(トピックス)新陰流の創始者・上泉伊勢守が木像に

室町後期の新陰流の創始者・上泉伊勢守の復元木像

上州前橋が誇る剣聖、上泉かみいずみ伊勢守信綱のぶつなのテレビドラマの実現に向けて活動する「上泉伊勢守ドラマ化推進委員会」が、伊勢守の木像を完成させたそうです。

設置された場所は、前橋市上泉町1区集会所の庭で、木像は全長は約180cm、重さは300㎏ほど、持ち運びが可能でお祭りやイベントなどで展示できるように造られたようです。

上泉自治会館にある上泉伊勢守の銅像

同委員会は、桂萱地区にのぼりばたを立てるなど、伊勢守の映像化に向けて活動されていて、平成20年(2008)の生誕500年祭には伊勢守の銅像(全長約215cm、重さ約400㎏で黒御影石の台座に乗っている)が造られ、上泉町自治会館の庭に建っています。

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上泉伊勢守信綱は、上野こうずけ国勢多郡桂萱かや郷の上泉(現、群馬県前橋市上泉町)を拠点とし、同郡の大胡おおご郷(現、群馬県前橋市堀越町)にった大胡氏の一族( 『前橋市史』第1巻)である上泉氏の第4代目の城主です。一族は城主であると共に、代々が兵法家として知られ、陰流、神道流、念流などの諸流派を学ぶなかで、新陰流を創始します。

大胡氏は藤原秀郷の子孫で藤原姓足利氏("橋合戦”での田原足利忠綱が有名)の庶流にあたります。平安時代から大胡城を拠点として、鎌倉、室町時代にかけて勢力を張りますが、戦国の騒乱の中で衰微してゆき、室町幕府の重臣・一色いっしき家がその名跡を継ぎ(←恐らく、幕府か関東公方の傘下に入り、旗本株を一色家が買ったのでしょう)、大胡氏宗家を立て直した後に上泉に拠って上泉氏を興したものと考えられます。

その後、大胡城は後北条氏からの攻撃を受けて陥落。大胡氏宗家は後北条氏の傘下に組みしますが、上泉氏は群馬郡厩橋まやばし(現、群馬県前橋市)に拠った長野氏に仕え、武田信玄・北条氏康の大軍を相手に奮戦し、“長野の16人の槍”と称えられ、上野国一本槍の感状を長野業盛からもらったと云います。

長野氏の本拠である箕輪城落城後は、長野氏旧臣を取り立てようとする武田信玄からの再三にわたる仕官の勧めにも応じず、新陰流を普及させるため門弟たちと共に諸国流浪の旅に出たそうです。

上洛した際、公家の山科言継ときつなとは交流があったようで、言継が書いた日記(『言継卿記』)に「大胡武蔵守」もしくは「上泉武蔵守(信綱)」との記載が多々みられます。

伊勢守は剣聖とうたわれ、多くの流派の祖とされ、宝蔵院流槍術の宝蔵院胤栄や新陰流の柳生石舟斎にその技と心を伝えるのです。

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そんな上泉伊勢守信綱を扱った時代劇ってないのかな、って調べてみると面白うそうな作品が見つかったので、以下に照会しておきますね!

上泉伊勢守信綱を映像化した作品(主役級)
「日本剣客伝」第3話「上泉伊勢守」(配役:長門勇さん)
昭和43年(1968)5月29日~6月19日放送、NET(現、テレビ朝日)制作
→池波正太郎『上泉伊勢守』(『日本剣客伝』1所収)をベースに制作されたもの
「雲のごとく水のように 剣聖 上泉伊勢守信綱」(配役:若林豪さん)
平成4年(1992)3月28日放送、群馬テレビ制作
←余談ですが、映画「二百三高地」で若林豪さんは上泉伊勢守信綱の11世子孫である上泉徳弥海軍中佐を演じてられています。何か因縁めいてますよね!

小姫が想い父に届け!―「まつだいらつゆ」の遺筆

江戸時代の中期から後期にかけて、因幡鳥取藩の支藩である鳥取新田藩(東舘新田藩=東分知家、明治維新後の朝藩体制下では鹿奴藩、に対し、西館にしやかた新田藩=江戸屋敷が鉄砲洲てっぽうず(現、東京都中央区湊辺り)にあったので鉄砲洲家、維新後の朝藩体制下では若桜わかさ藩と呼ばれる)の殿様に池田定常という人がいました。

池田定常は謹厳実直な性格であると共に文学者としても有名で、その学識と沈毅な人柄から文化人仲間の間でも高く評価される人物で、文人大名と称されます。

その故、毛利高標たかすえ(豊後佐伯藩主)や市橋長昭(近江国仁正寺にしょうじ藩主)らと共に“柳間の三学者”“文学三侯”と称された程で、家督を譲り、隠居して冠山と号して以降も文化人たちと交流を深め、『論語説』や『周易管穂』、『武蔵名所考』や『浅草寺志』など、著作活動や研究に力を注き、当時の儒学や古典、地理などを知る上での貴重な史料と現在も高い評価を受けています。

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さて、お話はこの池田定常(以下、冠山)の16女で末娘にあたる露姫に関するエピソードです―

浅草寺所蔵「玉露童女木彫像」

露姫は、江戸鉄砲洲の鳥取新田藩江戸屋敷で生まれました。冠山は9男16女の子女を得ますが、これらのうち、無事に生育したのは2男4女に過ぎませんでした。

そのためもあってか、ことほか露姫を可愛がっていたそうです。

しかし―

文政5年(1822年)11月27日、露姫は疱瘡(天然痘)がために短かすぎるほどの生涯を終えます。享年6才。

冠山は悲しみにくれたようですが、それにも増して、この文人大名を更に嘆き悲しませる物が、露姫の死後に見つかったのです。

それは、露姫が父や母、兄、そして侍女に書き遺した遺筆でした。

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そこには―

  於いとたから こしゆあるな つゆが於ねかい申ます めでたくかしく
    おとうさま
      まつだいらつゆ


とありました。要約すると「愛しいお父様、もう良いお年なのですから、あまりお酒を召し上がらないで下さい、お願いです!」って感じでしょうか。

冠山は無類の酒好きだったらしく、露姫は父の健康をひとえに気遣っていたんですね。

冠山が最晩年に著した『思ひ出草』という随筆の中で「酒は露児が戒しにより今は唇をも濡さず」(酒は露姫に戒められて以降は一滴も飲まなくなった)と記しています。

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また、母である冠山の側室「たえ」に宛てた辞世の句には、

  まてしはし なきよのなかの いとまこい むとせのゆめの なこり於しさに
    おたへさま
      つゆ


とあり、「むとせのゆめ」(=6歳の夢)を持ちながら短い一生を終えるのは名残惜しい、と無念さを訴えつつも死んでいく自分のはかなさを詠んでいます。

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そして、侍女のたつとときの2人には、

  ゑんありて たつときわれに つかわれし いくとしへても わすれたもふな
    ときさま
    たつさま
      むっつつゆ


と願い、「たつ」と「とき」を「立つ時」、すなわち「自分がこの世を立ち去っていく時」に懸けているところが涙を誘います。

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更に、露姫の死後42日目に兄や姉が故人を偲んで露姫が愛用していた箪笥の引き出しを開けて見たところ、

  おのかみの すへおしら(ず)に もふこてう
  つゆほとの はなのさかりや ちこさくら
  あめつちの おんはわすれし ちちとはは
    むっつつゆ


と詠まれた句に添えられる形で、花や蝶などの絵が描かれていたそうです。遠からず尽きようとしている自分の身の上を花(「稚児桜」)や蝶(「胡蝶」)になぞらえて歌を詠む感性は想像を打に尽くせません。

露姫が遺した遺筆を見て、父である冠山はその才能を惜しみ嘆いた事でしょう。

冠山は亡き露姫の菩提を弔うと共に、その才を多くの友人たちに観てもらおうと露姫の遺筆(歌・発句・手紙)を露姫の筆跡を模し(=模刻)木版刷りにして親類や知人らに配り、供養してくれるよう頼みます。
 
その逸話が世間に広まるや江戸の文人らの涙を誘い、多くの著名人が追悼文や詩歌の類を冠山に贈ります。

なかでも、幕府の旗本で当時の情報収集家で知られていた宮崎栗軒が著した『視聴草みみききぐさ』と呼ばれる書物に露姫の遺筆のレプリカを『視聴草』に綴じ込んだ上に次のように書き添えたのです―

冠山公の息女名は露、幼にして才慧衆児に超越す。惜しいかな六齢にして蘭砕す。老候痛 惜に耐えずその遺筆を刻して親戚にわかたる。余これを見れば覚えず涙襟を潤す(『視聴草』二集之七 四六 松平冠山息女阿露筆蹟摸刻本、幼女遺筆)
冠山はそれらを30巻に及ぶ書物『玉露童女追悼集』としてまとめ上げ、露姫が生前とくに参詣していた浅草寺に奉納し現在いまに伝えられています。

また、全国各地の寺院にも露姫の遺筆と共に木版刷りを送り、供養を願っています。

冠山の友人たちから贈られた詩歌のうち、

冠山と特に親しかった安房北条藩主・水野壱岐守忠照が寄せた詩歌には、

  筆草や 枯野のつゆの 置きかたみ
    忠照


と詠んだといいます。要約すると、「最後に素晴らしい形見を残してくれたのだ、以て瞑すべしじゃないか」かな。

実は水野忠照も冠山と同じように2歳の男児と6歳の姫を疱瘡(天然痘)で亡くしていました。わけても露姫と同じ6歳の姫を亡くしたときの様子を

其の後又ををな子をまうけしが、六才の冬是も同じもがさ(=庖蒼)にて目も閉じぬれば、父は今御城にや今表にや今奥にや、と傍らのらのもとびと(=侍女)に尋ね問ひぬるをや、掌の玉きわる命終わる前の日までも斯かる事止まざりしを、老の今に至るまで耳の底にとどまりぬ。
と書き記しています。「父上は今登城しているのか、今屋敷で執務をしているのか居間にいるのか、と死の前日まで毎日傍らの侍女たちに問いかけていたのが、老いてしまった今も私の耳に残って離れないんだ」と冠山同様、幼い子を亡くした悲しみは忠照には他人事ではなかったのです。

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生まれ変わり伝承「ほどくぼ小僧」と露姫

江戸時代後期、武蔵国多摩郡中野村(現、東京都八王子市)の百姓・源蔵の次男に勝五郎という8歳の少年がいました。

ある時、勝五郎は「自分は多摩郡程久保村(現在の東京都日野市)で6歳で死んだ百姓・久兵衛の息子・勝蔵の生まれ変わりだ」と言ったのです。「生まれ変わり伝承」って奴ですね。

よくよく話を聞いてみると、話の辻褄つじつまが合い、関係者も実在していた事で評判となります。

その噂を聞いた冠山は江戸から八王子まで勝五郎に話を聞きに出掛けます。

冠山とすれば、藤蔵も露姫と同じく疱瘡(天然痘)で亡くなっており、若しかすれば露姫も藤蔵のように復活しないだろうかと期待をかけていたのかもしれませんね。

現在、藤蔵の生家と伝えられる家屋に住む方の話に寄ると、家には露姫のものとされる位牌いはいが伝わっているそうです。

わが子の生まれ変わりを切に願う親心を感じ取れずにはいられませんね!

(トピックス)デレーケがもたらした欧米技術 八幡の桂川河川敷で明治期の護岸遺構「水制」見つかる!

護岸から張り出した「水制」の跡。石が敷き詰めらている 「水制」の遺構(中央の石畳の部分)

京都府八幡市八幡茶屋ノ前の桂川左岸の河川敷で、明治時代初期に淀川に造られた大規模な護岸の遺構(以下、木津川河床遺跡)が見つかり、10日、京都府埋蔵文化財調査研究センターが発表しました。

明治期に政府の招聘しょうへいにより、お雇い(御雇)外国人として来日し、淀川一帯の改修工事を手掛けたオランダ人技師ヨハネス・デレーケ(Johannis De Rijke)(以下、デレーケ)が手掛けた可能性が高く、同センターでは「欧米の技術を導入したデレーケの足跡を辿たどる貴重な資料」としています。

桂川で見つかった明治初期のものと見られる大規模な護岸の跡

見つかった木津川河床遺跡は、桂川が宇治川、木津川と合流する地点のやや上流の左岸部分で、河道掘削工事に伴い、同センターが4月から約6000㎡を調査していたところ、岸から約450mにわたって断続的に確認され、こぶし大から60cm程度の石を敷き詰めた構造になっていました。

石積みの遺構は岸から突き出ており、先端部は崩れていたが、岸からの長さが15~20m、高さ4mの平たい石の形状をしたものが計12か所、約30m間隔で築かれていた事が確認できます。

これは「ケレップ」(水制すいせい)(=Krib=オランダ語で「水制」「防波堤」の意味がある)」と呼ばれる突堤状(突起状の土塁)の遺構で、川に向かって護岸の一部を張り出す事で、川の中央部に土砂が堆積たいせきするのを防いだり、つ川を流れる水の作用(浸食作用)から河岸や堤防を守る、さらには水の流れをゆるやかにして流れる方向を変えたり、水の勢いを弱くするなどを目的として設けられる施設で、川幅が広い河川に多く見られます。

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デレーケによる近代的砂防工事の始まり
ペリー来航以後、開国政策により幕末から明治にかけて、日本の近代化を目指す殖産興業政策の過程で欧米の先進技術や学問、制度を輸入するために御上おかみ―すなわち江戸幕府や諸藩、明治政府や各府県―が招聘し、普及のために雇用したお雇い(御雇)外国人ですが、海運関係はオランダに請うところが大きく、明治5年(1872)にオランダよりコルネリス・ヨハネス・ファン・ドールン(Cornelis Johannes van Doorn)(以下、ファン・ドールン)を招聘し、近代土木技術を導入して、全国各地の港湾及び河川の整備を実施する事になります。

そうした港湾及び河川の整備事業のうち、大阪港の築造の際、ファン・ドールンより招聘されたのがデレーケで、デレーケはファン・ドールンの求めに応じ明治6年(1873)に来日します。

明治初期頃の大阪港は淀川の河口部に位置しますが、その淀川は土砂堆積のために水深が浅くなり、とても蒸気船などの大型船舶が入港できる状態ではなく、水上交通の往来に支障をきたしていました。

当時、京都の伏見港と大阪湾は重要な交通の動脈だったため、導入されたばかりの蒸気船をスムーズに運航させるためには大阪港の築造が急務と考えたのです。

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デレーケによる治山・治水
デレーケがず取り組んだのは、土砂の流出を減らす砂防堰堤や植林でした。

来日翌年の明治7年(1874)から淀川改修の一環として不動川流域(現、京都府木津川市山城町大字平尾一帯)を踏査し、その荒廃ぶりに驚き、大阪港の築造や淀川改修には水源砂防の強化が重要だという意見書を政府へ提出します。

それら上流の山々は古くから平城京や恭仁くに京、紫香楽しがらき宮などの造営や南都寺院の建築資材として伐採が進み、周りのほとんどが崩れ禿げ山の様相を呈していて、大雨が降るたびに大量の土砂流出を繰り返していました。

デレーケの治水観の特徴は、河川を上流から下流まで一体的に捉える事と治山・治水重視である事だったんですね。

その手始めとして淀川に流れ込む河川で2番目に長い流路を持つ木津川の上流にある京都府綴喜郡井手町や相楽郡山城町、あるいは三重県名張市などの森林対策(植林など)を実施します。

現在、京都府木津川市山城町立不動川公園内には、デレーケによって築堤された日本で最初の石積み砂防堰堤である「デレーケ堰堤えんてい」約50基近くが残っており、100年を経過した現在いまもなおその機能を発揮しています。

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デレーケは他のオランダ人工師が帰国した後も、内務省雇工師として明治36年(1903)まで日本に滞在します。

国による洪水防禦工事(高水工事)が法的に整備されたのが、明治29年(1896)。淀川ではこの年から本格的な淀川改良工事が着手されます。

デレーケの淀川治水の考え方(計画書)としては、

・明治20年(1887)『大阪築港並淀川洪水通路歌集計画』
・明治23年(1890)『京都府並ニ大阪府ノ管下ニ於ケル淀川毎年ノ漲溢ニ対スル除害ノ新計画』

が挙げられますが、その内容として、下流部左岸の賀茂川合流部から水無瀬付近までに水路に曲線を多く採り入れ、遊水効果を持たせた新水路を掘削する事を提案します。

しかし、この大規模な新水路建設案は採用されず、より直線的な水路を提案した案が採用される事となり、それと並行して、最下流部の排水能力を向上させるため右岸の拡張引堤工事が実施されます。

こうして淀川の改修工事が始まりますが、そこにはデレーケがオランダから日本に持ち込んだ最新技術がフル活用されます。

デレーケは淀水の流れを川の中央に集め、大型船舶をの航行を可能にするために低水路の維持しようと両岸に「ケレップ」(水制)を数多く造る事で、川の流れを中央部分に集め、大型船舶などが往来する水量を確保したとされます。

当時、大阪・天満橋てんまばしから京都・観月橋までの約40kmにわたる間に393箇所の「ケレップ」(水制)を設置、総延長は約6万6千mに及んだと云います。

その後、舟運の衰退や河川改修工事により、多くの「ケレップ」(水制)が撤去され、現在では大阪市旭区の河川敷などに残る程度ですが、残った多くの「ケレップ」(水制)には、水生植物の良好な生育域となって、多用な河川環境を創り出しています。

それが「ワンド」(湾処)というもので、川の本流とは繋がっていますが、「ケレップ」(水制)に土砂が堆積してできた事で水まりのようになっている地形を言います。まさに淀川改修工事によって生じた産物なんですね。

その「ワンド」(湾処)に水際みずぎわを好む水生植物が繁茂し、また現在は河川環境の変化で殆んど姿を消し、絶滅の危機にひんする淡水魚で天然記念物に指定されたイタセンパラ(板鮮腹)の国内最大の繁殖地としても知られています。

河川環境が重視される現在、デレーケが残してくれた財産価値は高いですよね!

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今回発見された「ケレップ」(水制)は、一帯の改修に向けてデレーケが明治7年(1874)に記した設計図面に描かれており、今回出土した「ケレップ」(水制)の位置とほぼ一致しています。

デレーケが伝えたとされる、里山の雑木から伐採した直径数cm程の細い木の枝である粗朶そだなどを束ねて造った資材を沈め、その上に護岸となる石材を固定する工法「粗朶沈床工法」が使われた形跡も確認されたそうです。

この「粗朶沈床工法」は、これ以前に日本が行ってきた松杭などで水の流れを弱める工法よりも水当たりが柔らかく、流れに対する抵抗力が強いので、効果的なものでした。事実、50~100年以上の耐用年数が実績として存在するそうです。

今本博健・京都大学名誉教授(河川工学)は「角度の付け方など、水制は十分に機能しており、当時の水制の造り方を知る上で参考になる」と話されています。

※(参考)木曽三川、治水との闘い

(トピックス)専門教育機関との連携に地元の知恵 丹後の大庄屋・安久家文書 19年がかりの調査

『安久家文書目録』

阿蘇海を望む高台にある京都府立丹後郷土資料館(ふるさとミュージアム丹後、京都府宮津市国分)―その資料館に隣接し、かやきの旧永島家住宅(府有形文化財)にこの夏、地元の老若男女が集って、蒸し暑さのなか、戸や玄関を開け放った広間でタオルを首にかけて古文書類の判読に励んだそうです。

判読しているのは、江戸時代の丹後田辺藩(現・京都府舞鶴市)の大庄屋おおじょうや安久家あぐけ」に伝わった膨大な古文書類で、日々のお勤めを細かく記した公文書日記『御用触附日記』を含む『安久家文書』

その大半が同資料館に寄託されており、田辺藩の動向や近郊の出来事を知る貴重な史料と云います。

調査は千葉大学文学部の学生や卒業生、それに地元の舞鶴地方史研究会など歴史愛好者たちが参加。

協力し合って、文書資料を読み込むユニークな手法で、これまで19年がかりの地道な取り組みを続けてきた。

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丹後田辺藩は、中世期にこの地方を知行していた細川氏が豊前中津へ転封された後に入封した京極高知が息子たちに分知(=分割統治)した際、三男の高三たかみつを田辺藩主にしたのが起源です。藩の領域は丹後地方の加佐郡全域(137か村)で、現在の京都府舞鶴市、および宮津市由良、福知山市大江が該当します。

この京極氏が寛文8年(1668)に但馬豊岡に転封し、代わって牧野親成が入封。以降、牧野家9代によってに支配され、明治維新を迎えます。

正保年間(1644~48)より領国内の村々は、8組(川口上組、川口下組、中筋組、池之内組、祖母谷組、志楽組、大浦組)の大庄屋に統括されます。

大庄屋は、名字帯刀を許された有力な農民で、村々の庄屋20人程をまとめ、藩とのつなぎ役を担う役割があるのですが、安久家は池之内組の大庄屋を長く務めました。

安久家は応仁・文明の乱(1467~77)以降、上安久村(現・京都府舞鶴市上安久)に居を構えた在地有力者で、明治以降も村長や郡会議員など名望家めいぼうかとして地域のリーダー役を担いました。

『安久家文書』は昭和61年(1986)に丹後郷土資料館に寄託され、目録作成調査が始まりました。平成6年(1994)からは千葉大学の菅原憲二教授(日本近世史)の研究室が参加しました。菅原教授は「古文書が水や泥をかぶっていて文字がにじんだ部分や断簡も多く見られ、苦労した」と当時を振り返られます。

判読した古文書類からは、江戸時代の借金証文から行政文書、絵図、証文、願書、明治時代の年賀状までそろっていて、丹後地域で藩権力を超えた政策がどの範囲でどのように連携していったかがうかがえると云います。

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こうした共同調査などを催した際に一番感じるのは、古文書を読み解くにあたって地元住民の知識と経験が生きる、って事なんですよね。

その地方独特の言語や地元だけで使用している地名の通称、祭り、川の支流の名称…地元に住む人ならではの推察や意見がどれだけ役に立つ事か―

千葉大学の学生も「文書が残っている場所で地域の人と直接話ができ、貴重な体験だった」と話されています。

一方で、ほとんどの調査に参加してきた舞鶴市の女性も「学生に聞かれて、『もっと地域の歴史を知らなくては』と刺激になった」と話されています。

良い相乗効果がありましたね!

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昨今、緊縮財政政策などで自治体史の編纂やこうした古文書の調査も縮小傾向にあります。

しかし、“オラがまちの歴史”を掘り起こそう、という思いが、19年にも及ぶ地道な調査の支えとなったと感じます。

成果となる『丹後国加佐郡上安久村安久家文書目録』(菅原憲二編、千葉大学文学部史学科菅原研究室刊)は第5集まで完成。

菅原教授は来春退官するため、積み残した調査を地元の皆さんが中心になって引き継ぎ完成をみて欲しいですね!

(トピックス)“近江八景”は近衛信尹が膳所城からの眺望を詠んだもの!

近衛信尹が膳所城からの眺望を近江八景に詠んだ事が記されている史料『八景和歌〈琵琶湖〉』の写し

「石山の秋月」や「三井の晩鐘」で知られる“近江八景”(※)は、「寬永の三筆」で知られる五摂家の近衛三藐院さんみゃくいん信尹のぶただが琵琶湖畔の膳所城からの眺望を和歌で詠み、選んだ事が判る史料が発見されました。

“近江八景”の選定者を巡っては従来諸説があり、室町時代後期の関白で三藐院信尹の高祖父こうそふ、つまり、ひいじいさんにあたる近衛政家が選んだと記した出典文献が多く見受けられますが、この発見により覆る可能性が高くなってきました。また、“近江八景”が近江国(現、滋賀県)全域ではなく琵琶湖南部に集中している謎も、実は膳所城を中心とした景色の取り合わせだったと考察されています。

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史料は、江戸時代初期の元和10年(寛永元年、1624)に儒学者で藤原徨窩門人の高弟、かん得庵とくあんが記した『八景和歌〈琵琶湖〉』(〔伊勢〕神宮文庫蔵)。

“近江八景”をそれぞれ詠み込んだ和歌8首を写して「この和歌は、信尹公が膳所城からの八景を眺望して紙に写し、城主に賜れた」(意訳)と記されていました。

※ “近江八景”
近江国(現・滋賀県)、琵琶湖周辺にみられる優れた風景から「八景」の様式に則って選んだ、風景評価図。
山水画で知られる中国湖南省の景勝地で、長江流域の洞庭湖及び、湘江から支流の瀟水にかけてみられる典型的な水の情景を集めて描いた『瀟湘しょうしょう八景図』(11世紀頃、北宋時代、宋迪そうてき作)を琵琶湖になぞらえて、琵琶湖周辺から8か所の名所を選んだもの。
鎌倉時代後期より来日した禅僧により伝えられ、室町時代には京都五山の禅僧たちによって水墨画や五山文学と相俟あいまって、広まっていったとされます。


得庵は、近江膳所藩第2代藩主の戸田氏鉄うじかね(※)(→現在、大垣公園(大垣城跡地)には戸田氏鉄の騎馬銅像が立っていますね)の侍講をしていた事が判っており、上記の記載を発見された京都大学大学院文学研究科の鍛冶宏介非常勤講師は「“近江八景”の始まりを氏鉄から聞いたと考えられる極めて信頼性の高い史料」とみられている。

※ 近江膳所藩第2代藩主の戸田氏鉄
戸田氏鉄は慶長8年(1603)、近江膳所藩の藩主となり、元和2年(1616)に摂津尼崎藩に移封され、寛永12年(1635)、美濃大垣藩へ移封されています。


“近江八景”をめぐっては、上記の記載した如く、近衛政家が明応9年(1500)8月13日に室町幕府・近江守護職の六角高頼の招きで、近江に滞在した際に“近江八景”の和歌8首を詠んだのが始まりだという説が江戸時代の中期に編纂された地誌などで広まり、現在もこの説を採用する文献が多いと云います。

その一方で、政家の玄孫げんそんにあたる三藐院信尹だという説を記した文献も存在します。

江戸時代の後期、享和元年(1801)に近江商人で歌人・文筆家のばん蒿蹊こうけいによって刊行された随筆集『閑田耕筆かんでんこうひつ』には、三藐院信尹自筆の近江八景和歌巻子を知人のもとで観覧し、その奥書には、現行の“近江八景”と同様の名所と情景の取り合わせに至る“八景”成立の経緯が紹介されています。

これについては、政家が当時書いていた日記(『後法興院記』)を調べた結果、この日、つまり明応9年(1500)8月13日は、何処どこにも外出せず自邸にもっていた事実が判明したため「政家説」は消え、「信尹説」が有力視されていました。

加えて、“近江八景”を題材とする作品が室町時代にはまだ見当たらず、ほとんどが江戸時代以降にならないと確認できない事などからも「信尹説」の方が信憑しんぴょう性が高かった事もありました。

今回、三藐院信尹が生きていた時代とほぼ同時代の信頼性の高い史料が発見された事を踏まえ、“近江八景”に詳しい大津市歴史博物館の横谷賢一郎学芸員は「信尹による選定が決定的となった。信尹が“近江八景”を和歌で詠んで公家たちに受け容れられ、江戸中期以降、絵画化によって日本を代表する名所として広まった」と述べておられます。

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◎近江八景における8つの風景

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石山秋月(いしやまのしゅうげつ)⇒石山寺
石山や/におの海(=琵琶湖)てる/月かげは/明石も須磨も/ほかならぬかな

勢多夕照(せたのせきしょう)⇒瀬田の唐橋
露時雨つゆしぐれ/もる山遠く/過ぎきつつ/夕日のわたる/勢多の長橋

粟津晴嵐(あわづのせいらん)⇒粟津原
雲はらふ/嵐につれて/百船も/千船も浪の/粟津に寄する

矢橋帰帆(やばせのきはん)⇒矢橋
真帆ひきて/八橋に帰る/船は今/打出の浜を/あとの追風

三井晩鐘(みいのばんしょう)⇒三井寺(園城寺)
思うその/暁ちぎる/はじめとぞ/まづきく三井の/入あひの声

唐崎夜雨(からさきのやう)⇒唐崎神社
夜の雨に/音をゆづりて/夕風を/よそにそだてる/唐崎の松

堅田落雁(かたたのらくがん)⇒浮御堂
峯あまた/越えて越路に/まづ近き/堅田になびき/落つる雁がね

比良暮雪(ひらのぼせつ)⇒比良山系
雪ふるる/比良の高嶺の/夕暮れは/花の盛りに/すぐる春かな

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※(参考文献)鍛冶宏介「近江八景詩歌の誕生」(京都大学文学部国語学国文学研究室編『国語国文』第81巻第2号)

※(参照)五山の送り火
※(参照)ハイビジョン特集「銀閣よみがえる~その500年の謎~」