日本最初の盲導犬たち

日本最初の盲導犬が身に着けたハーネス(胴輪)。リタが使用していた物

皆さんは、盲導犬を身近に接した事がありますか?

私は学生時代、最寄りのバス停留所から乗る際にいつも同じ時間帯に乗り込む女性がおられたのが初めて接する事になったのが最初でした。

― ◇ ◇ ◇ ―

さて、盲導犬は古くはイタリア・ミラノ近郊のポンペイで発掘された壁画や、13世紀頃の中国の絵画などに描かれていて、その多くは長いロープで繋がれた盲導犬が視覚障害者を引っ張って誘導している、といった形での活躍が見受けられます。

また、6世紀頃のフランス・ブルターニュ地方で視覚障害の宣教師が白い小型犬と共に宣教して歩いたという記録も残されています。

初めて盲導犬の訓練をしたのが、ヨハン・ウイルヘルム・クラインというオーストリア・ウイーンの神父で、1819年に盲学校を設立した際、盲導犬の研究も行い、そのデータを基にした著書の中で、視覚障害者が安全に歩行するための手段・方法として、犬の首輪に細長い棒を付けた歩き方を取り上げています。

これが盲導犬の訓練としての最初の出来事と云われています。

その後、現在のように盲導犬の訓練が施設で福祉事業の一環として取り組まれるようになったのが、第一次世界大戦中のドイツからでした。

まず1916年に、ドイツにオルデンブルク盲導犬学校が設立され、翌年に盲導犬が誕生します。

次いで、1923年にはポツダムに国立の盲導犬学校が設立されて多くの盲導犬が誕生し、大戦によって視覚障害となった軍人たちの社会復帰に貢献します。

また、世界各国から集まった訓練士たちを招き入るなど、盲導犬が波及する要因を形成するのです。

以降、盲導犬の育成事業はスイス、アメリカ、イギリスなどの国々において広がりをみせていきます。

― ◇ ◇ ◇ ―

日本人が初めて盲導犬を目撃したのは、昭和13年(1938)にアメリカ人のジョン・ホルブス・ゴードンさんが、オルティー・V・フォーチュネートフィールズという名前の盲導犬と共に観光旅行の途中、日本に立ち寄ったのがきっかけでした。

ゴードンさんは盲導犬の存在を知ってもらおうと、盲導犬と歩く姿を実演してみせたり、講演をしてまわるなど、積極的にアピールをしたのです。

そうしたゴードンさんのアピールに感銘を受けた人たちを中心に、昭和14年(1939)、ドイツのポツダム盲導犬学校から4人の民間実業家がそれぞれ1頭ずつ、計4頭の盲導犬を輸入します。

昭和14年(1939)5月26日、神戸港に4頭の盲導犬であるシェパードが遣って来ました。ボド、リタ、アスター、ルティという名前の4頭です。

これらの盲導犬たちは、日本シェパード犬協会(現:社団法人 日本シェパード犬登録協会)の蟻川定俊氏が、ドイツ語の命令語を日本語に教え直した後、日本の風土に適する様にもう一度訓練された上で、昭和16年(1941)、戦争によって視覚障害となった兵隊たちに下げ渡されます。

4頭の盲導犬は、光と希望を失ったユーザー(使用者)たちを勇気づけ、新しい人生の伴侶として活躍します。

しかし、その一方で戦争の激化と共に、ユーザー(使用者)と爆撃の中を逃げ惑うも盲導犬や人間すら食べるもののない食糧不足の中で手放される盲導犬もいて、数奇な運命を辿るのです―

― ◇ ◇ ◇ ―

日本に遣って来た盲導犬4頭のうち、リタボドは優秀で健康な方だった事もあり、視覚障害となったユーザー(使用者)と共同訓練を受け、日本最初の盲導犬となります。

しかし、最初であった為にリタボドは時代に波に翻弄され、敗戦の混乱の中でリタは病死、ボドは餓死してしまうのです。

でも、悲しい一生だった、とばかりは言い切れません。

それは、リタボドの存在が視覚障害となったユーザー(使用者)にとって、想像を遥かに超えた深い信頼と愛情のエピソードが語られているからです。

楽しそうに野山を誘導する姿や、精悍な顔つきで婚礼写真の真ん中を占める姿、優しい表情で甘える姿など…ユーザー(使用者)と一体となったリタやボドの姿には心が和みます。

ボドの最後(4人目)の主人になった山本卯吉さんは、昭和16年(1941)、中国の戦線で手榴弾により両眼を失明されました。

暗黒の底でささくれ立った心を持て余しながら、懸命に生きる手立てを模索していた頃、入院先の臨時東京第一陸軍病院から、失明兵士と盲導犬の訓練の実験としてボドを使うよう命じられます。

様々な試行錯誤の末、山本さんとボドは抜群の相性を発揮して、実家の植木屋兼農業を手伝い、やがて点字出版の仕事に参加して自立、結婚後更に、失明者への支援に尽力した企業のプレス工としても働く事になるのです。

山本さんはこう言っていたそうです―

ボドといると、新しい事にチャレンジしようと意欲が湧く。ハーネスを握っていると、姿勢を正して行こうと前向きになれる。だから「一、二、一、二」と掛け声をかけて、ボドを励まし、自らも励まして、寒風の中を歩いた。「行こう、ボド」。何時しかこれが口癖になっていた―と。
昭和14年(1939)に起きた旧満州での「ノモンハン事件」に通信兵として従軍し、全身を焼かれて両眼を失明した山崎金次郎さんは、ボドと日本の軍用犬との間に生まれたチト(千歳)と出会います。

チトは戦時下の空襲の際には山崎さんを防空壕へ誘い、戦後家業のラジオ修理業の部品の仕入れの際には大阪・ミナミの日本橋までお供したそうです。

また、その当時は舗装された道路ではなく、ほとんどが砂利道だったので、、雨が降って水溜まりができると、チトは自ら水溜まりに足を突っ込んで、山崎さんが濡れないよう誘導していたと云います。

そんな山崎さんがチトを想い、次のような歌を作っています―
霜道も/いとはず/誘導なしくれる/盲導犬のはく/靴なきか

朝の道/盲導犬と/立ちゐつつ/散る花びらを/頬にうけをり
最早そこには盲導犬と自分という二人称的な表現はありませんね。自分と一体化した、まさに身体の一部分といった感じで、盲導犬に対する愛情が溢れ出ています。

― ◇ ◇ ◇ ―

(参考)葉上太郎『日本最初の盲導犬』(文藝春秋)


 

posted by 御堂 at 11:53 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

図書館で役立てよう!

ブログへの記事の執筆に際し、岡崎の府立図書館や北山の総合資料館、祝園の国立国会図書館関西館に足繁く通っていますが、例えば皆さんは図書館で本を探す時、どのような方法で探しますか?

最近ではデータベース化に伴い、検索システムも充実しているので、ほとんどの人が書名検索や著者検索で探しておられる事でしょう。

そこで、覚えておくと意外と便利かも!という方法を教えちゃいます―

そもそも図書館では書籍や雑誌が扱っているタイトルを「日本十進分類法(NDC)」に基づいて分類し、書架に整然と並んでいます。

それぞれの書籍や雑誌ごとに書架上の住所に相当する図書請求記号というものを持っていて、その順番の通りに整然と並んでいるわけです。

図書ラベルシール

図のようなラベルを見た事がありませんか?これが本の背(背表紙)側に貼られているはずです。3段あるうち、
 1段目はタイトルを表す(分類番号)
 2段目は著者や編者を示す(図書記号)
 3段目が通巻数などを示す(巻数番号)
となっています。私は学校事務の仕事をしていた時に図書館事務をしていた時期があって、購入図書や寄贈図書がある度に受入業務をしていたので、否が応でも覚えてしまった(覚えなきゃやっていけなかったわけですよ…これが!笑)

では、歴史に関する図書に関して紹介します―

000 総記…図書館、図書、百科事典、一般論文集、逐次刊行物、団体、ジャーナリズム、叢書

030 百科事典
031 日本語
040 一般論文集・一般講演集
041 日本語
050 逐次刊行物(年鑑)
051 日本の雑誌
060 団体:(学会・)協会
080 叢書、全集、選集
081 日本語

100 哲学…哲学、心理学、倫理学、宗教

102 哲学史
121 日本思想
121.02 日本思想史(通史)
150 倫理学・道徳
150.2 倫理学史・論理思想史
150.21 日本
160 宗教
161 宗教学・宗教思想
162 宗教史・事情
170 神道
172 神祇・神道史
180 仏教
182 仏教史
190 キリスト教
192 キリスト教史.迫害史

200 歴史…歴史、伝記、地理

201 歴史学
202 歴史補助学
202.2 歴史地理学
202.5 考古学
202.9 古文書学
203 参考図書
203.8 歴史地図
204 論文集、評論集、講演集
205 逐次刊行物
206 団体、学会、協会、会議
207 研究法、指導法、歴史教育
208 叢書、全集、選書
209 世界史・文化史

210 日本史

210.01 国史学.日本史観
210.02 歴史補助学
210.023 年代学.紀年法
210.025 考古学
210.027 古銭学
210.028 金石学:金石文,金石誌
210.029 古文書学.花押
210.03 参考図書(レファレンス ブック)
210.038 歴史地図
210.08 叢書.全集.選集
210.088 史料.日記.古文書
210.09 有職故実.儀式典例
210.1 通史
210.12 文化史
210.2 原始時代
210.23 旧石器時代(先土器時代)
210.25 縄文時代(新石器時代):BC.10000〜BC.200
210.27 弥生時代:BC.2c〜AD.3c
210.273 邪馬台国
210.3 古代:4c〜1192
210.32 大和時代:4c〜645
210.33 飛鳥時代:592〜645
210.34 大化改新時代:646〜710
210.35 奈良時代:710〜784
210.36 平安時代:784〜1192(平安初期:784〜876)
210.37 藤原時代(摂関時代)(平安中期:876〜1068)
210.38 院政時代(平安後期:1068〜1166)
210.39 六波羅時代:1166〜1192
210.4 中世:1192〜1600
210.42 鎌倉時代:1192〜1333
210.45 建武中興と南北朝時代:1334〜1392
210.46 室町時代:1392〜1573
210.47 戦国時代:1467-1568
210.48 安土桃山時代:1573〜1600
210.5 近世(江戸時代:1600〜1868)
210.6 近代(明治〜大正:1868〜1912)
210.69 大正時代:1912〜1926
210.7 近現代(昭和〜現在:1926〜現在)

211〜219 地方史

211 北海道地方
212 東北地方
212.1 青森県
212.2 岩手県
212.3 宮城県
212.4 秋田県
212.5 山形県
212.6 福島県
213 関東地方
213.1 茨城県
213.2 栃木県
213.3 群馬県
213.4 埼玉県
213.5 千葉県
213.6 東京都
213.7 神奈川県
214 北陸地方
214.1 新潟県
214.2 富山県
214.3 石川県
214.4 福井県
215 中部地方
215.1 山梨県
215.2 長野県
215.3 岐阜県
215.4 静岡県
215.5 愛知県
215.6 三重県
216 近畿地方
216.1 滋賀県
261.2 京都府
216.3 大阪府
216.4 兵庫県
216.5 奈良県
216.6 和歌山県
217 中国地方
217.1 山陰地方
217.2 鳥取県
217.3 島根県
217.4 山陽地方
217.5 岡山県
217.6 広島県
217.7 山口県
218 四国地方
218.1 徳島県
218.2 香川県
218.3 愛媛県
218.4 高知県
219 九州地方
219.1 福岡県
219.2 佐賀県
219.3 長崎県
219.4 熊本県
219.5 大分県
219.6 宮崎県
219.7 鹿児島県
219.8 沖縄県

220 アジア史、東洋史
230 ヨーロッパ史、西洋史
240 アフリカ史
250 北アメリカ史
260 南アメリカ史
270 オセアニア史、両極地方史
280 伝記
281 日本
288 系譜、家史、皇室
289 個人伝記
289.1 日本人
290 地理、地誌、紀行
290.1 日本
290.18 歴史地理学

300 社会科学…政治、法律、経済、統計、社会、教育、風俗習慣、国防

312 政治史
322 法制史
332 経済史
342 財政史
362 社会史
372 教育史
382 風俗史、民俗誌、民族誌
392 国防史、軍事史

400 自然科学…数学、理学、医学
402 科学史

500 技術…工学、工業、家政学
502 技術史、工学史

600 産業…農林水産業、商業、運輸、通信
602 産業史
612 農業史
622 園芸史
632 蚕糸業史
642 畜産史
652 森林史、林業史
662 水産業および漁業史
672 商業史
682 交通史
692 通信事業史

700 芸術…美術、音楽、演劇、スポーツ、諸芸、娯楽
702 芸術史、美術史
712 彫刻史
721.2 日本画
732 版画史
762 音楽史
772 演劇史

800 言語
802 言語史

900 文学
902 文学史、文学思想史
910 日本文学
910.2 日本文学史
911.2 詩歌史

―ってな感じになります。例題を挙げると、『大日本史料』を見たいなと思った際、これは史料だから「210.088 史料.日記.古文書」が該当するのでその書架に向かえば並んでいるはずです。

また、吉川弘文館刊行の人物叢書シリーズなども「289 個人伝記」の「289.1 日本人」の所で探せば、揃っているはずです。

― ◇ ◇ ◇ ―

いかがです!このような方法で探すってのも利便性があっていいかもしれませんよ!!

posted by 御堂 at 22:59 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

北海道は140年目に突入!

8月15日―

皆さんは「8月15日」というキーワードから何を連想しますか?

その多くが「終戦の日」と答えるかもしれませんね。

しかし、この「8月15日」は、北の大地に住まう皆さんにとっては記念すべき日でもあるんですよ。

すなわち、北海道が誕生した日なのです。

今から140年前の明治2年(1869)8月15日、従前呼称されていた蝦夷えぞ地」から「北海道」へと改称された訳です。

明治2年8月15日付太政官布告第734号
蝦夷地自今北海道ト被称十一箇国ニ分割国名郡名別紙之通被仰出候事
因みに、本土の人間たちは「蝦夷」「えぞ」とか「えみし」と呼称していました。

しかし実のところは、アイヌ語で「人間」という語意を持つ「enju」や「emchiu」がそれぞれ音読で「えぞ」「えみし」と呼称されたそうです。

また、「蝦夷」という漢字の当て字は、アイヌ民族の風貌がエビの様にひげが長かった事や、夷(=未開の異民族)だった事からきている様です

北海道といえば、日本列島に存在する地方公共団体、1都1道2府43県の中で唯一「道」の呼称をしている場所ですが、元々、本土に住んでいた和人たちは蝦夷地、或いは北州、十州島などと呼称していました。道庁所在地は札幌市ですね。

― ◇ ◇ ◇ ―

慶応4年(1868)4月、江戸城が開城した翌日の12日、新政府は蝦夷地箱館裁判所を設置して五稜郭を拠点とし、さらに翌閏4月24日には箱館府と改称されました。

9月に明治と改元された翌月である明治元年10月、榎本武揚の率いる旧徳川将軍家遺臣たちの軍勢が蝦夷地に到来し、箱館府の軍勢と戦端が開かれます(箱館戦争)が、撃退され、箱館府の官吏たちは、青森へ脱出します。

榎本旧徳川将軍家遺臣の軍勢は、五稜郭へ入城します。さらに、旧徳川将軍家遺臣の軍勢は、11月22日に松前藩の拠点・館城を攻略し、蝦夷地を平定。12月15日、榎本らは>「蝦夷徳川将軍家遺臣団」による箱館政権(※1)が成立します。


※1 「蝦夷徳川将軍家遺臣団」による箱館政権
「蝦夷共和国」とも呼称されているが、政権樹立と同時に行われた、日本で最初の「公選入札(選挙)」では、選挙権を有したのは旧徳川将軍家遺臣の軍勢の中の士官クラス以上であり、下士官や兵卒クラス、ましてや箱館に居住する住民たちには選挙権は行使されていないため、共和国扱いはできない。


そんな榎本「蝦夷徳川将軍家遺臣団」による箱館政権が翌明治2年(1869)5月18日に降伏した後の7月8日をもって箱館府は廃止され、開拓使が設置されます。(但し、行政手続き上の問題から、7月17日〜24日までの時期、箱館県と改称していたそうです)

― ◇ ◇ ◇ ―

新政府は開拓使の設置に伴って行政地域の名称変更を検討。幕末期蝦夷地を探検したり、アイヌ民族との交流を交わしていた開拓判官の松浦武四郎の建白を採用します。

武四郎は雅号を北海ほっかい道人どうじんと言いましたが、武四郎蝦夷地に代わる名称の案件として、
  • 加伊かい道」

  • 海北道

  • 海東道

  • 日高見ひたかみ

  • 東北道

  • 千島道
の6案を提示しました。武四郎が安政4年(1857)に道路調査のため天塩川を遡って探査していた際のお話です。

音威子府おといねっぷ村の川筋に在るアイヌ人集落(コタン)の家に宿泊した時にアエトモという古老(エカシ)と話をしたのですがその時、「カイナー」というアイヌ語の語意について次のように教えてもらいました―

「カイ」とは「この国に生まれたもの」、「ナ」は敬語を意味する、と知りました。(『天塩日誌』)

武四郎は土着であるアイヌ民族への敬意を表す意味で、「加伊カイ」、つまりアイヌ民族の人たちが自分たちの国を呼称する語意を含めた「北加伊道」を提示すると共に、他にもアイヌ語の地名を基に国名や郡名を選定します。

最終的には、「北加伊道」を基本ベースに「海北道」との折衷案として最終的に「加伊」を「海」にした「北海道」が決まったのです。

折しも、7月8日をもって全国に布告したのが新政府の中でも目的を持った「維新政権」の考え方が律令制に倣う事だったので、東海道東山道などに「北海道」が加わり、五畿八道が敷かれ、それに合わせた感じになったのです。

音威子府村には現在「北海道命名の地」の碑が立てられています。

posted by 御堂 at 04:24 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

金栗四三選手、54年8か月と6日5時間32分20秒3でゴール!―ストックホルム五輪

金栗四三というマラソンの選手がおられたのをご存知ですか?

日本における“マラソンの父”と称される金栗選手ですが、金栗選手の五輪初出場となったストックホルム五輪のオリンピック委員会との微笑ましいエピソードがります。

― ◇ ◇ ◇ ―

明治44年(1911)、翌45年(1912)に開催されるストックホルム五輪に向けたマラソンの予選会に出場した金栗選手は、当時の世界記録(但し、当時は40・225km)を27分も縮める大記録を出し、日本人初のオリンピック代表選手となります。

そうして迎えたストックホルム五輪でのマラソン競技当日。

普通なら、競技を棄権したということになるのでしょうが、これも手違いで棄権の意思が大会本部に伝わらず、金栗選手は「競技中に失踪し行方不明」とされてしまいました。

この日のストックホルムは、気温32℃を超す記録的な暑さの中で競技が始まりました。レースへの参加者68名中、およそ半数が途中棄権し、完走したのは34人。そのうち、レース中の29km地点で気を失って倒れたポルトガルの選手は脱水症状がもとで翌日に亡くなっています。

金栗選手は出場選手68人中、最後尾の集団で競技場を後にしたようです。(→映像が残っていたのだとか―)

また、当時の資料から15km地点で48位まで順位を上げた状況も確認できています。

しかし、他の選手と同様にレース途中に暑さからくる日射病で意識を失い、約26・7km付近で沿道の農家で介抱されたようです。

金栗選手が目を覚ましたのは、翌日の朝…既に競技は終わっています。

金栗選手はこの後、上着を借り、近くの駅から列車に乗って宿舎へ戻ったのだそうです。

金栗選手にとって、不運だったのは、当時、日本からスウェーデンへの移動は船や列車を乗り継いでの旅で、約18日間もかかったそうです。

ましてや、スウェーデンの夜は明るいため、十分な睡眠も取れない様態でもありました。

さらには、マラソン競技当日、金栗選手を迎えに来るはずの車が来ず、金栗選手は競技場まで走っていったのだとか―(オイオイ、アカンって!)

こうして、結果としては、途中棄権という形で金栗選手のマラソン競技は終わった事になります。

― ◇ ◇ ◇ ―

ところが、スウェーデンでは金栗選手が、マラソンコースの途中にある町・ソーレンツナ(Sollentuna)のある家庭で、お庭でのお茶とお菓子に誘われ、それをご馳走になって、そのままマラソンを中断したのだ、と理解されていたなど、金栗選手が競技場に戻って来ない状況は様々な憶測が臆測を呼び拡げる事となり、「森を彷徨(さまよ)い続けいるのではないか」という噂が立って、有名なスポーツ記者が「森で彷徨(さまよ)っている日本人がいたら、レースは終わったと伝えてください」と呼び掛けたりしたのだとか―

すなわち、競技委員会の方々は「金栗選手が行方不明になった」として騒然となり、“消えた日本人”として金栗四三の名が刻まれたのです。

その後、金栗選手にとっては不遇な時期が続きます。ベルリン五輪(大正5年=1916)は、第一次世界大戦のため出場する事叶わず、アントワープ五輪(大正9年=1920)、パリ五輪(大正13年=1924)の両大会にはマラソン代表として出場しますが、アントワープは16位、パリは途中棄権に終わっています。

― ◇ ◇ ◇ ―

さて、昭和42年(1967)3月、金栗選手はスウェーデンのオリンピック委員会から、ストックホルム五輪開催55周年を記念する式典に招待されます。

ストックホルム五輪の際、金栗選手自身の口から棄権の意志がオリンピック委員会に伝わっておらず、「競技中に失踪し行方不明」として扱われていました。

記念式典の開催に当たって当時の記録を調べていたオリンピック委員会がこれに気付き、「是非とも金栗選手にゴールしてもらおう」と記念式典で“消えた日本人”をゴールさせようという機運が盛り上がります。

招待を受けた75歳の金栗選手は55年振りにストックホルムを訪れ、コート姿のままで直線距離100m程を駆け抜けて、競技場内に用意されたゴールテープを切ります。

昭和42年3月21日、54年8か月と6日5時間32分20秒3でゴールした瞬間の金栗四三選手。実に75歳の姿


ゴールを果たした瞬間、「日本の金栗が只今ゴール。タイムは54年8か月6日5時間32分20秒3…。これで第5回ストックホルム大会の全日程は終わりました」とアナウンスされ、金栗選手の姿はスウェーデンの公共テレビで放送されたのです。

インタビューに対し、金栗選手は「子供がたくさんおりまして、暇がなかったんです。子供が大きくなりましたからやってきました」と質朴な言葉で返したそうです。

― ◇ ◇ ◇ ―

100年前、日本から初めて五輪に参加した金栗選手は、今現在も“消えた日本人”としてストックホルムの人々の間に息づいているようです。

ストックホルム五輪を記念して建てられた記念館に見学に来るスウェーデンの子供たちは、館内に展示されている金栗選手の写真を観て、親しみを込めて「あ、牛乳パックの人だ」って言うのだとか―

今年の春、ヨーロッパ最大規模の乳製品メーカー「Arla Foods(アーラ フーズ)が、販売している牛乳パックに小話的なあるある話を挿絵と共に紹介しているのですが、そこに「消えた後、約55年かけゴールした“伝説”」として金栗選手の事が掲載されたそうです―

彼は沿道の家で、お茶に招待されていて、それを恥ずかしいと思ったので何も言わずに日本に帰ってしまった
って感じにね!

いかがです!いきな計らいをしたスウェーデンのオリンピック委員会もそうですが、語り継いでくれているスウェーデンの人々もすごいよね!

posted by 御堂 at 22:48 | Comment(4) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

「崔杼弑其君光」という文字に込められた意味―歴史への取り組み方を教わったエピソード!

次の一文は、中国・春秋時代の魯国出身の孔子(こうきゅうによって編まれた、春秋時代編年体で記録した歴史書春秋しゅんじゅうの注釈書として丘明きゅうめいという同じく魯国の太史が撰した『春秋左氏伝』に書かれたエピソードの1つです―

大史書曰、斉崔杼弑其君光


大史、書して曰く、「斉さいちょ其の君(=荘公(光))をしいす」と。

崔子殺

崔子(=崔杼)之(=太史)を殺す。

其弟嗣書、而死者二人

其の弟嗣ぎて書して死する者二人。

其弟又書、乃舍

其の弟又書す。乃ち之をゆるす。

南史氏聞大史盡死、執簡以往

南史氏、大史ことごとく死するを聞き、簡(=竹簡)を執りて以て往く。

既書矣、乃還

既に書せりと聞いて及ち還る。

― ◇ ◇ ◇ ―

中国・春秋時代の魯襄公25年(BC.548)の夏(=5月)の事、隣国であるに仕えた宰相崔杼恵公(元)・頃公(無野)・霊公(環)・荘公(光)・景公(杵臼)の時代にわたって専横を奮った人物です。なかでも荘公(光)を私的な恨みから弑する(→弑す、とは身分が上位の者を殺す事)という事件が起こりました。

太史(歴史などの記録を掌る官=史官の長官)はその史実を「崔杼弑其君光」(崔杼、其の君を弑す)と記録します。因みに、史官という官職は、その豊富な経験や知識を駆使して王や諸侯をサポートする立場にあります。

それを聞いた崔杼は怒って太史を殺しましたが、その職を嗣いだ弟も同じ様に「崔杼弑其君光」と記録したために殺したところ、更に職を嗣いだ弟も同様に頑として「崔杼弑其君光」と記録したので、崔杼は諦めてそのまま記録を是認します。

一方、南史氏という地方の史官は、太史の者が皆死んだと聞きつけ、「崔杼弑其君光」と記録した竹簡を持っての国に出かけて往きました。しかし、その途次、もう太史の者が記録に書きつけたと聞いたので、任地に引き返しました

―という感じです。

このエピソードは中国の歴史に対する姿勢を端的に表したものとして有名な故事です。太史の一族たちは「崔杼弑其君光」という真実を包み隠そうとせず、記録に残そうとしていますよね。

そこには権力におもねるる姿勢もなく、事実を事実として発表しようという信念を見る事ができます。

― ◇ ◇ ◇ ―

私がこのエピソードを初めて知ったのは、高校での古文・漢文での授業の時でした。

この時に教わった国語科の先生が結構面白い授業をなさる方だったんですよね。

選択科目だった古文・漢文を履修した生徒は3クラス(1クラス45人)在った中で、僕が所属したクラスは半分の22人で構成されたクラスでした。

少人数だった事から、例えば古文で『源氏物語』の授業では、男子が光源氏のセリフを朗読し、女子が対手の姫君たちのセリフを朗読するといったような朗読劇風な授業とか、漢文の試験で『史記』淮陰侯列伝から、韓信率いる漢軍と趙軍との戦いで布いた「背水の陣」の様子を文章のみからイラストに描いて書くテストなどユニークなものばかりでした。

そんな漢文での授業で上記のエピソードが教科書に掲載されていた訳です。授業で教わり、意味を初めて知った時、すごく感動してしまいました。

それから、日本史や世界史を習い、史学科に入っては、東洋史、西洋史など歴史の学問に触れるたび、ましてやそれらの史料群を目の当たりにする度に事実を事実として受け止め、「崔杼弑其君光」と記録した太史の一族の思いを忘れずに!と感じつつ、現在に至っています。

そんな意味深いエピソードなんですよね!

posted by 御堂 at 02:13 | Comment(2) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

武則天と武周革命―その1

中国大陸における歴代王朝の中で唯一、女帝として名を残しているのが、武周王朝の皇帝であった武則天という女性です。

武則天は、姓は、名をと言います。

日本では武則天という呼称よりは、則天武后そくてんぶこうと呼ばれるケースが多いですね。これは、武則天が皇帝として即位した事実より、遺詔により皇后の礼で埋葬された事実を優先したからだと思われます。

しかし、最近になって中国では皇帝に即位した事実を優先し、武則天と呼称するようになってきたようです。

前漢王朝呂后清王朝西太后と共に「中国三大悪女」と称されている武則天ですが、ただ単純に悪女と片付けて良いのでしょうか?武則天の経歴を見ながら、検証したいと思います。

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武則天、すなわち武照

利州(現在の中華人民共和国四川省広元市周辺)都督及び荊州(現在の中華人民共和国湖北省南部)都督を任されていた武士かく(尋+獲)と楊夫人(栄国夫人)という隋王朝の一族・楊氏の女性との間に次女として生まれました。

その美貌により14歳の時に太宗たいそう世民せいみんの後宮に入り才人(妃の地位で正五品相当)と呼ばれる女官となります。

初めは唐太宗の寵愛を受けていたのですが、その激情性のある気性に嫌気がさしたのか、次第に唐太宗武照を遠ざけるようになりました。

そんな時、太子であった(のちの高宗こうそう)が武照を気に入り、武照を寵愛するようになります。

しかし、唐太宗が崩御するに伴い、子どもの居なかった武照は出家させられ、尼となります。

やがて、太子・李治唐高宗として即位。太子妃であった王氏が皇后となるのですが、唐高宗しゅく淑妃しゅくひを寵愛するばかりだったので、王皇后蕭淑妃は対立する事甚だしい状況でした。

王皇后唐高宗蕭淑妃に対する寵愛を何とか醒ませるために、嘗て唐高宗武照を気にかけていたのを思い出し、唐高宗武照を逢わせました。

そうすると、唐高宗武照は懐かしさの余り、逢瀬を再燃させたのです。

王皇后武照を還俗させて後宮入りさせたので、武照昭儀しょうぎ(後宮における上から5番目の地位で正二品相当)となり、唐高宗の寵愛は元より、王皇后のご機嫌もとり結びつつ、宮中での地位を固めて行くのです。


※注1
唐代の後宮は、内官・宮官・内侍省の3つの部署で構成されていました。内侍省は宦官たちの職掌先なので、残り2つについて見てみると、

内官とは妃や妾らの事を指し、四夫人(貴妃、淑妃、徳妃、賢妃。正一品相当)、九嬪(昭儀、昭容、昭媛、修儀、修容、修媛、充儀、充容、充媛。正二品相当)、二十七世婦(婕、、美人、才人。正三品〜正五品相当)、八十一御妻(宝林、御女、采女。正六品〜正八品相当)と身分が分けられています。

宮官は、正六品以下の者で宮中内の職務に携わる女官たちを指します。尚宮(総務的な仕事)・尚儀(礼楽に携わる)・尚服(衣服に携わる)・尚食(食事に携わる)・尚寝(居住空間に携わる)・尚功(工芸に携わる)の六尚に分けられて職務に従事し、また宮正が置かれて、後宮内の不正の取り締まりに従事しました。

※注2
中国の儒教的な風習では、父の後宮に居た者を子の後宮に入れるといった事は考えられない常識なのですが、李氏たち北方の遊牧民族の間にあっては、至極普通にある事な現象な訳です。。



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武照は間もなく唐高宗の子どもを産みます。

最初の狙い通り蕭淑妃から唐高宗の寵愛を除いた王皇后でしたが、子どものできない身の上は必然的に唐高宗の寵愛を武照に奪われてしまいました。

そんな折、王皇后は祈祷師に武照を呪い殺すように命じましたが、この企みを武照は未然に防ぎます。

或る日の事、王皇后武照の産んだ子に会いにきました。子どものできない王皇后としては自分の子どものように可愛がっていたのです。

王皇后が部屋から出たのを見計らった武照は、自分が産んだその子を殺し、その場に放置します。

やがて、唐高宗武照の許を訪ねるや、武照は子どもの死体を見せ、王皇后の仕業だと思わせます。

案の定、唐高宗は激怒し、王皇后の廃后させ、武照を冊立させようと決意します。

ところが、唐王朝建国以来の功臣である長孫ちょうそん無忌むきちょ(ネ+者)遂良すいりょう関隴かんろう支配集団に連なる者たちが、「嘗て父である唐太宗の後宮だった女性」という観念論的理由から異を唱えました。

しかし、同じく功臣である山東官僚系のせき唐高宗が下問したところ、立后は陛下の家庭(=宮中)における私事であり、部外者(=朝廷)が口を挟む理由はないと返答したので立后の方針が決定され、武照は皇后の地位に昇りました。

異を唱えていた長孫無忌●(ネ+者)遂良たちは地方に左遷され、王皇后蕭淑妃武照によって殺されます。

この長孫無忌褚遂良らの失脚により、関隴支配集団は没落してゆきます。すなわち、唐王朝建国の創業者たちは北朝の流れを組む鮮卑せんぴの胡族で武川鎮軍閥だった者たちがその大半を占めていますが、この胡族と漢民族系の貴族系官僚が手を結んだ、いわば胡漢連合政権こそ、関隴支配集団だったのです。


※注3
唐王朝建国時の支配層は、関(関中=陝西省)及び隴(隴西=甘粛省南東部)に基盤を置いていた北周(東魏)の流れを組む胡族の武川鎮軍閥、すなわち関隴貴族集団と、漢族と北斉(西魏)の流れを組む山東系貴族、そして南朝系の流れを組む南朝貴族らで構成されていました。


― ◇ ◇ ◇ ―

皇后となった武照は、生来病気がちなため気が弱く、決断力の乏しい唐高宗から政治向きの相談を幾度となく受けます。

機知に富んだ武照は、的確な意見を述べるので、唐高宗武照抜きでは政務が行き通らなくなる程でした。

やがて、武照唐高宗の意思を越えて、独自に政務を見ようとする振る舞いが目立つようになり、唐高宗を疎んじるようになります。

唐高宗の憤懣は限界に達し、武照を廃后させようと画策しましたが、情報が漏れてしまい、唐高宗武照に口出しできない状況下に追い込まれました。

その結果、武照による垂簾すいれん朝政が執り行われるようになるのです―

posted by 御堂 at 01:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

日本で最初の銃撃戦と戦死者の初見について

時は天文19年(1550)、戦国時代の真っ只中―

京都は上京川端の辺りで幕府方細川晴元軍三好長慶ながよしとによる小競り合いがありました。

その模様については、以下のリポートからどうぞ!


三好人数にんじゅ東へ打出見物、禁裏築地之上、九過ここのつすぎ時分迄各見物、筑前守は山崎に残、云々、同名日向守きう介十河民部大夫以下都合一万八千、云々、従一條至五條取出、細川右京兆けいちょう人数足軽百人ばかり出合、野伏のぶし有之、きう介与力一人鉄ーに当死、云々…

リポートしたのは、公家の山科言継ときつぐはん!物見見物とばかりの戦闘の様子を見聞してはったんですわ。(『言継卿記』天文19年7月14日条)

そのリポ−トによれば、

三好方「日向守」三好長逸ながやす)と「きう介」三好弓介・弓助)、「十河民部大夫」十河そごう一存)ら1万8000の軍勢と幕府方「細川右京兆」細川晴元)の軍勢が衝突している最中、「細川右京兆」の足軽100人のうちの誰かが放った鉄砲の弾が三好方である「きう介」被官(家臣)に当たって死んじゃった

との事。

つまり、 日本国内において鉄砲が実戦使用された最初の記念すべき記録であり、最初の戦死者も伝えている訳なんですよね。

15世紀にヨーロッパから東アジアへ鉄砲が伝わってくる中、日本の種子島に伝来したのが天文12年(1543)8月25日の事。

以降、鉄砲は和泉堺や紀伊根来、近江国友など各地で生産され、足利将軍家を含め多くの戦国大名が鉄砲装備の充実に力を注いでいきます。

殊に、足利将軍家へは、種子島に伝来した翌年の天文13年(1544)、種子島時堯によって足利義藤(のちの義輝)に献上されており、いち早く鉄砲装備がなされていたのかもしれません。

しかし、後々の鉄砲の実戦戦術みたく、命中率や狙撃率は確実性があったとは考えられません。

言ってみれば、流れ弾に当たってしまって戦死したというのが本当の事なのでしょうね。

― ◇ ◇ ◇ ―

さて、三好方「きう介」は、「日向守」、すなわち三好長逸ながやすの子息で三好弓助(弓介、長虎)と言うようです(※1)。

※1 「日向息久介」(『多聞院日記』永禄10年(1567)10月23日条

因みに、三好長逸ながやす三好三人衆長逸・三好政康・岩成友通の3人をさす)の1人で、その筆頭格として、「筑前守」三好長慶ながよし)から一番信頼されていた人物だそうです。


→※(参考)天野忠幸「三好長逸と息子『弓介』について」(『戦国史研究』66)

 

posted by 御堂 at 01:07 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

敵兵を救助せよ―戦時下にあったジェントルマン精神―

今上天皇及び皇后の両陛下が今から8年前の平成10年(1998)5月にイギリスを訪問されたときの事。当時、イギリス国内では天皇の訪英に対する反対運動が生じていました。

その中心となっていたのが、戦時中に日本軍の捕虜となった退役軍人たちで、捕虜として受けた非人道的な処遇(捕虜への食事に木片の腐ったの=実は牛蒡ごぼうの事=があるとか―)への恨みに対する抗議や謝罪を要求しようというものでした。

そうした世情の最中、ある投稿が『タイムズ』紙に掲載されたのです。それは、元海軍中尉サムエル・フォール卿が寄稿したもので、「元日本軍の捕虜(の1人)として、私は旧敵と何故和解する事に関心を抱いているのか、説明申し上げたい」と前置きして、自身の体験を語ったのです―

太平洋戦争勃発に伴い、日本は英領マレー連邦に侵攻を開始し、昭和17年(1942)2月15日、日本軍はシンガポールを陥落させます。

イギリスの重巡洋艦「エクゼター」と駆逐艦「エンカウンター」は、インド洋のコロンボへと脱出を図るために途中、ジャワ島スラバヤ港に逃れ、ここで米・英・蘭・豪の連合国艦隊(ABDA艦隊)に再編成されます。

昭和17年(1942)2月27日から3月1日にかけて、ジャワ島北方のスラバヤ沖でジャワ攻略の日本軍艦隊とABDA艦隊との間に海戦=スラバヤ沖海戦(ジャワ海海戦)があり、ABDA艦隊艦船は15隻中11隻が撃沈してしまいます。

そうした最中の3月1日、先ず「エクゼター」が撃沈されます。「エンカウンター」も単独航行し続けますが、ついに撃沈されてしまいます。

その「エンカウンター」にフォール卿は砲術士官として乗船していました。

フォール卿たちは、「エンカウンター」の艦長と共にボートに乗って脱出しますが、そのボートも小さな砲弾が着弾して破壊され、フォール卿は艦長共々ジャワ海に飛び込みます。

首から上を出した状態で、浮遊木材に5〜6人で掴まり、近海の沿岸部に在るオランダ軍基地からの救助を待っていたそうです。(すでに連合国側の制海権ではなくなっていますね)

周辺海域には同じ様にジャワ海に飛び込み漂流中の「エグゼター」の乗組員や「エンカウンター」の乗組員たちが約21時間もの時間を漂っています。

そんな情況下の翌2日、そこに偶然通りかかったのが、日本海軍の駆逐艦「いかづちでした。

「雷」は漂流者たちに砲を向けつつ接近してきます。フォール卿は「日本人は非情」という先入観があったため、固唾を呑んで見つめつつも、機銃掃射を受けて死ぬんだな、と死を覚悟していたそうです。

実のところ、前日にスラバヤ沖の周辺海域で日本軍の輸送船がアメリカ軍の潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没するといった被害に遭っていたのです。

何時艦船の魚雷攻撃を受けるか分からない状況では、国際法上、海上遭難者を放置しても違法ではありません。

自分たちは見捨てられるのだろうとフォール卿をはじめ漂流者たちは考えた事でしょう。

しかし、その一方で、助かるかもしれないという一抹の希望もありました。それは―

昭和16年(1941)12月10日、マレー沖で日本海軍航空部隊によるイギリス東洋艦隊への攻撃でイギリスの最新鋭戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」が撃沈された(マレー沖海戦)際、駆逐艦「エクスプレス」が海上に脱出した数百人の乗組員たちの救助を始めるのですが、日本の航空部隊は一切妨害する事なく、それどころか手を振ったり、親指を立てて、頼むぞ、頑張れ、といった仕草を送り、その救助活動を見守りました。

更には、救助活動後にこの「エクスプレス」がシンガポールに帰投する際も、日本機は上空から視認しただけで、攻撃を差し控えましたのです。

そして前日の3月1日には、撃沈されたイギリス海軍重巡洋艦「エクゼター」の乗組員376名を「雷」の僚艦「いなづま」が救助していたのです。

この折も「エクゼター」の士官たちが兵員に対し、「万一の時は日本艦の近くに泳いで行け、必ず救助してくれる」と話していたのだそうです。士官には「プリンス・オブ・ウェールズ」沈没の際の日本海軍の行動が頭を過ぎったのでしょう。

そんな思いが頭を過ぎっていた漂流者たちに「雷」は近付いてきたわけです。

― ◇ ◇ ◇ ―

海軍中佐工藤俊作艦長率いる駆逐艦「雷」は、見張りによって「浮遊物は漂流中の敵将兵らしき」「漂流者400以上」と報告を受けていました。

しかし、危険海域なので、「(敵の)潜望鏡は見えないか」と敵潜水艦が近くにいない事を確認した後、「救助!」と命じます。

状況から見て、国際法上、海上遭難者を放置しても違法ではないわけですが、工藤艦長は敢えて救出の命令を下したのです。

「雷」は直ちに、「救難活動中」の国際信号旗をマストに掲げ、傍受されかねない状況を度外視して「我、タダ今ヨリ、敵漂流将兵多数ヲ救助スル」と無電で発しました。

「雷」の乗組員がロープや縄梯子、竹竿を差し出して漂流者たちを救助しようとしますが、彼らは誰一人として誰も上がって来ようとしません。

彼らは、重傷者からの救助を最優先しろ、と合図を送ってきました。後年、「雷」の乗組員の方はそうした彼らの行動に「ジョンブル精神」を見たと誇らしげに仰っていたそうです。

この「ジョンブル精神」、簡単に言えば、不屈の精神を持つ本当の意味でのイギリス人という意味で使われます。似たような響きに「ゲルマン魂」とか「大和魂」、「ヤンキー魂」なんかがありますよね。

余談ですが、1912年(明治45)4月14日深夜から翌15日未明にかけて起こった豪華客船タイタニック号沈没事故の悲劇の際、一番多く死亡したのがイギリス人紳士たちだったそうです。

イギリス人紳士たちは沈み行く船の上でも、「レディーファースト」を重視し救助用ボートで順番待ちをしていたのです。死に瀕した場面においても彼らはジョンブル精神が発揮したわけです。(逆に、アメリカ人は我先にと人を押しのけてボートに乗り込んだそうですよ)

― ◇ ◇ ◇ ―

さて、浮遊木材にしがみついていた漂流者たちは最後の力を振り絞って、「雷」の舷側に泳ぎ着きますが、中には「雷」の乗組員が支える竹竿に触れるや安堵感から力尽きて水面下に沈んでいく者もいます。甲板上の乗組員たちも、涙声を嗄らしながら「頑張れ!」と叫び勇気付けます。

こうした光景を見兼ねて何人かの乗組員は自ら海に飛び込み、力尽きてしまった者あるいは重傷者らの体にロープを巻き付けて抱え上げたりしたのです。

こうなると、敵も味方もありませんよね。同じ海軍軍人同士の友情が芽生えるのも不思議ではありません。

乗組員たちは、甲板上で無事に救出できた兵員たちの身体に付いた重油の汚れなど布とアルコールで拭き取って清めてあげました。

また、新しいシャツや半ズボン、靴なども支給し、貴重な飲料水の他に温かいミルクやビール、ビスケットなどの食糧も配られました。飲料水の消費量は実に3トンにも上ったとか―

その後、救出された兵員のうち、士官たち21名が前甲板に集合を命じられました。何事か不安がっていると…

艦橋から工藤艦長が降りて来て士官たちに端正な挙手の敬礼をし、続いて流暢な英語で次のように語り掛けました―

“You had fought bravely.
 Now you are the guests of the Imperial Japanese Navy.”

(諸官は勇敢に戦われた。今や諸官は、日本海軍の名誉あるゲストである。)

「雷」はその後も終日、海上に浮遊する生存者を捜し続け、例え遙か遠方に1人の生存者が居ても、必ず艦を近付けて停止し、乗組員総出で救助したと云います。

結果、422人もの人命を救助した事になります。「雷」の乗組員約150名の3倍近い人数です。

翌日、救助された兵員たちは、パンジェルマシンに停泊中のオランダ病院船「オプテンノート」に引き渡された。移乗する際、士官たちは「雷」のマストに掲揚されている旭日の軍艦旗に挙手の敬礼をし、また艦橋ウィングに立つ工藤艦長に敬礼します。

工藤艦長は、兵員たち1人1人に丁寧に答礼をしていたそうです。

― ◇ ◇ ◇ ―

さて、一体この駆逐艦「雷」の艦長・工藤俊作海軍中佐とは、一体どのような人物だったのでしょう?

工藤俊作海軍中佐は山形県東置賜郡屋代村(現高畠町)出身で、大正9年(1920)、海軍兵学校に第51期生として入学します。

その時期の海軍兵学校の校長が鈴木貫太郎だった事もあり。工藤艦長鈴木貫太郎の影響を強く受け継ぎました。

鈴木貫太郎が校長の時期は徹底したジェントルマン教育が実践されたようで、厳しい規律の中にも明朗さを失わせず、幅広い教養を持たせようとしたカリキュラムでした。

そもそも、日本海軍創設以来、イギリスがそのモデルにあったわけで、創成期の頃イギリスに留学していた服部潜蔵海軍大佐などはジェントルマン精神を実践していた人物として知られています。

また、工藤館長の性格の一端を窺わせるエピソードとして、上述の敵兵救助の際、蘭印攻略部隊指揮官高橋伊望中将率いる重巡「足柄」に「エクゼター」と「エンカウンター」の艦長を移乗するよう命令がありました。

その際、高橋中将は双眼鏡で、「足柄」の艦橋ウイングから接近中の「雷」を見て、甲板上にひしめき合う兵員の余りの多さに驚愕します。

この時、第三艦隊参謀で工藤艦長と同期の山内栄一中佐高橋中将に「工藤は兵学校時代からのニックネームが“大仏”であります。非常に情の深い男であります」と言わせているんですよね。

― ◇ ◇ ◇ ―

以上のエピソードをフォール卿はが『タイムズ』紙に寄稿。多くの賛同があって、反日感情は薄れていきました。

そのフォール卿が平成15年(2003)10月19日、来日しました。フォール卿来日の目的は、叶う事なら工藤艦長の墓参をし、遺族に感謝の意を表明したいという積年の思いを遂げる事でした。ところが、その願いは叶わず、帰国されます。

フォール卿から依頼を受けていた惠隆之介さんは翌16年(2004)12月に工藤艦長の墓所の所在と遺族を見つけ出します。

遺族の話によると、工藤艦長は昭和54年(1979)1月12日、享年78歳の生涯を閉じていました。

戦後、工藤艦長は暫くは故郷の山形県で過ごしていましたが、奥様の姪御さんが開業した医院で事務の仕事に就くため埼玉県川口市に移り住んだそうです。生前には軍人時代の話は何一つ家族に話さなかったようです。まさに工藤艦長は“黙して語らず”の余生を生きたんですね。

フォール卿は、改めて平成20年(2008)12月7日に再来日され、工藤艦長の墓前に念願の墓参りを遂げ、感謝の思いを伝えられたそうです。

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最後に、こういう話は戦争のない時代では美談になるのでしょうが、いざ戦時中ともなると、ただの命取りになりかねない行為にしか見えませんね。日露戦争時の海軍軍人である秋山真之は近代戦争では人道行為こそ滅亡の遠因、命とりな行為となる―と言い切っています。

秋山真之は米国留学時にヒントを得て海軍戦術の研究に取り組み、中国の『孫子』『呉子』、その他世界各国の戦史を紐解いたそうです。

その中で秋山は「戦術とは戦いと同様のものであり、戦いには戦術が要る。戦術は道徳から開放されたものであり、卑怯も何もない」、すなわち、戦場という複雑かつ過酷な状況下で目的を遂行するためには、その時々の道徳や情とは切り離すべきもの、と捉えていたようです。

それ故に、日本海海戦時にウラジオストック艦隊の追跡を断念し、撃沈したロシア船「リューリック」の乗員救助にあたった司令長官・上村彦之丞を次の様な言葉で批判しています―

「戦略目的を犠牲にしてまで敵の漂流兵をすくうのは、宋襄の仁である」

「宋襄の仁」とは、中国春秋時代の紀元前638年に宋の襄公と楚の成王が戦った泓水(おうすい)の戦いでの際、宋軍の側近が楚軍の布陣がまだ整っていないうちに先制攻撃しようと進言するが、襄公は「君子は人の困っている時に苦しめてはいけない」と言って進言を退け好機を逸したため、遂には楚軍に敗れ、宋は楚の影響下に置かれる事になってしまった故事を云い、この事から、敵に対する不必要な情けや哀れみをかけたために、かえって酷い目に遭う事を「宋襄の仁」と呼ぶようになった、と伝えています。

まともに戦って勝てる相手ではないのに、正々堂々と勝負しようとする考え方など、言語道断です。こうした考え方は、全く戦争という緊張から遠ざかってしまった❝平和ボケ❞してしまった姿が言わしめた出来事なのかもしれませんね。


 

posted by 御堂 at 00:45 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

十三まいり―大人への始まり

「何があっても、絶対、振り返ったらあかんよ」

京都・西山せいざんの名勝嵐山の中腹にあり、京都市内から渡月橋で桂川を渡った場所に“嵯峨の虚空蔵こくうぞうさん”と親しまれ称される法輪寺において、こんな言葉が行き交う日があります。

京都では陰暦3月13日、現在の4月13日を中心として前後1か月の期間中に、数え年13歳になった子どもたちがこの法輪寺に安置されている虚空蔵菩薩に参詣する風習があります。

それが「十三まいり」というものです。

虚空蔵菩薩にお参りして福徳、智慧、美声を授かり、健康を祈願して厄払いをする行事です。

古くは虚空蔵菩薩の命日にあたる陰暦の3月13日に参詣するのが一般的でしたが、現在では4月13日を中心に、年間1万人以上の13歳の子供とご家族が訪れます。

こうしたお祝い行事としては、「七五三」が関東圏、特に江戸を中心とした武家社会で多く催される風習なのに対し、この「十三まいり」は公家の習慣が庶民に広まったもので、京都のみならず畿内を中心に催されています。

― ◇ ◇ ◇ ―

さて、「十三まいり」は、何故数え年13歳なのでしょうか?

数え年の13歳といえば、ちょうど小学校の最上級生にあたる6年生の時。女子は初潮を迎え、男子は声変わりが始まり、時には夢精にびっくりするなど、大人への始まりを意識する年頃。

また、生まれた年の干支えとが、初めて一巡する年齢であり、“子どもの還暦”と呼ばれる人生の節目の年齢でもあります。

女子にとっては、人生で最初の厄年になる歳であり、男子にとっては、大人の仲間入り、すなわち元服のお祝いをする歳なのです。

それらの理由から、虚空蔵菩薩にお参りをして災厄を祓い、福徳・智慧を授けてもらうんですね。

― ◇ ◇ ◇ ―

では、どうして虚空蔵菩薩への参詣すると授かるのでしょうか?

その昔、弘法大師空海が修行の際、それによって飛躍的に記憶力を増大させたと云われる「虚空蔵求聞持法ぐもんじほうに由来すると云います。

多くの経典を覚えねばならない僧侶たちは「虚空蔵求聞持法」の習得に励んだそうです。寺に100日間籠もって、虚空蔵菩薩陀羅尼だらにを日に1万回唱える修行を行うのに、「虚空蔵求聞持法」によって集中力が高まり、一度聞いた事を決して忘れないという能力が身についたのだそうです。

虚空蔵とは無尽の宝庫で、智恵や財宝を入れる事のできる蔵を指し、虚空蔵菩薩は計り知れない智慧や福徳を備えており、常に人にそれらを与えて願いを満たす菩薩なのです。

そして、同じ様に智慧に関わる菩薩でも、文殊の智慧が知識の量や経験の深さを言うのに対して、虚空蔵菩薩の智慧は集中力やひらめきを言っていたのだとか―。

寺に伝わる『法輪寺縁起』(応永21年=1414)に拠れば、空海の弟子にあたる道昌がこの地で「虚空蔵求聞持法」を行った処、満願の日、衣の袖に虚空蔵菩薩が現れたという法話が残っています。

『今昔物語集』にはこんなエピソードが語られています―、

学問におろそかにし、遊興にうつつを抜かしていた僧侶が法輪寺に参詣しました。本尊の虚空蔵菩薩は美しい後家に化身して、好意を寄せる僧侶に対し「お経が暗唱できたら…」とか「比叡山で学僧になったら…」など巧みに導きます。僧侶は後家との逢瀬を期待して学業に励み、見事大成する―(『今昔物語集』巻17-33「比叡山僧、依虚空蔵助得智語」〔比叡の山の僧、虚空蔵の助けによりさとりを得たる語〕より)
というものです。また、『枕草子』においても「寺は…壺坂。笠置。法輪。」(『枕草子』194段「寺は…」)と並び称される程で、院政期には多くの人々の信仰を集めて隆盛を誇りました。

平安後期の公卿・藤原宗忠も、少年期に度々この寺に参り、学識向上を祈ったと、その日記『中右記』に書き残しています。

その後、「難波より/十三まゐり/十三里/もらひにのほる/智恵もさまざま」という歌や、「十三歳になる都の男女参詣する事おびただし」(『京城勝覧』、天明4年=1784)のように広く知られるようになり、京都のみならず畿内一円からのお参りが一般庶民に広がっていきます。

― ◇ ◇ ◇ ―

法輪寺に参詣し、先ずは半紙にそれぞれが思い思いの漢字1字を筆写して虚空蔵菩薩に奉納し、加持祈祷を受けます。

帰りにはお守りやお供物を頂いて帰ります。お箸はこの日最初に頂く食事の時から使いはじめ、お守りは勉強机に1つと毎日の通学用の鞄に1つを家族でお供物を頂き子の成長をお祝いします。

― ◇ ◇ ◇ ―

さて、冒頭にも紹介した「何があっても、絶対、振り返ったらあかんよ」ですが―

よく云われているのが、法輪寺からの参詣の帰路、本殿を出てから渡月橋を渡り終えるまでに後ろを振り向くと折角授かった智慧を返さなければならない」という言い伝えです。

そのためにも「何があっても、絶対、振り返ったらあかん」訳です。

法輪寺からの参詣の帰路、或いは母と手を繋ぎ、或いは1人で悠々と渡月橋を渡る子どもたち、その顔は立派に大人の仲間入りです。


 

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アイドルの元祖?―笠森お仙

鈴木春信画「お仙茶屋」

江戸時代の明和年間(1764〜72)に「明和の三美人」と持てはやされた、江戸っ子たちのアイドルが居ました。

浅草・二十軒茶屋「蔦屋」で働く「蔦屋およし」
浅草・奥山の楊枝ようじ屋「柳屋」で働く「柳屋お藤」
谷中やなか・笠森稲荷門前の茶屋「鍵屋」で働く「笠森お仙」

の3人がそうです。これら3件の店は、彼女たちの姿をひと目見ようとする男たちであふれ返り、ひきもきらない賑わいを見せていたのです。

― ◇ ◇ ◇ ―

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その中でも「笠森お仙」の人気は抜きん出ていて、江戸中期の文人・大田南畝なんぽ(蜀山人)売飴土平伝あめうりどへいでんによれば、

社前には参詣の人もなく、賽銭箱に投げ入れられる銭の音も無い。俄かにして一の紫雲下り、美人の天上より落ちて、茶店の中に。座するを見る年は十六七ばかり、髪は紵糸しゅすの如く、顔は瓜犀うりざねの如し。みどりまゆずみ、朱き唇、長きくし、低きげた、雅素の色、脂粉に汚さるゝを嫌ひ、美目めもとしな、往来を流眄ながしめにす。将に去らんとして去り難し。閑に托子ちゃだいの茶をはこび、解けんと欲して解けず、寛く博多の帯を結ぶ。腰の細きや楚王の宮様ごてんふうを圧し、衣の着こなしや小町が立姿かと疑う。…(中略)…一たび顧みれば、人の足をめ、再び顧みれば、人の腰を抜かす
と、その美貌を大絶賛しています。

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お茶屋とは、『守貞謾稿』(嘉永6年=1853)よると、

京坂の茶見世には粗末な服装の老婦か中年婦がいて、朝に1度茶を煮出して終日これを用いる。客1人に1椀だけ出し、茶代は5文から10文くらいである。江戸には茶見世が多く、天保の改革以前には16、7から20歳ばかりの美女が化粧をして美服で給仕をした。茶は毎客新しく茶を煮ることもあるが、多くは小ざるの中に茶を入れて熱湯をかける漉茶こしちゃである。客1人に2、3椀は出し、茶代は30文から50文くらいで、100文出す人もいる
とあります。お仙と同じひと時を過ごしたいがために粘ったであろう客も居た事でしょうね(笑)。

― ◇ ◇ ◇ ―

さて、お仙谷中やなか鍵屋五兵衛の娘で、宝暦元年(1751)に生まれました。

宝暦13年(1763)頃から家業の茶屋で茶汲み女として働き出し、細面の瓜実うりざね顔は幼さを感じさせず、客あしらい(接客)も上手かったために評判となります。

明和5年(1768)頃、その噂を聞きつけた人気絵師の鈴木春信も鍵屋を訪れ、お仙の美貌に惚れ込み、彼女をモデルにした錦絵を描いたのです。

これがお仙の人気をさらに拍車をかけるきっかけとなり、ポスター(錦絵)、写真集(絵草紙)、関連グッズ(双六や手拭い、人形)など今でいうところのキャラクターグッズが次々と発売されました。

その様子を、

谷中笠森稲荷地内水茶屋女お仙(十八歳)美なりとて、皆人見にいく。家名鎰屋五兵衛という。錦絵の一枚絵、あるいは絵草子、双六、よみ売りなどに出る。手拭に染める。飯田町中坂世継稲荷開帳七日の時、人形にも作りて奉納す。明和五年(1768)五月堺町にて中島三甫蔵が台詞に言う、采女が原に若紫、笠森稲荷に水茶屋お仙と云々。これよりしてますます評判あり。その秋七月森田座にて中村松江おせんの狂言ありて大当たり。
南畝(蜀山人)自身もしたためています。(『半日閑話』巻12)

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ところが、明和7年(1770)2月頃、お仙が20歳の時に、突然鍵屋から姿を消してしまいました。そのため、お仙が消えた理由について様々な憶測が流布したと云います。

例えば、大田南畝(蜀山人)は、

明和七年庚寅二月、この頃≪とんだ茶釜が薬缶に化けた≫という詞はやる。あんずるに、笠森稲荷水茶屋のお仙他に走りて、跡に老父居るゆえの戯れこととかや(『半日閑話』)
と書き残しています

史実は、お仙幕府旗本御庭番を勤める政之助満済まずみの許に嫁いだのです。明和7年(1771)の事でした―

この倉地家というのは、享保元年(1716)に紀州藩主・徳川吉宗徳川宗家を相続した際、紀州藩で隠密御用を勤めていた薬込役を幕臣として「御庭番家筋」に編入し、代々隠密御用を従事させた家柄でした。

また、笠森稲荷の門前にあった茶屋周辺の地主がこの倉地家でもあったですよね。

その「倉地家」の8代目である政之助お仙は嫁いだのです。

元は百姓の娘だったお仙なので、形式的に倉地家と同じ「御庭番家筋」である馬場家の2代目・善五兵衛信富の養女として結婚。

倉地家の墓地である正見寺(東京都中野区上高田)の「倉地家墓誌」には紀州から江戸に移り住んだ6代目・文左衛門満房以降の当主の名が墓誌に刻まれているのですが、お仙の夫である政之助満済の隣には「深教院妙心大姉 文政十年正月二十九日歿 お仙の文字が刻まれています。

お仙政之助満済との間に久太郎、新平ほか9人の子宝に恵まれ、文政10年(1827)に長寿を全うしたと云います。享年77歳の生涯でした。


posted by 御堂 at 01:32 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

お千代と半兵衛―「心中宵庚申」のモデルとして

京都府相楽郡精華町植田の来迎寺らいこうじには、ある夫婦とその子の墓が建っています。

その夫婦とは近松門左衛門の人形浄瑠璃心中宵庚申しんじゅうよいこうしんの主人公、お千代半兵衛のモデルになった男女です。

作品は義理と愛情の板挟みになった半兵衛・千代夫婦が心中へと向かう姿を描いています。

近松門左衛門最晩年である70歳の作品で、享保6年(1721)4月に実際に起きた心中事件を題材にしたものです。大まかな内容・あらすじは、

大坂新うつぼ油掛町の八百屋半兵衛。元は武士の出だが、八百屋の養子になった。半兵衛の嫁が山城国相楽郡植田村(京都府相楽郡精華町植田)の大庄屋・島田平左衛門の二女・千代。二人は仲睦まじく暮らし、千代は妊娠4か月でした。

しかし、幸せな生活は続きませんでした。姑は千代と折り合いが悪く、半兵衛の留守中、勝手に千代を実家に帰してしまったのです。平右衛門は「半兵衛が自分の留守中に親に追い出させた。親に自分の罪を塗りつける不孝者」と責めます。半兵衛は腹を切って侘びようとしますが、それでは恩義ある義母の非を世間に曝すことになってしまい、半兵衛は弁解せず、ただ千代を連れ帰るのです。

半兵衛千代を匿います。しかし、それを知った姑は怒り狂い、「世話してやった親が嫌う女房に孝行を尽くし、親に不孝を尽くす恩知らず」と罵ります。

嫁を憎んで追い出したとあっては義母の悪名は甚だしい―

半兵衛は「千代を呼び戻して下さい。自分が離縁しますから」と頼みます。

「その約束破ったら死ぬからね。母を殺すか、女房を離縁するか、あんたの勝手次第」と迫る姑。

義母への恩と平右衛門への義理、そして千代への愛情。どちらも捨て切れない―

半兵衛千代と死ぬ決心をします―「あなたの孝行の道が立てば心残りはない」と従う千代

庚申の夜、生国魂いくたま神社(大阪市天王寺区)の境内で半兵衛は来世での再会を誓い、身重の千代を刺し、切腹する。

平右衛門は娘夫婦の非業の死を悼み、島田家の菩提寺である来迎寺に墓石を建て、永代供養を行った。墓石には半兵衛千代、そして千代の腹にいた子の戒名が刻まれている―
といったもの―

ところが、この心中事件

実情はこうである―

『精華町の郷土誌』に記載された内容よると、

山城国相楽郡植田村の豪農・島田平右衛門の娘千代は10歳の時、行儀見習いのため大坂難波の蔵屋敷に出仕、安芸広島藩士の川崎家の小間使いとなります。

当主に気に入られた千代は養女となり、行儀作法や読み書きの手習いなどを受けさせます。

千代が18歳の時、川崎家の養子で元は遠江浜松藩士だった半兵衛の嫁となります。

しかし、この頃の川崎家は、何とも災禍続きでかつての栄華を誇れずに零落の様態でした。

ある時、千代の郷里より父が病気になったとの便りがあったために、その看病のため暇を得て実家に戻って来てみると、父は病気でなく、植田村の富豪である金蔵の息子に千代を嫁がさんと仕組んだ方策だったのです。

金蔵は千代の器量の良さを聞きつけ、わが息子の嫁に!と平右衛門に執拗に懇望していました。

この頃には千代の実家も零落の様態になっていたために、父は千代を手許に置こうと考え、千代に対し、半兵衛との縁を切って金蔵の息子の嫁となるように勧めます。

金蔵からの懇請もますます執拗となり、その脅迫に平右衛門は屈服し、婚礼の日取りが定まってしまいます。

思い余った千代半兵衛に手紙を送ります。それには、

近頃他家へ嫁すこと勧めるに遭う、悲嘆に絶えず、道義をもって懇説するも聴き入れられず、父の身にかゝる禍難如何ともし難い、父に従い良人君を棄てることはならず、進退窮まる、故に一死をもって君に報いんと思う
のように現在の経緯と共に千代の心情が、したためられてあったのです。

驚いた半兵衛は、すぐ様植田村に駆けつけ、平右衛門に「三行半」の書状を手渡しますが、まさにその時、別室から悲鳴が聞こえ、その場に駆けつけて見ると千代は小刀を喉元に突き刺し自害を遂げていたのです。

千代の傍らには遺書らしき、

一筆申残し候、近年家運零落し、この時に乗じ、心を変えて他家に赴く、独人富貴を請けるは、何の面白あって世人は見る、父に孝ならんとすれば良人に貞ならず、進退ここに谷まる唯死あるのみ、享保七年四月六日 ちよ、半兵衛殿
と書かれた書状がありました。

半兵衛千代の喉元に刺さったままの小刀を抜き取り、我が喉元を引き裂いて自害して果てます。

平右衛門は2人を遺体を来迎寺に葬り、碑を建てて弔います―
と云う伝承が伝わっているのです。お千代半兵衛が不憫でなりませんね。

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※(参考)(史料紹介)日本最古の「三行り半」→

posted by 御堂 at 03:55 | Comment(2) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

(トピックス)やはり光緒帝は毒殺だったのか?!

清朝第11代皇帝である光緒帝はやはり毒殺だった―

光緒帝の死因を2003年から調べてきた「国家清朝史編纂修工程重大学術問題研究専門プロジェクト」チームの「清朝光緒帝死因研究報告会」(以下、報告会)による報告では光緒帝は病死ではなく、急性胃腸性砒素中毒により崩御した」という発表がなされました。

光緒帝の死因に関しては、まず1980年に行われた同帝の墓陵「崇陵」発掘の際の遺体調査で発見された遺骨(頸椎)と遺髪には中毒の痕跡が見い出せず、外傷も存在しなかった事や、同帝に関するカルテ及び処方箋などが故宮に遺されていた事などから、病死の可能性が疑われなかった。

しかし、2007年に報告会によって、改めて遺髪や遺骨、衣服などを最新の科学技術を駆使して検査・分析した結果、遺髪の一部に人間の致死量をはるかに上回る、1000倍から2000倍の猛毒である大量の三酸化砒素が確認されました。

また、遺骨や衣服も砒素が残留している状況から、体内に吸収された砒素を急激に摂取した原因による中毒死の疑いが濃厚となりました。

― ◇ ◇ ◇ ―

さて、この光緒帝という人物、ほんの幼少期に即位し、初期は叔母である西太后による垂廉朝政が為されていました。

この時期の清王朝は、度重なる外圧(日本による琉球侵攻=1876、ロシアによるイリ侵攻=1871、清仏戦争=1884〜85=によるベトナム喪失、日清戦争=1894〜95=による台湾喪失)によって、危機に瀕していました。

光緒帝は、日清戦争の敗北を契機に、自国の国力回復を強く望み、康有為変法派と接近して、変法運動への興味を強く持つようになります。

1898年(光緒24)6月、光緒帝変法の詔勅を宣言するのですが、同年9月、既得権益を侵害される事を嫌った西太后と保守派らが、袁世凱ら軍閥の武力を行使して光緒帝を軟禁し、変法派の人間を処刑したのです。(戊戌政変

そうして、10年間も軟禁され続けた光緒帝は1908年(光緒34)11月に38歳の若さで崩御。その翌日、西太后も74歳で病死します。

光緒帝西太后の死亡時期が近いため、自分の最期を悟った西太后が自分の死後に光緒帝が権力を握らせないために人を使って光緒帝を毒薬したとの噂が当初から流布していました。

実際、『後功口述歴史』という書物には、光緒帝は死の直前に西太后から賜ったヨーグルトを食べたという礼部尚書の証言を載せています。

この点については、報告会は何ら追及していないようですが、この研究成果に関しては、国家清史プロジェクト編纂委員会による『清史』(2013年完成予定)に記載されるという事です。


  

posted by 御堂 at 00:13 | Comment(0) | TrackBack(1) | 歴史:コラム

(トピックス)ワシントン会議で首席全権、加藤友三郎首相の銅像

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安芸広島藩の下級藩士(家禄13石)の三男として生まれ、藩校「修道館」で学び育った第21代内閣総理大臣加藤友三郎銅像が広島市中区基町の中央公園自由広場(広島城の西南側)に完成いたしました。

本体の高さは2・45mで、台座を含めると4・5m。大正10年(1921)のワシントン海軍軍縮会議の際のシルクハットにフロックコート姿が再現されています。

元々、加藤友三郎銅像は昭和10年(1935)に比治山公園(広島市南区)に建立されたのですが、その後戦時中の金属供出で台座を残すだけの様態だったのです。

今年が没後85周年にあたり、加藤友三郎の国際協調による世界平和の具現を称えた姿を再び銅像という形で顕彰しようと多くの市民や企業の募金活動及び寄付金によって復元されました。

台座には「内閣総理大臣正二位大勲位 ワシントン軍縮会議首席全権 加藤友三郎像」の銘板がはめ込まれており、銅像の横には、軍縮への功績などを日本語と英語で説明した石碑が建てられています。

― ◇ ◇ ◇ ―

加藤友三郎といえば内閣組閣時にシベリア撤兵ワシントン海軍軍縮条約を履行した人物として評価されていますね。

また、ワシントン海軍軍縮条約のアメリカ案の受諾を決意した直後に海軍省宛の伝言を随行員だった堀悌吉中佐に口述筆記させた次の一節が印象にあります―

国防は軍人の専有物にあらず。戦争もまた軍人にてなし得べきものにあらず。国家総動員してこれにあたらざれば目的を達しがたし。…(中略)…平たくいえば、金がなければ戦争ができぬということなり。…(中略)…日本と戦争の起こるprobability(可能性)のあるのは米国のみなり。仮に軍備は米国に拮抗するの力ありと仮定するも、日露戦争のときのごとき少額の金では戦争はできず。しからばその金はどこよりこれを得べしやというに、米国以外に日本の外債に応じ得る国は見当たらず。しかしてその米国が敵であるとすれば、この途は塞がるるが故に…(中略)…結論として日米戦争は不可能ということになる。国防は国力に相応ずる武力を備うると同時に、国力を涵養し、一方外交手段により戦争を避くることが、目下の時勢において国防の本義なりと信ず。すなわち国防は軍人の専有物にあらずとの結論に達す
―なかなか的を得た言葉ですね。加藤友三郎がもう10年遅く生まれていたとしたら…(歴史好きな人間として“たら…れば”は禁句ですが)どんな未来が待ち受けていた事でしょう。

しかも、上記の口述伝書は敗戦の日まで海軍省の金庫の中で機密文書として封印されたまま、日の目を見なかったというんですから…何とも憐れな話です。


posted by 御堂 at 01:51 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

(トピックス)小松帯刀とお近―日本最初の新婚旅行!

小松帯刀像

こんなニュースを発見!―

日本初の新婚旅行は坂本龍馬ではなく薩摩藩家老の小松帯刀!」―

わが国最初の新婚旅行は一応、坂本龍馬と妻のお龍と云われています。慶応2年(1866)、薩長同盟が締結された後、寺田屋における捕縛騒動で被った怪我の湯治を兼ねて塩浸しおひたし温泉=霧島市=などに滞在したというのが定説になっています。

ところが―

それよりも10年も前に小松帯刀と妻お近が同じ霧島の栄之尾えのお温泉に湯治旅行に来ている史実があり、これこそが「日本初の新婚旅行ではないか?」というんですね。

小松帯刀お近が結婚したのは安政3年(1856)正月頃なのですが、この霧島への旅行はそれから3か月後の出来事です。

『小松帯刀日記』安政3年4月19日条(『鹿児島県史料集』)によると―

御トヽ様(清穆)ニハ今日ヨリ踊之内栄之尾温泉エ御湯治トシテ六ツ過御船ヨリ御出ナリ、尤チカ(お近)ニモ御同道申上、差越候事、拙者(帯刀)ニハ来ル廿二日方ヨリ差越つもりナリ

との記載が見られます。帯刀の義父にあたるあつの湯治を兼ねた栄之尾(えのお温泉、霧島市の霧島いわさきホテル周辺)への旅行に、お近も同道し、帯刀も後から追いかけた事がわかります。

先ず、お近清穆が4月19日に栄之尾に出発。仕事を片付けた帯刀が同22日に後を追います。23日の日記には、

栄之尾占大鐘時分着直ニ入湯ナリ(=栄之尾に午後6時頃着き、直ぐに温泉に入った)

とあり、以降12日間「入湯無事」などの記述が続きます。

まとめると―

帯刀お近は安政3年(1856)4月23日から5月6日までの間、霧島の栄之尾温泉に湯治旅行に来ている。その後、2人とは別行動をとり、清穆お近は5月10日まで栄之尾温泉に湯治してから帰郷したようです。

この一連の霧島旅行は、養父である清穆の病気療養のために同道という点もあり、夫婦水入らずというわけではありませんが、親への孝養と新婚旅行を兼ねたものと解釈できますね。(現代風に当事者のみで旅行するから新婚旅行という考え方では理屈に合わないかもしれません。やはり、この当時に生きていた人の目線で考えなきゃ!)

現に、帯刀お近も霧島滞在を楽しんでいる様子が見受けられます。

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帯刀龍馬お龍の新婚旅行の際には大坂から薩摩までの船に同乗、彼ら夫婦を鹿児島市原良の別邸に宿泊させるなど親密な交流関係だったといいます。それ故に。帯刀はこうした、楽しかった経験を龍馬に「ここは良い場所やで!」って勧めたのではないでしょうか?

それで、龍馬お龍は慶応2年(1866)に塩浸温泉=霧島市=に湯治に来たのかもしれませんね。

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※(参考)「新婚旅行、日本初は小松帯刀?/かごしま探検の会 龍馬の10年前、霧島へ」(南日本新聞2008-01-27)→
※(参考)小松帯刀夫妻のわが国初の新婚旅行?(桐野作人・公式ブログ「膏肓記」より)→


   

posted by 御堂 at 23:44 | Comment(4) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

(トピックス)勝海舟のブロンズ像完成、江戸無血城談判での苦悩する姿に注目!

完成した勝海舟のブロンズ像

江戸幕末期から明治期にかけて活躍した旧幕臣、勝海舟ブロンズ座像がこの程完成。霊山歴史館(京都市東山区)で報道向けに公開されました。

― ◇ ◇ ◇ ―

このブロンズ座像は、彫刻家の江里敏明さんが同館の依頼を受けて、約10か月かけて制作されました。

高さ44cm、重さ約50kg、羽織袴で右手に扇子を持ち、左手を袴に隠した姿は、明治元年(1868)3月、江戸高輪の薩摩藩邸で西郷隆盛と江戸城無血開城に向けて直談判する45歳の姿を表現し、口を真一文字に結んだ緊迫感溢れる表情に仕上げられています。

完成した勝海舟のブロンズ像

江里さんは「剣客としての身のこなしや風格、表情に苦労した」とふり返られ、同館の木村幸比古学芸課長は「江戸城開城はにとっても苦渋の選択だったのが表情から伝わってくるようだ」と話されています。

23日から同館で開かれる特別展「龍馬と大政奉還」(〜11月24日)で一般公開されます。

同館には他にも江里さん作の坂本龍馬像やや土方歳三像も展示されていますよ。


posted by 御堂 at 23:36 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

(史料紹介)篤姫の実像に迫る日記を発見!

発見された薩摩藩士・仙波市左衛門の日記と書類

今年のNHK大河ドラマ「篤姫」によって話題を集めている天璋院篤姫が13代将軍・徳川家定の正室となるために薩摩から江戸に向かった道中や、薩摩藩の姫君らの動静を詳細に記述した藩士の日記などが見つかりました。

江戸の薩摩藩邸にあった日記類は、幕末の焼き打ち事件で殆んどが焼失していて、保存記録としては極めて貴重。また当時、女性についての記録は少なく、幕末史と女性史の空白を埋める重要な史料となりそう。

現物は、群馬県高崎市の古書店「名雲書店」の名雲純一さんが今年、東京都内で入手。山本博文東京大学史料編纂所教授が鑑定されました。

日記を残していたのは、薩摩藩主島津斉彬側役として、篤姫らの護衛や世話などをしていたとみられる仙波市左衛門。妹・さかは斉彬の指示で篤姫に従い、安政3年(1856)に御中臈として大奥に入っている。江戸城開城以降も天璋院に従い、女中頭を勤め、娘も女中となっている。

発見されたのは、嘉永3年(1850)と同6年(1853)、篤姫家定と結婚した安政3年(1856)から翌4年(1857)、薩摩藩士が英国人3人を殺傷した生麦事件を起こす文久2年(1862)の断続的な時期に書かれた日記6冊のほか、仙波家の由緒、市左衛門の業績書類の計8冊。それぞれ縦約15cm、横約20cmの和紙に毛筆で書かれ、計約2000ページもありました。

『浦の藻屑』と題された日記や薩摩と江戸との間の道中記には、篤姫が、生家の今和泉家から薩摩の鶴丸城に入り、江戸に出立した時期や様子、神社など立ち寄り先、藩主の行列のうち、数十名とみられる市左衛門の一団の行列順や、薩摩から江戸までの一団の旅費が166両だった事なども分かります。

また、日々の天気も詳細に記されており、幕末の気象研究にも大いに貢献しそうな感じ。

さらに供物とみられる「鮮鯛」といった文言や、贈答品らしい「西洋肌着」などの記載も見られます。

「篤姫」の文字(右上)が書かれた薩摩藩士・仙波市左衛門の日記の一部

興味深いところでは、篤姫の日記での呼び名が近衛家の養女となった後に「篤姫」から「篤君」へ、家定との婚儀が行われた後は「御台様」へと変わっていく様子も見られます。

他に、文久2年(1862)の日記には、参勤交代が廃止されたため、島津斉彬の実の娘・寧姫らが江戸から薩摩に戻る様子や、薩摩で受け取った祝儀や祝いの様子なども記述されていた。

山本教授は「藩政よりも、篤姫ら女性について書かれているのは幕末の文書としては珍しい。従来の史料と対照する事で、様々な事が分かると思う。幕末の薩摩藩士から見た藩主の家族の歴史が新たに浮かび上がるだろう」と評価されています。

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余談ですが、日記の主である薩摩藩士「仙波市左衛門」と聞いて、直木三十五氏の小説『南国太平記』とそれを原作に書かれたドラマ「風の隼人」を思い出しちゃいました(笑)

確か、主人公が仙波小太郎(勝野洋さん)だったはず…思わず、元ネタってこの人?と考えちゃったりします(笑)


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※(関連)「大河ドラマ『篤姫』」→
※(関連)「NHK大河ドラマ特別展『天璋院篤姫展』」→

   

posted by 御堂 at 00:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

槇島(眞木嶋)氏ノート(その2)―昭光以前の眞木嶋氏―(修訂中!)

わが街・宇治(この場合、広義的に宇治郡宇治郷と久世郡宇治郷と考えて…)に中世から近世への移行期に存在したであろう城館、それが槇島城であり、眞木嶋(槇島)氏が城主として居住していました。

眞木嶋氏は朝鮮の高句麗滅亡後に亡命し、帰化したこま(高麗)氏の氏族で、長保3年(1001)に一族の狛光高が南都楽所がくそ(興福寺などの法会に参勤した奈良の舞楽集団)の奉行に任ぜられて以降、代々雅楽に従事し、楽人として世襲してきました。

さらに、この光高から何代目かの子孫である光助の時分、すなわち久寿元年(1154)に大内楽所(内裏で催される舞楽などに参勤した舞楽集団)に転じ、狛姓から酒波さかなみ姓に改まります。(『狛氏系図』)

その傍ら、山城国宇治郡の宇治離宮八幡宮(現在の宇治神社と宇治上神社)、とくに宇治上神社の脇神主を務める一方で、「宇治まきの長者…(中略)…まきの長者わくの神主<…(下略)…」(『雑秘別録』嘉禄3年=1227=6月)=「槇長者」として氏子地域である五ヶ庄真木島みょう、すなわち槇島の地を治めていたようです。

→(参考)「次槇長者 社官槇嶋事也」(『後法興院記』応仁2年=1468=4月8日条)

この槇島の地は淀川、巨椋おぐら池、宇治川を遡る、いわばその中洲ともいうべき要衝であり、極めて古い時代から、網代あじろによって漁労に携わるにえ人たち(「真木島・桂贄人等」(『執政所抄』保安3年=1122=4月8日条)が根拠を置くなど、中世を通じて河川交通の要地でもありました。

その中心として「宇治網代目代」(『狛氏系図』狛光貞の項)を担ったり、摂関家と結び付いて、摂関家より槇嶋郷神主(長者)職補任をされるなどをしてこの地(五ヶ庄真木島名は冨家ふけ殿が変化したものと考えられている)に定着してゆきます。

→(参考)「冨家殿 号五ヶ庄」(『雑事要録』長享元年=1487=・2年=1488=)
→(注)五ヶ庄とは、真木島名・岡屋名・岡本名・福田名・小厩名・庵主名を指す(『雑々記』大永4年=1524=)

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その後の眞木嶋氏はというと、室町幕府期には山城国守護、あるいは幕府管領の被官としてその名が見えます。

 ○「真木島新右衛門尉光経」(『紀氏系図紙背文書』文和2年=1353=10月)
 ○山城守護畠山基国の被官として「真木島光基・光貞」(『相国寺塔供養記』明徳3年=1392=8月28日)
 ○「真木島光忠」(『大徳寺文書』応永3年=1396=11月)
 ○畠山氏の被官「真木島氏」(『東寺百合文書』嘉吉元年=1441=12月9日)
 ○管領畠山持国の被官「真木島氏」(『東寺百合文書』嘉吉3年=1443=7月5日)

さらに、将軍家直臣団として名を連ね、奉公衆の地位にあったようで、奉公衆たちの交名(=名簿)にも名を連ねています。

 ○「四番衆 雍州眞木嶋六郎藤原光通」(『長享元年九月十二日常徳院御動座當時在陣衆着到』長享元年=1487)
 ○「宇治牧嶋も四番衆ナリ」(『蓮成院記録』延徳3年=1491=8月27日条)
 ○「四番(衆)真木嶋山城守」(『東山殿時代大名外様附』大名外様奉公方之着到)
 ○「五番衆 眞木嶋」(『永禄六年諸役人附』永禄6年=1563=)

また、奉公衆として、少なくとも長禄2年(1458)〜延徳2年(1490)の間、毎年正月11日に将軍に拝謁して年頭の賀を述べています。

→(参考)「眞木嶋次郎」(『殿中申次記』正月11日条)

彼らが拠点としていた槇島まきのしまは、山城国の上山城地域(宇治・久世・綴喜・相楽郡)の要衝でもあります。

室町幕府期山城守護となった畠山満家は入部にあたって山城国を宇治川の線で二分し、北五郡の守護代に神保久吉を任じ、上山城地域(宇治・久世・綴喜・相楽郡)の守護代に遊佐豊後入道をあてたのですが、以降この体制が定着し、槇島まきのしまが上山城地域(宇治・久世・綴喜・相楽郡)の守護代の本拠地となるのです。

→(参考)「管領(畠山)山城を給はり入部す。宇治より南は遊佐豊後代官、北は神保次郎左衛門尉と云々」(『東院光暁日記抜書』正長元年=1428=8月27日条)

従って、以降戦国期の畿内における合戦の拠点として槇島まきのしまが地政学上立地し、さらにはその領主である眞木嶋氏の存在が浮上するわけです。

しかし、不幸な事に「槙島次郎光基事、不慮退彼島云々」(『守光公記』永正17年=1520=3月13日条)や「槇島打死大曲事在之」(天文18年=1549=7月9日条)など相次いで戦死者が出てしまう事態が襲います。

そうして、槇島昭光が登場するんですね。

― ◇ ◇ ◇ ―

※(関連)山城国宇治郡と久世郡の境界線―中世期の平等院は宇治郡だった!―→

※(参考)槇島(眞木嶋)氏ノート(その1)―槇島(眞木嶋)昭光(2)―→

※(参照)「槇島(眞木嶋)氏ノート(その1)―槇島(眞木嶋)昭光」

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西野山古墓は坂上田村麻呂の墓なのか?―文献史学の成果として

西野山古墓の推定位置

先日、京都市山科区西野山岩ヶ谷町の「西野山古墓」が、坂上田村麻呂の墓である可能性がある―との研究成果が京都大学文学研究科の吉川真司准教授の文献調査によってなされました。

その文献調査によって、ある文献から田村麻呂の墓の位置や範囲を示す記述が見つかり、さらに平安時代の山科周辺の条里図で調べたところ、それは「西野山古墓」の可能性がある―というのです。

田村麻呂の墓の場所が記されていたのは、清水寺の由来や公文書を収めた『清水寺縁起』平安後期の作)で、所収の弘仁2年(811)10月17日付の朝廷の命令書『太政官符』の表題に記されていたのです。

太政官符
  賜本願将軍墓地官府(在山城国宇治郡七条昨田里西栗栖村
太政官符 民部省
 四至(東限六七条間畔并公田、西・南限大路、北限自馬背坂上橋之峰)
 …(中略)…
「奉 勅、件地宜永為故大納言贈従二位坂上大宿祢田村麻呂墓地…(下略)…
   弘仁ニ年十月十七日
(『清水寺縁起』より)
『太政官符』とは、行政の最高機関・太政官が土地を管理する民部省に送った文書ですが、そこには田村麻呂の墓地として、「山城国宇治郡七条咋田くいた西里栗栖村の水田、陸田(畑)、山(山林)を与える」との文言が記されていたのです。

山城国宇治郡は現在の京都市の南東部である京都市山科区全域(旧山科村)・同伏見区醍醐地区(旧醍醐村)と宇治市東部で山科川から宇治川の右岸一帯(旧宇治村=東宇治村、笠取村)をさし、同区の平安時代条里図条里制の地図)を基にした『山城国宇治郡山科地方図』(東京大学史料編纂所所蔵)には、田村麻呂の墓地として与えられた場所も記されてあります。

また、鎌倉初期勧修寺かじゅうじ(なお、家名や寺名では「かじゅうじ」、地名・住所表記は「かんしゅうじ」と呼称されています…)が寺辺所領の領有を主張するために作成された『山城国山科郷古図』(原図は旧水戸彰考舘が所蔵していたが、戦争により被災、現在、東京大学史料編纂所が複製図を所蔵)の三条十二里に描かれている醍醐寺や三条十三里に描かれている延喜御陵(醍醐天皇陵)、四条九里に描かれている法界寺(日野薬師)などはかなりの確率で現在の立地場所と照応できるので、これらを現在の地図と比定した結果、田村麻呂の墓地は現在の山科区西野山岩ヶ谷町周辺に該当し、その付近には西野山古墓があったのです。

「本願将軍」とは田村麻呂の事を指します。墓地領域の説明で東限が「六七条間畔」(=六条と七条の間の畔)と記載されていますが、これは表題にある「宇治郡七条昨田里西栗栖村」である事は明確です。

但し、「昨田里」自体は六条十六里に該当するので、実際には「七条昨田西里、栗栖村」が正しいのだと思われます。

また、西・南限は「大路」と記載していますが、平安京(城)から東山(西野山)を越えて山科に入る峠道としては、東海道東山道北陸道を兼ねた大路に繋がる日ノ岡越・渋谷越・滑石すべりいし越の3ルートがあり、なかでも平安京(城)への入り口である羅城門に最もスムースに接続するルートは滑石越の道が当てはまるようです。

田村麻呂に関する説話的伝承として「王城鎮護のための東面埋葬」が知られていますが、『清水寺縁起』や『田邑麻呂伝記』には、田村麻呂を埋葬するにあたり、嵯峨天皇の勅により、「甲冑・兵仗・剣鉾・弓箭」を調えて副葬し、「城東に向かひて立ちてほうむったと云われていて、東海道東山道北陸道を経て平安京(城)へ入るにあたって東の玄関口となる場所に田村麻呂の墓が葬られたとしても真実味がある感じです。

さらに、北限として「馬背坂」が記載されてますが、これは『山城国山科郷古図』に記載がみられる交坂路まぜさかみちのようですが、特定できる峠道が断定できない感じです。

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さて、「西野山古墓」は、大正8年(1919)に地元住民によって偶然発見され、京都帝国大學(現、京都大学)による発掘調査で金銀平脱双鳳文鏡、金装大刀、鉄鏃などの副葬品が発見された(現在、山科西野山古墓出土品として国宝に指定されている)事で、被葬者を平安初期の貴族、またはそれらの一族の墓と考えられていました。

現在では竹薮に覆われてしまい、位置の特定ができていないのが現状ですが、今から35年前の昭和48年(1973)10月に先達による研究成果によって議論が投げ掛けられていました。

民間の研究会などで考古学や文献の研究されている歴史考古学研究家・鳥居治夫さんという方が近江考古学研究会が刊行した学術雑誌『近江』に発表した「山城国宇治郡条里に関する考察」の中で、西野山古墓田村麻呂の墓と推定されていたのです。

フィールドワークなどで各地を歩いたり、地上で確認できる遺跡を探し求めた鳥居さんは、古代に耕作地を方形の桝目で区画した「条里」を現在の地図に当てはめ、文献から遺跡の位置を割り出す歴史地理学の方法(条理制研究で、伏見区醍醐の醍醐天皇陵を起点に一帯の条里を復元し、田村麻呂の墓の位置を推定されました。

  • ポイント・その1 古代の住所表記―「条里」

  • 研究の根幹となるのが古代の土地区画「条里」。7世紀に成立した律令制度に伴い、全国的に田畑を1辺約650mの碁盤の目状に区切りました。各条里はさらに36坪に分かれ、「条、里、坪」で現在と同様の住所表記が可能になったのです。

    条里は、現在の地割りや地名にも残っているため、現在の地図に復元する―という研究が可能なのです。

  • ポイント その2 太政官符に着目

  • 『山城国山科郷古図』によって、京都市山科区一帯の条里や道路や地形、社寺などが復元できます。

    特に、醍醐天皇陵は最も現在位置と照応できるため、これを基準目標にしたり、明治以後の地籍図や航空写真を参照する事で、条里の復元はほぼ完了している訳です。
吉川さん、鳥居さん共に『清水寺縁起』田村麻呂の死後、その墓地と定めた『太政官符』に着目した結果、西野山古墓田村麻呂の墓に相応しいのでは?とされたのです。

ただし、吉川さんと鳥居さんの説には若干の違いが見られます。

吉川さんは『続群書類従』所収の『清水寺縁起』「咋田里西(咋田西里)栗栖村の土地を墓地として与える」という『太政官符』の表題に着目されましたが、鳥居さんは同じ『清水寺縁起』でも表題が欠落している『平安遺文』を典拠として、田村麻呂の墓の位置は当時の『京都市遺跡地図』(現在は修正されている)に求めたため、ずれが生じています。

しかし、こうした吉川さんと鳥居さんの研究成果や方法論は歴史文書を読み解く「文献史学」の面目躍如といえるでしょうね。

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※(参考文献)鳥居治夫「山城国宇治郡条里に関する考察」『近江』第4号、近江考古学研究会
※(参考文献)上原真人編『皇太后の山寺―山科安祥寺の創建と古代山林寺院―』(柳原出版)
       第1部「安祥寺成立の歴史的背景」
       第1項「近江京・平安京と山科」
       (三)坂上田村麻呂の墓(吉川真司執筆)
※(参考文献)鳥居治夫「坂上田村麻呂墓の再発見と墓の位置」『日本歴史』第767号、日本歴史学会

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※(関連)田村麻呂の墓か 山科・西野山古墓 文献で一致(京都新聞2007-06-04)→


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(史料紹介)日本最古の「三行り半」

越前町の民家に残されていた国内最古の離縁状で、「去状之事」と題して三行半で内容が綴られ、6行目の「貞享三年」以降は日付や名前などが記してある

江戸時代、庶民が離婚する際に夫から妻(または妻の父兄)に宛てて交付された、離婚を確認する文書を離縁状(離別状)、あるいは去状さりじょう暇状いとまじょうと言いました。

また、文書の内容を3行半で書く習慣があったため、俗に三行り半みくだりはん(三下り半)」という俗称があります。その3行半の構成は、前段で離婚文言を述べ、後段で再婚許可文言を述べる、といったものでした。

福井県越前町の民家に代々保存されていた江戸時代の書状が、これまで国内で確認された中では最も古い離縁状である事が福井県文書館の調査で分かりました。

この書状は同館が所蔵している玉村九兵衛家の古文書類から発見されたもので、去状之事さりじょうのことという表題がある江戸時代前期の貞享3年(1686)に書かれた離縁状、すなわち「三行半」の書状でした。

これまで最古とされてきた離縁状は、山梨県南アルプス市で発見されていた元禄9年(1696)のもので、それよりも10年早く、確認された離縁状の中では最古との事です。(ただし、この離縁状は3行半ではなく5行で書かれていました)

発見された離縁状は、現在の福井県越前市に当たる国兼村の次兵衛が中津原村に住む妻のお滝と同村の村役人を務める、義父の三郎兵衛に宛てたもので、原本を示す判がない事から、控えとして書き写されたもののようですが、縦29・1cm、横36・5cmの和紙に「今後、誰と縁組しても、全く構わない」との内容が認(したた)められ、「貞享三年(=1686)十一月廿一日」の日付があります。

江戸時代離縁状を研究されておられる専修大学の高木侃教授が調査・確認されたのですが、「京都を中心に3行半で書く形式が整い、全国に広まったとされている。今回、福井で見つかったものが山梨のものより10年古いにも拘らず
3行半だった事は、書式が関西から関東に広まった事を裏付けるもので貴重」と話されています。

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貞享3年(1686)11月21日「去状之事」(『玉村九兵衛家文書』)

    去状之事
 一我等女自今以後何方江ゑん
  へんニ付候共、又ハ何様之義
  有之候共毛頭かまい無之候、
  仍而去状如件
   貞享三年    国兼村
     寅ノ     次兵衛 判
      十一月廿一日
     中津原村
        三郎兵衛殿
       同娘
        お滝との

この離縁状は9月15日まで同館で一般公開されています。最終日の15日には高木教授による「三くだり半の世界」と題した講座が催されるとの事。問い合わせは同館まで。


  

posted by 御堂 at 20:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

(史料紹介)終戦直前、東条英機の手記

東条英機 東条英機の手記

戦時下の昭和16年(1941)10月から同19年(1944)7月まで内閣を組閣していた東条英機の敗戦直前の昭和20年(1945)8月10日から14日までの間に書いた手記国立公文書館(東京都千代田区)に所蔵されている事がわかり、一般公表されています。

同館によれば、この手記東京裁判(昭和21年=1946=5月〜23年=1948=11月)で東条英樹の主任弁護人を務めた清瀬一郎が法務省へ寄贈した資料の一部で、鉛筆書きの肉筆メモや、和文タイプで打ち直された資料などが揃っている。法務省が平成11年度(1999・4〜2000・3)に同館へ移され、昨年から一般公開されており、申請すれば誰でも閲覧できるそうです。

手記は、はがき大のメモ用紙30枚に日付順で、やや右上がりな字体で整然と鉛筆書きされており、“メモ魔”と云われていた東条英機の几帳面な性格が窺えます。

東条英機が終戦目前に書き残した手記の要旨は以下の通り(原文は片仮名表記。一部の漢字を平仮名にし、句読点を補っている)―

― ◇ ◇ ◇ ―

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▽8月10日

 お召しにより重臣一同参内。聖上より、帝国の今後採らんとする方針については総理より説明を受けたるごとし、よって重臣の意見を問う、との御言葉あり。東条大将の奉答要旨は左のごとし。

 (奉答要旨)

 事前に御裁断を経て外交上の手続を了せる以上別に所見を有せしも最早これを申し上げ、御聖明を乱すは恐懼きょうくに堪えざるをもって差し控うることとしたし。

 けだし敵側の提示せる条件を見るにあたかも「手足をまずもぎ、しかも命を敵側の料理にまかせる」ごとき結果となり、たとえ皇位確保国体護持と称するもこれいたずらに空名に過ぎず。

 皇位確保、国体護持については当然にして、これをしも否定する敵側の態度なりとせば、一億一人となるを敢然戦うべきは当然なり。統帥大権を含む統治大権は毫末ごうまつも敵側に触れしむべきにあらず。また第一線皇軍将兵は堅く戦勝を信じ、現に只今でも勇戦敢闘一死を顧みず、死に就て居り。既に幾多の犠牲者は喜んで大義に殉じつつ在り。

 「東亜の安定を確保し、世界平和に寄与する」ことは、自存自衛を確保せんとすること共に本戦争の目的なることは宣戦の御詔勅に明示せられたる所にして大東亜宣言の主旨又これに発す。

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 ▽8月11日

 今後予見すべき情勢判断

 新爆弾に脅え、ソ連の参戦に腰をぬかし一部条件を付し在りといえども、全く「敗戦者なり」との観念に立ちたる無条件降伏を応諾せりとの印象は軍将兵の志気を挫折せしめ、国民の戦闘意思低下せんとしつつある現況に更に拍車を加うる結果となり、軍の統帥指揮上に大なる混乱を惹起し、戦闘力において精神的著しく低下を見るに至るなきやを恐る。

 国体護持なるものは軍備維持なくしては空文に過ぎず。無条件降伏受諾の影響は、軍、国民の志気阻喪を来し、この際交戦力に大なる影響を及ぼすことを恐るるのみならず、国民はややもすれば一段安きに考えたる国民として軍部をのろうに至るなきや。

 ▽8月13日

 戦いは常に最後の一瞬において決定するの常則は不変なるにかかわらず、その最後の一瞬においてなお帝国として持てる力を十二分に発揮することをなさず敵の宣伝政略の前に屈し、この結末を見るに至る。

 もろくも敵の脅威に脅え、簡単に手を挙ぐるがごとき国政指導者及国民の無気魂なりとは夢想だもせざりしところ、これに基礎を置きて戦争指導に当りたる不明は開戦当時の責任者として深くその責を感じるところ、上御一人に対し、また国民に対し、申訳なき限り。願くは今後の国民諸君、降服によりて来るべき更に大なる苦難を忍びに忍び他日の光栄ある帝国建設に努められんことを伏して願て止まず。

 ▽8月14日

 赤松大佐へ

 大義に殉ぜる犠牲も遂に犬死に終わらしむるに至りしことは前責任者としてその重大なる責任を痛感する。

 事ここに至りたる道徳上の責任は死をもっておわび申し上げる。

 犯罪責任者としていずれ捕えに来るべしその際は日本的なる方法によりて応ゆべし、陛下が重臣を敵側に売りたるとのそしりを受けざるごとく、また、日本人として敵の法廷に立つごときことは、日本人として採らざるところ、その主旨にて行動すべし。

― ◇ ◇ ◇ ―


手記は、政府が国体護持を条件にポツダム宣言受諾を決めた8月9日の御前会議の翌日であるである10日に開催された重臣会議の記載から始まっており、席上、経緯を説明され、意見を求められた東条昭和天皇に上奏したとする内容を「奉答要旨」として細かく残しています。

「東亜安定と自存自衛を全うすることは大東亜戦争の目的なり、幾多将兵の犠牲国民の戦災犠牲もこの目的が曲りなりにも達成せられざるにおいては死にきれず」(※かな部分は原文ではカタカナ)と戦争目的が達成されないままポツダム宣言を受諾すれば、戦争による多くの犠牲者が死んでも死にきれない、という趣旨の発言をしたようです。しかし、最終的に昭和天皇のご聖断で、終戦を受け容れた事も記載しています。

翌11日には前日を顧みて、「無条件降伏を応諾」すればややもすれば一段安きに考えたる国民として軍部をのろうに至るなきや」と、無条件降伏すれば国民が「軍部をのろう」とし、天皇制を中心とした「国体護持」が受け容れられないなら「敢然戦うべき」と戦争継続を昭和天皇に訴えていた様子が窺い知れます。

政府がポツダム宣言受諾を決めた事について、「新爆弾に脅え、ソ連の参戦に腰をぬかし一部条件を付し在りといえども、全く『敗戦者なり』との観念に立ちたる無条件降服を応諾せりとの印象」と政府の“弱腰”を厳しく批判し、軍人として徹底抗戦への未練も覗かせています。

13日には「もろくも敵の脅威に脅え簡単に手を挙ぐるに至るがごとき国政指導者及び国民の無気魄むきはくなりとは、夢想だもせざりしところ、これに基礎を置きて戦争指導に当りたる不明は開戦当時の責任者として深くその責を感ずる」と悔しさを当時の政府や国民にぶつけている。

そして14日には首相時代の秘書官に宛てて「大義に殉ぜる犠牲もついに犬死に終らしむるに至りしことは前責任者としてその重大なる責任を痛感する。事ここに至りたる道徳上の責任は死をもっておわび申上ぐる」と記し、自決の覚悟を綴っています。(→9月11日、東条は拳銃による自決を図るが一命を取り留めている)

― ◇ ◇ ◇ ―

東条英機A級戦犯として東京裁判で絞首刑判決を受け、同23年(1948)12月に処刑されます。

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