(トピックス)昭和20年3月の宇佐空襲−宇佐海軍航空隊−初空襲時の映像が発見される

宇佐海軍航空隊への初空襲で、米軍戦闘機の機銃掃射を受けて白煙を上げる駐機中の機体

太平洋戦争時、宇佐市にあった宇佐海軍航空隊(以下、宇佐空)を空襲した米軍戦闘機が撮影した映像を、宇佐市の地域おこしグループ「豊の国宇佐市塾」のメンバーが入手したそうです。

昨年、同塾が入手した手に入れた宇佐空への空襲を記録した米軍の戦闘報告書と照合した結果、鹿児島県種子島東方沖の空母から出撃した戦闘機の映像である事が判明し、同映像が昭和20年(1945)3月18日に最初の空襲を受けた時のものと特定したのだとか―

これまで宇佐空への空襲の実態は住民の証言などから得ていた情報だけでしたが、今回それが裏付けられた形で、同塾は「空襲について証言、戦闘資料、映像が揃った例は全国初ではないか」としています。

宇佐空は昭和14年(1939)、大分県宇佐郡柳ヶ浦村(現、宇佐市柳ヶ浦)に爆撃機・攻撃機の搭乗員への実機訓練を推進するための飛行場として建設され、練習航空隊が設置されます。太平洋戦争末期には、宇佐飛行場に特攻作戦に参加する実戦部隊が集結・展開したため、戦争終結に至るまで米軍戦闘機の空襲の標的としてあり続け、空襲は昭和20年(1945)3月18日から終戦間際の8月8日まで続いたと云います。


※(参考)宇佐海軍航空隊(宇佐空)
  • 昭和14年(1939)10月 1日…呉鎮守府隷下の実用機訓練部隊として開隊

  • 昭和14年(1939)10月31日…霞ヶ浦海軍航空隊より操縦練習生が転入し、教育訓練が開始

  • 昭和14年(1939)12月 1日…呉鎮守府第十二連合航空隊が発足され、第十二連合航空隊に編入

  • 昭和15年(1940)11月15日…練習航空隊に指定、艦爆、艦攻の実用機操縦と偵察教育などの教育訓練を履行

  • 昭和19年(1944)12月上旬…陸軍航空隊に施設貸与。飛龍靖国部隊の雷撃訓練を実施

  • 昭和20年(1945) 2月16日…特別攻撃隊(のち八幡皇護隊と命名)編成命令が下令される

  • 昭和20年(1945) 4月 6日…神風特別攻撃隊・第一八幡護皇隊出撃

  • 昭和20年(1945) 4月12日…神風特別攻撃隊・第二八幡護皇隊出撃

  • 昭和20年(1945) 4月16日…神風特別攻撃隊・第三八幡護皇隊出撃

  • 昭和20年(1945) 4月17日…第四〜第九八幡皇護隊に対し、特攻作戦から本土決戦準備への下令がなされる

  • 昭和20年(1945) 4月21日…柳ヶ浦飛行場にB29爆撃機編隊(30機)が襲来し、激しい爆撃を受け、飛行場施設が壊滅、死者は航空隊員などの軍属、民間人合わせ約330名以上

  • 昭和20年(1945) 4月28日…神風特別攻撃隊・八幡神忠隊出撃

  • 昭和20年(1945) 5月 4日…神風特別攻撃隊・八幡艦攻隊(振武隊)出撃

  • 昭和20年(1945) 5月 5日…解隊
結果、宇佐空で編成された特別攻撃隊の出撃回数は5回。81機、特攻隊員154名の尊い命が失われました。
4月21日における空襲で、訓練機はわずか4機のみとなり、しかも飛行場には決戦部隊が集結していたので、宇佐空での訓練は継続不可能な状態であった。
以降、基地航空隊の西海海軍航空隊が管轄する飛行場として実戦部隊の退避基地として機能するが、それ故に終戦を迎えるまで空襲による被害は続く事になるのです。


さて、映像は今年4月に塾生が米公文書館の資料収集を代行する会社がインターネット上で販売していた映像資料の中に「KYUSHU AREA」のタイトルで宇佐空襲と見られる動画を見つけて購入されたようですね。

長さは約2分40秒間ほどあり、米軍戦闘機が撃墜記録用に、戦闘機の主翼の機銃横に取り付けたガンカメラから撮影されたもので、そのうちの約30秒間に宇佐空の駐機場に待機している飛行機や、空中を逃げ回る飛行機を機銃掃射している様子が映し出されていたのです。

実際、画面からは文字情報はなく、地名などは判明しなかったが、同塾が昨年8月に国立国会図書館で入手した、米軍の戦略爆撃調査団資料のうち、宇佐に関する戦闘報告書(マイクロフィルム)を複写し、分析したした結果、米軍戦闘機グラマンF6Fが3月18日午前10時に種子島東方沖の空母ヨークタウンなどから出撃し、午後0時20分に機銃攻撃した事が判明し、マイクロフィルムの文書に書かれたコースと宇佐市の「御許山おもとさん」などの山並みを映した映像から宇佐空への空襲と判明したのです。

解析した戦闘報告書からは、この日の空襲では3隻の空母から計46機が宇佐方面に襲来、ロケット弾59発、12・7o弾6万3135発が撃ち込まれた事が判明できた事から、B29の爆撃を受け、基地に大型爆弾を撃ち込まれ、航空隊員や一般住民ら約330人以上が死亡した同年4月21日の空襲の様子ではなく、機銃攻撃を中心にした同年3月18日の初空襲のものと断定。


※(参考)宇佐空襲
  • 昭和20年(1945)3月18日…宇佐空が、グラマンなどの米軍機から初めて攻撃を受ける

  • 昭和20年(1945)4月21日…宇佐空はB29爆撃機編隊による激しい爆撃を受け壊滅。三州国民学校(現・柳ヶ浦小学校)、柳ヶ浦高等女学校(現・ 柳ヶ浦高校)等が炎上。航空隊員などの軍属や民間人など約330人の死者が出た

  • 昭和20年(1945)5月 7日…B29爆撃機編隊が宇佐空に投弾直後、陸軍飛行第四戦隊・村田勉曹長が操縦する屠竜が編隊の先頭機に正面から体当たり攻撃を敢行。両機共に墜落し、村田曹長と米軍側8名、計9名が戦死

  • 昭和20年(1945)8月 8日…米軍機による空襲で、宇佐空周辺の畑田地区・江須賀地区が大きな被害を受ける
これまで同年3月18日の宇佐への初空襲については、元航空隊員の方による「昼過ぎ、宇佐空の戦闘機が攻撃され炎上し、14人が戦死した」との聞き取り調査での証言だけが頼りでしたが、これで被害の全体像がより明確になった訳ですね。

同塾では「他の空襲被害地域でも同様の資料が得られる可能性があり、研究が進めていけば、戦争被害の実態をより正確に知る事ができる」と話されています。

映像は今月14日に催される「第7回宇佐航空隊平和ウオーク」のコース途中にある教覚寺(宇佐市森山)で午前9時から資料と共に一般公開されます。また、8月19日から福岡県大牟田市で催される「空襲・戦災を記録する会 第41回全国連絡会議大牟田大会」で今回入手した映像及び資料を基に調査結果を発表する予定だそうです。

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※(参考)宇佐海軍航空隊 (1)「妙満寺(大分県宇佐市)へようこそ」より→
※(参考)宇佐海軍航空隊 (2)「妙満寺(大分県宇佐市)へようこそ」より→
※(参照)【宇佐新聞】米軍空襲の実態 後世に 犠牲者調査開始へ「大分合同新聞 oitatv.com 地域新聞」より→

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※(参照)宇佐航空隊の世界→
※(参照)空襲・戦災を記録する会全国連絡会議→


 

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(トピックス)日本海海戦での戦術はやはり秋山真之のアイデア!―草案の手紙を発見

秋山真之が鈴木貫太郎に宛てた手紙に「第一連繋水雷、第二水雷攻撃」など、4段階の戦法が記されている

明治から大正期の海軍軍人で、司馬遼太郎氏の小説『坂の上の雲』の主人公になった秋山真之が、日露戦争中に作戦の草案を記した手紙が発見されました。

手紙の内容は、ロシア旅順艦隊を4段階で攻撃する内容で、後の日本海海戦でバルト海艦隊(バルチック艦隊)を破った戦法「七段構え」(※1)を想起させる感じ―

「七段構え」は連合艦隊参謀だった秋山の立案とされてきましたが、実証できる記録はなく、研究者は「戦略の天才と言われた秋山の頭脳から出た事を示す資料」としています。

当時、駆逐隊司令だった鈴木貫太郎(のち終戦時に首相)に宛てたもので、終戦時、海軍軍令部第一部第一課長の大前敏一が軍施設から持ち帰り、現在、遺族が所有している。

手紙の日付は、連合艦隊が旅順艦隊に大損害を与えた黄海海戦から約2か月後の明治37年(1904)10月31日付。

秋山は、戦力が残っているとみた同艦隊と、極東に向かっていたバルト海艦隊(バルチック艦隊)の合流を恐れ、早急に旅順艦隊を壊滅させる必要があると記し、

第一連繋水雷、第二水雷攻撃、第三艦隊戦門、第四浦汐港外機械水雷ノ四手段ニテ少クモ彼等ノ三分ノ一ヲ片付ケル心算ニ有之候
=第1に縄で繋いだ連係水雷、第2に水雷、第3に艦隊攻撃、第4にウラジオストク港外に機雷を仕掛ける4段戦法で、少なくとも3分の1は片付ける心算つもり
と書かれています。水雷を扱う駆逐隊司令だった鈴木に対し、私案があれば教示願いたいとし、

右四手段ノコトハ当分各司令官ヘハ御洩シ被申間敷候
=四手段については当分、司令官たちには秘密にしてほしい
と締め括っています。

結果的に、この作戦は実行されず、日本海海戦に突入した。

『秋山真之戦術論集』を編集した広島県の呉市海事歴史科学館の戸高一成館長は手紙の内容から「七段構え」秋山のアイデアだった事を裏付けるのでは?と話されています。

この秋山手紙坂の上の雲ミュージアム(愛媛県松山市)の企画展「日露戦争と明治のジャーナリズム2 バルチック艦隊と真之」(〜来年2月下旬まで)で展示されています。


※1 七段構え
バルト海艦隊(バルチック艦隊)を迎え撃つため、日本海を済州島(チェジュド)近海からウラジオストク沖までの7海域に分け、駆逐隊や水雷艇隊での奇襲、艦隊の全力攻撃などを交互に行う作戦。最終的には水雷を敷設したウラジオストク港外で全滅を目指した。実際の日本海海戦では、途中で勝負がついている。

◆七段構えの戦法=1隻の軍船もウラジオストク港に入れない周到な迎撃作戦計画
  • 第一段…主力決戦前夜、駆逐艦・水雷艇隊の全力で、敵主力部隊を奇襲雷撃

  • 第二段…わが艦隊の全力をあげて、敵主力部隊を砲雷撃により決戦

  • 第三・四段…昼間決戦のあった夜、再び駆逐隊・水雷艇隊の全力で、敵艦隊を奇襲雷撃

  • 第五・六段…夜明け後、わが艦隊の主力を中心とする兵力で、徹底的に追撃し、砲雷撃により撃滅

  • 第七段…第六段までに残った敵艦を、事前に敷設したウラジオストック港の機雷源に追い込んで撃滅
※(参照)桜井真清著『秋山真之』「活躍編【下】(日本海海戦)「所謂る七段構」より抜粋

バルチック艦隊迎撃に当り、将軍が予ねて練りに練った七段構えの戦法をもってこれに臨んだという事は有名な話である。
然らば七段構えとは何ぞ?
これは大別昼戦夜戦と正攻奇襲を交互に活用するもので、済州島近海から浦塩沖に至る海上を七段に区分し、それぞれの区域に於て最も有効適切なる攻撃法によってこれを撃滅しようというのである。
即ち順序を追うていえば、先づ第一段は我が駆逐隊、水雷艇隊の全力を以て彼我主力艦隊の交戦の前夜に敵艦隊を襲撃せしめ、第二段は右の襲撃を行ったその翌日我艦隊の全力を挙げて敵艦隊に正攻撃を加え、第三段第五段は之に引続き其夜間、我が駆逐隊水雷艇隊の全力を以て再び敵艦隊に対し、奇襲的水雷攻撃を試み第四第六段は更に其翌日我が艦隊の大部分を以て敵の残存部隊を鬱陵島附近及び浦塩港前に追撃し、第七段は先きに浦塩港口に敷設して置いた水雷沈設帯に敵艦隊を追い込むという用意周到の作戦で、雄大かつ緻密なることは古今の海戦を通じて未だその比を見ざる所であった。
しかし実践に臨んで諸般の事情から実際に用いられたのは、僅かに第二段から第四段までであった。何故かというと、戦争の始まったのは昼間であったが為めに、夜戦の目的の第一段は自然省かれ、第五段以下はそれを用いるまでもなく、第四段までに既に敵艦隊は全滅してしまったのでこれ又その必要がなくなったのであった。
随って斯うした実践の上からしても、此の海戦は予想以上の戦果を収めたもので、折角七段まで用意した将軍としては、或いは聊か物足らなかった位のものだったかも知れない。
※(参考)エピソード、参謀「秋山真之」による七段構えの戦法(記念艦「三笠」公式ホームページより)→
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※(関連)(書斎の窓)マツノ書店、今回の復刻は?―『秋山好古』『秋山真之』『山懸公のおもかげ』→
※(関連)NHKスペシャル大河「坂の上の雲」→


  

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土佐の小京都で、土佐一條公家行列「藤祭り」

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高知県四万十しまんと市で土佐一條公家行列「藤祭り」が催されました。

これは応仁・文明の乱の戦火を逃れ、応仁2年(1468)9月6日に京から領地の土佐国幡多荘はたのしょう、本郷(本庄)中村に下向したさきの関白・一條教房のりふさが中村に入府してくる様子を再現したもので、きらびやかな衣装に身を包んだ女官や従者などに扮した約170人が行列を組み、市内の中心街約2kmをを雅楽の調べに合わせて練り歩くというもの―

行列はまず、公家行列が露払いの武者を先頭に、土佐一條家(※1)を興した一条教房役(今年は一條家の御本家である旧一條公爵家の次期当主・一條実綱さん=東京都=が訪れ、教房役を務めました)が馬に跨り、“いちじょこさん”一條神社(旧、中村御所)を出発。

次いで、土佐一條家第2代・房冬の妻で祭りのヒロインの玉姫(※2)役や侍女らの「女行列」らが続き、玉姫役が朱色の華やかな十二ひとえ姿で一條家の家紋・藤の花で飾られた輿こしに乗り、笑顔を振り撒くと、沿道の市民や観光客らから「綺麗ねぇ」と拍手や歓声が上がっていました。


土佐一條家・一條教房
※1 土佐一条家
  1. 一條教房

  2. 一條房家

  3. 一條房冬

  4. 一條房基

  5. 一條兼定

  6. 一條内政(大津御所)

  7. 一條政親(久礼田御所)
なお、兼定の娘は按察使局あぜちのつぼねとよばれ、徳川幕府に出仕していた形跡がありますね。

明治に入り、明治35年(1902)に一條公爵家・実輝の長子・実基が土佐一條家の再興を名目として分家し、男爵を授けられています。

土佐一條家の開祖が教房なのか?房家なのか?という論争があるようです。

→(参照)土佐一条氏 初代どっち? 高知・中村市の郷土史家ら論議(読売新聞2004-07-15)→

私的な見解としては、私も房家を土佐一條家初代とします。

※2 玉姫
玉姫は伏見宮邦高親王の王女で、大永元年(1521)6月、土佐一條家第2代・房冬に嫁ぎ、第3代・房基を産みました。房冬の死後、仏門に入り、天文16年(1547)に病死しています。

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参考)市村高男編『中世土佐の世界と一条氏』(高志書院)

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(トピックス)後藤象二郎の新出写真、2枚発見される!

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幕末・維新期の土佐藩の重臣(参政、中老格)で山内容堂と共に連署して大政奉還論を提議した建白書を将軍・徳川慶喜に提出。維新政府では要職を歴任するが、征韓論に敗れて下野した後は自由民権運動へと繋がる民選議院設立の建白大同団結運動を推進しますが、一時期炭鉱や商社の経営など実業界に乗り出すも失敗。のち再び政府に出仕し、伯爵を授爵した後藤象二郎の新たな写真2枚が高知市の旧家で見つかったそうです。

写真は高知市在住の後藤の家臣の子孫の男性が家に保管していたもので、今年の2月に高知県立歴史民俗資料館(高知県南国市)に寄贈されたのだとか。

これまでに確認された後藤の写真は、幕末・維新期の3枚のみで、印刷物等に転載された約10枚もその大半が幕末期か晩年頃だと云います。

写真は名刺大くらい(縦10・5cm、幅6cm)の大きさの鶏卵紙に焼き付けた物で、1枚は脇差しを腰に帯びた羽織袴での立ち姿、もう1枚は胸から上の洋装姿で、何れも30代半ばから40代にかけて撮影された物と考えられます。

このうち、羽織袴姿の写真の裏には「前参議」の肩書と後藤の名が墨書きされ、征韓論に敗れて下野した明治6年(1873)以降で、廃刀令が出された同9年(1876)までに撮られたと考えられ、洋装姿の写真維新政府の高官を辞して実業界に転身した時期とみられ、同博物館学芸員によると「武士の時代に区切りをつけ、新時代を歩もうとする気概がみてとれる」とか―

これらの写真は現在、高知県立歴史民俗資料館(高知県南国市岡豊町)で開催中の「勤王党志士たちの遺墨・遺品展」(〜6月26日まで)で追加展示されています。

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英国ロイヤル・ウエディング―350年ぶりに一般女性が王室に!

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イギリス(グレートブリテン及び北アイルランド連合王国:United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)の次期王位継承者であるチャールズ王太子(His Royal Highness Prince Charles,Prince of Wales Charles:ウェールズ公(プリンス・オブ・ウェールズ)チャールズ:Charles Mountbatten=Windsor=チャールズ・マウントバッテン=ウィンザー=Charles Philip Arthur George=チャールズ・フィリップ・アーサー・ジョージ)故ダイアナ元王太子妃(Diana,Princess of Wales:ウェールズ大公妃ダイアナ=Lady Diana Frances Spencer=ダイアナ・フランセス・スペンサー)の長男で王位継承順位2位のウィリアム王子(His Royal Highness Prince William:William Mountbatten=Windsor=ウィリアム・マウントバッテン=ウィンザー、William Arthur Philip Louis=ウィリアム・アーサー・フィリップ・ルイス)キャサリン・エリザベス・ミドルトン(Catherine,Elizabeth Middleton)さんの結婚式が29日、ロンドンのウェストミンスター寺院(Westminster Abbey)で行われました。

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次期王位継承者が一般家庭出身の女性を妃として迎えたのは、1660年9月に挙行された、ヨーク公(The Duke of York、後に名誉革命(Glorious Revolution、但し清教徒革命・ピューリタン革命:Puritan Revolutionと併せてイギリス革命・ブリテン革命、または三王国戦争:Wars of the Three Kingdomsと呼称する場合もある)によって王位を逐われたジェームズ2世:His Majesty The King James U)に嫁いだアン・ハイド(Anne,Hyde)以来約350年ぶりの出来事で、イギリス国内は祝賀ムードに包まれ、ロンドン市内の沿道には約100万人がお祝いに繰り出したそうです。

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結婚式は、イギリス国教会の最高位聖職者であるローワン・ダグラス・ウィリアムズ(Rowan Douglas Williams)第104代カンタベリー大主教(Archbishop of Canterbury)によって、式が厳かに執り行なわれ、エリザベス女王(エリザベス2世:Her Majesty The Queen Elizabeth U:Elizabeth Mountbatten=Windsor=エリザベス・マウントバッテン=ウィンザー=エリザベス・アレクサンドラ・メアリー=Elizabeth Alexandra Mary)ら英王室一家に加え、デンマーク、スペインなど約40か国の王族、ウィリアム王子キャサリンさんの友人ら約1900人の来賓が見守るなか、ウィリアム王子はイギリス陸軍の真っ赤な 軍服、キャサリンさんはクリーム色がかった白色のウエディングドレスをまとい、祭壇に進み、大主教が愛の誓いの言葉を読み上げると、2人は順番に「I will」と誓い合い、続いてウィリアム王子がウェールズ産の金で作られた指輪をキャサリンさんの左薬指にはめると、聖歌隊による祝福の賛美歌が響き渡りました。

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挙式を終えた王子夫妻は、寺院の外に姿を現し、4頭立ての馬車でバッキンガム宮殿までパレード。沿道には英国旗・ユニオンジャックが至る所にはためき、2人が手を振ると観衆から大きな歓声が上がった。

なお、この日、ウィリアム王子チャールズ王太子よりケンブリッジ公(Duke of Cambridge)(※1)の爵位を授爵し、ケンブリッジ公ウィリアム王子(His Royal Highness Prince William,Duke of Cambridge)となり、キャサリンさんもケンブリッジ公妃キャサリン(Her Royal Highness Duchess of Cambridge Catherine Elizabeth)の称号を授爵されました。


※1 ケンブリッジ公(Duke of Cambridge)
  • チャールズ・ステュアート(1660〜1661)=ジェームズ2世の長男、しかし夭折

  • ジェームズ・ステュアート(1663〜1667)=ジェームズ2世の次男、しかし夭折

  • エドガー・ステュアート(1667〜1671)=ジェームズ2世の四男、しかし夭折

  • チャールズ・ステュアート(1677)=ジェームズ2世の五男、しかし夭折

  • ジョージ2世(1683〜1760)=ジョージ1世の息子で、後にコーンウォール公、ウェールズ大公とになり、王位継承

  • アドルファス(1774〜1850)=ジョージ3世の七男

  • ジョージ(1819〜1904)=アドルファスの息子。王室結婚令(1772)に背き、愛人と結婚したため、生まれた王子たちはイギリス王室の一員と認めらず、公位継承権を喪失し断絶

  • ウィリアム(1982〜)=チャールズ王太子の長男
さらに、キャサリン妃には紋章が紋章院(College of Arms:紋章及び系譜を管理・統括する国王や王家の典礼を司る英国王直属の法人機関)よりミドルトン家に新たに付与されており、以降は自分の子孫にこの紋章を継承する事ができるだとか―

宮殿に到着後、バルコニーに姿を現した2人は、眼下の広場を埋め尽くした観衆を前に笑顔でキスを交わしました。

キャサリン妃の頭に着けられたティアラは、エリザベス女王の父親であり、映画「英国王のスピーチ」で主人公だったジョージ6世(His Majesty The King George VI:アルバート・フレデリック・アーサー・ジョージ=Albert Frederick Arthur George)が妻であるエリザベス・バウエス=ライオン(HM Queen Elizabeth The Queen Mother Elizabeth Bowes-Lyon:エリザベス・アンジェラ・マーガレット・バウエス=ライオン=Elizabeth Angela Marguerite Bowes-Lyon)に贈ったものを女王キャサリン妃に貸したのだそうです。

高級ブランド「カルティエ」の1936年製で、ジョージ6世が兄であるエドワード8世(His Majesty The King Edward VIII:エドワード・アルバート・クリスチャン・ジョージ・アンドルー・パトリック・デイヴィッド・ウィンザー=Edward Albert Christian George Andrew Patrick David Windsor)から王位を引き継ぐ3週間前に購入し、女王が18歳の誕生日にプレゼントされたものだとか―、

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一連の式典終了の後、バッキンガム宮殿からイギリス王太子公邸であるクラレンス・ハウス宮殿まで、チャールズ王太子所有の英高級車メーカー、アストン・マーチンのオープンカーをケンブリッジ公ウイリアムが運転し、キャサリン妃を助手席に乗せて移動するという、事前の予定にはないサプライズ演出もあり、沿道に集まった観衆からは大歓声が起こりました。

― ◇ ◇ ◇ ―

ジェームズ2世にはアラベラ・チャーチル(Arabella,Churchill)という公妾(ロイヤル・ミストレス)がおり、その影響で活躍の場を得た弟のジョン・チャーチル(John,Churchill)はマールバラ公爵(Duke of Marlborough)を授爵しています。このマールバラ公ジョンの死後、彼の三女アンとサンダーランド伯(Earl of Sunderland)チャールズ・スペンサー(Charles,Spencer)の間の長男チャールズがマールバラ公の爵位を継ぎ、その後、スペンサー姓をを改称してスペンサー=チャーチル(Spencer=Churchill)家とします。このスペンサー=チャーチル家の分家に生まれたのが第二次世界大戦期のイギリス首相サー・ウィンストン・レオナルド・スペンサー=チャーチル(Sir Winston Leonard Spencer-Churchill)です。

また、アンとチャールズ・スペンサーの三男ジョンの子ジョン・スペンサーはスペンサー伯爵(Earl Spencer)家となっていますが、その子孫が故ダイアナ元王太子妃なのです。彼女がチャールズ王太子と結婚し、ケンブリッジ公ウィリアムを生んだ事により、ジェームズ2世の、ステュアート王家の血筋がイギリス王室に甦った事となったんですね。

何だかちょっとばかり、ステュアート王家=スコットランド王国 vsイングランド王国という因縁めいたものを感じちゃいませんか!「ジャコバイト」復活したりして…

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※(参照)「チャールズ」は不吉?→


  

posted by 御堂 at 11:40 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

漢字か!ローマ字か!―日本人の読み書き能力調査(Literacy Survey)

昭和20年(1945)9月2日、連合国軍最高司令官(GHQ=General Headquarters)総司令部(the Supreme Commander for the Allied Powers)(以下、GHQ/SCAP)の最高司令官ダグラス・マッカーサー(Douglas,MacArthur)は、東京湾上に浮かぶアメリカ艦ミズーリ号甲板で、日本が降伏文書に署名した数分後、アメリカ国民に向けて

“We stand in Tokyo today reminiscent of our country-man Commodore Perry, 92 years ago”
―きょう私たちは92年前のペリー提督のように東京に立っている―
と演説したように、マシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith,Perry)・アメリカ東インド艦隊司令長官による砲艦外交がきっかけで、明治維新を成し遂げ、近代日本を創り上げた事から、歴史的事件としてペリー来航第一次「黒船来航」とするならば、GHQ/SCAPによる進駐はまさに現代日本を創り上げた第二次「黒船来航」と断じても良いでしょうね。

昭和20年(1945)8月の「ポツダム宣言」受諾による太平洋戦争敗戦を契機として、日本では様々な領域でそれまでとは大きく異なった変革が実施されたのです。

そうした各種様々な大変革の中で、学校教育に関わる制度について極めて重要な変革が起ころうとしていました。

教育面での大変革の1つとして「男女共学」が挙げられますね。

男女は、互に敬重し、協力し合わなければならないものであって、教育上男女の共学は、認められなければならない(昭和22年3月31日公布・法律第25号、旧教育基本法第5条)
また、小学校から中学校までの9年間を義務教育とする「六・三制」の実施や、都道府県または市町村レベルにおける教育委員会の設置、それにPTA(Parent-Teacher Association)を創設して学校の教職員と保護者の連携をはかるなどの施策が矢継ぎ早に実施がなされます。

こうした種々の変革は、占領政策を実施したGHQ/SCAPの要請により来日した「アメリカ教育使節団」(United States Education Mission to Japan)(以下、「教育使節団」)が提出した報告書に基づかれて実施されたのだと云います。

昭和21年(1946)3月5日〜6日、アメリカ教育使節団来日。同3月30日、マッカーサー最高司令官に宛て『アメリカ教育使節団報告書』(以下、『報告書』)を提出

「教育使節団」の構成メンバーは、総勢27名、ニューヨーク州の教育長官だったジョージ・D・ストッダード(George D,Stoddard)を団長に、大学の学長や教授、教育行政官など、教育学に携わる知識人で構成されたいました。

「教育使節団」の面々は、視察と調査研究を行う一方、GHQ/SCAPの中で教育や文化政策の担当部局であった「民間情報教育局」(CIE=Civil Information and Education)(以下、CIE)が作成した“Education in Japan”というレポートを参考に3月30日にマッカーサー最高司令官に宛てて『報告書』を提出した。

その『報告書』によると、

  • 国語の改革

  • 初等学校および中等学校における教育行政

  • 授業および教師養成教育

  • 成人教育

  • 高等教育
を実施・改善する事が主として唄われており、実際、この『報告書』で勧告された政策の大多数が矢継ぎ早に施されたのです。

私たちが今日、当たり前のように思っている学校教育に関するほとんどの施策―教育基本法、六三制、男女共学、PTA、ホームルーム、社会科教育など―がこの報告書から成立したのです。

その反面、GHQ/SCAPの内部では、勝者の文化は優れているものと考え、日本の文化に対する無理解が生じていました。

すなわち、文化レベルが我々よりも劣っているから敗者の側にいるのだ、という偏見ですね。

それ故、日本の伝統や実情を無視、あるいは軽視し、欧米人の考え方をそっくりそのまま日本人に導入しようと考えたのです。(←明治期第一次伊藤博文内閣での井上馨外相による鹿鳴館外交欧化主義の真逆ですね!)

その最たる施策の1つが、日本語の表記に使われる文字の問題でした。

上記の報告書にもある「国語の改革」がこれにあたり、そこには、

書かれた形の日本語は、学習上の恐るべき障害である。日本語はおおむね漢字で書かれるが、その漢字を覚えることが生徒にとって過重な負担となっていることは、ほとんどすべての識者が認めるところである。初等教育の期間を通じて、生徒たちは、文字を覚えたり書いたりすることだけに、勉強時間の大部分を割くことを要求される。教育のこの最初の期間に、広範にわたる有益な語学や数学の技術、自然界や人間社会についての基本的な知識などの習得に捧げられるべき時間が、こうした文字を覚えるための苦闘に空費されるのである
と問題視し、その解決策として、

  • 漢字の全廃

  • 漢字の数を減らし、一部は仮名文字を併用(=漢字仮名交じり文)

  • 漢字も仮名文字も全廃し、ローマ字を採用
という提案というか勧告してきたのです。

とどの詰まり、使節団の結論は“ローマ字を採用しろ”という事だったのです。

昭和20年(1945)9月3日、占領軍、道路標識や駅名表示、公共施設の看板にローマ字を表記する指令を発する

実際、日本に進駐したばかりのGHQ/SCAPは、

日本国政府ハ一切ノ都会自治町村及市ノ名称ガ 此等ヲ連結スル公路ノ各入口ノ両側及停車場歩廊ニ 少クトモ六『インチ』以上ノ文字ヲ使用シ 英語ヲ以テ掲ゲラルルコトヲ確保スルモノトス 名称ハ英語ヘノ転記ハ修正『ヘボン』式(ローマ字)ニ依ルベシ」(連合国最高司令部司令第2号の第2部17)
すなわち、GHQ/SCAP所属のアメリカ人のほとんどは、漢字も仮名も判らないから、道路標識や駅名表示あるいは公共施設の看板にローマ字と英語表記を使用せよ、という命令を下している。

欧米の先進国のほとんどがローマ字を使っており、彼らにとって、ローマ字こそが最も進歩的な文字であって、“世界共通の文字”に他ならないのだと言うわけですね。

こうした「教育使節団」からの提案&勧告に対し、一部の知識人の中には賛同する者もいたようです。(中には、志賀直哉のように“フランス語を国語にすべき”と主張した者もいました…)

実は“国語をローマ字表記に”という考え方は、明治の日本でも唱えられていたんですよ。

土佐藩出身の南部義籌よしかずは、蘭学を学んでいた時に覚えたローマ字の利点を説き、ローマ字の採用を建白している事実があるんですよね。

― ◇ ◇ ◇ ―

昭和23年(1948)8月8日〜26日、GHQ/SCAP傘下のCIE将校で文化人類学者でもあるジョン・C・ペルゼル(John Campbell,Pelzel)の提案で、「読み書き能力調査委員会」による全国識字能力調査実施

ペルゼルは文部省に対し、一般的な日本人が漢字をどれくらい読み書きできるか、その能力を調査するよう提案します。ペルゼル自身、ローマ字表記の支持者であり、その実現のためにはまず日本人の識字能力を調査して一般的な日本人の文字の読み書き能力が低い事を実証し、その能力の低さは漢字の難しさが原因なのだと結論付けようとした。

つまり、漢字廃止に向けての動かぬ証拠を作ろうと考えたんですね。

文部省はこれを受けて「読み書き能力調査委員会」を設立。空前絶後ともいうべき読み書き能力テストの実施に向け活動を始め、半年間の準備などを経て、昭和23年(1948)8月に全国一斉に実施がなされた後、整理と分析に1年あまりの期間を費やし、昭和25年(1950)10月、『日本人の読み書き能力』という大著となって、詳細がまとめられたのです。

テストの調査対象は、当時の『物資配給台帳』に基づいて、無作為抽出法(ランダムサンプリング)によって、15歳から64歳までの男女半数ずつが選ばれ、最終的な被験者データは全国で1万6820名に達しました。

次に、どのような問題が出されたのか見てみましょう―

調査問題は、

  • 数字の読み、および書き取り

  • かな(ひらがなとカタカナ)と漢字の読みおよび書き取り

  • 語と漢字との意味の読みおよび書き取り
などから構成され、

◆例題1

  • 大正たいしょう 2年にねん 8月はちがつ (にじゅうはち)にち

  • 明治めいじ 28年にじゅうはちねん 9月くがつ(じゅうろく)にち
◆例題2

  • あさ太陽たいようは { 冬 東 雨 上 } からる。

  • 病気びょうきのときは { 健康 死亡 医師 危険 } にみてもらう。

  • きょうは砂糖さとうの { 配給 産業 食糧 数量 } があります。

  • わがくに米国べいこくから小麦こむぎを { 資金 輸入 法案 声明 } する。

  • 選挙せんきょのときは、もっともよいひとに { 結果 発表 委員 投票 } したい。

  • あのひとの { 態度 国民 各派 必要 } は立派りっぱ

  • 大会たいかい日時にちじを { 労働 予算 決定 事件 } した。
◆例題3

  • ちち={ ひと おとうさん 子 兄 おかあさん }

  • 警官けいかん={ あるく 役人 巡査 警告 あいさつ }

  • 調査ちょうさする={ 手紙を出す かんがえる 役場に行く しらべる 巡査が来る }

  • 希望きぼう={ のぞみ 将来 たのしみ 心配 思いがかなう }

  • 交渉こうしょうする={ けんかする 話しあう 訪問する 汽車にのる はじめる }

  • 利潤りじゅん={ ききめ 商売 もうけ うるおい 便利 }
◆例題4

  • (つき) を見る。

  • (せんせい) お体を大切に。

  • お (てがみ) いただきました。

  • この子は (しょうわ) 生まれです。

  • みなさん (げんき) ですか。

  • のちほど (つうち) します。

  • さっそく (へんじ) をしましょう。

  • あつく (おんれい) 申しあげます。

  • (ごうけい) すると千円になります。

  • 私には (いもうと) があります。

  • お (ねがい) い致します。

  • (ほしょうにん) になって下さい。

  • かぜをひいて (けっせき) した。

  • 役場へ (とどけ) を出す。

  • 右のように (せいきゅう) します。

  • ともかく (りれきしょ) をお出しなさい。
などの問題が出されました。正直、普通に問題を見たら、「読み書き」よりかは「文章読解」な気もするのは気のせい(?)

そして、この試験の結果、

  • 満点をとった人は 4・4%(ケアレスミスなどで減点された人を含めると 6・2%)

  • 0点の人は 1・7%(全く字が書けなくて白紙答案の人、書いても正答がなかった人、仮名は何とか書けても漢字は全く書けない人を含めると 2・1%)

  • 平均点は78・3点

  • 20〜24歳の平均点が86・3点なのに対し、15〜19歳が77・8点となったが、これは戦争時期が学齢期と重なった事による学力の低下とみられた

  • 性別では35歳以上の男女で大きな開きが見受けられるが、34歳以下ではあまり差が見られなかった
という事が判明したため、GHQ/SCAP側の目論見は全く潰えたのです。

ローマ字支持派の人たちは現在もいらっしゃいます。しかし、現在、私たちの生活の中で、漢字は勿論の事、仮名文字もカタカナ文字も使用しているのは周知の事実ですが、ローマ字も生活習慣の中に採り入れて使用しているのも事実。

こうした点こそが、日本人の良さかもしれませんね!

posted by 御堂 at 03:48 | Comment(5) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

津波に消えた豊後沖ノ浜

去る3月11日午後2時46分、三陸沖及び房総沖での複合地震津波地震となった東北地方太平洋沖地震が発生し、現在も多くの行方不明者の捜索ならびに避難者の皆さんへの支援活動が行われています。

甚大な被災の原因の1つが未曽有の大津波の発生ですね。

現在から415年前にも地震と津波によって一瞬にして地形が変わってしまった地域がありました。

それが豊後国沖ノ浜という場所です。

九州北東部に位置し、別府湾の南西岸にある豊後府内(現大分市)は戦国時代、豊後国(現在の大分県全域)を領有していた大友氏城下町として栄えていました。

しかし、大友宗麟の息子・義統が改易されて以降、豊後国は小大名による分知(分割統治)となります。

そのうちの1人で岡(現、竹田市)城主となった吏僚系大名の中川秀成は、恐らくは(?)太閤蔵入地であった別府湾に面した大分郡内今鶴村(現、大分市津留村)の代官職(※1)を兼務し、秀成の家臣である柴山両賀(重祐)が文禄4年(1595)6月、柴山両賀沖浜船奉行に任命し、赴任していました。


※1 恐らくは(?)太閤蔵入地であった別府湾に面した大分郡内今鶴村の代官職
文禄3年(1594)8月、太閤秀吉は中川秀成を大分郡内今鶴村の代官に任じ、462石2升の年貢の運上うんじょう課税徴収を命じています(文禄3年=1594=8月25日付豊臣秀吉朱印状)。何故、中川秀成が任命されたのでしょう?考えられる事として、

  • 中川秀成の父・清秀が敬虔なキリシタン大名であった

  • 秀成が豊前岡を領有する前、兄である中川秀政が播磨国三木(現、三木市上の丸町)の領主だった事。播磨領内には船上ふなげ(現、明石市新明町)に高山右近、室津(現、たつの市御津町)に小西行長、山崎(現、宍粟市山崎町)に黒田孝高、龍野(現、たつの市龍野町)に木下勝俊、といった具合に数多くのキリシタン大名が領有していて、さながらキリシタン王国の観があった

  • 沖ノ浜における海外交易は主として南蛮貿易であり、キリシタン大名だった大友氏に代わり、キリスト教宣教師たちに覚えのよい中川氏が抜擢されたのでは?
とも考えられますが…

沖ノ浜という場所は、元禄12年(1699)に戸倉貞則が古記録や古老の伝承などを基に書いた『豊府聞書ききがき(現存せず)や同書の写本とされる『豊府紀聞』によれば、

府城之西北二十余町勢家…(中略)…勢家村二十余町北有名瓜生島。或又云沖浜町。其町縦于東西竝于南北三筋成町。所謂南本町中裏町北新町。農工商漁人住焉
の様に豊後府内城の西北20余町(約2・2km)ほど行った勢家村(現、大分市勢家)に沖ノ浜町があり、その町は南本町、中裏町、北新町という3つの町から成り、農・工・商・漁人が住んでいた」とあります。

― ◇ ◇ ◇ ―

その日―文禄5年(1596)閏7月9日午後5時頃、未曾有の大地震が別府湾を直撃します。

桜八幡宮(国東町)の宮司坊権大僧都そうず豪泉ごうせんは、

文禄五年丙申潤七月九日大地震仕、豊後興浜悉ク海ニ成、人畜ニ弐千余死ス、前代未聞条書付申畢、当宮司豪泉誌之
とその日の様子を書き留めています。(同八幡宮宝物『大般若経』第424巻・巻末余白)

また、湾岸から約2km南方で、海抜190mの丘陵にある柞原八幡宮では、拝殿や回廊が倒壊し、豊後府中(府内、現大分市)とその近辺の村々は津波で流されたと記しています。(『由原宮年代略記』)

さらに、原村(現在の大分市原)の庄屋文書で、地震による被災からは72年が経った寛文7年(1667)に高松村との田畑に関する相論が記載された内容の中で、

  • 地震の発生は9日7ツ半時分(午後5時頃)に「ゆり出し」津波が押しよせた。なへ(地震)のゆり出しは高崎方面からで、長ふちからみこ田にかけて地割れがおこった

  • 大地震大浪仕、右之田畠大分損シ無田ニ成申候

  • 大浪大地しんニ田畠大分ゆりこみ、むたニ成
といった記載が見受けられます。

そして、イエズス会宣教師であるルイス・フロイスの報告には、沖ノ浜に住んでいたブラス(Bras)という洗礼名の信徒から地震が起こって2か月経った頃の聞き書きとして

府内に近く三千(歩)離れたところに、沖の浜と言われ多数の船の停泊港である大きな集落、または村落があり、…(中略)…或る夜突然何ら風にあおられぬのに、その地へ波が二度三度と(押し寄せ)、非常なざわめきと轟音をもって岸辺を洗い、町よりも七ブラサ以上の高さで(波が)打ち寄せた。…(中略)…そこで同じ勢いで打ち寄せた津波は、およそ千五百(歩)以上も陸地に浸水し、また引き返す津波はすべてを沖の浜の町とともに呑み込んでしまった。これらの界隈以外にいた人々だけが危険を免れた。それにしてもあの地獄のような深淵は、男も女も子供も雄牛も牝牛も家もその他いっさいのものをすべていっしょに奪い去り、陸地のその場には何もなかったかのようにあらゆるものが海に変わったように思われた。(『1596年(9月18日付、都発信)12月28日付、長崎発信、ルイス・フロイスの年報』補遺)
と生々しく状況を伝達しています。

この時、柴山両賀は朝鮮半島に派兵渡海中なため、、沖ノ浜には留守役として、姉の子で男子のいない両賀の養子となり、娘婿という形で家督を継いだ柴山勘兵衛重成たちが残っていて、彼らがこの地震に遭遇してしまいます。

その時の様子を、

  • 同閏七月…(中略)…九日大地震シテ、沖濱ノ浦ヨリ潮ヲビタゞシクセキ上、大波立テ、両賀ノ屋敷海中卜成ル。重成イソギ家ノ系図ト度々ノ感状ノ入タル挾箱ト持鑓バカリヲ取出シテ、内室トタゞ二人、家ノ屋根ヲ脇差ニテ切ヤブリ、二人共ニ屋根ノ上ニ居テ有リケル所ニ、七尋バカリ有ル舟板、家ノ上ニ流シカヽリタリ。是ヲ幸ノ事ト思ヒテ、二人共ニ乗テ有ケルバ、引潮ニ沖ニ引出サレテ、危キ事度々有リ。暫ク有リテ、波モ風モ、鎮マルト思フ時ニ、小イサキ船ヲ押シテ来ル者有テ、此船ニ乗ラセラレ候ヘタスケ申スベシト云ケレバ、ニ人ナガラウレシクテ、急イデ舟ニ乗リタリ。書物ノ箱ヲモ鎗ヲモ取ノセテ、此者ニタスケラレ行ケルナリ。暫シノ間エ、今津留ト云所ノ島ニ著ケルニ、此所モ大波ニ崩レテ、人家キ見ヘズナリケル。此所ノ氏神ニ天満宮有リ、二人共ニ爰ニ休居テ、ツカレヲハヲシケル。内室ハ産ヲシテ、五日目ノ事ナレバ、取分勞レテ有ナル。同十日ニ沖濱ヨリ吉右衛門、與右衛門、九良兵衛ナド、云家頼ノ者共尋テ来ルナリ。汝等ハ、何トシテ助リタルゾト重成問ヘバ崩レタル家ニトリ付テ、南ノ山ギハ迄、大波ニ打寄セラレタルニヨリ、則、山ニ上リ申テ候ト申ス。残リノ者共ハ如何ニト問ケレバ、大方助リ申テ候ト云。女ハ誰々コソ助リタリ。亦タレ/゛\コソ見ヘ候ハズト申ス。金銀ノ倉、武具、諸具ノ倉モツブレ候ヘドモ、金銀モ武具モ不レ失申ト云。重成先仕合ヨシトテ、其日、沖濱ニ帰リケル(『柴山勘兵衛記』、現存せず、写本のみ)

  • 同月十三日昼頃より大地震ニ而、大波ゆり上、居宅海中となる。重成室出産以後六日目の事なれハ、血も未治らす、出生の小児を抱て、夫婦共に天井に上ル。天井にも水上るゆへ、脇指にて屋萱を切破て二人共に屋の上ニ上ル。系図并感状の箱と鑓を持て上ル。最早屋根も流んとする時に、兼而船を作らんとて調置たる船板の七尋斗なるか流れよりけれハ、是を幸に貳人共ニ乗移り、鑓をも箱をも放さす持去れとも、引塩(汐)に沖に引出されて、幾度も波に打込れんとす。此時男壱人小船を漕来て、是に乗給へ、助け申さんと云。貳人なから嬉しくて、此舟に乗り移り、系図の箱も鑓も取乗て、南を持て漕行。暫く有て或ル渚に漕寄セて、爰に上り給へ、と云置て彼男ハ見へす。此所も大波に崩れて、人家もなし。陸の方へ向て暫く行に、小き社有…(中略)…暫く爰に休ミ居てつかれをはらし、人家に入て休息す。村の者共此事を披露しけれハ、沖浜より吉右衛門・与右衛門・九郎兵衛抔家頼の者共尋来ル。重成悦ひ、汝等ハ何とて助りたるそと問ハ、崩れたる家に取付て南の山際迄大波に打寄セられたりにより、則山に上り申て候、と申す。残りの者共ハいかに、と問は大方助り申て候、男は誰々、女は誰々こそ助り、又誰れ/\ハ見へす候、と云。武具倉并其外の倉々ハと問ヘハ、皆崩れ候得共、武具も金銀も其外の諸道具も失ハ致さす、と云。夫より迎の者共を具して其日沖浜に帰る(『津山氏世譜』)
という様に「昼頃より大地震による激しい揺れに続き、沖ノ浜の浦から潮が大量に押し寄せて大波がゆり上げ、居宅は海中となってしまった。勘兵衛は急いで、家の系図と感状の入った挾箱と持鑓(槍)を持ち出し、勘兵衛の妻は出産後でまだ体調もすぐれなかったが、生まれた小児を抱いて、夫婦ともに天井裏に避難した。しかし、天井にも水が上がってきたので、家の屋根を脇差で切り破り、妻と二人で屋根の上に上がった。すると、七尋(約12m)ほどの舟板が流れ寄ってきたので、これ幸いと思って2人で乗り移ったが、引き潮で沖へ流され、何度も波に打ち込まれそうになった。しばらくすると、男が1人小舟を漕いでやって来て、「この船にお乗り下さい」と言ったので、2人とも喜んで舟に乗った。…(中略)…その後、家臣たちと再会した勘兵衛らは沖ノ浜に帰った」と伝えています。

  • 同閏七月五日ニ、重成内室、始テ平産有リ(『柴山勘兵衛記』)

  • 去ル八日ニ出生の小児も死ス(『津山氏世譜』)
留守を預かっていた勘兵衛には、ちょうど閏7月5日に待望の長男が誕生していました。その長男を出産後でまだ体調もすぐれなかった妻が抱きかかえての脱出劇でしたが、勘兵衛や妻は助かったものの、残念ながら生まれたばかりの長男は間もなく亡くなってしまいます。

― ◇ ◇ ◇ ―

さて、この豊後国沖ノ浜を襲った未曾有の大地震ですが、震源地は別府湾南東部、その規模はマグニチュード7・0程度と推測されます。

別府湾の海底には無数の活断層が東西方向に伸びており、これらの活断層の活動が活発化して地震が発生し、津波が押し寄せた事になります。

また、「ゆり出し」「ゆり込み」とあるように、液状化現象(地下に堆積した柔らかい砂層が、地下水に満たされた状態で激しく揺れ動く事で発生し、砂を含んだ地下水が地面に流れ出す=噴砂=を引き起こす)や海底地滑りによる地変と解釈されているようです。

液状化現象が起こりやすい地形は従来からそこにあった自然形態な地形ではなく、三角洲デルタ地帯(平野部から海や湖への注ぎ口=河口=付近に堆積したもの、細かい土砂が堆積するため、水けが良くない=低湿地、水田など)や扇状地(沖積扇状地、山地帯から平野部や盆地帯に移る箇所に土砂が堆積したもの、急勾配な河川が多いため、砂れきが堆積するため、水捌けが良い=桑畑、果樹園など)、リアス式(沈水海岸、普通の土地が海水や河川によって浸食されてできたもの、鋸の刃先の様に連続してギザギザになっている=三陸海岸、房総半島南部など)、埋立地といった地盤が柔らかな地形で多く発生しています。

という事は、沖ノ浜は人工的に造成された外浜だったと考えて良いでしょう。

― ◇ ◇ ◇ ―

この時期には、まず天正13年(1585)11月29日午後10時過ぎ、中部地方から近畿東部にかけて襲った天正地震が発生しています。この地震で有名なエピソードとして、NHK大河ドラマ「功名が辻」でも描かれましたが近江長浜城主だった山内一豊とその妻、千代との間に生まれた6歳の娘、与禰(よね)の圧死がありますよね。

この天正地震による活断層の活動が、この日―文禄5年(1596)閏7月9日豊後沖ノ浜で起こった津波地震に連動し、そして噴き出しきれなかったエネルギーが、やがて慶長元年(1596)閏7月12日深夜から13日早朝にかけて起こった慶長大地震(伏見地震)を産み出す訳ですね。

いわば、この豊後沖ノ浜で起こった津波地震は慶長大地震への橋渡しを担ってしまったと言えましょう!

実際、同じような現象は今から63年前に福井県を中心に北陸から北近畿を襲った福井地震(昭和23年=1948=6月28日)を起点に、岐阜県中部地震(昭和44年=1969=9月9日)、長野県西部地震(昭和59年=1984=9月14日)と続いた一連の地震活動にも表れています。

しかも、福井県内では63年前の福井地震の余震が現在も続いているのだとか―

余震といっても、体に感じない程度の微小地震ですが、東北地方太平洋沖地震が起きた3月11日に誘発されて、県内で24時間以内に300回ほどの余震が起きたようです。

従って、今回の東北地方太平洋沖地震の発生によって噴出できなかったエネルギーが今後10年、いや15年以内に日本列島に巨大な大災害をもたらす事は間違いないと思われます!

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参照)実録「岸辺のアルバム」―狛江水害(多摩川水害)→
※(参照)生死を分けた15段―天明3年の浅間山大噴火において→
※(参照)安政の大地震とその被災記録→


   

posted by 御堂 at 17:29 | Comment(4) | TrackBack(1) | 歴史:コラム

「ララ物資」と浅野七之助

神奈川県横浜市の新港埠頭にあるララ物資の記念碑

第二次世界大戦終結間もない昭和20年(1945)秋、日本は食料品や医薬品・日用品などが著しく窮乏し、食糧については大正昭和を通じて最も凶作の年となり、翌21年(1946)には1000万人以上の餓死者が出るとまで云われていました。

この時、お腹を空かせ、窮乏に喘ぐ日本人を救済するために、海外の様々な団体から援助物資が届けられたのですが、その1つに「ララ物資」というものがありました。

おそらく、50代以上の皆さんでしたら、ご記憶にあるでしょうね!

「ララ」というのは、LARA(=アジア救済公認団体:Licensed Agencies for Relief of Asia)といって、北米のアメリカ、カナダ、メキシコ、南米のチリ、ブラジル、アルゼンチン、ペルーなど多くの国の民間人や民間団体から集められた対日援助物資の窓口として組織されたボランティア団体の事です。

当時、アメリカにおける対外的な慈善活動の対象地域はヨーロッパ地域のみであり、日本は含まれていませんでした。

そのため、日本や朝鮮、沖縄に対する援助物資輸送のために新たな援助団体を設立する必要がありました。

そこで、昭和21年(1946)6月21日、救援事業を行うための民間レベルでの特別委員会設置が決定され、アジア救済公認団体、すなわち「ララ」が設置されたのです。

そして、もう1つ大きな流れを作ったのは、日本人の窮状を知った日系人や在留邦人の間で祖国救済の気運が高まった事です。

なかでも、岩手県盛岡市出身で原敬の書生を務めた事がある日系人ジャーナリスト・浅野七之助が新聞などを通してサンフランシスコを拠点に「一食を分かち、一日の小遣いを割いても、援助することは、良心的な義務」と日本戦災難民救済を呼び掛けたのです。

昭和20年(1945)11月、浅野は同志たちと共に「日本難民救済有志集会」を催し、、邦字新聞『ロッキー新報』に「故国の食糧危機重大」と題する記事を載せ、救済運動の盛り上げを図ります。 

翌21年(1946)1月には『日本難民救済会趣意書』を起草し、サンフランシスコ在住の日系人を中心に集めた物資を日本に送ろうと思い立ちますが、上述した様にアメリカではヨーロッパ地域しか対象としていない事が判明したため、「日本難民救済会」を公認団体とするように申請します。

同年9月、大正6年(1917年)から日米開戦直前まで来日経験があり、知日家であったエスター・B・ローズ(Esther B.Rhoads)女史も申請認可に対し尽力された結果、ようやく認可されるところとなり、日本に救援物資を送る事ができる公認の団体として「ララ」が発足したのです。

そのため、浅野七之助はその功績から「ララ物資」の父”と呼ばれています。

― ◇ ◇ ◇ ―

「ララ」が認可された事により、「日本難民救済会」の運動は熱を一層帯び、、結果、「ララ物資」という形で食糧や衣類、医薬品類、日用品、学用品、更には牛や山羊までもが集められて日本へ贈られていくのです。

昭和21年(1946)11月30日午後5時、救援物資を積んだハワード・スタンベリー(Howard Stanbury)号が横浜港に到着します。

第1便として到着した救援物資は計450トン。脱脂粉乳や医薬品、医療品などが積載されていたそうです。脱脂粉乳は保存性が良く、蛋白質たんぱくしつ、カルシウム、乳糖などを多く含んでおり、栄養価が高い事から、多くの欠食児童が栄養失調から救われました。

翌12月の第2便では、救援物資は何と計21万トンにも上り、チーズやバター、エバミルク、レーズン、ポークチョップ、ミート&ビーンズ、トマトジュース、グレープフルーツジュース、グリンピース、パイン、干しりんごなどが贈られてきたそうですよ。

更に翌22年(1947)になると、「ララ物資」が全国各地に配付されるようになり、次いで翌23年(1948)になると、東京、大阪、名古屋、京都、横浜、神戸の六大都市の約300か所の保育所で「ララ物資」による給食が開始されます。

こうした「ララ物資」による援助は、同27年(1952)3月まで、足掛け7年間にもわたって展開されました。

日本や朝鮮、沖縄へ贈られた援助物資の総計は、当時の金額で総額400億円を超える額だったと云われています。

また、「ララ物資」での援助活動に貢献した日系人団体は何と36団体に上るのだとか―

彼らのお陰で1400万人以上、即ち当時の日本人の6人に1人がその恩恵に与っていた訳ですね。

― ◇ ◇ ◇ ―

神奈川県横浜市の新港埠頭に「ララ物資」の記念碑が立っています。碑には昭和24年(1949)10月19日に香淳皇后昭和天皇と共に「ララ」倉庫に行幸啓になられた際に詠まれた御歌が刻まれています―

ララの品/つまれたる見て/(外)つ国の/あつき心に/涙こほしつ
あたゝかき/(外)つ国人の/心つくし/ゆめなわすれそ/時はへぬとも


posted by 御堂 at 04:30 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

護良親王の御首級と雛鶴姫伝承

石船神社の複眼首級

山梨県都留市朝日馬場の石船いしふね神社で毎年正月15日に初祭りが執り行われますが、その際に同神社に安置されている大塔宮おおとおのみや 護良もりなが親王の「御首級ごしゅきゅうが公開されます。

護良親王南北朝時代足利尊氏と対立した後醍醐天皇の皇子で、同神社に残る伝承では、建武2年(1335)、足利氏によって鎌倉の土牢で護良親王が殺害されたおり、雛鶴ひなづるという寵姫が護良親王の御首級を携え、この地まで逃げ延びて息絶えた事から、その御首級が同神社に祀られる事になったのだと云います。

護良親王の御首級は江戸時代に復顔術が施され、「石船神社の復顔首級」として都留市指定有形文化財(第18号有形民俗文化財)として金庫に保管された状態で、神殿に安置されています。同神社では毎年正月15日の初祭りの際に、その年の祭礼当番が御首級の無事を確認する仕来たりとなっており、この日も神事の後に宮司が御首級を取り出し、4人の祭礼当番は異状がない事を確認すると、安堵の表情を浮かべておられた様子。


  • 「神体は護良親王の首級で、頭蓋骨に箔を押し付け、両眼に水晶を填め込んだもの。伝承では従者が護良親王の首を鎌倉から密かに持ち出し、合祀したという」(『角川日本地名大辞典』19巻 山梨県「石船神社」の項)

  • 『山梨日日新聞』昭和52年(1977)10月22日付には「日本最古の複顔術」と題して「ミイラ首は人間の頭骨に寄せ木細工で肉付けして顔の形に復元。その上へ漆を塗って復顔した可能性があると判定」したという記載がある。(『山梨日日新聞』縮刷版・昭和52年=1977=10月号)

  • 『山梨日日新聞』平成11年(1999)5月4日付には「復顔術は江戸初期に施されたとされ、日本最古という。技術も優れており、1979年に市の文化財に指定された」との記載がみられる。(『山梨日日新聞』縮刷版・平成11年=1999=5月号)

  • 『週刊昭和タイムズ』第40号「昭和52年」には「骨格から見て高貴な人物。鼻筋が通った美男子で、年齢は30歳前後」と鑑定されたとの記載がある。
― ◇ ◇ ◇ ―

雛鶴姫像

護良親王が相模国鎌倉二階堂谷の東光寺(現、神奈川県鎌倉市寺分)に幽閉された際、同行して勤仕していた雛鶴姫と呼ばれる女性がいました。

建武2年(1335)7月23日、北条高時の遺児・時行ときつらが率いた北条氏残党の軍勢が鎌倉に侵攻します。(中先代の乱

その際に足利直義ただよしにより護良親王が暗殺される事態が起こります。

雛鶴姫と数人の従者たちは護良親王の御首級をいだいて鎌倉からの脱出を図ります。

一行は先ず同国鎌倉郡下柏尾村(現、神奈川県横浜市戸塚区柏尾町)の王子神社に足を運び、ここで護良親王の御首級を洗い清めます。(「首洗くびあらい井戸」として伝承されている)

当初は東海道から京に帰洛しようと計画しますが、東海道が警戒厳重なのを考慮し、小田原より引き返して甲斐・信濃をまわるコースに変更します。

先ず、大山(神奈川県伊勢原市・秦野市・厚木市にまたがる山、丹沢大山国定公園)を経由し、相模国愛甲郡津久井の青山村(現、神奈川県相模原市津久井町青山)の寺院に逗留して病を癒します。

その間に護良親王の三十五日忌の供養を営み、小高い丘に供養塔を建てて護良親王の霊を慰めます。


この供養塔は応安4年(1370)の大塔宮33回忌の際に沙弥蓮明がこの塚で『法華経』千部を修して宝篋印塔を建立して以降、「千部塚」と呼ばれるようになったのだとか―

3か月ほどが経ち、雛鶴姫の病が快癒するとこの地を離れ、甲斐へ逃れて行きます。

急ぎ逃げ落ちる雛鶴姫ですが、実はこの時、護良親王の子を宿していたのです。

甲斐国都留郡秋山村(現、山梨県上野原市秋山無生野)まで辿り着いた時に産気づき、そこで皇子を産み落とします。

その後、雛鶴姫は産後の肥立ちが悪く、とうとうその地で他界してしまうのです。

雛鶴姫の薄幸な運命に涙した秋山の村人たちによって、淵沢(朝日川大旅沢)に墓碑塚を築いて弔われ、その地には現在、雛鶴姫を祀った「雛鶴神社」(現、山梨県都留市朝日曽雌)が建っているそうです。

また、この周辺地域には、多くの雛鶴姫に関して、

  • 雛鶴姫が歩んだ津久井の青山から秋山村までの山道を「雛鶴街道」と呼び、

  • 雛鶴姫が愛する護良親王の御首級を抱いて涙ながらに越えた峠を「雛鶴峠」と呼び、

  • 雛鶴姫に対し、援助や保護を拒絶した秋山村の集落を以降「無生野むしょうの」(=無情)と呼ぶなど、
様々な伝承が云われています。

さて、伝承では雛鶴姫が産んだ皇子は小大塔宮・綴連つづれ皇子と呼ばれおり、南朝方として各地を転戦しますが、後に敗れて衰退し、転々と放浪した折に、秋山村に辿り着き、村民の話から不思議からぬ因縁を感じたのか、村に住み着いて73歳の天寿を全うしたと云われています。

― ◇ ◇ ◇ ―

「雛鶴峠」は別に「大だみ峠」とも云うそうです。これは雛鶴姫荼毘だびに付した事に由来があるそうですが、後世になり、次第になまって「大だみ峠」と呼称されるようになったのだとか―

こうした雛鶴姫の伝説を基に、哀愁の演歌「雛鶴峠」が制作され、演歌歌手の大月みやこさんが唄われています。

最後に、大月みやこさんの「雛鶴峠」の歌詞を書き記します。雛鶴姫の悲哀をおもんばかりましょう!

「雛鶴峠」(昭和47年=1972)
◎作詞:沢登初義
◎作曲:古谷宏
◎歌唱:大月みやこ

♪土の牢屋の 灯火消せば
 星の鎌倉 潮騒ばかり
 いとし護良親王の みしるし抱いて
 行くか雛鶴 行くか雛鶴 雛鶴峠

 なれぬわらじに 血潮がにじむ
 皇子を身ごもる 雛鶴姫よ
 おいたわしいぞ 松葉に乗せて
 越える時雨の 峠路七里

 人の情けが あついと聞いた
 ここが甲斐国 秋山の里
 赤子が泣くのに 冷た乳房
 鶴も鳴く鳴く 鶴も鳴く鳴く 雛鶴峠♪
― ◇ ◇ ◇ ―

※(参考文献)山地悠一郎『護良親王の伝説』(近藤出版社)
※(参考文献)「石船神社の首級」「石船神社とその祭祀」『都留市史』資料編 民家・民俗

posted by 御堂 at 07:59 | Comment(31) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

“戦場のメリークリスマス”―戦国時代のクリスマス休戦

戦国時代の永禄9年(1566)、松永久秀方の軍勢と三好三人衆三好長逸三好政康岩成友通)方の軍勢が和泉国堺(現在の大阪府堺市)の近郊で対峙していました。

降誕祭になった時、折から堺のまちには互いに敵対する二つの軍勢がおり、その中には大勢のキリシタンの武士が身受けられた。

ところでキリシタンたちは、自分たちがどれほど仲が良く互いに愛し合っているかを異教徒たちによりよく示そうとして、司祭館は非常に小さかったので、そこの町内の人々に、住民が会合所にあてていた大広間を貸借りしたいと申し出た。

その部屋は、降誕祭にふさわしく飾られ、聖夜には一同がそのに参集しました。ここで彼らは告白し、ミサにあずかり、説教を聞き、準備ができていた人々は聖体を拝領し、正午には一同は礼装して戻って来た。

そのなかには七十名の武士(※1)がおり、互いに敵対する軍勢から来ていたにもかかわらず、あたかも同一の国主の家臣であるかのように互いに大いなる愛情と礼節をもって応接した。

彼らは自分自分の家から多くの種々の料理を持参させて互いに招き合ったが、すべては整然としており、清潔であって、驚嘆に価した。

その際給仕したのは、それらの武士の息子たちで、デウスのことについて良き会話を交えたり、歌を歌ってその日の午後を通じて過ごした。

祭壇の配置やそのすべての装飾を見ようとしてやって来たこのまちの異教徒の群衆はおびただしく、彼らは中に侵入するため扉を壊さんばかりに思われた。(ルイス・フロイス『日本史』第1部第76章 堺でルイス・フロイス師がたずさわっていたもろもろの務め、ならびに同所で生じた他のことどもについて)

※1 七十名の武士
「三好殿幕下の七十三名の貴人たちはまったく納得して、すぐにもキリシタンになることを決心するに至った」(ルイス・フロイス『日本史』第1部38章 司祭(ヴィレラ)が奈良に赴き、結城殿、外記殿、および他の高貴な人々に授洗した次第、ならびに河内国飯盛山城における七十三名の貴人の改宗について)
「三好殿幕下の六十名の貴人が改宗した」(ルイス・フロイス『日本史』第1部54章 本年(一五六四年)および前年に、都地方で生じた幾つかのことについて)


降誕祭(クリスマス)が間近に迫った頃、ちょうど堺に滞在していたイエズス会の宣教師ルイス・フロイスが、両軍のキリシタン武士に対し、キリシタン相互の一致和合と愛を示すため、クリスマスのミサを催す事を呼び掛けます。

すると、両陣営のキリシタン武士たち約70名が堺の会合衆えごうしゅうらが普段集会に使う場所を借り受け、クリスマスを祝うための飾り付けを施します。

降誕祭当日の夜にはキリシタンの武士たちが敵味方の区別なく集まり、共に懺悔ざんげしミサを行うなど交流したのだそうです。

こうした様子が余程珍しかったのか、クリスマスの模様を窺おうとして群集たちが押し寄せ、扉が壊れそうだった」とフロイスも記したほどです。

こうして、彼らがクリスマスのミサに参加した事で、当日は戦禍を交える事なく、事実上のクリスマス休戦となったのです。

― ◇ ◇ ◇ ―

さて、松永氏及び三好氏の軍勢の中で七十名ものキリシタン武士が降誕祭(クリスマス)を祝ったと事ですが、どんな人物がいたのか少しばかりピックアップしてみます。

永禄9年(1566)の時点ではいえば、上述した「三好殿幕下の七十三名の貴人たちはまったく納得して、すぐにもキリシタンになることを決心するに至った」に引き続く文章の中で、「その中には三人の首領ならびに重立った人たちがいた」と記載されています。その「重立った人」とは、三ヶさんか伯耆殿」「池田丹後殿」「三木判大夫殿」、そして「結城山城殿」とみられます。

まずは「三ヶ伯耆殿」ですが―

河内三箇城主(現大阪府大東市三箇)の三箇伯耆守頼照(洗礼名:サンチョ)の事で、三箇城河内飯盛山城(現在の大阪府大東市と四條畷市にまたがる周辺)を本拠としていた三好氏の支城の1つであり、領内に1500人ものキリシタン信徒を擁すくらい、「三ヶ伯耆殿」は河内地方のキリシタンの長老的存在だった様です。宣教師たちも「三ヶ伯耆殿」を“敬虔なクリスチャン”として敬意を表しています。

次いで「池田丹後殿」は―

河内若江城主および八尾城主だった池田丹後守教正(洗礼名:シメアン)の事です。

続いて「三木判大夫殿」は―

後に安土セミナリヨ(イエズス会司祭・修道士育成のための初等教育機関)の第1期生で、イエズス会の「伊留満イルマン」(=修道士)として 摂津大坂で布教活動をしている時捕らえられ、洛中引き回しの後、長崎西坂で殉教したパウロ三木の父にあたります。

最後に「結城山城殿」ですが―

河内岡山城(現在の大阪府四條畷市岡山)の結城山城守忠正(洗礼名:エンリケ)の事です。彼の息子である左衛門尉も洗礼を受け、「結城アンタン左衛門尉殿」と記載されています。

この結城氏の領内もキリシタン信徒が多かったようで、周辺の村々の領民約3000人全てがキリシタン信徒だったそうです。

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(関連)日本で最初に飾られたクリスマスツリーは函館だった!→
(関連)江戸の町に初めて飾られたクリスマスツリー―オイレンブルクの万延元年!→


posted by 御堂 at 01:52 | Comment(3) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

江戸の町に初めて飾られたクリスマスツリー―オイレンブルクの万延元年!

もうすぐ、クリスマス(Christmas)を迎えますね…

クリスマスは、イエス・キリスト(Jesus Christ)の降誕(誕生)を祝うキリスト教の祝祭行事として、12月24日の日没以降、翌25日の日没までの期間に催されます。

クリスマスの語源はラテン語の「クリストゥス(Christus=救世主、キリスト)・ミサ(Mass=礼拝)」の略だそうです。

しかし、実はイエス・キリストがこの日に誕生したという訳ではないんですね。

実際、定まった期日もないまま、キリスト降誕を祝っていたようですが、西暦352年にローマ帝国皇帝ユリウス1世によって12月25日と定められた様ですね。


  • 313 ミラノの勅令(寛容令)=コンスタンティヌス1世とリキニウス帝によるミラノ勅令によって、他宗教と共にキリスト教は公認された。(311 ガレリウス帝によって勅令が発せられた説有り)

  • 324 キリスト教保護を明言したコンスタンティン帝により帝国が統一される

  • 325 コンスタンティヌス帝がニカイア公会議を開催し、キリスト教に内部介入した

  • 353 コンスタンティウス2世により、帝国が再統一される

  • 361 ユリアヌス帝による迫害が始まる

  • 380 テオドシウス帝により、キリスト教を信仰する様にローマ帝国の国民に命じる

  • 392 テオドシウス帝により、帝国内での異教信仰が全面禁止され、キリスト教が国教と定められる

何故、12月25日になったのかというと、その当時のローマ帝国の求心力が低下していく傾向の中で、その打開策としてキリスト教の勢力を利用しようと考えたローマ帝国皇帝の目論見が考えられます。

さらには、元々ヨーロッパ各地では冬至の日に「太陽神の誕生祭」や「農耕神への収穫祭」を祝う土着のの風習がありました。

この土着の行事に、イエス・キリストの生誕祭が融合して、当時の暦で冬至だったとされる12月25日にクリスマスが行われる事になったそうですよ。

― ◇ ◇ ◇ ―

さて、日本で最初にクリスマスが催されたのは、天文21年(1552)12月10日(1552年12月25日)、場所は、大内氏の領国である周防国吉敷郡山口(現在の山口県山口市)―

『イエズス会日本通信』(耶蘇会士日本通信 ※1)によると、
降誕祭の日○天文二十一年十二月十日 我等は弥撤ミサを歌ひ、良き声にはあらざりしが、キリシタン等は之を聞きて大に喜びたり。同日は終夜基督キリスト一代記を語り、両パードレは六回弥撤を行ひ、之を行ふ理由を説明せり。(『耶蘇会士日本通信』一五五四年○天文二十三年 イルマン・ペロ・ダルカセバがゴアよりポルトガルの耶蘇会のイルマン等に贈りし書翰。)
また、ルイス・フロイスはその著書『日本史』(※2)の中で、
山口において日本で初めて降誕祭の祝いが催されたが、その報せに接したキリシタンたちは、これを大いに喜んだ。彼らは夜を徹するために我らの家に来て、夜明けの第二のミサまでそこに留まり、その間絶えずジョアン・フェルナンデスが彼らに朗読するデウスのことを傾聴した。そして修道士が疲れると、我らのローマ字を読むことができる一人のキリシタンの少年が読み、一同はデウスを讃美しながら夜を徹した。彼らが読むことをやめると、人々はすぐに創造主のことについて話しをしてほしいと督促してやまなかった。」(ルイス・フロイス『日本史』第一部八章 山口における事態の進展、ならびにルイス・デ・アルメイダ修道士がイエズス会に入ったことについて ※2−1)

コスメ・デ・トルレス師は仲間と援助者たちが到着するのを待ちに待っていたので、彼らにあった時の喜びようは信じられぬばかりであった。同地方のキリシタンたち一同の喜びもそれに劣らなかった。
降誕祭当日に彼らは歌ミサを唱え、キリシタンたちは、それが初めてのことであったから非常に喜んで傾聴した。そしてその夜を徹して彼らはキリシタンたちに我らの主なるキリストの生涯を読んで聞かせた。また司祭たちはそれぞれ三つのミサを捧げ、なぜそのように三度のミサを読むのか、その理由をキリシタンたちに説明した。(ルイス・フロイス『日本史』第一部九章 バルタザール・ガーゴ師がドゥアルテ・ダ・シルヴァおよびペドゥロ・デ・アリカソヴァ両修道士らとともに日本に赴いた次第 ※2−2)
との記述が見られます。山口には、3年前の天文18年(1549)に来日したイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエル(※3)の布教活動により、多くの信者が誕生しており、また、その後を引き継いだ第2代日本布教長のコスメ・デ・トルレス(Cosme de Torres)神父も領主の大内義長から最初の教会堂となる大道寺(現在の山口県山口市金古曽町周辺)創建の許可を得ていました。

この日は、大殿地区(現在の山口県山口市大殿大路周辺)に仮住まいとして造られた司祭館で行われた様で、ミサの前夜(クリスマス・イヴですね!)から領内のキリスト教徒たちを招いて、聖書を読み聞かせ、賛美歌を歌い、夜を徹して催され、教会の外には中に入りきれない程の教徒たちで賑わったと記録されています。

また、この時に唄われたミサが「日本で披露されたヨーロッパの声楽としては最古のもの」(『クリスマス』※4)として日本における西洋音楽の発祥と云われています。

※1 『弥蘇会士日本通信』
→『耶蘇会士日本通信』(『異国叢書』『続異国叢書』)、『山口県史 史料編 中世1』1016頁、『山口県史料』史料編 上)386〜387頁

※2 『日本史』(※2)
1)ルイス・フロイス『完訳フロイス日本史』第6巻 大友宗麟篇T ザビエルの来日と初期の布教活動(松田毅一・川崎桃太訳、中央公論新社)第七章(第一部八章)85〜86頁

2)ルイス・フロイス『完訳フロイス日本史』第6巻 大友宗麟篇T ザビエルの来日と初期の布教活動(松田毅一・川崎桃太訳、中央公論新社)第八章(第一部九章)94頁

※3 フランシスコ・ザビエル
(参照)「鹿児島に漂流した一人の外国人 Francisco de Xavier について」→

※4 「日本で披露されたヨーロッパの声楽としては最古のもの」
→クラウス・クラハト、克美・タテノ=クラハト『クリスマス』、角川書店)


― ◇ ◇ ◇ ―

そんなクリスマスに欠かせないのがクリスマスツリー (Christmas Tree) ですよね。

日本で最初にクリスマスツリーが飾られたのは、実は幕末の万延元年(1860)の事でした。

そもそもクリスマスツリーって、どういう意味合いがあったのでしょう?

クリスマスツリーには、『旧約聖書』の「創世記」にて、アダムとイブが食べては行けいない木の実がある知恵の樹を模したものだとされます。

8世紀頃、フランク王国にキリスト教を伝えた聖ボニファティウス(Bonifatius)という宣教師が古代ゲルマン民族の風習を採り入れ、もみの木にキリストへの捧げ物を吊るす事を始めました。(「トールのオーク」伝説)

その後、1419年にはちゃんと飾り付けがなされたツリーが、エルザス(Elsass)地方のフライブルク(Freiburg)のパン職人たちの信心会により聖霊救貧院に飾った行為がクリスマスツリークリスマスに飾る最初だとされています。

以降、こうしたツリーが次第に伝播していき、

1600年代にはドイツ連邦各地に、さらにイギリスには18世紀の中頃にメクレンブルク=シュトレーリッツ大公国からジョージ3世に嫁いだシャーロット王妃(ソフィア・シャーロット・オブ・メクレンバーグ=ストレリッツ、Sophia Charlotte of Mecklenburg-Strelitz)が持ち込んだのが始まりとされ、アメリカには1746年、ドイツ移民によってもたらされます。それからもベルリン(プロイセン王国)には1800年頃、デンマークやノルウエーには1830年頃と伝播してゆきます。

フランスでは1840年に、オルレアン公フェルディナン・フィリップ(フェルディナン・フィリップ・ドルレアン、Ferdinand Philippe d'Orléans)に嫁いだメクレンブルク=シュヴェリーン大公国のヘレーネ・ツー・メクレンブルク=シュヴェリーン(Helene zu Mecklemburg-Schwerin)が嫁ぎ先でツリーを飾ったのが最初だとか―

イギリスに最終的に伝播するきっかけとなったのが、1841年にドイツ連邦ザクセン諸公国の1つ、ザクセン=コーブルク=ゴータ家からヴィクトリア女王の王配となったアルバート公が生まれたばかりの王子へのプレゼントとして、ウィンザー城でツリーを飾り付けたのが始まりで、1848年には、小さなクリスマスツリーにロイヤルファミリーが集まった絵がロンドンの新聞に載った事で、大きな反響を呼び、国中に広がる事となるのです。

― ◇ ◇ ◇ ―

そんなクリスマスツリーが日本で最初に飾られたきっかけは何だったのでしょう!

時は、江戸時代幕末期にあたる万延元年(1860)のお話。

場所は?というと、安政6年(1859)に芝赤羽橋付近(現在の東京都港区東麻布周辺)に建てられた通称“異人旅館”外国人接遇所(※5)の敷地内で催されたのではないかと云われています。

恐らくは、プロイセン東洋遠征艦隊と共に、万延元年(1860)9月に日本へ到着したプロイセンの外交官・フリードリヒ・アルブレヒト・オイレンブルク(Friedrich,Albrecht Graf Eulenburg)が主賓のパーティーではなかったか、というのが考えられます。

すなわち、オイレンブルクが各国の外交官を集めて、クリスマスパーティーを開くのにあたり、江戸町中の植木屋を探し回り、杉や竹、椿の木などを使って樅の木に似せます。その背丈は何と天上に届かんばかり…木にはオレンジや梨、砂糖菓子や蝋燭ろうそくなどを吊ったクリスマスツリーを飾ったのだそうですよ。

※5 通称“異人旅館”外国人接遇所=赤羽接遇所
安政6年(1859)8月に講武所付属調練所であった場所に外国人宿泊施設として建てられた。敷地面積は2856坪。
プロイセンの使節オイレンブルグが万延元年(1860)7月に来日直後ここを宿舎とし、12月14日に日普修交通商条約が調印された場所でもある


― ◇ ◇ ◇ ―

PS.
このオイレンブルクが万延元年(1860)9月に江戸の町に飾ったクリスマスツリーよりも2年早い安政6年(1858)12月、箱館(函館)の町にクリスマスツリーが建てられたという新情報を得ました。

(関連)日本で最初に飾られたクリスマスツリーは函館だった!→

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(関連)“戦場のメリークリスマス”―戦国時代のクリスマス休戦→

posted by 御堂 at 06:44 | Comment(4) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

「大名」

「大名」、あるいは大名領主とは、

(1)大名主みょうしゅ、すなわち多くの名田みょうでんを持つ者
(2)大いに勢力をふるう者(家)

などの事を指し、そこから転じて、多くの所領や部下を所有する者(家)を意味する用語となったようです。

室町時代中期に成立した用字集・国語辞典である節用集せつようしゅうには、

大 名  タイメイーー守護
 タイミョウ  ーー銭持

の様に「たいめい」「だいみょう」の2つの読み方を載せており、前者の用例として「大名守護(=大領主)」、後者の用例として「大名銭持(=富裕層)」を当てて説明しています。

江戸時代初頭に日本イエズス会の神父たちによって編纂された日葡にっぽ辞書』では『節用集』の様に「だいみょう」「たいめい」の2つが併記されていますが、語意は2つとも「大領主」としています。

「だいみょう」という呼び方に定着したのは江戸時代中期以降で、寛政年間(1789〜1801)には「だいみょう」と定着化したのだとか―

※因みに、私は大名田堵たと荘園領主制での田地経営を行った有力百姓層。田刀、田頭とも云う)から来た用語と思ってました…

― ◇ ◇ ◇ ―

さて、江戸時代以降、幕藩体制下における「大名」はその定義として、主に1万石以上の所領を幕府から宛行あてがわれた者を指していますよね。

確かに寛永12年(1635)に発令された「武家諸法度」(寛永令)の条文の記載された文言には、

「大名・小名」
「諸国主并領主等」
「国主・城主・壱万石以上」
などの記載がみられます。

ところが、それ以前の慶長20年(1615)に発令された武家諸法度(元和令)では、

「国々の大名、小名并びに諸給人」
「諸大名参勤作法の事…百万石 以下二拾万石以上…十万石以下」
という文言が用いられており、しかも、「大名」「小名」

「百万石以下二拾万石以上」
「十万石以下」
の様に10万石の領有で区分されていたようです。

すなわち、「大名=1万石以上」という区分が幕府によって示されたのは寛永12年(1635)の「武家諸法度」(寛永令)が始まりであって、それ以前に「1万石以上」の区分は存在せず、「10万石」という一定の区分観念が存在したんですね。

前田家島津家の様な大身の国持大名を含め、幕府は「1万石以上」の中小大名領主がそれこそ外様・譜代の別に関わりなく一律に位置付けられた訳です。

寛永12年(1635)を境として、幕府の大名編成の有り様が大きな変革をもたらしたのは何だったのか気になる所ですね!

― ◇ ◇ ◇ ―

  • 三宅正浩「近世初期譜代大名論」(『日本史研究』575)

  • 笠谷和比古「国持大名論考」(『古代・中世の政治と文化』思文閣出版)
― ◇ ◇ ◇ ―

※(参照)家格―「国持」大名の身分格式→
※(参照)主君「押込」→

posted by 御堂 at 03:22 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

(トピックス)上杉景勝と直江兼続主従の銅像=「天地人像」が上杉神社で除幕!

『天地人』原作者の火坂雅志さん(右)と上杉家現当主の上杉邦憲さん(左)

出羽米沢藩初代藩主上杉景勝とその重臣・直江兼続銅像建立を目指していた「上杉景勝公・直江兼続公主従の銅像」建立実行委員会は、山形県米沢市の上杉神社に建立する上杉景勝と直江兼続の銅像の制作を計画しているとか―

原型制作は福島大学人間発達文化学類教授で彫刻家の新井浩さんが担当。制作費は1900万円。大河ドラマ「天地人」の放送によって全国に示された景勝・兼続主従の強い絆や、上杉家に継承されてきた義と愛の精神を後世に伝えていく、というのが狙いの模様。

新井浩さんが描いた景勝・兼続主従の銅像の原画

実行委員会事務局によると、新井さんは「戦乱ではなく国造りに携わった米沢での平和な時代を表現したいとの意図で、慶長6年(1601)に会津から米沢に国替えの道中、今後の国造りを相談する2人を描きたい」そうで、英雄としてよりは、悩みながらも前向きに生きる等身大の姿を表現したのだとか―

新井浩さんが制作している景勝・兼続主従の銅像の粘土原型

景勝・兼続主従が並び立つ構図で、兼続は象徴となった「愛」の前立ての兜を左腕に抱える。銅像は約180cmで、台座を含めた高さは280cmになる予定。

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上杉神社に建立された「天地人」像

上杉神社(山形県米沢市)境内で米沢藩初代藩主・上杉景勝とその重臣・直江兼続をモデルにした「天地人像」の除幕式が行われました。

除幕式には原作である『天地人』の作者・火坂雅志さんや上杉家現当主の上杉邦憲さんが出席され、「天地人」像の建立を祝されました。

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※(参照)NHK大河ドラマ「天地人」→


      

posted by 御堂 at 21:34 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

聞こえなかった原爆―被爆ろう者の叫びを聴いてあげて!


昭和20年(1945)8月6日午前8時15分、広島に原爆が投下され、広島の街は未曾有の被害を受けました。

あれから65年の歳月が流れようとしています。

“ピカドン”と呼ばれた新型爆弾=原爆は、瞬時にして新兵器の威力と悲惨さを世界中に知らしめます。

しかし―

その凄まじい“ドン”という音が、聞こえなかった人たちがいます―被爆ろう者の人たちです。

その人たちは終戦後も情報から遮断されて、長い間、自分の身に生じた事を理解できなかったのです。

正確な実態数は把握されていませんが、約140人(「被爆ろう者を偲ぶ会」調査)に上るそうです。そのうち、91人が亡くなられ、現在は50人足らずになってしまったようです。

ろう者の方々にとっては、音もなく、まさに静寂の中に映った光景だが、それ故にその目には鮮明に想像を絶する惨劇が刻まれたに違いない。そして、その体験を言葉で伝えられないもどかしさを抱えながら、戦後を生きて来られたのです。

あるろう者は戦後、『被爆者健康手帳』をもらったが、それでもまだ事態が呑み込めず、知る術もないまま10年間経った頃、完成したばかりの広島平和記念資料館(原爆資料館/平和資料館)原爆の正体と自分は被爆した事を知ったといいます。

― ◇ ◇ ◇ ―

原爆で亡くなったろう者を弔う碑を建てたい」―

広島市内であった高齢ろう者の集いで、親交が深かった男性が後輩の男性に

「ろう者が犠牲になった事実と悲惨さを継承する必要がある」―

と、ゆっくりだけれど熱のこもった手話で語りかけます。その男性は、昭和27年(1952)8月6日の広島平和都市記念碑(原爆死没者慰霊碑)の建立に際し、被爆ろう者の名前も刻んでもらおうと実態調査を図ったのですが、結局実態をつかめずにいたのです。

後輩の男性はその熱意に打たれ、思わず頷いたそうです。

しかし、公式な書類も存在しない状況では、なかなか進展しない日々が続きました。

転機が訪れます―

噂を聞いた手話通訳者の女性から協力の申し出をあったのです。その女性はろう者を両親に持つ人でした。

こうして、連絡や交渉の支援の輪が徐々に広がりをみせて「被爆ろう者を偲ぶ会」が結成される中で、1軒ずつ遺族宅を訪ねては話を聞き、『被爆者健康手帳』を持つ人を探して歩いたという。

聞き取りの中で、情報不足や生活苦、閉ざされた周囲とのコミュニケーション…聴覚障害があるが故、被爆の上に更に重なる苦労を抱えた人が多いという事実を感じたそうです。

また、『被爆者健康手帳』を取りそびれたままの人がいる事実を痛感します。これは、読み書きが苦手で市からの案内に気付かなかったり、証人探しなどを補佐してくれる手話通訳者が身の周りに居なかったりしたためでもありました。(ろう者が就ける職業は限られていて、しかもその多くが低賃金労働だった…)

そうした苦労の甲斐があり、先輩に背中を押された慰霊碑「原爆死没ろう者を偲ぶ碑」は平成15年(2003)8月18日、広島県立広島ろう学校(現、広島県立広島南特別支援学校=広島市中区)の校庭に完成をみたのです。

― ◇ ◇ ◇ ―

聞き取り調査を行っていく中では、手話通訳者の協力が欠かせないのですが、現実問題として手話自体がネックになる事もあるのだとか―

サインのような被爆ろう者の男性(右)の手話を読み取り、友人のろう者の男性(左)が現代手話に組み立て直す。手話通訳者(中)は両方の手話を見て意図を推し量る

例えば、あるろう者が自分が体験し脳裏に焼き付いた惨禍を、手や体、そして目で訴えているのに、現代手話に慣れ親しんでいる手話通訳者には全く通じず「殆んど分からずじまい」な状態なのです。

日本における手話は、嘗ては方言のように地域毎にばらばらでした。それ故に、高齢ろう者には、現代手話が分からない人が多いです。

それで、友人で現代手話も理解できる人にまず通訳してもらい、それを受けて手話通訳者が訳すといった「二段階通訳」の手法が採られるケースも多いようなのです。

しかし、それでも通訳作業が何度か止まってしまう度にろう者の方は「何故、分かってくれないんだ」と言いたげな悲しい表情をするのだとか―

一方で、「手話ができなくても筆談でカバーできると考えた取材者もいるのですが、当時ろう学校に通えなかった人もいるし、ろう学校に通っていても、基本的にろう学校は実践教育なので、読唇や発語といった口話教育が重視していたがために、ろう者の中には読み書きが苦手な方が多く、筆談での取材はあの日の記憶を十分に伝える事ができないでいるのです。

― ◇ ◇ ◇ ―

ろう者の体験は、聴覚障害があるが故に閉ざされた周囲とのコミュニケーションの壁に阻まれ、僅かな記録しか残されていないのが現実です。

被爆から65年という歳月が過ぎ、ろう者自身も高齢化が進んできています。

そこで、「いま話しておかないと、もう機会はない」と、当初は重かった手を雄弁に動かしてくれるろう者の方々や、戦争を知らない世代に対して、ろう者の被爆体験を記録に留めようとする動きが芽生えてきています。

手話劇のけいこ風景。「原爆の怖さを伝えたい」と、見やすい手話と演技を工夫している

広島市内のろう者と手話サークルによる手話劇「広島に生きて」は、ろう者である男性が「被爆体験を演技で継承しよう」と、自らの取材を基にシナリオを書き上げたものです。

大阪から息子2人を連れて広島市内の実家へ帰省していた女性が、原爆で母親と息子の3人を失うというストーリーで、約10年前に被爆ろう者の女性から聞き取った話をベースに作られました。

この男性は15年程前、被爆ろう者の体験談を初めて聞いた際に自分が原爆について何も知らない事にショックを受け、広島平和記念資料館(原爆資料館/平和資料館)の展示にも、ろう者の記録が少ない事に気付き、独自に被爆ろう者の取材を始めたそうです。

手話劇を思い付いたのは、取材した方も次々と亡くなられる中で、貴重な体験が風化してしまう恐れがあると考えたからで、原爆や戦争を知らない世代でも悲しみや思いを疑似体験する事ができると考えたそうです。

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参照)デフサトウエンタープライズ社被爆ろう者を撮った広島原爆の証言を手話DVD化した『ヒロシマ〜被爆ろう者の証言〜』を8月21日に発売するそうですよ。

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参照)昭和20年8月、ヒロシマ 夏服の少女たちが綴った日記帳→
※(参照)禎子ちゃんの想い―クミコ♪INORI〜祈り〜→


 

posted by 御堂 at 04:54 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

1945年8月15日

今年も「8月15日」を迎えました。あの年から数えて65年目の歳月が経った訳ですが、毎年の事、この日には戦没者追悼式が催されています。

そして私たちは現在、この日を「終戦記念日」あるいは「敗戦記念日」として刻みこんでいる訳です。

昭和20年(1945)8月を振り返ってみると、

8月6日午前8時15分 広島に原爆投下される

8月8日午後11時 ソ連外相、駐ソ日本大使に9日午前0時をもって宣戦布告する事を通告

8月9日午前0時 ソ連、対日参戦し、満州・朝鮮に侵攻開始

8月9日午前10時半〜 最高戦争指導会議構成員会議(結論出ず)

8月9日午前11時02分 長崎に原爆投下される

8月9日午後2時半〜10時半 閣議(結論出ず)

8月9日午後11時50分〜10日午前2時20分 御前会議(条件付き、すなわち国体護持=天皇制存続でポツダム宣言=1945年7月26日の米英華三国宣言=受諾をするという昭和天皇の聖断が下される)

→国体護持=天皇制存続という条件を除き、全日本国軍隊の無条件降伏でポツダム宣言受諾

8月10日午前4時〜 閣議(条件付きでのポツダム宣言受諾を日本政府として正式に決定)

8月10日午前6時45分 外務省より利益代表国であるスイス及びスウェーデン政府宛ての通告文をスイス公使及びスウェーデン公使に打電

8月10日夜 海外に対して同盟通信と放送局を通じて、通告文の内容が放送される

8月11日 ソ連軍、南樺太に侵攻開始

8月12日午前0時15分 サンフランシスコ放送(ザカライアス放送)を通じて、バーンズ・アメリカ国務長官の正式回答(「バーンズ回答」)を放送

8月12日午前0時45分 サンフランシスコ放送(ザカライアス放送)が流した正式回答(「バーンズ回答」)を外務省・同盟通信・陸海軍海外放送受信所がそれぞれ受信

→国体護持=天皇制存続という条件付き受諾を決定していたが、「天皇および日本政府は連合国司令官にsubject to」するとの回答の「subject to」の解釈を巡り、「隷属」と解釈する陸軍と「制限下に置かれる」と解釈する外務省の間で対立し、陸軍側が態度を硬化

8月12日午後6時40分 アメリカがスイス経由で伝えた正式回答(「バーンズ回答」)が日本政府に届く(天皇制存続は明言せず)

8月12日午後3時〜 臨時閣議(宣言受諾か再照会かを巡る対立で、結論出ず)

8月13日午前8時半〜午後3時 最高戦争指導会議構成員会議(結論出ず)

8月13日午後4時〜 閣議(結論出ず)

8月14日午前10時50分〜正午 御前会議(昭和天皇の2度目の聖断が下り、ポツダム宣言の受諾が確定)

8月14日午後11時 ポツダム宣言受諾の詔書発布と同時に、外務省はスイス及びスウェーデン公使に向けて、宣言受諾を打電

8月14日午後6時(ワシントン時間) スイス政府から正式な日本政府の回答が伝達される

8月14日午後7時(ワシントン時間) トルーマン・アメリカ大統領により日本がポツダム宣言を受諾した事を発表される

8月14日、大東亜省は暗号第716号において、居留民の現地定着、すなわち民間人の切り捨てを指示=朝鮮人および台湾人の生命や財産の保護責任を一切放棄→大日本帝国の自己否定

8月15日正午 (日本人のみに対する)玉音放送

◆切り捨てられた地域では依然として戦闘状態が続いていた

8月16日 中華民国南京政府(汪兆銘臨時政府)解消

8月17日午後11時半頃 占守島対岸のカムチャッカ半島ロパトカ美咲付近からソ連軍の砲撃が開始される

8月18日午前2時半頃 ソ連軍が占守島に上陸(〜21日の停戦まで続く)

8月18日 満州国皇帝・愛新覚羅溥儀、退位宣言

8月18日 自由インド仮政府、チャンドラ・ボース国家主席の事故死により自然解消

8月19日 蒙古自治邦政府(デムチュクドンロブ=徳王=主席)解消

8月25日 ソ連軍が松輪島に上陸し占領

8月25日 ソ連軍が樺太全土を占領

8月28日 ソ連軍が択捉島に上陸し占領

8月29日 ソ連軍が得撫島に上陸し占領

9月1日 ソ連軍が国後島に上陸し占領、同日、色丹島に上陸し占領

9月2日 米戦艦ミズーリ号艦上で休戦協定(降伏文書)調印式が行われる(=対日戦勝記念日)

9月5日 ソ連軍が歯舞諸島を占領し、千島全島の占領完了

9月6日 トルーマン・アメリカ大統領よりマッカーサー連合国軍最高司令官(General Headquarters,the Supreme Commander for the Allied Powers:GHQ/SCAP)へ通達があり、「天皇及び日本政府の国家統治の権限は、連合国最高司令官としての貴官に従属する」とポツダム宣言及び降伏文書無効を暗黙の了解とした

9月9日 京城で朝鮮総督府降伏文書調印

9月9日 南京で降伏文書調印

10月25日 台湾総督府の行政権委譲

さて、日本政府がポツダム宣言受諾を決定したのが8月10日、それが玉音放送で日本人に伝わったのが8月15日なのですが、この5日間は一体何のための5日間なのでしょうか?

戦後作家となった大岡昇平氏は、フィリピンのミンドロ島サンホセで米軍の捕虜となり、レイテ島タクロバンの俘虜病院に収容されていましやが、8月10日の夜に、アメリカ艦隊の汽笛と曳光えいこう弾が飛び散る中でアメリカ軍の将兵たちが大騒ぎをし、台湾人捕虜もブリキを叩きながら喜びを爆発させる姿を垣間見て、日本の敗戦を感じ取ったと云います。それ故に、この日から14日までの4日間の日本政府の優柔不断さに対する憤りを感じ、「日本降伏の日附は八月十五日ではなく、八月十日であった」と述べています。

ましてや、この5日間の間にも、

  • 昭和20年8月10日 花巻(岩手県花巻市)空襲

  • 昭和20年8月10日 第二次熊本(熊本県熊本市、宇土、水俣)空襲

  • 昭和20年8月11日 久留米(福岡県久留米市)空襲

  • 昭和20年8月13日 長野(長野県長野市、上田市)空襲

  • 昭和20年8月13日 大月(山梨県大月市)空襲

  • 昭和20年8月14日 伊勢崎(群馬県伊勢崎市)空襲

  • 昭和20年8月14日 熊谷(埼玉県熊谷市)空襲

  • 昭和20年8月14日 大阪陸軍造兵廠(大阪府大阪市)爆撃

  • 昭和20年8月14日 京橋(大阪府大阪市)大空襲

  • 昭和20年8月14日 岩国(山口県岩国市)大空襲

  • 昭和20年8月14日 光海軍工廠(山口県光市)爆撃

  • 昭和20年8月15日 小田原(神奈川県小田原市)空襲

  • 昭和20年8月15日 土崎(秋田県秋田市)大空襲…最後の空襲
といった具合に、これらの都市や軍事施設が空襲の被害に遭っているのです。たくさんの尊い生命が無駄に奪われていった訳です。これも全て、日本の支配層らの曖昧さ・優柔不断さが招いたであろうおよそ馬鹿げた戦争被害といえないでしょうか。

この中で、熊谷空襲に出撃した元アメリカ軍パイロットは、

われわれは攻撃目標に向かっているのに、ニューヨークでは対日戦勝を祝っている
と、日本への出撃前にラジオから流れてきた戦勝を祝うニュースを聴いていたそうです。

そして、向かいながら、攻撃を中止し引き返すための暗号が発せられるはずだと神経を尖らせていたが、ついに暗号が出される事はなかったのだと述懐されています。(「爆撃中止の指令、願ったが 熊谷空襲の元米兵」『東京新聞』平成22年=2010=8月10日付夕刊)

― ◇ ◇ ◇ ―

※(関連)昭和20年8月、樺太の悲劇―その2 ドラマ「天北原野」と三船殉難事件→
※(関連)昭和20年8月、樺太の悲劇―その1 映画「樺太一九四五年夏 氷雪の門」と真岡郵便電信局事件(1)→
※(関連)北方四島の話→


 

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まだ“戦後”は終わっていない!―外地からの引揚者への保管紙幣返還業務

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“もはや戦後ではない”

昭和31年(1956)に中野好夫氏『文藝春秋』2月号に発表した評論「もはや『戦後』ではない」から始まり、同じ年の7月に出された経済企画庁編纂の逐次刊行物『年次経済報告』(別称として、『経済白書』)のサブタイトルに使用され、この年の流行語にもなったフレーズですね。

ところで、こんなニュースを観ました!

返還待つ紙幣、終戦記念日を前に虫干し(『読売新聞』平成22年8月5日)
といった見出しのニュースなのですが―

内容は、神戸税関(神戸市中央区)の職員が戦後の混乱期に海外から引き揚げてきた際に、 軍人や民間人など外地から引き揚げて来られた方々から預かった紙幣や証券類などを虫干ししている様子が映し出されていました。

この作業は持ち主や遺族に対し、引き取りを呼び掛けるために毎年8月に実施されているのだとか―

  • 終戦後、外地から引き揚げて来られた方々が、上陸地の税関か海運局に預けられた通貨・証券(※1)など

  • 外地の終結地において、在外公館や日本人自治会などに預けられた通貨や証券などのうち、その後日本に送還されたもの

※1
  • 通貨=旧日本銀行券、中華民国紙幣、満州中央銀行券、旧ソ連紙幣

  • 証券類=日本国債(大東亜戦争特別国庫債券、割増金付勧業債券、復興貯蓄債券、その他の債券)、預貯金証書通帳、生命保険証書

― ◇ ◇ ◇ ―

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終戦直後、海外資産は連合国軍総司令部(GHQ/SCAP)の指示により、流通紙幣の量を抑える事でインフレを防止しようとした政策が採られ、一定額を超える所持金の持ち込みが制限されました。

(例1)昭和20年10月13日付「上陸地における引揚邦人の持帰り金等規制に関する件」(大蔵省)
(例2)昭和20年10月24日付「引揚者の国内持込資金の件」(GHQ覚書)

→持帰り金の交換・限度額・場所・交換比率等が規定され、日本銀行券、朝鮮銀行券、台湾銀行券、満州中央銀行券で、1人当たりの持帰り金は一般邦人・軍属が1000円、軍人の将校は500円、下士官以下200円の制限つきで交換可、その他の貴金属、残金額については領収書を発行して受け取り、後日為替清算をすると定められたのです。

その基準額として、200〜1000円しか持ち込む事ができず、超過した現金などを引き揚げ者から預かったのだそうです。

ちなみに、神戸税関は神戸港と呉港(広島県呉市)、大竹港(同県大竹市)、宇品港(広島県)に帰国した約3万5000人から預かった現金や軍票、預金通帳、株券など有価証券など約15万5000点を保管している。その大半は、現在では無効な軍票や旧銀行券などですが、100円札などの高額紙幣も混じっているそうです。

昭和28年(1953)8月31日、外国為替及び外国貿易管理法の改正により、通貨・証券等の輸入禁止が解除され、翌日の9月1日から返還業務が始まっていますが、これまでに67%ほどしか返還されておらず、今なお多くの方々の通貨や証券等が保管されたままになっています。 また、年々問い合わせも減って来ているとの事―

返還の際には、税関が発行した「預かり証」が必要なのですが、「預かり証」がなくても引き揚げの事実や所有者との関係が証明できれば、本人でなく家族でも返還請求をする事ができるそうです。

神戸税関以外に―

大阪税関では、これまでに約2万2000人分(約6万6000件)が引き取られましたが、まだ約6割の持ち主が見つかっていません。

横浜税関では、昭和28年(1953)の返還業務開始以降、約5万人に返還されましたが、まだ約13万人分が残っているそうです。

長崎税関では、10万6000人分(16万4000件)を預かったうち、今も6万1000人分(9万1000件)がまだ保管されています。

門司税関では、2万7820人から8万2541点を預かったが、6591人分20849件が未返還な状態だとか…

大阪税関の職員は「苦労して日本に持ち帰った汗と涙の結晶。少しでも持ち主や家族にお返ししたい」と言っておられますよ。

― ◇ ◇ ◇ ―

ところで、この逆のケースが、日本に強制移住させられた朝鮮民族の方々です。

実は終戦当時、日本には200万人近くの朝鮮民族が住んでいましたが、昭和20年(1945)暮れ頃から大掛かりな送還が促進される事になりました。

ところが、次第に朝鮮民族の帰国希望者が減少していきます。連合国軍総司令部(GHQ/SCAP)は送還の中止に傾きますが、日本政府はなんとかもっと送還したいと訴えます。

平成12年(2000)に公開された資料によって、朝鮮民族送還の様子が明らかにされたのですが、連合国軍総司令部(GHQ/SCAP)帰還担当のハウエル大佐と厚生省関係者の会話の中で、なかなか帰国しようとしない朝鮮民族に対して、厚生省側は「持参金の増額」か「強制送還」を認めてくれるように懇願したが、聞き入れてもらえず、結果として朝鮮民族の送還は中止する事が決定したのです。(日本としては可能な限り多くの朝鮮民族に送還してもらいたかったようですが…)(1946年3月「朝鮮人送還問題に関する連合司令部との会談」、平成12年(2000)12月20日付『朝日新聞』より)

その結局、朝鮮民族の送還は翌21年(1946)末まで続けられたものの希望者が増える事もなく、送還したのは約98万人で、約60万人が日本残留を選んだそうです。(「朝鮮人帰還輸送終了の件」(昭和21年=1946=12月)

ここで、朝鮮民族の方々が送還するにあたり、ネックとなったのが上記の持ち帰り金200〜1000円という取り決めだったわけですね。

こうした返還業務の未処理な状態を見るにつけ、いまだ戦後補償=すなわちまだ“戦後”は終わっていないのだと痛感せざるを得ません!

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参考)金太基『戦後日本政治と在日朝鮮人問題』(勁草書房)

posted by 御堂 at 02:50 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

戦時下の日本に存在した「非戦闘地区」箱根

「非戦闘地区」―現在、自衛隊の国際貢献活動云々で問題視される場合に屡々登場する用語ですね。

意味的には「直接武力攻撃を受けない地域」という事になります。

ここでは自衛隊云々の話ではなく、第二次世界大戦下の日本において、唯一(?)「非戦闘地区」だった場所が存在した事を述べていきましょう!

― ◇ ◇ ◇ ―

神奈川県の西部、箱根峠の東側に位置する足柄下郡箱根町は戦時中、B29が上空を通過するだけで一度も爆撃や空襲を受けませんでした。

昭和19年(1944)5月頃、箱根には、日本にとっての利益代表国でもある永世中立国のスイス、武装中立国のスウェーデン、政治的に中立の立場を採るヴァチカンの人たちが在住していた事もあって、 「政府はわが国の利益代表団であるスイスを通じて敵国側に対し『箱根地区を非戦闘地区に指定する』旨通知し」(『神奈川県警察史』中巻、776頁)ていたのです。

実際に、小田原や熱海などは頻繁に米陸海軍機の空襲を受けているにも関わらず、箱根は全く焼夷弾1つ落とされた形跡もなかったりします。

国立公文書館の資料によると、「ソ連大使館」が富士屋ホテルを借り切っていたり、ハンガリーやイタリア、中華民国、ドイツ、満州国、フィリピン、シャム(現、タイ)、ビルマ(現、ミャンマー)などの外交官たちも、強羅ごうらホテルや奈良屋旅館(Naraya Hotel)などに滞在していたそうです。

この時期に箱根に滞在していた外国人は、他にインド、フィリピン、アメリカ、イギリス、ルクセンブルグ、ポーランド、オランダ、オーストラリア、ノルウェー、デンマーク、スウェーデン、ポルトガル、ヴァチカン、スペインと多岐にわたり、その数は約30か国1360名にのぼります。

もちろん、これだけ多くの外国人が集まって来たのは、箱根が「非戦闘地区」である事を駐日大使館辺りから聞き及んでいたからに違いありませんね。

ところが―

一方で、この事実はほとんどの国民には知らされていませんでした。事実を知っていたのは、政府および陸海軍と警察の関係者だけだったのです。

当時、箱根の麓にあった敵性外国人収容所「神奈川第一抑留所」(現、南足柄市)勤務の巡査は次のように述懐しています―

戦争中に宮城野(箱根町)にいたスイスの利益代表者のケルンさんという人を通して収容所あたりを爆撃しないようにと、安全地帯になっていたんです(『戦時下の箱根』)

しかし、昭和20年(1945)7月になると、箱根にも本土決戦用の砲台などが構築され出します。

戦況がもっと長期化していたら、例え「非戦闘地区」に指定していても、戦災に遭っていたかもしれませんね!

― ◇ ◇ ◇ ―

※(関連)「硬骨の人」(『眠い人の植民地日記』)→

※(参照)古川愛哲『「八月十五日」は終戦記念日ではなかった』(ベスト新書293)
※(参照)小宮まゆみ「太平洋戦争下の『敵国人』抑留:日本国内に在住した英米系外国人の抑留について」(『お茶の水史学』43)

posted by 御堂 at 22:21 | Comment(2) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

文部省唱歌100年


  1. 我は海の子白浪しらなみ
    さわぐいそべの松原に
    煙たなびくとまやこそ
    我がなつかしき住家すみかなれ


  2. 生れてしおにゆあみして
    なみを子守の歌と聞き
    千里寄せくる海の
    吸いてわらべとなりにけり


  3. 高く鼻つくいその
    不断ふだんの花のかおりあり
    なぎさの松に吹く風を
    いみじきがくと我は聞く
小学校で習った楽曲って、今でも自然に口遊くちずさめるものが多いですよね。

ましてや、それらの楽曲は題名からピンと来なくても、歌詞を見れば自然とメロディがすぐイメージできちゃうって感じなものが多い気がします。

『京都新聞』平成22年(2010)7月14日付朝刊に掲載された「凡語」を読んで知ったのですが、私たちに馴染み深い楽曲の数々、すなわち文部省唱歌が明治43年(1910)7月14日に誕生して、今年で100年を迎えたそうです。

文部省唱歌とは、明治43年(1910)から昭和19年(1944)に至る期間に文部省が編纂した、尋常小学校高等小学校および国民学校唱歌、芸能科音楽の教科書(下記参照)に掲載された楽曲の総称である。(なお、1900年代までの翻訳唱歌―例えば「蝶々」「庭の千草」「旅泊」「蛍(蛍の光)」など)は文部省唱歌に含まれていません)。

  • 尋常じんじょう小学読本とくほん唱歌しょうか』=明治43年(1910)

  • 『尋常小学唱歌』=明治44年(1911)〜大正3年(1914)

  • 『高等小学唱歌』=昭和5年(1930)

  • 『新訂尋常小学唱歌』(第1学年用〜第6学年用)=昭和7年(1932)

  • 『新訂高等小学唱歌』(男子用・女子用)(第1学年用〜第3学年用)』=昭和10年1935)

  • 『ウタノホン』上、『うたのほん』下(国民学校初等科1、2年生)=昭和16年(1941)

  • 『初等科音楽1〜4』(国民学校初等科3〜6年生)=昭和17年(1942)〜昭和18年(1943)

  • 『高等科音楽1』(男子用・女子用)=昭和19年(1944)


楽曲の全てが日本人による新作ですが、当時は作詞者・作曲者の名は匿名とされていたので、戦後になってこう呼ばれるようになったのです。

まず最初に誕生したのが、『尋常小学読本唱歌』というもので、明治43年(1910)に文部省が初めて編集した尋常小学校向けの唱歌(教科)の教科書になります。

当時の国語読本『尋常小学読本』の韻文教材27首(下記参照)が選ばれて曲がつけられたためこのような名称が付けられました。

収録された全曲については、『尋常小学読本唱歌』と並行して文部省が編纂した『尋常小学唱歌』に改めて再録され、『新訂尋常小学唱歌』国民学校期に編纂された芸能科音楽教科書『ウタノホン(うたのほん)』へも移行され、さらには戦後の検定教科書への移行の際も引き続き収録され続け、現在に至っています。

『尋常小学読本唱歌』に掲載された文部省唱歌
  • カラス(烏)

  • ツキ(月)

  • タコノウタ(紙鳶の歌)

  • こうま(小馬)

  • かへるとくも(蛙と蜘蛛)

  • ふじの山(富士山)

  • とけいのうた(時計の歌)

  • 母の心

  • 春が來た

  • 蟲のこゑ(虫の声)

  • 日本の國

  • かぞへ歌

  • ゐなかの四季(田舎の四季)

  • 家の紋

  • 何事も精神

  • たけがり

  • 近江八景

  • 舞へや歌へや

  • 三才女

  • 水師營の會見(水師営の会見)

  • われは海の子(我は海の子)

  • 出征兵士を送る

  • 同胞こゝに五千萬

  • 鎌倉

  • 國産の歌

  • 卒業

  • アサガホ(朝顔)


現在の『小学校学習指導要領』によれば、
○第1学年
  • うみ(文部省唱歌)

  • かたつむり(文部省唱歌)

  • 日のまる(文部省唱歌)

  • ひらいたひらいた(わらべうた)
○第2学年
  • かくれんぼ(文部省唱歌)

  • 春がきた(文部省唱歌)

  • 虫のこえ(文部省唱歌)

  • 夕やけこやけ
○第3学年
  • うさぎ(日本古謡)

  • 茶つみ(文部省唱歌)

  • 春の小川(文部省唱歌)

  • ふじ山(文部省唱歌)
○第4学年
  • さくらさくら(日本古謡)

  • とんび

  • まきばの朝(文部省唱歌)

  • もみじ(文部省唱歌)
○第5学年
  • こいのぼり(文部省唱歌)

  • 子もり歌(日本古謡)

  • スキーの歌(文部省唱歌)

  • 冬げしき(文部省唱歌)
○第6学年
  • 越天楽えてんらく今様いまよう(歌詞は第二節まで)(日本古謡)

  • おぼろ月夜(文部省唱歌)

  • ふるさと(文部省唱歌)

  • われは海の子(歌詞は第三節まで)(文部省唱歌)
このように、文部省唱歌はその大半が100年前に生まれた楽曲だという事がわかります。でも、そうした楽曲は親から子、そして孫に至るまでこれからも歌い継がれていく事でしょうね。

では最後にもう一度、「われは海の子」の歌詞を紹介します!

  1. 我は海の子白浪しらなみ
    さわぐいそべの松原に
    煙たなびくとまやこそ
    我がなつかしき住家すみかなれ


  2. 生れてしおにゆあみして
    なみを子守の歌と聞き
    千里寄せくる海の
    吸いてわらべとなりにけり


  3. 高く鼻つくいその
    不断ふだんの花のかおりあり
    なぎさの松に吹く風を
    いみじきがくと我は聞く


  4. 丈余じょうよのろかいあやつりて
    行手ゆくて定めぬなみまくら
    百尋ももひろ千尋ちひろの海の底
    遊びなれたる庭広し


  5. 幾年いくとせここにきたえたる
    鉄より堅きかいなあり
    吹く塩風に黒みたる
    はだは赤銅しゃくどうさながらに


  6. なみにただよう氷山も
    きたらばきたれ恐れんや
    海まきぐるたつまきも
    おこらばおこおどろかじ


  7. いで大船おおふねに乗出して
    我は拾わん海の富
    いで軍艦に乗組みて
    我はまもらん海の国


posted by 御堂 at 05:40 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

「庄屋不帰依」

『毎日新聞』が掲載している『余禄』にちょっと面白いネタがあったので、軽く調べてみました。

その内容は「余録:選挙の“伝統”」(『毎日新聞』平成21年=2009=8月30日付)というもので、同日に行われた第45回衆議院議員総選挙を前にしてのコラムなのですが、その際にテーマとなったのが江戸時代後期に行使された「庄屋不帰依」という庄屋(村のおさ)のリコール運動についての記載がなされていました。

― ◇ ◇ ◇ ―

「庄屋不帰依」とは、今の言葉でいえば、百姓民による騒擾などで村役人の長である庄屋の罷免を要求する、すなわちリコール運動の事を指します。

江戸時代村請制の下では、村役人が広範囲にわたる権限を委ねられていたために、村役人は自己の判断で事を進める機会が多くみられ、不正な行為をする者が後を絶ちませんでした。

そんな中で、江戸時代後期の文化5年(1808)に河内国古市郡古市村(現、羽曳野市古市)で騒動が生じるのです。

この古市村は南大和から河内に入る吉野街道沿いに立地し、また東高野街道も通っていた点、あるいは大和川と石川の合流点に近い点など−物資輸送の集散地にあたり、要衝の地でした。

この古市村は元来、新検・古検・三郎左衛門方の3株に分かれて、それぞれに庄屋が存在していました。中でも新検・古検は源左衛門という者が庄屋兼帯をしていたようです。

その源左衛門が天明3年(1783)に死去し、その跡役に11歳になる息子の源五郎(定治郎)が就き、親類筋の三郎左衛門と伯父の久左衛門の2人が後見役となりました。

やがて源五郎(定治郎)も自立しますが、11歳の時、病気にかかってしまい、前述の三郎左衛門と共に善左衛門という者が「預かり」という形で庄屋兼帯をする事となったのですが、この2人が共に三郎左衛門株の所有者だった事が話をややこしくさせていきます。

すなわち、この時点で、新検・古検・三郎左衛門方の3株は、全て三郎左衛門株を所有していた三郎左衛門と善左衛門に集約するという「三株兼帯差配」の状態が起きてしまったのです。

そうした事態に新検・古検の百姓村民たちは危機感を募らせ、享和元年(1801)8月、従来からの源左衛門の血筋の者を庄屋にと「源左衛門庄屋見立」の請願を代官所に行います。

ところがこの時、源左衛門を庄屋として「見立」(=選定)する事を承知した者166名に対し、不承知な者であると表明した者が23名いたのです。村内が分裂してしまった訳です。

ましてや、「三株兼帯差配」をしていた三郎左衛門が文化4年(1807)に死去します。三郎左衛門は跡役は息子の政治郎に譲り、その遺言では「預かっていた」庄屋役を源左衛門に差し戻す様に伝えていました。

そうした状況の一切合財が一気に集約し、上記の「庄屋不帰依」という 庄屋のリコールを要求する運動、そして庄屋の選挙が行われたのです。

― ◇ ◇ ◇ ―

その選挙に使用された投票用紙が古市町大字古市の旧家から発見されました。

大小様々な紙に種々の形式で記載されている投票用紙で、その中には「庄屋入札いれふだと書かれたものがあり、一般的に“選挙”はそう呼ばれていたようですね。

共通するのは全てに投票した者の署名捺印がある記名投票である事、またその多くが包紙に包んで、上封に「〆」と捺印して封じられている点でしょう。

※話は脱線しますが―

記名投票を実施するという事は、投票にはある程度の読み書き能力が必要な訳で、各投票者が自分の名前と投票する相手の名前を書ける事が最低条件であって、役人側も村側もそれを前提として投票を実施しています。

という事は、古市村に住む家長たちの全てがその程度の識字能力を有していた事が分かり、それは寺子屋教育の普及と村人たちの教育水準が向上していた事が分かりますね。

それは上述の様に、古市村が物資輸送の集散地にあたり、要衝の地であった、つまり先進地域であった事と関わりますね。
さて、話を戻して―

投票用紙の一部を垣間見ると、

  新検方 古検方 二方儀ハ源左衛門殿へ庄屋仰付成可被下候
                           百姓 善四郎 黒印
    篠山十兵衛様御役所

という記載がなされています。

さて、この宛所あてどころに当たる「篠山十兵衛」という人物ですが、当時大坂代官所に在勤していた篠山十兵衛景義という人物(篠山は寛政5年=1793=5月から文化6年=1809=3月に至る16年間、大坂代官所に勤めていた)と思われます。

― ◇ ◇ ◇ ―

この投票用紙が入れてあった紙袋の表書には、

  新検古検入札
   人数弐百拾弐人
     内
   百九拾人入
   残拾九人他行
    内拾壱人、追入別符、
                             河州古市郡古市村

と記載されていました。これをまとめてみると、

  • 有権者は212人

  • そのうち、190人が在地投票をし、

  • 残る19人は他行中であったが、うち11人は不在投票をした
という事が解りました。

有権者212人については、この投票が行われた文化5年(1808)より少し前の享和元年(1801)の新検・古検の指出帳に人数は922名、家数は227軒が記載されており、この「庄屋入札」の選挙権は貧富の差に関わりなく、家単位で有していたものと考えられます。

その場合、戸主及びその代表者が有資格者であるはずですが、投票者の中には後家の2票も含め、女性の名前が13票もあり、婦人も家を代表して投票できたようです。

― ◇ ◇ ◇ ―

さて、投票された結果をみると、源左衛門という人物を庄屋に希望している者が一番多く、161票を獲得しました。しかも、各集落から万遍のない支持を得ています。

しかし、一方で、源左衛門を希望しない者も40票存在するのです。その1つの例として、

  二方株庄屋之儀、政次郎殿預ケ、年寄弐人後見附、次郎兵衛様・治兵衛様右弐人之内、
                       八左衛門 黒印

というものがあります。これは、政治郎を支持するが、政治郎が未だ幼少のために年寄に後見させるという条件付きの内容です。この種の意見のものが全部で34票あり、しかも、源左衛門の時と同様に各集落に散在しているのです。

これに対して、

  両株共年寄廻役御仰下御願上候、東丁宇兵衛閏(順)まわり庄屋可被成候、
                       清兵衛

のように、特定の人物を決めないで、年番制を提案した見解を示しているのが6票もありました。

とりわけ別包になっていた「追入別符」、すなわち不在者投票の開票状況をみると、

  • 政治郎へ庄屋預け年寄次郎兵衛・治兵衛の後見を支持する者が4票

  • 後見に年寄次郎兵衛・治兵衛と南株年寄善衛門が加わる事を希望する者が1票

  • 次郎兵衛・治兵衛に庄屋を希望する者が3票

  • 源左衛門を支持する者が2名
と源左衛門への支持は少なく、寧ろ不支持を表明した者の方が多かった事が判りますね。

― ◇ ◇ ◇ ―

新検・古検の村民たちは「源左衛門庄屋見立」の請願をした訳ですが、その根幹にあったのは“三株庄屋・年寄年番制”つまり各株の平等化・自立化でした。

そうした思惑の中、源左衛門を庄屋として「見立」(=選定)する事を承知した者166名と、不承知な者23名に分裂してしまいます。

前者は、従来からの庄屋の家柄である源左衛門の再選を見込んで選挙を強行しようと目論む勢力、後者は投票を拒否してでも、源左衛門の再選を阻み、例え当選しても絶対に服従しないと唱えた勢力の争論でした。

この結果、文化5年(1808)8月14日、大坂代官篠山十兵衛より分裂していた源左衛門支持派166名と不支持派23名、及び村役人たちは役所に出頭を命じられ、

  • 源左衛門支持派に対し、「源左衛門を庄屋役にしない」旨を

  • 源左衛門不支持派には庄屋役見立の請願の差し戻しを
それぞれ通達し、「入札無効」の指令が言い渡されたのです。

― ◇ ◇ ◇ ―

以上の様に、古市村の各集落の民たちは入札という手段でもってそれぞれの意見を主張し、それが反映されたから投票に結果が表れたのだ。だから有権者の皆さんも投票に行こう!−と「余録」の執筆者の方は仰りたかったのでしょうけど、現実はそんな甘いもんじゃない!その内実を見れば、主張はしてもダメなものはダメ!という行政判断を見落としていますよね。

※(参考文献)津田秀夫著『近世民衆運動の研究』
※(参考文献)村上直著『江戸時代の代官群像』
※(参考文献)『羽曳野市史』第2巻

posted by 御堂 at 03:23 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

(トピックス)龍馬に寄り添え!お龍さんの座像が完成

お龍の座像

江戸幕末期に活躍した土佐藩士坂本龍馬直柔の妻・お龍(楢崎龍)ブロンズ座像がこの程完成。霊山歴史館(京都市東山区)で報道関係者に披露されました。

― ◇ ◇ ◇ ―

このブロンズ座像(高さ約50cm)は、毎度御馴染、彫刻家の江里敏明さんが同館の依頼を受けて制作。来年度放送のNHK大河ドラマ「龍馬伝」を機に、59歳のお龍を撮影したとされる写真を基に、背筋を伸ばして気丈に座る像を1年かけて完成した。

お龍は医師、楢崎将作の長女として京都に生まれた。龍馬と知り合い、寺田屋龍馬が襲撃を受けた際には危機を知らせたり、薩摩藩邸に駆け込むなど、龍馬の危機を助けた。その縁で龍馬と結婚。

龍馬が暗殺された後は、京都、東京を転々とし、最後は横須賀、といった流転のの人生を送っている。

江里さんは「龍馬と結婚した頃のお龍を、優しくも芯のある京女をイメージして作った」と話されています。

このブロンズ座像は、21日から同館で開かれる秋の特別展「龍馬たちの挑戦」」(〜11月23日)でで一般公開される。

※個人的な意見としては、お龍さんよりも、佐那さんの方が可愛くて愛しいと思ってます…

posted by 御堂 at 19:28 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム