(トピックス)秀吉が築いた「御土居」に地下排水溝 北野天満宮、発掘調査で確認

北野天満宮の本殿北側の御土居で見つかった取水口。暗渠(排水トンネル)が紙屋川側の排水口まで約19m繋がっている

豊臣秀吉が長い戦乱で荒れ果てた京都の都市改造の一環として外敵からの来襲に備える防塁と、鴨川や紙屋川(天神川)の氾濫から市街を守る堤防として天正19年(1591)に多くの経費と労力を費やして京都の市街を囲むように築いた土塁御土居おどい跡(国史跡)のうち、遺構が残っている北野天満宮(京都市上京区)境内で「御土居」を貫通し雨水を川へと流す石組みの排水トンネル(=暗渠あんきょ)の取水口京都市埋蔵文化財研究所の調査で確認されました。

北野天満宮御土居の排水用暗渠(取水口側)。奥に排水口が見える

取水口は本殿の北側にあり、建物に雨水が流れ込まないようにするために流れてくる雨水を土塁を一旦削って造った後、埋め戻したとみられます。

豊臣秀吉が築いた御土居の構造

「御土居」は外敵の侵入や河川の氾濫から京都の市街を守るため、豊臣秀吉が天正19年(1591)閏正月から約2か月程で建設され、高さ約3~5mの盛り土で構築された台形の形状をした土塁と堀(堀の一部は川や池、沼を利用)を併設したもので、その上には竹が植えられていたと云います。(ルイス・フロイスの『日本史』に拠れば「秀吉が御土居に樹木(竹)を植えさせたのは美観のためであった」と書き記しています。秀吉にすれば、美観のための施策でしょうけど、結果的に防水林の役割も果たした事になりますよね)

その範囲はおおよそ北は鷹ヶ峯・紫竹(現在の北区紫竹、加茂川中学校付近)、南は九条通、東は鴨川(現在の寺町通=当時の東京極通=東辺)を、西は紙屋川を自然の堀として代用するように巡っており、五里26町が囲まれ、南北約8・5km、東西約3・5km、総延長約22・5kmに及びます。

結果として、平安京(城)という都城制では実施できなかった(→平安京遷都から10年後の延暦24年〔805〕12月、桓武天皇は平安京の造営を中止していますし…)されなかった「羅城らじょう」という壁で囲まれた都城制が初めて実現したと言えるのかもしれません。

「御土居」の築造に関しては面白い説があり、「洛中の範囲を明らかにするため」というのがあります。

これは『拾遺都名所図会』「洛中惣土堤」の項に『室町殿日記』から引用されているもので、天正18年(1590)頃、秀吉は前田玄以と里村紹巴を召して「洛中の境」を検分するのですが、明瞭な回答が出ませんでした。

そこで秀吉は細川幽斎に平安京(城)の歴史を尋ねると、幽斎は「東は京極迄、北は鴨口、南は九条までを九重の都と号せり。…(中略)…されば内裏は代々少しづつ替ると申せども洛中洛外の境は聊かも違うことなし」と答えます。

秀吉はこれを聴き、「さあらば先ず洛中洛外を定むべし」と諸大名に命じ惣土堤を築かせたと云うんですね。

これにより、「御土居」の内側を洛中、外側を洛外と呼び、要所には七口を設け,洛外との出入口としました。それらは鞍馬口や丹波口などの地名として残っていますね。

しかしながら、洛外との出入口が設けられなかった街道にとっては、「御土居」の存在が生活をする上で邪魔になります。

例えば、祗園社(現在の八坂神社)に通じる四条橋は撤去され、祗園祭の神輿渡御の経路も変更を余儀なくされたり、清水寺への参詣路に位置した五条大橋(現在の松原橋)も移設撤去され、六条坊門通(現在の五条通)の位置に新たに架橋されたりします。

江戸期以降、そうした生活に支障をきたす箇所は徐々に取り除かれ、大正期に入ると京都市の近代的都市計画による住宅開発などに伴い、大半がその姿を消していきます。

調査した京都市埋蔵文化財研究所の調査で確認によると、取水口は大きさは高さ約40cm・幅約60cmで、厚さ約20cmの花崗岩の切り石の板を四方に組み、「御土居」の頂上から約5m下を東西に約19・3mにわたって貫かれ、本殿側の取水口から既に確認されていた土塁の外側、すなわち紙屋川側の排水口まで緩やかに傾斜しながら続いています。

実は取水口の存在は以前から知られており、元禄15年(1702)に描かれた『京都総曲輪ぐるわ御土居絵図』京都大学総合博物館所蔵)に「悪水抜(き)」と図示されて取水口と排水口が描かれていたのです。今回の調査で絵図に描かれた内容が改めて実証された事になりますね。

京都大学の藤井譲治名誉教授は、排水口の石に残る矢穴(石を切り出す際の穴)の形や石材の加工方法から、取水口の設置は「御土居」完成直後から約30年後までの間で、豊臣期か徳川期かはっきりしないが、石の調査を進めれば年代が判る可能性がある」と仰っています。

確かに、「御土居」の付け替えや再利用が確認された東本願寺の別邸・渉成園(枳殻邸きこくてい)などを見ても、寛永18年(1641)から東本願寺の新たな寺内町じないまちの開発や渉成園(枳殻邸)の建造などが始まっている事実を考えた場合に、豊臣期に改築などはもっての外で、むしろ徳川期に設置されたのでは?と思うのですが、どうでしょう!

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「御土居」は築造時、「御土居」とは呼ばれておらず、「京廻堤」「新堤」「洛中惣構え」、その後「土居掘」と定着します。

ところが、江戸期になって「掘」の呼称が消えてしまい、「土居」という語句で呼ばれ出すのが寛永期(1624~44)頃で、「御土居」の名称は近代(明治以降)になって成立したと見られます。

応仁・文明の乱以降、戦国末期にかけては、がまえ、総曲輪、総ぐるわと呼ばれた、中国の城や中世ヨーロッパの都市のごとく、都市全域を堀や城壁で囲む様態が採用されます。

それは城郭だけでなく、中世都市の代表格である環濠都市・堺や織田信長が明智光秀にしいされた旧本能寺(北は六角通、東は西洞院通、南は四条坊門小路(現蛸薬師通)、西は油小路通に囲まれた場所)の惣堀しかり…

戦国末期には後北条氏の拠点、小田原城の惣構は二里半(約9km)に及ぶ空堀と土塁で城下町全体を囲んでいますし、秀吉死去以降の大坂城の惣構も小田原城の惣構同様、周囲二里の長さでした。

このように見ると、小田原城の惣構のように堀と土塁で城下町全体を囲む、すなわち都市全域を堀や城壁で囲む様態こそがセットな訳で、「御土居掘」と称してこそ納得できますね。

最近の研究では、「土居」だけでは堀の部分が含まれない事から、「御土居掘」と呼ぶ事を提唱する動きが見られるようです。

(トピックス)安南国(ヴェトナム)発最古の書簡発見!

京都市内の古書店で見つかった最古の安南国書簡「安南国副都堂福義侯阮書簡」

九州国立博物館(以下、九博安南国(現在のヴェトナム)から日本に送られた最古の書簡が見つかったと発表しました。これまで最古とされてきた徳川家康宛ての書簡を10年さかのぼ天正19年(1591)の日付が記され、当時の日本と安南国の交流を知る貴重な史料との事です。

 安南國副都堂福義侯阮肅書
日本國◯國王座下竊聞信者國之宝誠所當脩前年見陳梁山就本國謂◯國王意好雄象有象壱隻已付陳梁山將囘◯國王其艚小不能載有好香弐株・雨油盖壱柄・象牙壱件・好紵弐匹寄與◯國王以脩好信明年隆巖又到本國謂陳梁山幷財物未見茲有雨油盖壱柄再寄與◯國王爲信◯國王如好本國奇物仍遣隆巖將好劔弐柄・好甲衣壱領就與阮得買奇物寄囘◯國王以通兩國往來交信之義茲書
「□□□□之印」(朱印)
光興十四年閏三月二十一日
「書」(黒印)(花押黒印)

新発見の書簡(「安南国副都堂ふくとどう福義侯ふくぎこうグエン書簡」)は漢字で書かれ、九博が昨年、京都市内の古書店から購入。

縦33・3cm、横34・9cm。日付は「光興14年(=天正19年=1591)うるう3月21日」となっています。

宛所(差出人)は「福義候阮」という、この当時、ヴェトナム北部から中部を実効支配していた広南阮氏のグエンホアンという人物の関係者から「日本国国王」宛てに送られたもので、「昨年、ちん梁山りょうざんという使節に象牙などを託しました。今年来航した(使節の)りゅうげんは陳という人物を知らないというので、改めて珍しい品々を贈ります」と過去に日本から来た国王の使者から剣や甲冑が贈られた経緯を綴り、日本との「往来交信之義」(通交)を求めるため、象牙などを贈るという内容。

九博は、書簡に記された天正19年にあたる安南国の年号「光興」(ヴェトナム後レー朝で使用された元号、1578~1599)と日付にある閏月が当時のヴェトナムの暦と符合する事、「花押」とみられる印章など文書形式が他の安南国の書簡と似ている事、などを確認し、実物と判断したようです。

ただ、「日本国国王」は特定できず、日本からの公式の使者を装った東南アジア交易に従事した日本の商人に渡した可能性が高いとの事。

安南国からの書簡は約20通が確認されていますが、これまでは上述した阮潢が徳川家康に宛てた「安南国元帥瑞国公上書」(慶長6年=1601)が最古とされていました。

九博の藤田励夫・保存修復室長は「1591年当時、既に日本とヴェトナムの間で人の行き来があったことを確実に示す貴重な史料」としながらも、「安南国側は日本と通商したいという安南国の強い意思を感じるが、当時天下人だった豊臣秀吉が安南国と通信した記録はなく、陳梁山や隆巌という人物も知られていない。当時は日本人商人が東南アジアで積極的に交易を展開しており、交易を円滑に進めるため将軍などの使節を詐称する事例があったので、この書簡も安南国からの贈り物を目当てに、日本の国王からの使者を装って来航した商人に安南国側が託した可能性が高い」話されています。

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この時期のヴェトナムは、ちょうど大越国の後期黎朝の時期ですが大越皇帝は実権を失っていて、実質的には北部の東京トンキン(現在のハノイ)に勢力を拠る安南都統使のマク朝やチン氏政権と、南部の順化フエに勢力を拠る広南クァンナム阮氏政権という地方政権が分立する時代でした。

この書簡が送られた翌年の光興15年(1592)、鄭氏政権の鄭トゥンが莫朝の皇帝・莫茂洽マウホップを殺害して莫朝を北東部の一地方政権に追いやり、後期黎朝が再興(中興黎朝)されます。

それを考慮した場合に、安南国側の思惑が単に交易だけだったのかな、という疑問が生じませんか?

もしかすれば、阮氏政権が鄭氏政権打倒のために討った手立てとして優れた武器の輸入を考えていたのかも!という発想もなきにしもあらず…です。

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日本の国王からの使者を装って来航した商人
さて、異国渡海の朱印状は、この書簡が送られた翌年の天正20年(1592)に、豊臣秀吉が長崎の荒木宗太郎、末次平蔵、船本弥平次、糸屋隋右衛門、京都の茶屋四郎次郎、角倉与一、伏見屋、堺の伊勢屋らの豪商たちに授けたのが最初です。

その中で気になるのが、長崎の豪商、荒木宗太郎ですね。元は肥後熊本の武士(一説に肥後国玉名郡高瀬町〔現在の熊本県玉名市高瀬〕に戦国末期に商人としての荒木氏がみられ、宗太郎も当地の人であった可能性があるそうです)でしたが、天正16年(1588)頃、長崎開港と共に長崎に移住し、朱印船の貿易商として暹羅シャム(タイ)や安南地方に数度貿易船を出して活躍した人物です。

宗太郎は、阮氏に深く信頼され、のちに元和5年(1619)には、阮氏の娘、王加久戸売ワカクトメ(王家旧戸梅)(本名は阮氏梅)を妻とします。

宗太郎は阮氏の信頼を得ていたとみられ、阮氏の親族として貴族の待遇を許され、阮太郎と称したと伝えられています。

宗太郎は王加久戸売を長崎に連れて帰りますが、彼女は長崎の町民らにアニオーさんと呼ばれ親しまれそうです。

その豪奢な輿入れの有様は、現在でも長崎くんちでの宗太郎に所縁のある本石灰町の奉納踊り(7年に一度)には帆先に荒木宗太郎とアニオー姫が乗った御朱印船だそうですよ。

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※(参考)蓮田隆志・米谷均「近世日越通交の黎明」(『東南アジア研究』56-2)

新しいパーパ(教皇)はイエズス会派のフランチェスコ1世!

前ローマ教皇であるベネディクトゥス(Benedictus)16世の退位に伴い、“新しいパーパ”(ローマ教皇)を選出するためにヴァチカン(Vaticanæ)で行われていた教皇選出会議「コンクラーヴェ(Conclave)」で、アルゼンチン・ブエノスアイレス(Buenos Aires)出身でブエノスアイレス大司教であるホルヘ・マリオ・ベルゴリオ(Jorge Mario Bergoglio)枢機卿が第266代のローマ教皇に選ばれ、フランチェスコ(Franciscus)1世と名乗る事になりました。

前教皇ベネディクトゥス16世は高齢で教皇の職務の重責を果たせなくなったと退位の理由を述べたが、教皇職は事実上の終身制であり、存命中の退位は極めて異例の事でした。

「自らの意思による退位」は1415年のグレゴリウス(Gregorius)12世以来598年ぶり、また同じく生前退位をしたケレスティヌス(Caelestinus)5世以来719年ぶりとの事。

ベネディクトゥス16世は枢機卿会議の席上で「自身の力不足を理由で退位する」という内容の文章をラテン語で朗読して退位表明をしますが、これはケレスティヌス5世が退位した際と同じ行動です。

グレゴリウス12世の退位の場合は、1378年から1417年の間に生じたシスマ(Schisma:教会大分裂)による3人の教皇が鼎立した状態の解消、すなわち事実上の廃位であって自らの意思とは言い難く、従って、自らの意思で退位するのはケレスティヌス5世の退位以来史上2人目とされます。

今後、前教皇は「名誉教皇(Pope Emeritus)」という称号が与えられ、また「聖下」の尊称で呼ばれる事となるため、「ベネディクト16世名誉教皇聖下」と呼称される事になります。

日本の仏教寺院での僧侶さんたちが「大僧正猊下げいか」と呼ばれるのと同じ感じでしょうか?

教皇選出会議「コンクラーヴェ」
教皇が退位した事に伴い、「空位時期(使徒座空位)」が定められ、前教皇を除く、ローマ・カトリック教会の枢機卿団がヴァチカンに集結します「。世界で最大級の影響力を持つ宗教指導者、ローマ教皇を選出する有権枢機卿たちです。

今回のコンクラーヴェでは、総勢208人からなる枢機卿団のうち、コンクラーヴェの参加資格である「80歳以下の枢機卿」の条件を満たした115人がヴァチカンに集結し、昔の教皇の公邸でもあったシスティーナ(Sistina)礼拝堂において秘密投票がなされました。

教皇の選出には全投票数の2/3の得票である77票以上が必要で、獲得する候補が出るまで投票が続けられ、2日目の5回目の投票で決まり、システィーナ礼拝堂の煙突から新しいローマ教皇の決定を告げる白煙が上がりました。

このコンクラーヴェはこの100年間で、今回も含め9回実施されています。そのうち、最も早く教皇が決まったのが1939年に選出されたピウス(Pius)12世で、2日目に3回目の投票で選出されました。続いて、1978年のヨハネ・パウロ(Ioannes Paulus)1世と2005年のベネディクトゥス16世が2日目に4回目の投票で選出されています。

最も時間がかかったのは1922年に選出されたピウス11世で、何と5日目の14回目の投票で決まったのだとか―

何れにしても、今回のコンクラーヴェにより、ローマ・カトリック教徒の総数11億6786万人(2010年段階)の皆さんの精神的支柱である“新しいパーパ”が決まった訳です。

初のイエズス会派
2日間5回もの投票で選出が決まったのが、アルゼンチン・ブエノスアイレス出身のフランチェスコ1世。

今や世界最大のカトリック人口を抱える中南米から初の選出だそうです。

実は、今回のコンクラーヴェでは本命なき攻防だったようで、前回でも有力な候補として名前が挙がり、前教皇の次に得票数を獲得していたと伝えられています。

フランチェスコという名称は、選出された新教皇が自ら決める事となっているのですが、12~13世紀にイタリア中部のアッシジ(Assisi:現在のイタリア・ウンブリア〔Umbria〕州ペルージャ〔Perugia〕県)を拠点にカトリック改革運動を率いて修道会の1つ・フランシスコ会(フランチェスコ会)の創設者として知られるカトリック修道士、聖フランチェスコ(Franciscus)に由来するそうです。

ローマ教皇は15世紀以降、枢機卿団の中の1人が教皇に選出されていますが、1978年にポーランド人のヨハネ・パウロ2世が就任するまで、約450年にわたってイタリア人の選出が続き、前回(2005年)では、ドイツ出身の前教皇が、そして今回はアルゼンチン人の教皇が選出される形となりました。

ところで―

この新教皇フランチェスコ1世は、戦国時代に日本(※ 主に西日本)にキリスト教を伝えた修道会「イエズス(Iesu)会」(耶蘇会やそかい)に所属する方だそうです。

このイエズス会員、現在では112か国で2万人もの会員が存在し、カトリック教会の男子修道会としては世界で2番目に大きい規模を誇るようです。

私たちにとり、このイエズス会」(耶蘇会)は日本史で非常に馴染み深い用語ですね。

天文18年(1549)、フランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier)が鹿児島に上陸して布教活動を始め、その後、アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(Alessandro Valignano)やルイス・フロイス(Luís Fróis)、グネッキ・ソルディ・オルガンティノ(Gnecchi-Soldo Organtino)、ルイス・デ・アルメイダ(Luís de Almeida)、ジョアン・ツズ・ロドリゲス(João“Tçuzu”Rodrigues)といった会員たちの活躍で大きく発展し、日本(※ 主に西日本)におけるキリシタン信者を増やすと共に天正遣欧少年使節を派遣します。

しかし、最終的には徳川幕府による迫害によって宣教師と協力者たちは処刑・追放され、正保元年(1644)に小西行長の甥・マンショ小西の殉教を最後に日本人司祭も存在しなくなり、日本でのイエズス会(耶蘇会)の布教活動が終焉を迎えます。

イエズス会の活動理念は、主にローマ教皇への忠実という意識が強く、それはウルトラモンタニスト(教皇支持派)と呼ばれます。カトリック教会の中でも最も厳格な規律で知られ、保守傾向の強い派に属しています。

また、宣教事業や社会正義事業と並んで高等教育の普及を目指していました。その成果というか現在、世界各地にイエズス会の高等教育機関(大学を含め)が存在しますが、最も活発なのはインドとフィリピンと云われています。

その後、イエズス会は1773年に当時のローマ教皇クレメンス14世により禁止されると、ポルトガルがイエズス会会員の国外追放を決め、フランス、スペインなども同調し衰退の一途を辿たどります。

そうした中で、ロシアやプロイセンなどはイエズス会会員を受け容れ、結果として国内で啓蒙君主と呼ばれる英明な君主が誕生する素地を創り出します。

やがて、1814年にローマ教皇ピウス7世がようやくイエズス会の復興が許可します。

現在、イエズス会の総長(終身制)はアドルフォ・ニコラス師で過去に日本管区長を務め、上智大学で神学を教えていたそうですよ。

※ 主に西日本
主に西日本としたのは、日本への布教活動の前半期はイエズス会の活動が多くみられ、その代表的なものとして天正遣欧使節が挙げられます。一方で、後半期はイエズス会ではなく、東日本を中心にフランシスコ会(フランチェスコ会)の活動が多く見受けらます。例えば、伊達政宗に近づいたルイス・ソテロ、そしてその代表的な活動計画として慶長遣欧使節が挙げられます。


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※(参照)新しいパーパ(教皇)はベネディクトゥス16世
※(参照)ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世崩御

“道は好む所によって安し”―“好きこそ物の上手なれ”って言うよね!

こんな記事を見つけました!

「洛東高、『地歴研究の甲子園』で優秀賞 府内初」

といったもの―

歴史や文化財、地理に関する研究成果を競う「全国高校生歴史フォーラム」(奈良大学主催)という催しで、京都府立洛東高校(京都市山科区)の女子生徒4人のグループ「人文社会コース研究会」が、優秀賞を受賞したそうです。

この催しは、“地歴研究の甲子園”とも称され、6回目の今年は全国から75件の応募があったのだとか…

彼女たちが研究したテーマは「安祥寺あんしょうじ下寺の所在地」というもの―

彼女たちは地元の>安祥寺を見学し、平安時代には上寺と下寺があったという記録を基に同校近くにあったとされる下寺の所在地を探求。

専門的な文献や古地図を読み解き、学校のグラウンド内に地番界(住所表記が変わる境界線)がある事を発見し、周囲の地名や史跡を史料と照合した結果、下寺の位置を推定したようです。

受賞の知らせを聴いた彼女たちは、「難しい論文や史料と向き合う研究だったが、調べてまとめる事を学べた」と語り、「歴史の道に進み、将来に活かしたい」とも言っています。

指導した教諭は「内容は学術的にも通用するレベル。研究発表は専門家に聞いてもらう良い機会にもなる。難しい要求に応えてくれた生徒たちに感謝したい」と話しています。

彼女たちの研究成果は、24日に奈良大学で行われる表彰式で発表されます。

個人的には、同じく優秀賞を受賞した大分東明高校(大分県)郷土史研究部の「高田輪中の野鍛冶・入鎌師と水害―輪中集落の歴史・くらし・文化 3―」や、佳作だけど西大和学園高校(奈良県)地理歴史部の「大和郡山城下町の歴史と変遷」も面白そう!!

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実を言うと、私も大学4回生の時、『地方史研究』の発行で有名な地方史研究協議会が主催している「日本史関係卒業論文発表会」の存在を知って、応募してみようかな?なんて無謀な事を考えてた過去があります。

結局、色々と調べていくうちに応募してる学生の殆んどが関東圏の大学生である事に疑問を感じたので、思い直しました。

京都で歴史の勉強をしている以上、京都(京都学派)で認められなければ何の意味もありませんからね…

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吉祥山安祥寺あんしょうじは京都市山科区御陵みささぎにある高野山真言宗の仏教寺院で、定額寺じょうがくじの1つでした。

古代天皇制度下において、官大寺・国分寺(国分尼寺を含む)に次ぐ寺格を有した仏教寺院を指し、神仏に鎮護国家や皇室繁栄などを祈願して創建され、王家(治天の君)の私寺的色彩が強いのが「勅願寺」、これに対し、有力貴族や地方豪族の氏寺であった私寺のうち官の保護を受けたのが「定額寺」と言います。

嘉祥元年(848)、仁明天皇女御にょうごで文徳天皇の母である五条后藤原順子のぶこの発願により、入唐にっとう僧・恵運によって、山城国宇治郡に創建された。天皇の母に関係した寺である事から斉衡2年(855)に定額寺となります。

しかも、五条后順子の御陵は『延喜式』によると山科の地にあるとされるので、この寺との深い関係がうかがえます。

安祥寺には醍醐寺同様に「上醍醐」「下醍醐」と呼称するように、裏山に「上寺」が、麓に「下寺」が存在したと云います。

恵運が貞観9年(867)に作成した『安祥寺伽藍縁起資財帳』によると、上寺には礼仏堂と五大堂とから成る堂院・東西僧房・庫裏・浴堂などの施設が、下寺には約2万㎡の寺域内に塔・仏堂・僧坊・門楼などがあったとされます。

しかし、五条后順子が死去した後は朝廷の庇護を失い次第に衰微していったようで、『小右記』では既に上寺に行く参道が非常に荒れている事が記述されています。

その後、上寺の方は延文年間(南北朝期の北朝年号、1356~60、正平11~16年)まではかろうじて存続していたみたいですが、応仁・文明の乱(1467~77)により、上寺・下寺ともに廃塵に帰し、完全に廃寺となります。

江戸時代になり、現在地に移転して本堂、地蔵堂、大師堂、多宝塔が再建されますが、上寺の方は全く再建されず廃絶。明治39年(1906)の多宝塔焼失後、再建されていません。

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このニュースを見て、自分の高校時代を想い出しました。

私自身も、小学校高学年の頃から“将来は歴史の勉強がしたい”という思いで目標を定めていたのですが、いざ高校に入学し課外活動クラブを「古典歴史」クラブと定めて、素地を固めていこうというプランだったのですが、入学した年に「古典歴史」クラブが廃部になり、入部が叶いませんでした。

まぁ、他に「古典文学」系のクラブがあったので、そちらに籍を置いたのですが、私としては大学受験に向けて、個別に独学で歴史の素養を培っていくしかないな、という感じだった訳です。

幸い、高校2年生で初めて日本史を習った際の先生も、担任で世界史の先生もどちらかと言えば、暗記、穴埋め式の授業ではなく、文章表現や論文・記述式のテストをなさる方だったので、結果として鍛えられたんですけどね(笑)

例えば、担任で世界史の先生のテスト形式は、すべて記述式で、問題は4問。問1は10マス10文字以内で回答しなければならない、問2は20マス20文字以内、問3は30マス30文字以内、問4は40マス40文字以内…といった感じで、100マス100文字以内に文字を埋めて回答する、というものでした。つまり、誤字脱字など許されないし、感想文やレポートにありがちな、漢字で表記すべきを文字数を増やそうとわざと平仮名で表記してマス目を増やそうとするテクニックなど、通用しないんですね(笑)

御蔭さまで、文章力&表現力が鍛えられました!

その他にも大学受験科目以外に、歴史に必要不可欠な科目は単位修得に関係なくても授業を受けて、古文・漢文、美術(史)、書道(史)など…知識も蓄えていった訳です。

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その甲斐もあってか、大学に入学できましたが、現在いまから想えば、4月の開講時点でうまくスタートダッシュをきれた友人と、少しだけ後方に置いて行かれた感じの友人とにグループ分けされちゃったなぁ、と感じる事があります。

関西私学の大学入試は2月上旬から中旬に集中されます。私などは一般入試で入学した人なので、モチベーションというか、学習意欲のピークが4月の開講時点もまだ残っていた感じなのですが、一方で推薦入試で入学した友人たちは10~11月がピーク絶頂で、下手をすれば4月の開講時点はモチベーション上げるのに苦労していたようです。

しかし、そうは言っても、皆が歴史の勉強をしたいからと入学して来た連中ばかりなので、周回遅れになる奴などいませんでした。

完全に遅れちゃう人って、とりあえず大学に入学したとか、日本史は暗記モノとして点数が採りやすいから…って感じで、入学したからの目的意識がないっていうか、モチベーションが低かった気がします。

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しかも当時は、バブル全盛期で中学から高校を通じて友人の誰もが、就職時に有利になるように経済学部とか、経営学部、産業社会学部とかを目指していて、そういう連中から私などは「何のために文学部に行ってねん?」って感じで揶揄やゆされたもんです。

「何のために…」って言われてもねぇ…

正直、私は高校までは引っ込み思案で、自己主張しないタイプの人間でした。そんな私が歴史という科目に出逢って、自己主張できるような個性を持てるようになった訳です。

但し、高校までは理数系が得意な連中と同じクラスだったため、なかなか芽は息吹ませんでした(笑)

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大学に入学して以降、歴史の勉強に明け暮れるわけですが、友人の中には、折角4年間の大学生活を歩むんだから、空いた時間に他の学科で面白そうな講義を聴こうよ、って誘ってくれた友人が居ました。

確かに、単位修得の仕方にもよるけど、3回生次や4回生次になると、かなりカリキュラムも空く訳で、他の学科、例えば仏教学科での(仏教学科から視た)禅宗史の科目、或いは国文学科や社会福祉学科(家族社会学など)の講義などを聴講しました。

現在いま想えば、こちらの経験がかなり役立っています。

禅宗史などは、就職・転職などの面接時に禅宗系の学校出身って事で、「只管打座」とか「色即是空、空即是色」の意味を意地悪く聴いて来られた面接官もいらっしゃったので、十分に役立てられたし、歴史学の知識にしても、在学当時は歴史上に名を残した偉人たち、即ち“個”の歴史ばかり追求してた感じですが、寧ろ“個”じゃなくて、史料にも名が残らないような一般大衆たちの歴史、即ち“社会史”の方が遣り甲斐があると感じたんですよね。

やがて、学校事務に就職したのですが、そこで同じく史学科を出られた先輩の方にも“社会史”の価値をよく聴かされたんですね。

その事があってから、図書館へ調べ物に行った際も歴史の書棚(200番台)ばかり物色するのではなくて、社会の書棚(300番台)も注意深く物色するようになったんですよ。

想い起こせば、良きアドバイスを頂いたと想います。

毎年、年齢を重ねるたびに歴史という大衆社会に埋(うず)もれた人たちの叫び声を掘り起こそうとする自分がいる訳ですから…

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※(参照)全国高校生歴史フォーラム

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(トピックス)新春の恒例行事「三十三間堂の通し矢」 秀吉治世に禁止令 古文書発見

「通し矢」の禁止について、前田玄以が妙法院に宛てて送った折紙形式の書状。「弓射」や「御法度」の文字が見え、後半部分には、前田玄以の花押(点線円で囲った部分)がある

新春の恒例行事として、また新成人の腕だめしとして知られる京都・東山七条に在る蓮華れんげ王院(通称、「三十三げん堂」)で催される「通し矢」

現在行われている「通し矢」は「大的おおまと大会」と呼ばれる競技大会で、本堂西側の境内で約60m離れた的を目指して弓を射る。参加者は開催年度に成人を迎え、つ弓道の初段以上を持つ者となっている。

毎年、全国から2000人近くがつどい、制限時間2分で2本を射て、2本とも的に当たれば予選を通過。決勝では的を外した者から脱落してゆき、最後まで的中した選手が優勝となります。

“大会の華”として毎年ニュースを賑わしているのが成人女子の部で、女性は晴れ着姿で競技に挑み、その姿は凛として華麗そのもの―

そんな「通し矢」ですが、その始まりについては、
  • 室町期の『洛中洛外図』に弓を射る者が描かれている
  • 天正年間(1573~1592)頃から流行した
などの諸説が云われています。桃山時代の文禄4年(1595)には関白・左大臣の豊臣秀次が「山城三十三間堂に射術を試むるを禁ず」とする禁令を出しているようですが、この時期は「通し矢」を試みる、程度のもので、射通した矢数を競う、て感じではなかったようです。

一民法○三拾三間ニ制札之儀、木食を以 関白様○被仰出候、如何之由申来、則尤之由被仰出、
  一此堂におゐて弓を射事、かたく可令停止之旨、被仰出者也、
    文禄四年四月 日      民法卿法印
                     玄以
          (『増補駒井日記』文禄4年4月15日条)

この「通し矢」の記録を掲載した『年代矢数帳』(慶安4年=1651=刊)をひもけば、慶長11年(1606)正月19日、「三十三間堂」で100本中51本を射通した尾張清洲藩主・松平忠吉の家臣・朝岡平兵衛が初見のようです。

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「通し矢」とは、「三十三間堂」西側の軒下を南端から北端に矢を射通す競技で堂射どうしゃ堂前どうまえといった別称もあります。

競技方法として、距離や時間、矢数を組み合わせて、主に以下の種目が競われました。
  • 大矢数…一昼夜にどれだけの本数を射通したかを競う
  • 日矢数…日中にどれだけの本数を射通したかを競う
  • 千射…1000本中の通し矢数を競う
  • 百射…100本中の通し矢数を競う
このうち、“「通し矢」の華”であったのが大矢数で、武芸者の名誉をかけて暮六つ(午後6時頃)から一昼夜(24時間)かけて何本の矢が射通るかを競います。

江戸時代前期にブームとなり、有力藩の後ろ盾(例えば尾張藩、紀州藩)のもと、多くの武芸者が挑戦して記録を更新します。

「三十三間堂」の他には、江戸・浅草(火災焼失後、深川)の江戸三十三間堂や奈良・東大寺大仏殿西回廊でも通し矢が催されていました。

しかし、その後は大矢数に挑む者は徐々に減少をみせ、大規模な通し矢競技はほとんど催されなくなりました。そこには、過熱化する競技への批判をする流派もあった訳ですね。

現在では毎年1月中旬(大体、成人式に合わせている―)に「三十三間堂」で「大的全国大会」が開催されているが、遠的競技(距離60m)の形式となっています。

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そんな「通し矢」が豊臣秀吉の治世の16世紀末に度々たびたび禁止されていた事を示す古文書が発見されました。

古文書は秀吉の家臣で京都所司代を務めた前田玄以が、「三十三間堂」を管理する妙法院(東山区)に宛てた書状で、長岡京市の旧家に保管されていたそうです。

於三十三間弓射之由承候、沙汰之限候、連之御法度之上、弥堅可被成停止候、此上押而射申族御座候ハヽ、其節急度可承候、此方より可申越候、此等之旨可被申入候、恐々謹言、
                民部卿法印
                  玄以(花押)
  正月十七日
  妙法院殿様
     御雑掌

古文書を分析した結果、前田玄以が書状に用いた肩書(「民部卿法印」)や花押などから文禄5年(1596)に書かれたものと推定。

書状には「於三十三間弓射申之由承候」との書き出しで始まり、弓矢を射るのを既に禁じているが、それでも射る者があれば通報するよう求めている。「連々御法度」という下りから、繰り返し禁止した事がうかがえます。

「三十三間堂」「通し矢」禁止は、前述した豊臣秀次により文禄4年(1595)4月に禁令を発しており、

隣接する大仏寺(のち方広寺)で太閤秀吉の威信をかけた大仏殿の造営が進められていた時期にも重なる事からかんがみて「(豊臣氏の)聖域(=氏寺)としての領域と考える豊臣政権の何かしらの思惑おもわくがあったはず!」と推測されるようです。

「通し矢」の歴史に詳しく、著書もある筑波大学の入江康平名誉教授(武道史)は「当時の妙法院は「通し矢」に協力的だったという記録があり、禁止したのには別の事情が働いたのだろう」と話されています。

実際、「禁止してもめない人が後を絶たなかったのでは?」とも考えられるようです。

但し、この時期は未だ「通し矢」を試みる、程度のもので、射通した矢数を競う、て感じではなかったようですね。

本格的に流行はやり出すのは江戸時代以降とと云われていますが、すでに桃山時代からブームが過熱していた可能性もあるのではという事です。

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※(参照)馬部隆弘「〈史料紹介〉京都府長岡京市に残る豊臣政権関係の史料三点」(『織豊期研究』14)