(トピックス)奈良の都にペルシア人の役人がいた!―「破斯」木簡に記載

平城宮跡で出土した木簡、ペルシア人を示す文字が確認された
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◇国際的知識で登用か

奈良市佐紀町の平城宮跡で出土した8世紀中頃の木簡に、古代ペルシアを意味する破斯はし(Bōsī)」という名字を持つ役人の名前が書かれていた事が奈良文化財研究所の調査で判りました。

同研究所によると、木簡は昭和41年(1966)8月に、平城宮跡・東南隅の築地塀の「雨落ち溝」で出土されたもので、長さ268㎜、幅32㎜。発掘当時は文字が薄く肉眼では一部が判読できずにいたが、今年8月に赤外線撮影をしたところ、文字を判読できたようです。

記載された内容は「大学寮解 申宿直官人事 員外大属破斯清通 天平神護元年」となっており、「天平神護元年(765)」当時の人事を扱う式部省の管轄下にあった役人養成機関である「大学寮」での宿直勤務に関する記録と判明しました。

大属だいさかんとは役職名を示し、「かみ/すけ/じょう/さかん」のうちの四等事務官に当たります。

「員外」は定員の枠外で任じられ事を示すので、恐らくは特別枠で任命されたのだと考えられますね。

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注目すべきは、「破斯清通」と記載された人名です。

破斯はしという名字は、イランの旧称で6世紀頃から唐代まで繁栄したササン朝ペルシアが勃興した、現在のイラン高原南西部に位置したパールサ(Pârsâ)地方(現在のファールス地方:Fārs)から転じたペルシア(Persia)を意味する波斯はしと同音である事から、木簡に記された人物はペルシア人ではないかと判断したようです。

◇平城京 多様な民族往来

国内での出土品でペルシア人を示す木簡が見つかるのは初見であるため、外国人が来日した平城京の国際性を示す史料となりそうです。

『続日本紀』には天平8年(736)8月に第10次遣唐使の副使であった中臣なかとみの名代なしろが帰朝した際、日本に連れ帰ってきた「唐人三人、波斯一人」を率いて、聖武天皇に拝謁したとの記載(『続日本紀』天平8年8月23日条…史料1)や、同年11月に法華寺での法要で唐楽を演奏した唐人・皇甫こうほ東朝とうちょうらと共に、波斯はし密翳みつえいに位階を授けたとの記載(『続日本紀』天平8年11月3日条…史料2)がみえます。(但し、密翳は以後の動向は不明)
史料1
八月庚午。入唐副使従五位上中臣朝臣名代等。率唐人三人、波斯人一人拝朝。(『続日本紀』天平8年8月庚午条)
史料2
十一月戊寅。天皇臨朝。詔、授入唐副使従五位上中臣朝臣名代従四位下。故判官正六位上田口朝臣養年富。紀朝臣馬主並贈従五位下。准判官従七位下大伴宿禰首名。唐人皇甫東朝。波斯人李密翳等、授位有差。(『続日本紀』天平8年11月戊寅条)
第12次遣唐使の副使の大伴おおともの古麻呂こまろ「大唐天宝十二載」、日本では天平勝宝5年(753)正月、各国の使節団が唐の玄宗皇帝臨御の朝賀に出席した際、東西2列に並んだ東側の第1席は「新羅」(統一新羅)、第2席は「大食」(アッバース朝イスラム)。西側は第1席は「吐蕃」(チベット)、第2席が「日本」でした。(『続日本紀』天平勝宝6年正月30日条…史料3)
史料3
丙寅。副使大伴宿禰古麻呂、自唐国至。古麻呂奏曰。大唐天宝十二載。歳在癸巳正月朔癸卯。百官・諸蕃朝賀。天子於蓬莱宮含元殿受朝。是日。以我、次西畔第二吐蕃下。以新羅使、次東畔第一大食国上。(天平勝宝6年正月丙寅条)
天平8年(736)の時点では波斯はしと呼称していたペルシアですが、天平勝宝5年(753)の段階では「大食」となっているのです。

実際、ササン朝ペルシア期の唐の文献史料では波斯はしという語が使われていた事から、波斯はしは「ササン朝ペルシア期のペルシア人」と解釈され、641年(舒明天皇13)にササン朝がイスラム勢力の侵攻によって滅亡し、ペルシア地域がイスラム勢力の支配下に治められて以降は「大食」〔タージ(Tāzī)、あるいはタヂーク(Tāzīk)〕と表記される事が多いのです。(『旧唐書』『新編東洋史辞典』)

この事から、イスラム勢力の侵攻によってペルシア地域を追われた人たちが東方へと移動して唐の長安まで亡命し、その中の数人が来日したのではないかとも考えられますね。

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調査した奈良文化財研究所は「正倉院にシルクロードを経てもたらされた西域の宝物が数多く残るように、当時の奈良の都が中国や朝鮮だけでなく、インドやヴェトナム、そしてペルシアなど西方の肌の色が違う様々な国の人々が分け隔てなく役人に登用する国際色豊かな都市だった事が分かる貴重な資料」としています。

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この木簡は同研究所平城宮跡資料館(奈良市佐紀町)で開かれる秋期特別展「地下の正倉院展 式部省木簡の世界―役人の勤務評価と昇進―」(10月15日~11月27日)の会期中、第2期目の11月1日~13日の間展示公開される予定。

(トピックス)「茶法は武家流に!」秀忠が指示?―織部の史料に記載あり!!

古田織部に関する新たな記述が見つかった『本家系譜 古田氏』武家流の茶法について記述されている部分

◇通説は「秀吉」

千利休の高弟で茶人として「利休七哲」『江岑夏書』)の一人として知られ、その作意や趣向から「ヘウゲモノ」『宗湛日記』)と称えられた 古田織部正おりべのかみ重然の親族が伝える史料に徳川秀忠が織部に武家流の茶の作法を定めるよう命じた記述がある事が分かりました。

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史料は織部の娘が嫁いだ豊後岡藩中川家の古田家が伝える『本家系譜 古田氏』と題された江戸時代後期に豊後古田家の歴史をまとめたもので、竹田市立歴史資料館に寄贈されています。

それによると、織部はのちに秀忠の茶の湯師範となる訳ですが、秀忠が江戸幕府第2代将軍に就任する直前の慶長10年(1605)年4月5日、京の織部宅を訪れた秀忠から「利休の伝える茶法は武門の礼儀にかなわないので、その旨を考えて茶法を改めて定めるように命じられ、織部は新たに武家流の茶法を定め、諸大名にその茶法を伝えた」と記載されています。

従来の通説では、利休の没後、利休に代表される町衆の茶道に代わり格式を重んじる武家流に改めるように豊臣秀吉が織部に命じた、とされていました。

研究者は「 秀忠が将軍となるにあたり、茶道を重要視し、武家の茶道確立する事で文化的に諸大名を従えようとしたのでは」と話されています。

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この史料は、古田織部美術館(京都市北区)で催されている「古田織部の実像―『古田家譜』(豊後古田家伝来)初公開―」展で、織部にまつわる書状や資料、茶道具など約50点と共に公開されています。同展は来年1月15日まで(年末年始は休館)。問い合わせは同美術館まで。

「公暁」の法名は?「クギョウ」でいいのか?

建保7年(1219)正月27日、相模国鎌倉郡小林郷北山において、鎌倉殿(鎌倉幕府の長、棟梁、のちに日本国惣追捕使及び日本国惣地頭の任免権を持つ者)であり、征夷大将軍、右大臣でもある源実朝が甥(実朝の兄・頼家の子)で猶子(後見人)でもあった「公暁」によって暗殺されました。

さて、この「公暁」ですが、一般的に「クギョウ」と呼ぶ事が周知されていますが、最近の研究でこれに疑義を唱える説があるんですよ。

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まずは。「公暁」の略歴を列挙すると―

「公暁」は幼名を「善哉ぜんざい」と言いました。

父である頼家が建仁4年(1204)に北条氏の手によって暗殺された後、祖母である北条政子が引き取り、叔父である実朝の猶子となります。

建暦元年(1211)9月、12歳で鶴岡つるがおか八幡宮寺の別当職であった定暁の下で得度し、「頼暁」の法名を受けます。

その後、園城寺おんじょうじ三井寺みいでら)において公胤の門弟として入室して灌頂を受け、「公暁」の法名を受けるのです。

建保5年(1217)6月、18歳で鎌倉に戻り、鶴岡八幡宮寺の別当職に就任します。

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「公暁」が園城寺(三井寺)で師事する公胤は公家源氏の長である村上源氏の出自で、その師であり、叔父である公顕も同じ出自です。

公顕は「コウケン」、公胤は「コウイン」と鎌倉期の史料において呼ばれていた事からすれば、公顕―公胤―公暁、と続く法流である以上、「公暁」の「公」もその流れを相承したものでなければ辻褄が合わないはず―

事実、江戸期以前の史料において「公暁」「コウキョウ」と呼んでいる史料もあるようで、そうであるならば「コウキョウ」と呼ぶのが相応しいのではないかと指摘されています。

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※(参考)舘隆志「公暁の法名について」(『印度学佛教学研究』第61巻第1号)

(トピックス)「指月山伏見城、やはりあった!」幻の伏見城、痕跡残る…遺構が初出土場所特定

指月山伏見城の位置関係上空から見た指月山伏見城の遺構が発掘された場所

豊臣秀吉が自身の隠居場所として、観月の名所として知られていた伏見・指月しげつ丘陵に築いた指月山伏見城とみられる石垣と堀が、伏見区桃山町泰長老での調査で見つかりました。

指月山伏見城は完成から2年後に発生した慶長伏見地震で倒壊した後ぐに埋められたため、これまで所在すらつかめていない「幻の城」でしたが、今回の調査で石垣や巨大な堀、100点超す金箔瓦などが出土するなど、420年ぶりの出現に専門家たちも「やはりあった」「間違いない」と驚きを隠せないようです。

指月山伏見城は、天正20年(1592)8月~9月に秀吉が隠居屋敷として巨椋池おぐらいけを望む指月丘陵に着工・建設が始まり、途中から天守を備えた城郭として整備拡張された後の文禄5年(1596)に完成します。しかし、同年閏7月12日深夜から13日にかけて(の刻=午後11時から午前1時頃)に起きた内陸

そのため、指月山伏見城については絵図などの資料が残っておらず、場所も特定できないでいたために、「当初から木幡山一帯に築かれる予定で、指月山伏見城は実は存在しなかった」との説もあった「幻の城」だったのです。それ故に、今回の発見は指月山伏見城の存在を決定づける上で極めて重要な成果と言われています。

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指月山伏見城の遺構から発掘された堀の跡 指月山伏見城の遺構から発掘された石垣 指月山伏見城の遺構から発掘された瓦など

今回の調査地は、文献などから指月山伏見城の中心部と推定されていた観月橋団地の中央付近で、新たな棟が建設されるのに伴い、約600㎡を4月から実施していたもので、出土した物からも多くの情報が読み取れるといいます。

今回見つかった指月山伏見城の石垣は、一辺が1mを超す花崗かこう岩や堆積たいせき岩などが主に使われ、高さ約0・5~1m、長さ約36mで南北に延びていました。地形などから本丸と推定される場所に近く、本丸西側の石垣の一部とみられるといいます。

秀吉時代初期の特徴である加工していない自然石が用いられており、大坂おおざか城本丸跡や聚楽第じゅらくてい跡と同様の手法(=穴太積あのうづみ)で積まれたであろうと断定でき、指月山伏見城の全貌が明らかになったとしています。

その石垣に沿って、幅5~7m、深さ2m以上の堀も確認。堀からは100個以上の瓦片が出土し、こちらも大坂城本丸跡や聚楽第跡と同様に五七の桐もんや菊文が描かれた瓦が多く見られ、うち数十個は金箔で装飾されていました。

信長時代は瓦のへこんだ部分に金箔が塗られ、秀吉時代には出っ張った部分に塗られているケースが多い。今回出土した瓦には、まだへこんだ部分に塗る瓦も多く、瓦の様式が切り替わる過程も検証できると言われています。落城した木幡山伏見城と違って、指月山伏見城で出土した瓦は焼けた形跡は見当たらず、地震で倒壊後すぐ堀に埋められたとみられます。

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高さ2・8m、南北14・5mにわたって確認された指月城とみられる石垣と堀跡

さらに、伏見区桃山町泰長老と同区常盤町にまたがる一帯に福祉施設が建設されるのに伴う調査でも指月山伏見城とみられる石垣と堀が見つかりました。

今回見つかった場所は、内堀の石垣や堀が発掘された地から西側に約200mの地点で、江戸時代の絵図面などから城の西側に位置し、城の外堀と内堀の間を区画する中堀の石垣の一部だとみられます。

石垣は東側に正面を向け、南北に14・5m、幅1m、高さ2・8m。

石垣は大きさ、種類共に不揃いな自然のままの石や、表面の凹凸をなくすため、叩き割って平らに加工された割り石が6~7段積み重ねられた状態で、隙間にはこぶし大の間石あいいしが詰められており、この手法は2度目以降の築城では見られないといいます。

また、石垣に沿って堀の跡も確認され、堀に溜まった泥には、慶長伏見地震で倒壊した建物の一部とみられる木片や瓦の破片が大量に交じっていました。

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伏見山荘と伏見殿
指月丘陵は平安時代から観月の名所として知られ、多くの王族や貴族たちが別荘を構えました。

指月の由来は、四月(天の月、川の月、池の月、杯の月)を観賞する場、から「しげつ」と称されるようになったとの事。

中でも、平安後期の“伏見長者”と称された橘俊綱たちばなのとしつなは、宇治・平等院を開創した父・藤原頼通ふじわらのよりみちにならって、指月丘陵に豪壮な「臥見亭」「臥見別業」『中右記』寛治7年12月24日条)と呼ばれた伏見山荘を築き、連日のように仲間の公家たちを招き、指月の森や巨椋池がかもし出す風光明媚な様をで、詩歌管弦にふけったり、酒を楽しんだりしたと云われています。

俊綱没後、伏見山荘は白河上皇に寄進され、以降は王家の荘園となります。

その後、巡り巡って後白河上皇に伝承された際、上皇は此処に壮麗な伏見殿(船津御所、伏見離宮)を造営します。

鎌倉中期には後嵯峨上皇の後院として使われ、建長3年(1251)には持明院統の所領となって伏見上皇、後伏見上皇と伝承されます。

鎌倉末期から南北朝期には北朝方となった光厳上皇、光明上皇に伝承され、後光厳上皇、崇光天皇と伝承されますが、北朝の中で皇位継承に関し正当性を主張する崇光院流と室町幕府を味方につけた後光厳院流に分裂が起こります。

貞治2年(1363)光厳法皇は崇光上皇の子孫へ所領のほとんどを代々相伝とし、崇光院の皇子である栄仁親王に伝承します。

しかし、後光厳天皇と室町幕府も実力行使で後小松天皇に皇位を継承し、また、栄仁親王が相伝するべき所領も崇光院の崩御後、足利義満により所領没収の憂き目に遭います。

後小松天皇、称光天皇と続いた後、後光厳院流は男系が途絶え、崇光院流である栄仁親王の次男・貞成さだふさ王の皇子を猶子とし、後花園天皇とします。

後花園天皇は崇光院流の名誉と勢力回復として父宮である貞成親王に「後崇光院」の称号を与え、また弟宮である貞常親王に永久的に「伏見殿」(=伏見宮)と称する事を勅許し、ここに伏見宮家が創設されます。

それ以後、伏見宮家は指月の森にある伏見殿かみの御所、巨椋池の船着場である南浜付近に建てた舟戸ふなと御所をしもの御所と称して、繁栄を極めたと云います。

しかし、室町期の動乱、戦国期の争乱を経て、伏見殿も荒廃の一途を辿っていき、やがて安土・桃山期を経て、天正20年(1592)豊臣秀吉によって指月丘陵に指月山伏見城が築城されるのです。

(トピックス)マグナ・カルタ〔大憲章〕制定800年

マグナ・カルタ(大憲章)

中世イングランド王国(Kingdom of England)で王権の規制を定めた「マグナ・カルタ」(大憲章)〔ラテン語:Magna Carta、英語:the Great Charter of the Liberties of England=イングランドの自由の大憲章〕が制定されてから800年を記念して「マグナ・カルタ」(大憲章)成立の地であるイングランド南東部で、テムズ川河畔の町であるサリー州ラニーミード (Runnymede)で式典が催されました。

「マグナ・カルタ」(大憲章)とは、1215年6月15日、王であっても「法」の支配の下にある事などを明文化した文書で、封建貴族たちが王権を制限、封建貴族の特権を再確認し、当時のイングランド国王である欠地王(失地王)ジョン〔John Lackland〕に認めさせた文書で、前文と63か条から成り立っている。

権利請願(Petition of Right)(※1)、権利章典(Bill of Rights)(※2)と共にイギリスの立憲制の発展に重要な役割(三大法典)を果たした。

ジョン王の家系であるプランタジネット朝(Plantagenet dynasty)はフランスの貴族であったアンジュー伯アンリが1154年にイングランド王ヘンリー2世となり、1399年にリチャード2世が廃されるまで続いた家柄で、長くフランス国内の領土をめぐって抗争が繰り広げられていた。

ジョン王の代になり、1214年までにフランスにおける領地をほとんど喪失。またカンタベリー大司教の任命を巡って、ローマ教皇インノケンティウス3世と対立。教皇がジョン王を破門するや支持していた多くの諸侯から見放され、1213年には謝罪して教皇に屈した。その際、一旦イングランド全土を教皇に献上し、教皇から与えられる形でジョン王に返還されていた。

こうした国内外での政策の失敗に対し、イングランド国内の諸侯から庶民にいたるまでの反発を招き、1215年5月5日に封建貴族たちの怒りが爆発。封建貴族たちはジョン王の廃位を求め、その動きに国民たちも同調する事態になったため、ジョン王は6月15日にラニーミードにおいて、王の権限を制限し、封建貴族や聖職者の権利を認めるという形でマグナ・カルタ(大憲章)が制定されます。しかし、ジョン王を支持する教皇インノケンティウス3世による勅令によりわずか2か月で廃棄されてしまいます。

翌16年にジョン王が死ぬとフランスのルイ王太子がロンドンへ侵攻(第一次バロン戦争)しますが、ジョン王の跡を継いだヘンリー3世はマグナ・カルタ(大憲章)の存在で士気を高め、戦争を終結させます。

ところが、ヘンリー3世はマグナ・カルタ(大憲章)を遵守しなかったので、何度となく再確認が施され、その際に条文の幾つかは修正されました。現在、現行法として有効とされているものは1225年に修正され、1297年にエドワード1世が確認したものが廃止されずに残っています。

その後、国王と議会が対立するようになった17世紀になり改めて注目されるようになり、イギリスにおいて憲法を構成する法典の1つとして存在しています。

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※1 権利請願(Petition of Right)
1628年5月、イギリス議会が専制的な国王チャールズ1世に提出し、承認させた請願書。国王大権の名の下に献上金の強制、関税の引き上げ、議会の承認なき課税、恣意的な不法逮捕や投獄に対する国王の責任を追及すると共に、「マグナ・カルタ」(大憲章)以来保障されていたイギリス国民の権利と自由の再確認を求めるための請願で、王位の継承が王家に相続されるものであるように、国民の権利や自由も私有財産所有と同様に国民に相続されているものである事を確認したものである。

チャールズ1世は一旦、権利請願を承認したが、翌29年に国王大権を盾にこれを事実上廃止し、これに抗議した議会も解散、親政に踏み切ったため、これに対する議会と国民の反感が清教徒革命を引き起こすさらなる導火線となった。


※2 権利章典(Bill of Rights)
正式名称は「臣民の権利と自由を宣言し、かつ、王位の継承を定める法律」(An Act Declaring the Rights and Liberties of the Subject and Settling the Succession of the Crown)で、イングランド国王の存在を絶対前提とした上で、国王に忠誠を誓う議会および国民のみが享受できる権利と自由を定めた法律。国王といえども否定できない、国民が古来より相続してきた諸々の権利を確認した。

1688年12月、国王ジェームズ2世が国外に逃亡した後、翌89年1月召集された議会において王国の現状を説明するための決議が行われ、新しく王位を継承するオラニエ公ウィレム(ウィリアム3世)に改革要求案である「古来の自由と権利を擁護し、主張するため」の宣言をする。

同年2月、オラニエ公ウィレム(ウィリアム3世)とメアリー(メアリー2世)は共同統治者として王位に就き名誉革命は達成され、12月にイギリス議会が立法化したものが「臣民の権利および自由を宣言し、王位継承を定める法律」、すなわち権利章典である。


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成文憲法を持たないイギリスにおいて、マグナ・カルタ(大憲章)〔1215年〕や権利請願(1628年)、権利章典(1689年)はイギリスの国の形態を定めた最も重要な議会制定法であり、封建領主の要求を国王に認めさせ、イギリス人の伝統的な権利と自由の尊重を要求する、など西欧社会においてイギリスを立憲制で近代国家をいち早く成立させる事に成功します。

何よりも、王といえども「法」の下にあって、古来からの慣習を尊重する義務があり、権限を制限される事が文書で確認されたという意味が大きいですね。

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欠地王(失地王)ジョン〔John Lackland〕
イギリス王室では、ジョン王の評判が余りに悪いために、以降は誰もジョンを名乗ったものはいないと云います。ジョン王以降、ジョンという名を名乗った王子は何人もいますが、現実として「ジョン2世」は存在しません。さらに、ジョン王の息子であるヘンリー3世自身が長子にジョンと名付けず、エドワードと名付けています。ジョン王に対する抵抗意識、人気のなさを物語っていますね。

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※(参考)「チャールズ」は不吉?→