城戸俊三選手と「久軍号」―観客すべてが感銘し賞賛した"愛馬精神"―1932・ロサンゼルス五輪にて

昭和7年(1932)7月30日から8月14日までの16日間、アメリカ合衆国カリフォルニア(California)州のロサンゼルス(Los Angeles)で行われたオリンピアード競技大会(通称、オリンピック、Games of the Olympiad)で8月10日から14日までの期間に開催された馬術競技の日本代表選手は次のようなメンバーでした―

  • 総合馬術:城戸俊三選手久軍号
  • 総合馬術:山本盛重選手(錦郷号)
  • 総合馬術:奈良太郎選手(孫神号)
  • 障害馬術(障害飛越、大障害):今村安選手(ソンネボーイ号)
  • 障害馬術(障害飛越、大障害):吉田重友選手(ファレーズ号)
  • 障害馬術(障害飛越、大障害):西竹一選手(ウラヌス号)

選手の殆んどが習志野原(千葉県千葉郡二宮町薬園台、現在の船橋市薬円台)にあった陸軍騎兵学校(習志野騎兵学校)出身者だそうです。

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競技は3日間をかけて同一人馬により競技が行われ、初日に馬場馬術(調教審査)、2日目にクロスカントリー(耐久審査)、3日目に障害馬術〔障害飛越〕(余力審査)がそれぞれ行われました。

また、これら3種目を同じ人馬のコンビネーションで減点合計の少なさを競う複合競技を総合馬術といいます。

馬場馬術とは、長方形(20m×60m)の競技施設内を演技の正確さや美しさを競う競技で、「常歩(なみあし)」「速歩(はやあし)」「駈歩(かけあし)」といった3種類の歩き方を基本に、様々なステップを踏んだり、図形を描いたりしながら、規定演技と自由演技を行ないます。

クロスカントリー競技は、通常のコースだけではなく、自然に近い状態の地形に竹柵や生垣、池、水濠、乾壕といった障害物が設置され、
32・29㎞というコースの長さに加え、飛越する障害物は50を超えます。選手の技術と騎乗する馬の能力、さらにそのコンビネーションが合わさってコースを走りに抜きます。障害物の前で止まったり、回避したりすると減点となり、選手が落馬すると失権(競技停止)となります。また、既定の時間を超過しても減点となるため、スピードも重要な要素となります。

ハードなクロスカントリー競技の翌日、獣医師によるホースインスペクション(馬が競技への参加を続けるだけのコンディションにあるかどうかをチェック)が行われます。選手やスタッフは、馬のコンディションを維持するためにあらゆるケアをしてインスペクションに臨み、合格した馬がこの競技への参加を許されます。馬の体力は勿論の事、心理状態もかなり追い詰められる競技なので、人が心身ともに元気があっても、馬の調子がよくないと進みません。いかに休ませるかも重要になってきます。

障害馬術〔障害飛越〕とは、競技施設内に設置された10~13個の様々な障害物(高さ160㎝、幅200㎝=大障害)を、決められた順番通りに飛越、走行する競技で、障害物の落下や馬が不従順な態度を示すと減点となる「標準競技」、障害物の落下による過失をタイムに換算したスピード&ハンディネス競技があります。

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さて、選手たちは、同年5月28日に各国選手団よりも一番乗りでロサンゼルスに到着します。

この頃の移動は、現在のように飛行機とかではなく船旅で、日本からロサンゼルスまで2週間余もかかる長旅でした。

しかも、馬術の選手団は競技用の馬を運ばなければならないため、別便として馬用の貨物船を用意しなければなリません。

加えて、選手団は7人の他にも到着後に馬の世話をするためのスタッフ(馬丁など)が必要なため、かなりの大所帯であったと云います。

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2日目に催されたクロスカントリー競技でのエピソードは現在も語り草となっています―

馬術競技の日本代表チームの主将も務めていた城戸俊三選手が競技に臨んだのですが、本来の担当馬及び予備馬がロサンゼルス到着以降、2頭とも故障が発生し、完治する見込みがない、という事態が生じてしまったのです。

そこで、翌日の障害馬術〔障害飛越〕用に同行させていた「久軍号」を代替馬として出場します。

実際、城戸選手が初めてオリンピックの馬術競技に参加したのは、前回大会である昭和2年(1928)のアムステルダム大会で、同じく「久軍号」とのコンビで総合競技を完走していました(21位)。

城戸選手は1番出走で出発します。最終障害まで障害無過失で疾走していたのですが、突然「久軍号」の身に異変を感じ取ります。

それでなくても、「久軍号」も年老いており、急なエントリー変更で熟練の技能はあっても鍛練不足は否めません。

最後の障害に向かう事、計3回!しかし、3回目に臨もうとしたその時―

城戸選手は突然、「久軍号」から下馬し、なおも進もうとする「久軍号」を押し留めたのです。

そう、城戸選手は完走を目前にしながら棄権を選択したのですね。

実は「久軍号」は息も絶え絶えで、全身からも汗が吹き出し、鼻孔は開ききっていた状態で、とうに全力を出し切っているのにも拘わらず、微かに残る力で次に進もうと踏ん張っていたようです。

その状態を2回目の時に感じた城戸選手は無理はさせられない、と咄嗟の判断で下馬したんですね。

城戸選手「久軍号」に「よく頑張った」とたてがみを撫でてやると、「久軍号」も主人の心を知ってか、城戸選手の胸に鼻を埋めてきたそうです。まるで「ごめんなさい」と謝りながら泣いているかのように―

結果、最終障害物を目前にして城戸選手「久軍号」は失権となります。

下馬した城戸選手はすぐに「久軍号」のケアを始めます。

疲労著しい「久軍号」をスタッフには任せずに、城戸選手自ら労わり続ける姿に観客やスタッフ、そして取材陣は感銘を受けたといいます。

城戸選手は後にこう語っています―「自分は馬の使い方が下手だとつくづく感じた。『久軍号』には気の毒なことをした」と…

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大会後、現地のカリフォルニア動物愛護協会は城戸選手を表彰しようとします。

城戸選手「久軍号」の光景を観ていた観客たちの「彼は疲労した馬のために走行を止めたのだ!」と大きな感銘と称賛の声が広がった事もあって、当時ロサンゼルスで発行されていた、北米で現存する最古の邦字新聞『羅府(らふ)新報』(Rafu Shimpo)に「熱涙を呑んで 城戸少佐 馬を救う 最後の障害で棄権」との見出しで書かれています。

"愛馬精神"に徹した城戸選手「久軍号」のエピソードにアメリカ人道協会は、昭和9年(1934)に城戸選手の行為を讃え、2枚の記念碑を鋳造します。

1枚はカリフォルニア州リバーサイド(Riverside)郡リバーサイド市にそびえるルビドー山(Mt.Rubidoux)にある「友情の橋」に取り付けられ、もう1枚は同じくリバーサイド市内のホテル「ザ・ミッション・イン」に保管されます。

「友情の橋」に取り付けられた記念碑には「情けは武士の道」という文言が日本語で刻まれています。太平洋戦争が勃発し、アメリカ国内で敵国となった日本を讃える石碑が撤去されそうになる事態が生じますが、城戸選手「久軍号」には罪はないのだから…とアメリカ人道協会は撤去ぜす、現在に至っているそうです。

また、「ザ・ミッション・イン」に保管されたいた記念碑は、この大会で城戸選手が使用し、日本馬術チームを親切に世話してくれたアメリカ人に寄贈していた鞍とともに、昭和39年(1964)に東京オリンピック開催の記念として日本オリンピック委員会に贈呈され、現在は秩父宮スポーツ博物館に展示されています。

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エピローグとして―

ところで、戦時中に徴用されたおよそ100万頭の馬が戦場に斃れたと云われています。

そんな彼らの犠牲を悼み、戦後になって記念碑建立の話が持ち上がります。

城戸氏は旧軍人や馬主など多方面への働きかけによって、靖国神社に「戦没軍馬の像」が建立され、現在も毎年4月7日の「愛馬の日」には「戦歿馬慰霊祭」が同神社で行われています。

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※(参照)NHKスペシャルより~ドラマ「さよなら、アルマ ~赤紙をもらった犬~」

(トピックス)「命のビザ」バトンを繋ぐ 根井三郎の発給ビザ、実物見つかる!

今回、発見された根井三郎が発給したビザ

第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの迫害から逃れたユダヤ系難民に発給した日本通過ビザ(査証、以下、ビザ"命のビザ"として知られています。

この"命のビザ"は3人の日本人によってバトンリレーされ、多くのユダヤ系難民を救うことになるのですが、今回、旧ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連、現ロシア連邦)・ウラジオストック(ウラジオストク)の日本総領事館の総領事代理だった外交官、根井三郎が発給したビザの実物が初めて見つかりました。

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旧ウラジオストック日本総領事館

事の発端は、第二次世界大戦中の最中、ナチス・ドイツの迫害によりポーランドなど欧州各地から逃れてきたユダヤ系難民が第三国に逃れるために日本への通過を求めて駐リトアニア領事代理だった杉原千畝ちうねにビザ発給を要求し、昭和15年(1940)7月から9月にかけて、外務省の訓令に反して人道目的から2139人分(その家族らも含め約6千人分)のビザを発給します。

リトアニアから国外脱出を目指したユダヤ系難民はシベリア鉄道で移動し、日本への航路があったウラジオストックに到着します。

当時の日本政府は最終的な行き先国の入国許可がない者へのビザ発給を認めておらず、また外務省は日独伊三国軍事同盟を結んでいたドイツに配慮し、条件不備で来日しようとするユダヤ系難民への対応に苦慮し、翌16年(1941)3月、杉原が発給したビザを再検閲するように命じ、要件を満たさない者は日本行きの船に乗せないようにせよ、と訓令を出します。

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ウラジオストック総領事館の総領事代理・根井三郎

総領事代理だった根井三郎は「日本の公館が発給したビザを無効にすれば、国際的信用を失う」と訓令に抗議、外務省とのやり取りは5回にも及んだそうです。(根井と外務省が交わした電信は外交史料館に残っています)。

根井ビザを持つユダヤ系難民には敦賀行きの船への乗船許可を与え、ビザを持たない者には根井の独断で渡航証明書やビザを新たに発給したのです。

リトアニアでユダヤ人たちに"命のビザ"を出した外交官・杉原千畝が発給したビザに、根井が追認して署名したものは既に確認されてはいましたが、根井自身が発給したビザはソ連側の記録(※)に残ってはいましたが、ビザの実物が立証されたのは初めてだそうです。

※ソ連側の記録
根井が昭和16年(1941)3月3日にソ連外務人民委員部(外務省)のウラジオストック駐在員と会談した際、「現地に滞留していた多数の難民に同情して、東京(本省)の許可を得ずに一定数の通貨ビザを発給した」と話した、という記録がロシア外務省の公文書館で発見されています。


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根井が発給したビザで日本を通過し、上海経由で米国に亡命した故シモン・コエンタイエルさん一家 inochi-visa_05.jpg

今回、ポーランド出身で米国に亡命したユダヤ人の子孫が、根井が発給したビザを持っていることが判明しました。

根井が発給したビザを持っていたのは、ポーランド・ワルシャワ出身の故シモン・コエンタイエルさんで、孫にあたるキム・ハイドンさんから現存するビザの画像データの提供を受けたのだとか―

ビザは昭和16年(1941)2月28日に発給されたもので、「昭和16年2月28日 通過査証」「敦賀 横浜経由『アメリカ』行」と記され、根井の署名と署名の下にウラジオストック総領事代理の公印が押され、パスポートとは別の用紙に記載されていました。

シモンさんはドイツがポーランドに侵攻した昭和14年(1939)9月に妻子と共にリトアニアへ脱出。同16年(1941)2月上旬にモスクワの米大使館で入国ビザを申請したが却下され、シベリア鉄道でウラジオストックに入ります。

根井が発給したビザを使って同年3月に福井・敦賀に上陸。神戸から中国・上海に渡り、昭和22年(1947)8月に米・サンフランシスコに亡命されています。

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根井は戦後、外交官当時のことを周囲に語らなかったと云います。自身の利益を顧みず、人道的に行動した気骨ある精神が貫かれた"命のビザ"バトンリレーの結実した姿ですよね!

※(参照)「日本のシンドラー杉原千畝物語・六千人の命のビザ」

(トピックス)近藤勇自ら記した新選組の役割表か?黎明期語る手紙の写し

新選組局長の近藤勇が書いた手紙を写したとみられる史料(群馬県立文書館所蔵)

幕末期に活動した新選組の局長、近藤勇が結成前後に自ら隊士の役割表を記した手紙を写したとみられる史料が、群馬県立文書館(群馬県前橋市)に遺されていました―

手紙の日付は文久3年(1863)9月20日付で、運営方針を巡り対立した芹沢鴨らの暗殺直後とみられます。

新選組の存在が広く知られるようになったのは、攘夷派を襲撃した翌元治元年(1864)6月5日に起こった池田屋事件以降であり、黎明期の様子を垣間見れる貴重な史料となりそうだ。

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手紙は、現在の群馬県伊勢崎市で旗本の家臣の家柄だった萩原信之家に残された文書(萩原信之家文書)のうち『梧桐叢書あおぎりそうしょ』と題した冊子に収められていた。近藤が出した他の手紙もあり、所縁の人物が所有していた史料を、纏めて写したようです。

内容は、江戸市中にあった剣術道場、試衛館の創設者で養父だった周助の容体悪化を伝えられながら、京都を離れられない理由を綴ったもので、道場の跡を継いだ近藤に代わり、留守を預かる幕臣の寺尾安次郎へ宛てたものとみられます。

幹部だった芹沢の暗殺を「変死」とした上で、自分ひとりで攘夷派の取り締まりや取り調べを指揮しなければならず「寸暇も無之」と記載。養父の世話などを任せていることを心苦しいとして金を送り、状況が落ち着いたら江戸へ下るとしている。

それに続き、役割表は21人の名前を記している。新選組を所管した京都守護職で会津藩主の「松平肥後守御預り」「右役割被 仰付候」と明記。「局長」に近藤勇、「助役」に山南敬介、土方歳三らが並び、「当番目付」には、後の小隊制でそれぞれ組頭となる沖田総司や永倉新八、井上源三郎、斎藤一らの名前がみられます。

芹沢や同じく暗殺された平山五郎の名前はなく、芹沢の仲間で脱走した平間重介が担っていた「勘定役」は、土方と永倉の2人で兼務とするなど、混乱ぶりも覗えます。

(トピックス)明智秀満「湖水渡り」の伝承を裏付ける一端を記した古文書見つかる!

明智秀満が船戦を挑んだことが記された古文書『山岡景以舎系図』

戦国武将・明智光秀の重臣で明智次右衛門光忠・斎藤内蔵助利三・藤田伝五行政・溝尾庄兵衛茂朝らと共に"明智五宿老"と称された明智弥平次秀満、通称、左馬(之)助が、織田信長を急襲した天正10年(1582)6月2日の本能寺の変の直後、近江瀬田城主の山岡景隆と琵琶湖で船戦ふないくさに及んだことを記した古文書東寺真言宗大本山 石山寺(滋賀県大津市石山寺)で発見されました。

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発見された古文書は、同寺の塔頭たっちゅう・世尊院の僧侶も務めた山岡家の由緒や系図がまとめられた『山岡景以舎系図いえのけいず(縦27㎝、横119㎝)で、天正19年(1591)に景隆の七男・景以かげもちによって書かれ、石山寺に奉納されますが、その後、別な人物が寛永18年(1641)3代将軍・徳川家光の命で江戸幕府主導により編纂された『寛永諸家系図伝』の素材資料として幕府に提出するために書き写したものが、同寺の塔頭・法輪院の蔵に保管されていました。

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明智秀満が船戦を挑んだことが記された古文書。秀満を表す「弥平次」の記述が見える

明智光秀の軍勢が本能寺で織田信長の手勢を襲った後、琵琶湖北岸の安土城(滋賀県近江八幡市)へ向かう途上、景隆を味方へと勧誘しますが、景隆に拒まれた上に瀬田の唐橋を焼き落されて進軍をはばまれたことは『信長公記』などによって知られていました。

しかし、今回発見された古文書によると、その軍勢を率いたのが「明智弥平次」、すなわち秀満で瀬田の唐橋が焼き落されて安土城への陸上ルートの進路が阻まれたため、水上ルートとして船で琵琶湖の対岸に渡ろうとしたところ、景隆の軍勢と湖上で戦闘に至っために少なからぬ損害を出し、止むなく先に進めずその後の進軍に遅れをとってしまったことが記されていました。

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明智左馬之介の湖水渡り

やがて、光満は安土城の守備に就きますが、6月13日の山崎の合戦で光秀が敗れて坂本城を目指して落ち延びる途中、山城国宇治郡小栗栖(現・京都府京都市伏見区小栗栖)で落ち武者狩りに遭って殺害されたことを知ると、14日未明、安土城を発して坂本城に向かいます。

しかし、坂本城への道を塞がれた秀満が打出浜から愛馬にまたがったまま柳ヶ崎まで琵琶湖を泳ぎ渡り、坂本城ヘ帰還したという「湖水渡り」の伝承があります。

湖に浮かぶ明智左馬之助秀満湖水渡像の完成予定図

琵琶湖で船戦が行われたことはこれまで知られておらず、当時の明智の軍勢の行動を伝える貴重な発見であり、秀満「湖水渡り」の伝承もこの船戦が伝説につながった可能性があるのでは?と「実像に迫る上で貴重な史料」と話しています。

古文書は10月31日から石山寺の本堂で公開される予定だそうです。

(トピックス)「海道一の弓取り」勇ましく 今川義元見参!

除幕式で披露された今川義元の銅像

静岡ゆかりの戦国時代の武将、今川義元の銅像が完成し、JR静岡駅北口広場に設置されることとなり、5月19日に除幕式が開かれました。

今川義元は駿河・遠江国の守護大名で戦国大名として三河国を実効支配した今川氏の第11代当主で「海道一の弓取り」の異名を持ちます。

義元といえば永禄3年(1560)5月には熱田湊から伊勢湾にかけての制海権を支配しようとして那古野なごや城を攻略するため駿河・遠江・三河の軍兵を率いて侵攻するも桶狭間おけなざまでの戦いで織田信長方の軍兵に急襲され、奮戦するも敗死し首級みしるしを奪われます。享年42歳。

今川義元の木像(臨済寺蔵)

義元公姿は今川家の菩提寺ぼだいじである臨済寺(静岡市葵区)の木像などが伝えています。

しかしながら、後世において義元を描いたイメージのほとんどが、烏帽子えぼし狩衣かりぎぬを身に着け、顔は白塗りにお歯黒、といった“お公家さん”キャラのいでたちで、戦国武将らしからぬ軟弱なキャラ立ちぶりだけが突出しているのが実情…

そんな「桶狭間で敗れた公家かぶれの武将」というイメージを払拭し、静岡のいしずえを築いた功績を広めようと今川義元公生誕五百年祭推進委員会(事務局・静岡商工会議所)が「生誕500年祭」を企画し、義元の銅像制作費をインターネットで資金を募るクラウドファンディングでまかなったところ、当所の目標だった300万円を超える517万5千円が集まったそうです。

銅像設置のためイメージとしてつくられた今川義元の粘土像

義元の銅像は台座を含め1・9m。彫刻家・堤直美氏が約2年の年月をかけて甲冑姿の銅像を作り上げました。

こうして、義元の銅像はその命日に当たる5月19日に除幕式が迎えることとなったわけです。