(トピックス)大村益次郎の生涯を紙芝居に!山口・鋳銭司で15日上演

紙芝居上演の打ち合わせをする「郷土の偉人大村益次郎の紙芝居をつくろう会」有志の皆さん

明治維新の先覚者であり、地元の偉人の業績を次世代へ伝えようと、山口市鋳銭司すぜんじ地区の住民有志が、同地区の出身で近代陸軍の基礎を築いた大村益次郎紙芝居を完成させました。

村医者の子に生まれた益次郎は医学、蘭学、儒学、兵学などを学び、長州藩の近代的兵制を確立。四境戦争で幕府軍を破り勝利に導いたり、戊辰戦争では新政府軍の参謀として勝利し、維新大業の基礎を創った。維新政府では陸軍の創設にあたり、身分にこだわらない登用をするなど改革を実行しようとしますが、守旧派の反発を買って凶刃に斃れます。

昭和52年(1977)に司馬遼太郎氏原作で益次郎の生涯を描いたNHK大河ドラマ「花神」が放送され、地区にある益次郎の墓や大村神社には全国から観光バスが押し寄せ沸き返ったと云いますが、観光客も次第に減少し、今では殆んど来ない状況―

地元でも益次郎が話題になる事もすっかりと減り、「名前しか知らない」という、地元の偉人を知らない子どもが多くなったといいます。

鋳銭司地区ではそんな状況をうれいて「地元住民が知らないのは地区の責任でもある」と捉え、鋳銭司の誇りである益次郎の功績を再度掘り起こし、子どもたちに伝え、興味を持ってもらおうと住民有志が益次郎紙芝居に仕立てようと企画。地区の住民に呼び掛けたところ、絵が得意な人や歴史好きな人が賛同し、「郷土の偉人大村益次郎の紙芝居をつくろう会」が結成され、約半年の期間をかけて完成しました。

歴史上の人物なので史実に沿った固い紙芝居になり、子ども受けするかが心配という声もありましたが、歴史だけでなく物語の中に色々なエピソードや地域でしか知らないような話を盛り込み、子どもは飽き易いので絵が多い方が良いとの検討がなされました。

監修協力として有志に加わった地元在住の郷土史家で山口市歴史民俗資料館名誉館長の内田伸さんは「益次郎は三反百姓の家から出世した点が面白い。開業医時代に患者と応対した逸話もある」と鋳銭司郷土館に秘蔵していた紙芝居の参考になる切り絵も持参提供されました。

紙芝居は16枚構成で、上演時間も約15〜20分を目処めどに練り込み、英語を学んだり、戦場で指揮を取ったりする活躍と共に数学や測量学、地理学、歴史学などを教える教育者の顔もあった事などを分かり易い言葉で約物語にまとめられています。

この紙芝居「郷土の偉人大村益次郎」は、4月15日午前11時に益次郎を祀る大村神社で催される大村神社春季例祭で初上演されます。


   

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(トピックス)戦国大名・浦上村宗、下剋上の証を示す古文書、220年ぶり現存確認!

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浦上氏平安時代中期に活躍した紀氏きのし長谷雄はせおの派流か、または『土佐日記』を記した貫之つらゆきの派流の子孫と云われ、播磨国揖保郡浦上庄(現、兵庫県たつの市揖保町一帯)が苗字の発祥地と伝えられています。

『赤松家播備作城記』に依れば、浦上庄内にある中臣城の初代城主として「紀秀村」という人物の名が伝えられている事、また浦上則宗がその存命中に著したという『浦上美作守寿賛』に依ると、少なくとも系譜上では自らの出自を紀貫之の後裔であると位置付けていた節がみられます。

浦上氏の中で、確かな古文書にその名が現れたのが「浦上新左衛門尉為景」(『八坂神社文書』)で、彼は播磨国浦上庄の地頭職を押領(『大徳寺文書』)しています。

南北朝の動乱期になり、赤松氏が播磨守護職として勢力を伸ばすと、浦上氏も次第にその麾下に属し被官化していくのですが、浦上氏赤松氏に従って戦場で功を挙げ、次第に赤松氏の信頼を得ていきます。

正平17年・貞治元年(1362)、山名時氏が備前国に侵攻した際、浦上七郎兵衛尉行景が備前国守護・松田信重と共に防戦に努めている事が『太平記』に記載されており、赤松氏が備前国守護職に補任されると、行景は守護代職に抜擢されます。

これが播磨国を本領とした浦上氏が隣国の備前国へ勢力を伸ばす足掛りとなるのです。

これ以降も浦上氏赤松氏の有力被官として活躍する事になり、浦上帯刀たてわき左衛門尉助景は守護代職に加え、赤松義則室町幕府侍所頭人に就任するや、所司代に取り立てられます。

その後、赤松氏は嘉吉元年(1441)、満祐嘉吉の乱を起こし没落の一途を辿たどっていくのですが、浦上氏を含めた遺臣たちが満祐の弟・義雅の孫・政則を盛り立て、禁けつの変の功により御家再興を成し遂げます。

応仁元年(1467)、応仁・文明の乱が起こると、赤松氏は東軍方(細川勝元)に加わり、浦上則宗が主家再興に活躍した重臣の1人として、赤松氏の勢力勃興に尽力し、失地回復に精力を注ぎます。

乱終息後、改めて赤松政則に播磨国・美作国・備前国の守護職に補任されると、則宗は備前国守護代職となり、さらに文明3年(1471)に政則侍所所司に任ぜられると、則宗所司代に任じられて実務を掌り、加えて同13年(1481)、政則が山城国守護に補任されると、則宗は守護代職に任ぜられるのです。

― ◇ ◇ ◇ ―

応仁・文明の乱による世情の変化は日本各地に広がり、下剋上の風潮が見え出します―

赤松氏の領国も例の漏れず、文明15年(1483)、備前国の国人こくじんが備後国守護職・山名氏と結んで、赤松氏の備前国の守護所・備前福岡城を攻撃してきます。

赤松政則山名氏のもう一方の守護職地である但馬国を攻め上がりますが、結果大敗を喫して姫路に逃げ返る始末で、挙げくには福岡城も陥落するという、様態をさらします。

さらには、政則を追撃した山名氏の軍勢が播磨国内に乱入したため、以降内戦が数年の間続く事になります。

こうした政則の失策は国人衆の離反を招く事となり、翌16年(1484)、浦上則宗が帰国するや国人衆の多くが則宗の下に参集するのに対し、赤松氏譜代の家臣たちは山名氏と組んで政則を見限り、赤松政秀(龍野赤松氏)を盟主と仰ぐなど赤松氏は大きく分裂してしまいます。

政則の周辺には付き従うものは僅かな者しか残らず、政則は播磨国を追われ、和泉国堺へと奔ります。

浦上則宗は有力諸将と図って、政則を廃する様に画策しますが、室町殿足利義政の仲介により、政則浦上氏らは和解が成立。西播磨を征した山名氏との攻防に精力を注ぎ、播磨国・備前国・美作国の旧領を回復するのです。

政則の死後、浦上則宗は養子である義村を擁立するなど、家中での権勢は主家である赤松氏を凌ぐ程でした。

― ◇ ◇ ◇ ―

浦上則宗は文亀2年(1502)に没し、後継には先に養嗣子としていた甥の宗助の子・村宗が家督を継ぎます。

一方でようやく政務に参加するようになった赤松義村は、新しい体制を敷こうと企図します。

それは、浦上氏などの宿老の専横を抑制し、義村自身の発言力を強化しようとするものでした。

義村は成長するにつれ、家中で大きく勢力を伸ばした守護代・浦上氏おそれを抱き、自立への機会を窺っていたのです。

永正15年(1518)、こうしたあからさまな排斥行為に浦上村宗義村に反発し、更にはもう1人の宿老である小寺氏とも対立を深めてしまい、小寺氏らの讒言を採った義村によって、出仕を差し止められ、居城の三石城に退去します。

義村は追い打ちをかけようと、村宗の討伐を企図して自ら兵を率いて備前に出陣し、三石城を囲みます。

この時、村宗方には備前・備中・美作三国の国人衆が集まり、義村に戦いを挑み、攻城戦を乗り切ります。

翌16年(1519)にも赤松義村は再度浦上氏を攻め立てますが、村宗の重臣・宇喜多能家らの活躍で撃破し敗走させます。

村宗はこの勝ちに乗じて播磨国に攻め入り、翌17年(1520)、赤松義村を捕え、隠居させ、跡目を僅か8歳の才松丸(のちの政村晴政)を形ばかりの守護として擁立します。

翌18年(1521)正月、義村足利亀王丸(のちの第12代将軍・義晴)を奉じて再挙しますが、村宗はこれも撃破。義村を捕縛して播磨の室津に幽閉。元号が大永に変わった直後の大永元年(1521)9月に義村を暗殺します。

こうして、村宗は名実ともに、備前国・美作国・播磨国(西播磨)三国の支配権を掌握する事に成功し、戦国大名への道を歩み始めるのです。

― ◇ ◇ ◇ ―

ちょうど、そうした時期の浦上村宗古文書が見つかったそうです。

浦上村宗が大永元年(1521)に発給した古文書の様で、国の重要文化財・旧大国家住宅(岡山県和気町尺所)の古文書群の中から発見されました。

この大国家とは、江戸時代に酒造業などを営んで財をなし、多くの知識人たちが出入りして文化交流するなど、地域のサロン的な役割を担っていたようですね。

古文書には、村宗赤松政村(晴政)の命令を伝える形で、播磨、備前、美作の三国で通行税を免除するとの内容が記してあり、政村(晴政)がまだ幼少なため、村宗が三国の実権を掌握していた事を示す第一級史料の価値があるのだとか―

のちに備前国岡山藩士・斎藤一興が寛政5年(1793)に編纂した古文書集黄薇きび古簡集こかんしゅうの中で「尺所某氏」所蔵の古文書として記載されており、三国の情勢を語る際には必ず引用される古文書だったようです。

長らく所在不明となっていましたが、和気町が2009年度(2009・4〜2010・3)から岡山大学と協力して進める大国家文書解読事業で発見され、約220年ぶりに現存が確認された事になりました。

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参考)渡邊大門『戦国期浦上氏・宇喜多氏と地域権力』(岩田書院、2011)


 

posted by 御堂 at 21:33 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

(トピックス)古文書が突き止めた「名古屋コーチン発祥の地」

尾張名古屋藩士平井理右衛門が名古屋藩庁に提出した帰田願に記載された名古屋コーチン発祥の地を裏付ける史料

「名古屋コーチン」とは、愛知県特産である鶏の肉用品種です。後に「名古屋種」と改名されますが、現在も「名古屋コーチン」という名称のままで流通がなされています。

「名古屋コーチン」は、愛知県農業総合試験場で改良された品種で、愛知県畜産総合センター種鶏場から供給された種鶏から生産された鶏を指し、愛知県周辺部を中心に日本各地で飼育されています。

その「名古屋コーチン」を作出し、“生みの親”とされるのが、尾張名古屋藩士海部かいふ壮平正秀兄弟です。

― ◇ ◇ ◇ ―

明治以前の日本では、闘鶏用の軍鶏しゃもや愛玩用の矮鶏ちゃぼを飼う人はあっても、現在の様に卵や肉を目的とした「養鶏」は殆んどありませんでした。

ただ、尾張名古屋藩に限っては、古くから卵や肉を売るための養鶏が行われていた節があった様なのです。

江戸時代後期の安政年間にもなると、地鶏や軍鶏を掛け合わせて改良させ、卵をよく生む雑種を作出していた人がいたようです。

明治維新後、維新政府版籍奉還に伴う禄制改革 、廃藩置県に伴う秩禄処分を断行。士族の大多数が失業を余儀なくされます。

維新政権の初期段階では、地租改正に反対する農民一揆秩禄処分に反対する士族の反乱が悩みの種でもありました。

その様な中で、最終段階の秩禄処分によって家禄収入さえも失った士族たちを転業させ、何らかの職業に就かせるために生活救済を図った維新政府の政策を士族授産といいます。

現在でいえば、ハローワーク(職業安定所)で募集されている求職者支援制度の教育訓練制度とか職業訓練制度に該当するのかな―

士族授産で成功する例としては、静岡の茶園、岡山の紡績、広島の綿糸紡績、鹿児島の薩摩縞、福岡の久留米がすり、石川や福井の羽二重はぶたえ、福島の絹織物、山形の米沢織、名古屋コーチンを生んだ養鶏業などが挙げられ、何れも士族授産が契機となってその地方の特産品となり、現在まで続く地場産業を形成していきます。

尾張名古屋藩も同様に士族授産を試むのですが、職を失った士族の転業を支援するための各種支援講習の中には養鶏部門があった様で、藩士の中には養鶏業を始めた人が多くいた模様です。こうした士族たちを“名古屋のサムライ養鶏”と呼んでいたとか―

そうした“名古屋のサムライ養鶏”の中に海部かいふ壮平正秀の兄弟がいました。

― ◇ ◇ ◇ ―

海部壮平

海部家はその先祖・海部定右衛門正親以来、海部流砲術を伝来し、代々尾張名古屋藩の砲術指南役を務めていました。

兄の壮平は明治4年(1871)、25歳の時に父・左近右衛門さこんうえもんと共に尾張国東春日井郡池林村池之内(現、愛知県小牧市池之内)に移り、雑貨店「よろずや」を開きます。当初、店は繁盛していたのですが、そこはやはり「武士の商法」って事で経営が行き詰まり、弟・正秀の勧めもあって、明治12年(1879)に店を閉じて養鶏業に従事する事を決心します。

弟の正秀は幼い頃に同族で尾張国愛知郡桑名町(現、愛知県名古屋市中区錦、栄、広小路辺り)に住む海部市郎の許に養嗣子となり、兄の壮平より早くから養鶏に取り組みます。

どうやら、壮平らが幼い頃、自宅近くの武士が内職で鶏を飼っていた事もあり、その影響を受けて養鶏業に関心があったようです。

当初は名古屋在来の地鶏を育てていたのですが、体格が小さく(→雌で1kg弱)、産卵数も少ない状態でした。

そこで「九斤」(一説には、中国より輸入した「バフコーチン」)という品種の鶏と交配をして体格を大きくし、卵をたくさん産む品種を作ろうと考えたのです。

その甲斐あってか、明治15年(1882)頃、体が大きく、卵もたくさん産む「薄毛」が誕生したのです。

ところが、その矢先に「家きんコレラ」(家禽類の病気)によって、育ててきた鶏たちが全滅するという憂き目に遭ってしまいます。

しかし、明治21年(1888)に正秀らは同志たち6名と「愛知種鶏場」を設立し、こので洋種鶏10種類を飼育し、改良を図った結果、改良「薄毛」が誕生します。

壮平正秀にとって、養鶏の方法も品種改良の仕方も教えてくれる人がいないし、全く手付かずで臨んだ養鶏業ですが、そんな血のにじむ様な努力の結果から生み出された傑作が誕生した訳です。

壮平はこうした努力とその経験を『養鶏方案』という著書にまとめ、明治23年(1890)に東京・上野で催された第3回内国勧業博覧会で三等有功賞を受賞します。

壮平はまた近隣の農家にも養鶏を奨めて種々の便宜を図ったため、池之内地区は一大養鶏地として全国に知れ渡る様になり、その広がりは全国各地からの問い合わせが殺到するなど、各地から数多くの人々が見学や購入に訪れたそうです。

こうして改良「薄毛」は「海部鶏」、或いは「海部の薄毛」と呼称され、普及していきます。

そんな最中の明治28年10月1日、海部壮平は過労死で死去します。享年49歳。

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その後、「海部鶏」「海部の薄毛」は、名古屋地方を中心に京都や大阪にまで広く普及し、何時の頃からか「名古屋コーチン」と呼ばれる様になり、明治30年代前半頃には定着をみます。

その後、明治38年(1905)には日本家禽協会によって、初の「国産実用鶏」第1号に認定されるのです。

ちなみに、大正8年(1920)にさらに改良(育種)され「名古屋種」と改名し現在に至っていますが、現在に至っても「名古屋コーチン」として流通しています。

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私が住む京都は鶏肉の消費量が日本で2番目に多いとされています。

我が家のカレーライスにいれる肉にも決まって鶏肉が入ってます。

お店に買い物に行く際でも、「かしわうてくる!」って感じなんですよね。

そして、お店自体も「かしわ専門店」(=かしわ以外の肉は売ってません!)に買いに行ってます。

調べてみたら、鶏肉の事を「かしわ」と呼んでいるのは、名古屋以西の東海圏と関西圏までなんだそうです。

「かしわ」って表現自体が元々「名古屋コーチン」を指していて、それこそ、「名古屋コーチン」の普及度を端的に表したのが「かしわ」の呼称に通じる様ですね!

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さて、この海部壮平らと共に養鶏業を行おうとした同藩士の「帰田願」というものが発見されたそうです。

発見されたのは尾張藩士・平井理右衛門の「帰田願」

「帰田願」とは、尾張名古屋藩が明治3年(1870)11月に、武士に俸禄を返上させ、不毛地に入植させる代わりに支払う手当金制度について説明した「帰田の御触」に伴い、希望する者が提出した願書。

「帰田」は帰農と同義語で、武士が俸禄を返還する代わりに土地を持ち、農業に従事する事を指します。家禄が十分に支給されない士族たちに、土地(田畑)の所有を許可し、地主や自作農として生計を立てさせるのを目的としています。藩側としては、家禄の返還などで藩の財政負担が軽減される事を見込んで、藩士たちが帰田する事を認めます。現代風にいえば、大幅なリストラの前の早期希望退職を募ったものと言えるでしょう。

方今之時体を相弁、帰田相願候段奇特之至ニ付、速ニ施設可致候得とも猶銘々暮方之都合も可有之与帰田均禄両様を以朝廷江奉伺候処、伺之通被仰出候付帰田相願候者ハ、別紙之通従前之高ニ随ひ年限を以御手当被下置其余ハ従前之高ニ不抱、悉皆現石拾七石五斗之均禄ニ相成筈候、最帰田之者与いへとも士格ハ是迄之通可被成下候間、最前之願ニ不抱(拘)、今一応篤与致勘考両様之内取極、当月晦日迄ニ可申出事
 但帰田之上士格を離、農商之籍ニ帰度志之者ハ、書付を以可願出候
 且卒之内帰田いたし度者ハ右ニ准シ御手当可被成下事
一帰田不相願均禄相成候輩在住いたし度志有之候ハヽ、其段願出不苦事
 庚午
   十一月    名古屋藩庁
意味合いはこんな感じ―

帰田を願う者は、…(中略)…これまでの禄高に従い、年限をつけ手当金を下され…(中略)…るはずである。…(中略)…今一度十分に考え、両方の内どちらかを決め、今月末までに申し出ること。
ただし、帰田の上、士格を離れ農商の籍になりたい者は、文書で願い出るように…(下略)…
(『御触留』より明治3年11月に出された“帰田に関するお触れ”「古文書解読講座−名古屋藩庁の記録−」より『愛知県公文書館だより』第13号、平成20年12月25日)
― ◇ ◇ ◇ ―

海部壮平正秀、そして史料が発見された平井理右衛門らが「名古屋コーチン」作出に尽力していた場所は、これまでも小牧市が発祥の地とされてきましたが、具体的な場所は特定されていませんでした。

しかし、今回発見されたこの史料には、事業に従事する土地の詳細な地番などが記されており、その事から「名古屋コーチン」養鶏場のあった場所は裏付けられたとの事です。

余談ですが、海部かいふという名字からピンとくる方いませんか、そうです!元内閣総理大臣の海部俊樹氏は海部壮平正英兄弟の遠縁(壮平の姉の曾孫)にあたるのだそうですよ。

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(参考)愛知の養鶏史編纂委員会編『愛知の養鶏史』
(参考)入谷哲夫『名古屋コーチン作出物語 海部壮平は聖人となり小牧の池之内は聖地となる 〜「養鶏も武士道なり」−海部兄弟の大いなる挑戦〜』
(参考)落合弘樹『秩禄処分 明治維新と武士のリストラ』(中公新書)


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「承平天慶勲功者」と「兵の家」―天慶の乱からの視点

天慶の乱―ここでは平将門の乱に限定する―は「武者(武士)の登場」を促進させたと言われています。いったい何が要因だったのでしょう?天慶の乱を経過ごとに観ていきましょう…

― ◇ ◇ ◇ ―

承平8年(938)2月中旬頃、武蔵権守ごんのかみ興世おきよ王と武蔵すけ(三等官)・源経基が武蔵国足立郡司であり、判官代を兼ねた武蔵武芝むさしのたけしば国例(在地ごとの先例)を無視した行為に対し、いざこざを起こします。(『将門記』)


※(律令制度下の)四等官
律令制度下の官職は、長官・二等官・三等官・四等官の4等級から構成されており、それぞれ、

 長官(かみ)
 次官(すけ)
 判官(じょう)
 主典(さかん)

と呼称します。このうち、地方行政官は、

 長官(かみ)=守
 次官(すけ)=介
 判官(じょう)=掾
 主典(さかん)=目

となっています。国(行政単位)は

 大国
 上国
 中国
 下国

の4等級に分けられていました。


その状況を見かねた平将門は紛争調停のため武蔵国府に閲兵行軍して興世王と武蔵武芝との間を取り持ち、両者は和解をみます。(『将門記』)

しかし、源経基は猜疑心から「興世王と平将門らに謀反の動きがある」として、帰京するや、興世王と将門らが共謀して謀反を謀っていると朝廷に告発するのです。(「経基、武蔵の事を告言す」『貞信公記』天慶2年3月3日条)

3月25日、将門の私君であり、時の太政大臣である藤原忠平が、私信として事の真意を問うため、御教書みぎょうしょを下して家司を使者として東国へ送ったところ、将門は同年5月2日付で「謀反は事実無根」の旨を書いた上書をしたためてきます。(『将門記』)

6月7日、経基の密告に基づいて、陣定じんのさだめが開かれ、問武蔵国密告使(推問使)の派遣が決定します。(しかし、問密告使に選ばれた者たちは、将門の武威を畏れ、出立を延引し、結果、出立しません)(『本朝世紀』天慶2年10月7日条、『貞信公記』同3年正月9日条)

6月16日、朝廷は除目によって、坂東国司のすけ以下の人事を決定し、彼らに押領使(国ごとに置かれ、追捕官府を受けて、内乱の鎮圧や盗賊を追捕する権限を有する役職)を兼帯させます。(本朝世紀』)

→坂東の地は治安が悪く、兵乱の地であるというイメージが京にいる貴族全体に共有され、坂東の諸国司に限っては、押領使を兼任する先例がここに生じます。

6月21日付で相模・武蔵・上野権介に太政官符(追捕官府)が下されます。(本朝世紀』)

11月21日、常陸国東部の霞ヶ浦沿岸地方を拠点とし広大な私営田を経営していたが、常陸介・藤原惟幾これちか追捕官府を受けてお尋ね者となった藤原玄明はるあきとその妻子・従者が平将門を頼ってきた事を受け、玄明の追捕撤回を求めたちょうを発しますが、藤原維幾は承諾する事なく、合戦となり、常陸国府は包囲され、維幾も監禁されてしまいます。(『将門記』)

その中に、検交替使といって、前任の国司が任期中に亡くなった場合に都から派遣され、新任の国司との間で事務引き継ぎを執り行う使者がおり、その検交替使までも将門は監禁してしまいます。

朝廷側の認識として、この時期までの将門と敵対する者との争いはあくまでも私戦とみなしていますが、検交替使は詔使(天皇の詔により任命・派遣される使者)であったため、将門の行為は天皇の命令に反する行動となり、これを期に将門の戦いは私戦から国家に対する叛乱という形に政策が転換されていきます。

そうして、12月2日に常陸国府から将門と興世王らが常陸国に損害を与えたとの一報(『日本紀略』)が都にもたらされて以降、同月27日付では、

総国豊田郡武夫、平将門并に武蔵権守従五位下興世王等を奉じて謀反し、東国を虜掠す
という知らせが都の貴族たちを震撼させます。(『日本紀略』天慶3年12月27日条)

そのような中、明くる天慶3年(940)正月11日付で将門を討伐した者に恩賞を与える旨の太政官符(追捕官府)が東海道・東山道とうさんどうに対して下されます。(「天慶三年正月十一日官府」『本朝文粋』巻2)

若し、魁帥(賊徒などのかしら、頭目)を殺さば、募るに朱紫の品を以てし、賜うに田地の賞を以て、永く子孫に及ぼし、之を不朽に伝えん。又、次将を斬る者は、その勲功に随いて、官爵を賜らん。(=首領〔→将門を指す〕を殺したならば、朱色や紫色の服を着る事ができる位を授けて田地を賜り、収公する事なく、子孫に伝える事を許し、次将を斬った者には、その勲功に応じて位を賜る事を約束する)
との恩賞を約束した。

服の色については、衣服令えぶくりょうの「諸臣の礼服」を定めた規定(『衣服令』諸臣条)によると、

 一位…深紫(濃い紫)
 二位・三位さんみ…浅紫の衣(薄い紫)
 四位しい深緋ふかあけ(濃い緋色…朱色)
 五位…浅緋(薄い緋色)

とあるので、朱紫の品とは五位以上の位階を約束した事になります。

さらに14日には坂東八ヶ国のじょう(三等官)が任命され、彼らに押領使の職務である追捕官府を受けて犯人を追捕する任務(追捕凶族使)を兼帯させます。(『貞信公記』天慶3年正月14日条)

 上総掾=平公雅きんまさ
 下総権少掾=平公連きんつら
 常陸掾=平貞盛
 下野掾=藤原秀郷
 相模掾=橘遠保とおやす

そうして18日には、藤原忠文が征東大将軍に任命され、忠文は2月8日に京を出発します。(『貞信公記』『日本紀略』『公卿補任』)

ところが、征東軍使が現地に着く前に―

天慶3年(940)2月14日、平将門が下野掾兼押領使藤原秀郷と常陸掾兼押領使平貞盛に誅されます。(『将門記』)

25日になって、信濃国府より朝廷へ平貞盛・藤原秀郷によって平将門が誅殺された旨(『日本紀略』)が届き、3月5日には藤原秀郷が平将門の誅伐に関する申文(任官を望む自己推薦状)を都に届けます。(『貞信公記』)

これを受けてか、朝廷は矢継ぎ早に9日付で平将門誅伐の恩賞として藤原秀郷を従四位下、平貞盛に従五位下に叙し、位階に見合った衣なども下賜します。(『貞信公記』)

また、18日には征東大将軍・藤原忠文から、興世おきよ王が2月19日に上総掾兼押領使平公雅きんまさによって討ち取られた旨を届けます。(『日本紀略』)

11月16日、朝廷は除目を行い、藤原秀郷を下野権守、平貞盛に右馬助うめのすけに任ずるなど、将門を追討した者に恩賞を約束した正月11日の太政官符の言葉どおり、その他軍功のある者たち数十人に対して官職が与えられます。(『日本紀略』)

 藤原秀郷=下野掾(従七位上相当)から従四位下・下野守、武蔵守へ
 平貞盛=常陸掾(七位相当)から従五位下・右馬助へ
 源経基=武蔵介(六位相当)から大宰少弐(正五位相当)へ
 平公雅=上総掾(七位相当)から安房守(正六位下相当)へ
 平清幹=上野介(六位相当)から因幡守(従五位下相当)へ

この結果、こうした者たちは「承平天慶勲功者」と呼ばれ、以後、「承平天慶勲功者」の子孫のみがつわものの家」の者、すなわち武者(武士)と認知されるようになる訳です。

― ◇ ◇ ◇ ―

では、当時の人々は「武者(武士)」をどう観ていたのでしょうか?貴族の日記や説話集に書かれたエピソードを見る事にします―

蔵人くろうど・藤原範基は武芸に秀でていた人物でしたが、右大臣・藤原実資は「範基武芸を好む、万民の許さざるところ、内外共に武者の種胤に非ず」(『小右記』長元元年(1028)7月24日条)と、「範基が武芸を好むなどもっての外だ!彼は父方も母方も武者の血筋を引いていないじゃないか!」と非難しています。

また、鎌倉時代中期に成立した説話集『十訓抄じっきんしょうには優れた武士として、源頼信・藤原保昌・平致頼むねより・平維衡の名が挙げていますが、このうちの藤原保昌は『尊卑分脈』にも「勇士武略之長名人也」と記された程で、藤原道長・頼通父子の家司を務め、上記のメンバーと共に「道長四天王」と称された人物です。

『今昔物語集』『宇治拾遺物語』に収められた説話によると、『尊卑分脈』「強盗張本本朝第一武略、追討宣旨十五度」と記された盗賊・袴垂が夜道を一人で笛を吹きながら道を行く者の着衣を奪わんとしたが、恐怖から気押されて結局は襲えなかった…と言う逸話(『今昔物語』巻第25、第7話「藤原保昌朝臣、値盗人袴垂語」『宇治拾遺物語』第28話「袴垂、合保昌事」)が記されています。

保昌朝臣ハ家ヲ継タル兵ニモ非ズ、□ト云人ノ子也。而ルニ、露家ノ兵ニモ不劣トシテ心太ク、手聞キ、強カニシテ、思量ノ有ル事モ微妙ナレバ、公モ此ノ人ヲ兵ノ道二被仕ルニ、聊心モト無キ事無キ。然レ、世二靡テ此ノ人ヲ恐ヂ迷フ事無限リ。但シ子孫ノ無キヲ、家二非ヌ故ニヤ、卜人云ケルトナム語り伝へタルトヤ
『今昔物語集』では保昌の事を「「兵ノ家ニテ非ズト云へドモ、心猛クシテ弓箭ノ道二達レリ」(『今昔物語集』巻第19、第7話「丹後守保昌朝臣郎等、射テ母ノ成鹿ト出家語」)とつわものの家」の出自ではないが、「つわもの」たる資質を備えた人物と評していますが、彼の家系が途絶えた際、保昌に子孫がなかったのは「家ヲ継ギタル兵ニモ非ズ」「但シ子孫ノ無キヲ、家二非ヌ故ニヤ、卜人云ケルトナム語り伝へタルトヤ」と「武士の家でもないのに武者としてふるまった罰だと陰口されるほどであった」と書かれてしまいます。

以上の2人には共通項があって、源頼信や平致頼・平維衡のようなつわものの家」の出自ではなく、藤原南家の出なんですね。

この時代というのは、藤原北家、その中でも摂関家となった御堂流が“わが世の春”な時期であり、他の藤原氏と言えども御堂流と縁戚関係を結ばぬ限り、出世など見込めなかったほどです。

そういえば、今年の大河ドラマ「平清盛」でも同じく藤原南家の出である藤原通憲(のちの信西)が平家軍が海賊討伐に出向いた際に潜り込んで、「この国の政治は門閥主義だから、人材登用主義な彼の国〔=中国・宋〕に渡りたい」と語らせてましたね。

いかに武芸に優れていた藤原範基や藤原保昌であっても、つわものの家」「承平天慶勲功者」の子孫でなければ世間には認知されなかったんですね。

― ◇ ◇ ◇ ―

天慶の乱から半世紀を経た頃、一条天皇の治世に輩出した有能な人材のうち、武者として源満仲・源満正(政)・平維衡・平致頼・源頼光を挙げています。彼らこそ、その時代を代表する武者であり、典型的な「家ヲ継タルつわものでした。(『続本朝往生伝』)

佳句既多悉在人口、時之得人…(中略)…武者則満仲、満正、維衡、致頼、々光、皆是天下之一物也
同じく、一条天皇の治世の長徳2年(996)5月に起こった藤原伊周・隆家父子が失脚した長徳の変の際に内裏の警固として動員された「つわ物ども」として、「陸奥国前守維叙これのぶ、左衛門尉維時、備前前司頼光、周防前司頼親など云う人々」を挙げ、「皆これ満仲、貞盛子孫也」とあります。(『栄花物語』巻5・浦々の別)

「承平天慶勲功者」の家がつわものの家」として動員され、なかでも「満仲、貞盛子孫」つわものの家」と認知していた事が判りますね。

― ◇ ◇ ◇ ―

こうしてみると、武者(武士)の条件とは、個人的に武芸が優れている事ではなく、特定の“家”、すなわちつわものの家」と呼ばれる、武芸を家業とする特定の家柄の出自に属している事が重要でした。

そして、そのつわものの家」を創出したきっかけこそが天慶の乱だったのです。

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(参考)佐藤哲「今昔物語集における『兵ノ家』の位置―巻ニ十五の構成意識を中心として―」(『語文』72)
(参考)高橋昌明『武士の成立 武士像の創出』(東京大学出版会)
(参考)川尻秋生『平将門の乱』(『戦争の日本史』4)(吉川弘文館)
(参考)木村茂光『中世社会の成り立ち』(『日本中世の歴史』1)(吉川弘文館)

posted by 御堂 at 04:04 | Comment(2) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

時代劇スター、相次ぐ訃報

俳優の左右田(そうだ)一平氏が亡くなられました。享年81歳。

左右田一平氏と言えば、

  • 新選組血風録(昭和40年〜41年=1965〜66)斎藤一役


  • 俺は用心棒(昭和42年=1967)品田万平役

  • 待っていた用心棒(昭和43年=1968)品田万平役

  • 帰って来た用心棒(昭和43年=1968)品田万平役


  • 天を斬る(昭和44年〜45年=1969〜70)権田半兵衛役


  • 燃えよ剣(昭和45年=1970)裏通り先生役


  • 吉宗評判記 暴れん坊将軍(昭和53年〜57年=1978〜1982)第55話(昭和54年=1979)「奮戦! いも侍」青木文蔵(のちの青木昆陽)役
などが想い浮かびますが、何と言っても「新選組血風録」や“用心棒シリーズ”「燃えよ剣」など、結束信二脚本の作品にはレギュラー的存在として飄々として味のある演技で脇を固めていらっしゃいましたね。

私は、如何せん結束作品に関してはリアルタイム世代ではなく、再放送&VIDEOソフトでの視聴世代なので、世に噂されていた左右田氏の演技を観返すだけでしたが、「吉宗評判記 暴れん坊将軍」での青木文蔵(昆陽)役はリアルタイムで観てましたので、より深い印象として残っています。

しかし、結束作品リアルタイム世代に皆さんにお話を聴くと、皆さん一様に、斎藤一=左右田一平、と仰るんですよね。

「新選組血風録」が放映された当時はまだ斎藤一がどんな人物でどういう生涯を送ったのかは皆目検討のつかなかった時代(実際、「新選組血風録」では土方歳三と共に箱館五稜郭まで行動し、最後は土方に頼まれて日野の姉の許に写真を届ける、という設定でしたから…)であり、飄々とした斎藤のイメージを創られた左右田の演技は現在に至っても、斎藤一のイメージとしてしっかりと残っているのだとか―

時代劇が斜陽な時代に入ろうとする現状の中で、また一人個性ある方が天寿を全うされました!

― ◇ ◇ ◇ ―

俳優の淡島千景さんが亡くなられました。享年87歳。

淡島千景さんと言えば、宝塚歌劇団出身で在籍時は娘役スターとして活躍されました。

その芸名は、『小倉百人一首』に選ばれた源兼昌が詠んだ「淡路(あはぢ)島/かよふ千鳥の/なく声に/幾夜ね覚めぬ/須磨の関守」からネーミングされたものだとか―

さらに、手塚治虫氏のマンガ『リボンの騎士』がありますが、その主人公であるサファイア王女は淡島さんのファンだった手塚氏がたまたま男役を演じた舞台を観劇して、それをヒントにサファイアを考え出したものだったそうです。

宝塚歌劇退団後は映画界に転向され、松竹に入社。松竹の看板女優として活躍されます。その後、東宝に移籍。東宝でも看板女優として活躍され、森繁久彌氏と共演し、一世を風靡した『夫婦善哉』ではぐうたらな男を母性的に見つめる女性役を演じられましたね。

時代劇では、

  • 映画「花の生涯 彦根篇 江戸篇」(昭和28年=1953)村山たか女役

  • 映画「忠臣蔵 花の巻・雪の巻」(昭和29年=1954)浮橋太夫役

  • 映画「絵島生島」(昭和30年=1955)絵島役


  • NHK大河ドラマ「花の生涯」(昭和38年=1963)村山たか役

  • NHK大河ドラマ「赤穂浪士」(昭和39年=1964)お仙役

  • テレビ東京系列12時間超ワイドドラマ(「竜馬がゆく」(昭和57年=1982)寺田屋お登勢役

  • 関西テレビ系「大奥」(昭和58年〜59年=1983〜84)桂昌院役

  • NHK大河ドラマ「春の波涛」(昭和60年=1985)浜田屋亀吉役
などの作品に出演されました。

なかでも、私にとって強烈な印象を残したであろう作品はやはりNHK大河ドラマ「花の生涯」村山たかですね。

もちろん、この作品もリアルタイム世代ではないですが、懐かしのVTRや現存する第1話「青柳の糸」を視聴したので、機知に富んだ村山たかを演じられた淡島千景さんの所作振る舞いなどが印象深いんですよね。

実のところ、淡島千景さんは「花の生涯 彦根篇 江戸篇」という映画で村山たかを演じられています。これは同作の原作者である舟橋聖一氏の希望が叶った上での事らしいんですよね。

舟橋氏の作品で同じく映画化された「絵島生島」でも舟橋氏の希望で淡島さんが絵島を演じたようですし、おそらく大河ドラマでの村山たかの配役も舟橋氏の意向で淡島さんに決まったのでは?と思っちゃいますね。

「花の生涯」は上記のように第1話の「青柳の糸」と第37話の「君消ゆる」で井伊直弼(尾上松緑氏)が桜田門外で襲撃されるシーンしか視聴していないのですが、この作品の最終話は「たか女後日」となっています。

「花の生涯」は村山たか目線のストーリーだったという事ですね。

史実では、村山たかは文久2年(1862)に尊王攘夷派の志士に捕らえられますが、女性という事で死罪を免れ、その代わりに京の三条河原にて三日三晩、生き晒しの刑に処されます。

最終話の「たか女後日」ではおそらくそのシーンが描かれたのでしょうけど、どのような表情を込めて淡島さんが村山たかを演じられたのか機会があれば是非観たいものです…

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これまで数々の作品で私たちを魅了させてくれた左右田一平氏淡島千景さんのご冥福をお祈り申し上げます。

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※(参照)NHK大河ドラマ「花の生涯」→

※(参照)クールな二枚目、俳優の竹脇無我氏死去→
※(参照)もう「アタックチャンス!」の叫びも聴けなくなるんだね!―児玉清氏死去→
※(参照)パッパ、永遠の別れ!―細川俊之氏死去→
※(参照)悪代官役、俳優の川合伸旺さん死去→

posted by 御堂 at 01:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

(トピックス)「高松、松山を征伐すべし」 明治天皇、土佐藩に命令 御沙汰書見つかる

発見された朝廷文書のうち、戊辰戦争時の慶応4年正月11日付土佐少将宛明治天皇御沙汰書

慶応4年(1868)正月3日に徳川幕府第15代将軍・徳川慶喜「討薩表」を掲げた旧幕府軍が鳥羽・伏見の戦いで火蓋を切った事で始まった戊辰戦争で、直後の正月11日付で明治天皇土佐藩第16代藩主・山内豊範に対し、幕府側についた四国の諸藩の追討を命じた(※1)朝廷文書・御沙汰書(※2)の原本などが見つかったと、土佐歴史資料研究会が発表しました。

※1 幕府側についた四国の諸藩の追討を命じた
明治新政府は慶応4年(1868)正月7日、徳川慶喜を朝敵とする追討令(「征討大号令宣布ノ事」『岩倉公実記』)を発し、10日には慶喜の他に幕府閣僚27名を「朝敵」とし、官職の剥奪や京都藩邸の没収などの処分を行使します。

「朝敵」となった者のうち、主っだった者が、

 第一等−徳川慶喜(将軍)
 第二等−松平容保(陸奥会津藩主、京都守護職)
     松平定敬(伊勢桑名藩主、京都所司代) →官位剥奪
 第三等−久松松平定昭(老中・伊予松山藩主) →官位剥奪
     酒井忠惇(老中首座・姫路藩主) →官位剥奪
     板倉勝静(老中次座・備中松山藩主) →官位剥奪
 第四等−本荘松平宗武(丹後宮津藩主) →入洛禁止
 第五等−戸田氏共(美濃大垣藩主) →入洛禁止
     松平頼聰(高松藩主) →官位剥奪

などで、その他にも、

 酒井忠氏(若狭小浜藩主) →入洛禁止
 稲垣長行(志摩鳥羽藩主) →入洛禁止
 大河内松平正質(老中格・上総大多喜藩主) →官位剥奪
 内藤政挙(日向延岡藩主) →入洛禁止

が挙げられます。

※2 朝廷文書・御沙汰書
天皇の指示や命令を表す用語として、詔勅(詔書・勅書)があります。詔勅は「被仰出」「御沙汰」の文言と共に太政官などを通じて示されます。

詔(みことのり)=天皇の命令、その命令を文書形式にしたものを詔書(しょうしょ)という。

律令制度下においては、公式令(くしきりょう)にその書式が定められおり、詔は重要事項の宣告に用いられ、天皇は署名せず、草案に日付(御画日)を書き、成案に可の字(御画可)を書きました。公卿(大臣・大中納言・参議)全員の署名を必要とし、詔書は天皇と公卿全員の意見の一致が必要であり、手続きが煩雑なため、のちには即位、改元など儀式的な事項にのみ用いられた。

勅(ちょく)=天皇の命令、その命令を文書形式にしたものを勅書(ちょくしょ)といい、口頭伝達によるものを勅語(ちょくご、おことば)といいます。

勅書には、通常の政策決定に用いられるものや、緊急事案を伝達する際に用いられるものに分けられます。

勅書へは天皇の署名や公卿等の連署は必要なく、律令制度が形骸化するにつれて、天皇の意思表示は女房奉書や御沙汰書など非公式の形で伝えられるようになっていきます。

この場合、御沙汰書とは、勅書に該当しますね。


御沙汰書は、高知県東部に住む歴史愛好家の男性が所有していて、今月初めに同研究会に鑑定を依頼。

前佐川町立青山文庫館長の松岡司さんが鑑定した結果、原本と確認されました。

明治天皇が「土佐少将」(=土佐藩第16代藩主・山内豊範)に「(幕府を助ける)高松藩や伊予松山藩を征伐すべし」と命令した御沙汰書。「徳川慶喜反逆」などの文字も見える

御沙汰書奉書紙(ほうしょがみ=楮〔こうぞ〕を原料とした厚手の紙で、黄葵の根や白土などを混ぜ合わせた事でより強度と厚みをましたものになっている。室町幕府から命令伝達の公文書として採用された)に書かれており、縦22cm、横110cmの切り紙で、「土佐少将」(=豊範)に「(15代将軍)徳川慶喜の反逆」に味方する「讃州高松」(高松藩)、「予州松山」(伊予松山藩)の両藩と、川之江などの幕府直轄領「征伐」あるいは「没収」し、功績を速やかに報告するようにせよ、との指示がなされ、但し書きでは、徹底した取り調べと人心の安定も求めています。

実際、土佐藩板垣退助高松城に出陣するなど各地に出兵しますが、何れも戦争にはならず、無血開城(※3)しています。


※3 土佐藩は板垣退助が高松城に出陣するなど各地に出兵しますが、何れも戦争にはならず、無血開城
慶応3年(1867)12月9日の王政復古の大号令の後の小御所会議で公議政体派から倒幕派へ転換した土佐藩が中心となって、丸亀藩や多度津藩の協力の下、高松城下に進駐します。

讃岐高松藩は、宗家である水戸藩が勤王派にもかかわらず、藩主・頼聰の正室が大老・井伊直弼の娘という立場から、鳥羽伏見の戦いでは旧幕府軍にに与(くみ)したため、戦後、新政府から朝敵とされ頼聰は官位を剥奪されます。

戦意を喪失した高松藩側は、1月18日に家老の小河(おごう)又右衛門久成と伏見の戦いの際に総督を務めた小夫(おぶ)兵庫正容(まさしず)の2人を切腹させ、20日には頼聰自らも謹慎して恭順の意を示した事により赦免されます。

伊予松山藩は、徳川家康の母(伝通院)の再婚先であった事から、特に松平の姓(久松松平家)を与えられました。身分としては譜代大名ですが、江戸時代後期になり、御三卿である田安徳川宗武の子を養子にした事から親藩として扱われます。

藩主の定昭は幕府の老中も務め、そのため佐幕派として、第二次長州征伐(四境戦争)には先鋒として出兵。周防大島口の戦いにおいて、住民への略奪・暴行・虐殺を行った事で長州藩の恨みを買っていて、鳥羽・伏見の戦いでは摂津国西成郡曾根崎村の梅田墓地か梅田道周辺(現、大阪市北区曾根崎、梅田一帯→とある書物には、梅田村と書き記したものがありますが、江戸時代を通じて梅田という地名は存在しません。寧ろ、明治以降に誕生した地名です)の警護に就き、戦局を傍観します。

しかし、先の周防大島口の戦いでの恨みを晴らそうとする長州藩の意向で朝敵とされ、定昭の官位剥奪と追討命令が下ります。

藩論は徹底抗戦派と恭順派に分かれて紛糾しますが、定昭は恭順に踏切り、土佐藩が問罪使を派遣して明治新政府の意向を伝えると蟄居謹慎し、恭順の意を表します。

27日、松山城が無血入城という形で接収され、土佐藩の占領下に置かれるです。


御沙汰書の内容については、山内家の公文書をまとめた『山内家史料』『豊範公紀』などに記載されていたために周知されていましたが、原本は維新後の混乱や、東京の家屋が空襲で焼けるなどで、その多くが散逸し、所在が不明となっていたようです。

また、他にも孝明天皇の御名で文久3年(1863)正月に出された御沙汰書には、幕府に攘夷の実行を迫るため、前年の文久2年(1862)に徳川将軍へ攘夷勅使を派遣した際、護衛に当たるなどした土佐藩の働きを賞して、天皇の着衣を下賜するので、外国人を攻める時に陣羽織などとして着用するようにと求めたものと、天皇に拝謁して天盃を頂くよう伝えた達書(たっしがき)が見つかっています。

鑑定された松岡さんは「何れも明治維新土佐藩が果たした役割を示す書状で、貴重な発見。不明となっている土佐藩の功績を伝える文書が未だまだ多く残っているのでは」と話されています。

同研究会は所有者から御沙汰書などを借り受け、27日から2月3日までの期間、高知市立龍馬の生まれたまち記念館(高知市上町二丁目)で公開するとの事。

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参考文献)
水谷憲二『戊辰戦争と「朝敵」藩―敗者の維新史―』(八木書店)
宮間純一「戊辰戦争期における『朝敵』藩の動向―伊予松山藩を事例として」(『中央大学大学院研究年報』39)


posted by 御堂 at 12:48 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

(トピックス)「師範学校創設を」 教員養成学校の創設訴える明治期のお雇い外国人グリフィスの書状 福井大学で公開!

グリフィスが「かのトレーニングスクールを福井へ…」と師範学校の設立を由利公正に宛てた書状

◇先見性と資質示す史料 福井大学で公開

明治初期、越前福井藩が招聘したお雇い外国人のアメリカ人教師ウィリアム・エリオット・グリフィス(William Elliot Griffis)が、元福井藩士明治新政府の中枢で多くの功績を残した由利公正こうせい(三岡八郎)に宛てた書状を新たに発見したと発表されました。

書状は今年2月、個人の所蔵で、東京都内の古書店で売りに出されているのを同大学の膽吹覚准教授(国文学)が知り、財団法人「日下部・グリフィス学術・文化交流基金」が購入し、同大学に寄贈した。

書状宛所あてどころは当時の東京府知事であった由利宛てで、縦15cm、幅が約2m近くの巻紙に日本語の漢字仮名交じりの文章を毛筆体で書かれており、グリフィス本人ではなく、グリフィスの側近(※1)となっていた日本人の代筆のような感じです。


※1 グリフィスの側近
書物を読んだだけで確証はありませんが、側近というべきかどうか解りませんが、グリフィスの世話係&学校係だった前田氏寿が代筆した可能性もあるのでは…


差し出し日は明治4年(1871)8月10日付けで、ちょうどグリフィス福井藩藩校「明新館」で教壇に立っていた時期に当たるそうです。

その中で、由利とは由利の長男がグリフィスの教え子だった事もあって、家族ぐるみの親交が深かった間柄であった事が判っています。

― ◇ ◇ ◇ ―

書状には、グリフィスの意見として、

日本の教育行政における緊急の課題として、

当今の急務は学生を多く教えることにこれなく、かえって後に教師とすべき人物を多くこしらえる趣意にこれあるべく候
学生を教えるよりも、教師となる人材を育成する必要性がある、と説き、

次いで、

チーチャルス。トレーニングスクールと申す学校を御建立に相成り候よう懇願奉る
と外国人教師の増員ではなく、日本人教師養成のための師範学校を全国に創設すべきだ、と説き、

また、

かのトレーニングスクールを福井へ御設け下さるべく候よう願い居り候
と、師範学校は国内に5〜6校を設置し、創設の際は、その中の1校を福井にも置いて欲しいと呼び掛け、

「既に藩校の明新館で日本人教師を養成している」と自らの取り組みを記し、「文部省に提案したいので、(由利に)同省の人物を紹介して欲しい」といった提言をしています。

― ◇ ◇ ◇ ―

師範学校の設立過程については、明治7年(1874)に日本における師範学校設立に大きな影響を与えたとされるドイツ人医学教師テオドール・エドワード・ホフマン(Theodor Eduard,Hoffmann)が文部省に提出した『ホフマン氏学校建議』がありますが、それよりも数年さかのぼっている事になる訳です。

書状を分析した同大学の膽吹覚准教授(国文学)は、「(グリフィスの手紙は)『ホフマン氏学校建議』よりも時期が早い。グリフィスのこの提言は私信に過ぎないが教育者としての資質の高さを示す貴重な史料」と話されています。

― ◇ ◇ ◇ ―

さて、この書状に対する由利の返信は、10月10日付で、同大学が学術交流協定を結ぶラトガース大学のアレキサンダー図書館が所蔵するグリフィスが収集した「グリフィスコレクション」の中に所在を確認されています。

その返信の中で由利はその当時、体調を崩していた時期で、「体調不良のために直ぐに(献策)はできないが、何れ文部卿(=大木喬任)への上申を約束する」と賛意を込めた旨が綴られているという。

その後、翌5年(1872)9月に「学制」が発布され、最初の師範学校(※2)が開校しているが、グリフィス由利の提言した記録が残っていないため、実際には上申されなかった可能性が高いそうです。


※1 師範学校
学制発布に基づいてできた官立の師範学校
 師範学校→東京師範学校(現・筑波大学)
 東京女子師範学校→東京師範学校女子部(現・お茶の水女子大学)
 大阪師範学校
 宮城師範学校
 愛知師範学校
 広島師範学校
 長崎師範学校
 新潟師範学校


膽吹准教授は「若し上申され、グリフィスの提言が通っていれば、官立の師範学校が福井に設立され、福井に帝國大學ができていたかもしれないかもしれず、北陸の高等教育の中心地になっていたかも…その意味でグリフィスは福井に教育の種をいた人物だと言える」と話しています。

― ◇ ◇ ◇ ―

発見されたグリフィス書状は、現在同大学文京キャンパスにある総合図書館(福井市文京)でグリフィス来福140年記念事業の一環として、福井大学とラトガース大学の学術交流協定30年を記念して開催されている「お雇い外国人教師 グリフィス展」(〜1月10日まで)でで公開中です。

企画展では、グリフィス由利へ宛てた書状の他に、グリフィスの化学講義テキストや著書など様々な史料約50点が展示されています。

※ ウィリアム・エリオット・グリフィス(William Elliot Griffis)
1843年(天保14)、アメリカ・ペンシルベニア州フィラデルフィア生まれ。1766年(明和3)創立で全米で12番目に古い歴史を持つニュージャージー州の州立大学ラトガース大学(Rutgers,The State University of New Jersey)卒。在学中に同大学に留学した福井藩初の留学生・日下部太郎(在学中に肺結核に倒れる、享年26歳)をラテン語を指導したのが縁で、同藩のお雇い外国人教師として来日する。

明治4年(1871)3月7日に来福以降、翌5年(1872)1月20日までの福井滞在期間、藩校・明新館で理科(化学と物理)や地質学などを教え、福井の教育促進に貢献。日本最初の米国式理科実験室となる、天窓のついた理科室と大窓のある化学実験室を設計した。

その後大學南校(現在の東京大學)などで教鞭を執り同7年(1874)に帰国した。

帰国後は福井や日本での経験を基に『皇国』を出版し、日本の紹介に務めるなどで余生を過ごした。

なかでも、日露戦争時には、日本の国民性アメリカ国民に理解してもらおうと国内を遊説して廻ったという

グリフィスの尽力により、ラトガーズ大学に留学した人材の主だった者を日下部太郎以外に挙げると以下のような人物がいます―

 横井小楠の甥である横井左平太、横井太平
 勝海舟の子・勝小鹿
 三井高善の子息・三井弥之助、三井三郎助(高景)
 岩倉具視の子息・岩倉具定、岩倉具綱、岩倉具経
 大隈重信の婿養子・大隈英麿(離縁ののち、南部英麿)
 松方正義の子息・松方幸次郎
 元土佐藩海援隊士の菅野覚兵衛や白峰駿馬
 元会津藩白虎隊士の山川健次郎


― ◇ ◇ ◇ ―

※(参考文献)福井市立郷土歴史博物館編『よみがえる心のかけ橋−日下部太郎、W.E.グリフィス』(福井市立郷土歴史博物館)

posted by 御堂 at 01:56 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

(トピックス)日本海海戦で漂着したロシア兵遺体を丁寧に埋葬 鳥取県が調査

冊子を手に「他の日本海沿岸の地域でも漂着したロシア兵の研究が進めば」と話す清水さん

日露戦争(明治37〜38年:1904〜05)の勝敗を大きく決定づけた日本海海戦(明治38年=1905=5月27〜28日)で、鳥取県内の海岸にロシア兵7人の遺体が流れ着いていた事が、鳥取県立公文書館の調査で判明したそうです。

鳥取県内に流れ着いたロシア兵の遺体に関する実態が明らかになるのは初めてで、同館では調査結果をまとめた冊子『日露戦争時・鳥取県域に漂着したロシア兵』を作成し、同館のホームページで調査結果を公開しています。

― ◇ ◇ ◇ ―

鳥取県内でのロシア兵の遺体に関しては、田後村(現、岩美郡岩美町田後)の漁師が浦富うらどめ海岸の鴨ヶ磯の沖合で漂着した2名の遺体を発見。

引き揚げてはみたが、敵国であるロシア兵の遺体をどうすればよいか村人の間で意見が分かれ、話し合った結果、「敵国といえども亡くなれば同じ仏ではないか」と意見が一致し、遺体を同地に手厚く弔ったと伝えています。

その後、このエピソードを聞き知っていて、村人たちの寛大な心に心打たれた同町出身で初代国連大使の澤田廉三氏(奥様は児童養護施設「エリザベス・サンダースホーム」(神奈川県中郡大磯町)創設者の澤田美喜さんですね)が、ロシア兵の慰霊と村人たちの人類愛を顕彰する目的で昭和37年(1962)に「露軍将校遺体漂着記念碑」が建立され、以後、5年毎にロシア外交官が来県して献花を行う「露国将兵慰霊祭」が催されています。

他にも『境港市史』に僅かな記述があるものの、実態は殆んど明らかになっていなかったそうです。

同館が調査したきっかけは、2月の県議会での森岡俊夫県議の一般質問で「島根県では『(日露戦争の)日本海海戦で島根県沿岸に漂着したロシア人』という史実をまとめている。鳥取県でもまとめてみたらどうか」という提案が発端。

同館専門員の清水太郎さんが担当となって調査を始めますが、県や各市町村に残された当時の公文書にはロシア兵に関する記述が残っていませんでした。

そこで、6月まで約3か月の期間をかけて岩美町など現地での聴き取り調査や国立公文書館が保管する資料など、できる限り当時の状況が記載された資料を照らし合わせた結果、県内には明治38年(1905)6月から7月にかけて、

  • 岩美郡田後村の浦富海岸沖合…2名(→漂流していた遺体を回収)

  • 岩美郡田後村の城原しろわら海岸の岩穴…1名(→漂着)

  • 岩美郡東村大字小羽尾こばねお村(現、岩美郡岩見町小羽尾)の沖合…1名(→漂流していた遺体を回収)

  • 西伯さいは郡境町字台場先(現、境港市)の海岸(美保湾の沖合)…2名(→漂流していた遺体を回収)

  • 西伯郡所子ところご村大字福尾村(現、西伯郡大山だいせん町福尾)の海岸沖合…1名(→漂着)
の計7体が漂着、または漂流して沖合で回収され、埋葬されていた事など、これまで殆んど知られていない事実を掘り起こす事ができたようです。

これら漂着した7体の遺体についての詳細は、国立公文書館に所蔵されている『警保局長決裁書類・明治42年』に記載されていて、実は政府からの漂着したロシア人の調査依頼を受けて、日本海沿岸部の各府県が実施した結果だと云います。

― ◇ ◇ ◇ ―

また、これらの遺体は各地で埋葬された後、明治42年(1909)9月27日に長崎のロシア人墓地に合祀されますが、それにはロシア正教会の宣教師で日本正教会の創建者として東京復活大聖堂(通称、ニコライ堂)(東京都千代田区神田駿河台)に建設に尽力したニコライ・カサートキン主教が日本海海戦から3年後の明治41年(1908)8月に境港の埋葬地を訪れた際、遺体の埋葬地が忘れ去られる事を危惧し、ロシア大使らに合祀する事を積極的に働きかけていた事がきっかけになっていた事も判明しました。

ニコライ主教は日記に境港の埋葬地を訪れた時の様子について、

墓の盛り土はなく、埋葬の際の目撃者が場所を教えてくれなかったら絶対に見つけられないところだった

いまの場所に墓が置かれたままでは、近いうちに墓はうち捨てられて忘れられてしまう。わたしはそれを境の港で目にした
と伝染病患者が葬られている墓地に一緒に葬られいているという埋葬状況に衝撃を受けたと記述。翌年3月の日記では、訪ねて来たロシア大使に、

一九〇五年五月の海戦のあと、日本各地の海岸に打ち寄せられてそこで埋葬されたロシア兵戦没者の遺骨を、一ヵ所に集めて共同墓地に埋葬するという話である。…(中略)…わたしは、なんの差しさわりもない、それどころか、おおいに望ましいことだと答えた。その際、長崎に埋葬されている遺骨をすべて集め、海軍省の指示にしたがって「水兵の英雄」のための記念碑が造られているところに、共同墓地として埋葬することが望ましい

教会としては水兵の遺骨を一ヵ所に集めることになんの支障もないこと、いまの場所に墓が置かれたままでは近いうちに墓はうち捨てられて忘れられてしまうこと、わたしはそれを去年すでに境の港で目にしたことなどを話した
と合祀を実施する方向で、在日ロシア大使館を通じてロシア政府に日本全国に埋葬されたであろうロシア兵の調査を働きかけていたのです。(『宣教師ニコライの全日記』1909年=明治42=3月19日条)

― ◇ ◇ ◇ ―

冊子はB4判で62ページ。440冊を作成し、全国の都道府県立の図書館とロシア大使館などに送ったほか、県内各市町村の図書館などでも閲覧できるようです。

同館の清水さんは「今回、大山や境港でも遺体が埋葬されていた事が判った。ロシア兵の遺体に戒名を付けるなど丁重に葬られた事例も紹介しており、今回の調査がきっかけとなり、日本海沿岸の各自治体でも同様の調査が広がって欲しい」と話されています。

― ◇ ◇ ◇ ―

日本海海戦でのロシア軍将兵の漂着および漂流、そして埋葬の事実は正直知りませんでした。

明治38年5月27、28日の両日、対馬海峡を中心に繰り広げられた日本海海戦において、沈没(被撃沈・自沈合わせて)21隻・拿捕3隻・降伏4隻・抑留7隻・残存3隻となり、ロシア艦隊は壊滅的打撃を受け、捕虜となった数はは6106名にもなりました。

そこで、何か参考になるものはないかと調べてみると、吉村昭氏の著作で『ロシア軍人の墓』『歴史の影絵』所載)という作品がありました。それには、

  • 長崎県上県かみあがた郡琴村の琴村(現、対馬市上対馬町)の茂木海岸には、装甲巡洋艦アドミラル・ナヒモフ号の乗組員101名が上陸。村人たちは彼らを小学校や民家に収容して手厚くもてなした

  • 山口県から北北西の沖合にある阿武郡見島みしま村(現、萩市見島)の宇津海岸に特務工作艦カムチャッカ号の乗組員56人が上陸、また阿武郡椿東村(現、萩市大字椿東)の越ヶ浜こしがはまにも同艦の乗組員8人が漂流していたが、漁民たちによって救助された(しかし、全員が亡くなったとの事)

  • 山口県阿武郡須佐村(現、萩市須佐)の須佐海岸にはバルチック艦隊(第二・第三太平洋艦隊)の旗艦クニャージ・スヴォーロフ号の乗組員33人が上陸

  • 島根県の土田海岸の二つ浜のうちの北浜(現、益田市)には仮装巡洋艦ウラル号の乗組員21人が上陸

  • 島根県那賀郡都濃村(現・江津市和木町)の和木海岸真島沖には運送船イルティッシュ号の乗組員235名が上陸。村人たちは空き家になっている家屋に仮収容して食事などを与え、手厚くもてなした

  • 島根県簸川ひかわ郡北浜村(現、出雲市十六島うっぷるい町)には、ロシア人乗組員の死体5体が漂着。軍の許可を得て、村人たち総出で収容した遺体の葬式を挙げ、戒名を付けて共同墓地に埋葬。墓前は現在いまでも村人たちの手で綺麗に清掃され、献花も絶えないと云います。また、毎年慰霊の行事も行われているのだとか―
日本海海戦でのロシア側の戦死者は、4830名にのぼるそうです。

その内訳として、砲弾や火災によって死んだ者もそうですが、溺死によって死んだ者の数もおびただしく多かったようで、そうした遺体が漂着した訳ですよね。日本国内で埋葬されたロシア軍将兵の数は462名にのぼるそうです。

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参考)日露戦争時・鳥取県域に漂着したロシア兵(とりネット=鳥取県公式ホームページ「鳥取県立公文書館」より)→(PDF形式なので注意!)

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※(参考文献)中村健之介『宣教師ニコライとその時代』(講談社現代新書)
※(参考文献)中村健之介監修『宣教師ニコライの全日記』(教文館)

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(トピックス)「信長平氏説」に一石!―始祖の墓発見 没年が判明

法楽寺で60年以上前に見つかっていた親真を供養した五輪塔の一部。親真の没年が刻まれている

福井県越前町教育委員会は1日、戦国武将織田信長のルーツとされる福井県丹生郡越前町織田おたつるぎ神社に近い法楽寺で信長の十数代前の先祖と云われる親真ちかざねを供養した石造物が見つかったと発表しました。

見つかった石造物は60年以上も前に見つかっていたものですが、これまでは詳しく調べられておらず、改めて調査が施された結果、「親実」を供養した五輪塔と呼ばれる墓の台座部分に当たる「地輪じりん」の破片(一辺が約22cmの立方体だったが、半分欠けていた)である事が判明しました。
法楽寺で60年以上前に見つかっていた親真を供養した五輪塔の銘文
側面には、

喪親真阿聖霊正應三年庚刀かのえとら二月十九日未尅ひつじのこく
裏面には、

孝子七月吉日
と銘文が刻まれており、「親真は正応3年(1290)2月19日に死去。孝行な子どもが5か月後の7月に建造した―」と読めるようです。

越前町教育委員会は石材の材質が鎌倉期から南北朝期に地元でよく使われた石材に酷似している点や、五輪塔の構造、銘文の文字の配列が鎌倉後期の特徴と合致する点を確認。「親真」の没年を記載したものと判断されたようです。

一般に流布している、江戸時代に書かれた織田氏の系図では「親真」の没年は正元2年(1260)とされていましたが、今回の発見から没年がそれよりも30年後と判明し、少なくとも壇ノ浦の戦い平氏が滅亡した元暦2年(1185)の頃には生まれていない可能性が高くなりました。

― ◇ ◇ ◇ ―

さて、織田氏のルーツには諸説ありますが、20種類以上も伝わる織田氏の系図のその多くが、「親真」壇の浦の戦い(元暦2年=1185)で死んだ平資盛清盛の孫)の実子で、壇ノ浦の前年、資盛は子を身籠っていた「親真」の母を近江国津田庄(現、滋賀県近江八幡市南津田町)に隠したと云います。

「親真」の母はそこで「親真」を産み、やがて津田庄の土豪の妻となり、「親真」も津田の苗字を名乗りますが、その後、『古語拾遺』という平安時代の神道資料を編纂した斎部いんべ(忌部)宿禰すくね広成ひろなりの子孫で、越前国織田庄の剱神社の神官だった斎部(忌部)親澄ちかずみの養子となって斎部姓(※1)へ改め、神職につき、貞永2年(1233)剱神社神主となった折りに織田を苗字とし「織田三郎権大夫」と名乗ったという説です。


※1 斎部姓
忌部氏は延暦22年(803)に「忌部」姓から「斎部」姓に改姓している。


一方で、「親真」剱神社神官の斎部(忌部)氏の直系の出目とする説があり、同町織田に伝わる斎部(忌部)氏の系図では、「親真」斎部(忌部)親澄富田とみだ三郎基度もとのり(※2)の娘との間の子としています。この富田三郎基度伊勢平氏の出自だったと云うんですね。

※2 富田三郎基度
富田三郎基度については、伊勢国富田庄(現、三重県四日市市東富田町茶屋町)を本貫とした一族で、元暦元年(1184)7月から8月にかけて、平家継・平信兼によって引き起こされた伊勢平氏の乱に参加し、19日に近江国大原荘で討ち取られた侍大将の中に富田進士平家資(家助)の名が見られる。
また、元久元年(1204)4月10日から12日の3日間にかけて起こった三日平氏の乱にて進士三郎基度がその居館である富田館に籠城したという記載がみられる。(『吾妻鏡』)


また、織田庄の庄官だった藤原信昌藤原将広父子が織田庄に土着した事で出自が始まったされる藤原氏説もありますが、これは明徳4年(1393)6月17日に劔神社に奉納し、置文を記した「藤原信昌・同将広置文」という古文書に由緒を求めているようです。

実際、織田信長は天文18年(1549)11月に熱田神宮に宛てた書簡に自ら「藤原信長」したためたり、天文23年(1554)6月11日に熱田神宮に対し、「菅原道真画像」を寄進した際にも「藤原織田勘十郎」と認めている事実が見られますが…

― ◇ ◇ ◇ ―

越前町教育委員会の堀大介学芸員は「『親真』壇ノ浦の戦いの頃に生まれたとすると105歳近くで死亡した事になり、『信長平氏説』は理論上あり得ず、信長を作為的に繋げるため、『親真』を系図上で利用したと考えられる」と指摘。

また、「劔神社の神官だった斎部(忌部)氏織田氏の先祖である可能性が高くなった」と話している。

「信長平氏説」の否定に繋がる発見として一石を投じそうな感じですね!

この石造物は6日まで、同町の織田文化歴史館で公開されます。

posted by 御堂 at 05:31 | Comment(2) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

(トピックス)尊王攘夷掲げた土佐勤王党盟主 武市半平太の銅像完成 霊山歴史館で26日から公開

江里さん(右)が制作した武市像

江戸幕末期尊王(※1)攘夷を掲げた土佐勤王党の盟主、武市半平太(瑞山)ブロンズ座像がこの程完成し、霊山歴史館(京都市東山区)で報道関係者に披露されました。

※1 尊王
よく「尊王」と「尊皇」を同じ意味で使用するケースが多いのですが、この2つの用語は全く意味合い(イデオロギー的な)が異なるので注意しましょうね!「尊王」とは中国の幕末・維新期に思想から生まれた語で、「王権を尊ぶ」という意味として使われます。これに対して「尊皇」は「天皇を尊ぶ」という意味となり、昭和戦前期のファシズム的軍部のイデオロギー用語に使われました。(拙稿「高山彦九郎は『土下座』?いえいえ、これは『遥拝』!」より引載→


― ◇ ◇ ◇ ―

ブロンズ座像(高さ55cm)は、文久元年(1861)8月、土佐藩出身で江戸留学中であった武市半平太(瑞山)らによって土佐勤王党が結成されて今年で150年目にあたるのを記念し、坂本龍馬土方歳三など同館所蔵の銅像6体を手掛けられている彫刻家の江里敏明さんに制作を依頼。

武市半平太(瑞山)の写真は現存せず、死罪を宣告された獄中から妻に送った自画像や明治期の画家が描いた肖像画を参考に、半平太(瑞山)の若い頃の姿を想像し、羽織袴姿で正座し、真っ直ぐ前を見据え、閉じた扇子を右手に持って毅然とした表情を形造った。

江里さんは「西洋化の波が押し寄せた時代に、信念を貫いて思想を説いた芯の強さが伝われば嬉しい」と話されています。。

このブロンズ座像は、26日から始まる特別展「龍馬と土佐の衝撃」で一般公開されます。

特別展では、他に半平太(瑞山)が切腹時に使った短刀や、その時の血痕が残る襦袢じゅばん土佐藩主・山内豊信(容堂)の陣羽織(複製)など幕末の史料など約100点が並んでいます。

霊山歴史館・特別展「龍馬と土佐の衝撃〜土佐勤王党結成から百五十年〜」
 第一期:10月26日(水)から11月27日(日)まで
 第二期:11月29日(火)から12月26日(月)まで

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参考)(トピックス)龍馬に寄り添え!お龍さんの座像が完成→
※(参考)(トピックス)勝海舟のブロンズ像完成、江戸無血城談判での苦悩する姿に注目!→

posted by 御堂 at 02:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

(トピックス)都心からの眺望“富士見坂が“全滅”−でも、いいじゃん!富士山が噴火した際、火山灰が都心に来ない様に犠牲になってくれるから…

「日暮里富士見坂」から望む富士山。大久保三丁目西地区開発計画地に高さ約160mの高層住宅・事業棟が建つと、オレンジ色の線の部分で富士山の姿が消滅するらしい

東京都荒川区西日暮里にっぽりにある通称「日暮里富士見坂」から見る事ができる富士山の眺望が、6・2km離れた新宿区大久保三丁目に建設される高層ビルにより、ほぼ喪失する事が判明したそうです。

この「日暮里富士見坂」はJR山手線内と外側周辺で「富士見坂」と名の付く約20か所の坂のうちで、良好な富士山を眺望でき得る最後の場所として知られており、JR西日暮里駅と日暮里駅の中間に位置し、澄んだ空気が多くなる冬場には坂の上から102km先の富士山が遠望できるとして、地元住民ならずとも多くの写真愛好家らに親しまれてきた場所。

特に、この「日暮里富士見坂」は11月中旬頃や1月末頃に“ダイヤモンド富士”が観られる格好の場所なんですよね。

富士山は平成2年(1990)頃までほぼ完全な姿で観えていたが、平成12年(2000)に文京区内にマンションが建てられた事で、まずは左の稜線りょうせんが見えなくなったと云います。

高層ビルの建築を計画中の企業は、JR高田馬場駅と新大久保駅の中間にあるJR職員宿舎跡地を「大久保三丁目西地区開発」として再開発。高さ約160mの住宅棟(45階建て)と事業棟(34階建て)各1棟などを建設すると云います。現在は整地を終えた着工前で、平成25年(2013)中に完成の予定だとか…

民間の「富士見坂眺望研究会」が作成したシミュレーションによると、このビルは富士見坂からの富士山眺望ラインに立地し、予定通り完成すると、山頂と右側の稜線を残し、完全にさえぎられ、富士山だと判別するのは難しくなるとの事。

この企業は「(眺望が損なわれる事は)知らなかった。今から建設中止にはできず、大変残念だがご理解頂きたい」と全くエコノミック・アニマル的(=利潤を追求するためなら、文化遺産の破壊もやむを得ない政策を施す企業の事、1970年代に日本の企業の殆んどが社会問題を引き起こしている)な発言をして民意を無視しているようです。

― ◇ ◇ ◇ ―

そこで、チョット視点を変えてみました―

富士見坂=富士山が垣間見れるって事は、将来富士山が噴火した際の噴火・降下物の絶好の通り道になるんじゃない?

周知の通り、富士山は日本最大の活火山です。

つい最近の富士山の噴火といえば、江戸時代中頃の宝永4年(1707)11月23日に始まり、12月8日に終息した宝永の大噴火が文献史料において最大規模の噴火と云われています。

この宝永の大噴火の特徴は、大量の火山灰が広範囲な地域を覆った点です。

現実に100km離れた江戸市中まで火山灰が降り積もったと云います。

当時、徳川幕府第6代将軍・徳川家宣侍講として江戸に居住していた新井白石はその随筆集『折りたく柴の記』に降灰の様子を、

よべ地震ひ、この日の午時雷の声す、家を出るに及びて、雪のふり下るごとくなるをよく見るに、白灰の下れる也。西南の方を望むに、黒き雲起こりて、雷の光しきりにす
(=江戸でも前夜から地震があった。昼前から雷鳴が聞こえ、南西の空から黒い雲が広がって江戸の空を多い、空から雪のような白い灰が降ってきた)
と記していたり、2日後の25日にも「黒灰下る事やまずして」『折りたく柴の記』)と状況を書き記しています。

すなわち、江戸の町は大量の降灰のために昼間でも真っ暗となり、燭台のあかりをともさねばならなかった事が判ります。

更には、「最初の降灰はねずみ色をしていたが、夕刻以降、色が黒く変わった」伊藤祐賢『伊藤志摩守日記』より)と記している事から、最初の火山灰は白灰であったが、夕方には黒灰に変わっていったと噴火の最中に火山灰の成分が変化していた事を示すものも見受けられます。

実際に、この時江戸に降り積もった火山灰を調べてみると、東京大学本郷キャンパスの発掘調査から薄い白い灰の上に、黒い火山灰が約2cm積もっている事が判明しています。

富士山の噴火に際し、この宝永の大噴火と同じ規模の噴火が起こった場合に火山灰が2cm以上降り積もる地域をシュミレートすると、予想範囲は富士山麓だけでなく現在の東京都と神奈川県のほぼ全域・埼玉県南部・房総半島の南西側一帯に及ぶそうです。

更に、宝永の大噴火の特徴として挙げるべきは、噴火の直前に記録的な大地震があった事です。

実は、噴火の始まる49日前の10月4日に推定マグニチュード8・4〜8・7と推定される宝永の大地震が発生していたのです。

この地震は定期的に巨大地震を起している、遠州沖を震源とする東海地震と紀伊半島沖を震源とする南海地震が同時に発生したもの(東海・東南海・南海連動型地震)と考えられていて、地震の震源域となった南海トラフを東北に延長すると、駿河湾を通って、富士山西麗の活断層である富士川河口断層帯と連続しているのです。

現実に、南海トラフ相模トラフを震源とする地震や近隣地域地震の前後25年以内に、富士山に何らかの活動が発生している事例が多く見られ、その意味でも地震と富士山活動とは関連性があると考えれれています。

相模トラフ沿いを震源とする巨大地震として宝永の大地震の4年前にあたる元禄16年(1703)11月23日に発生した元禄の大地震の際も富士山麓から鳴動が聞こえたという文献史料が残っているのだとか―

ちょうど、江戸時代中期の元禄年間から宝永年間は巨大地震が頻発した時期だそうですが、元禄の大地震は関東地方を襲った大地震で、震源は房総半島南端にあたる千葉県の野島崎、マグニチュードは8・1と推定されています。

後の大正12年(1923)9月1日に発生した関東大震災と同じ海溝型地震で、大規模な地殻変動が起こったため、震源地にあたる南房総では海底平面が隆起して段丘を形成し、野島岬は沖合の小島だったのが地続きの岬へと変貌したそうです。

以上の点から、富士山が噴火したら、関東一円に火山灰が降り注ぐのは間違いのないところ…

因みに、宝永の大噴火以降の富士山の活動を調べてみると、

宝永5年(1708) 鳴動
大正12年(1923)新たな噴気
昭和62年(1987)一時的に火山性地震が活発化し、山頂で有感地震(震度3)を記録
平成12年(2000)〜翌13年(2001)富士山の深層部で低周波地震が一時的に多発

となっています。

こう考えたらどうかな?

富士山の眺望はできなくなるけど、将来富士山が大噴火した際にはこの企業が建築した高層建築物やそこに生活・居住する人たちが人柱となって、少なくとも被害を食い止めてくれると考えましょう!彼らが自ら犠牲になってくれるんだとね―

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参照)津波に消えた豊後沖ノ浜→
※(参照)実録「岸辺のアルバム」―狛江水害(多摩川水害)→
※(参照)生死を分けた15段―天明3年の浅間山大噴火において→
※(参照)安政の大地震とその被災記録→

posted by 御堂 at 02:34 | TrackBack(0) | 歴史:コラム

奇跡の人・塙保己一―ヘレン・ケラーが“心の支え”とした日本人

昭和12年(1937)4月、ヘレン・アダムス・ケラー(Helen Adams Keller)女史が訪日されました。

訪日の目的は「日本における盲人たちを激励し、社会の関心を高めて欲しい」との依頼に応えてのものですが、ヘレン・ケラー女史にはこの訪日で最も訪問し、触れ合いたい人物がいたのです。

それこそがはなわ保己一ほきいちという人物でした。

― ◇ ◇ ◇ ―

4月26日、ヘレン・ケラー女史塙保己一を顕彰する社団法人温故学会を訪問します。

講堂に入ると、ヘレン・ケラー女史保己一のブロンズ像や保己一和学講談所で使っていた机などに触れて心ゆくまで保己一の偉業に接した後、次のような感想を述べられました―

When I was a child, my mother told me that Mr. Hanawa was my role model.
私が子どもの頃、母から塙先生は私がお手本とすべき人物だと語ってくれました。

To visit this place and touch his statue was the most significant event during this trip to Japan.
この地を訪問し、先生の像に触れる事が出来たのは、今回の日本訪問における最も有意義な出来事です。

The worn desk and the statue facing down earned more respects of him.
この使い古した机とうつむき加減なお姿の像を触っていると、心から先生への尊敬の念を覚えます。

I believe that his name would pass down from generation to generation like a stream of water.
先生の名前は必ずや、流れる水の様に、世代から世代へと永遠に受け継がれていく伝わる事でしょう。
何度もくじけそうになった事があったけど、塙先生を目標に今日まで頑張ってきました、とヘレン・ケラー女史は仰っているんですね。

彼女は、塙保己一をいわば人生の1つの手本・目標としていたという訳です。

― ◇ ◇ ◇ ―

さて、ヘレン・ケラー女史は三重苦(盲・聾・唖)を克服しながら、大学を卒業して学問を究めるなど、障害者の自立支援や福祉に貢献なさった人物です。

彼女は2歳の時、高熱病にかかり、一命は取り留めるものの目、耳、声の三重苦の身体障害を持ってしまいます。

そんな彼女が何処で如何どうして、塙保己一の存在を知ったのでしょう?

電話器の発明者として知られるアレクサンダー・グラハム・ベル(Alexander Graham Bell)ですが、実は彼の一族は祖父・父・自分に至るまで3代続く聾者教育に尽力した一家でもありました。ベル本人も「私の職業は聾の教師」と言っていた程の様です。

ベルの一家は、スコットランド・エディンバラの出身で、父で大学教授であったアレクサンダー・メルヴィル・ベル(Alexander Melville Bell)は、聾者に発音を教える聾教育者であり、「ビジブル・スピーチ」(Visible Speech:視話法=図に発音する時の唇の形に描いて、図の形通りに発音させる方法)の考案者として著名です。

ベルの母であるイライザ・グレイス・ベル(Eliza Grace Bell)は聴力障害を抱えており、巨大な補聴器を付けていました。

そうした両親との生活の中で、ベル自身も「ビジブル・スピーチ(視話法)」を習熟し、聾者の発音指導に応用します。

やがて、一族挙げてカナダに渡ったベルの一家ですが、当時は猩紅熱しょうこうねつの後遺症が原因で聾者が増え、彼らの自立支援をどうすべきかなど深刻な社会問題の真っ只中にあり、ベルはそうした彼らのために複数の聾唖学校で「ビジブル・スピーチ(視話法)」を実践します。

そうした生徒の中に後に結婚し、妻となるメイベル・・グリーン・ハバート(Mabel Green Hubbard)がいました。

実はメイベルも4歳の熱病が原因で失聴するなど聴力障害を抱えていました。

この様に、ベルはその生涯を通じて聾者教育に尽力しているのです。

― ◇ ◇ ◇ ―

1887年、そんなベルの許にヘレン・ケラーの両親・アーサー・ケラーケイト・ケラーが訪れ、彼の紹介でマサチューセッツ州のウォータータウンにあるパーキンス盲学校校長・アナグノスに手紙を出し、家庭教師の派遣を要請。

その結果、派遣されてきた人物こそ、日本では“サリヴァン先生”の名で知られている、当時20歳のアン・サリヴァン(ジョアンナ・マンズフィールド・サリヴァン・メイシー:(Anne Sullivan、Johanna Mansfield Sullivan Macy)女史で、ヘレン・ケラー女史が6歳の時の事です。

因みに、ヘレン・ケラー女史アン・サリヴァン女史の半生は「The Miracle Worker」と題して舞台化や映画化がなされ、日本では「奇跡の人」という邦題で上演されていますね。

その事から、日本ではヘレン・ケラー女史の代名詞として“奇跡の人”と表現していますが、「The Miracle Worker」を英訳すると「(何かに対して働きかけて)奇跡を起こす人」となり、実のところ、アン・サリヴァン女史の事を指すんですよね。

― ◇ ◇ ◇ ―

このように、ベルヘレン・ケラー女史への支援にも尽力するのですが、実は、ベルの許にヘレン・ケラー女史の両親が訪れた際、保己一の事を語っていたのです。

ベルは彼の許で学んだ日本人留学生から保己一について詳しく紹介されていたようですね。

その人物とは、後に「紀元節」の作曲者となる伊沢修二という人物で、明治8年(1875)から同11年(1978)まで、ベルの下で聾唖教育「ビジブル・スピーチ(視話法)」を学んでいたのです。

伊沢は後に文部省の官吏となり、日本における音楽教育や吃音、盲唖教育に尽力していきます。

― ◇ ◇ ◇ ―

一体、塙保己一とはどんな人物だったのでしょう?

ところで、塙保己一と聞いて何人の人が「知っている!」と答えられるでしょう?

私などの様に大学で日本史を専攻とした者などは、かなりその恩恵を受けているのですけどね(笑)

その代表的なものが『群書類従』『続群書類従』の編纂ではないでしょうか。

塙保己一は、武蔵国児玉郡保木野村(現、埼玉県本庄市児玉町保木野)に生まれ、幼少の頃から身体は丈夫ではありませんでした。5歳のときにかんの病気(=胃腸病)にかかったのが原因で、徐々に視力が低下し、7歳の時に完全に失明します。

しかし、てのひらを指でなぞって文字を書いてもらったりして、文字を覚えてたり、人から聴いた話を忘れる事はなく、一言一句違わずに語る事ができた程、物覚えが良かったと云います。

15歳の時、江戸に出て盲人としての職業訓練を受けますが、生来の不器用さからそれらを習得できませんでした。

しかし、保己一の学才に気付いた師匠が保己一に様々な学問を学ばせ、学者の道を志します。

保己一は、物覚えが良いという長所を活かし、書物を見る事はできない分、人が音読したものを暗記して学問を進めます。

安永8年(1779)、『群書類従』の出版を決意し、天明6年(1786)刊行を開始、寛政5年(1793)には日本の学問を教える学校として和学講談所を開設。

そうして、文政2年(1819)、保己一74歳の時、『群書類従』は完成します。

こんなエピソードがあります―

ある晩の事、保己一は弟子たちを集めて、和学講談所でいつものように講義をしていました。
その時風が吹いて、蝋燭ろうそくの火が突然消えてしまいました。
それとは気づかず、保己一はそのまま講義を続けていましたが、暗闇の中で弟子たちが慌てて保己一に言いました。
「先生、風で蝋燭の火が消えてしまいました。すぐ火をつけますので、しばらくお待ちください」

これを聞いた保己一は、「目が見えるという事は不便なものだね」と笑顔で言ったとか―

自らの境遇を微塵みじん卑下ひげする事なく、むしろユーモアで受け流すこのエピソードにヘレン・ケラーも特にかれたのだそうです。

保己一のこうしたりんとした生き方は、「障害は不自由でも、決して不幸ではない」というヘレン・ケラー女史の信念と見事に共鳴しているし、この蝋燭のエピソードには、物が見えるという慢心こそが最も危険である、という強いメッセージが込められている様な気がします。

保己一の存在はヘレン・ケラー女史にとり、生きる活力となり、何度も励まされ、勇気づけられたものと思われます。

そういう意味では、塙保己一ヘレン・ケラー女史にとっての「The Miracle Worker」(奇跡の人)と言っても過言じゃないかもしれませんね!

― ◇ ◇ ◇ ―

最後に、塙保己一の功績のお陰で日本の医学に新しい灯火を照らしたエピソードを挙げておきます―

明治18年(1885)、荻野吟子という女性が内務省の医術開業試験に合格し、日本で最初に正式の資格を持った公認の女医が誕生します。

それまでは医者という職業は男性しか成る事ができず、荻野吟子が医学校に入学する際も、医術開業試験受験を受験する際も、先例主義の官公庁は拒否の態度を示します。

この時、国学者・井上頼圀の協力で、平安時代に編纂された、養老律令の公的解釈書である令義解りょうのぎげの中の「医疾令」に女医の前例がある事が証明され、受験を拒否する理由がなくなりました。

この『令義解』が嘉永4年(1851)に塙保己一によってが編纂されていたのです。

こうして、荻野吟子が日本最初の公認女医誕生に一役買った訳なんですよね。




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(トピックス)宗麟が製造・量産化に成功した大砲“国崩”がロシアに/洗礼名の印章が一致

ロシア・サンクトペテルブルクの国立砲兵、エンジニアや信号隊の軍事歴史博物館で展示されている、大友宗麟が日本で初めて量産化に成功した石火矢とみられる大砲

ロシア・サンクトペテルブルクの国立砲兵、エンジニアや信号隊の軍事歴史博物館(砲兵博物館)に収蔵・展示されている大砲が、日本で初めて大砲の量産化に成功した戦国時代の豊後国(大分県)の切支丹(キリシタン)大名大友宗麟(義鎮)が所有していた、国内最古の1門石火矢いしびやという火砲である可能性が高い事が東京大学史料編纂所の調査で確認されました。

ロシア国内に残る日本関連資料を調査している東京大学史料編纂所の保谷徹教授(幕末軍事外交史)らが昨年7月、同博物館に青銅製の大砲が収蔵されている事を確認し、今年9月に現地調査をしたところ、大砲は青銅製で、全長264cm、口径80o。「石火矢」と呼ばれる大砲で、砲身に宗麟の洗礼名「ドン・フランシスコ」を図案化し頭文字をかたどった印章「FRCO」が刻まれていた事が決め手となったようです。

ロシアで見つかった大砲の砲身に刻まれた大友宗麟の洗礼名フランシスコを図案化した「FRCO」をかたどった印章

戦国時代に日本で布教したイエズス会の宣教師ルイス・フロイスあらわした『日本史』などによると、宗麟は天正6年(1578)、当時ポルトガル領で、イエズス会のアジアでの根拠地だったインドのゴア工廠から大砲を国内に初めて輸入し、それをモデルに国産大砲を量産したとされます。

昨年7月の調査では製造地まで確定できず、ゴアで製造された大砲との見方もあったようですが、9月の現地調査に同行したに豊後中世砲史研究会(大分県臼杵市)代表の神田高士さんが、弾と火薬を込める薬室の外部に吊環つりかんと呼ばれる穴の開いた輪が付いている事など、当時の日本製の大砲だけに見られる特徴を確認。宗麟が領内で製造させた大砲である可能性が高くなった訳です。

宗麟「FRCO」の印章を文書に使ったのは天正7年(1579)から2年間とされるため、神田さんはこの大砲が天正7年から、宗麟が死去した同15年(1587)の間に製造されたと考察されるようですね。

― ◇ ◇ ◇ ―

幕末期の軍事・外交に詳しい保谷教授によれば、江戸時代後期、ロシア帝国皇帝・アレクサンドル1世の親書を携え、正式な使節団(第二次遣日使節)を率いて来日したニコライ・ペトロヴィチ・レザノフ(Nikolai,Petrovich Rezanov)が通商交渉を求めますが、鎖国政策を取る徳川幕府はこれに応じませんでした。

日本側の対応に業を煮やしたレザノフは樺太島(現、ロシア連邦サハリン州、サハリン島)を調査探検し、日本の防備は極めて貧弱で、少数の軍艦を派遣するだけで樺太、千島、蝦夷を占領できると判断し、アレクサンドル1世に武力行使で日本に開国を促せようと樺太島や千島列島(現、ロシア連邦サハリン州、クリル列島)への軍事行動の許可を求めます。(但し、皇帝は裁可せず)

レザノフは海軍士官のニコライ・フヴォストフ中尉とガブリール・ダヴィドフ少尉に樺太島・千島列島の日本基地を攻撃する事を命じていました。

まず文化3年(1806)9月、フヴォストフらが樺太島のクシュンコタン(久春古丹、後に大泊郡大泊町に改称。現、サハリン州コルサコフ)の松前藩の番所が襲撃し、村々を焼き払ったり住民を殺害します。

同4年(1807)4月には、ダヴィドフらが択捉えとろふ島(現、ロシア連邦サハリン州、大クリル列島イトゥループ島)、礼文島、樺太島のルヲタカ(留多加るうたか、後に留多加郡留多加町に改称。現、サハリン州アニワ)に来襲し、ナイボ(内保、後に択捉郡留別るべつ村に改称。現、サハリン州クリリスク)の番屋やシャナ(紗那、後に紗那郡紗那村に改称。現、サハリン州クリリスク)にあった幕府の会所を攻撃します。

ロシア船による樺太島・択捉島襲撃の情報を受けた幕府は北方警備の強化を迫られ、全国諸藩から武器をかき集め、配備しようとします。(無論、幕藩体制下での武器兵器の所有権や利用権限を決定したのは幕府であったでしょうけど…)

その矢先の文化4年(1807)6月、利尻島に停泊していた日本の船の積荷が略奪され、船自体も焼払われるという事件が起こります。

「ロシア船利尻島で日本船四艘略奪」(『視聴草みききぐさ』所載『利尻島津軽家書状』)
一 リイシリ島ニ而奪取られ候船者
 …(中略)…
   盤春丸 公儀御船ニ而軍用もの積入之分
 …(中略)…
 右盤春丸江積入候内大筒之内玉目八百目壱挺ハ往古太閤様朝鮮征伐之砌、彼地ニ手御手ニ入候 蛮国物之由 此度賊将得之而、名作六挺之内なりとて甚悦喜候由
 …(下略)…
ロシア船は利尻島を来襲して番小屋を放火。また、同島に居合わせていた日本船も襲撃し、船内の目星い物品を全て奪い取り、船は焼払われたのですが、その中に幕府の御用船である盤春丸があり、軍用武器などを積み込んでいました。

大砲なども積載されていたのですが、なかでも800匁玉の1挺は豊臣秀吉朝鮮出兵した際に現地で入手した西洋製の大砲だったんですね。ロシアの軍人たちも名品だと大喜びだったようです。 

この利尻島で鹵獲ろかく(=接収)大砲は文政5年(1822)にアレクサンドル1世に献上されたというロシア側の記録があり、これが今回調査・確認された宗麟「石火矢」ではないかと推論されています。

神田さんは「印章の存在や砲身の形状を見ても、宗麟が製造した大砲である可能性が極めて高いし、宣教師の文献とも時期的に符合している」と話されています。

― ◇ ◇ ◇ ―

◇炸裂した大砲“国崩”の威力

南蛮貿易による豊かな経済力と高度な技術力を背景に、国内で初めて大砲の量産化に成功したとされる大友宗麟

戦国時代、最盛期には九州北部を支配した大友氏ですが、当時は耳川みみかわで薩摩の島津軍に大敗を喫するなど、凋落ちょうらくの一途を辿たどっていました。

そうした状況で、宗麟大砲を軍事的な抑止力として考えていたかもしれません。

上述したフロイス『日本史』や日本側の古文書によると、天正4年(1576)宗麟がボルトガル領インドの総督に依頼した輸入品の中に火縄銃や硝石などと共に「フランキ砲」と呼ばれていた大砲が含まれていました。

「フランキ」とは、フランク人(ポルトガル語でFranco、オランダ語でFrank)が転訛した語で、東方(主に中国)から見て西欧人一般を示した語と云われています。

新航路政策でインドから東南アジア一帯の港湾都市や島嶼域の貿易拠点を植民地化し、その交易圏を日本にまで伸ばしてきたポルトガルやスペインがもたらした大砲の種類全般を指し、上記のように中華民族がポルトガル人やスペイン人を示した呼称から「フランキ(仏朗機・仏郎機・仏狼機)砲」とも云っていました。

宗麟が輸入した「フランキ砲」は、インドのゴアで交易品として製造された艦砲射撃用の大砲で、発砲した際に出る天地を揺るがす様な大音響とその威力から、宗麟によって国崩くにくずしと名付けられます。

更に、2年後にはそれをモデルに領内で“国崩”の製造に成功。同11年(1583)には量産したと−との記述があります。

当時、日本ではこうした「フランキ砲」のような大砲の事を「石火矢」と総称していました。(古来から、日本では石を弾丸としていたので、「石火矢」と称していたようですね。因みに島原の乱(寛永14年〜15年:1637〜38)において使用された際も「石火矢」と記述されています。また、鉄砲は手火矢てびやと云っていたようですね)

“国崩”はカートリッジ(薬莢やっきょう)の様なものを薬室に装弾する構造の後装砲で、当時使われていた砲身に火薬や弾丸を直接込めるタイプであったり、将又はたまた現在の後装砲の様に砲尾が開閉するのではない構造で、砲尾上面に上述した吊環つりかんと呼ばれる大きな穴の開いた輪が複数空いていて、その穴に火薬と弾丸を中に収めた単装式の弾倉(「装填筒」「副砲」「子砲」「小筒」などと呼ばれる)を挿入する事で砲尾を密閉し、直接点火して発射します。

これによりあらかじめ弾倉を複数用意しておけば(前装砲に比べ)短時間での連射が可能となり、ヨーロッパでは艦載砲として使われていました。

しかしながら、子砲と砲身部の密閉状態が不完全なため、本体と子砲の間から発射薬の燃焼ガスの噴出漏れが激しく、砲身内のガスも圧力が低くなって、有効射程距離は200mを超える事はなく、最大射程距離も500m前後であったようなので、確実に目標まで弾丸は届くはずがなく、破壊・殺傷というよりは威嚇に優れてものと考えられます。

― ◇ ◇ ◇ ―

さて、この“国崩”が威力を発揮したのが、天正14年(1586)に島津軍約2千人が豊後に侵攻した際に、宗麟の居た臼杵丹生島にゅうじま(現、大分県臼杵市大字臼杵字丹生島)に攻め入った折りと聞き及びます。

『大友興廃記』によれば、

島津軍は大友氏からの内応者の案内で、城から3町半(約380m)程離れた平清水ひらそうずに陣取り、菟居うさい島=鵜鷲島(現在の光蓮寺こうれんじ付近)まで攻め寄せて来た際に、場内から石火矢を砲撃させたところ、島津軍はかなりの死傷者を出し、退却した
と伝えています。

― ◇ ◇ ◇ ―

ところが―

別な資料で同じ様に天正14年(1586)の臼杵丹生島城攻防戦の模様を探ってみると、

城には守備に必要なものが何一つなかったことである(ルイス・フロイス『日本史』第68章 敵が臼杵に到達した次第、ならびに我らの身に生じ始めた困苦について)
とあり、“国崩”を使用した気配どころか、城内には武器は1つもなかったと記載しています。

また、宗麟が天正6年(1578)に日向高城たかじょう・耳川合戦(現、宮崎県児湯こゆ木城町きじょうちょう)で島津軍と合戦に及んだ際には、

かくて国主は、家臣から急き立てられた結果、その財宝の大部分と、その場に持っていた非常に優秀な大砲を放棄したまま出発して行った(ルイス・フロイス『日本史』第46章 国主フランシスコが土持より豊後へ、そしてフランシスコ・カブラル師およびその同僚が国主とともに帰った次第)
と駐屯していた「牟志賀」(現・宮崎県延岡市無鹿)に臼杵から運ばせていた「優秀な大砲」宗麟が退却するに際し、全て置き去ったために島津軍鹵獲ろかくされたとあります。

この時に置き去った「優秀な大砲」って天正4年(1576)に輸入された“国崩”の事なんでしょうね。

それを裏付ける話として、宗麟が耳川での敗戦の後、大砲の配備を怠りなく進める様に指示し、天正11年(1583)には豊後国内で大砲の鋳造をするよう命じている事実があります。

しかも、この時に鋳造された大砲は、「優秀な大砲」よりも相当小型であった事がフロイスの記述にみられるんですね。

― ◇ ◇ ◇ ―

その後、大友氏が改易された後に入封した福原直高太田一吉や慶長5年(1600)11月に稲葉貞通が入封して以降15代続いた藩政時代にも“国崩”は常時臼杵城本丸に配備されていたそうです。

この“国崩”のうち、1門は明治4年(1871)の廃藩置県の折り、国に献上され、現在、靖国神社付属の博物館「遊就館」に展示されています。

“国崩”のレプリカの展示してある宗麟所縁の臼杵公園

また、地元の臼杵城跡地の臼杵公園と臼杵図書館横の稲葉氏下屋敷跡には“国崩”のレプリカが置かれています。このレプリカは、昭和61年(1986)、靖国神社に置かれている実物から型取って複製したものなのだとか…


posted by 御堂 at 06:53 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

西郷隆盛の末弟・小兵衛は熊本に仮埋葬、当時の県政資料で確認

西南戦争で戦死した西郷小兵衛が熊本市本山の香福寺で仮埋葬されていた事が分かる『熊本県政資料』の明治11年の箇所

西郷隆盛の末弟で明治10年(1877)に勃発した西南戦争に参戦し、同年2月27日、熊本県玉名郡高瀬町(現、熊本県玉名市高瀬)での戦いにおいて政府軍の銃弾を受けて戦死した西郷小兵衛の遺体が、同県内の託麻たくま本山もとやま村(現、熊本県熊本市本山)の香福寺こうふくじに仮埋葬された事を示す詳細な記録が見つかりました。

遺体は現在、鹿児島市の南洲墓地(鹿児島県鹿児島市上竜尾町かみたつおちょう)に兄の隆盛らと共に葬られていますが、戦死した薩軍兵士たちの遺体がどのようにして故郷に運ばれたのか、戦後処理の経緯が分かる貴重な資料だと言う事です。

詳細な記録を発見したのは熊本近代史研究会の会員の水野公寿さん=熊本市=で、熊本県立図書館(熊本県熊本市出水)が所蔵する『熊本県政資料』明治期の記載部分から発見されました。

『熊本県政資料』は明治20年(1887)に編纂が始まり、全57部で編成されています。

『熊本県政資料』の記載によると、明治11年(1878)3月6日付で当時の熊本県権令ごんれい(現在の県知事にあたり、官員が四等官の場合は県令と称し、五等官の場合は権令と称した)だった富岡敬明が、香福寺があった本山村の戸長に対して出した通達文書の中で市来いちき政方まさかたという鹿児島県士族から、本山村の香福寺内に仮埋葬された西郷小兵衛の遺体を鹿児島に持ち帰って改葬したいとの願いが出され、許可したので不都合のないよう取り計らって欲しい」という内容が書かれていたのだとか―

西郷南洲顕彰館(鹿児島県鹿児島市)の高柳毅館長によれば、市来政方西郷隆盛の妹・の四男で、外交官をしていたといいます。

小兵衛の遺体が運ばれた経緯の記録は鹿児島県側には残っていないが、「賊軍の妻が自分の名前で改葬願を出せなかったので、薩軍に関わっていなかった親族の市来が出したのではないか」と高柳さんは話されている。

― ◇ ◇ ◇ ―

西郷小兵衛の遺体が仮埋葬されていたという記録が残る熊本市本山の香福寺

西郷小兵衛は、薩軍の一番大隊一番小隊長に選任され、副司令格兼一番大隊指揮長となった篠原国幹の補佐役として西南戦争に参加。

一番大隊は2月15日に鹿児島を出発し、同22日の本営軍議で一旦は篠原が主張する熊本城強攻策に決していたが、遅れて到着した小兵衛らが長崎、あるいは小倉を封鎖しようとする部分進撃策を唱えて容認された。

この点、小兵衛は「人格沈重にして思慮深い人物であった」と評されています。兄である西郷隆盛も年齢の離れた小兵衛を大層可愛がっていたそうで、兄の傍にいて、その言動や行動力に感化されて事で身についたのではないでしょうか。

小兵衛は熊本城の攻撃に加わった後、2月25日からは政府軍と菊池川を挟む形で稲荷山を巡って小競り合い、27日には繁根木はんねぎ川の南において激戦を繰り広げますがますが、敵弾を左胸部に受け、壮烈なる戦死を遂げるのです。

古老の話によると、小兵衛の遺体は永徳寺(熊本県玉名市永徳寺)付近の堤防に退避、焼け残った民家である橋本鶴松方の雨戸を1枚借り受けて、桃田ももだ吉次きちじ峠を経て、西郷隆盛が本営としていた北岡神社の神官宅(現、熊本県熊本市春日町かすがまちへ運ぶ途中で絶命したと云います。(その後、橋本家に対し、小兵衛の妻・松子からの礼状が届けられたそうです)

西郷小兵衛戦死の地碑

現在、永徳寺側堤防上には昭和10年(1935)の小兵衛の命日に建てられた「西郷小兵衛戦死の地」という石碑が立っています。

水野さんの調査では、、小兵衛以外にも熊本県内に仮埋葬された戦死者に対する改葬願が把握できただけでも60件を超えていたとの事。

それこそ、戦争終盤になって死者が急増すると戦場でそのまま仮埋葬していたという事なんでしょうね。

また、当時薩軍本営の近くにあった延壽寺えんじゅじ(熊本県熊本市川尻町)は薩軍の兵站基地及び野戦病院となっていたため、多くの負傷者が運ばれて来たのですが「用意した病床が2884床あった」(『川尻町誌』)との記載が激戦を物語っていますよね。

『薩賊死亡姓名』

同じく『熊本県政資料』に記載がある『薩賊死亡姓名』という資料があるのですが、これは西南戦争によって熊本県内で死亡した薩軍兵士たちの所属部隊や出身地、年齢、死亡した日付や場所までが詳細に記載された名簿で、表紙に「川尻町圓寿寺(=延壽寺)不動堂ニテ」とあり、明治10年(1877)2月から同4月までに戦死した計1394人(但し、内102人は重複)が収録されているんですよね。

同寺の蔵原恒海住職によれば「『853名を仮埋葬した』という記録が残っている。後に遺骨を郷里に持ち帰った例も多い」と語っておられます。

― ◇ ◇ ◇ ―

水野さんによると、西南戦争直後、コレラが流行し、熊本県は明治10年(1877)12月と翌11年(1878)5月の2回、改葬禁止令を出しているのだとか―

西郷小兵衛らの改葬はその間(=明治11年3月6日)に許可されている事から、「恐らく一周忌頃に遺族からの改葬願が続出したため、明治11年に入って一時改葬を許可したのではないか」「熊本県は賊軍であっても丁重に改葬に応じている。薩軍幹部の遺体がどのようにして南洲墓地まで移されたかという経緯の一端が判った事に加え、戦後処理の大変さも読み取れる」と話している。

posted by 御堂 at 06:32 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

(トピックス)未解読文字「契丹文字」の石碑と冊子が発見される

モンゴルで見つかった契丹文字が刻まれた石碑 石碑の冒頭に記された契丹文字(左)と解読結果

大谷大学や東京外国語大学などの研究グループは10〜12世紀に遊牧民族契丹キタイによって中国北方〜モンゴリア地域にかけて勃興した契丹(遼)王朝が使用していた「契丹文字」が刻まれた石碑冊子がロシアとモンゴルで相次いで見つかった、と発表した。

「契丹文字」は大半が未解読で、研究グループは「解読や契丹の歴史をより深く知る手掛かりになる」と期待を高めている。

石碑は昨年(平成22年=2010)8月に大谷大学の松川節教授(東洋史学=モンゴル時代史)らの調査団がモンゴル南部のドルノゴビ県のゴビ砂漠に立つ石碑「契丹文字」で記されているのを確認した。

石碑は高さ約180cmあり、文字は縦書きで7行、150字程刻まれていた。

冒頭の文字を解読したところ、契丹(遼)王朝の年号である「清寧四年(=1058年)八月一日」と刻まれている事が判った。

また、「契丹文字」は漢字を参考にしたとされる「大字」と、これとは別の「小字」があり、今回の史料は何れも「大字」で書かれていた。

発表した松川節教授らによると、当時の戦勝の記録か、特定の人物の生涯や業績を記した石碑ではないか、とみている―

一方、冊子は、ロシア科学アカデミーの研究所の図書館に保管されていたが、中国社会科学院の孫伯君研究員が「契丹文字」だと指摘した。麻紙に記され、全部で80ページ程。1ページに6行、1行20字程度あった。

「契丹文字」は、漢字などを参考にして契丹(遼)王朝の時代に始まったとされているが、見つかっている史料は僅か数十点で、解読は一部に留まっており、松川教授は「『契丹文字』が墓誌以外の碑文に記されているのは珍しく、まとまった分量のある史料の発見で更なる研究が進む」と話している。

― ◇ ◇ ◇ ―

さて、契丹族とは4世紀から14世紀にかけて、満州地域から中央アジア地域に存在した半農半牧の民族で鮮卑せんぴの後裔ではないかと考えられているようです。

その中でも現在の内モンゴル自治区の東南部、遼河の上流域にいた契丹族耶律ヤリュート阿保機アホキ(太祖)が907年に契丹の君長として契丹可汗ハァンの位について勢力を蓄え、916年に唐王朝滅亡後の混乱に乗じ、現在の中国北方に国を興し、国号を大契丹国として天皇帝と称します。(その後、947年にと改称するが、983年に再び契丹に戻り、1066年にはまたに戻っています)

太祖率いる契丹は勢力を拡大して、北の女真ジュシェンや西の西夏回鶻ウイグル突厥とっけつ諸部沙陀さだ諸部を服属させ、東の渤海や西のモンゴル族を滅ぼして、内モンゴル(モンゴル高原東部)を中心に中国の北辺までに及ぶ王朝を創り上げます。

更に、太宗の時、五代十国(※1)の内紛に乗じ、五代の1つで李淵が興した大唐帝国の後継者を自認した後唐こうとうを支援した事で燕雲十六州(※2)の割譲を成立させ、中国北方に勢力を固めます。


※1 五代十国
五代十国とは、唐末宋初に黄河流域を中心とする華北を統治した5つの王朝(=五代)と、華中・華南と華北の一部を支配した地方政権(=十国)が興亡した時代を指し、具体的に五代(後梁・後唐・後晋・後漢・後周)、十国(呉・南唐・呉越・閩・南漢・前蜀・荊南・楚・後蜀・北漢)をいう。(但し、地方政権に関しては、岐と燕を入れる場合がある)

※2 燕雲十六州
燕は燕京(現在の北京)を中心とする河北北部の幽州、雲は雲中(現在の大同)を中心とする山西北部の雲州の事で、他に長城以南の朔州・寰州・応州・蔚州・新州・武州・儒州・嬀州・檀州・順州・薊州・涿州・瀛州・莫州の16州が含まれる。すなわち、遊牧民族である契丹(遼)が万里の長城周辺に位置する燕雲の2州を獲得し、農耕を主生活とする定住民をその支配下に抱える事となります。


その後、しばらくの間は中華文化を採り入れようとする派と契丹族独自の風習を守ろうとする派とに分かれて内部抗争が起きましたが、聖宗の時期に一時的に収まり、中央集権化が進まります。

その間に成立した宋王朝と抗争するようになり、1004年、へ遠征したとの間に澶淵せんえんの盟を結び、以降からへ莫大な財貨が送られるようになり、経済力を付けたは国力を増大させ、西の西夏を服属させるなど、東アジアから中央アジアまで勢力を伸ばした強国となります。

しかし、経済力をつけた事での支配層は奢侈が募って次第に堕落し、軍事力の弱体化を招き、また一時的に収まっていた内部抗争が一層激化します。

その間に東の満州マンチュで次第に勢力を強める女真族が力をつけて抬頭。中でも完顔ワンヤンから出た阿骨打アクダ契丹(遼)に反乱を起こし、1115年即位を表明して建国し、国号をとします。

は大軍での鎮圧に向かいますが、逆に大敗を喫します。

これを好機と見たは1120年、「海上の盟」を結び、を挟撃し、は1125年に滅ぼされます。

契丹族の多くは金王朝に取り込まれますが、一部の部族は耶律大石タイシ
に率いられて中央アジアに遠征した結果、西遼
(後遼)
カラ・キタイ
という国を建てます。(余談ですが、この耶律大石が“プレスター・ジョン伝説”の源のようですね)

しかし、1208年にチンギス・ハァンとの抗争の結果、モンゴル高原から逐われたのを匿い、庇護していたナイマン族の王子クチュルク(缺王、耶律屈出律)によって帝位を簒奪され、そのクチュルクもモンゴル軍によって殺害され、西遼(後遼)は滅びます。

一方で、契丹(遼)の皇族である耶律氏の一族にはの臣下となる者も多く、彼らは譜代の臣として重用されたようです。

滅亡後はモンゴル帝国の下で漢人として組み入れられます。

元来が遊牧民であり、モンゴル周辺部に居住していた契丹族ですから、殆んどがモンゴル人と普通に会話でき、またその大半が中国語や漢文にも長けていたがためにモンゴル帝国に出仕した人材が輩出しました。

そうした中で耶律氏の子孫である耶律楚材チンギス・ハァンオゴタイ・ハァンの2代に仕えて中書令に任ぜられ、モンゴル帝国の政治において重きをなします。

また、その子・耶律鋳と孫の耶律希亮もクビライ・ハァンに仕え、中書左丞相となるなど、耶律氏元朝の重臣として続いていきます。

― ◇ ◇ ◇ ―

「契丹文字」は、太祖・耶律阿保機が神冊5年(920)に制定したとされる文字で漢字を基にした「契丹大字」ウイグル文字を基にした「契丹小字」という2種類が存在します。

  • 契丹大字=数詞や日付表記などに漢字を参考、あるいは借用して作ったと思われる表意文字ではないかと推察される。神冊5年(920)正月を機に耶律阿保機が創案を開始し、同年9月に完成、公布したとされます。

  • 契丹小字=対称に書かれた漢文から予想される音から想定して、恐らく発音を表す複数の要素を組み合わせた音節文字だと推察される。太祖の弟であった耶律迭剌が、ウイグル文字の表記を参考にして創作したとされる。天賛3年(924)頃に交付されたのではないかと考えられています。
「契丹文字」は保大5年(1125)にが滅亡して以降も一部使用されていたようですが、明昌2年(1191)にによって契丹文字使用禁止令が出されます。

これらは石刻史料の形態で現存するが,資料数は僅少であり,内容的にも墓誌に限られる等の偏重もあり,結果的に未だ契丹語および文字の解明には到っていません。

「契丹文字」の研究は文字資料の歴史学的アプローチばかりで、他方の言語学的アプローチからの研究に乏しいようです。

でも、総合学問的なアプローチが進めば、新しい発見が生まれるはず!そう期待します!!

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参考)遼金西夏史研究会→


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クールな二枚目、俳優の竹脇無我氏死去


俳優の竹脇無我氏が亡くなられました。享年67歳。

竹脇無我氏と言えば、

  • NETテレビ(現・テレビ朝日)系列「だいこんの花」第1シリーズ(昭和45年=1970=)〜第5シリーズ(昭和52年=1977=)永山誠役

  • TBS系列・木下恵介アワー第8弾「二人の世界」(昭和45年=1970=〜46年=1971=)宮島二郎役

  • TBS系列・ナショナル劇場「大岡越前」第1部〜第3部(昭和45年=1970=〜48年=1973=)、第4部(第20話)〜第5部(昭和50年=1975=〜53年=1978=)、第7部〜第13部(昭和58年=1983=〜平成5年=1993=)、第14部(第24話)〜第15部(平成8年=1996=〜11年=1999=)、大岡越前2時間スペシャル(平成16年=2006=)榊原伊織役

  • NHK大河ドラマ「国盗り物語」(昭和48年=1973)足利義輝役

  • TBS系列・ナショナル劇場「江戸を斬る 梓右近隠密帳」(昭和48年=1973=〜49年=1974=)梓右近、保科正之役

  • NHK大河ドラマ「元禄太平記」(昭和50年=1975=)柳沢兵庫役

  • TBS系列「岸辺のアルバム」(昭和52年=1977)北川徹役

  • TBS系列・日立ドラマスペシャル「風が燃えた」(昭和53年=1978)桂小五郎〜木戸孝允役

  • MBS毎日放送・高木彬光シリーズ「検事霧島三郎」(昭和54年=1979)霧島三郎役

  • TBS系列・日立ドラマスペシャル「熱い嵐」(昭和54年=1979)森有礼役

  • TBS系列・東芝日曜劇場「女と味噌汁」その38(シリーズ最終話)(昭和55年=1980)ゲスト出演

  • NHK水曜時代劇「風神の門」(昭和55年=1980)真田幸村役

  • TBS大型時代劇「関ヶ原」(昭和56年=1981)細川忠興役

  • NHK大河ドラマ「峠の群像」(昭和57年=1982=)徳川綱吉役

  • TBS系列・森繁久彌シリーズ「おやじのヒゲ」1〜20(昭和59年=1984=〜平成8年=1996=)昭伍役

  • TBS系列「妻たちの鹿鳴館」(昭和63年=1988)山本権兵衛役
などの作品に出演されておられますが、なかでも、私にとって竹脇無我氏の印象を強烈なインパクトとして与えたであろう作品はNHK大河ドラマ「国盗り物語」での足利義輝かもしれません。

残念ながら、当時は8歳だったので家においてチャンネル優先権などなく、リアルタイムで視聴する機会はなかったのですが、後年、総集編を観て、それはそれは感動モノだったんですよね。足利義輝三好三人衆松永久秀により弑殺されるシーン、“剣豪将軍”たる義輝を演じる竹脇無我氏の切迫感あふれる殺陣シーンは今観ても大河ドラマ史上、1、2を争うかのような名シーンだと感じます。そういうシーンをリアルタイムで観れなかった自分が“生まれてくる時代が遅かった”と後悔する気持ちになるくらい心に刻まれています。

これまで数多(あまた)のの作品でそのクールな二枚目のイメージ姿を魅了させてくれた竹脇無我氏のご冥福をお祈り申し上げます。
― ◇ ◇ ◇ ―

※(参照)もう「アタックチャンス!」の叫びも聴けなくなるんだね!―児玉清氏死去→
※(参照)パッパ、永遠の別れ!―細川俊之氏死去→
※(参照)悪代官役、俳優の川合伸旺さん死去→
※(参照)「大岡越前」、ラストを飾る特番か?→

posted by 御堂 at 01:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

“白河越え”と「白河以北、一山百文」

平成23年(2011)夏の第93回全国高等学校野球選手権大会に光星学院高(青森代表)が決勝戦に進出しましたが、惜敗しましたね。過去に東北地方の高校が決勝戦に進出したのは、

夏、第1回大会(大正4年)  
●秋田中(現・秋田高、東北代表、秋田県)1−2 京都二中(現・鳥羽高、京津代表、京都府)=延長13回
夏、第51回大会(昭和44年)
△三沢高(北奥羽代表、青森県)0−0 松山商高(北四国代表、愛媛県)=延長18回、引き分け
夏、第51回大会(昭和44年)
●三沢高(北奥羽代表、青森県)2−4 松山商高(北四国代表、愛媛県)
夏、第53回大会(昭和46年)
●磐城高(東北代表、福島県)0−1 桐蔭学園高(神奈川代表)
夏、第71回大会(平成元年)
●仙台育英高(宮城代表)0−2 帝京高(東東京代表)
春、第73回大会(平成13年)
●仙台育英高(東北ブロック、宮城県)6−7 常総学院高(関東・東京ブロック、茨城県)
夏、第85回大会(平成15年)
●東北高(宮城代表)2−4 常総学院高(茨城代表)
春、第81回(平成21年)
●花巻東高(東北ブロック、岩手県)0−1 清峰高(九州ブロック、長崎県)

―と7度のチャレンジが過去にありましたが、今回“七転び八起き”の思いも叶わず、0−11で敗退し、またも東北人の悲願は先延ばしとなりました。

― ◇ ◇ ◇ ―

さて、各都道府県の代表校が勝ち残っていく様をたとえる表現がありますが、上記のように東北勢だと“白河越え”、東日本勢だと“箱根越え”、平成16年(2004)に優勝した駒大苫小牧の場合だと“海峡越え”、といった表現をしています。

余談ですが、優勝旗を乗せた飛行機に添乗していたスチュワーデスが機転を利かせて「深紅の大優勝旗も皆さまとともに津軽海峡を越え、まもなく北海道の空域へと入ります。」とアナウンスし、機内に大歓声が上がったという話は有名ですね。

“白河越え”とは、優勝旗を白河関しらかわのせき(福島県以北)を越えてもたらしてくれ、という東北勢への奮起を促すフレーズとして著名です。

― ◇ ◇ ◇ ―

飛鳥時代の大化2年(646)正月、改新のみことのりという新たな政治方針が打ち出されますが、その中で、

初修京師置畿内国司郡司関塞斥候防人駅馬伝馬及造鈴契定山河

―初めて京師を修め、畿内国司・郡司、関塞せきそこ斥候うかみ防人さきもり・駅馬・伝馬を置き、鈴契すずのしるし(駅鈴・契)を造り、山河を定めよ
と地方行政制度の整備がうたわれ、全国に五畿(畿内)七道(東海道、東山道とうさんどう、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道)の行政区画を敷き、「関塞」を設置する事が記され、これが日本における関所の始まりと考えられています。

畿内を防御するために拠点として、東海道鈴鹿関すずかのせき東山道不破関ふわのせき北陸道愛発関あらちのせきが特に“三関”と呼ばれるほど重要視され、他に東海道の駿河・相模両国境に足柄関あしがらのせき、同じく東海道の常陸・陸奥両国境には勿来関なこそのせき東山道の信濃・上野両国境には碓氷関うすいのせき、同じく東山道の下野・陸奥両国境には白河関北陸道の越後・出羽両国境には鼠ヶ関ねずがせきがそれぞれ設置されます。

上記のうち、白河関とは陸奥国白河郡と下野国那須郡の間、すなわち現在の福島県南部に位置する白河市に建っていたであろう関塞で、鼠ヶ関江戸時代以降、念珠関)・勿来関と共に奥州三関の1つに数えられます。

白河関は主として8〜9世紀頃、すなわち奈良時代から平安時代中頃にかけて機能していたようですが、やがてすたれていきます。

しかし、その後も東北地方への玄関口として人々の記憶に受け継がれます。

なかでも、東北を旅行し、和歌を詠む人々にとって「白河関」歌枕(但し、初期においては、和歌において使われた語句や詠まれた題材を枕詞としたものを指したが、のちに和歌で詠まれる名所旧跡のみを指すようになった)として知れ渡り、平安時代のの歌人、能因のういん法師は「都をば/霞とともに/たちしかど/秋風ぞ吹く/白河の関」(後拾遺ごしゅうい和歌集』)と詠んでいます。歌の要旨は京都を春霞の頃に出発したけれはずやけど、白河の関に着いたら秋風が吹いてるやん…(ホンマ、遠い場所まで来たんやなー)って感じ!

― ◇ ◇ ◇ ―

「白河以北、一山百文」

白河関は関東と奥州の境にあり、現在の本州の東方、北方に住み、その昔ヤマト王権の支配が及ばなかった蝦夷えみしとか俘囚ふしゅうと呼ばれていた人々が南下してくるのを防ぐために設けられた防御・軍事施設であった事に由来する訳で、いわゆる差別用語なんだ、と考える人もいらっしゃるようで…

確かに、当時の日本は中国大陸を支配していた王朝(例えば唐王朝)を中心とする中華・華夷思想(例えば、中国大陸を制した王朝が自らの事を「中華」と呼ぶのに対し、その四方に居住し、帰順しない周辺民族を四夷しい東夷・北狄・西戎・南蛮)と差別・蔑称する思想)を日本にあてはめた日本型華夷思想の表われで、ヤマト王権にとって支配域の及ばない地域の人々を蝦夷蝦狄かてき、あるいは総称して夷狄いてきと蔑称していた訳です。

※ 東北地方は律令体制下では奥羽地方と呼んでおり、日本海側の出羽国(現在の秋田県・山形県)の人々を蝦狄、太平洋側の陸奥国(現在の青森県・岩手県・宮城県・福島県)の人々を蝦夷と呼んでいました。

なお、江戸時代以降、現在の北海道地域を蝦夷島えぞじまと読んでいますが、これは上述した日本型華夷思想とは何ら関係がありません。


また、幕末・維新期戊辰戦争で東北地方の諸藩は奥羽越列藩同盟を結成して明治新政府に対抗し、結果敗北するのですが、以降西南雄藩らの“勝てば官軍”思想の表われとして、「白河以北、一山百文」白河以北の土地は一山あっても、せいぜい百文程度にしかならない荒れ地ばかりで価値がない―とまで蔑まれます。

盛岡藩出身で大正時代に“平民宰相”と云われた原敬西南雄藩への対抗意識から自分の雅号に「白河以北、一山百文」から採って、「一山」と号します。東北人としての反骨精神を表すフレーズとして用いたようですね。

そう考えたら、“白河越え”というフレースは決してひがみ根性からくるものではなく、“やったるわい!”って東北人の気骨を示すフレースといっていいんじゃないでしょうか。

※ 個人的には正直、原敬という人物はすきになれませんけどね…“平民宰相”っていうけど、家柄は盛岡藩家老職に就くほどの上級武士の家柄だし、自分が20歳の時に分家独立し、平民籍に編入されたのだって、要は徴兵制逃れ(=戸主は兵役義務を免除されるという規定があった)のためにすぎなかったんですよ。何か…ネ!。

posted by 御堂 at 14:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

(トピックス)「幕勢敗走」「一人も不残被打、淀川如紅」―柳生藩の命運をかけて、情勢を探った一級史料

柳生藩家老の子息・小山田帯刀が鳥羽・伏見の戦いについて記録した書状。「幕勢敗走」や「新撰組」の文字が見える

新政府軍と幕府軍が激突した慶応4年(1868)の鳥羽・伏見の戦いについて、大和国添上郡柳生郷(現在の奈良市柳生町)を治めていた柳生藩の家老の子息が記録した書状が、奈良市在住の子孫方に所蔵されている事が、柳沢文庫の調査で確認されました。新政府軍の砲撃で淀川が血に染まった、など生々しい戦いの状況が記されているようです。

― ◇ ◇ ◇ ―

柳沢文庫によると、同文庫の学芸員らにより、家老の子孫である小山田晟さん=奈良市在住=が所蔵する文書を調査したところ、書状は縦16・7cm、長さ164・3cmで、小山田帯刀(※1)が父の三郎助ら家老宛てに送った。戦いが始まった正月3日の翌日に玉水宿(現在の京都府綴喜郡井手町)から伝聞した状況を報告した内容と判明。

書状では、薩摩・長州・土佐藩が、奉行所、新撰組、幕府、会津藩の4000人と交戦した結果、

ついニ幕勢敗走」し、「奉行所為兵火焼失」(=幕府軍が敗走し、奉行所が戦いで焼失した)
と記し、大坂から救援に来た幕府軍の船も砲撃で沈み、

「一人も不残被打、淀川如紅」(=一人も残らず敗れ、淀川が血で染まった)
と記録されています。また、

「大坂も大擾乱じょうらん之趣」(=大坂も大混乱の様子)
と戦況の拡大を心配した上で、大坂に行くと締め括っており、急いで書き記した様子が窺われるとの事。

― ◇ ◇ ◇ ―

書状からは、柳生藩は1万石の小藩所帯なので、家老の子息が直接出向いて懸命に情報収集していた事が判り、激動の時代を生き延びようとした藩の必死さが伝わってくるようです。

柳沢文庫の学芸員は「伝聞の内容なので、史実とは違い尾ひれが付いた部分もあると思うが、開戦の翌日に書かれた書状であり、世情の緊迫感が伝わる貴重な史料だ」と話されています。

この書状は、柳沢文庫で6月25日から始まる夏季展示「郡山藩とその時代」で初公開される模様。

展示は9月18日まで。問い合わせは柳沢文庫まで。


※1 小山田帯刀
小山田帯刀の先祖に柳生藩の国家老を務めた小山田主鈴しゅれいという人物がいます。
主鈴は陸奥白河藩の郷士の家に生れ、25歳の時、江戸の柳生藩邸に足軽として仕え、その才腕を認められて、45歳の時、国家老として柳生の里に移り、柳生藩南都屋敷を預かったと云います。
その主鈴が弘化3年(1846)に家督を譲って隠居する際に、隠居宅として藩主・俊章としあきらから賜ったのが、奈良県指定文化財となっている現在の旧柳生藩家老屋敷(柳生資料館)です。

その子孫である帯刀は柳生藩最後の藩主となった柳生俊益(俊郎としろうの代に国家老だった父・三郎助に代わり、情勢を探っていたのでしょう。この時期の柳生藩将軍家剣術指南役という立場から佐幕派がその勢力を優位に立っていましたが、やがて勤王派が勢力を盛り返して藩論を統一するようです。

その後の帯刀は、初期の朝藩体制下の維新政権期には建白書も提出しています。


― ◇ ◇ ◇ ―

※(参照)柳沢文庫→

posted by 御堂 at 18:19 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

(トピックス)小牧山城の石垣から墨書石材が出土!―国内最古の確認例

発見された石材の墨書部分の写真 発見された石材のイラスト図


愛知県小牧市の教育委員会によると、同市の小牧山城(小牧市堀の内、国史跡)の石垣から墨書(墨で文字が書かれたもの)のある石材が発見されました。石垣の石材としては国内最古の確認例なのだとか―

墨書のある石材は、教育委員会による発掘調査(小牧山主郭地区発掘調査)の中で、山頂付近の本丸北西側の斜面の石垣から発見された堆積岩の一種(長さ60cm、幅35cm、厚さ20cm、重さ93・5s)。

しかし、原形を伴っていない場所で発見されたために、石垣のどの部分に使われていたかは判り得ないのだとか―

「佐久間」と墨書された石材の赤外線写真

名古屋市博物館に持ち込んで調査し、城郭に詳しい千田嘉博・奈良大学教授らが鑑定した結果、墨書で書かれた文字には石材の中央に大きく書くという特徴があるのですが、石材の平坦面中央部に草書体で縦書きされている範囲内(縦12cm、横6cm程度)に肉眼で3文字が確認でき、「佐久間」と判読できた模様。

小牧山城織田信長が永禄6年(1563)に手掛けた最初の城郭で、“近世城郭の原型”とされます。

石垣の石材の中でも、墨書のある石材の事例から、墨書の内容には作業(石普請など)に関わった担当者の名前や官途名、作業上の目印となる記号(刻印)が記されているケースが多く、千田教授は「信長の複数の家臣が築造に関わった中で、城の心臓部とされる本丸の石普請は、信長の重臣であった佐久間信盛に代表される佐久間一族が関わっていた可能性が高い」と推察されました。

石垣の石材で墨書のある石材は、昭和17年(1942)に滋賀県教育委員会が調査した報告書の中で、信長が築城を開始した安土城(→天正4年=1576=)に墨書があったと記録されており、これが最古の確認例だったのですが、今回の事例でこれを13年も遡る結果となりました。

なお、今回確認された墨書のある石材は6月10日(金)〜22日(水)に小牧市歴史館(小牧市堀の内)で、7月27日(水)〜8月1日(月)に名鉄小牧駅前のラピオ(平和堂)内にあるまなび創造館4階の市民ギャラリーで一般公開されます。


  

posted by 御堂 at 07:51 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

(トピックス)徳川宗春の功績を広く知らしめたい―史跡案内の看板が除幕!

歴史の教科書では習わないけど、江戸時代の中頃に「享保の改革」を掲げた徳川吉宗を向こうに張って独自の改革路線を推し進め、今日の中京地区“名古屋”が繁栄する道標を築いた人物がいました―

尾張藩第7代藩主徳川宗春という人物です。

私などは宗春は大好きな人物の1人でして、、時代劇ドラマで演じられた役者さんとして、『暴れん坊将軍』シリーズで演じられた中尾彬さんや、NHK大河ドラマ「八代将軍吉宗」(平成7年=1995)で演じられた中井貴一さんがすごく印象に残ってます。

ただ、宗春のイメージとして、典型的に善玉の吉宗に対する悪玉というイメージ(勧善懲悪が大好きな日本人では仕方のないところですけどね!)が拭いきれないのが残念ですが…

― ◇ ◇ ◇ ―

さて、宗春尾張藩第3代藩主・徳川綱誠の第十九男として生まれたため、本来なら部屋済みの身分として一生を終えるはずでした。

ところが、兄で第4代藩主の徳川吉通、甥で第5第藩主の五郎太、次兄で第6代藩主の継友が亡くなった事で、尾張徳川家を相続する事態になるのです。

宗春は藩主に就任すると、自身の政治に対する思いを述べた著書『温知政要』を藩士一同に配布し、幕府の進める重農主義を基幹にした緊縮財政政策に対して、重商主義を根幹にした積極財政政策を打ち立てます。

こうした政策の結果、名古屋の街は活気を取り戻し、その繁栄ぶりに“名古屋の繁華に京(興)がさめた”とまで揶揄されます。

ところが、順調だった経済の伸びも翳りを見せ始め、停滞する一方と化したため、宗春は初志貫徹を諦め、緊縮財政政策に転じます。すると、逆に幕府は積極財政政策に転じたため、名古屋の経済は収渋がつかなくなり、赤字財政に転じてしまう事になったのです。

こうした状況を見ていた幕府付家老竹腰正武国許くにもとの重臣たちは幕閣と謀って、宗春失脚を画策して「主君押込」を実行します。

そうして、宗春から全ての実権を奪い取り、宗春が行った施策を全て無効とし、遂には宗春を隠居謹慎させ、尾張藩より知行地を「収公」(※1)させたのち、改めて支藩である美濃高須藩藩主の松平義淳徳川宗勝)に尾張藩宛行あてがいます。


※1 「収公」
「収公」とは、領主が領有している土地を幕府が納め直す事を意味しますが、ともすれば領地を没収され、武士の身分をも剥奪される「改易」と混同してしまう傾向があるようです。

例えば、元和3年(1617)に起きた最上騒動(出羽山形藩第3代藩主・最上義俊の下で起きた家臣団の内紛に端を発した御家騒動)や寛永17年(1640)に起きた生駒騒動(讃岐高松藩第4代藩主・生駒高俊の下で起きた家臣団同士の派閥争いに端を発した御家騒動)は、前者は出羽山形藩領を「収公」され、近江大森藩主として再出発を赦されているし、後者も讃岐高松藩領を「収公」され、出羽矢島藩主として再出発を果たしています。

それとは異なり、慶長13年(1608)に起きた筒井騒動(伊賀上野藩主・筒井定次の下で起きた家臣団の内紛に端を発した御家騒動)や同15年(1610)に起きた越後福島騒動(越後福島藩第2代藩主・堀忠俊の下で起きた家臣団同士の派閥争いに端を発した御家騒動)などは「改易」処分とされ、御家復興は果たされませんでした。


宗春は名古屋城三の丸内の屋敷に幽閉され、父母への墓参を含め、一切の外出を禁じられてしまいます。

その後、吉宗が死去した事で下屋敷へ移され、父母への墓参なども許されますが、隠居謹慎から25年経った明和元年10月8日に宗春は波乱の生涯を閉じました。享年69歳だったと云います。

宗春の死後、幕府の目を気にし続けた弱腰の尾張藩宗春の墓石に金網が駆け巡らし、さも重罪人のごとく扱います。

死後75年経って、尾張藩藩主の座に将軍家の子息を襲封させる事になった際、領民の幕府への反感を収める意味で、宗春の名誉回復(=藩主として数えられる)がなされ、金網も金網も撤去されるに至ります。

― ◇ ◇ ◇ ―

設置された徳川宗春の史跡案内の看板と宗春ロマン隊の安田教授

そうした徳川宗春の功績を多くの人に知ってもらおうと、市民有志で創られている「宗春ロマン隊」が活動して、平和公園(名古屋市千種区)にある宗春の墓碑脇に史跡案内の看板が設置され、除幕式が開かれました。

看板は縦43cm、横60cmの大きさで御影石と磁器タイルで作られています。

将軍徳川吉宗の緊縮政策に反発し、独自の政策を展開した宗春について、「祭りを復興させ、芸能を大いに許すなど人々の生活に活気をもたらし、現在の名古屋の発展の礎を築いた」とする安田文吉・南山大学人文学部日本文化学科教授の紹介文がタイルに焼き付けられています。

― ◇ ◇ ◇ ―

昭和時代高度経済成長期に故福田赳夫氏によってキャッチフレーズ化された“昭和元禄”のように江戸時代の高度経済成長期だった元禄時代を経て、低成長になった享保年間元文年間宗春によって唯一反映を見せた名古屋。

こうした経済成長は大衆文化を発展させるのですが、教科書では桃山文化の名残が、上方かみがた(→大坂を指す)を中心とする元禄文化を生み、やがて江戸を中心とした化政(文化・文政)文化に移行していったとしか述べられていないのですが、中間地点の名古屋こそがその文化の中継場所として上方から江戸への橋渡しをしたものと言っても過言ではないと思います。

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参照)宗春ロマン隊→


posted by 御堂 at 23:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム