝を覆いつくしました。

動きを封じられた義輝はその襖、障子越しに何度もめった刺しにされて遂に絶命します。義輝が最期に手にしていたのは、源頼光が大江山の酒呑童子を退治したといわれている太刀、童子切安綱でした。

三好・松永軍が討ち入ったのが午前8時、奉公衆は闘死、午前11時、義輝も乱刃の中で討死。激闘3時間あまり、戦死者53名のうち、将軍側近とわかる者は31名に上り、義輝の側近の全体数166人( 『永禄六年諸役人付』)のうち、実に約2割弱の者が戦死しました。

女衆の中には義輝の生母慶寿院(近衛尚通女)もいましたが、義輝と共に非業の死を遂げました。

この義輝の死という事件は、将軍という権威が事実上の瓦解した瞬間といえるでしょうね。


 

posted by 御堂 at 13:17 | Comment(2) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

「本能寺の変」の謎―なぜ光秀は信長に謀叛したのか?

天正10年(1582)6月2日、明智光秀軍が洛中・本能寺に宿所をとる織田信長を急襲しました―いわゆる「本能寺の変」です。

明智光秀はなぜ信長に対し謀叛を起こしたのでしょう?色々な説が飛び交っていますね。

徳川家康を饗応している場所で信長から罵倒されたこと、信長が安土にいる波多野氏の人質を殺してしまったために、人質に行っていた光秀の母親が殺されてしまったこと…など、怨恨説、野望説の類いが舞台劇や時代劇ドラマで一般的によく採り上げられていますが、ほとんどの場合、憶測での物言いなので信憑性は皆無です。

最近の学説では、

 @三職推任問題
 A足利義昭と反信長ネットワーク
 B四国政策を巡る秀吉と光秀の対立

というキーワードで論争がなされているようです。

「本能寺の変」時点の織田政権の版図と諸将図

まず@の「三職推任問題」について。

「三職推任」とは、天正10年(1582)3月に甲斐武田氏を滅ぼし、かつ関東の大名衆の仕置を完遂した時点の4月25日に安土城への勅使下向を命ぜられた勧修寺晴豊が、誠仁親王からの「太政大臣か関白か将軍か、御すいにん候て可然よし」(『日々記』天正10年4月25日条)という、いわば朝廷が信長に対して、太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかの職に就くように勧めたもので、5月4日に安土に到着した晴豊が「関東打はたされ珍重候間、将軍ニなさるへきよし」(『日々記』天正10年5月4日条)との旨を伝えました。

信長は前年の天正9年(1581)3月1日に正親町天皇からの叡慮として「左府に被仰出由」(『立入左京亮入道隆佐記』天正9年3月1日条)の左大臣推任を固辞しており、朝廷も信長に「そろそろいかがですか?」と勧めたものと解釈されていましたが、その実、信長の側から朝廷に圧力をかけて勧めるように言わせたのではないか―という論拠から、これに屈辱を感じた朝廷が信長を亡き者にしようと謀議を図り、光秀を実行犯に仕立てて信長を葬ったんやないか―とする説です。

これに対し@と相対するのがAの「足利義昭と反信長ネットワーク」で、征夷大将軍足利義昭こそ「本能寺の変」の首謀者で、この義昭の背後にある広範囲なネットワークの一員として光秀が存在し、実行犯となった―とする説です。

確かに義昭は京都における室町幕府としての機能を失っただけで、征夷大将軍を解任されたわけではありません。

『公卿補任』を見ても、天正元年条以降、将軍在職のまま、備後鞆に「在国」という記載がなされています。

そもそも間違えやすいのは、幕府=征夷大将軍その人であって、幕府=構成組織ではないのです。

義昭将軍である限り、幕府という屋台骨が崩れる事はなく、側近たちの任免も将軍である義昭自身が自由に任免できるのです。

それ故、京都に居なくても将軍である以上、義昭の発する御内書などは十分な効力を有するのです。これが「鞆幕府」という発想ですね。

Bの「四国政策を巡る秀吉と光秀の対立」については、光秀信長を殺した理由として、四国政策を巡る信長の路線変更がもたらしたものとする説です。

信長は四国の制圧を視野に入れていたのですが、四国のどの大名を配下に置いて、攻略の先鋒にするかが当面の問題でした。

当初、信長は土佐の長宗我部氏を重用し、同氏を通して四国を支配しようと考えていました。そして、その窓口には光秀が任じられていました。

ところが、天正9年(1581)6月の時点から信長が方針転換をしちゃったんですね―すなわち、長宗我部氏ではなく、讃岐の三好氏を自分の配下にして、四国を制圧しようと考えたわけです。

当時、三好康長の養子になっていたのが、羽柴秀吉の甥でもある孫七郎(のち、三好信吉秀次)だったので、秀吉三好氏との間の取次役を担っていました。信長の方針転換によって、四国政策の中心が秀吉へ変わり、光秀の立場は危うくなり、追い込まれた光秀は、このままでは信長政権の中で生きる道はないと考えたのか、好機逸するべからず、と「本能寺の変」で一気に信長を叩いてしまった―という信長政権内の対立がきっかけとなって、「本能寺の変」が起きたと考える説だったのですが…

さて、このBの説については、尾下成敏氏の「羽柴秀吉勢の淡路・阿波出兵―信長・秀吉の四国進出過程をめぐって―」(『ヒストリア』214)によって、秀吉の淡路及び阿波への進出・出兵が天正10年(1582)9月である事、つまり清洲会議以降、織田家宿老の中で勢力範囲を拡大しようとした意図があった―と実証され、少なくとも光秀秀吉の間には対立関係はなかった事が判明しました。(…という事は、孫七郎が三好康長の養子だったのも本能寺の変以降という、別な史実も見えてきますね!)

いずれにしてもさしたる確証はなく、信憑性にかけるので、真実は「薮の中」なのが現状ですね!

※〔参照〕(書斎の窓)『証言 本能寺の変』→


 

posted by 御堂 at 02:31 | Comment(4) | TrackBack(1) | 歴史:コラム

家格―「国持」大名の身分格式

近世という時期は封建制社会であって、身分の上下に到るまで差別意識が横行していた時代でもあります。

職業・貧富・美醜・強弱…など様々なものが差別の物差しとして扱われました。

“領主さま”とと呼ばれる身分、すなわち大名たちにとっても、そういう観念がついてまわります。

それが「家格」というヤツです。

しかし、「家格」には厳密な尺度がある訳ではなく、こと幕藩体制下では、徳川将軍家に対する親疎の関係、官位の上下、領土の大小…など様々な要素が作用して、ある種の概念が創作されました。

徳川将軍家に対する親疎の関係でいえば、親藩・譜代・外様という分け方を聞いた事があるでしょう。

但し、固定概念ではなかった―というのが事実です。

例えば、豊後臼杵の稲葉氏は初め外様でしたが、分家の稲葉正成の後妻が春日局であった事から譜代に転じています。

また、信濃小諸、上田、のちに但馬出石に移った仙石氏は初め譜代だったのが、政明が11歳で襲封した時以降、外様に転じています。

外様の身分の多くは、関ヶ原の合戦までは豊臣氏に仕えていた者たちである事に相違ないのですが、その実は、将軍家(の政事)に対して、直接に関与していなければ外様のままで、幕政に参加した時に譜代となるわけです。

例えば、脇坂氏の場合、藩祖にあたる安治は、賤ヶ嶽七本槍の1人で、豊臣秀吉恩顧の家臣として淡路洲本を領していましたが、関ヶ原の合戦徳川氏に翻って、伊予大洲に加封。その子の安元の時には信濃飯田に転封されるなど、外様の典型的な家柄です。

ところが、この安元の養子に時の老中堀田正盛の次男・安政がなって以降、譜代の身分となり、その後何人かが老中を務めています。

官位の上下に関しても同様の事が言えて、将軍家と血縁関係の濃い者ほど高位高官に昇り、普通の状態であれば、下記のように参議となる外様加賀前田家に限られています。

  • 従三位、参議 ― 加賀前田家

  • 正四位下、近衛中将 ― 加賀前田家の家督

  • 従四位上、近衛中将 ― 薩摩島津家、仙台伊達家

  • 正四位下、近衛少将 ― 加賀前田家の嫡子

  • 従四位下、近衛少将 ― 薩摩島津家、仙台伊達家の家督、広島浅野家、岡山池田家、鳥取池田家、佐竹家、藤堂家

領土の大小に関しては、一国一円知行の領主を「国持」大名とか「本国持」といいます。例えば、

  • 加賀、能登、越中…前田家

  • 薩摩、大隈、日向…島津家

  • 周防、長門…毛利家

  • 阿波、淡路…蜂須賀家

  • 筑前…黒田家

  • 安芸…浅野家

  • 備前…池田家

  • 土佐…山内家

  • 対馬…宗家

これに続くのが、不完全ではあるが大領土を有する者を「大身国持」と言って、

  • 陸奥仙台…伊達家

  • 肥後熊本…細川家

  • 肥前佐賀…鍋島家

  • 伊勢安濃津、伊賀…藤堂家

  • 筑後久留米…有馬家

  • 出羽秋田…佐竹家

  • 出羽米沢…上杉家

  • 大和郡山…柳沢家

  • 陸奥盛岡…南部家

などが挙げられます。

徳川幕藩体制下の「国持」大名とは、豊臣政権下において徳川家と同輩の関係にあり、徳川幕府が成立した後も大名群の中で抜きんでた存在だと言えるでしょう。

しかし、上記した「国持」大名たちは、実は柳営秘鑑りゅうえいひかん(※)などの非公式な私撰の武家故実書に記されているに過ぎず、幕府自体はどの御家が「国持」大名であるかについて、その職務・制度上の名称として使用しているにも拘わらず、公式にはその範囲を特定していません。

※柳営秘鑑
『柳営秘鑑』とは、幕臣である菊池弥門によって書かれた、江戸幕府の年中儀礼、諸士勤務の執務内規、殿中の格式、故事、旧例、武家方の法規などが記載された書物。寛保3年(1743)刊。
但し、内容は江戸時代全般を通してのものではなく、享保年間(1716〜1736)を中心に記載されている。これは、徳川吉宗の享保の改革の下、それまでの不文・慣習法志向から成文法へと転換され、『公事方御定書くじかたおさだめがき』などが整備されますが、『柳営秘鑑』の刊行もその流れにのったものだと考えられます。


― ◇ ◇ ◇ ―

面白いエピソードを1つ―「大身国持」の身分だった南部家のエピソードです。

文化5年(1808)、南部家の当主が利敬の時、寛政11年(1799)から幕府の命で賦役していた蝦夷地警護の功績によって、侍従に任ずる旨が幕府より達せられました。

侍従に任じられた事で何が変わるのか―

位階が五位であれば、位記は高家が代理受納し、後に幕府を介して与えられるのですが、侍従を含め従四位下以上の場合には各自に使者を京に立てて朝廷より受ける事が可能となったのです。

更に、南部家は、これを機に従来の「南部〜」の名称を藩主の居住する土地の名を取って「盛岡〜」に改めています。

そのきっかけとなったのが、文化6年(1808)7月10日前後にもたらされた将軍家からの御内書でした。

その宛名書を見てみると―

従来ならば、宛名は「南部大膳大夫」「南部信濃守」とあったのが、「盛岡侍従」と記載されていたのです。

こうして、藩主利敬は8月9日付で藩士に対し、藩士が旅行に際して所持する荷物等への記載には従来の「南部家中〜」何々の誰それ〜から、今後は「盛岡〜」云々とすべしと命じます。

次いで11月11日には領民に対しても、商品荷札に至るまで南部から盛岡への改変―例えば、「奥州盛岡何郡何町何村」の誰それ〜のように―と、「南部」と記載することの禁止を通達しています。

「国持」の身分になるか、ならないかでこうも意識が違っていたんですね。

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参照)「大名」→
※(参照)主君「押込」→

posted by 御堂 at 18:30 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

沖縄、復帰35年!

沖縄県は、今年の5月15日で昭和47年(1972)5月の本土復帰から35年目を迎えようとしています。本土復帰とはいいますが、沖縄県に住む古老たちの思いは、またしても日本に組み込まれてしまったという観方が正しい認識ではないでしょうか。

実際、「沖縄」という語句自体が征服した側(日本)が付けた呼び方です。戦国期の慶長14年(1609)の島津氏による琉球侵攻及び、幕末・維新期の明治12年(1879)の維新政府による琉球処分などヤマトンチュウ(本土側)の一方的な侵略によって出来上がったのが、沖縄県なのです。

武力による威圧によって強制させられた、自発的に日本に属した訳ではない琉球の人々にとってみれば、「沖縄」は植民地の名残、あるいは意識が植えつけられたモノ。本当の解放を実現しなければいけないと感じます。

「琉球」という文言は、14世紀末の琉球人が、主体的に採用した国名です。「沖縄」「琉球」、この2つの呼称は、いまだに沖縄県の中で共存しています。一般的見解では、歴史の時代区分に照らして、琉球処分以前の王国時代は「琉球」、以後の近代期を「沖縄」としています。

しかし、最近の研究では、「琉球」は国名で、「沖縄」は島名と明瞭に区分しています。

「琉球」という呼称の登場は古くは「流求」(『随書』流求伝)や唐の時代の「流求」中国・元王朝の時代の「瑠求」のように存在していましたが、これは中国大陸より東側にある島国全体を漠然と総称したものだったようです。

沖縄自体を指した呼称として登場したのは14世紀の末。中国・明王朝洪武帝から冊封を促す招諭を受け、文中元年・応安5年(1372)に中山王察度が弟の泰期を使節として派遣した際、招諭に対する返書の中で「瑠(琉)球国中山王察度」との明記(『明実録』太祖実録・洪武5年12月壬寅=29日=条)があり、これが正式、かつ公文書に記録された最初の「琉球」の名称となって、以来国名として定着していきます。

琉球王国の海外交易史料である『歴代宝案』(応永31年=1424=の条)にも「琉球国」と明記されており、15〜16世紀には「琉球」を国名として、対外・対内文書、碑文などに広く用いていた事がわかっています。「琉球」という国名を中国側が認識し、琉球王国側も利用したという、押し付けや強制を伴ったものではない事実がわかります。

500年続いた「琉球」の国名が消滅したのは、琉球処分の時でした。維新政府が断行した「県名の決定」では、「琉球国沖縄島」を「琉球」「沖縄」に分断。「沖縄」を県名にしたというタテマエと、「琉球」という“中国的な色彩”を意識させるものを払拭するのが狙いというホンネが見え隠れします。

「沖縄」は、史料の初出が応永11年(1404)の『東寺百合ひゃくごう文書』記載の「おきなう船」。次いで慶長16年(1611)、琉球を検地して石高を明記した薩摩藩の『一紙目録』の中の悪鬼納おきなわ島」に見られます。「悪鬼納」の表記から受ける印象からは、差別感や悪意が拭えませんよね。

また、15〜16世紀の長門本『平家物語』には「(源)為朝沖縄に流れ着いた」とあり、さらに遡って、8世紀の『唐大和上東征伝』には阿児奈波あじなわとの記載が見えます。

第二次大戦後、アメリカ軍統治下で「琉球」が復活し、アメリカによって「琉球政府」が誕生しました。そして復帰運動の中で、今度は県民自らが「沖縄」を選択し、以後30年以上が過ぎようとしています。

振り返ってみて、歴史的転換期の琉球沖縄には自己主張できる余地がほとんどなかったのが事実です。そして、これからも、東アジアの不安定な地政学上の位置関係からして、大国主義の犠牲となりかねないのが現実です。

私たち日本人にとっては征服民族が償わなければならない課題は山積み状態であり、それが解決しない限り、日本の近代史は終わりを見ないでしょうね。


    

posted by 御堂 at 23:18 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

世紀末と末法思想

よく「世も末だね」と言ったりしますね。

21世紀になった現在、私たちの周りでは理不尽で何ともやりきれない事件が相次いでおり、まさにこの言葉が当てはまるよう気がしてなりません。

仏教における歴史観に末法まっぽう思想」があります。終末期観念の仏教版ですね。

中国・唐の時代の僧、慈恩大師・の『大乗法苑義林章』巻第6に「教と行と証とを具えたるを名づけて正法しょうほうと為す。但だ教と行とのみ有るを名づけて像法ぞうほうと為す。教有りて余無きを名づけて末法と為す」と述べています。

すなわち、正法像法末法と来て、やがて法滅の世がやって来ると言うんですね。

正法とは、釈迦の入滅後から500年、あるいは1000年間続く世の事をいい、この時代は、釈迦が教えたきょうが正しい形で残っており、それに従って実践するぎょうをする人もいて、その結果として、しょう(=悟り)をひらく人がいる時代です。

像法は、次の1000年間続く世をさし、上記の「教」と「行」、つまり、「教え」と「修行」する人はいるが、「証」=「悟り」を啓く人がいなくなる…「教・行」の2つしかない時代です。

そして、末法とは、その後の1万年間続く世をさすのです。もう、この時代には「教」だけしか残っておらず、「行」をする人も、「証」を啓く人さえもいなくなる時代です。

そうして到頭、「教」さえもなくなってしまう法滅の世が来る―

というんですね。

末法の世に入る年次に関しては、仏教が伝来した諸国によって諸説分かれていますが、日本では
中国・六朝末から初唐にかけての僧、嘉祥大師・吉蔵きちぞうの『法華玄論』などを依拠とし、同じく初唐の僧、法琳の『破邪論』上巻に引用された『周書異記』には釈迦の入滅を「周のぼく王の五十二年、壬申の歳」(=紀元前949年)とするのに従って、永承7年(1052)より末法の時代に入ったとされ、当時の人たちも、

  • 「像法の世に有らむ事,遺る年幾くもあらず」(源為憲『三宝絵詞』永観2年(984)

  • 「末法の最年、此事有る、恐るべし」(藤原資房『春記』)

  • 「今年始めて末法に入る」(『扶桑略記』永承7年正月26日条)

  • 「まことには、末代悪世、武士が世になりはてて末法にもいりにたれば」(慈円『愚管抄』巻第7)
と認識をしたうえで、日記などに記載しています。

そして、末法思想への危機感を最も顕著に示したのが、

  • 永承6年(1051)、日野資業すけなりによって山城国宇治郡日野(現、京都市伏見区日野)に建立された日野薬師法界寺阿弥陀堂

  • 永承7年(1052)、藤原頼通によって山城国久世郡(現、京都府宇治市蓮華)に開基した平等院と、翌年の天喜元年(1053)に建立された平等院阿弥陀堂(通称、鳳凰堂)
の事例は有名なところです。

こうした末法の世は、永承7年(1052)に入って以降、現在に到るまで955年間が経過しました。

「末法万年」と言われていますから、あと9050年間ぐらいは、このような状態が延々と続いていくことになりますね。


posted by 御堂 at 03:42 | Comment(4) | TrackBack(1) | 歴史:コラム

明宮嘉仁(大正)天皇

嘉仁(大正)天皇ほどその存在が希薄な人はいないでしょう。

幼き頃より病弱な事が「力強き元首」のイメージを損なうとして元老や近臣から煙たがられ、しいては病状の悪化をわざと表面化させ政務が困難になったと言って人格そのものを無視されてしまいます。

ところが、嘉仁天皇は自由闊達で人間味あふれる人物でした。御学問所での詰め込み教育への反発、有栖川宮や大隈重信、原敬といった人達との自由な交流、皇太子時代には体力が優れないにもかかわらず全国を歴訪し、民衆と接する時も他愛もない普通な会話を楽しみ、皇后である節子妃(貞明皇后)のピアノ演奏に合わせて親王宮たちと一緒に唱歌を楽しむ様子はまさしく「人間・天皇」を先駆けた姿といえます。

しかし、「天皇制」というシステムは嘉仁天皇の優れ持った感受性を否定し、また天皇も自身の性格を変える事を拒んだため、ストレスが病弱な身体をさらに害していったのです。

嘉仁天皇の死後、節子皇太后は朝夕必ず嘉仁天皇の画像がある部屋に入っていたと言います。午前中のほとんどをこの部屋で「生ける人に仕える様に」過ごしました。

夫の命を縮めた「天皇制」というシステムへの無言の抵抗がそこには映し出されてはいないでしょうか。


  

posted by 御堂 at 03:22 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

「百姓」

「百姓」とは一体誰を指すのでしょうか?

江戸時代までの日本社会は、水稲耕作を中心とする農業社会であり、人口の大多数は農民だったと長い間思いこんできました。しかし、「百姓」とは本来、様々な姓を持つ“一般の人々”を指す言葉なのです。中国や朝鮮などでも、官吏以外の一般庶民を「百姓」と呼称しています。

農民に限らず、海の民や山の民、樹木に関わりを持つ人、更には、商人、手工業者など、多種多様な人々をを含めて「百姓」と呼んでいるのです。「百姓」=たくさん(百)の人(姓)、と解釈すれば納得がいきますよね。

1つの例として、能登半島の奥、石川県輪島市に平家の末裔で、平清盛の義弟にあたる平時忠の子孫である時国家という名家を例に挙げます。

時国家は田畑の経営を行っていただけでなく、大規模な廻船交易を行う企業家的な経営者であり、松前から佐渡、敦賀との間を航行する大型廻船によって、大津・京都・大坂を舞台に商取引を行い、巨大な利益をあげていました。

また海浜に多くの塩浜を持って製塩を行い、管理する山林の木材から炭を焼き、さらには近隣の鉱山の経営にも手を伸ばそうとしていた、いわば“総合商社”ともいうべき豪家でした。

この時国家の身分が実は「百姓」なのです。

たしかに300石という石高を持っていましたから、田畑の経営をしていたのは事実ですが、これだけで農民と捉えていたのでは、このような多角経営の姿はまったく浮かび上がってこないでしょう。

また、この時国家の100両もの借金の返済を援助するだけの財力を持っていた芝草屋という親戚の廻船商人は頭振あたまふり(水呑)という身分でした。輪島地方の人口の7割強は石高を持たない頭振(水呑)が集まっていました。

だからといって、交通も不便な貧しい辺境の地だと考えてはいけません。実際には土地など持つ必要が全くなく、専ら商工業に従事したり、海上交通によって富を得た大金持ちの頭振(水呑)たちがたくさん居た都市的な集落だったのです。

そして、こういう状況は奥能登だけではありません。山口県の上ノ関という港町の浦方という集落では、百姓に分類された人たちのうち6割が商人だし、亡土もうと(水呑)の中には農人は全く見られません。また、大阪の泉佐野の百姓で食野めしのという家は、泉屋・橘屋と称して廻船業を営み、秋田から松前まで進出している大商人でした。

こうした例からも明らかなように、江戸時代までの日本社会が「自給自足」の「農村」が大部分だったいうのは、全くの思いこみにすぎないのです。「百姓=農民」という「常識」は捨てましょうね。


posted by 御堂 at 14:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

孝明天皇の死の真相

孝明天皇は慶応2年(1866)12月11日頃から少し体調を崩していました。天然痘でしたが、24日頃には殆んど治っていました。

ところが、24日の夜に突然病状が悪化し、25日には血を吐いて夜中に崩御されたのです。孝明天皇の死因については、痘瘡(天然痘)で死んだと発表されました。

しかし、イギリスの外交官などは毒殺されたという話を聞いたと日記に記しており、死後間もない頃から毒殺説が流されていたようです。

孝明天皇が毒殺されたという事実は既に医学的にも解明されています。

孝明天皇の主治医だった伊良子いらこ光順みつおきの当時の日記とメモ(『天脈拝診日記』)が彼の子孫によって発見され、その中身が『滋賀県医師会報』という研究雑誌に発表されました。

その日記とメモの記録に残る孝明天皇の容態から、最初は疱瘡(痘瘡)、これから回復しかけた時の容態の急変は急性薬物中毒によるものとあります。

更に痘瘡自体も人為的に感染させられたものと診ています。

暗殺を図る何者かが、『痘毒』による暗殺失敗を知って、あくまで痘瘡による病死とするために、痘瘡の全快前を狙って、猛毒=砒素(亜砒酸)を混入したというのです。

当時の宮中では、医師が天皇に直接薬を服用することはできません。必ず、女官に渡して、女官が飲ませていました。

当時の女官たちの中で容疑者と推測できる者は、岩倉具視の実の妹である堀河紀子、匂当内侍だった高野房子中御門経之の娘で典侍だった良子が考えられます。

孝明天皇が死ぬ事で一番喜ぶのは誰かという事と、状況証拠から、黒幕はおそらく岩倉具視がだと考えるのが最も有力です。特に堀河紀子孝明天皇に一番気に入られており、毒物を入れるチャンスが十分あったからです。


posted by 御堂 at 01:33 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

韓国、ミニスカート禁止法、撤廃へ

お隣の国、韓国では軽犯罪軽犯罪法の1つで公然猥褻法(いわゆる「ミニスカート禁止法」)ってのが存在するのだそうです。

※(参照)時代遅れの「ミニスカート禁止法」、撤廃へ - 韓国→

時は1970年代の朴正熙大統領の軍事独裁政権時代のお話―

軍事政権とは、抑制の中で規範を求められるのが常なのですが、韓国においても、ご多分に漏れず、過度な肌の露出など、不適切な服装をしている女性を逮捕したり、罰金を科すなどの取り締まりを行っていました。

「ミニスカートの禁止」などはその典型的なもので、膝上1pでも短ければダメだったそうです。しかも、そうした女性たちのスカート丈に眼を光らせていた「ファッション警察」なるものも存在していました。

実際問題、韓国内でも30代以上の人たちは「ファッション警察」によるチェックを受けた経験が多くあるようです。また、国外からの観光・旅行者もチェックを受けて、慌ててジーンズを買った―という話もあったのだそうです。

しかし、1987年の民主化以降、「ミニスカート禁止法」は無意味化しており、この法律での逮捕者も居なくなっているのが現実!

時代の流れとともに「軽犯罪」の実態も変化してきているわけで、関係当局も「現代社会においては、もはや時代遅れの法律」と撤廃に向けて動きを見せているのだとか…




posted by 御堂 at 20:09 | Comment(2) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

高校日本史、自分の時はどーやったかな?

つい先頃、伊吹文部科学大臣の発言で「日本史を必修科目に!」ってのがありましたね。

えっ?日本史って必修とちゃうんだ?ってビックり!

何でも、平成6年度(1994・4〜)からグローバリゼーションの風潮に照らして世界史が必修で、日本史は選択科目になったのだとか―

そーいえば、専攻していた史学科のわが恩師(ゼミ指導教授)も「基礎知識のない学生が多くなった」と嘆いておられたっけ…

こと史学科に関して、スタートラインにおける差って結構大きいもんですよ。

大体、基本的に、

1回生は基礎購読とか、概論etc…
2回生は文献購読とか、概説etc…
3回生になって、演習購読、ゼミ開始、
4回生で卒論ゼミ

ってのが基本だと思いますが、

経験上感じるのは、推薦で入学した学生と一般で入学した学生とでは、同じスタートラインに立っているはずの4月の段階のはずですが、モチベーションの差がかなりあったりします。

推薦入学の学生は早い時期にピークに達している分、4月の時期はちょっと下降した感じになっています。

これに比べて、一般入学の学生はピークからまだ落ちきっていないんですよね。(言い方変えれば、昂ぶったまま…)

そんな中でも、とくに高校の頃から郷土史研究会系のクラブなどに参加していた学生と、これから初めて本格的に歴史(日本史・世界史)を習い始める学生とではうさぎと亀状態だったりします。

そんな中、ニュースでもやってましたが、富山県の高校で必修となっている世界史が履修されておらず、卒業できない恐れの学生が出てしまったのだとか―

不足分の50分×70コマの授業を履修するために、授業時間を増やしたり、集中講義で対応するとか言ってましたね。(→単位修得の事実はカバーできても、講習レベルで学生たちが知識をカバーできる程、歴史学は甘くはないですよ!)

センター入試まで約90日弱…私学を受験するならまだしも、国公立を受験する場合、他の科目との兼ね合いもあるから大変でしょうね。

まぁ、こうした事も全ては世界史のみを必修にしていた現実が仇になったのではないのでしょうか?

そこで、自分の高校時代はどうだったかな?と想い返してみたのですが、社会科で、

1年次に地理B(地誌学)←地理A(人文地理学)は選択!
2年次に日本史A
3年次に世界史A or B、政治・経済、倫理・社会

って感じでした。(僕の学生時は現代社会はなかったので…)

こと歴史の事だけを言えば、2年次に全学、日本史A(4単位)を履修して、3年次で各自に応じて世界史A(5単位)を取るか、世界史B(3単位)を取るか―でした。

私学を受験する学生は大抵、英・国・社での受験だったので、世界史B(3単位)の方を履修してましたね。

僕はというと、小学校の頃から歴史が好きになって、将来は歴史の勉強をするために大学の史学科に入学するんだ―と早々に目標を決めてましたので、日本史自体が高校で初めて習うのだし、ましてや世界史も初めて習うのやし、興味もあったので、世界史A(5単位)の方を履修したんですよね。

面白いのは、今思えば、史学科に入学して他の友人たちと違っていたのが、地理B(地誌学)を履修していたことです。(どーやら、わが母校だけだったみたいで…)

普通、地理A(人文地理学←気候区分とか習う方!)を必修にしてる学校の方がほとんどみたいなんですが、わが母校では地理A(人文地理学)は選択科目でした。←だから、3年次に履修しましたけどね!

史学科を目指す僕にとって恵まれたのは、2年次と3年次の担任が日本史・世界史の担当だった事です。

それぞれの先生が個性的な授業の仕方で、

2年次の担任=日本史の先生は、試験を一切されませんでした。

評価はすべて5〜10枚程度のレポート提出で、僕は長州藩の奇兵隊に関してレポートを書いて提出しました。

3年次の担任=世界史の先生などはもっと個性的で、試験はすべて論述式でした。

例えば、問題の数は4問で、問1は10文字以内、問2が20文字以内、問3が30文字以内、問4が40文字以内、すなわち計100文字以内で100点満点の論述試験って感じだったんですよ。

これは結構、文章力をかなりなくらい養わせてもらいましたよ(笑)。

結果として、入学した大学は小論文入試重視のところだったので、高校時の先生サマサマ!と断言できます。

加えて高校の履修科目では、歴史の知識に必要だから…って事で、美術(史)も書道(史)も音楽(史)も、ましてや古文や漢文も「ゼッタイ、必要なんやし!」って事で、履修しましたよ。

自分がそうやって経験した事を思えば、富山の高校の件で、言い出しっぺは学生の方から受験に関連性のない科目はカリキュラムから外してくれ!とあったようですが、必要のない科目なんてない気がします。

僕は人文系の科目が得意な反面、理数系の科目が全くの苦手なわけですが、大学に入学したとて一般教養(基礎課程)時に習わざるを得ないわけですし、苦労しましたもん!(笑)

現代の学生さんたちは、単位選択制に慣れきっちゃっているみたいですが、結局は総合力が必要だし、それを乗り切って以降だったら、専門分野で自分の力をより発揮でき得るのだから、選り好みしない教育に持っていきましょうよ!!

posted by 御堂 at 04:41 | Comment(2) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

安倍晋三内閣発足!

安倍晋三自民党総裁が第90代内閣総理大臣に就任しましたね。

亡き父・安倍晋太郎氏の悲願とでも申しましょうか。一族・係累にとっての念願とでも申しましょうか。

とにかくも、山口県=長州系8人目の総理大臣が誕生したわけです。

世間一般で取り沙汰されているのは、

安倍晋太郎の息子
岸信介の孫
・大叔父には佐藤栄作
・外戚に松岡洋右

という、まさにサラブレットな“長州閥”な人物ですね。

さらに、歴史的な事を言えば、

安倍晋三首相は、前九年の役(永承6年〜康平5年:1051〜1062)で朝廷軍に破れ、伊予国桑村郡(現在の今治市上徳周辺)に配流された安倍宗任(ほら、ほらっ、大河「炎立つ」では川野太郎さんが演じてた人物ですよ!)を祖とする一族でのようです。

安倍宗任は平安時代の陸奥国の豪族・安倍頼時の三男で、北上川流域の奥六郡(現在の岩手県内陸部)を治め、衣川柵(奥州市衣川区)及び厨川柵(盛岡市)を主な拠点としていました。

そのルーツははっきりしていませんが、『陸奥話記』には、安倍宗任の祖先である、忠頼東夷の酋長)―忠良頼時の3代について、朝廷に従った蝦夷えみし俘囚ふしゅうの流れとして記載されていますね。

さて、安倍宗任は配流とは名ばかりで、河内源氏(頼義・義家)にとって安倍宗任は殺すには惜しい武将だったのでしょう、河内源氏嫡流のステータスシンボル・伊予守の本拠である伊予国にその身柄を留め置き、領地を与えました。

その後、筑前国宗像郡大島に配流され、その地の武将・宗像氏に味方し、その地で安倍宗任は永眠します。

安倍宗任には男子が3人いて、

長男である安倍宗良は大島太郎・安倍権頭と名乗り、大島の惣領を継ぎます。

次男の安倍仲任は薩摩に行ったとか…

三男の安倍季任は肥前国松浦に行き、松浦まつらの娘婿となって松浦三郎大夫実任と名乗ります。その子孫は北部九州の水軍松浦党を構成する一族になったとも云われています。

この安倍季任(松浦実任)の子孫の松浦高俊は、平清盛の側近で平家方の水軍として活躍したために、源平の争乱(治承・寿永の乱)以降、長門国大津郡(現在の山口県長門市油谷)に流罪となり、源氏からの迫害から逃れるために安倍氏に復した―

で、その子孫にあたるのが、安倍晋三首相ってわけです。

以上を踏まえて、今回の安倍晋三内閣の成立を

蝦夷と呼ばれた俘囚の、倭寇と呼ばれた海賊の子孫が一国の長になった―とみるのも一興ですね!

posted by 御堂 at 18:39 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

豊臣体制論(4)―「豊臣の子」

現在放送中のNHK大河ドラマ「功名が辻」もいよいよラストスパートですね。

ここ数回は「豊臣の子」「太閤対関白」「関白切腹」といわゆる秀次事件のてん末です。

過去において豊臣秀次役として僕自身の記憶に残っているのは、「黄金の日日」での桜木健一さん、「おんな太閤記」での広岡瞬さん、「独眼竜政宗」での陣内孝則さんですが…今回「功名が辻」で演じておられる成宮寛貴さんは最期をどう演じてくれるのでしょう?

秀次といえば、“殺生関白”のレッテルを貼られているので有名ですね。

これは先帝であった正親町天皇が崩御されて、その公家たちが諒闇中(=喪に服している)時期に、比叡山において鹿狩りをしたという噂から、“殺生”を好む人物として揶揄されたのがそもそもの起こりですが、現実に、鹿狩りをしていたのは太閤秀吉であって、秀次としては悪評を全て植え付けられちゃったのが事実です。

秀次という人物は、阿波の三好康長の養子として三好信吉と称していた時期があります。三好氏といえば堺の町衆=会合衆との文化交流を盛んに行うなど、文化的素養が身に備わっていました。

堺といえば南宗寺に代表されるように臨済禅の大徳寺派と関わりが深かった地域でもあります。

そんな中で、秀次は修練して教養を身につけ、古典籍や和歌、そして同時代の文化人たちのパトロンとして支援します。それが故に“文の君”とも呼ばれているのですよ。

さて、番組のタイトルとして「豊臣の子」という表現がありましたね。

実はこの「豊臣の子」というキーワード、実に深いものがあるんですよ。

― ◇ ◇ ◇ ―

豊臣秀吉は現代のように戸籍上に表記するとすれば、次のどれが該当するでしょうか?
 (1)羽柴秀吉
 (2)豊臣秀吉
 (3)1と2の両方とも

実は、正解は(3)の羽柴秀吉と豊臣秀吉、両方とも正しいが正解です。

秀吉の正式な名称は、

 羽柴 前関白 太政大臣 豊臣朝臣 秀吉

となります。

 羽柴は名字(苗字)
 関白令外官りょうげのかんの官職名
 太政大臣律令制での官職名
 豊臣朝臣は氏・姓

となっています。他の例でいえば、

 徳川 前征夷大将軍 太政大臣 源朝臣 家康

って感じですね。

つまり、秀吉も、秀長秀次、そして秀頼も死ぬまで「羽柴…」であり、「豊臣…」だったことになるのです。

ただし、同じ事が石田三成も、大谷吉継福島正則らにも言えて、彼らも「豊臣…」なんですよ(『歴名土台』参照)

さらには、徳川家康も、前田利家、上杉景勝や毛利輝元伊達政宗…も「豊臣…」だったのです。

つまり、豊臣秀吉の治世下では、皆が「豊臣の子」だったと言えるのです。(言い換えれば、「豊臣…」と付かない大名領主・小名領主たちは所領安堵もなかった―という事ですね。

昔観た大河ドラマ「秀吉」千利休(仲代達矢さん)が切腹した後に、秀吉(竹中直人さん)や北政所(沢口靖子さん)、大政所(市原悦子さん)に追及される石田三成(真田広之さん)…というシーンがありました。

その際、秀吉にオマエは何様のつもりだ!と責められた三成のひと言がまさしく「豊臣の子です!」というセリフだったのです。

このセリフを聴いた時、僕自身、この「秀吉」ってドラマの(僕にとっての)キーワードだな、って感じたことがあります。

それだけに留まらず、「豊臣体制」を研究する僕にとっての最大のキーワードを教えられた気がしたんですよね。

― ◇ ◇ ◇ ―

ところで、今回の秀次事件でも、石田三成が首謀者的立場として描かれていますが、それについては大いに疑問があります。

三成は後に「五奉行」の一員とされますが、筆頭が浅野長政だとして、その地位は4番目。最後の前田玄以が寺社関係や京都奉行であったことを差し引くならば、三成「五奉行」の末席の地位でしかありません。

したがって、三成秀次事件の首謀者だという事は絶対にあり得ないのです。

ましてや、今日放送の「太閤対関白」でも登場しましたが、前野長康・景定(長重)父子に仕えていた“舞兵庫”(前野忠康) や秀次の精鋭“若江八人衆”たちが石田三成方として関ヶ原でも獅子奮迅の活躍を見せています。

三成が首謀者だった場合に、殻らが素直に仕官するとは思えません。(これは現代的感覚で言っているに過ぎませんが…)

もっと肝心が事は、三成自身がこの時、京に居なかったという事実です。

秀次事件の首謀者は長束正家増田長盛の仕業だったんですよね。

一体、いつの時代まで、三成の仕業として語られ続けるのでしょうね?

今回、前野景定(長重)が映像としては初めて登場したのではないでしょうか。この景定(長重)の妻は細川忠興・玉(ガラシャ)夫妻の長女の「お長御寮人」です。

実は、お長も捕縛され処刑されるところだったのですが、出家することで、実家に帰されます。元々、前野家はキリシタンでお長も母・ガラシャと同じようにキリシタンとなります。

関ヶ原合戦の年、ガラシャ三成方の捕縛命令に抗して亡くなる際、お長ガラシャと共に死ぬ事を懇願しましたが、ガラシャは他の姉妹たちと共に脱出させています。

そうして、慶長8年(1603)、24歳の若さでなくなったのです―

このエピソード、誰かドラマ化してくれないかなぁー


― ◇ ◇ ◇ ―

※(関連)豊臣体制論ノート(3)―軍役体系―→
※(関連)豊臣体制論ノート(2)―「在京賄料」について―→
※(関連)豊臣体制論ノート→


posted by 御堂 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

命名の儀

秋篠宮文仁親王・紀子妃両殿下の3番目のお子さまは、皇室にとって41年ぶりの皇子誕生となりましたね。

赤ちゃんが生まれて7日目―この日をお祝いするのが「お七夜」です。さらに「名付け祝い」として、赤ちゃんの名前を決める「命名の儀」が行われます。

東宮とうぐう(皇太子)家の女一宮・敬宮としの 愛子内親王ご生誕の際は、主上おかみ(今上天皇)が名目上は名付け親となりましたが、宮家の場合は秋篠宮両殿下が名付ける形となります。

それに、前の東宮家がそうだったように、幼少期の浩宮、礼宮あやの のように「○宮」という称号は宮家には付きません。

実際、愛子内親王は、敬宮という称号が付きましたが、秋篠宮両殿下の皇子(女)である子内親王子内親王は「○宮」とは呼ばれていませんし、今回誕生した宮にも称号は付きません。

…ということで、天皇及び皇族の戸籍簿である「皇統譜」に皇子の名前と生年月日が記載されるのです。

さて、気になるのは、そのお名前ですね。

これまでの主上(天皇)を見た時、圧倒的に「○仁」という御名が多く、次いで「○良」「○成」「尊○」「懐○」…といった感じになっています。

因みに、今上天皇は明仁、東宮徳仁なるひと、そして秋篠宮は文仁という名前ですね。

「○仁」の場合、古くは清和天皇(惟親王)がおられ、一条天皇(懐親王)以降、今上天皇(明親王)まで多数を占めています。

「仁」という語には「有徳の人」など意味が含まれており、ましてや、持明院統〜伏見宮〜閑院宮の系統でもあるので、云わば「北朝系」の証でもあります。

なかでも、持明院統系伏見宮流後花園天皇は、吉野(南朝=大覚寺統)は覇道、
朕は“道義を重んじる”王道をめざす、と仰ったとか―

故に、「仁」にこめられた意味は、「北朝系」たるが由縁を物語っているのです。

それに対し、「○良」は主に大覚寺統、つまり南朝系の親王に多く使われた御名です。

北朝系にも若干おられますが、その場合、「良」「よし」と読まれます。それに対し、南朝系の親王は「なが」と読ませるケースが殆んどです。(後醍醐天皇の皇子で大塔宮・護親王などは「もりよし」でなはく、「もりなが」が正しい呼び名ですね。同じく後醍醐天皇の皇子で征西将軍宮・懐良親王も「かねよし」ではなく、「かななが」と読んでいます。ごく最近で昭和天皇の皇后だった香淳皇后なが子女王ってのもありますが…)

歴史を知ってる者から見て、面白いのは「○成」「尊○」が御名が付いた方々でしょうね…前者は後一条天皇(敦親王)、後鳥羽天皇(尊親王)、順徳天皇(守親王)、仲恭天皇(懐親王)、長慶天皇(寛親王)、後亀山天皇(熙親王)、後者は後三条天皇(仁親王)、後鳥羽天皇(成親王)、後醍醐天皇(治親王)、良親王(後醍醐天皇の皇子)など、がそうなんですが、何となくわかりますよね…

とくに後鳥羽天皇(尊成親王)は承久の乱、後醍醐天皇(治親王)は正中、元弘の変、南北朝の動乱との関わりがあるし、後鳥羽天皇(尊成親王)―順徳天皇(守親王)―仲恭天皇(懐親王)の皇統3代、後醍醐天皇(治親王)―良親王(後醍醐天皇の皇子)―後醍醐天皇の皇孫、長慶天皇(寛親王)、後亀山天皇(熙親王)の皇統=南朝系、って事もあるから、「不吉」がられたとか、忌み嫌われたんでしょうね。

それ故に、もし仮にでも、「尊」「成」親王とでも命名されたとしたら、(後鳥羽天皇への命名の先例があるが、)“大変革をもたらす”人物かも!という期待感があるんですけどね…

ともかく、一般的な話として、新しくお生まれになった宮は、「秋篠宮○仁親王殿下」という名前になるのが妥当なところしょうね。

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posted by 御堂 at 16:07 | Comment(2) | TrackBack(1) | 歴史:コラム

大垣城―「肝心」な場所―

“水都”岐阜県大垣市に建つ大垣城。この城の持っていた意味合いって、戦国時代には大変重要なものでした。

この大垣城をキーポイントとする重要な戦いとして、

(1)小牧・長久手の戦い
(2)関ヶ原の戦い

が挙げられるでしょう。

(1)に関しては、補給基地=兵站地としての役割を担った場所と解釈すればよいでしょうから、ここでは主に(2)に関して見ていこうと思います。

そもそも、大垣城のある場所は、木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)の一番西側にあたります。

この辺りの地形は「濃尾傾動運動」という地殻運動―濃尾平野の西側程沈降し、東側はより上昇する事で,平野部全体が西側へ傾く運動で、平均して毎年約0・5o程の速度で沈降しており、それは今現在も継続中です―によって、水害多発地帯となっています。(→参照)

さらに悪い事に、西側にあたる養老・伊勢湾断層の影響で、養老山脈が年々隆起・上昇活動をしており、大垣市内は東西の受け皿のような断面なのです。

大垣城の位置を上空から見た場合に、東側からは木曽川→長良川→揖斐川とまるで河岸段丘のような地形、西側からは養老・伊勢湾断層による土地沈降運動の地形で、まさに大垣城の立地は受け皿的な場所なわけです。

という事は―すなわち「水城」にはもってこいな地形といえます。

さらに、それを物語る史跡があります―明治29年(1896)に大洪水に見舞われた際の大垣城の古写真とその水位を示した石垣と石碑です。

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この状況下をみて考えたら、大垣城内は長期戦=籠城戦の構えに長けた構造だといえますね。

しかも、羽柴秀吉の家臣団構成として尾張衆・美濃衆などは長良川の川筋一帯に根をはってた土木・灌漑技術のテクノクラートばかり…秀吉の城造りの基本は「水城」ですもんね!

現実に後年、大坂の陣で豊臣方の武将が寝屋川を決壊させて大坂城を「水城」にしようとした動きもあったくらいですしね…

こうして大垣城が「水城」状態になれば、水軍が河川を上ってくることも作戦の1つとして考え付きます。(←長島の一向一揆制圧をケースとして考えれば、九鬼水軍なんか適してますよね!)

果たして、東軍方の諸将(=こちらも、秀吉のもとで「水城」攻めを経験した福島正則や、大井川の堤防工事などを担った山内一豊などがいますよね)は水の被害を避けるため、平野部から小高い丘陵部の赤坂岡山に陣取るしかありませんでした―

後は西から追っかけてくる西軍の軍勢と呼応すれば、大垣城にあった西軍の本隊は水陸両面から攻め立てる事が可能です。

そうした大垣城の重要性を秀吉はどう考えていたのか―それを探る面白い史料があります。

それは秀吉が、天正13年(1585)に大垣城の城主に任じられていた加藤光泰を罷免した際の理由を家臣団たちに説明した書状の中で、「大柿肝心之所候条、城米又ハ何事も在々自然東国辺へ人数を遣候時之兵粮之ため…」と言っています。

秀吉「自然東国辺へ人数を遣候時之兵粮」を備蓄する場所、つまり(東国の武将との)将来の戦争に備えて「城米」「兵粮」を備蓄される場所として大垣城の存在があるんだ―と説いているんですね。

しかも、この「兵粮」の内訳には米と大豆を指定しています。麦を指定していないところがポイントですね。

米と大豆…人の兵糧としての米、軍馬などの馬糧としての大豆、であるわけで、耕作に従事するに必要な牛のための食糧としての麦を指定していません。

こうした条件からも、大垣城の位置、重要性が見えてきませんか!


― ◇ ◇ ◇ ―

※(参照)「木曽三川、治水との闘い」→

posted by 御堂 at 01:49 | Comment(3) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

“児童虐待はいけません”―幽霊絵馬のお話!

杉板に手鏡がはめ込まれ、おふみの姿が描かれた幽霊絵馬

江戸時代も後半のお話です。

文化13年(1816)の京、竹屋町通柳馬場にて質屋がありました。

そこの主人・八左衛門は強欲非道で、考えることは“金”のことばかり…近所の人々からも“鬼の八左衛門”という蔑称がある程―です。

この八左衛門に子どもが生まれ、生活とは裏腹に、子どもは立派に育てたいと子守り捜したところ、近江(滋賀県)から来た百姓娘「おふみ」が子守りをする事になりました。

おふみは10歳で、子ども好きな事もあり、鬼八左衛門の子供も直ぐになつきました。

3年が過ぎ…

八左衛門は、おふみに対し、さして不満はなかったが、1つ気にかかるのが、子供を連れて、近くの革堂にしょっちゅう行く事でした。

革堂とは行願寺と云って、天台宗延暦寺派の末寺で、千手観世音を安置する西国三十三か所第十九番霊場になっています。

おふみにすれば、革堂の境内は静かだし、善男善女が西国十九番の、この札所を訪ねてくる様子も楽しく目に映っています。

子守り歌も知らない田舎娘のおふみにとり、御堂から聞こえてくる、巡礼者らが詠む御詠歌を覚えては子守りの時に唄っていました。

ある日、おふみは、いつものように御詠歌を子守り歌に唄いながら子どもを背負って革堂から帰って来ました。

日頃から、そうした様子が気にくわなかった、強突張ごうつくばりな八左衛門は怒って、おふみの襟髪をつかみ、殴る蹴る…の折檻を働いた挙句、遂には、おふみは息絶えてしまいました。

驚いた八左衛門は、国許のおふみの父親に「おふみは男と逃げた…」と嘘の知らせを届けます。

この知らせに父親はあわてて上洛し、八左衛門に謝りました。

けれど、おふみの父親は八左衛門の話す内容に合点がいかず、革堂の観音様にお祈りをしました。

すると…父親の目の前に、おふみの姿がぽっ!と現れ、

私は御主人様に殺され庭に埋められています。ここに鏡を置いておきますから、どうぞ一緒に弔って下さい
と頼み込むではありませんか。

八左衛門の悪事が露見したのは言うまでもありません。

おふみを不憫に思った父親は、おふみの菩提を弔って、供養のために自分が見たおふみの亡霊姿絵馬に描かせて、鏡を添えて革堂に奉納しました。

おふみ絵馬はいま、本堂十一面観音の横に納められています。縦1・5m、横1mの杉板に、鏡がはめ込まれ、おふみの姿が描かれていますが、現在ではすっかり色褪せてしまい、殆んど輪郭さえつかめない位にかすかに見える程度です。

絵馬はお盆の時期の毎年8月22日〜23日に、本堂にて公開されています。

posted by 御堂 at 22:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

北方四島の話

1991年(平成3)10月4日付のロシアの『イズベスチヤ』紙掲載の論文中にて明らかにされた事実は国内外を問わず、日露関係研究者たちに大きな衝撃を与えました。

その事実とは、ロシア皇帝ニコライ1世が長崎に向かう使節プチャーチンに対し「北方四島(歯舞・色丹・国後・択捉)を日本の領土と認める形で日露国境を決着して差し支えないことを予め認める」との訓令があったという事実です。

すなわち、「クリル諸島のうち、ロシアに属する最南端はウルップ島であり、同島をロシア領の南方における終点と決めて構わない。これにより、我が方は同島の南端が日本との国境となり、日本側は択捉島の北端が国境となる」という解釈で、つまり、ロシアは日本の北方領土の帰属を完全に承認していた訳で、逆にロシア側はウルップ島以北の帰属を日本側が要求してくる事を懸念していたのです。こうして安政元年12月21日、日露両国間に日露和親条約(下田条約)が調印され、公式に国境が画定しました。

さらに明治8年(1875)5月7日、千島・樺太交換条約(サンクト・ペテルブルク条約)が調印され、ロシアが樺太全島を、日本が全千島を領有する事が認められました。

悲劇が起こったのは、昭和20年(1945)2月4日から11日に行われたヤルタ会談の席上での事、米ソ間で交わされた密約の存在が北方領土の運命を変えてしまったのです。

すなわち、アメリカ大統領ルーズベルトがソヴィエト連邦首相スターリンとの間に交わした対日参戦の報償の中で、南樺太およびクリル列島のロシアへの引き渡しに合意したのです。

ルーズベルト歯舞・色丹・国後・択捉の四島が平和的交渉の基で日本に帰属した領土であるにもかかわらず、明治37年(1904)の日露戦争によって日本が占拠した領土と決めつけました。

※後になってわかった事ですが、ルーズベルトは共産主義、というか第一インターナショナル推進派で、ソヴィエト連邦に有利になる方策を全ての政策において採っていた事実が明らかになっています…とすれば、知っていてうやむやにした―ことも考えられますね。

結局、スターリンの思惑通り(=帝国主義的野望)に事が運び、スターリンの指令の下、昭和20年(1945)8月28日〜9月5日にかけて釧路〜留萌間のライン上以北の北海道地域と北方四島への上陸・占領作戦が敢行されました。ソヴィエト連邦の歴史書には北方四島の占領を9月1日としています。日本がミズリー艦上で降伏文書に調印し、戦闘行為が終結したのが9月2日の事。ソヴィエト側は何としても9月2日以前でなければならなかったのです。この見解は現在もロシア側は否定していません。日露間に平和条約が結ばれるのにはまだ遠くて永い年月がかかりそうですね。

― ◇ ◇ ◇ ―

※(関連)昭和20年8月、樺太の悲劇―その2 ドラマ「天北原野」と三船殉難事件→
※(関連)昭和20年8月、樺太の悲劇―その1 映画「樺太一九四五年夏 氷雪の門」と真岡郵便電信局事件(1)→
※(関連)1945年8月15日→


   

posted by 御堂 at 21:33 | Comment(0) | TrackBack(1) | 歴史:コラム