近衛経忠と「藤氏一揆」、そして…

時は南北朝時代の幕開け時期―南朝(吉野朝)方の重臣・近衛経忠が、東国に拠点を置く藤原姓の小田・小山・結城氏らに呼び掛けて、「藤氏一揆」、すなわち藤原氏連合を結成させ、小山朝郷を坂東管領とし、自ら藤氏を束ねる関白(&氏長者)として天下を掌握しよう―という動きを見せた。

こういう図式ですね―

「関白(氏長者)」近衛経忠

「坂東管領」小山朝郷

小田・小山・結城氏の諸氏

この時期の東国は、検断奉行の地位にあって、南奥羽から北関東にかけて広範な勢力を有する白河結城氏を中心とした国人一揆の結集(あるいは拠点作り)に精力を傾けていた北畠親房常陸国小田城に拠っていました。

結果として、「藤氏一揆」は起こらなかったのですが、こうした近衛経忠の画策は、北畠親房のそれと相俟って、南朝(吉野朝)方の二律背反な政策を露見させてしまい、東国の南朝方に疑心暗鬼を生じさせ、逆に不信感を募らせてしまい、東国の南朝方は分裂してしまいます。幕府方の一掃や抑止力を形成しようと目論んだ北畠親房の思惑は外れ、親房は虚しく吉野へ帰京します。

― ◇ ◇ ◇ ―

一体、近衛経忠はどうして「藤氏一揆」を企てようとしたのでしょうか?

多く言われている主張として、南朝(吉野朝)系の中で主戦派と講和派の対立が挙がります。

この場合、主戦派の代表格は北畠親房という事になります。近衛経忠は、実は講和派の1人で、講和をスムーズに持っていくとすれば、主戦派の親房の存在は差し障りがあるので、この際親房を排斥しようとした―というものです。

― ◇ ◇ ◇ ―

実際のところ、近衛経忠という人物をどう捉えるべきでしょう?

経忠の祖父で伏見天皇摂政・太政大臣を務めた近衛家基には、2人の男子がいました。1人は長男である家平(=経忠の父)、もう1人は次男の経平です。このうち、家平は長男ですが、母は鷹司家出身の女性でした。経平は次男ですが、母は亀山天皇の皇女でした。

家基は生前から自分の跡には母親が亀山天皇の皇女である経平とし、家平を後見役にしようと考えていた節があります。

家基の死後、遺言など何処へやら、家平関白・左大臣となります。家平経平近衛家の嫡流争いをして対立し、それがそのまま2人の息子たちの代にも続く事となって、経忠経平の子・基嗣と争うのです。

ちょうど後醍醐天皇が即位して以降、経忠関白藤氏長者として重用されます。ライバルである基嗣後醍醐天皇の皇女を妻としているのもかかわらず…きっと経忠は才に長けていたのかもしれませんね。

建武の新政が成って以降も、経忠は再び左大臣藤氏長者として重用され続けます。

その後、足利尊氏が入京し後醍醐天皇が吉野へ逃れた後に尊氏が擁した光明天皇が即位すると、経忠関白に任じられます。

経忠は密かに京都を脱出し吉野へ走ります。激怒した光明天皇経忠を解任し基嗣関白にします。

南朝(吉野朝)での経忠内覧・左大臣・藤氏長者を歴任し、後村上天皇関白を務めています。

とは言っても、村上源氏系の北畠親房の政策面での対立などがあって、一度吉野を出て京都に舞い戻っています。

ところが、京都に舞い戻ったとしても、所領や権限は全て基嗣側が握っており、当たり前の事ですが、京都には経忠の安穏の地では無くなっていました。

そこで、才の溺れた経忠「藤氏一揆」構想を画策したのかもしれません―

― ◇ ◇ ◇ ―

こうした近衛経忠「藤氏一揆」構想を具現化しようとした人物が約220年後に現れます。

永禄3年(1560)9月、近衛前久の関東下向」がそれです。

図式で示すと、

「関白」近衛前久

「関東公方」足利藤氏

「関東管領」上杉輝虎

関東地方の諸氏

この構図は「藤氏一揆」って訳じゃないけど、意外と先例として聞かされていたのかも…

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さて、近衛経忠ですが、彼は正平7年・観応3年(1352)に亡くなります。北畠親房が翌々年の正平9年・文和3年(1354)に亡くなるので、対立は相打ちといった感じかな!

ただ、経忠にとってみれば、確かに建武の新政下で後醍醐天皇即位中は天皇親政って事で、院政(=治天の君)も置かず、摂政・関白征夷大将軍も設置されずにいましたが、後醍醐天皇薨去後は南朝(吉野朝)であっても、院政摂政・関白征夷大将軍も復活しているのです。

現実に近衛経忠もその子、経家二条家の者たちも南朝(吉野朝)方の摂関として君臨しています。

それ故、近衛経忠北畠親房と共闘していれば、また違った南北朝の抗争が観られたのに!と思う感じがします。

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“無言参り”で大願成就!

祗園祭“無言参り”

7月17日、今年も祗園祭山鉾巡行が終りました。そして、夕刻には八坂神社から東御座みくら(祭神は櫛稲田姫命)、中御座(祭神は素戔嗚尊)、西御座(祭神は八柱御子神)の3基の神輿に渡御わたましされた八坂神社の神様が鴨川を越え、北は二条通、南は松原通、西は寺町通、東は東大路通に居住する氏子たちの家々を練る歩き、寺町四条にある御旅所へ鎮座される。(神幸祭

祗園祭“神輿渡御”

17日の催された山鉾巡行は、いわば神幸祭の露払い的なもの。巡行した山や鉾が掃き清めた後を神輿が通過される。

何故、寺町四条に御旅所があるのかというと、その昔、四条大橋は常設されていませんでした。(常設されていたのは、三条と五条だけ…)そのため、鴨川以西に居住する八坂神社の氏子たちにとっては1週間という短い期間であっても御旅所に神輿が鎮座されるのは有り難い事だったのです。

祗園祭“還幸祭”

神輿は1週間後の24日まで鎮座され、今度は“祗園町の祗園祭”と呼ばれる花傘巡行によって掃き清められ、八坂神社に還幸される。(還幸祭

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さて、神輿が御旅所で安置されたその夜から祗園町に伝わる芸妓さん・舞妓さんらの古くからの風習に“無言参り”というのがあります。

24日に神輿が八坂神社に還幸されるまでの七日七夜、御旅所にお参りし続け、その往復の道中にたとえ知人と会っても挨拶も会話もしてはいけない―必ず「無言」を貫くという願掛けです。

かなり厳しい風習ですね。でも、必ず願い事が叶うと伝えられているので、熱心に詣でる人も多いようですよ!


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※(参照)「祗園祭どすえ!」→
※(参照)「祗園(御霊)会」→

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浄瑠璃坂の仇討

寛文12年(1672)2月3日未明の事―

寛永11年(1634)11月2日、渡辺数馬と荒木又右衛門が数馬の弟の仇である河合又五郎を伊賀国上野の鍵屋の辻で討った伊賀越の仇討ち事件(鍵屋の辻の決闘)や元禄15年12月14日(1702)、大石内蔵助くらのすけ以下47名の旧赤穂浅野家遺臣による吉良内蔵允くらのすけ上野介及びその家臣たちを斬殺した元禄赤穂事件(赤穂浪士の討ち入り)に並ぶ「江戸三大仇討ち」として知られる浄瑠璃坂の仇討ちが、旧宇都宮奥平家家臣・奥平源八とその一党によって、行使されました。

事の発端は―

寛文8年(1668)3月2日、臨済宗妙心寺派・神護山興禅寺(栃木県宇都宮市今泉)で催された前宇都宮城城主・奥平忠昌の60日忌法要での事。

当時、奥平家家中には長篠の戦いで武勲を挙げて以来、将軍に対し永代御目見えを許されるという特権を得た「七族五老」と呼ばれる重臣12家(のち「大身衆」)がありました。

この忠昌の法要において、奥平家の譜代衆である「五老」側の奥平内蔵允くらのすけ奥平家の一門衆にあたる「七族」側の奥平隼人はやとの2人が些細ささいな事から口論となり、憤慨した内蔵允くらのすけ隼人はやとに斬りかかったのです。

実はこの2人、武断派の隼人はやとに対して内蔵允くらのすけは文治派だった事から、常日頃から隼人はやと内蔵允くらのすけを軽侮していたのです。

度重なる罵倒雑言に耐えかねた内蔵允くらのすけですが、やはりというか…逆に返り討ちに遭って深手を負います。(宇都宮興禅寺刃傷事件

その場に居合わせた「大身衆」の同輩・兵藤玄蕃げんばなどの仲裁によって、双方はそれぞれの親族宅へ預かりの身となりますが、内蔵允くらのすけはその夜に自刃。藩庁へは興禅寺での刀傷かたなきずがもとで「破傷風はしょうふうで死去」と報告されます。

主家である奥平家にとっては、よりにもよって前藩主の法要での、重臣同士による刃傷沙汰にんじょうざたでありながら、裁定がなかなか定まらない状況が続きます。

裁定が定まったのが、事件から半年を経た9月2日の事。奥平家奥平隼人はやとを改易、内蔵允くらのすけの遺児で12歳の源八、並びに内蔵允くらのすけの従弟・伝蔵は家禄没収の上、追放が申し渡されます。

結果として、両者ともに奥平家を追放させられたので、喧嘩両成敗の感じかな、と思われがちなのですが、実は双方の処遇には大きな差があったのです。

喧嘩両成敗というのなら、隼人はやとは切腹のはず!それが、源八らは即日退去を命じられたのに対し、隼人はやとらには護衛を付けさせて送り出しているのです。

奥平家の家中では、この処分に対し喧嘩両成敗に反しており不公平である、と追放された源八らに同情する者が続出し、奥平家を見限って浪人した者さえ出てくる始末…

源八に同情して自ら浪人の身となった同志は40数名に及び、これらの者たちが源八と徒党を組んで、仇討ちを決意していくのです。

仇討ちの作戦計画・立案・実行の首謀者は「桑名頼母たのもという知られざる智謀の士であった」(『中津藩史』)と云います。

― ◇ ◇ ◇ ―

浪人となって仇討ちの機会を臨んでいた源八ら一党は寛文9年(1669)7月3日、まず手始めに、追放処分を受けず奥平家とどままっていた隼人の実弟・奥平主馬允しゅめのすけ奥平家の転封先である、出羽国村山郡の上山かみのやま(現、山形県上山市)で待ち伏せし、討ち取ります。

源八らの襲撃を予想した隼人はやとは江戸市ヶ谷いちがや浄瑠璃坂(現在の東京都新宿区市谷砂土原町いちがやさどはらちょう)の鷹匠頭たかしょうがしら戸田七之助の屋敷へ身をかくします。

源八ら一党は 隼人はやとを付け狙い、ついに寛文12年(1672)2月3日未明、源八とその一党42名は隼人はやとの潜む戸田屋敷へと討ち入ります。

隼人はやとの父・半斎を討ち果たしましたが、当の隼人はやとを見つけられず、一党は本願を断念し、屋敷から引き上げます。

ところが、一党が牛込御門前まで来たところで、隼人はやとが手勢を率いて追ってきたのです。源八らはとって返し、隼人はやとと対決しその首級を見事討ち取ります。

その後、「奥平源八、同伝蔵、夏目外記、右三人之者御尋之儀ニ候間、早々罷出可申候。尤宿仕候者有之候ハ、急度可申出候」という幕府の「おぼえ」が布達され、源八ら一党は幕府に出頭して裁きを受けます。

武断政治から文治政治への転換を進めていた幕府は、この行為を赦さずに断罪に処す様相でしたが、当時の大老井伊掃部頭かもんのかみ直澄源八の態度に感銘したのか、この度の行為は「孝心の手本、武士のかがみ」と評価し、死一等を減じて伊豆大島への流罪を命じます。

源八は流罪から6年後の延宝6年(1678)に天樹院(千姫)13回忌追善法要による恩赦の後、井伊家に200石で召抱えられています。

― ◇ ◇ ◇ ―

さて、この「浄瑠璃坂の仇討」ですが―

源八ら一党40人以上が、(1)徒党を組んで、(2)お揃いの衣裳〔火消し装束〕に身を包み、(3)夜討ちを実行し、(4)火事を装って屋敷内に迫り、(5)事が成就した後、自ら出頭して公裁を仰いだ、という手順や方法などは、30年後に起こる元禄赤穂事件での赤穂浪士らの討ち入りにおいて大いに参考にしていたとされています。

実際、徒党を組んでの仇討ちは禁じられていて、本来ならば死罪であるのに源八らへの処分は余りにも寛大で、しかも恩赦の後に彼らの殆んどが他家へ再仕官を果たしています。

そう考えると、赤穂浪士らも討ち入りが成就すれば再仕官の道が開けるのだ―と考えていたのでしょうかね。

当時の落首に云います―
「語れ聞こ浄瑠璃坂の敵討ち、さてもそののち流されにけり」と…


 

posted by 御堂 at 00:50 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

槇島(眞木嶋)氏ノート(その1)―槇島(眞木嶋)昭光

わが街・宇治―

この地域は古代から中世にかけての時期、古畿内(山城・大和・河内)の分岐点であり、緩衝地帯というべき地域でした。

源平争乱の発端となった治承期(橋合戦)、源氏同士の主導権争いとなった寿永期(河合戦)、鎌倉幕府の軍勢による京都侵攻を許した承久期の三度にわたる宇治川の合戦や、南北朝期南朝方楠木正成による焼き討ち、応仁・文明の争乱を経て戦国の争乱へと展開されていくなか、畠山政長義就による内訌、将又細川京兆家内の内訌など、朝廷や武家の中心都市であった京都につながる道筋にあったのが宇治という街であった訳なんですね。

そうした状況の中で、上山城地方(山城国宇治郡・久世郡・綴喜郡・相楽郡、すなわち南山城地域を指す)の拠点として存在したのが槇島まきのしま城(館)であり、そこには宇治郡槇島地域を本貫地とする眞木嶋(槇島)氏が勢力を張っていました。

元々、眞木嶋(槇島)氏は、室町期の後半期には幕府の奉公衆など将軍家直臣団として名を連ねるなどの地位にあったようです。

そうした中世期から近世期への移行期に活躍したのが眞木嶋(槇島)昭光です。

― ◇ ◇ ◇ ―

〔史料1〕槇島城は一色信濃守輝光居城なり、槇島に在城故称槇島氏、其子槇島孫六重利この時の城主也、玄蕃頭昭光と申候、後秀吉公・秀頼公につかへ大坂にても無二の士なり、虚名を蒙り候へとも無程御赦免有之、大坂落城已後忍て豊前に来候間、忠興君より家康公に御断有て無役の知行千石被下剃髪の名言庵と云、…(中略)…槇島家記に、槇島玄蕃頭儀、…(中略)…右義昭公御逝去已後大閤様・秀頼公江御奉公仕候秀頼公御生涯以後、正覚院と申寺中に浪人仕居申候を、三斎様・加藤左馬介殿御両名にて権現様江御免之儀御願被遊、正覚院江三斎様御直ニ御出被遊、御国江被召寄候旨申伝候、…(中略)…又武辺咄ニ云、…(中略)…槇島玄蕃頭と云て義昭公に奉公し、後に大坂の城に籠、其後細川忠興に奉公し、槇島雲庵とて百三十六歳にて死すと云々、…(後略)…(『綿考輯録』巻2)

〔史料2〕一、先祖真木島信濃守輝光儀、本名一色ニ而御座候、光源院義輝公江被召仕、城州宇治真木嶋之城主ニ而罷在候、
一、高祖父槙嶋孫六儀、後ニ玄蕃頭昭光与申候、右信濃守嫡子ニ而、義輝公御側被召仕罷在候、其節忠節之儀有之、為御褒美寝乱髪ゟ申御太刀被為拝領候、…(中略)…右玄蕃頭儀義輝公御生害以後者義昭公江被召仕、昭之并桐之御紋被下之、執権職相勤、三好御退治之上信長公江為上使罷越候処、従信長公来太郎国行之御刀御馬被下之候、右国行之刀于今所持仕居申候、義昭公真木嶋御籠城之節茂玄蕃頭為城主罷在候、真木嶋落城以後義昭公御供仕、中国江罷下、始終御奉公仕居申候、秀吉公御代、義昭公中国路ゟ御帰洛之節玄蕃頭儀御供仕罷登候処、従秀吉公玄蕃頭江者各別為御合力現米弐千石被為拝領候、其以後義昭公ゟ依御願右之御合力米御知行直被下地方ニ而被為拝領之、其節ゟ秀吉公江被召仕御奏者役被仰付、秀頼公御代迄相勤申候、…(中略)…大坂落城以後玄蕃頭儀御勘気有之候付、三斎様并加藤左馬之助殿御両所様ニ而御断被仰上被成御赦免候、左候而玄蕃頭儀剃髪仕、名を云庵と改、右御両所ゟ御合力米被為拝領京都東福寺寺中正覚院江罷出候、其以後左馬之助殿正覚院江御出被成、御国江可被召寄旨仰聞候得共、御断申上罷越不申候、然処、三斎様正覚院江被遊御入、豊前江可被召寄之旨被達上聞候間、罷下可申旨御直ニ被仰付候付罷下候処、御知行千石無役被下置候(永青文庫蔵『先祖附』槇嶋家)

〔史料3〕 御普請衆 御留守居衆
槇嶋云庵 千石 義昭公ニ奉公宇治槇嶋城主、始名孫六郎、後号玄蕃頭昭光大阪ニ籠城し、後ニ御家ニ来ル(『綿考輯録』3「三斎君ニ御奉公御知行被下置面々」)

― ◇ ◇ ◇ ―

昭光は、室町幕府第15代将軍である足利義昭が京都より追放された後も幕臣の1人として付き従い、紀伊由良・同泊から備後鞆の浦に至るまで同行し、帰洛後も出家した昌山(義昭)に出仕し、昌山卒去に際しては葬儀の一切を取り仕切っています。

その後、昭光豊臣家奏者番(2000石)として出仕。大坂の陣にも出陣(和泉堺、河内道明寺など)しますが、豊臣家滅亡後は云庵と号して細川忠興に招かれ豊前にて1000石(無役)を給され、のち中津城御留守居役(元和9年=1623=頃から)を務めている事が判っています。

― ◇ ◇ ◇ ―

さて、歴史小説『槇島昭光』を著された松村信次さんという方が、熊本市に住む槇島家の直系の子孫の方を訪ね、昭光の墓碑を確認されたそうです。

昭光の墓は、熊本城の西の外れにある禅定寺(熊本市横手町)にあるのだとか―

この禅定寺には、他に加藤清正の重臣飯田覚兵衛並河志摩守三宅角左衛門といった面々の墓があります。

槇島家の墓はその墓地の西端にあるのですが、何でもその場所は熊本県が計画している新幹線開通に伴う道路拡張工事のために、撤去される運命にあるらしいとか…

墓の上部は槇島家の家紋とみられる丸に三つ引き両(→丸に三つ引き両紋は、足利氏一門の支流紋という事なので、下賜された可能性がありますよね?)が彫られていて、その脇の墓碑には、昭光を家祖として20数名の一族の戒名と俗名が刻まれているのですが、昭光の戒名は、「一空宗也居士」だそうです。

また、禅定寺には槇島家の家系図も所持(←住職さんは槇島氏直系の子孫の方のようで…)されており、そこに記載された内容から、
  • 昭光の妻は、上野清信の姉であった

  • 昭光の没年は「正保三年正月二十日行年百十余歳」であった
  • 事が判ったそうです。「正保三年」といえば西暦1646年ですね。昭光「百三十六歳にて死す」(『綿考輯録』巻2)という史料も存在しますが、墓碑に刻まれた「行年百十余歳」からすると、あながち110歳以上の生涯であった事に間違いはないようですね。

    因みに「行年百十余歳」の「百十余歳」の「余歳」は漢文表現でいうところの「よさい(よとし)」と読みますので、イコール110歳で亡くなった訳ではありません。

    数式で表した場合には「110+α(アルファ)」となり、「110歳とちょっと」という表現が一番適切です。同様の表現に「百十有余歳」というのもあります。「有余歳」は「〜ありよさい(よとし)」と読みます。

    ― ◇ ◇ ◇ ―

    (参考文献)
  • 源城政好「槇島昭光―流浪将軍義昭を支え続けた側近」(『宇治をめぐる人びと』宇治文庫6〔1995〕、のち『京都文化の伝播と地域社会』思文閣出版〔2006〕に「真木嶋昭光―流浪将軍義昭を支え続けた側近」として収録)

  • 木下昌規「真木嶋昭光の地位形成についての基礎的考察―天正元年以降の将軍足利義昭側近として―」(佐藤成順博士古稀記念論文集刊行会編『佐藤成順博士古稀記念論文集・東洋の歴史と文化』、山喜房仏書林、2004)

  • 木下昌規「鞆動座後の将軍足利義昭とその周辺をめぐって」(『戦国期足利将軍家の権力構造』、岩田書院、2014)第三部第三章

  • 高田泰史「信長・秀吉・家康に怖れられた槇島玄蕃頭昭光―最後の将軍足利義昭の忠臣―」(熊本歴史学研究会『史叢』第15号、2011)


  • ― ◇ ◇ ◇ ―

    ※(関連)山城国宇治郡と久世郡の境界線―中世期の平等院は宇治郡だった!―→

    ※(参考)禅定寺 熊本藩重臣各家の墓(熊本市中央区)(「ぶらり歴史旅一期一会」のブログサイトより)―→

    ※(参考)槇島(眞木嶋)氏ノート(その1)―槇島(眞木嶋)昭光(2)―→

    ※(参照)槇島(眞木嶋)氏ノート(その2)―昭光以前の眞木嶋氏―→

    posted by 御堂 at 23:52 | Comment(6) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

    小麦様―壬辰倭乱の悲劇として

    BK(NHK大阪放送局)が制作したかんさい特集「朝鮮通信使400年 その知られざる歴史」を観ました。

    江戸時代の慶長12年(1607)〜文化8年(1811)までの間、計12回にわたって朝鮮から日本にやってきた外交使節・朝鮮通信使

    その朝鮮通信使が日本に初めて訪れてから今年で400年目という事で、通信使が足を進めて行程にあたる各地では様々なイベントが催されています。

    朝鮮から国書を携えてやって来たその行列群は、日本の文化に様々な影響をもたらしています。

    ところが、初期の朝鮮通信使は、単なる親善大使の役割だけではではなかったのです。

    豊臣秀吉による文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)では、朝鮮半島のほぼ全土を蹂躪し、約2〜3万人の朝鮮半島の人々=位の高い者(王族、両班ヤンバンとか)たちの子女、そして数えきれぬ程の無名の人々=が被虜として日本に連行されます。

    そうした被虜たちを故国に連れ戻す(=刷還さっかん)という重い使命を担っていたのです。

    それ故、当初は「朝鮮刷還使」と呼ばれていました。

    この番組では、そうした人々の足跡を辿っています。

    なかでも、「小麦様」の存在に目を惹きました!

    「小麦様」とは慶長3年(1598)、文禄・慶長の役(壬辰倭乱)の際に、小麦畑に潜んで隠れていた所を松浦鎮信に捕らえられた女性で、松浦軍の帰国と共に連行されます。その素性は、朝鮮王族の姫とも云われています。

    帰国の船中で鎮信の子・信正松浦蔵人西口松浦家の祖)を出産したとされ、鎮信の側室となります。

    その後、平戸藩の重臣となった息子の信正の領地である根獅子ねしこ地区に隠棲し、その生涯を閉じるのです。現在、根獅子には「小麦様」の墓が祀られています。

    番組の中で、その「小麦様」の子孫だという女性が、そのルーツを巡る旅として平戸を訪れておられ、松浦家が遺した古文書の中の「法印(=鎮信)公妾小麦君」との記載を確認され、また「小麦様」の墓も参られました。

    実は、このお墓も代々、墓守の子孫の方々が守られているとか―

    そして、第1回目の朝鮮通信使(慶長12年=1607)の際の接待役を仰せ付かった息子の信正通信使から母である「小麦様」の出身地を聞く事ができたそうです。

    ― ◇ ◇ ◇ ―

    こうした文禄・慶長の役(壬辰倭乱)での女性の悲劇については、他にもジュリアおたあという女性のエピソードなどは知っていましたが、この「小麦様」のエピソードももっと深く知りたいと感じますね!

    ― ◇ ◇ ◇ ―

    ※(参照)「平戸藩主の側室になった『小麦様』」―秀吉軍の奴隷連行と朝鮮女性たち 上―(『朝鮮新報』2008年8月1日)→

    posted by 御堂 at 23:40 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

    「祇園四条」に、「清水五条」って!

    京阪電気鉄道(以下、京阪)は京都市内3駅の駅名の変更を発表したようです。丸太町駅を「神宮丸太町駅」に、四条駅を「祇園四条駅」に、五条駅を清水きよみず五条駅」に変更するのだとか―

    駅名を変更するこれら3駅は、何れも京都の主要駅で、特に五条駅に至っては京阪が運輸を始めた明治43年(1910)からの歴史があります。

    変更の理由として、これまでの駅名は、市民らに長く親しまれてきたが、京都市営地下鉄烏丸線に同じ名前の駅があるため、混同する観光客も多かったためだそう…

    そこで、新しい駅名は観光客の認知度が高く、最寄りの平安神宮祗園地区清水寺からそれぞれ採用したのだそうです。

    言っちゃー何ですが、丸太町駅(川端丸太町)から平安神宮や岡崎周辺部まで徒歩10〜20分はありますよ!僕なら平安神宮に行くなら京都市営地下鉄東西線東山駅下車で大鳥居をくぐるって方が情緒がある気がします。

    清水五条駅にしても、五条坂や清水焼団地周辺部での陶器市を見越してでしょうけど、東山五条(東大路五条)まで徒歩30分以上はありますからね…個人的感情を言わせてもらうならば、そうまでして観光客に媚びなきゃいかんのか?と感じます。

    ― ◇ ◇ ◇ ―

    という事で、以下、京阪本線及び宇治線(←一応、宇治の人間なもんで!)の駅名の変遷などのデータファイルです。

    出町柳駅…平成元年(1989)10月開業

    丸太町駅…平成元年(1989)10月開業

    平成20年(2008)春、神宮丸太町駅に改称予定

    三条駅…大正4年(1915)10月開業

    昭和18年(1943)10月、阪神急行電鉄との合併により京阪神急行電鉄の駅となる
    昭和24年(1949)12月、会社譲渡により、再び京阪の駅となる

    四条駅…大正4年(1915)10月開業

    昭和18年(1943)10月、阪神急行電鉄との合併により京阪神急行電鉄の駅となる
    昭和24年(1949)12月、会社譲渡により、再び京阪の駅となる
    平成20年(2008)春、四条駅から祇園四条駅に改称予定

    五条駅…明治43年(1910)4月開業

    昭和18年(1943)10月、阪神急行電鉄との合併により京阪神急行電鉄の駅となる
    昭和24年(1949)12月、会社分離により京阪の駅となる
    平成20年(2008)春、五条駅から清水五条駅に改称予定

    大仏前駅塩小路駅五条駅間で開業

    大正2年(1913)4月廃止

    七条駅…明治43年(1913)4月開業

    昭和18年(1943)10月、阪神急行電鉄との合併により京阪神急行電鉄の駅となる
    昭和24年(1949)12月、会社分離により京阪の駅となる

    塩小路駅東福寺駅七条駅間に開業

    大正7年(1918)12月廃止

    東福寺駅…明治43年(1910)4月開業

    昭和18年(1943)10月、阪神急行電鉄との合併により京阪神急行電鉄の駅となる
    昭和24年(1949)12月、会社分離により京阪の駅となる

    鳥羽街道駅…明治43年(1910)4月開業

    昭和18年(1943)10月、阪神急行電鉄との合併により京阪神急行電鉄の駅となる
    昭和24年(1949)12月、会社分離により京阪の駅となる

    伏見稲荷駅…明治43年(1910)4月、稲荷新道駅として開業

    明治43年(1910)12月、稲荷駅に改称
    昭和14年(1939)12月、稲荷神社前駅に改称
    昭和18年(1943)10月、阪神急行電鉄との合併により京阪神急行電鉄の駅となる
    昭和23年(1948)1月、伏見稲荷駅に改称
    昭和24年(1949)12月、会社分離により京阪の駅となる

    深草駅…明治43年(1910)4月、稲荷駅として開業

    明治43年(1910)12月、深草駅に改称
    昭和18年(1943)10月、阪神急行電鉄との合併により京阪神急行電鉄の駅となる
    昭和24年(1949)12月、会社分離により京阪の駅となる

    藤森駅…明治43年(1910)4月、師団前駅として開業

    昭和16年(1941)9月、藤森駅に改称
    昭和18年(1943)10月、阪神急行電鉄との合併により京阪神急行電鉄の駅となる
    昭和24年(1949)12月、会社分離により京阪の駅となる

    墨染駅…明治43年(1910)4月開業

    昭和18年(1943)10月、阪神急行電鉄との合併により京阪神急行電鉄の駅となる
    昭和24年(1949)12月、会社分離により京阪の駅となる

    丹波橋駅…明治43年(1910)6月、桃山駅として開業

    大正12年(1913)7月、丹波橋駅と改称
    昭和18年(1943)10月、阪神急行電鉄との合併により京阪神急行電鉄の駅となる
    昭和24年(1949)12月、会社分離により京阪の駅となる

    伏見桃山駅…明治43年(1910)4月、伏見駅として開業

    大正4年(1915)11月、伏見桃山駅に改称
    昭和18年(1943)10月、阪神急行電鉄との合併により京阪神急行電鉄の駅となる
    昭和24年(1949)12月、会社分離により京阪の駅となる

    中書島駅…明治43年(1910)4月開業

    昭和18年(1943)10月、阪神急行電鉄との合併により京阪神急行電鉄の駅となる
    昭和24年(1949)12月、会社分離により京阪の駅となる

    観月橋駅…大正2年(1913)6月開業

    昭和18年(1943)10月、阪神急行電鉄との合併により京阪神急行電鉄の駅となる
    昭和24年(1949)12月、会社分離により京阪の駅となる

    桃山南口駅…大正2年(1913)6月、御陵前駅として開業

    昭和18年(1943)10月、阪神急行電鉄との合併により京阪神急行電鉄の駅となる
    昭和24年(1949)11月、桃山南口駅に改称
    昭和24年(1949)12月、会社分離により京阪の駅となる

    六地蔵駅…大正2年(1913)6月開業

    昭和18年(1943)10月、阪神急行電鉄との合併により京阪神急行電鉄の駅となる
    昭和24年(1949)12月、会社分離により京阪の駅となる

    木幡駅…大正2年(1913)6月開業

    昭和18年(1943)10月、阪神急行電鉄との合併により京阪神急行電鉄の駅となる
    昭和24年(1949)12月、会社分離により京阪の駅となる

    黄檗駅…大正2年(1913)6月、黄檗山駅として開業

    大正15年(1926)、黄檗駅に改称
    昭和18年(1943)10月、阪神急行電鉄との合併により京阪神急行電鉄の駅となる
    昭和24年(1949)12月、会社分離により京阪の駅となる

    三室戸駅…大正6年(1917)2月開業

    昭和18年(1943)10月、阪神急行電鉄との合併により京阪神急行電鉄の駅となる
    昭和18年(1943)11月廃止
    昭和22年(1947)4月再開業
    昭和24年(1949)12月、会社分離により京阪の駅となる

    宇治駅…大正2年(1913)6月開業

    昭和18年(1943)10月、阪神急行電鉄との合併により京阪神急行電鉄の駅となる
    昭和24年(1949)12月、会社分離により京阪の駅となる


    posted by 御堂 at 23:21 | Comment(0) | TrackBack(5) | 歴史:コラム

    最後の御茶壺道中

    宇治茶師によって描かれた“最後の御茶壺道中”

    ずいずいずっころばし
    ごまみそ ずい
    ちゃつぼに おわれて
    トッピンシャン
    ぬけたら ドンドコショ
    たわらの ねずみが
    こめ食って チュウ
    チュウ チュウ チュウ
    おっとさんが よんでも
    おっかさんが よんでも
    いきっこなしよ
    いどのまわりで おちゃわんかいたの だれ
    わらべ歌「ずいずいずっころばし」の歌詞です。この歌詞の中で

    ちゃつぼに おわれて
    トッピンシャン
    ぬけたら ドンドコショ
    というフレーズがありますが、今回のお話の主人公でもあるんですよね。

    江戸時代徳川幕府将軍家御用たしとして宇治茶を献上させていました。

    その役目を担っていたのが、「宇治採茶使」と呼ばれた幕府の役人たちでした。彼らによって、毎年江戸〜宇治間を往復していたのです。

    慶長18年(1613)に幕府宇治茶の献上を命じる宇治採茶師を初めて派遣したのが始まりで、寛永10年(1633)に制度化されます。

    多い時で100個以上あった茶壺を交代制で任命された徒歩かち頭」を中心に、茶道頭茶道衆(茶坊主)、その他御茶壺の警備の役人なども含めて最大で1000名近くの役人が行列をなして江戸城に向かいます。これを「御茶壺道中」といいます。

    しかも、その地位は摂家門跡に準じる格式で、御三家クラスの大名でもでも例外ではありませんでした。

    例えば、参勤交代の途中でこの御茶壺道中に出くわした大名は、駕籠を降りて下座拝礼をしなければならないのです。

    なので、中には御茶壺道中を見つけるとさっと脇道や宿所に入って、その行列を避けたといわれています。

    庶民たちは尚の事で、御茶壺通行の節は、被り物などを取って下座拝礼」しなければならないといった京都町奉行所の厳しい御触も出されています。

    上記の

    ちゃつぼに おわれて
    トッピンシャン
    ぬけたら ドンドコショ
    などは、概ね

    御茶壺道中の行列がやって来たので、沿道の住民らは戸口をピシャっと閉めて家に逃げ込み、行列が通り過ぎたら、ホッと胸を撫で下ろして、やれやれ、ホッと一息という感じ…
    で、御茶壺道中の物々しさを風刺した歌なんですよね。

    ところが、その御茶壺道中も慶応3年(1867)江戸幕府の終焉によって、その役目を終えようとします。

    その年、慶応3年(1867)は将軍である徳川慶喜は在洛中であり、随行していた元御数寄屋おすきや組頭鈴木春碩二条城から宇治に来て、必要とするだけの御茶壺を江戸城に向けて発送させています。

    つまり、最後の御茶壺道中は、役人が御茶壺に同行せず、御茶壺のみを宿次人足の手に委ねて江戸城へと運送させたわけです。

    御茶壺が宇治から出荷したのが、6月10日の事。通過途中の中山道鏡宿では、

    六月十一日夜、本陣に小休これ無く、御壺ばかり四棹程、夜八ッ時より夜通しに相仕舞候(『蒲生郡志』)
    とあります。

    通常の御茶壺道中なら東海道ルートで12日間、中山道甲州街道ルートで13〜14日間の行程なのですが、警護の武士も御数寄屋坊主も同行していない、いわば単なる荷物だった事から、通常の御茶壺道中より早く運ばれていたようです。

    こうして御茶壺道中は幕を閉じたのです。

    posted by 御堂 at 01:09 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

    「江戸時代」っていつまで?

    朝日放送で放送していた「クイズプレゼンバラエティー Qさま!!」を観てました。「アナウンサー軍団 vs インテリ芸人軍団」の対決で、「プレッシャーSTUDYスペシャル」をやってましたが、その上級編での「江戸時代ドボンクイズ」(=11項目の歴史的事件のうち、1つだけ江戸時代でないのが入っている…)でちょっと「あれっ?」と思うような事がありました。

    それは、「江戸時代」でない歴史的事件は「龍馬暗殺」だったわけですが、最初に11個の歴史的事件を観た時、「全部江戸時代やん!」と感じてしまったのが事実なんですよね。

    そう思って、最終的に「龍馬暗殺」がそれだったとわかった時もなかなか疑問が解けなかったんです。

    確かに、学生時代から愛用している『角川日本史辞典』に依れば、

    徳川家康征夷大将軍になった慶長8年(1603)から15代将軍慶喜大政奉還辞職した慶応3年(1867)まで
    とはなっています。もっと細かく見れば、

    慶長8年(1603)2月12日に徳川家康征夷大将軍に任ぜられてから、慶応3年(1867)10月14日に徳川慶喜大政奉還するまで
    って感覚なのでしょうね。

    クイズ的にいえば、坂本龍馬が暗殺されたのは、慶応3年(1867)11月15日だから、上記の感覚で行けば、「『江戸時代』ではない」って事になるのはわかりますね。

    しかしながら―

    ・慶応3年(1867)10月14日は、徳川慶喜大政奉還朝廷に申し出た日付である事

    さらに、

    ・同年10月24日は、慶喜征夷大将軍職の辞任を朝廷に申し出た日付である事

    つまり、今風に言えば、慶喜が朝廷に2つの案件について「退職願」「辞職願」を提出した日に過ぎない―わけですね。

    そしてそれらが、慶応3年(1867)12月9日に王政復古の大号令が発せられた際、承認されたのだという事を考えると、12月9日までは江戸幕府は存続しているし、将軍であった事になります。

    かいつまんでいえば、王政復古の大号令によって、朝廷が「ほな、政事やってみますわ」って事になって、徳川氏はお払い箱になって感じかな(笑)。

    そうなって、先の征夷大将軍辞任という申し出「辞職願」は解雇処分ぽくなって決定されます。

    すなわち、12月9日までは徳川氏主導による幕藩体制の路線が敷かれていましたが、12月9日以後は朝廷主導による朝藩体制となったんですね。(→明治4年=1871=の廃藩置県まで)

    そうのように考えれば、「江戸時代」の終結は「慶応3年(1867)12月9日」って事になりませんか?

    そうなると、先の「龍馬暗殺」はまだ「江戸時代」って事になるんですけどね(笑)

    (PS)
    個人的な考え方では、「江戸時代」の始まりは元和げんな偃武えんぶ宣言して以降を「江戸時代」と考えているのですが、どうでしょう?

    「元和偃武」とは、慶長20年(1615)5月の大坂の陣において、徳川氏豊臣氏を攻め滅ぼした事により、応仁・文明の乱以来150年近く続い
    た争乱の時代(=戦国時代)の終焉を同年7月13日に元号を「元和」と改めると共に江戸幕府が宣言したものです。

    「偃武」とは中国の古典『書経』の周書武成篇の中にある「王来自商、至于豊。乃偃武修文」(王商自り来たり、豊に至る。乃ち武をせて文を修む)に由来していて、「武器を偃せて武器庫に収める」という意味です。

    これをもって、戦国時代の終焉しかり、中世の終焉と考えています。

    →※(参考)「鎌倉幕府」と「鎌倉時代」

    posted by 御堂 at 18:58 | Comment(2) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

    日本最初の英語教師―ラナルド・マクドナルド

    嘉永元年(1848)5月7日。日本海に浮かぶ焼尻島に27歳のアメリカ人青年が上陸しました。

    彼の名前は、ラナルド・マクドナルド(Ranald,MacDonald)というアメリカ人で、母方がアメリカン・インディアンの部族の1つであるチヌーク族の王の血筋を引く人物でした。

    マクドナルドはインディアンのルーツは日本人(→インディアンが日本からアラスカを経てアメリカ大陸にやってきた)だと信じており、日本に対する憧れの気持ちを持っていました。

    また、マクドナルドが生まれ育った太平洋沿岸部地域には、日本人の漂流民たちが多く打ち上げられていた事実があり、その事も彼の「日本人ルーツ説」をより確かめようと思うきっかけとなっていました。

    マクドナルドは、鎖国状態であった日本へ何とか行きたいという強い衝動が彼の運命的なものとなって、遂にその想いを遂げるため、銀行員を辞めて、捕鯨船の乗組員(水夫)となり航海の旅に着きます。

    その航海途中、日本近海に近付いた際に、かねてから決心していたのでしょう、船長から譲られた下船用ボートに乗り移り、漂流という形で遭難を装い、(→例えば、不法入国ならば処刑だが、漂流者なら悪くても本国送還だろうと考えて、わざとボートを転覆させて漂流者を装ったのだとか)蝦夷地の利尻島に単身上陸、遂に念願の日本上陸を果たします。それが嘉永元年(1848)5月7日なのです。

    最初、焼尻島に上陸し、更に、7月1日には利尻島に上陸しますが、運上屋に20日程拘留されます。

    この後、8月に入り、マクドナルドは宗谷の勤番所に移され、密入国者として20日間拘留され、8月25日に松前へ護送され、3週間以上監禁所に拘留されます。

    そこから長崎に連行され、長崎奉行所で訊問を受け、密入国者として崇福寺大悲庵の三畳程の座敷牢に幽閉されます。

    そんな囚われの身でありながら、マクドナルドの誠実な人柄と高い教養が奉行所の役人や周囲の人間に親近感をもたらしたようで、長崎奉行の肝入りで西山郷に開いた英語教室の教師に抜擢されるのです。

    マクドナルドは、座敷牢の格子越しに、14人の若い通詞つうじに英語を教え、日本で最初の英語教師となったのです。この英語教室はマクドナルドが翌年春に送還されるまでの半年程続きます。

    マクドナルドの授業は、彼が英語の発音をし、それを生徒たちが復唱するという形をとり、発音が正しければ、頷き、間違っていれば首を振るというものでした。

    その中で、マクドナルドは日本人が、LとRの発音に苦戦している点を指摘しています。(→この点は、昔も現在も、日本人の、英会話レッスンでのLとRの発声の苦労を物語っていますね!)

    マクドナルドは好奇心旺盛で、日本語への習得にも関心があり、耳や口・水・髪・茶といった日本語の発音を2枚の和紙に記しながら、覚えようとしました。

    そして、覚えた日本語を手帳に書き込んで、日本初の英和語彙帳を作ったのです。16ページにわたる語彙帳には、約500の英単語に日本語訳が書かれていました。

    また、通詞の面々は殆んどが長崎出身者でもあり、必然的に当時の長崎の人々が使っていた長崎弁なども記載されています。(下記参照)

     ・Bad(悪い)=Waruka(悪か)
     ・Cheap(安い)=Yasuka(安か)
     ・Entertaining(面白い)=Omosroka(面白か)
     ・Good(良い)=Youka(良か)
     ・Large(大きい)=Ftoka(ふとか)
     ・Small(小さい)=Comaka(こまか)

    さて、日本で最初の英語教師として長崎で約半年間、若き通詞たちを教授したマクドナルドですが、この14人の中にペリー来航の際に主席通詞をし、その流暢な英語と教養に誰もが感心したという森山栄之助(多吉郎)がいます。

    マクドナルドは、嘉永2年(1849)3月26日、長崎に入港したアメリカ艦に引き渡され、約10か月の日本での拘留生活に終止符を打ちます。

    マクドナルドは、日本滞在中に観察した事を手帳に書き留めていたが、晩年、それを元に『日本回想記』を書き記しています。

    また、アメリカに帰国後、アメリカ議会に「日本社会は法治国家であり、日本人は礼節正しく民度も高い」といった内容の陳述書を提出しました。

    この事は、後のアメリカの対日政策の方針に少なからず影響を与えたようで、現在も評価の高い偉人として知られています。

    マクドナルドは1894年(明治27)8月5日、70才で没するのですが、病床で「SOINARA(=さようなら) my dear、SOINARA」と呟いて息絶えたそうです。

    彼の墓石(ワシントン州スポーキャン市郊外にある)には「SAYONARA」の文字が刻まれています。


    posted by 御堂 at 01:56 | Comment(2) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

    いいハコつくろう 鎌倉幕府?

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    「いいくに(1192)つくろう鎌倉幕府」

    歴史を学んだ多くの人が、鎌倉幕府の成立の年号の暗記として憶えた事でしょうね。(僕もそうですが…)

    東京書籍発行の昭和62年(1987)版の教科書でも、年表の建久3年(1192)に線が引かれ、鎌倉時代の始まりを示し、この年に源頼朝が朝廷から征夷大将軍に任命され、これを鎌倉幕府が成立した、としていました。

    ところが、平成19年(2007)版の教科書では文治元年(1185)に線が引かれているのです(上図参照)。平家が滅亡した年であり、同年に頼朝は全国に守護・地頭を設置した年にあたるのですが、東京書籍では、頼朝の号令が普く伝わるようになった点を重視し、平成14年(2002)版頃から、守護・地頭の説明の後に「鎌倉幕府を開いた」と記述しています。

    また、山川出版社の高校「日本史B」の問題集は、文治元年(1185)「鎌倉幕府が確立」とし、建久3年(1192)「名実ともに成立」と表記しています。

    鎌倉幕府の成立時期を考えた場合に、

    (1)治承4年(1180)の侍所設置
    (2)寿永2年・治承7年(1183)の十月宣旨(寿永二年十月宣旨)による東山・東海道の行政権の獲得
    (3)寿永3年・治承8年(1184)の公文所(のち政所)設置
    (4)元暦元年(1184)10月の問注所設置
    (5)文治元年(1185)11月の文治の勅許による守護・地頭の設置
    (6)建久元年(1190)11月の右近衛大将就任
    (7)建久2年(1191)正月の政所吉書始の儀
    (8)建久3年(1192)7月の征夷大将軍就任
    (9)建久3年(1192)8月の征夷大将軍家政所始の儀

    などが候補として挙げられます。

    先に私見として述べた「『鎌倉幕府』と『鎌倉時代』」において、建久元年(1190)の右近衛大将就任を鎌倉幕府創設の起源として挙げていますが、守護・地頭の設置を起源として鎌倉幕府創設とは考えにくい感じです。

    そこで、「守護・地頭の設置」を得た勅許の内容を少し掘り下げて考えてみましょう。

    源頼朝後白河法皇から以下の権限を認められます。

    (1)日本国惣追捕使―謀反人などの逮捕権
    (2)日本国惣地頭―荘園公領の土地の管理権
    (3)諸国在庁・荘園下司支配権―公領を管理する在庁官人と荘園の荘官(下司)に対する支配権
    (4)兵糧米反別五升徴収権―1反の土地ごとに米5升の給与を授受

    各地の公領や荘園にいる武士で、頼朝配下の御家人になった場合、上記の権限に基づいて地頭の職が与えられ、一国の中で最も有力な武士が頼朝追捕使の役目を代行する守護になるわけです。

    しかしながら、注意すべきは守護・地頭の設置したからといって、これで源頼朝鎌倉幕府)の号令が普く伝わるようになった=全国の武士を把握したわけでは決してありません。

    確かに、北条氏千葉氏三浦氏といった関東の有力な御家人は、守護の地位を利用して領国内の武士との主従関係を拡大し、勢力を伸ばしていきましたが、東大寺の領国になった周防国では、守護は重んじられておらず、国内の主だった武士は、国衙の在庁官人となって、東大寺が送った目代の許に組織されていたのです。

    荘園を管理する武士の中にも、朝廷の荘園領主との繋がりを重んじる者と幕府との主従関係に重点を置く者との双方がいたというわけですね。

    そもそも鎌倉時代は、朝廷、幕府、大寺社の3つの政権が並び立っていた時代であり、それらは何れも天皇によって権威付けられていました。

    それを物語る歴史的事実として、文治2年(1186)2月、後白河法皇源頼朝に関東の皇室領や貴族たちの荘園の年貢未払い分を指し出せと命じ、頼朝はそれに応じています。

    守護・地頭の設置を認めた僅か3か月後の事であり、武家政権は天皇家の下に位置する事を明らかにした事象ですね。

    同じように承久の乱も、朝廷vs幕府の戦いとして捉えるべきではありません

    後鳥羽上皇は武家政権を否定したのではなく、北条氏が動かす幕府は倒すべきと考え、北条氏に代わって都で活躍する中流の武士を集めた幕府を創ろうとしたのです。

    現に後鳥羽上皇西面の武士や在京御家人を自派に引き込んでいます。

    西面の武士とは、幕府の政争で不遇をかこった武士や、幕府に組織されていない西国の武士から成る職務で、そういった彼らに対し、後鳥羽上皇は官位を与え、院の西面の警備を務めさせたのです。

    在京御家人とは、鎌倉や西国から京の警備のために派遣された武士をいいます。

    鎌倉幕府北条義時に次ぐ地位にあった三浦義村の弟・胤義は、相模国から上京して在京御家人となり、院に接近していますし、また、源氏一門で摂津国など6か国の守護を務める大内惟義惟信の父子も在京御家人として後鳥羽上皇に従っています。

    承久の乱とは、全国の武家が北条派(坂東武者)と反北条派(京武者)とに分かれて戦った合戦といえるでしょう。

    結果として、鎌倉時代全般の中では、全ての武士が幕府に従ったのではなく、朝廷の荘園領主との繋がりを重んじる者と幕府との主従関係に重点を置く者との双方が混在していた事実を知っておきましょう。

    現実にこのような混在が改善されたのは豊臣秀吉による太閤検地まで待たなければなりません。

    ― ◇ ◇ ◇ ―

    ※(参照)「『鎌倉幕府』と『鎌倉時代』」→

    posted by 御堂 at 01:07 | Comment(2) | TrackBack(1) | 歴史:コラム

    「参議」院

    参議院議員通常選挙の告示がありましたね。

    さて、日本で最初の選挙は、天平3年(731)に諸役所の官吏約400人が藤原宇合うまかいら6人を選んで「参議」に推挙した事例が始まりと云われています。

    ただし、それが投票による行使であったかは定かではありません。

    しかし、これを機に、有能な人材を任命して国政に参与させる「参議」という官職が生まれたのです。

    すなわち、「参議」とは、太政官令外官りょうげのかん(令制に規定されていない臨時の官職)の職の1つ)で、宰相と呼称される身分です。政朝から「参議」と呼ばれ、職掌は宮中の朝政の議政官に位置します。

    その後、明治期の維新政権下で一時復活しますが、内閣制度の確立の中で消滅します。

    やがて、時が経って―

    「参議」という言葉が再び脚光を浴びます。日本国憲法制定での二院制議会の一方の呼称が参議院と名付けられたのです。

    当時の国務大臣金森徳次郎氏は「古くから尊重された良い言葉の印」と認識をし、「知恵を出して…(中略)…議会の働きを達成しようというものにはこういう言葉」が良いと述べています。

    今年は参議院が創設されて60周年目。果たして参議院が古くから尊重された「参議」の語感の通り有能な賢者の府としての役割を果たせているでしょうか?

    昨今の参議院はまともな審議もそっちのけで、ただ法案成立の場の如しです。

    ならば、参議院は不必要ではないのか!といった議論もあるようですが、単純にそうとは言い切れないと感じます。

    天平の頃に行使された「参議」選挙では、藤原氏の権力伸長のきっかけを与えた人事をもたらせました。

    この度の参議院選挙ではどのような歴史の1ページが刻まれる事でしょう。

    posted by 御堂 at 20:24 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

    朝鮮戦争の真実

    朝鮮戦争

    第二次世界大戦が20世紀を半分以上残して終結した時、世紀後半の世界史の殆んどが米ソ両陣営の「冷戦」に費やされようとは誰が予想した事でしょう。

    「冷戦」の正面はヨーロッパでした。その地での衝突は、ベルリン危機にせよキューバ危機にせよ、人類絶滅戦争の一歩手前で回避されました。

    しかしながら、その裏庭であるアジアでは両陣営を背にした地域限定戦争が、朝鮮半島ベトナムで苛烈したのです。

    なかでも朝鮮戦争は、第二次大戦終了後、新たな世界秩序が構築されようとする時期に起こった世界史的最大の事件と言ってもいいでしょう。

    その朝鮮戦争が、何故誰によって始められたのか、その多くが謎の中にありました。

    北が侵攻した、否、南が先に挑発した…等どちらとも言えない状態が長く続いていたのです。

    やがて北の華々しい南進の成功は、準備なしには不可能だとの認識が一般化しました。

    では、スターリンの策謀が事を動かしたのか、中国革命に成功した毛沢東の主戦論が引っ張ったのか、それとも金日成の自作自演だったのか…冷戦下では不分明のままでした。

    しかし近年、冷戦構造終結に伴う共産圏諸国のの資料公開により、朝鮮戦争の実体があきらかになってきました。

    まず、朝鮮戦争の提唱者は金日成である事、「わが手で(半島を)統一させて下さい」と執拗にスターリンに懇請していたのです。スターリンは対米関係を破綻させ、ソ連に危険を招くわけにはいかないと初めのうちは抑えていましたが、1950年(昭和25)4月、遂に許可を下します。

    その背景には前年、1949年(昭和24)の中華人民共和国の成立が、共産圏側に自信とはずみを与えていたようです。

    夢としか思えなかった自国の革命に成功すると、続いて世界も変える事ができるとの妄想が芽生えてしまったんですね。

    もっと言えば、南の方も北と同じように狙っていた事実、すなわち韓国李承晩も北進を叫び、挑発行動を繰り返して、アメリカを引きずり込もうとしていた形跡があったようです。

    小国が大国を引きずり巻き込んだ世界大戦の苦い教訓が生かされていない現実。そうして生まれた「冷戦」構造。こうした歴史は二度と繰り返さないようにしなければいけません―


     

    posted by 御堂 at 16:40 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

    報恩寺・つかずの鐘

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    織り屋の町である西陣の一角に報恩寺(京都市上京区小川通上立売上ル)というお寺があります。

    昔、辛い奉公や夜なべの仕事に励んだ織女おへこさんたちは、その報恩寺の朝夕の鐘の音で、仕事の始めや終わりの時間を知っっていました。

    昔々は江戸時代の事、報恩寺の近くにあった古い織り屋に、15歳の丁稚でっちと13歳の織女が働いていました。この2人、何故か仲が悪く、顔を合わせばいつも喧嘩するなどいがみ合っていました。

    ある日の事、この2人はまた喧嘩を始めました。

    丁稚「報恩寺はんの暮れ六つの鐘は、8つしか鳴らへん」
    織女「いいえ、9つどす。うちはちゃんと数えたんやさかい、間違いおへん」

    丁稚「いいや、8つや」
    織女「違います、9つどす」

    と、こんな調子で何時まで経ってもきりがないので、2人は夕暮れまで待って鐘が幾つ鳴るか、一緒に数えてみる事にし、そして間違った方が何でもすると約束しました。

    さて、その日の夕方、報恩寺で暮れ六つの鐘が鳴り始めました。ゴーン、ゴーンと鳴る音に合わせて、2人は指折り数えます。ひとーつ、ふたーつ、みーっつ…そして、8つ目が鳴ると、そのまま辺りは静かになりました。鐘は、8つしか鳴りませんでした―

    実はそれもそのはずで…

    この丁稚、こっそり店を抜けて報恩寺の寺男に鐘を鳴らす数を聞いていていました。正解は織女が言った様に「9つ」だったのです。

    しかし、悪知恵の働く丁稚は寺男に「今日だけは鐘の数を8つにしてくれ」と頼んでいたのです。

    丁稚にすれば、何時も喧嘩をする織女を困らせてやろうと思い、わざと違う事を言ったのです。でも、自分が間違っている事を知られると織女にまた馬鹿にされると思って、寺男に頼みに行ったのです。

    次の日の朝―

    丁稚から、さんざん悪口を浴びせられた織女は、丁稚と言い争って負けたのが余程悔しかったのでしょう、報恩寺の鐘楼に帯をかけ首を吊って死んでいました。

    以来、恨めし気な表情の織女の霊が現れるようになり、それからは寺も鐘を突くのを止め、代々「つかずの鐘」として伝わってきたのです。

    この丁稚と織女の話を再現ドラマにしようと、テレビ番組で撮影を頼まれ、特別に鐘を突くのを許した事があったそうですが、織女役の女優が鐘楼のはりにぶら下がろうとしたところ、ささくれた木が手に刺さったのだとか―

    境内の一角にあるこの鐘は今では大晦日の時だけ、法要の後に108つの鐘が突かれます。その音色で織女を癒すかの様に…

    posted by 御堂 at 21:51 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

    なせばなる!

    格言「なせばなる/なさねばならぬ/何事も/ならぬは人の/なさぬなりけり」という文言があります。

    江戸時代中頃の出羽米沢藩第9代藩主・上杉治憲(鷹山)が財政破綻した藩経済を立て直す際に、領内の家臣及び百姓に対して、立て直すための心構えについて説いた文言として有名ですね。

    格言事典などを拾い集めてみると、「なせばなる」という文章には

    (1)「成せば成る」「成せばなる」「なせば成る」「成せば為る」…
    (2)「為せば為る」「為せばなる」「なせば為る」「為せば成る」…

    などの文言が当てはまっています。実際にはどの文言がぴったりくるのでしょう?

    一番、しっくりくるのは、

     為せば成る為さねば成らぬ何事も成らぬは人の為さぬなりけり

    だと思われます。その語意は、

     その行為を実行すれば、必ずや物事は成就する(あるいは、達成する)

    と解釈すればいいわけですね。

    さて、この「なせばなる!」の格言ですが、上杉鷹山よりも以前によく似た内容を武田信玄が遺しています。

     為せば成る為さねば成らぬ成る業を成らぬと捨つる人の儚き

    出だしが似ていますよね。鷹山信玄の文言をアレンジしたのかな!?

    posted by 御堂 at 00:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

    日本最初のマラソン大会―安政遠足

    “「安中藩安政遠足之碑」 安中藩安政遠足に県連する碑Annakahan_Anseitooashi.jpg “「日本マラソン発症の地・安中」碑

    日本でマラソン競争のような大会が最初に行われた場所を知っていますか?

    昭和30年(1955)、それを裏付けられる史料が群馬県の碓氷峠に在る茶屋(現在のあづまや)で発見されました。『安中御城内おん諸士御遠足おんとおあし着帳』というもので、この時の出走者の氏名や着順などが記載されていたのです。

    『安中御城内御諸士御遠足着帳』

    そもそも、この土地のご領主様、すなわち上野こうづけ安中城主板倉勝明かつあきらは、“学者大名”と称される程の人物で、藩士の教育のために藩校造士館ぞうしかんに優れた学者を招いて、大いに文武を奨励していました。

    そういう風潮の中、今から約150年ほど前の安政2年(1855)5月、板倉勝明は藩士の心身鍛錬を目的として、50歳以下の藩士96名を数組のグループに分け、安中城門をスタートラインにして、当時安中藩が警備の担当していた碓氷関所近辺で鍛えようと、碓氷峠頂上に建つ“熊野の権現さま”として知られる熊野権現神社まで七里七町(約29km)の中山道沿いの道を走らせたのです。これを「安政遠足」と云います。

    完走者は延べ98人(うち2人は2回走ったそうです…ご苦労さま!笑)で、その記録を熊野神社の神主をしていた曾根出羽守に控えさせていたのが、上述した「安中御城内御諸士御遠足着帳」なのだそうです。

    この「安政遠足」が、おそらく記録を競った遠足(=適応遠足)の最初と云われ、日本最初のマラソン大会として群馬県安中市では安中城址内の一角に「安政遠足の碑」「日本マラソン発祥の地」という碑を建てて顕彰しているのです。

    その後、こうした板倉勝明の偉業を顕彰しつつ、楽しい行事として伝承していこうと安中市と松井田町の有志が「安政遠足保存会」を組織し、昭和50年(1975)に第1回目の「安政遠足 侍マラソン」と称して毎年5月の第2日曜日に開催され現在に至っています。

    「安政遠足 侍マラソン」・コース図

    コースは2種類あって、峠コース(29・17q)と関所坂本宿コース(20・35q)で、安中城跡をスタートし、旧中山道沿いに松井田宿碓氷関所などを通って県境の熊野神社まで走ります。

    参加者は、手作りの鎧や股旅姿、あるいは流行のキャラクターや現在の世相を反映したキャラクターに扮するなど思い思いの格好で走る楽しい行事となっています。

    「安政遠足 侍マラソン」・コースの標高差比較図

    結構、コースはきついですよね(図参照)。標高差1100m弱での距離約20〜29q強ですもんね。箱根駅伝の山登り区間よりキツイかな!(スピードレースするわけじゃないけど…笑)。

    高校時代の“適遠”が懐かしいなぁー。1年の時が40qコース、2年の時が20qコース、最後の3年の時が30qコースだったんですが、3年の時は全校で10番目に入ったんですよね。

    だから、こういう催しは僕にとってはワクワクものです!


    posted by 御堂 at 23:37 | Comment(2) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

    生死を分けた15段―天明3年の浅間山大噴火において

    鎌原観音堂

    天明3年(1783)8月5日の四つ時(午前10時頃)、浅間山が大噴火を起こしました。

    浅間山は日本を代表する活火山で、伊豆大島や阿蘇山、雲仙岳などと並んで最高度の警戒が必要と指定されている12の火山の1つに当たります。

    標高2568m。群馬・長野両県境に東西15km、南北35kmに裾野を広げています。

    天明年間以外にも、縄文古墳平安時代に大噴火を起こしており、最近では平成16年(2004)9月の噴火が記憶に新しいところですね。

    さて、この時の大噴火は―

    実は、噴火が始まっていたのはこの年5月9日からで、小規模から中規模の爆発を繰り返し、断続的に軽石や火山灰を降らせていたそうです。土地の人たちはどうしていたのか…

    平成9年(1997)、火口から20kmの長野原町で、泥流に埋まった畑が発掘されました。畝に、作物の成長に合わせて土を株に掻き集める「土寄せ」の痕跡が残っていて、その土には、軽石も混ぜ込まれていたのだとか―

    農民たちは、大噴火の直前まで毎年の通り、丹念に畑仕事を続けていたんですね。噴火が日常的だった事を示しているし、この土地に住む人たちはそうした環境と共存していたわけです。

    しかし、8月5日の大噴火はそうした彼らの生活を一変させます。

    火炎黒煙相交錯して乱騰し
    …(中略)…
    ひらめく電光亦凄絶のきわみ。加ふるに岩石火玉の投下
    …(中略)…
    群雁の舞ひちぎるるが如く、落下の音響は天を震はし地を動かし
    といった様に、溶岩流(鬼押し出し溶岩流)と火砕流が北麓を走り、土石雪崩となって吾妻川流域に流れ込み、地形によって高さ100mまで膨れ上がった泥流が谷間の家や田畑を次々と呑み込んでいきました。

    泥流が流れ下った群馬県側の長野原町や嬬恋村鎌原地域では大噴火による死者が約1500人にものぼったそうです。

    この天明の大噴火で発生した泥流は時速120kmの速さと推定されていています。

    火口から北に10km余りに位置する鎌原かんばら村(現、群馬県吾妻郡嬬恋村大字鎌原地区)では、

    熱湯一度に水勢百丈余り山より湧出し
    …(中略)…
    其跡は真黒になり
    …(中略)…
    一山に鎌原の方へおし、谷々川々皆々黒煙一面立。ようすしれがたし
    という状況で、村人たちは悲鳴を上げながら高台へと殺到しますが、間に合わず、あっという間に呑み込まれていきます。

    埋没階段

    結果、鎌原村一帯は、477人と共に一瞬にして地中に消えてしまいます。奇跡的に助かったのは高台の観音堂に駆け上がり、残った15段より上に居た93人のみ―

    鎌原村・生存者一覧

    昭和54年(1979)、厚さ6mの土砂に埋まった旧鎌原村で、唯一残った観音堂とそれに続く15段の石段の下から、残りの35段が現れ、2人の女性の遺体が折り重なって見つかりました。

    埋没した石段から発掘された女性2人の遺体

    髪の結い方から40代と60歳前後の2人とみられ、若い方が老いた方をおぶったような感じでした。母と娘、あるいは姑と嫁―「生死を分けた15段」まで届かなかった命です。

    遺体は口を開け悲鳴を上げていた様子がみられたそうです。

    天明の大噴火後、観音堂に逃れ生き残った93人は、家族と家、田畑を呑み込んだ土の上で、新しい村づくりを始めます。

    しかし、噴火以前には93軒あった鎌原村も、30年後にはも20戸ほどしかない状態で、復興はそう容易くはいかなかったようです。

    それでも、力を合わせた復興の証しが、現在は別荘地になった楢の林の一角に残っています。

    幅2m、高さ1mに積み上げられた溶岩石の水路跡。天明の温泉引湯道ひきゆみち、と呼ばれるのがそれです。

    鎌原村近くの富農が、溶岩流の先端に近い場所から湧いた湯を利用し、10km余りの湯道を引いて、温泉を開いたのだとか―今で言えば、復興救済事業の一環ですね。

    浅間山の天明大噴火を生き残った鎌原観音堂には毎日、地元の住民らが集い、訪れた観光客らに噴火の歴史を語り継いでいるのだとか―

    近くには嬬恋郷土資料館があり、大噴火で埋没した旧鎌原村からの出土品や絵図、噴火による被害を示す模型が展示され、当時の村人の暮らしぶりと、村を襲った悲劇を伝えています。

    ― ◇ ◇ ◇ ―

    ※(参照)津波に消えた豊後沖ノ浜→
    ※(参照)実録「岸辺のアルバム」―狛江水害(多摩川水害)→
    ※(参照)安政の大地震とその被災記録→


      

    posted by 御堂 at 02:16 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

    母方のルーツを系図で知る!

    閑話休題―久方ぶりの書き込みかな?

    先月の末に叔母(母の兄の奥さん)が肝臓癌(←C型肝炎の影響)で亡くなり、慌しく行事が過ぎていっているのですが、何せ叔父も身体が弱く(肺が片方しかなく、しかも叔母同様にC型肝炎にかかっている)、精神的にもくたくたな状態なので、母と僕が手続き等を補助している毎日です。

    叔母の死はホントに突然の事で、名義の変更や保険・金融関係も全て凍結されちゃっているので、叔父はしんどいにも関わらず、叔母の戸籍謄本を取りに叔母の実家がある井手町役場に出向いたり、金融関係に出向いたり…と大変です。

    次から次にやるべき事柄が多く、叔父はパンク寸前状態。手伝える範囲で手伝ってあげなきゃ!と思っています。

    叔母は昭和5年(1930)の生まれなのですが、必要書類としての戸籍謄本は、叔母が出生した時点で提出されたものから、婚姻のためにその家から除籍された箇所までの戸主から兄弟全部に至るまでが必要なのだそうで、結構な分厚さだったみたいです。

    実はこの井手町役場は昭和28年(1953)の水害で役場が倒壊して、書類も全部が水に浸かってしまっていたので、叔父も当初は書類が揃うのかどうか心配でしたが、何とか書類も揃うことができたようで良かったです。

    さて、昨日も叔父の家に訪ねた(僕の住んでいる場所から歩いて15分程…)のですが、叔父がある書類を見つけ出したので僕に見せてくれました。

    それは叔父の父、つまり僕の母の父であり、僕の祖父の戸籍謄本でした。そこには戸主としての祖父や祖父の兄弟と配偶者、祖母、叔母(母の姉)、叔父(母の兄)、母の名が記載されていました。(僕の母は北海道紋別郡遠軽町の出身なんですよね!)

    さらに、叔父が自分で調査してまとめたのであろう、叔父から5代前の先祖に遡った系図もみせてもらいました。

    (A)=(B)−(C)−祖父−叔父

    って感じなんですが、(B)のご先祖さまは婿養子なんですね。そして(C)のご先祖さまは次男で、長男が早くに亡くなったので、家を継いだのだとか…(A)のご先祖さまは嘉永年間(1850年代)に亡くなっています。

    すごいでしょ!歴史好きな僕にとってはたまらない、すごい感動モノです。よく「祖先のルーツを探る!」とかを聞きますが、現状(=現行の戸籍簿)ではやはり江戸末期あたりまで、少なくとも5代前まではわかようですね。でもそれ以前となると、一般庶民レベルでは調べるのも困難を極める様子…

    このような母の実家ですが、嫡流にあたる叔父夫婦には子どもがおらず、昔風に言えば「御家断絶」になっちゃいます。

    母の子である僕は、僕が小学校1年生の時に亡くなった祖父や、今年96歳になる祖母にとっては内孫で、よく可愛がってもらってたりしてる“おじいちゃんっ子&おばあちゃんっ子”な方です(笑)

    よく昔は「僕が結婚して子どもが生まれたら、2人目の男の子を養子にするからね」などと言ったりもしました。(母もそう思っていたようですし…)

    僕自身が“家意識”が強い事もあるのでしょうけど、やっぱり血筋が絶えるってのは寂しいですもんね。

    posted by 御堂 at 02:49 | Comment(4) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

    「伊達騒動」を違った観点からアプローチ!

    江戸時代前期に仙台藩を揺るがした「伊達騒動」の遠因は、藩主が患っていた背骨の病気だった―

    これは、ある整形外科医によって自然科学の分野、すなわち医学的観点からアプローチされた説です。

    「伊達騒動」とは、万治3年(1660)、伊達家3代目の藩主、伊達綱宗が21歳の若さで突如、幕府から隠居を命ぜられたことに端を発した藩内抗争=御家騒動で、山本周五郎氏の『樅ノ木は残った』は、この「伊達騒動」を採り上げた作品です。

    伊達綱宗が隠居させられた理由としたは「酒と女に溺れ、家臣の忠言にも耳を傾けなかった」など言われていますが、真相はまるで薮の中です。

    要は、伊達家家中で、藩主の下に集権化を目指す吏僚グループと、独立性の強い分権派グループの抗争と考えればよいでしょう。戦国大名から近世大名への移行期に起こるべくして起こったものと言えます。

    整形外科医である室捷之さんは、脊椎せきつい外科の専門医で、歴史上の人物の背骨の研究を続けてこられました。

    綱宗隠居の謎に注目した室さんは、1980年代に綱宗の墓が発掘調査が行われた際の遺骨の写真を診断し、背骨の写真に注目されたそうです。

    写真では、正常なら真っすぐ後方に向けて突出しているはずの背骨が右に傾いていており、かなり重い突発性の脊柱せきちゅう側弯そくわんと診たそうです。

    脊柱側弯症というのは、主に成長期に背骨が変形して左右に曲がる病気。多くは原因不明で、重くなると肺や心臓が圧迫されて心肺機能が低下するのだとか―

    仙台市博物館が所蔵する綱宗の肖像画を観てみると、綱宗は上体をやや右に傾け足を崩して座っており、脊柱側弯症を十分に証明しているとの事。

    そこで、1つの仮説が―

    伊達家は武勇を尊ぶ家風で知られていますが、綱宗が重度の脊柱側弯症だったとすれば、武道や乗馬などの激しい運動は難しかった可能性が高い?

    そうなると、

    ・身体が思うように動かない苛立ちや、藩主としての責務が十分果たせないことへの負い目から、酒や女に溺れる生活に逃避していったのでは?

    つまりは、綱宗が体の不調から放蕩に走ったという解釈…

    これに端を発して、「伊達騒動」が起こってしまったと述べられています―

    いかがです?歴史学の史料論的アプローチからは計りし得ないものがあるけど、こうした自然科学的アプローチや諸々のアプローチの方法もあるんですよね。

    ― ◇ ◇ ◇ ―

    →(参考)室捷之『一整形外科医が綴る 脊椎日本史18話』


    posted by 御堂 at 23:54 | Comment(4) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

    安政の大地震とその被災記録

    この日曜日、能登半島沖でマグニチュード6・9、震度6強の地震が起きましたね。朝、午前9時42分頃の最初の揺れに関しては、現在住んでいるアパートでも揺れを感じましたので、被災地である能登半島周辺部の住民の皆さんの恐怖は如何ばかりだったことでしょう―

    今回の能登半島沖地震は、凡そ「横ずれを含む逆断層」運動が起因なんだとか…

    日本海側は太平洋側に比べて、はるかに地震の頻度が低いと言われてきました。

    実際、日本列島付近は、東からの太平洋プレート、南東からのフィリピン海プレートがぶつかって、日本列島が載っかっているユーラシアプレートの下の沈み込んでいます。

    その沈み込む力に引きずられた陸地側のプレートが跳ね上がって起きるプレートテクトニクス運動が地震となるわけですね。

    こうしたタイプの地震が現在、発生危険視されている東南海・南海地震なのですが、今回の能登半島沖地震はタイプが異なり、陸地側のプレートの内部のひずみが壊れて地震が起きたのだそうです。

    ユーラシアプレートは、先の太平洋プレートフィリピン海プレートからの沈み込むだけではなく、この2つのプレートから水平方向に押されているらしく、ユーラシア側、と2つの側からの圧縮力でプレートが壊れてしまい、結果地震が起きるのだとか―

    その意味では、平成12年(2000) に起きた鳥取県西部地震や、同16年(2004)の新潟県中越地震と同じメカニズムらしくて、こういう地震の発生は日本列島各地のどこで起きてもおかしくないという事ですよ。

    さて、かつて江戸時代後半に余震が9年間続いた大地震がありました。いわゆる安政の大地震ですが―

    • 嘉永7年(1854)11月4日に起きた「安政東海地震」(マグニチュード8・4)

    • 嘉永7年(1854)11月5日に起きた「安政南海地震」(マグニチュード8・4)

    • 安政2年(1855)10月2日に起きた「安政江戸地震」(マグニチュード6・9)
    を総称したものです。なかでも、「安政東海地震」が発生した32時間後に「安政南海地震」が発生しており、連動型の地震として大規模災害をもたらしています。

    この「安政東海・南海地震」の起こる約半月前の嘉永7年(1854)6月15日にも、三重県伊賀上野市から奈良盆地北部に走る木津川断層を震源地として起きたマグニチュード7・2、震度6〜7を記録した「安政伊賀地震」(伊賀上野地震)が起こっています。

    東南海・南海地震の発生前後に、近畿や中部地方で内陸地震が増える現象は古くから知られていて、この「安政伊賀地震」(伊賀上野地震)もその1つだったようです。

    そうした大地震について、奈良市月ヶ瀬地区の村民がその様子を記録した日記帳面が残っています。

    まず、日記は同市月ヶ瀬石打の石打自治会が所蔵している、同地区の庄屋が記した『大地震難渋日記』というもので、地震の揺れを「馬の腹の皮を動かすごとく」などとユニークな表現で形容しています。

    『地震帳』は同市月ヶ瀬月瀬に住む方所有で、その方の3代前の先祖が書いた地震体験記で、「大大大大大大大をうぢ志ん(地震)」「大」を7文字書いて地震の大きさを表現しています。

    何れも体験記で、地震史料としての価値が高いものです。先人たちのこうした記録が、後世の私たちに地震の構造・メカニズムの究明や、体験などによる救済活動・ボランティアに対する処し方を教えてくれるんですよね。

    ― ◇ ◇ ◇ ―

    ※(参考)“嘉永の大地震”記述リアル―『月ヶ瀬村民日記』など奈良市指定文化財に(奈良新聞2007-03-14)→

    ― ◇ ◇ ◇ ―

    ※(参照)津波に消えた豊後沖ノ浜→
    ※(参照)実録「岸辺のアルバム」―狛江水害(多摩川水害)→
    ※(参照)生死を分けた15段―天明3年の浅間山大噴火において→


        

    posted by 御堂 at 07:02 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

    上杉景虎と関東管領職―御館の乱を背景にして

    上杉三郎景虎

    上杉謙信(輝虎)が天正6年(1578)3月13日に49歳で急死しました。

    3月9日にかわやで倒れ、意識不明のまま、13日に死去したのです。死因は脳卒中と思われます。

    謙信の突然の死によって、上杉家中に激震が走ります。謙信の死があまりにも突然だったために、後継者争いが生じます。それが「御館の乱」です。

    謙信には実子がおらず、生前に景虎景勝、義春という3人を養子がいました。

    景虎は相模の北条氏康の七男・三郎で、永禄13年(1570)4月の越相同盟の折り、人質として越後に入り、謙信の姪と結婚し、謙信の初名である「景虎」を与えられます。

    景勝は魚沼郡妻有庄(現在の新潟県南魚沼市)の坂戸城を本拠とする上田長尾氏長尾政景の次男・顕景で、永禄7年(1564)7月の政景の死後、養子となります。

    義春は能登の畠山義続の子で、天文22年(1553)、能越同盟の際、人質として越後に入り、弘治2年(1556)に養子となります。しかし、元亀2年(1571)、上条じょうじょう上杉家上条定春の養嗣子となり、以降、親類衆として上条政繁を名乗ります。

    この3人のうち、景虎景勝が後継者の座を巡って争うことになり、結果、景勝が勝ち、越後上杉家を継承します。

    しかし、この御館の乱によって、謙信の時代に培われた越後上杉家の勢力と威信は大きく衰退することになりました―

    さて、謙信は遺言という形では後継者を定めませんでしたが、一体、景虎景勝のどちらを後継者=意中の人物として決めていたのでしょう?

    一説に、謙信関東管領職(=山内上杉氏の跡目)を景虎に、越後国主(=越後上杉家府中(三条)長尾氏の跡目)を景勝に、それぞれ継がせるつもりであったと云われています。

    『北条五代記』には「誰もが家督は三郎(=景虎)殿が継ぐのであろう」と記しています。これが周知の事実だったのでしょう。

    また、景勝弾正少弼を譲り受けたのに対し、その死去まで「三郎」のままであった事についても、謙信関東管領職景虎に譲るつもりであった事を示しています。

    というのも、文安4年(1447)3月に出された後花園天皇綸旨による補任と、それに伴う「天子の旗」を下賜された事によって、関東の諸将から関東管領職そのものが「副将軍」「天子之旗本」と認識され、関東管領職足利将軍家とは同格の勅任官レベル=天皇から任命された職務として山内上杉氏に与えられたものと変貌した事も関連します。

    すなわち、これ以降の関東管領山内上杉氏が受領名も官途名もなく、ただ「四郎」「五郎」のままであった事実がそれを物語っています。

    それ故、景虎「三郎」のままであった事は、景虎こそが関東管領職の後継者であった事が考えられますね。

    また、景虎が後継者と認識されていた有力な根拠として天正3年(1575)の『上杉家軍役帳』には、景虎には軍役が課せられていないのに対し、景勝は他の諸将と同様に軍役が課せられている事実が見られます。

    この点は、後年に徳川幕府が諸大名に対し禁裏(=御所)の普請役を命じた際の豊臣秀頼の立場と似通ったものがありますね。

    そもそも、長尾氏は代々、守護代を務め、蒲原郡三条(現新潟県三条市)を本貫とし、越後府中に居を構えた府中(三条)長尾氏上田長尾氏、古志郡蔵王堂・栖吉(現新潟県長岡市)を本拠とする古志長尾氏との間で抗争が激化していました。

    永禄2年(1559)、関東管領職となる事が内定し上洛を果たした景虎(謙信)が帰国した際、越後の諸将は景虎(謙信)に太刀を献じてこれを祝したのですが、その目録『侍衆御太刀之次第』には「直太刀の衆」として上杉・長尾氏一門衆が、続いて「披露太刀ノ衆」とされる外様・譜代の国人衆が、最後に「御馬廻年寄分ノ衆」として旗本衆が序列化されています。

    その中で、古志長尾氏長尾景信一門衆の筆頭に位置付けれ、上田長尾氏長尾政景国人衆の第7番目に置かれています。

    景勝の実父である政景は、謙信に最も近親なのにも拘わらず、一門衆ではなく国人衆の、しかも7番目に位置付けられています。

    政景は一族の扱いからも外され、国人衆の筆頭にも置かれなかった待遇だったんですね。

    景勝はその実父・政景と同様に国人衆上田長尾氏の当主として、謙信への賦役に務めています。

    すなわち、景勝謙信の養子とは言っても、その待遇は謙信の後継者としてではなく、国人衆の1人、つまり家臣団の1人として扱われていたことになります。

    景勝謙信の生前より後継者だったと根拠に挙げているのが天正3年(1575)正月に顕景から景勝へ改名し、弾正少弼に任ぜられた点だと云われます。

    謙信弾正少弼の官位を譲り与えたんだ―というのが根拠なのですが、これは謙信越後守護代長尾景虎の時代に任官したものなので、謙信越後守護代の立場としての上田長尾氏の当主であった景勝に下賜した―というのが正しい観方かもしれませんね。

    また、景勝自身も“自分は越後上杉家を継いだのだ”という思いだった節が見受けられます。それは、景勝の嗣子である定勝の名に顕著に見受けられるのです。

    定勝は慶長9年(1604)の生まれです。時代は徳川幕府草創期ですね。この時期に定勝と同世代の人物で伊達政宗の子で仙台藩を継いだ忠宗などは徳川秀忠の「忠」の字の偏諱を受けています。また、定勝の嗣子である綱勝徳川家綱の「綱」の字の偏諱を受けています。

    定勝徳川将軍家偏諱を受けなかったようですね。しかし、それよりも注目したいのは、定勝の「定」の字なのです。

    実は、越後守護だった上杉定実の「定」の字を意識したものではないのだろうか?という疑問が想定されるのです。

    定実は天文19年(1550)死去し、越後上杉家は断絶しますが、守護代だった景虎(謙信)は、その名跡を景勝に継がせたのではないのでしょうか?

    それを景勝も自覚していたので、越後上杉家の後継者として定勝と名付けたのではないのか―という憶測が芽生えます。

    結果として、御館の乱は、越後上杉家の当主の座を巡って、景虎=古志長尾氏を擁するグループ」「景勝=上田長尾氏を擁するグループ」との対立抗争って事が分かります。

    上田長尾氏出身である景勝を当主として仰ぐことに納得しない古志長尾氏などの重臣たちは、相模北条家という強大なバックボーンを持つ景虎を担いで敵対し、結果滅ぼされてしまいます。

    景勝の立場からすれば、謙信一代で築いた上杉氏の勢力を越後のみしか力を発揮できないまで縮小してしまった―しかも、自分の手で―事になりますね。

    景勝自身は「越後上杉家でいいんだ」と思っていたのかもしれませんが…

    若しも、景虎御館の乱に勝ち、関東管領越後上杉家を継承していたら、上杉=伊達=北条という同盟の壁が幾らか発揮されて、後年の豊臣秀吉の天下統一も違った展開になったことでしょうネ!



       

    posted by 御堂 at 03:34 | Comment(15) | TrackBack(0) | 歴史:コラム