(トピックス)「奈良京」と呼ばれた平城京、出土木簡に最古の表記

表面に「奈良京」との表記が見られる木簡。左側の半分は欠けている

奈良市二条大路南の平城京跡で平城京を指す「奈良京(ならのみやこ)」と書かれた木簡が見つかりました。

「奈良京」は、平城京の名称が一般化する前の都の表記の1つで、和銅3年(710)3月10日の遷都前後に記されたとみられます。

また、「奈良京」の表記はこれまで天平宝字2年(762)の『正倉院文書』に登場するのが最古とされており、それを半世紀ほど遡る事となります。

木簡は長さ252㎜、幅14㎜で縦に割れ、左半分は欠けています。表に平城京を発信元として示す「奈良亰申」、裏には薬らしいものを運ぶ役夫が逃走した事を伝える内容が書かれていました。

さらに、同じ土の層から大宝律令により施行された古代日本の地方行政の制度である国郡里制の行政単位「里」を表す木簡(※1)が出土している事から、この木簡も霊亀3年(717)までに書かれたものとみられています。

※「里」を表す木簡
「里」は、霊亀元年(715)に「郷」と改称され、郷里制に移行した。


heijoukyo.gif

― ◇ ◇ ◇ ―

古代には同じ音と意味でも様々な漢字が使われるのが一般的でした。

「なら」の表記についても「那羅」「平城」「寧楽」などと表記されています。

平城京という呼称は平安時代に定着したものとされています。現在、イトーヨーカドー奈良店が建つ長屋王邸跡(奈良市二条大路南)で出土した木簡で「奈良宮」と書かれたものがありますが、「奈良京」と表記されたものは天平宝字2年(762)に書かれた『正倉院文書』でしか確認されておらず、平城京の造営段階から「奈良京」という呼称が一般的だった可能性もある史料として貴重な発見とされています。

日本で最初に飾られたクリスマスツリーは函館だった!

以前、「日本で最初に飾られたクリスマスツリー―オイレンブルクの万延元年!」というブログ記事を書きましたが、新しい見解がある―とのご指摘を頂き、取り急ぎ調べてみました…

クリスマスツリー (Christmas Tree)が安政5年(1858)、日本で初めて江戸時代末期、すなわち幕末の箱館(「函館」表記は明治9年以降)で立てられた可能性も…

日本で最初のクリスマスツリーは、一般的には154年前の万延元年(1860)に「プロイセンが派遣した東アジア使節団長、オイレンブルク伯爵が飾った」とドイツ大使館広報部はされていますが、箱館の方が2年早い事になるようですね。

安政6年(1859)12月22日付で初代駐日ロシア領事ヨシフ・アントノヴィチ・ゴシケーヴィチ(Iosif Antonovich GOSHKEVICH)が箱館奉行所の役人(1)や近隣住民との交流を深めようと、奉行所宛に「ロシアの祭礼」への招待状を出していたそうです。そして、そこには―

「明後日(24日)の祭礼には奉行、副奉行が来て楽しんで欲しい」という内容で、そのために「高い所をきれいに整飾した」クリスマスツリーを思わせる表現があったそうです。

「高い所」には「ヨルカ(もみの木)を立てた」とするロシア側の資料も判明している事―

さらに昨年のように役人の子供たちも来ることを望む」との旨が書かれていたのだとか―

という事は、前年の安政5年(1858)にも催されていた事が分かりますね。

また、これらの裏付けとして、ゴシケーヴィチ自身がロシア海軍省の機関誌『海事集録』において、寄稿したと思われる、赴任した安政5年(1858)に迎えた箱館の年末年始の様子について報告している記事の中に、

「私はここの役人社会に接近するために、クリスマス週間(クリスマスから一月六日の主顕節までの期間)に際して色々な楽しい催し物を考え、そしてその目的に達したように思う。クリスマスの前日に、私の所では、彼等の子供たちのためにツリーが建てられ、それを見ようとすべての子供ばかりか、ほとんどすべての役人たちが訪れた」(佐藤守男「ロシア領事館の函館開設とその活動―一八五九年~一八六二年の『海事集録』を中心に―」第二章第1項「最初の年末年始」より引用)

と書かれた安政6年(1859)2月1日付の「駐日ロシア領事の手紙の抜粋」(『海事集録』第43巻第9号、雑報欄)があったそうです。

(1)箱館奉行所の役人
→箱館奉行は竹内下野守保徳、堀織部正利熈、村垣淡路守範正の3名で、2人が箱館在勤、1人が江戸詰めという交代勤務制を執っていました。なお、ゴシケーヴィチが領事として箱館に到着した時期の奉行は竹内下野守保徳だったようです。


― ◇ ◇ ◇ ―

※(関連)江戸の町に初めて飾られたクリスマスツリー―オイレンブルクの万延元年!
※(関連)“戦場のメリークリスマス”―戦国時代のクリスマス休戦


※(参照)「日本初のツリーは幕末箱館*市民団体代表木村さん 史実に光*ロ領事の祭礼招待状に記述*『高い所をきれいに整飾した』弥生小付近、スギなど代用か」(2010年12月24日付夕刊『北海道新聞』)
※(参照)「Xマスツリー華やかに…元町ホテル前に設置」、2014年11月25日付『函館新聞』より引用)
※(参照)佐藤守男「ロシア領事館の函館開設とその活動―一八五九年~一八六二年の『海事集録』を中心に―」、北海道大学法学部『北大法学論集』第46巻第3号、1995年9月29日

(トピックス)ジュスト高山右近没後に妻子らは帰国していた!

宣教師の書簡の写し。指で指している部分に高山右近の娘ルチアら3人の帰国の記述がある

現在、NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」でも登場中の摂津高槻城主でキリシタン大名のジュスト高山右近(※1)は加賀前田家に客将の身分として暮していましたが、慶長18年(1613)12月、突如として江戸幕府は禁教令を発します。

翌19年(1614)正月17日、右近らは人々の引き留める中、金沢を退去して、坂本(現、滋賀県大津市)→大坂(現、大阪市中央区)→長崎と護送されます。

当所、幕府は右近の処分を決めかねていたようでした。

折りから大坂方(豊臣氏)と風雲急を告げる状況であり、大坂方には明石掃部かもん全登てるずみらキリシタン浪人が続々と入城しており、右近を処刑でもすれば各地に散らばるキリシタン勢力やシンパたちの反発を買うような、火に油を注ぐ状況をもたらしかねませんでした。

そこで、苦肉の策として国外追放という前代未聞の処分が下されます。

ただ、イエズス会年報によれば、10月7日、右近一行らが出港した後、徳川家康はにわかに右近らが乗船した船を撃沈してしまおうと思い立ち、長崎奉行に急使を立てたと云われています。

右近らが乗船した船は、フィリピンのマニラに12月に到着します。

ようや辿たどり着いたマニラですが、過酷な船旅の無理がたたったのか、右近は高熱を発し床に伏せてしまいます。

そうして、マニラ到着から約40日後の翌20年正月8日(西暦1615年2月4日)、右近は創造主の許へと召されます。

― ◇ ◇ ◇ ―

さて、右近と共にフィリピンのマニラに渡ったのは、ジュスタ夫人、娘ルチア、亡くなった長男ジョアン夫妻の子で右近の孫にあたるフランシスコら5人ですが、このうち、娘のルチアら家族3人が右近が客死した後にマニラから帰国していた事を記したポルトガル人宣教師の書簡が確認されました。

右近の没後400年を来年に控え、新たなキリシタン史が掘り起こされた事になりますね。

※1 ジュスト高山右近
洗礼名はポルトガル語で❝正義の人❞を意味するジュストで、高槻城主時代に署名された自筆の花押は「重出」「寿須」「寿子」の文字を当てているので「ジュスト」と発音していたと考えられます。最近では、ローマ・カトリックの共通標準語であるラテン語の「ユスト」と呼称する傾向にあるようですが、過去において、右近「ジュスト」の表音をしている以上、勝手に表現するのはおかしいと感じます。


― ◇ ◇ ◇ ―

書簡には「そこ(加賀藩領内)には、かって右近殿もともに滞在していた。われらの主は、彼をマニラで御許おんもとに召したもうた。彼の妻、娘および、孫たちの一人は日本に戻ってきており、秘密にしているが、キリスト教徒である娘の婿が彼らに会った」と記述されていたそうです。

この書簡は宣教師が別の神父による加賀領内の報告として元和2年(1616)7月18日付で長崎から発信されており、彼の妻、娘および、孫たちの一人というのは、妻がジュスタ、娘がルチア、孫がフランシスコ(ともに洗礼名)とみられます。

因みに、
右近の妻は名は妙、洗礼名をジュスタ
子女には、
嫡男に長房(十次郎、左近)、洗礼名をジョアン
嫡孫に長房、洗礼名をフランシスコ
次男に忠右衛門、
三男に亮之進(助之進)、
長女に初、洗礼名をルチア
の名が確認できます。

キリスト教徒である娘の婿とは、右近の娘ルチアの夫であり、加賀前田家の重臣で筆頭家老の横山長知ながちかの嫡子・康玄やすはるを指します。

慶長8年(1603)、ルチアが12歳の時に結婚し、高山家の影響を受けて洗礼を受けていたようですが、右近が前田家を追放される事になった際に右近からルチアと離縁するよう説得され、受け入れたために、以降、両家は決別したというのがこれまでは定説だったそうです。

書簡はスペインのトレド文書館に保存されており、元カトリック金沢教会職員の木越邦子さんが、撮影された原文の写しを手に入れ、慶応大学の高瀬弘一郎名誉教授(キリシタン史)が翻訳した。

ルチアがマニラに向かう際に子どもを預けた伝承が石川県志賀町二所宮にあり、木越さんは「ルチアが帰郷後に能登に匿われた可能性がある。記録が残されていないのも藩が隠した証しでは」と推定。

高瀬名誉教授は「3人が帰国したという事実は大きい。離縁した夫と会った事も興味深い」と話されています。

― ◇ ◇ ◇ ―

余談ですが、過去に大河ドラマ枠で高山右近を配薬された役者さんは、
  • 鹿賀丈史さん(『黄金の日日』)
  • 沢村一樹さん(『利家とまつ〜加賀百万石物語〜』)
  • 生田斗真さん(『軍師官兵衛』)
の皆さんですが、私個人的には最初に右近として観た鹿賀丈史さんの演技が何というか"右近らしさ"がすごく奏でていて未だに鮮烈な印象を持たせて頂いてます。
※(参照)木越邦子「マニラから加賀藩に戻った高山右近の家族―一六一六年、長崎発信の書翰より―」、『キリシタン文化研究会 会報』第143号)

「鉄眼版」一切経(大蔵経)がもたらしたもの―日本の印刷技術のパイオニアとして―

JR西日本・京都駅を出発し、奈良線に乗車してJR黄檗駅で下車、あるいは京阪電鉄の宇治線に中書島駅で乗り換えて黄檗駅下車すると、そこから徒歩で5~10分ほどした場所にたたんでいるのが黄檗山おうばくさん萬福寺まんぷくじです。

萬福寺は中国・大明王朝末期に福建省福州府福清県の黄檗山萬福寺の住持であった隠元いんげん隆琦りゅうき禅師によって開基した寺院で、寛文元年(1661)に五摂家の1つ、近衛家の家領で、後陽成天皇の女御にょうごで後水尾みずのお天皇の生母である近衛前子さきこ(中和門院)の大和田御殿があった山城国宇治郡五ヶ庄ごかのしょう大和田村(現在、宇治市五ヶ庄ごかしょう三番割)の地を賜り、福建省の自坊と同様に黄檗山萬福寺と名付けます。

江戸期全般は臨済宗黄檗派と称していましたが明治9年(1876)、臨済宗から独立し宗派を黄檗宗と改宗、黄檗宗総本山として現在に至っています。(禅宗は、日本においては臨済(禅)宗、曹洞(禅)宗、黄檗(禅)宗の3派に分類されます)

― ◇ ◇ ◇ ―

ちょっと寄り道―

現在、韓国の史劇ドラマ「武神」を視聴中です。この作品の舞台は高麗王朝期で、ちょうど武臣政権期と呼ばれる時期を描いているのですが、ドラマの中でモンゴル(蒙古)軍の侵攻によって焼失する大蔵経の回(第29話、邦題タイトル=燃える大蔵経)がありました。

武臣政権はモンゴル(蒙古)軍の侵攻を追い払い、高麗の国教である仏教の力で鎮護国家・怨敵退散の願いを込めて、新たに大蔵経の制作を計画します。

ところで、第29話で符仁プイン寺に保管されている大蔵経がモンゴル(蒙古)軍の侵攻によって焼失する際、大蔵経を守ろうと大蔵経と共に焼け死ぬ僧侶の姿が描かれるのですが、これは焼身供養と言って、「己の身を焼き仏に捧げる」といものなんだとか―

一瞬思い浮かべたのが、今年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」でも描かれましたが、織田信忠が甲斐武田氏の征伐として武田氏の分国である甲斐に攻め込んだ際に、恵林寺えりんじ
(山梨県甲州市塩山)の住職であった快川かいせん紹喜じょうき禅師は織田軍に敵対した「佐々木次郎」(六角義定よしさだではないかと云われている)らを匿いました。

中世という時代においては、寺社領は聖域であると同時に治外法権が適用され、どんなに謀反人であっても、手を出せないという、謂わば社会的通念があったのですが、織田軍による再三の引渡し要求を拒んだ結果、全山焼討ちに遭って焼死します。

この時、快川禅師は、
安禅不必須山水
(安禅必ずしも山水をもちいず)
滅却心頭火自涼
(心頭を滅却すれば火もおのずから涼し)
という碧巌録へきがんろく(=宋代に編まれた仏教書で、仏の教えや仏・菩薩の徳を文章化して讃えたもの)の第四十三則のを発しました。

これが、言わば遺偈(辞世句)を詠った、というシーンで、この折りも快川禅師にとっては「己の身を焼き仏に捧げ」たのかなぁと考えちゃいました。

― ◇ ◇ ◇ ―

脱線しちゃったけど―

焼失して5年後、新たに大蔵経の制作に向けて計画・準備が練られます。

大蔵経の経文の版木として使用するために伐採する木は樹齢100年以上の山桜(バラ科の落葉高木)を5千~1万本ほど必要としました。

伐採した木材は干潟地に3年間ほど埋めておきます。その方がひび割れなど起きない、ほぼ変化が起きない立派な版木用の木材になるからだそうです。

きちんと製材された木材は塩水に浸しては乾燥の作業を繰り返し、保存処理として漆を2~3回重ねて塗っていたといいます。

ただ、こうして文章を読みだけだと経文の版木を作る事は、版木にただ文字を掘るだけだと思いがちかもしれませんが、そこには並々ならぬ苦労があったようです。

写字を行うためには数千人の人手を要するし、書体を揃えるためには訓練を積ませる必要があります。剰え、版木を掘る者も育てねばなりません。

このように大蔵経を製作するために高麗の当時の技術と知恵を総動員したのです。

その結果として、新しく製作された大蔵経(高麗大蔵経)は、まるで1人の熟練な職人によって作られたかのように、誤字も脱字もほぼなく、とても良好な出来栄えであったようです。

現在、大韓民国の慶尚南道陜川に在る海印寺に保管されている大蔵経(高麗大蔵経)は、版木の数が8万枚にも至るので「八万大蔵経」とも呼ばれています。

私自身、前職で大学図書館の事務を務めていた時、宗教系の大学の図書館だったので、この大蔵経(高麗大蔵経)を扱った事がありますが、やはり字体が綺麗なので見応えがありましたよ。

― ◇ ◇ ◇ ―

閑話休題、話を戻して―

さて、その萬福寺が在る黄檗山内にある塔頭たっちゅうの1つに宝蔵院というのがあります。そこに保管されている重要文化財が今回の主人公です―

その重要文化財とは「鉄眼一切経版木」というもので、黄檗宗の僧侶である鉄眼てつげん道光どうこう禅師が成した成果なのです。

鉄眼禅師は肥後国益城ましき郡守山村(現在の熊本県宇城うき市小川町)に在る守山八幡宮の社僧を父として生まれ、初めは父の影響で浄土真宗を学び、13歳の時、浄土真宗の僧侶として出家します。

しかし、真宗門徒では個人の才徳ではなく、寺格の高下によって僧侶の身分が定まる事に嫌気がさしていた処、26歳の時にまだ長崎に居た隠元禅師に出会った事から臨済宗黄檗派に帰依し、畿内を中心に各地の寺院を巡っては般若心経はんにゃしんぎょうの教えを説いてまわります。

― ◇ ◇ ◇ ―

そんな彼が一念発起してでも叶えたい夢がありました―

仏教思想には、釈迦しゃかが説いたとされる教えをまとめた「経蔵」、規則や道徳観念・生活様相などで戒めとされる事柄をまとめた「律蔵」、釈迦やその弟子たちが「経」や「律」を注釈、解釈したものを集めた「論蔵」の3種類で構成されており、総称して「三蔵さんぞう」呼ばれます。

古来インド(印度)で仏典がまとめられた初期仏教などではパーリ語でまとめられ(パーリ語仏典)、現在でもその原型を留めているのですが、大乗だいじょう仏教の流れで伝播した中国仏教やチベット仏教ではこの「三蔵」が原型を留めた形では伝わらず、一切いっさい経」(「大蔵だいぞう経」)という形で再編されています。

一切経(大蔵経)とは「三蔵」や高僧伝などを幅広く編集して社会全般のあらゆる面を説き明らかにしたもので、仏教百科叢書ともいうべきものです。(中国仏教では南北朝期、北朝の北魏王朝では「一切経」と、南朝の梁王朝では「大蔵経」と呼んでいて、統一政権となった大隋王朝や大唐王朝の下で双方が併記されるに至ったそうです)

因みに、インド(印度)から中国へ大量の経典を持参した人物や経典を大量に訳した訳経僧に付した人物は「三蔵法師」と尊称されると云います。著名なところとして、『西遊記』にも描かれた玄奘げんじょう三蔵がいますよね。

鉄眼禅師は、仏教国日本に一切経版木の無いことを残念に思い、一切経(大蔵経)を開版(出版)しようとしたのです―

彼は寛文4年(1664)頃に隠元禅師にその志を相談すると、隠元禅師は感銘を受け、大明王朝の万暦ばんれき17年(1589)から大清王朝の康煕15年(1676)にかけて皇帝の勅命で編纂された勅版大蔵経(『万暦版大蔵経』、6956巻)と黄檗山内にそれを保管する寺地を授かり、蔵版・印刷所としての宝蔵院を建立、また、洛中・木屋町二条の地に印経房(のちに貝葉ばいよう書院)を設け本格的な事業が始まります。

順調に開版事業が進むかのようでしたが、大洪水や飢饉ききんなどの災害被害にあえぎ苦しむ人々を目の当たりにした鉄眼禅師は事業を中止しては、全国行脚あんぎゃをなどして苦心して募った資金の全てを難民救済に差し出します。

そういった艱難辛苦かんなんしんくを経てようやく、延宝6年(1678)鉄眼禅師51歳の時に事業は完成したのです。

1618部7334巻からなる、この一切経(大蔵経)は「黄檗版」あるいは「鉄眼版」と呼ばれます。

翌天和2年(1682)、この一切経(大蔵経)を幕府に献上するため、江戸へと旅立とうとした鉄眼禅師ですが、折りしも、畿内に大飢饉が発生した事を聞き及び、直ぐ様大坂にとって返します。

鉄眼禅師の餓死寸前の人々を救おうとする姿に、口々に「救世ぐぜ大士だいし」様と崇めたと云います。

しかも彼自身、この救済活動の最中に、疫病に感染して入寂にゅうじゃくしてしまうのです…

一切経(大蔵経)の初版は後水尾法皇に上呈され、彼に「宝蔵国師」のおくりなが贈られます。

鉄眼禅師のこうした救済活動は戦前の尋常小学校の国語読本にも紹介されました―

鉄眼は「一切経を世にひろむるはもとより必要のことなれども、人の死を救うは更に必要なるにあらずや」と難民救済を最優先した、まさに活仏いきぼとけのようだ

― ◇ ◇ ◇ ―

鉄眼禅師が遺したもの―日本における印刷技術のパイオニア

日本において、平安期から鎌倉期、室町期には殆んどの出版物が仏教関係の著作物や経典類で木版印刷が主流だったようです。但し、一切経(大蔵経)に関しては印刷・刊行された様子はなく、写経で模写するのが多かったようです。

木版印刷は、木の板に文章や絵を彫って版を作る凸版とっぱん印刷の形態を指し、版に絵の具や墨汁などを塗り、紙をあてて上から馬楝ばれんで摺って制作する作業工程をいいます。

戦国末期の桃山後期から江戸初期にかけては、キリスト教宣教師の布教活動で活版印刷技術が伝えられ、古活字本やキリシタン版などの活版印刷が一時的に盛んになり、『伊勢物語』『徒然草』など、仏教関係でない漢字ひらがな混じりで書かれた書物が多数印刷されました。しかし、鎖国政策による宣教師の追放に伴い、活版印刷の技術は普及しなくなり、寛永期を境として再び木版印刷が主流となってきます。

この「鉄眼版」一切経(大蔵経)の版木は現在、宝蔵院の収蔵庫にて一般公開されており、生きた文化財として、現在も版木は現役そのものです。

それ故、多くの印刷業者やデザイン関係者が見学に訪れるのだそうです。

版木には、材料として最適な吉野山の桜の木を用いており、縦約26㎝、横約86㎝、厚さ約1・8㎝、版木の総数はは6万枚を要しているそうです。

文字の字体は大明王朝後半に印刷用書体として適した書体として考案された明朝体が使われていて、そこから日本における明朝体のルーツと云われる由縁が生まれました。

また、明朝体は太く大きいサイズの文字にも適用でき、強いインパクトが要求される見出しや広告などのデザインに使用されることが多いそうですよ。

明朝体は“活字文化の象徴”として捉えられているんですね。

また、「鉄眼版」一切経(大蔵経)の版木は裏表2枚ずつ、計4枚の版木が刷られますが、そのレイアウトが1行20文字×20行、すなわち20×20の400字詰め原稿用紙サイズの様式なんですね。

これは鉄眼禅師独自のアイデアなんですよね。実際、元となった勅版大蔵経(『万暦版大蔵経』)は1行17文字が標準形式であったことが実証されていますから…

すなわち、「鉄眼版」一切経(大蔵経)の版木は今日における原稿用紙の基本ベースとも言える訳です。

そういう意味では、明朝体といい、原稿用紙サイズ様式といい、鉄眼禅師は日本における印刷技術のパイオニアと言っても過言ではないかもしれませんね!

(トピックス)13世紀前半の「島畑」の遺構発見 低地を改良 城陽・寺田 木津川右岸

土を盛って周囲の土地より高くした島畑の遺構。右の段差から左側に広がっている

京都府埋蔵文化財調査研究センターは、城陽市寺田の木津川右岸にある水主みぬし神社東遺跡と下水主しもみずし遺跡の発掘調査で、低地で畑作をするため土を盛り上げて築いた農地島畑しまばたの遺構を見つけたと発表しました。13世紀前半に造成されたとみられ、配置は現在の水田区画と合致しているとの事。

水主神社東遺跡と下水主遺跡

同センターは、新名神高速道路の整備に伴う遺跡調査を2012年度(2012・4~)から行なっていて、合わせて1・2ha(ヘクタール)を調査したところ、幅約8~15m、長さ50~100m程度、高さ0・6~0・8mの「島畑」の遺構が確認されました。

「島畑」は水田の底をなるべく地下水位に近づけるため可能な限り深く掘り下げ、その掘り下げた土を盛って畑にしたもので、水田の中に一段高い畑がある、という感じですね。大きな川のそばや水けの悪い土地に多く造られます。

「島畑」の遺構周辺には、弥生時代の竪穴住居、平安時代の木組みの井戸が見つかり、以前は村落を形成していたとみられます。

同センターは「時代と共に川の位置が変わって洪水に見舞われるようになり、生活場所に適さなくなったため、木津川流域を耕作に適した土地に改良する手段として、島畑を採用したのではないか。中世の土地利用状況が分かり、生産場として栄えていた様子がうかがえる」と分析されています。

事実、現在の城陽市の木津川流域には「島畑」が多数分布し、イチジクなどが作られています。

今回、採取した種子からは当時の栽培作物の特定できなかったようですが、同センターは「島畑を設けるには労力がいるため、商品価値の高い作物を作ろうとしたのでは?」と考察されています。

江戸末期から大正時代の地層からは綿や大麦などの種子が出土し、この地域で綿の栽培が行われたとする、江戸時代の文献記録が裏付けられました。

また、同時に13世紀前半頃の土師はじ器などが出土した事から、「島畑」は鎌倉時代にあたる13世紀頃には造られ始めめていた事、確認された「島畑」の遺構が現在の「島畑」と同じ形状で造られ、100年に1回程度の割合で補修された形跡があるものの、その配置が鎌倉時代の造成時から現在まで踏襲されてきた事も判明しています。

「島畑」の起源については、条里制のできた7世紀頃まで遡る見解と、13世紀頃からという見解とに分かれていますが、現在は13世紀説が有力で、今回の結果はそれを改めて裏付ける要因となるかもしれませんね。

「島畑」は、日本独特の土地利用の仕方でかつては全国に多くあったが、区画整理などで失われ、大規模に残るのは城陽市や愛知県一宮市などだけになっていると云います。

「島畑」について研究している名古屋大学の溝口常俊名誉教授(歴史地理学)は「鎌倉時代の世の中が落ち着いた頃に、水田と一緒に畑作もする家族経営の日本農業の原型ができたのではないか」と話されています。

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参照)金田章裕「条里制施行地における島畑景観の形成」(『地理学評論』第49巻第4号)