新しいパーパ(教皇)はイエズス会派のフランチェスコ1世!

ローマ教皇であるベネディクトゥス(Benedictus)16世の退位に伴い、“新しいパーパ”ローマ教皇)を選出するためにヴァチカン(Vaticanæ)で行われていた教皇選出会議「コンクラーヴェ(Conclave)」で、アルゼンチン・ブエノスアイレス(Buenos Aires)出身でブエノスアイレス大司教であるホルヘ・マリオ・ベルゴリオ(Jorge Mario Bergoglio)枢機卿が第266代のローマ教皇に選ばれ、フランチェスコ(Franciscus)1世と名乗る事になりました。

前教皇ベネディクトゥス16世は高齢で教皇の職務の重責を果たせなくなったと退位の理由を述べたが、教皇職は事実上の終身制であり、存命中の退位は極めて異例の事でした。

「自らの意思による退位」は1415年のグレゴリウス(Gregorius)12世以来598年ぶり、また同じく生前退位をしたケレスティヌス(Caelestinus)5世以来719年ぶりとの事。

ベネディクトゥス16世は枢機卿会議の席上で「自身の力不足を理由で退位する」という内容の文章をラテン語で朗読して退位表明をしますが、これはケレスティヌス5世が退位した際と同じ行動です。

グレゴリウス12世の退位の場合は、1378年から1417年の間に生じたシスマ(Schisma:教会大分裂)による3人の教皇が鼎立した状態の解消、すなわち事実上の廃位であって自らの意思とは言い難く、従って、自らの意思で退位するのはケレスティヌス5世の退位以来史上2人目とされます。

今後、前教皇は「名誉教皇(Pope Emeritus)」という称号が与えられ、また「聖下」の尊称で呼ばれる事となるため、「ベネディクト16世名誉教皇聖下」と呼称される事になります。

日本の仏教寺院での僧侶さんたちが「大僧正猊下げいか」と呼ばれるのと同じ感じでしょうか?

教皇選出会議「コンクラーヴェ」
教皇が退位した事に伴い、「空位時期(使徒座空位)」が定められ、前教皇を除く、ローマ・カトリック教会の枢機卿団がヴァチカンに集結します「。世界で最大級の影響力を持つ宗教指導者、ローマ教皇を選出する有権枢機卿たちです。

今回のコンクラーヴェでは、総勢208人からなる枢機卿団のうち、コンクラーヴェの参加資格である「80歳以下の枢機卿」の条件を満たした115人がヴァチカンに集結し、昔の教皇の公邸でもあったシスティーナ(Sistina)礼拝堂において秘密投票がなされました。

教皇の選出には全投票数の2/3の得票である77票以上が必要で、獲得する候補が出るまで投票が続けられ、2日目の5回目の投票で決まり、システィーナ礼拝堂の煙突から新しいローマ教皇の決定を告げる白煙が上がりました。

このコンクラーヴェはこの100年間で、今回も含め9回実施されています。そのうち、最も早く教皇が決まったのが1939年に選出されたピウス(Pius)12世で、2日目に3回目の投票で選出されました。続いて、1978年のヨハネ・パウロ(Ioannes Paulus)1世と2005年のベネディクトゥス16世が2日目に4回目の投票で選出されています。

最も時間がかかったのは1922年に選出されたピウス11世で、何と5日目の14回目の投票で決まったのだとか―

何れにしても、今回のコンクラーヴェにより、ローマ・カトリック教徒の総数11億6786万人(2010年段階)の皆さんの精神的支柱である“新しいパーパ”が決まった訳です。

初のイエズス会派
2日間5回もの投票で選出が決まったのが、アルゼンチン・ブエノスアイレス出身のフランチェスコ1世

今や世界最大のカトリック人口を抱える中南米から初の選出だそうです。

実は、今回のコンクラーヴェでは本命なき攻防だったようで、前回でも有力な候補として名前が挙がり、前教皇の次に得票数を獲得していたと伝えられています。

フランチェスコという名称は、選出された新教皇が自ら決める事となっているのですが、12〜13世紀にイタリア中部のアッシジ(Assisi:現在のイタリア・ウンブリア〔Umbria〕州ペルージャ〔Perugia〕県)を拠点にカトリック改革運動を率いて修道会の1つ・フランシスコ会(フランチェスコ会)の創設者として知られるカトリック修道士、聖フランチェスコ(Franciscus)に由来するそうです。

ローマ教皇は15世紀以降、枢機卿団の中の1人が教皇に選出されていますが、1978年にポーランド人のヨハネ・パウロ2世が就任するまで、約450年にわたってイタリア人の選出が続き、前回(2005年)では、ドイツ出身の前教皇が、そして今回はアルゼンチン人の教皇が選出される形となりました。

ところで―

この新教皇フランチェスコ1世は、戦国時代に日本(※ 主に西日本)にキリスト教を伝えた修道会「イエズス(Iesu)会」(耶蘇会やそかいに所属する方だそうです。

このイエズス会員、現在では112か国で2万人もの会員が存在し、カトリック教会の男子修道会としては世界で2番目に大きい規模を誇るようです。

私たちにとり、この「イエズス会」(耶蘇会)は日本史で非常に馴染み深い用語ですね。

天文18年(1549)、フランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier)が鹿児島に上陸して布教活動を始め、その後、アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(Alessandro Valignano)ルイス・フロイス(Luís Fróis)グネッキ・ソルディ・オルガンティノ(Gnecchi-Soldo Organtino)ルイス・デ・アルメイダ(Luís de Almeida)ジョアン・ツズ・ロドリゲス(João“Tçuzu”Rodrigues)といった会員たちの活躍で大きく発展し、日本(※ 主に西日本)におけるキリシタン信者を増やすと共に天正遣欧少年使節を派遣します。

しかし、最終的には徳川幕府による迫害によって宣教師と協力者たちは処刑・追放され、正保元年(1644)に小西行長の甥・マンショ小西の殉教を最後に日本人司祭も存在しなくなり、日本でのイエズス会(耶蘇会)の布教活動が終焉を迎えます。

イエズス会の活動理念は、主にローマ教皇への忠実という意識が強く、それはウルトラモンタニスト(教皇支持派)と呼ばれます。カトリック教会の中でも最も厳格な規律で知られ、保守傾向の強い派に属しています。

また、宣教事業や社会正義事業と並んで高等教育の普及を目指していました。その成果というか現在、世界各地にイエズス会の高等教育機関(大学を含め)が存在しますが、最も活発なのはインドとフィリピンと云われています。

その後、イエズス会は1773年に当時のローマ教皇クレメンス14世により禁止されると、ポルトガルがイエズス会会員の国外追放を決め、フランス、スペインなども同調し衰退の一途を辿たどります。

そうした中で、ロシアやプロイセンなどはイエズス会会員を受け容れ、結果として国内で啓蒙君主と呼ばれる英明な君主が誕生する素地を創り出します。

やがて、1814年にローマ教皇ピウス7世ようやイエズス会の復興が許可します。

現在、イエズス会の総長(終身制)はアドルフォ・ニコラス師で過去に日本管区長を務め、上智大学で神学を教えていたそうですよ。

※ 主に西日本
主に西日本としたのは、日本への布教活動の前半期はイエズス会の活動が多くみられ、その代表的なものとして天正遣欧使節が挙げられます。一方で、後半期はイエズス会ではなく、東日本を中心にフランシスコ会(フランチェスコ会)の活動が多く見受けらます。例えば、伊達政宗に近づいたルイス・ソテロ、そしてその代表的な活動計画として慶長遣欧使節が挙げられます。


― ◇ ◇ ◇ ―

※(参照)新しいパーパ(教皇)はベネディクトゥス16世→
※(参照)ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世崩御→


    

posted by 御堂 at 03:23 | Comment(0) | TrackBack(1) | 歴史:コラム

“道は好む所によって安し”―“好きこそ物の上手なれ”って言うよね!

こんな記事を見つけました!

「洛東高、『地歴研究の甲子園』で優秀賞 府内初」

といったもの―

歴史や文化財、地理に関する研究成果を競う「全国高校生歴史フォーラム」(奈良大学主催)という催しで、京都府立洛東高校(京都市山科区)の女子生徒4人のグループ「人文社会コース研究会」が、優秀賞を受賞したそうです。

この催しは、“地歴研究の甲子園”とも称され、6回目の今年は全国から75件の応募があったのだとか…

彼女たちが研究したテーマは安祥寺あんしょうじ下寺の所在地」というもの―

彼女たちは地元の安祥寺を見学し、平安時代には上寺下寺があったという記録を基に同校近くにあったとされる下寺の所在地を探求。

専門的な文献や古地図を読み解き、学校のグラウンド内に地番界(住所表記が変わる境界線)がある事を発見し、周囲の地名や史跡を史料と照合した結果、下寺の位置を推定したようです。

受賞の知らせを聴いた彼女たちは、「難しい論文や史料と向き合う研究だったが、調べてまとめる事を学べた」と語り、「歴史の道に進み、将来に活かしたい」とも言っています。

指導した教諭は「内容は学術的にも通用するレベル。研究発表は専門家に聞いてもらう良い機会にもなる。難しい要求に応えてくれた生徒たちに感謝したい」と話しています。

彼女たちの研究成果は、24日に奈良大学で行われる表彰式で発表されます。

個人的には、同じく優秀賞を受賞した大分東明高校(大分県)郷土史研究部の「高田輪中の野鍛冶・入鎌師と水害―輪中集落の歴史・くらし・文化 3―」や、佳作だけど西大和学園高校(奈良県)地理歴史部の「大和郡山城下町の歴史と変遷」も面白そう!!

― ◇ ◇ ◇ ―

実を言うと、私も大学4回生の時、『地方史研究』の発行で有名な地方史研究協議会が主催している「日本史関係卒業論文発表会」の存在を知って、応募してみようかな?なんて無謀な事を考えてた過去があります。

結局、色々と調べていくうちに応募してる学生の殆んどが関東圏の大学生である事に疑問を感じたので、思い直しました。

京都で歴史の勉強をしている以上、京都(京都学派)で認められなければ何の意味もありませんからね…

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吉祥山安祥寺あんしょうじは京都市山科区御陵みささぎにある高野山真言宗の仏教寺院で、定額寺じょうがくじの1つでした。

古代天皇制度下において、官大寺国分寺国分尼寺を含む)に次ぐ寺格を有した仏教寺院を指し、神仏に鎮護国家や皇室繁栄などを祈願して創建され、王家(治天の君)の私寺的色彩が強いのが「勅願寺」、これに対し、有力貴族や地方豪族の氏寺であった私寺のうち官の保護を受けたのが「定額寺」と言います。

嘉祥元年(848)、仁明天皇女御にょうごで文徳天皇の母である五条后藤原順子のぶこの発願により、入唐にっとう僧・恵運によって、山城国宇治郡に創建された。天皇の母に関係した寺である事から斉衡2年(855)に定額寺となります。

しかも、五条后順子の御陵は『延喜式』によると山科の地にあるとされるので、この寺との深い関係がうかがえます。

安祥寺には醍醐寺同様に「上醍醐」「下醍醐」と呼称するように、裏山に「上寺」が、麓に「下寺」が存在したと云います。

恵運が貞観9年(867)に作成した『安祥寺伽藍縁起資財帳』によると、上寺には礼仏堂と五大堂とから成る堂院・東西僧房・庫裏・浴堂などの施設が、下寺には約2万uの寺域内に塔・仏堂・僧坊・門楼などがあったとされます。

しかし、五条后順子が死去した後は朝廷の庇護を失い次第に衰微していったようで、『小右記』では既に上寺に行く参道が非常に荒れている事が記述されています。

その後、上寺の方は延文年間(南北朝期北朝年号、1356〜60、正平11〜16年)まではかろうじて存続していたみたいですが、応仁・文明の乱(1467〜77)により、上寺下寺共に廃塵に帰し、完全に廃寺となります。

江戸時代になり、現在地に移転して本堂、地蔵堂、大師堂、多宝塔が再建されますが、上寺の方は全く再建されず廃絶。明治39年(1906)の多宝塔焼失後、再建されていません。

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このニュースを見て、自分の高校時代を想い出しました。

私自身も、小学校高学年の頃から“将来は歴史の勉強がしたい”という思いで目標を定めていたのですが、いざ高校に入学し課外活動クラブを「古典歴史」クラブと定めて、素地を固めていこうというプランだったのですが、入学した年に「古典歴史」クラブが廃部になり、入部が叶いませんでした。

まぁ、他に「古典文学」系のクラブがあったので、そちらに籍を置いたのですが、私としては大学受験に向けて、個別に独学で歴史の素養を培っていくしかないな、という感じだった訳です。

幸い、高校2年生で初めて日本史を習った際の先生も、担任で世界史の先生もどちらかと言えば、暗記、穴埋め式の授業ではなく、文章表現や論文・記述式のテストをなさる方だったので、結果として鍛えられたんですけどね(笑)

例えば、担任で世界史の先生のテスト形式は、すべて記述式で、問題は4問。問1は10マス10文字以内で回答しなければならない、問2は20マス20文字以内、問3は30マス30文字以内、問4は40マス40文字以内…といった感じで、100マス100文字以内に文字を埋めて回答する、というものでした。つまり、誤字脱字など許されないし、感想文やレポートにありがちな、漢字で表記すべきを文字数を増やそうとわざと平仮名で表記してマス目を増やそうとするテクニックなど、通用しないんですね(笑)

御蔭さまで、文章力&表現力が鍛えられました!

その他にも大学受験科目以外に、歴史に必要不可欠な科目は単位修得に関係なくても授業を受けて、古文・漢文、美術(史)、書道(史)など…知識も蓄えていった訳です。

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その甲斐もあってか、大学に入学できましたが、現在いまから想えば、4月の開講時点でうまくスタートダッシュをきれた友人と、少しだけ後方に置いて行かれた感じの友人とにグループ分けされちゃったなぁ、と感じる事があります。

関西私学の大学入試は2月上旬から中旬に集中されます。私などは一般入試で入学した人なので、モチベーションというか、学習意欲のピークが4月の開講時点もまだ残っていた感じなのですが、一方で推薦入試で入学した友人たちは10〜11月がピーク絶頂で、下手をすれば4月の開講時点はモチベーション上げるのに苦労していたようです。

しかし、そうは言っても、皆が歴史の勉強をしたいからと入学して来た連中ばかりなので、周回遅れになる奴などいませんでした。

完全に遅れちゃう人って、とりあえず大学に入学したとか、日本史は暗記モノとして点数が採りやすいから…って感じで、入学したからの目的意識がないっていうか、モチベーションが低かった気がします。

― ◇ ◇ ◇ ―

しかも当時は、バブル全盛期で中学から高校を通じて友人の誰もが、就職時に有利になるように経済学部とか、経営学部、産業社会学部とかを目指していて、そういう連中から私などは「何のために文学部に行ってねん?」って感じで揶揄やゆされたもんです。

「何のために…」って言われてもねぇ…

正直、私は高校までは引っ込み思案で、自己主張しないタイプの人間でした。そんな私が歴史という科目に出逢って、自己主張できるような個性を持てるようになった訳です。

但し、高校までは理数系が得意な連中と同じクラスだったため、なかなか芽は息吹ませんでした(笑)

― ◇ ◇ ◇ ―

大学に入学して以降、歴史の勉強に明け暮れるわけですが、友人の中には、折角4年間の大学生活を歩むんだから、空いた時間に他の学科で面白そうな講義を聴こうよ、って誘ってくれた友人が居ました。

確かに、単位修得の仕方にもよるけど、3回生次や4回生次になると、かなりカリキュラムも空く訳で、他の学科、例えば仏教学科での(仏教学科から視た)禅宗史の科目、或いは国文学科や社会福祉学科(家族社会学など)の講義などを聴講しました。

現在いま想えば、こちらの経験がかなり役立っています。

禅宗史などは、就職・転職などの面接時に禅宗系の学校出身って事で、「只管打座」とか「色即是空、空即是色」の意味を意地悪く聴いて来られた面接官もいらっしゃったので、十分に役立てられたし、歴史学の知識にしても、在学当時は歴史上に名を残した偉人たち、即ち“個”の歴史ばかり追求してた感じですが、寧ろ“個”じゃなくて、史料にも名が残らないような一般大衆たちの歴史、即ち“社会史”の方が遣り甲斐があると感じたんですよね。

やがて、学校事務に就職したのですが、そこで同じく史学科を出られた先輩の方にも“社会史”の価値をよく聴かされたんですね。

その事があってから、図書館へ調べ物に行った際も歴史の書棚(200番台)ばかり物色するのではなくて、社会の書棚(300番台)も注意深く物色するようになったんですよ。

想い起こせば、良きアドバイスを頂いたと想います。

毎年、年齢を重ねるたびに歴史という大衆社会に埋(うず)もれた人たちの叫び声を掘り起こそうとする自分がいる訳ですから…

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参照)全国高校生歴史フォーラム→

※(関連)「崔杼弑其君光」という文字に込められた意味―歴史への取り組み方を教わったエピソード!→
※(関連)図書館で役立てよう!→
※(関連)高校日本史、自分の時はどーやったかな?→


  

posted by 御堂 at 01:42 | Comment(1) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

(トピックス)新春の恒例行事「三十三間堂の通し矢」 秀吉治世に禁止令 古文書発見

「通し矢」の禁止について、前田玄以が妙法院に宛てて送った折紙形式の書状。「弓射」や「御法度」の文字が見え、後半部分には、前田玄以の花押(点線円で囲った部分)がある

新春の恒例行事として、また新成人の腕だめしとして知られる京都・東山七条に在る蓮華れんげ王院(通称、「三十三げん堂」)で催される「通し矢」

現在行われている「通し矢」は「大的おおまと大会」と呼ばれる競技大会で、本堂西側の境内で約60m離れた的を目指して弓を射る。参加者は開催年度に成人を迎え、つ弓道の初段以上を持つ者となっている。

毎年、全国から2000人近くがつどい、制限時間2分で2本を射て、2本とも的に当たれば予選を通過。決勝では的を外した者から脱落してゆき、最後まで的中した選手が優勝となります。

“大会の華”として毎年ニュースを賑わしているのが成人女子の部で、女性は晴れ着姿で競技に挑み、その姿は凛として華麗そのもの―

そんな「通し矢」ですが、その始まりについては、

  • 室町期『洛中洛外図』に弓を射る者が描かれている

  • 天正年間(1573〜1592)頃から流行した
などの諸説が云われています。桃山時代の文禄4年(1595)には関白・左大臣の豊臣秀次「山城三十三間堂に射術を試むるを禁ず」とする禁令を出しているようですが、この時期は「通し矢」を試みる、程度のもので、射通した矢数を競う、て感じではなかったようです。

  一民法○三拾三間ニ制札之儀、木食を以 関白様○被仰出候、如何之由申来、則尤之由被仰出、
    一此堂におゐて弓を射事、かたく可令停止之旨、被仰出者也、
      文禄四年四月 日      民法卿法印
                       玄以
                           (『増補駒井日記』文禄4年4月15日条)


この「通し矢」の記録を掲載した『年代矢数帳』(慶安4年=1651=刊)をひもけば、慶長11年(1606)正月19日、「三十三間堂」で100本中51本を射通した尾張清洲藩主・松平忠吉の家臣・朝岡平兵衛が初見のようです。

― ◇ ◇ ◇ ―

「通し矢」とは、「三十三間堂」西側の軒下を南端から北端に矢を射通す競技で堂射どうしゃ堂前どうまえといった別称もあります。

競技方法として、距離や時間、矢数を組み合わせて、主に以下の種目が競われました。

  • 大矢数…一昼夜にどれだけの本数を射通したかを競う

  • 日矢数…日中にどれだけの本数を射通したかを競う

  • 千射…1000本中の通し矢数を競う

  • 百射…100本中の通し矢数を競う
このうち、“「通し矢」の華”であったのが大矢数で、武芸者の名誉をかけて暮六つ(午後6時頃)から一昼夜(24時間)かけて何本の矢が射通るかを競います。

江戸時代前期にブームとなり、有力藩の後ろ盾(例えば尾張藩、紀州藩)のもと、多くの武芸者が挑戦して記録を更新します。

「三十三間堂」の他には、江戸・浅草(火災焼失後、深川)の江戸三十三間堂や奈良・東大寺大仏殿西回廊でも通し矢が催されていました。

しかし、その後は大矢数に挑む者は徐々に減少をみせ、大規模な通し矢競技はほとんど催されなくなりました。そこには、過熱化する競技への批判をする流派もあった訳ですね。

現在では毎年1月中旬(大体、成人式に合わせている―)に「三十三間堂」で「大的全国大会」が開催されているが、遠的競技(距離60m)の形式となっています。

― ◇ ◇ ◇ ―

そんな「通し矢」豊臣秀吉の治世の16世紀末に度々たびたび禁止されていた事を示す古文書が発見されました。

古文書秀吉の家臣で京都所司代を務めた前田玄以が、「三十三間堂」を管理する妙法院(東山区)に宛てた書状で、長岡京市の旧家に保管されていたそうです。

於三十三間弓射之由承候、沙汰之限候、連之御法度之上、弥堅可被成停止候、此上押而射申族御座候ハヽ、其節急度可承候、此方より可申越候、此等之旨可被申入候、恐々謹言、
                民部卿法印
                  玄以(花押)
  正月十七日
  妙法院殿様
     御雑掌
古文書を分析した結果、前田玄以が書状に用いた肩書(「民部卿法印」)や花押などから文禄5年(1596)に書かれたものと推定。

書状には「於三十三間弓射申之由承候」との書き出しで始まり、弓矢を射るのを既に禁じているが、それでも射る者があれば通報するよう求めている。「連々御法度」という下りから、繰り返し禁止した事がうかがえます。

「三十三間堂」「通し矢」禁止は、前述した豊臣秀次により文禄4年(1595)4月に禁令を発しており、

隣接する大仏寺(のち方広寺)で太閤秀吉の威信をかけた大仏殿の造営が進められていた時期にも重なる事からかんがみて「(豊臣氏の)聖域(=氏寺)としての領域と考える豊臣政権の何かしらの思惑おもわくがあったはず!」と推測されるようです。

「通し矢」の歴史に詳しく、著書もある筑波大学の入江康平名誉教授(武道史)は「当時の妙法院「通し矢」に協力的だったという記録があり、禁止したのには別の事情が働いたのだろう」と話されています。

実際、「禁止してもめない人が後を絶たなかったのでは?」とも考えられるようです。

但し、この時期は未だ「通し矢」を試みる、程度のもので、射通した矢数を競う、て感じではなかったようですね。

本格的に流行はやり出すのは江戸時代以降とと云われていますが、すで桃山時代からブームが過熱していた可能性もあるのではという事です。

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※(参照)馬部隆弘「〈史料紹介〉京都府長岡京市に残る豊臣政権関係の史料三点」(『織豊期研究』14)

posted by 御堂 at 00:18 | Comment(1) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

(トピックス)新陰流の創始者・上泉伊勢守が木像に

室町後期の新陰流の創始者・上泉伊勢守の復元木像

上州前橋が誇る剣聖、上泉かみいずみ伊勢守信綱のぶつなのテレビドラマの実現に向けて活動する「上泉伊勢守ドラマ化推進委員会」が、伊勢守木像を完成させたそうです。

設置された場所は、前橋市上泉町1区集会所の庭で、木像は全長は約180cm、重さは300sほど、持ち運びが可能でお祭りやイベントなどで展示できるように造られたようです。

上泉自治会館にある上泉伊勢守の銅像

同委員会は、桂萱地区にのぼりばたを立てるなど、伊勢守の映像化に向けて活動されていて、平成20年(2008)の生誕500年祭には伊勢守の銅像(全長約215cm、重さ約400sで黒御影石の台座に乗っている)が造られ、上泉町自治会館の庭に建っています。

― ◇ ◇ ◇ ―

上泉伊勢守信綱は、上野こうずけ国勢多郡桂萱かや郷の上泉(現、群馬県前橋市上泉町)を拠点とし、同郡の大胡おおご郷(現、群馬県前橋市堀越町)にった大胡氏の一族( 『前橋市史』第1巻)である上泉氏の第4代目の城主です。一族は城主であると共に、代々が兵法家として知られ、陰流、神道流、念流などの諸流派を学ぶなかで、新陰流を創始します。

大胡氏藤原秀郷の子孫で藤原姓足利氏(“橋合戦”での田原足利忠綱が有名)の庶流にあたります。平安時代から大胡城を拠点として、鎌倉、室町時代にかけて勢力を張りますが、戦国の騒乱の中で衰微してゆき、室町幕府の重臣・一色いっしきがその名跡を継ぎ(←恐らく、幕府関東公方の傘下に入り、旗本株を一色家が買ったのでしょう)、大胡氏宗家を立て直した後に上泉に拠って上泉氏を興したものと考えられます。

その後、大胡城後北条氏からの攻撃を受けて陥落。大胡氏宗家は後北条氏の傘下に組みしますが、上泉氏は群馬郡厩橋まやばし(現、群馬県前橋市)に拠った長野氏に仕え、武田信玄北条氏康の大軍を相手に奮戦し、“長野の16人の槍”と称えられ、上野国一本槍の感状を長野業盛からもらったと云います。

長野氏の本拠である箕輪城落城後は、長野氏旧臣を取り立てようとする武田信玄からの再三にわたる仕官の勧めにも応じず、新陰流を普及させるため門弟たちと共に諸国流浪の旅に出たそうです。

上洛した際、公家の山科言継ときつなとは交流があったようで、言継が書いた日記(『言継卿記』)に「大胡武蔵守」もしくは「上泉武蔵守(信綱)」との記載が多々みられます。

伊勢守は剣聖とうたわれ、多くの流派の祖とされ、宝蔵院流槍術の宝蔵院胤栄や新陰流の柳生石舟斎にその技と心を伝えるのです。

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そんな上泉伊勢守信綱を扱った時代劇ってないのかな、って調べてみると面白うそうな作品が見つかったので、以下に照会しておきますね!

上泉伊勢守信綱を映像化した作品(主役級)
「日本剣客伝」第3話「上泉伊勢守」(配役:長門勇さん)
昭和43年(1968)5月29日〜6月19日放送、NET(現、テレビ朝日)制作
→池波正太郎『上泉伊勢守』(『日本剣客伝』1所収)をベースに制作されたもの
「雲のごとく水のように 剣聖 上泉伊勢守信綱」(配役:若林豪さん)
平成4年(1992)3月28日放送、群馬テレビ制作
←余談ですが、映画「二百三高地」で若林豪さんは上泉伊勢守信綱の11世子孫である上泉徳弥海軍中佐を演じてられています。何か因縁めいてますよね!


posted by 御堂 at 19:46 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

小姫が想い父に届け!―「まつだいらつゆ」の遺筆

江戸時代の中期から後期にかけて、因幡鳥取藩の支藩である鳥取新田藩東舘新田藩=東分知家、明治維新後の朝藩体制下では鹿奴藩、に対し、西館にしやかた新田藩=江戸屋敷が鉄砲洲てっぽうず(現、東京都中央区湊辺り)にあったので鉄砲洲家、維新後の朝藩体制下では若桜わかさと呼ばれる)の殿様に池田定常という人がいました。

池田定常は謹厳実直な性格であると共に文学者としても有名で、その学識と沈毅な人柄から文化人仲間の間でも高く評価される人物で、文人大名と称されます。

その故、毛利高標たかすえ(豊後佐伯藩主)や市橋長昭(近江国仁正寺にしょうじ藩主)らと共に“柳間の三学者”“文学三侯”と称された程で、家督を譲り、隠居して冠山と号して以降も文化人たちと交流を深め、『論語説』や『周易管穂』、『武蔵名所考』や『浅草寺志』など、著作活動や研究に力を注き、当時の儒学や古典、地理などを知る上での貴重な史料と現在も高い評価を受けています。

― ◇ ◇ ◇ ―

さて、お話はこの池田定常(以下、冠山)の16女で末娘にあたる露姫に関するエピソードです―

浅草寺所蔵「玉露童女木彫像」

露姫は、江戸鉄砲洲の鳥取新田藩江戸屋敷で生まれました。冠山は9男16女の子女を得ますが、これらのうち、無事に生育したのは2男4女に過ぎませんでした。

そのためもあってか、ことほか露姫を可愛がっていたそうです。

しかし―

文政5年(1822年)11月27日、露姫疱瘡(天然痘)がために短かすぎるほどの生涯を終えます。享年6才。

冠山は悲しみにくれたようですが、それにも増して、この文人大名を更に嘆き悲しませる物が、露姫の死後に見つかったのです。

それは、露姫が父や母、兄、そして侍女に書き遺した遺筆でした。

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そこには―

  於いとたから こしゆあるな つゆが於ねかい申ます めでたくかしく
    おとうさま
      まつだいらつゆ


とありました。要約すると「愛しいお父様、もう良いお年なのですから、あまりお酒を召し上がらないで下さい、お願いです!」って感じでしょうか。

冠山は無類の酒好きだったらしく、露姫は父の健康をひとえに気遣っていたんですね。

冠山が最晩年に著した『思ひ出草』という随筆の中で「酒は露児が戒しにより今は唇をも濡さず」(酒は露姫に戒められて以降は一滴も飲まなくなった)と記しています。

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また、母である冠山の側室「たえ」に宛てた辞世の句には、

  まてしはし なきよのなかの いとまこい むとせのゆめの なこり於しさに
    おたへさま
      つゆ


とあり、「むとせのゆめ」(=6歳の夢)を持ちながら短い一生を終えるのは名残惜しい、と無念さを訴えつつも死んでいく自分のはかなさを詠んでいます。

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そして、侍女のたつとときの2人には、

  ゑんありて たつときわれに つかわれし いくとしへても わすれたもふな
    ときさま
    たつさま
      むっつつゆ


と願い、「たつ」「とき」を「立つ時」、すなわち「自分がこの世を立ち去っていく時」に懸けているところが涙を誘います。

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更に、露姫の死後42日目に兄や姉が故人を偲んで露姫が愛用していた箪笥の引き出しを開けて見たところ、

  おのかみの すへおしら(ず)に もふこてう
  つゆほとの はなのさかりや ちこさくら
  あめつちの おんはわすれし ちちとはは
    むっつつゆ


と詠まれた句に添えられる形で、花や蝶などの絵が描かれていたそうです。遠からず尽きようとしている自分の身の上を花(「稚児桜」)や蝶(「胡蝶」)になぞらえて歌を詠む感性は想像を打に尽くせません。

露姫が遺した遺筆を見て、父である冠山はその才能を惜しみ嘆いた事でしょう。

冠山は亡き露姫の菩提を弔うと共に、その才を多くの友人たちに観てもらおうと露姫の遺筆(歌・発句・手紙)を露姫の筆跡を模し(=模刻)木版刷りにして親類や知人らに配り、供養してくれるよう頼みます。
 
その逸話が世間に広まるや江戸の文人らの涙を誘い、多くの著名人が追悼文や詩歌の類を冠山に贈ります。

なかでも、幕府旗本で当時の情報収集家で知られていた宮崎栗軒が著した視聴草みみききぐさと呼ばれる書物に露姫の遺筆のレプリカを『視聴草』に綴じ込んだ上に次のように書き添えたのです―

冠山公の息女名は露、幼にして才慧衆児に超越す。惜しいかな六齢にして蘭砕す。老候痛 惜に耐えずその遺筆を刻して親戚にわかたる。余これを見れば覚えず涙襟を潤す(『視聴草』二集之七 四六 松平冠山息女阿露筆蹟摸刻本、幼女遺筆)
冠山はそれらを30巻に及ぶ書物『玉露童女追悼集』としてまとめ上げ、露姫が生前とくに参詣していた浅草寺に奉納し現在いまに伝えられています。

また、全国各地の寺院にも露姫の遺筆と共に木版刷りを送り、供養を願っています。

冠山の友人たちから贈られた詩歌のうち、

冠山と特に親しかった安房北条藩主・水野壱岐守忠照が寄せた詩歌には、

  筆草や 枯野のつゆの 置きかたみ
    忠照


と詠んだといいます。要約すると、「最後に素晴らしい形見を残してくれたのだ、以て瞑すべしじゃないかかな。

実は水野忠照冠山と同じように2歳の男児と6歳の姫を疱瘡(天然痘)で亡くしていました。わけても露姫と同じ6歳の姫を亡くしたときの様子を

其の後又ををな子をまうけしが、六才の冬是も同じもがさ(=庖蒼)にて目も閉じぬれば、父は今御城にや今表にや今奥にや、と傍らのらのもとびと(=侍女)に尋ね問ひぬるをや、掌の玉きわる命終わる前の日までも斯かる事止まざりしを、老の今に至るまで耳の底にとどまりぬ。
と書き記しています。「父上は今登城しているのか、今屋敷で執務をしているのか居間にいるのか、と死の前日まで毎日傍らの侍女たちに問いかけていたのが、老いてしまった今も私の耳に残って離れないんだ」冠山同様、幼い子を亡くした悲しみは忠照には他人事ではなかったのです。

― ◇ ◇ ◇ ―

生まれ変わり伝承「ほどくぼ小僧」と露姫

江戸時代後期、武蔵国多摩郡中野村(現、東京都八王子市)の百姓・源蔵の次男に勝五郎という8歳の少年がいました。

ある時、勝五郎は「自分は多摩郡程久保村(現在の東京都日野市)で6歳で死んだ百姓・久兵衛の息子・勝蔵の生まれ変わりだ」と言ったのです。「生まれ変わり伝承」って奴ですね。

よくよく話を聞いてみると、話の辻褄つじつまが合い、関係者も実在していた事で評判となります。

その噂を聞いた冠山は江戸から八王子まで勝五郎に話を聞きに出掛けます。

冠山とすれば、藤蔵も露姫と同じく疱瘡(天然痘)で亡くなっており、若しかすれば露姫も藤蔵のように復活しないだろうかと期待をかけていたのかもしれませんね。

現在、藤蔵の生家と伝えられる家屋に住む方の話に寄ると、家には露姫のものとされる位牌いはいが伝わっているそうです。

わが子の生まれ変わりを切に願う親心を感じ取れずにはいられませんね!

posted by 御堂 at 20:26 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

(トピックス)デレーケがもたらした欧米技術 八幡の桂川河川敷で明治期の護岸遺構「水制」見つかる!

護岸から張り出した「水制」の跡。石が敷き詰めらている 「水制」の遺構(中央の石畳の部分)

京都府八幡市八幡茶屋ノ前の桂川左岸の河川敷で、明治時代初期に淀川に造られた大規模な護岸の遺構(以下、木津川河床遺跡)が見つかり、10日、京都府埋蔵文化財調査研究センターが発表しました。

明治期に政府の招聘しょうへいにより、お雇い(御雇)外国人として来日し、淀川一帯の改修工事を手掛けたオランダ人技師ヨハネス・デレーケ(Johannis De Rijke)(以下、デレーケ)が手掛けた可能性が高く、同センターでは「欧米の技術を導入したデレーケの足跡を辿たどる貴重な資料」としています。

桂川で見つかった明治初期のものと見られる大規模な護岸の跡

見つかった木津川河床遺跡は、桂川が宇治川、木津川と合流する地点のやや上流の左岸部分で、河道掘削工事に伴い、同センターが4月から約6000uを調査していたところ、岸から約450mにわたって断続的に確認され、こぶし/rt>大から60cm程度の石を敷き詰めた構造になっていました。

石積みの遺構は岸から突き出ており、先端部は崩れていたが、岸からの長さが15〜20m、高さ4mの平たい石の形状をしたものが計12か所、約30m間隔で築かれていた事が確認できます。

これは「ケレップ」水制すいせい)(=Krib=オランダ語で「水制」「防波堤」の意味がある)」と呼ばれる突堤状(突起状の土塁)の遺構で、川に向かって護岸の一部を張り出す事で、川の中央部に土砂が堆積たいせきするのを防いだり、つ川を流れる水の作用(浸食作用)から河岸や堤防を守る、さらには水の流れをゆるやかにして流れる方向を変えたり、水の勢いを弱くするなどを目的として設けられる施設で、川幅が広い河川に多く見られます。

― ◇ ◇ ◇ ―

デレーケによる近代的砂防工事の始まり
ペリー来航以後、開国政策により幕末から明治にかけて、日本の近代化を目指す殖産興業政策の過程で欧米の先進技術や学問、制度を輸入するために御上おかみ―すなわち江戸幕府諸藩明治政府各府県―が招聘し、普及のために雇用したお雇い(御雇)外国人ですが、海運関係はオランダに請うところが大きく、明治5年(1872)にオランダよりコルネリス・ヨハネス・ファン・ドールン(Cornelis Johannes van Doorn)(以下、ファン・ドールン)を招聘し、近代土木技術を導入して、全国各地の港湾及び河川の整備を実施する事になります。

そうした港湾及び河川の整備事業のうち、大阪港の築造の際、ファン・ドールンより招聘されたのがデレーケで、デレーケファン・ドールンの求めに応じ明治6年(1873)に来日します。

明治初期頃の大阪港は淀川の河口部に位置しますが、その淀川は土砂堆積のために水深が浅くなり、とても蒸気船などの大型船舶が入港できる状態ではなく、水上交通の往来に支障をきたしていました。

当時、京都の伏見港と大阪湾は重要な交通の動脈だったため、導入されたばかりの蒸気船をスムーズに運航させるためには大阪港の築造が急務と考えたのです。

― ◇ ◇ ◇ ―

デレーケによる治山・治水
デレーケず取り組んだのは、土砂の流出を減らす砂防堰堤や植林でした。

来日翌年の明治7年(1874)から淀川改修の一環として不動川流域(現、京都府木津川市山城町大字平尾一帯)を踏査し、その荒廃ぶりに驚き、大阪港の築造や淀川改修には水源砂防の強化が重要だという意見書を政府へ提出します。

それら上流の山々は古くから平城京恭仁くに紫香楽しがらきなどの造営や南都寺院の建築資材として伐採が進み、周りのほとんどが崩れ禿げ山の様相を呈していて、大雨が降るたびに大量の土砂流出を繰り返していました。

デレーケの治水観の特徴は、河川を上流から下流まで一体的に捉える事と治山・治水重視である事だったんですね。

その手始めとして淀川に流れ込む河川で2番目に長い流路を持つ木津川の上流にある京都府綴喜郡井手町や相楽郡山城町、あるいは三重県名張市などの森林対策(植林など)を実施します。

現在、京都府木津川市山城町立不動川公園内には、デレーケによって築堤された日本で最初の石積み砂防堰堤である「デレーケ堰堤えんてい約50基近くが残っており、100年を経過した現在いまもなおその機能を発揮しています。

― ◇ ◇ ◇ ―

デレーケは他のオランダ人工師が帰国した後も、内務省雇工師として明治36年(1903)まで日本に滞在します。

国による洪水防禦工事(高水工事)が法的に整備されたのが、明治29年(1896)。淀川ではこの年から本格的な淀川改良工事が着手されます。

デレーケの淀川治水の考え方(計画書)としては、

・明治20年(1887)『大阪築港並淀川洪水通路歌集計画』
・明治23年(1890)『京都府並ニ大阪府ノ管下ニ於ケル淀川毎年ノ漲溢ニ対スル除害ノ新計画』

が挙げられますが、その内容として、下流部左岸の賀茂川合流部から水無瀬付近までに水路に曲線を多く採り入れ、遊水効果を持たせた新水路を掘削する事を提案します。

しかし、この大規模な新水路建設案は採用されず、より直線的な水路を提案した案が採用される事となり、それと並行して、最下流部の排水能力を向上させるため右岸の拡張引堤工事が実施されます。

こうして淀川の改修工事が始まりますが、そこにはデレーケがオランダから日本に持ち込んだ最新技術がフル活用されます。

デレーケは淀水の流れを川の中央に集め、大型船舶をの航行を可能にするために低水路の維持しようと両岸に「ケレップ」(水制)を数多く造る事で、川の流れを中央部分に集め、大型船舶などが往来する水量を確保したとされます。

当時、大阪・天満橋てんまばしから京都・観月橋までの約40kmにわたる間に393箇所の「ケレップ」(水制)を設置、総延長は約6万6千mに及んだと云います。

その後、舟運の衰退や河川改修工事により、多くの「ケレップ」(水制)が撤去され、現在では大阪市旭区の河川敷などに残る程度ですが、残った多くの「ケレップ」(水制)には、水生植物の良好な生育域となって、多用な河川環境を創り出しています。

それが「ワンド」(湾処)というもので、川の本流とは繋がっていますが、「ケレップ」(水制)に土砂が堆積してできた事で水まりのようになっている地形を言います。まさに淀川改修工事によって生じた産物なんですね。

その「ワンド」(湾処)水際みずぎわを好む水生植物が繁茂し、また現在は河川環境の変化で殆んど姿を消し、絶滅の危機にひんする淡水魚で天然記念物に指定されたイタセンパラ(板鮮腹)の国内最大の繁殖地としても知られています。

河川環境が重視される現在、デレーケが残してくれた財産価値は高いですよね!

― ◇ ◇ ◇ ―

今回発見された「ケレップ」(水制)は、一帯の改修に向けてデレーケが明治7年(1874)に記した設計図面に描かれており、今回出土した「ケレップ」(水制)の位置とほぼ一致しています。

デレーケが伝えたとされる、里山の雑木から伐採した直径数cm程の細い木の枝である粗朶そだなどを束ねて造った資材を沈め、その上に護岸となる石材を固定する工法「粗朶沈床工法」が使われた形跡も確認されたそうです。

この「粗朶沈床工法」は、これ以前に日本が行ってきた松杭などで水の流れを弱める工法よりも水当たりが柔らかく、流れに対する抵抗力が強いので、効果的なものでした。事実、50〜100年以上の耐用年数が実績として存在するそうです。

今本博健・京都大学名誉教授(河川工学)は「角度の付け方など、水制は十分に機能しており、当時の水制の造り方を知る上で参考になる」と話されています。

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※(関連)京都府埋蔵文化財調査研究センター→
※(参考)木曽三川、治水との闘い→

posted by 御堂 at 15:48 | Comment(1) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

(トピックス)専門教育機関との連携に地元の知恵 丹後の大庄屋・安久家文書 19年がかりの調査

『安久家文書目録』

阿蘇海を望む高台にある京都府立丹後郷土資料館(京都府宮津市国分)―その資料館に隣接し、かやきの旧永島家住宅(府有形文化財)にこの夏、地元の老若男女が集って、蒸し暑さのなか、戸や玄関を開け放った広間でタオルを首にかけて古文書類の判読に励んだそうです。

判読しているのは、江戸時代丹後田辺藩(現・京都府舞鶴市)の大庄屋おおじょうや安久家あぐけに伝わった膨大な古文書類で、日々のお勤めを細かく記した公文書日記『御用触附日記』を含む『安久家文書』

その大半が同資料館に寄託されており、田辺藩の動向や近郊の出来事を知る貴重な史料と云います。

調査は千葉大学文学部の学生や卒業生、それに地元の舞鶴地方史研究会など歴史愛好者たちが参加。

協力し合って、文書資料を読み込むユニークな手法で、これまで19年がかりの地道な取り組みを続けてきた。

― ◇ ◇ ◇ ―

丹後田辺藩は、中世期にこの地方を知行していた細川氏が豊前中津へ転封された後に入封した京極高知が息子たちに分知(=分割統治)した際、三男の高三たかみつ田辺藩主にしたのが起源です。藩の領域は丹後地方の加佐郡全域(137か村)で、現在の京都府舞鶴市、および宮津市由良、福知山市大江が該当します。

この京極氏が寛文8年(1668)に但馬豊岡に転封し、代わって牧野親成が入封。以降、牧野家9代によってに支配され、明治維新を迎えます。

正保年間(1644〜48)より領国内の村々は、8組(川口上組、川口下組、中筋組、池之内組、祖母谷組、志楽組、大浦組)の大庄屋に統括されます。

大庄屋は、名字帯刀を許された有力な農民で、村々の庄屋20人程をまとめ、藩とのつなぎ役を担う役割があるのですが、安久家は池之内組の大庄屋を長く務めました。

安久家応仁・文明の乱(1467〜77)以降、上安久村(現・京都府舞鶴市上安久)に居を構えた在地有力者で、明治以降も村長や郡会議員など名望家めいぼうかとして地域のリーダー役を担いました。

『安久家文書』は昭和61年(1986)に丹後郷土資料館に寄託され、目録作成調査が始まりました。平成6年(1994)からは千葉大学の菅原憲二教授(日本近世史)の研究室が参加しました。菅原教授は「古文書が水や泥をかぶっていて文字がにじんだ部分や断簡も多く見られ、苦労した」と当時を振り返られます。

判読した古文書類からは、江戸時代の借金証文から行政文書、絵図、証文、願書、明治時代の年賀状までそろっていて、丹後地域で藩権力を超えた政策がどの範囲でどのように連携していったかがうかがえると云います。

― ◇ ◇ ◇ ―

こうした共同調査などを催した際に一番感じるのは、古文書を読み解くにあたって地元住民の知識と経験が生きる、って事なんですよね。

その地方独特の言語や地元だけで使用している地名の通称、祭り、川の支流の名称…地元に住む人ならではの推察や意見がどれだけ役に立つ事か―

千葉大学の学生も「文書が残っている場所で地域の人と直接話ができ、貴重な体験だった」と話されています。

一方で、ほとんどの調査に参加してきた舞鶴市の女性も「学生に聞かれて、『もっと地域の歴史を知らなくては』と刺激になった」と話されています。

良い相乗効果がありましたね!

― ◇ ◇ ◇ ―

昨今、緊縮財政政策などで自治体史の編纂やこうした古文書の調査も縮小傾向にあります。

しかし、“オラがまちの歴史”を掘り起こそう、という思いが、19年にも及ぶ地道な調査の支えとなったと感じます。

成果となる『丹後国加佐郡上安久村安久家文書目録』(菅原憲二編、千葉大学文学部史学科菅原研究室刊)は第5集まで完成。

菅原教授は来春退官するため、積み残した調査を地元の皆さんが中心になって引き継ぎ完成をみて欲しいですね!

― ◇ ◇ ◇ ―

※(関連)京都府立丹後郷土資料館(ふるさとミュージアム丹後)→

posted by 御堂 at 03:49 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

(トピックス)“近江八景”は近衛信尹が膳所城からの眺望を詠んだもの!

近衛信尹が膳所城からの眺望を近江八景に詠んだ事が記されている史料『八景和歌〈琵琶湖〉』の写し

「石山の秋月」「三井の晩鐘」で知られる“近江八景”(※)は、「ェ永の三筆」で知られる五摂家近衛三藐院さんみゃくいん信尹のぶただが琵琶湖畔の膳所城からの眺望を和歌で詠み、選んだ事が判る史料が発見されました。

“近江八景”の選定者を巡っては従来諸説があり、室町時代後期の関白三藐院信尹高祖父こうそふ、つまり、ひい爺(じい)さんにあたる近衛政家が選んだと記した出典文献が多く見受けられますが、この発見により覆る可能性が高くなってきました。また、“近江八景”が近江国(現、滋賀県)全域ではなく琵琶湖南部に集中している謎も、実は膳所城を中心とした景色の取り合わせだったと考察されています。

― ◇ ◇ ◇ ―

史料は、江戸時代初期の元和10年(寛永元年、1624)に儒学者藤原徨窩門人の高弟、かん得庵とくあんが記した『八景和歌〈琵琶湖〉』(〔伊勢〕神宮文庫蔵)。

“近江八景”をそれぞれ詠み込んだ和歌8首を写して「この和歌は、信尹公が膳所城からの八景を眺望して紙に写し、城主に賜れた」(意訳)と記されていました。

※ “近江八景”
近江国(現・滋賀県)、琵琶湖周辺にみられる優れた風景から「八景」の様式に則って選んだ、風景評価図。
山水画で知られる中国湖南省の景勝地で、長江流域の洞庭湖及び、湘江から支流の瀟水にかけてみられる典型的な水の情景を集めて描いた『瀟湘しょうしょう八景図』(11世紀頃、北宋時代、宋迪そうてき作)を琵琶湖になぞらえて、琵琶湖周辺から8か所の名所を選んだもの。
鎌倉時代後期より来日した禅僧により伝えられ、室町時代には京都五山の禅僧たちによって水墨画や五山文学と相俟あいまって、広まっていったとされます。


得庵は、近江膳所藩第2代藩主の戸田氏鉄うじかね(※)(→現在、大垣公園(大垣城跡地)には戸田氏鉄の騎馬銅像が立っていますね)の侍講をしていた事が判っており、上記の記載を発見された京都大学大学院文学研究科の鍛冶宏介非常勤講師は「“近江八景”の始まりを氏鉄から聞いたと考えられる極めて信頼性の高い史料」とみられている。

※ 近江膳所藩第2代藩主の戸田氏鉄
戸田氏鉄は慶長8年(1603)、近江膳所藩の藩主となり、元和2年(1616)に摂津尼崎藩に移封され、寛永12年(1635)、美濃大垣藩へ移封されています。


“近江八景”をめぐっては、上記の記載した如く、近衛政家が明応9年(1500)8月13日に室町幕府・近江守護職六角高頼の招きで、近江に滞在した際に“近江八景”の和歌8首を詠んだのが始まりだという説が江戸時代の中期に編纂された地誌などで広まり、現在もこの説を採用する文献が多いと云います。

その一方で、政家玄孫げんそんにあたる三藐院信尹だという説を記した文献も存在します。

江戸時代の後期、享和元年(1801)に近江商人で歌人・文筆家のばん蒿蹊こうけいによって刊行された随筆集『閑田耕筆かんでんこうひつには、三藐院信尹自筆の近江八景和歌巻子を知人のもとで観覧し、その奥書には、現行の“近江八景”と同様の名所と情景の取り合わせに至る“八景”成立の経緯が紹介されています。

これについては、政家が当時書いていた日記(『後法興院記』)を調べた結果、この日、つまり明応9年(1500)8月13日は、何処どこにも外出せず自邸にもっていた事実が判明したため「政家説」は消え、「信尹説」が有力視されていました。

加えて、“近江八景”を題材とする作品が室町時代にはまだ見当たらず、ほとんどが江戸時代以降にならないと確認できない事などからも「信尹説」の方が信憑しんぴょう性が高かった事もありました。

今回、三藐院信尹が生きていた時代とほぼ同時代の信頼性の高い史料が発見された事を踏まえ、“近江八景”に詳しい大津市歴史博物館の横谷賢一郎学芸員は「信尹による選定が決定的となった。信尹“近江八景”を和歌で詠んで公家たちに受け容れられ、江戸中期以降、絵画化によって日本を代表する名所として広まった」と述べておられます。

― ◇ ◇ ◇ ―

◎近江八景における8つの風景
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石山秋月(いしやまのしゅうげつ)=石山寺
石山や/鳰(にお)の海(=琵琶湖)てる/月かげは/明石も須磨も/ほかならぬ哉(かな)
勢多夕照(せたのせきしょう)=瀬田の唐橋
露時雨(つゆしぐれ)/もる山遠く/過ぎきつつ/夕日のわたる/勢多の長橋
粟津晴嵐(あわづのせいらん)=粟津原
雲はらふ/嵐につれて/百船も/千船も浪の/粟津に寄する
矢橋帰帆(やばせのきはん)=矢橋
真帆ひきて/八橋に帰る/船は今/打出の浜を/あとの追風
三井晩鐘(みいのばんしょう)=三井寺(園城寺)
思うその/暁ちぎる/はじめとぞ/まづきく三井の/入あひの声
唐崎夜雨(からさきのやう)=唐崎神社
夜の雨に/音をゆづりて/夕風を/よそにそだてる/唐崎の松
堅田落雁(かたたのらくがん)=浮御堂
峯あまた/越えて越路に/まづ近き/堅田になびき/落つる雁がね
比良暮雪(ひらのぼせつ)=比良山系
雪ふるる/比良の高嶺の/夕暮れは/花の盛りに/すぐる春かな

― ◇ ◇ ◇ ―

※(関連)近江八景→(びわ湖大津観光協会)

※(参考文献)鍛冶宏介「近江八景詩歌の誕生」(京都大学文学部国語学国文学研究室編『国語国文』第81巻第2号)

※(参照)五山の送り火→
※(参照)ハイビジョン特集「銀閣よみがえる〜その500年の謎〜」→

posted by 御堂 at 04:33 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

(トピックス)三浦の歴史を手話で、聴覚障がい者ら20人が学ぶ

講義の内容を通訳者の女性(右)が手話で伝えている

耳の不自由な人と共に三浦の歴史を学ぶ市民講座が23日、神奈川県三浦市城山町の青少年会館で催されました。

この催しは、聴覚障がい者への理解を広めようと、同市三崎地区に拠点を置く手話サークル「ともしび会」が主催したもので、「三浦の歴史を学ぼう」〜三崎の名所・旧跡めぐり〜と銘打って、同地区の名所旧跡を手話通訳と要約筆記で史跡を散策する予定でしたが、雨天のため室内での講義となりました。

講師役には、みうら観光ボランティアガイド協会の田中健介会長が務められ、ともしび会のメンバーが内容を手話に通訳したり、要約筆記したりした。

田中さんは、三浦の地名が初めて文献に出てきた『日本書紀』の言い伝えや、隆盛を誇った武家の三浦一族が三浦の名字を名乗るようになった由来などを紹介。三崎地区に所縁(ゆえん)の詩人・北原白秋が代表作「城ヶ島の雨」を作詞するまでのエピソードも説明されました。

聴講者で50歳頃から耳が聞こえ辛くなり、人工内耳を装用されている女性は「要約筆記のおかげで楽しめた。子どもの頃に父から聞いた話を思い出し、懐かしかった」と話されていました。

催しを企画したともしび会は「こうした機会を通じ、多くの人に耳の不自由な人の実情を知って欲しい」と話されています。

※(関連)手話サークル「ともしび会」→
※(関連)社会福祉法人 三浦市社会福祉協議会→

― ◇ ◇ ◇ ―

こうした催しって良いですよね。私はその昔、こうした聴覚障がい者や視覚障がい者たちに歴史の面白さを伝えられたらなぁ、と思った時期がありました。しかし、如何せん手段が見つからず、そうした学校自体もやはり、社会に出た時の実践教育がメインだったので、所詮は“絵に描いた餅”状態だった訳です。

一応、点字も手話も実践講義で習う事ができたので、履修し単位修得はしましたが、夢は儚(はかな)く、悔しい想いで一杯でした。

その後、福祉系の学科がある学校の事務に就職し、そうした障がいを持つ学生たちと接するなかで、ノートテイカーの役割を知って、年休を使って業務は休みの状況にして、彼らの講義のノートテイカーをしてみたり…チョットでも手助けできればなぁ、と思って実践したんですよね。

今回、この記事を拝見して、まだまだ方法はいくらでもあるんだな、と改めて感心しました。

さらに…

同じく神奈川県鎌倉市では、聴覚障がい者向けにスマートフォン(多機能型携帯電話)のアプリ機能で無料で手話動画を流し、観光の案内を紹介しているのだとか―

手話動画で「武家の古都・鎌倉」資産候補地の紹介が流れる

内容は、手話に携わる藤沢市内のNPO法人「シュアール」と鎌倉市内に本社を置くシステム開発企業が共同で企画した「手話で巡る鎌倉世界遺産候補地」というもの。

21か所の候補地の中から1つ選択すると、その場所の由来などを手話動画で解説し、写真画像も表示。GPS機能を用いれば、地図に徒歩でのルート検索結果が示され、距離と所要時間も判るようになっていると言います。

加えて、コミュニケーション手段として筆談機能も備えてあるのだとか…

― ◇ ◇ ◇ ―

こうした試みは、どんどん行って欲しい気がします。聴覚障がいを持った方々にとっては、文字情報を追う事が結構負担になっていますし、五体満足な健常者に比べて、何かしらのサポートが必要な障がい者たちへの手助けこそ、私たちに求められているのでは…

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参照)手書き入力機能のついた携帯→

posted by 御堂 at 19:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

“西の長崎 東の佐倉”

とある番組で、千葉県は佐倉市民に“西の長崎”と問えば“東の佐倉”と返すというシーンがありました。

よくよく説明を聴いてみると、蘭学蘭方医学の先進地として長崎と並び称されていたのを表したフレーズなんだとか…

そこでチョット、調べてみました!

千葉県佐倉市出身で有名な人物といえば、プロ野球ファンなら誰もが知ってなきゃいけない長嶋茂雄さんがいますよね。

しかし、歴史的にみてもっと重要で、知っておかなきゃおかしい偉人がいます…

それは佐藤泰然たいぜんとその一族およびその門下ではないでしょうか!

順天堂大学って皆さんご存知でしょうか?陸上・競走競技好きな私としては、箱根駅伝の常連校のイメージが強かったりしますが、この順天堂大学の創始者が佐藤泰然と云われているんですよね。

蘭方医学を学ぶなら佐倉にゆけ。というのが東日本のその道の志望者の常識になりはじめているが、その塾は、良順の実父佐藤泰然のひとりの手で興った。ただ、佐倉十一万石の領主堀田正睦が江戸城の茶坊主あたりのあいだで『西洋堀田』というあだなをつけられたほどの開明家だったことも、順天堂の繁栄の条件のひとつとなっている。(司馬遼太郎氏『胡蝶の夢』より)
佐藤泰然信圭のぶかどは、天保元年(1830)、蘭方医を志し足立長雋ちょうしゅん高野長英に師事。同6年(1835)、長崎に遊学して蘭方医J・ニューマンに西洋医学を学び、江戸に戻った天保9年(1838)、江戸両国薬研堀やげんぼり(現、東京都中央区東日本橋)の薬研堀不動院内に蘭方医学塾「和田塾」を開設。この塾こそが日本最古の西洋医学塾であり、現在の順天堂大学の起源とされています。

天保14年(1843)、泰然下総しもうさ佐倉藩主・堀田正睦まさよしに招聘され、佐倉に移り住み、佐倉本町に病院兼蘭医学塾「順天堂」を開設。「佐倉順天堂」の治療は当時の最高水準を極め、全国に名声が及びました。

この「佐倉順天堂」から多くの人材が育つ事になります。主だったものとして―

●養嗣子・佐藤尚中たかなか(私立の「順天堂医院」、すなわち東京順天堂の創設者)
●次男・松本順(良順)(松本良甫の養子、将軍侍医、初代陸軍軍医総監)
●五男・林董三郎(ただす林洞海の養子、外交官・政治家・外務大臣)
●長女・つると結婚する洞海どうかい(蘭方医、幕府奥医師)

●孫・佐藤百太郎ももたろう佐藤尚中の長男、ニューヨークで明治9年(1876)に日本で最初の百貨店「日本米国用達社」(Japanese American Commission Agency)を営業する)
●孫・榎本多津(林洞海とつるの長女、榎本釜次郎(武揚)に嫁ぐ)
●孫・赤松貞(林洞海とつるの次女、赤松則良に嫁す。長女の登志子は森鴎外の先妻で於菟の母にあたる)
●孫・西紳六郎(林洞海とつるの六男、西にしあまねの養子となる、海軍中将、貴族院議員、宮中顧問官)

といった顔ぶれです。泰然は実子は他家に出して、優れた弟子を後継者に選ぶという不文律があったようです。

因みに、私が初めて佐藤泰然の名前を知ったのが、日テレ系年末時代劇スペシャル「五稜郭」でした。主人公は里見浩太朗さん演じる榎本釜次郎(武揚)ですが、上記のごとく、その妻・多津が泰然の孫娘なんですね。その時、順天堂大学の由来やそれこそ、松本良順林董の閨閥の凄さを感じた訳です。

佐倉城主堀田氏

江戸時代初期の慶長15年(1610)に徳川家康の命を受けた土井利勝が下総国印旛いんば郡佐倉(現、千葉県佐倉市)の領主になり、翌16年(1611)から7年の歳月をかけて、佐倉城が築城され、その周辺に城下町が形成されます。

以来、佐倉城は江戸防衛の東の要衝&西国大名により江戸が攻撃された際の将軍家の退避処として徳川譜代の有力大名たちが封ぜられる要地となり、幕藩体制期を通じて幕府の要職(老中職など)に就いた者が多数を占めた事から“老中の城”とも呼称されます。

幕藩体制下の258年間の佐倉藩政で、実に12家23代の城主が就任。その中で141年近く城主を務めたのが堀田家です。

その所領範囲は、下総国の印旛、千葉、埴生はぶ、海上、匝瑳そうさ、香取各郡の内、上総かずさ国の山辺、武射むしゃ、長柄、夷隅いすみ望陀もうだ、市原各郡の内、合わせて6万石。さらに出羽国村山郡の内、蔵王の山麓付近である蔵王、長谷堂、村木沢、飯塚、船町など46か村、合わせて4万3千石余などの飛地を陣屋(柏倉かしわぐら陣屋)を構えて入り組み支配し、それに幕府要職としての役知料1万石の計11万石が領知高として宛行あてがわれました。

そうした中で、幕末期に藩主の座にあった堀田正睦蘭癖らんぺき大名」と称されるほど蘭学を奨励し、文武両道だけではなく、医学を加えた、いわば総合大学としての機能を持たせた藩校「成徳書院せいとくしょいんを創ったり、杉田成卿(杉田玄白の曾孫)や佐久間象山らに蘭学・兵学を学んだ木村軍太郎を勤仕させて藩の兵制改革を断行したり、長崎の高島秋帆に砲術、江戸の坪井信道に蘭学を学んだ手塚律蔵蘭学英学の教官として招聘し、江戸藩邸で教育を勧めます(のちの又新塾)。

そうした人脈の中に、佐藤泰然もいて、彼も堀田正睦の招きに応じて「佐倉順天堂」を開く事になり、その結果として、多才な人材が育成され、明治初期の学問分野をリードする訳ですね。

調べていて、特筆すべき点は、本藩・佐倉領の藩校「成徳書院」の分校が柏倉陣屋にも築かれ(北庠ほくしょう)、そこでは武士身分だけでなく領地内の百姓たちも学んでいたと云います。これって、当時としてはかなり開明的な教育方針ですよね。堀田氏は家臣団の人材育成だけではなく、領民たちの(村役人への)人材育成も尽力していたんですね。そう考えると、明治以降、民権運動が盛んになりますが、この地域はどうだったのだろう?って新たな興味が芽生えそう!

維新後、最後の藩主・堀田正倫は華族令によって伯爵を授爵します。その孫である正久は昭和34年(1959)に第3代佐倉市長に当選、昭和50年(1975)まで四期に亘って務め、彦根市長となった井伊直愛氏共々、“殿様市長”と愛された。

“西の長崎、東の佐倉”

「佐倉順天堂」における医療ですが、

●当時の「順天堂」には病室がなく、患者の宿泊する旅館を病室としていた
●手術をする際、『手術承諾書』と手術により死亡した場合、佐倉に埋葬するために必要な書類などを患者に提出させていた
●往診も行っており、藩領外や長期にわたる場合は藩からの許諾を受けていた

など、当時としては最高水準の外科手術を中心とした実践的な医学教育と治療が行われ、その名声により幕末から明治にかけて全国各地から多くの塾生が入門しため、「佐倉順天堂」「日新の医学、佐倉の林中より生ず」と謳われました。

そもそも、幕末の、しかも開国以前の西洋医学の普及は、長崎では直接外国人医師から教授を受け、江戸では翻訳書から学習する、という状況だったので、地方に住む医師たちは江戸や長崎に遊学して学問を究めようとしました。

開国以降、江戸幕府が公式に招聘した蘭方軍医ヨハネス・レイディウス・カタリヌス・ポンペ・ファン・メールデルフォールト(Johannes Lijdius Catharinus Pompe van Meerdervoort)(以下、ポンペ)が長崎奉行所西役所医学伝習所(のちに精得館)において医学伝習を開講します。

「佐藤順天堂」からも万延元年(1860)に藩命で佐藤泰然の養継子・尚中松本良順、司馬凌海りょうかい、関寛斎かんさい、佐々木東洋らが遊学し、ポンペから系統的な蘭医学を学び、西洋近代医学を教授されたのです。

尚中たちは佐倉に戻るや早速、佐倉藩医として医学改革を実施。「佐倉順天堂」での教育だけでなく、佐倉の医療制度の改革も行いました。

実際、佐藤尚中の長崎遊学に泰然は反対していたようですが、こうして西洋医学発展の中心は長崎から江戸へ移行していき、当時の蘭学の東西の双璧として“西の長崎、東の佐倉”(東の佐倉「順天堂」、西の長崎「精得館」)という語が生じたのですね。

明治に入り、明治6年(1873)に下谷したや練塀町ねりべいちょう(現、千代田区神田練塀町)に順天堂医院(現、順天堂大学医学部付属病院)を開院。その後、同8年(1875)、下谷練塀町から湯島、本郷(現、東京都文京区本郷)に移転します。すなわち東京順天堂の創設です。

一方、「佐倉順天堂」尚中の養子となった佐藤舜海が受け継ぎ、医療活動を続けられました。

― ◇ ◇ ◇ ―

現在、佐倉市では“蘭学のまち”として小学校の頃から副読本『みんなのさくら』などに佐藤泰然「佐倉順天堂」の事を記載して、教えているそうです。

なかなか良い事ですね!“わが街”自慢もできないのって寂しいし…

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参考)木村礎「堀田佐倉藩の家臣団と藩領」(村上直編『木村礎著作集』第3巻所収、名著出版)
※(参考)木村礎・杉本敏夫共編『譜代藩政の展開と明治維新 下総佐倉藩』(文雅堂銀行研究社)


   

posted by 御堂 at 06:40 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

(トピックス)毛利氏時代の広島城天守閣の完成年が判明!

毛利氏時代の広島城絵図「芸州広嶋城町割之図」(山口県文書館蔵)

城下町「広島」の始まりは天正17年(1589)4月15日、毛利輝元が太田川の河口部に広がる三角州(デルタ)の上に「広島城」を築城するのに際してくわ初め(=起工式)を行なった日にさかのぼります。

当時、この地域は鍛冶塚庄、平塚庄、在間ざいま庄、広瀬庄、白島はこしま庄から成る「五箇庄ごかしょう」「五箇村」と呼ばれていて、そのうちで最大の面積があった在間庄が築城候補地に選ばれました。

元々、永禄年間(1558〜1569)に輝元の祖父である元就がこの地域を制圧し、勢力範囲を瀬戸内に及ぼし、安芸武田氏を傘下に入れた頃より注目されていて、寒村と呼ばれていた比治山ひじやまに築城しようかとの構想はあったようです。

天正17年(1589)7月17日に井原元尚宛てた毛利輝元書状には「佐東廣嶋」とあり、これが「広島」の初見史料とされます。

天正18年(1590)末頃、堀と城塁が竣工した事で、翌19年(1591)正月月8日には輝元自身も入城して自ら工事の指揮を執ります。

文禄2年(1593)に石垣が完成し、慶長4年(1599)には竣工。これ以後、城下町・広島と在間城(当初はこう呼称していた節もある)が形成されていくのです。
広島城を建てた直接の理由は、毛利輝元備中高松城の攻防以来、懸念されていた和与交渉が成立し、天正16年(1588)7月に主だった家臣を連れて上洛した際、豊臣秀吉が造った当時最先端の城であった聚楽第大坂城つぶさに見て、秀吉が掲げるウォーター・フロント・ネットワークに感じるものがあったのでしょう。これらの城を模して当時まだ珍しかった平地に築こうとしたからだと云われています。

昭和初期の初代広島城天守

→毛利期の広島城天守は、豊臣期大坂城天守をやや小さめに不完全に模倣したものと云われ、その外壁は豊臣期大坂城と同じように黒漆塗りだったようです。
→毛利期の広島城には、西側の外郭はありませんでした。西側の外郭は、関ヶ原以降に移封して来た福島正則が防長二州(周防・長門)ヘ除封された毛利への対策として増築されたようです。
現在の広島城といえば、本丸、二の丸を囲む内堀の範囲だけを残すのみとなっていますが、江戸時代広島城の広さは約90万uもあり、内堀の周りにはさらに中堀、外堀と3つの堀に囲まれ、西は本川(旧太田川) を天然の堀とする広さだったようです。

それを示すように広島市内のあちこちにお城の痕跡が残っています。

例えば、現在も残る「八丁堀」。八丁堀はその名のとおり広島城の堀(外堀)で、現在の東税務署近くから福屋八丁堀本店あたりまで南北に延びていた外堀の長さが「八丁」(約880m)あったからこう呼ばれました。

また、広電(広島電鉄)のバス停留所に現在も残る京口きょうぐち門とは、広島城の城門があった場所で、京口の「京」は京都を指し、京都への往還・西国街道が続いていきます。

さらに、広島城が築城された頃には、現在の平和大通り付近まで海があって、白神社しらかみしゃには波が打ち寄せていた岩礁が残っているそうです。

明治時代以降、外堀自体人々の生活に支障をきたすようになり、八丁堀から西(紙屋町方面)と北(白島方面)の外堀などが埋め立てられ、現在のバス通りだったり、電車通り(相生通り)が構築されていくのです。

― ◇ ◇ ◇ ―

昭和20年(1945)8月6日、毛利輝元によって建てられた初代の天守原子爆弾投下の際、爆発時の熱線に耐えきれたものの、その直後の爆風のあおりを受けてしまい、その衝撃波と圧力によって五層構造の天守のうちの低層階の二層部分の柱が上部三層の重さに耐えきれず倒壊、上部三層は原形をとどめたまま石垣の北東側にずり落ちたため、大量の瓦礫が天守台や堀に散乱したのでは、という可能性を推定しています。

その後、昭和33年(1958)に現在の模擬天守が建てられます。

現在、広島城跡内にある石垣のうち、広島城を築城した毛利輝元の時代の石垣がそのまま残っている部分は多くは発見されず、その後城主となった福島正則浅野氏の時代、あるいは近代以降に本丸に置かれた広島鎮台(第五師団)大本営などが修築して積み替えられたものが多いようですね。

そうした中で天守台の石垣は典型的な毛利期のの石垣といえます。

それでは毛利期の天守台の石垣にはどのような特徴があるのでしょうか―

1.天守台の石垣に用いられている石材には、所々に藤壺フジツボ牡蠣カキなどの貝殻が付着したものが見受けられます。これは、海岸沿いの岩場から石を運んできた証拠ですね。

実際、広島城築城工事が始まって間もない天正17 年(1589)8月の末頃、輝元は家臣たちに石垣用の石材の収集を命じています。

石材の多くが花崗岩かこうがん質を使用するため、広島湾沿岸部一帯でごく当たり前のように搬出でき、近辺でも黄金山(南区)・江波皿山(中区)・比治山(南区)などから運搬したようです。

2.天守台の石垣は、大小様々な石材をを少しだけ加工して積み、隙間部分に小さな石が詰め込まれています。これは、自然石をそのまま積む野面のづら積み」と呼ばれる積み方と積み石の大きさを大まかに揃えて、接合部分を加工すると共に、間に小さな石を詰めて隙間を減らした「打ち込みぎ」と呼ばれる積み方の中間的な手法といわれています。

広島城跡内に「打ち込み接ぎ」で築かれた石垣も見受けられるのですが、石垣に刻印が刻まれていたりするので、恐らくは福島期、浅野期以降に築かれたものとされています。

― ◇ ◇ ◇ ―

昭和20年(1945)8月6日の原爆投下による影響で倒壊した毛利期の広島城天守ですが、遅くとも天正20年(1592)には完成していた事が当時の武将の手紙に記されている事を判明しました。

その武将とは常陸水戸の領主・佐竹氏の家臣・平塚瀧俊で、豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄の役。壬辰倭乱)に出征するため、天正20年(1592)に京都から拠点となった肥前名護屋城(佐賀県唐津市)へ向かう途次で見聞した広島城の石垣や天守「見事なること申すに及ばず候」と書き記しているのです。

手紙は国許にいる者への書簡で、名護屋に到着した直後の4月22日に綴られており、毛利期の広島城天守は同年の4月上旬には完成または、それに近い状態だったと考えられるのです。

この段階で広島城が何処まで完工していたのかは依然不詳ですが、城と城下町の整備は、毛利氏が防長二州(周防・長門)に減封される慶長5年(1600)まで続けられたと考えられています。

ただ、江戸時代の記録に見られる以下に掲げる史料などを見ても天守が創建された年代を記す記録が残っていませんでした―

「曾毛利輝元是地利埋海以築城中架五重之楼 倭俗号天守」(『芸州志料』寛文元年=1663)
かつて毛利輝元がこの地の海を埋めて城を築き、五重の天守を築きました。

「文禄元年より同二年迄御城御普請石垣殿守ハ成就しけれども櫓ハいまた調ハす」(『広島独案内』享保年間頃=1716〜36)
文禄元年〜2年(1592〜93)に城を普請し、石垣・天守は完成しましたが、櫓は未完成でした。

「文禄元年より同二年に至り城普請殿守なれり」(『西備名区』文化元年=1804)
文禄元年〜2年(1592〜93)に城を普請し、天守が完成しました。

「文禄元年より御作事始、慶長四年まて普請作事成就なり」(『知新集』文政5年=1822)
文禄元年(1592)から作事を始め、慶長4年(1599)までに普請と作事が終わりました。

「慶長四年に落成す、又云城楼などは多く毛利氏の時に成けれど、郭の堵墻などは、福島氏の時に至りて、漸く備りたり」(『芸藩通志』文政8年=1825)
慶長4年(1599)に城が落成しました。天守や櫓等の多くは毛利氏時代に完成しましたが、曲輪の城壁等は福島氏の時にようやく整備されました。
建築学の分野では、天守は毛利期に創建されたとするのが共通認識ですが、文献史学から観た時、第一次史料の比較的多い毛利氏の古文書類ですら創建された時期どころか天守の存在を示すものが見受けられないそうです。

ましたや、江戸時代に編纂された古記録類などには、伝聞として天守の創建時期を示しているの過ぎません。

そうした状況のなか、平塚瀧俊という武将が天正20年(1592)5月にしたためた書状に、広島城天守閣に関する記述があったのです。

書状は肥前名護屋の陣中から国許の留守を預かる小野田備前守なる人物に宛てられたもので、日付は5月1日となっています。

内容は、(1)名護屋陣中での近況報告、(2)京都−名護屋間の道中における体験記・見聞記で構成されており、広島城に関する記述は(2)に含まれます。

「帰国した際の土産話としたいが、朝鮮半島への出陣が迫っていて、生きて帰れる保証もない」ので書状で伝える事にした」と前置きし、「三月十七日ニ京都を御立被成候、かヽるふしき(不思議)なる御世上に生合、能時分御供仕、爰元(肥前名護屋)迄見物申事、安(案)之外ニ御座候、路次ろじ中無何事、卯月廿二日ニ当国へ御着被成候」(『名護屋陣ヨリ書翰』『平塚瀧俊書状』)

平塚ら佐竹軍は3月17日に京都を出発、陸路山陽道を西へと進み、4月22日に名護屋に到着しています。広島到着の時期は記されていませんが、佐竹軍と同様に3月17日に京都を発った伊達政宗軍が4月9日に周防花岡(山口県下松市)に到着している事を考慮すると、4月上旬頃と考えられますね。

続いて、広島城に関する部分を見てみると―

@ひろ嶋と申所にも城御座候、森殿(毛利輝元)の御在城にて候、A是も五、三年の新地ニ候由申候得共、更にヽヽ見事成地ニて候、B城中のふしんなと(普請等)ハしゆらく(聚楽第)にもおとらさるよし(劣らざる由)申候、C石かき(垣)、天しゆ(守)なと見事成事不及申候、D町中ハいまた(未だ)はんと(半途)にて候(『名護屋陣ヨリ書翰』『平塚瀧俊書状』)
となっています。それぞれ整理してみると、

@広島という所にも城があります。毛利輝元殿の居城です。
Aここ数年で築かれた新たな城ですが、ことさらに見事な城です。
B城内の普請は聚楽第にも劣らないそうです。
C石垣や天守等も見事であることは言うまでもありません。
D城下町はまだ建設途中です。
となり、これらの事から天正20年(1592)4月上旬段階における広島城天守閣「見事であることは言うまでもありません」平塚が記すに値する状況であり、外観については完成していたか、それに近い状況だったと考えられます。

― ◇ ◇ ◇ ―

上記の平塚瀧俊広島城天守を見分した時期とほぼ同じ頃の天正20年4月11日には、名護屋下向の途中の豊臣秀吉広島城を来訪しています。当時、毛利輝元は既に壱岐に在陣しており留守でしたが、城の留守を預かる毛利氏家臣(安国寺恵瓊など)が秀吉の様子を文書で輝元に報告しており、そこには本丸内での行動が次のように記されています。

秀吉は外濠(堀)にかかる「東の橋」より入城し、「侍町其外」を見て、「地取り似たる」と褒め、さらに内濠(堀)内の一御門や御殿などを見分し、「城取(町割り)の様態」秀吉の予想以上であることに驚き、御殿へ御あかり、内外共に悉く御覧候て「御感斜めならず候」とベタ褒めしたというんですね。

すなわち、御殿へ上がって城の内と外を見渡して、大変気に入った様子で、「殊更広島普請作事様子被御覧候、見事ニ出来、輝元ニ似相たる模様、被感思召候」(『豊臣秀吉朱印状』、『毛利家文書』第875号)と「見事に出来上がっており、輝元にお似合いの様子であると賞賛した」と述べています。

また別の史料には、秀吉「御殿へ御あがり、内外共にことごとく御覧候て、御感ぎょかんななめならず候」(『安国寺恵瓊外二名連署起請文』、『毛利家文書』第1041号)と思った以上にすごかったので思わず仰天したというんですね。

問題なのは―

「御殿へ御あがり、内外共にことごとく御覧候」というのは、

秀吉が見た「内外」とは、城の内外なのか?

それならば、「御殿へ御あが」った先は、すなわち天守閣を指すことになるのでは?
という事で、天正20年(1592)4月には天守閣が完成していたとする説が成り立ちます。

しかし、「御殿」天守なのか?本丸御殿ではないのか?

という考え方もでき、それならば当時はまだ天守は未完成だったという説もある訳です。

― ◇ ◇ ◇ ―

それ故に、平塚瀧俊が見聞した記述は広島城天守について記された初出史料という事になり、改めて天守の完成時期の上限を絞り込む事が可能になったというんですね。

皆さんはどう感じますか?

天正20年(1592)4月11日に秀吉広島城天守に登ったのでしょうか?

それとも、天守の外観はほぼ完成していたか、それに近い状況だったのでしょうか?

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参考)『しろうや!広島城』第32号(平成24年)
※(参考)『しろうや!広島城』第19号(平成21年2月)
※(参考)『毛利輝元と二つの城〜広島築城と残された吉田郡山城』
※(参考)岩沢愿彦「肥前名護屋城図屏風について」『日本歴史』第260号
※(参考)今川朱美・小田雄司「城下町の形成と街道網の関係:広島を事例として」『 広島工業大学紀要研究』第44号
※(参考)『特別史跡名護屋城跡並びに陣跡』3『文禄・慶長の役城跡図集』(『佐賀県文化財調査報告書』第81集所収)


  

posted by 御堂 at 10:56 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

(トピックス)世界最古?15世紀のブラジャー、オーストリアで発見!

15世紀に作られたブラジャー

オーストリアのインスブルック大学は19日までに、オーストリア西部に広がるチロル(Tirol)州の古城から15世紀に作られたブラジャーが見つかったと発表しました。

同大学が東チロル(Osttirol)側にあるチロル州レングベルク(Lengberg)城で2008年(平成20)7月から始めた考古学調査で、城内の床板の下から長く放置されていた大量の布を発見。その中に現在のブラジャーの形態のようにストラップ(肩紐)や2つのカップが付いたブラジャーらしきものが複数が含まれていて、一部にはカップの下も覆うタイプもあったとかで、何れもレースなどで装飾されていたのだとか―

その後、同大学の考古学者がスイス・チューリッヒ(Zürich)にあるスイス連邦工科大学で放射性炭素年代測定法(炭素14法)によって繊維を測定し、作られた時期を特定した結果、生地はリネン(亜麻布)製で、1440年〜85年頃のものと判明。「これまでに発見された世界最古のブラジャーだ」と地元メディアに語ったそうです。

同大学の考古学者はブラジャーの考案時期について、中世の書物からは「胸用の袋」「袋付きシャツ」「胸用の帯」といった記述が散見されるものの、カップ付きのブラジャーはこれまで19世紀前には存在しなかった、と認識されていたと指摘し「15世紀に現代と同じようなブラジャーが存在した事は大きな驚きだ」と話しているという。

― ◇ ◇ ◇ ―

さて、ブラジャーの語源ですが、フランス語の「brassière(ブラシェール)」から来たものと云われています。

但し、この「brassière(ブラシェール)」を意訳すると、「女性のバストのための下着」ではなく、「女性や赤ちゃんが使っていた袖付きの胴着」を指すそうです。

しかも、「bras(ブラ)」の語意は「胸」ではなく、「腕」を指し、直訳した場合、「腕の防護具」となるんだとか…

その歴史を辿ってみると―

ブラジャーのようなものを身に着けた女性の姿は古代ギリシャ時代においては、ミノア文明期クレタ文明期ともいう、紀元前2000〜1500年頃)のクレタ島やスパルタクスで着用されていた「ゾナ」と呼ばれる一枚布の下着で胸部を覆う姿が知られています。

時代が下がって、古代ローマ時代になると、女性はバストを衣類で覆ってしまいます。

中華人民共和国内モンゴル自治区東南部に位置する赤峰(シーフォン:Chìfēng)市寧城(ニンチェン:Níngchéng)県で遊牧民族系で山東系漢族と旧渤海系遺民を融合した遼(契丹)の時代の人が眠る墳墓(王族か上級身分でしょうね!)から現代のブラジャーに似た女性用下着の一部が発掘、出土されました。下着は絹製で精巧な刺繍が施されており、現代のブラジャーのようにストラップ(肩紐)やベルトに相当する部分(背中の帯)が付いていたのです。しかし、これはカップに相当する部分がまだありません。

16世紀頃、宮廷の女性たちはコルセットでウエストを締め上げ、バストを持ち上げるようになります。

ブラジャー「胸部を覆い、乳房を保護し形を整えるための女性用の下着」と定義すると、19世紀後半になってようやく、現代のブラジャーの原型らしきものが出てきます。

世界最古の寄せて上げるブラジャー?

世界最古の“寄せて上げるブラジャー”がロンドンにある科学博物館で発見されます。鑑定された結果、1880年代の頃(→そうなると、ヴィクトリア朝でしょうね!)のものと考えられているそうです。

1889年、フランス人のエルミニー・カドル(Herminie Cadolle)という女性が最初のものを発明。

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1893年、イタリア人のマリィ・トチェック(Marie Tucek)という女性が「ブレストサポーター」という名前でブラジャーの特許を取得。

1907年にはファッション・ライフスタイル雑誌『VOGUE(ヴォーグ)』に初めて「Brassiere」という用語として登場し、認知されていきます。

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1913年、アメリカ人のメリー・フェルプス・ヤコブ(Mary Phelps-Jacobs)(グラマラス・カレス・クロスビー)によって発明されたものが、翌1914年に「Backless Brassiere」という名前でブラジャーの特許を取得。これが現在のブラジャーの原型として知られています。

― ◇ ◇ ◇ ―

日本におけるブラジャーの歴史はさらに浅く、大正末期から昭和初期の1920〜30年代、すなわち“モボ・モガ(モダンガール)”の時代に最先端ファッションとしての洋装が日本に輸入されてきます。

大正15年(1926)、「乳房バンド」という名称での広告が掲載されたのが初見でしょうか?

昭和4年(1929)には「乳房バンド」以外に「乳バンド」「乳房ホールダー」「胸美帯」「乳おさえ」などの名称で広告や通信販売欄に掲載され、薬局や小間物店、デパート等で売られていました。

日本においてブラジャーという名称が初見されるのは1930年代に入ってからの事です。

しかし、高価な輸入ブラジャーを着用できる女性はごく一部の階層で、一般の多くは自家裁縫によって類似した形態のものを作って着用するしかなかったのです。

その状況が変化をみせるのはやはり敗戦後で、昭和25年(1950)に和江商事株式会社(現在のワコール)によって、ブラジャーの生産が開始されます。

したがって、日本におけるブラジャーの歴史は、せいぜい60年ほどしか経っていない事になりますね。

― ◇ ◇ ◇ ―

レングベルク城

次に15世紀、それも1440年〜85年頃のものという点に注目します!

現在から約600年ほど前、時代背景としてはちょうどイタリア・ルネサンス(Renaissance)に影響を受けた北方ルネサンスの真っ只中ですね。

発見されたレングベルク城があるチロル地方は、中世期を通じて、銀、銅、そして岩塩が大量に採掘され、支配していたハプスブルク(Habsburg)家に因んで“ハプスブルク帝国の財布”と呼ばれるほど長い間ヨーロッパ経済の中心として重要な役割を果たしていた場所です。

細かく観れば、1438年にアルブレヒト(Albrecht)2世が、次いで1440年にフリードリヒ(Friedrich)3世がドイツ王になり、王位をほぼ世襲化する事となった時期に該当し、ハプスブルク家神聖ローマ帝国皇帝としてまだヨーロッパ世界を席巻する前、ドイツにて力を蓄えていた時期になりますね。

ところで、チロルという地名は、現在のイタリア共和国北部に位置するトレンティーノ=アルト・アディジェ/南ティロル(Trentino Alto Adige/Südtirol)特別自治州ボルツァーノ(Bolzano)自治県のメラーノ(Merano)の郊外にあるチロル村に起源を持っているそうです。

余談ですが、「チロル」と聞いて何を連想されますか?平成生まれも含めてこの質問をすれば、大抵の人は「チロルチョコチョコレート」を思い浮かべるのでは!

実際、「チロルチョコチョコレート」を製作・販売するにあたって、チョコレート会社の社長さんがこのチロル地方に訪れたそうで、イメージ戦略としても適用しているそうですよ。

また、少数派かもしれないのですが、昭和生まれ限定では「チロリアン」って聞いた事がありませんか?

「チロリアン」は洋菓子の老舗「千鳥屋」が製作したもので、こちらは正にチロル地方に古くから伝わっていたロールクッキーをアレンジして作ったものだそうです。TVのCMで「♪チローリアーン」ってフレーズで流れてましたね。あれって、昭和43年(1968)に実際にチロル高原にて撮影されたんですって…

― ◇ ◇ ◇ ―

さて、話を元に戻して―

その地を支配していたチロル伯は算出銀の力で付近の領地を次々と吸収し、さらにオーストリア西部に進出します。

こうして領土の広がったチロル伯領ですが、14世紀の中頃に直系男子が断絶し、血筋が途絶えてしまいます。

そして、唯一の相続者であるチロル女伯マルガレーテ(Margarete von Tirol)は1363年、その領地をハプスブルク家に譲渡します。

こうして、ハプスブルク家チロル地方の新しい領主となったのです。

1402年、チロル地方はオーストリア公フリードリヒ4世に相続され、1420年には首都機能がをメラーノからインスブルック(Innsbruck)に遷されます。

1463年、フリードリヒ4世の子・ジギスムント(Sigismund)チロル地方の領主の地位を相続します。

そうした時期にインスブルックの北東、チロル地方の谷の中にあるシュヴァーツ(Schwaz)で銀山が開発され、1477年にはハル・イン・チロル(Hall in Tirol)に銀貨の鋳造所を造ります。

ジギスムントはインスブルックの城塞を大幅に拡張し、現在のホーフブルク宮殿の基礎ができあがり、そうした彼の許に優れた芸術家たちが集まったのだとか―

その後、ジギスムントは失政と数々の素行不良がもとで、皇帝フリードリヒ3世により領主の地位を失います。

チロル地方の住民たちもフリードリヒ3世の提案を支持し、1490年、フリードリヒ3世の子で次期皇帝であるマクシミリアン(Maximilian)がチロル地方の領主となり、インスブルックはハプスブルク本家の領地となります。

さらに、神聖ローマ帝国皇帝となったマクシミリアン1世はインスブルックに移り住み、ここを神聖ローマ帝国の首都としたそうです。

まとめ

○従来、服飾史の観点からみて、現代のブラジャーの原型は、20世紀の初頭にコルセットが放棄された後に発明されたもので、19世紀より以前には存在しなかった、と云われてきましたが、今回の発見のように15世紀に現代と同じようなブラジャーが存在したという事は、20世紀のブラジャーは再改良だった可能性が強くなりますね。

○また、それが発見された場所であるチロル地方が“ハプスブルク帝国の財布”と呼ばれ、ヨーロッパ経済の中心として重要地だった事、そうした拠点が芸術や文化の中心として繁栄するのは“世の常”であり、当時のトレンドだったのかもしれないブラジャーの原型が発見されたのも必然性が大いにあったと思われます。


  

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“蛍合戦”―平家物語・宇治拾遺 橋合戦

日本では明治5年(1872)12月2日まで太陰太陽暦たいいんたいようれきを採用していました。

太陰太陽暦とは、通常の太陰暦を採用した場合、12か月を1年とした時に354日となって太陽暦の1年に比べて11日程短くなり、そのずれは3年経つと約1か月のずれとなってしまい、約3年に1回、余分な1か月(=閏月)を導入する事で実際の季節とのずれを補正した暦を言います。

暦が中国から導入された当初は、中国での使用と同じように正月〜3月が春、4月〜6月が夏、7月〜9月が秋、10月〜12月が冬としていたようですが、次第に日本風にアレンジがなされ、以下のように区切られます―

 春=立春(2月4日)〜
 1月 立春(2月4日)〜啓蟄(3月6日)
 2月 啓蟄(3月6日)〜清明(4月5日)
 3月 清明(4月5日)〜立夏(5月6日)

 夏=立夏(5月6日)〜
 4月 立夏(5月6日)〜芒種(6月6日)
 5月 芒種(6月6日)〜小暑(7月7日)
 6月 小暑(7月7日)〜立秋(8月7日)

 秋=立秋(8月7日)〜
 7月 立秋(8月7日)〜白露(9月8日)
 8月 白露(9月8日)〜寒露(10月8日)
 9月 寒露(10月8日)〜立冬(11月7日)

 冬=立冬(11月7日)〜
 10月 立冬(11月7日)〜大雪(12月7日)
 11月 大雪(12月7日)〜小寒(1月5日)
 12月 小寒(1月5日)〜立春(2月4日)

― ◇ ◇ ◇ ―

ところで、俳諧を詠む時の季語で初夏を表す語の1つに「蛍」がありますが、宇治に古くから伝わる民話の1つに「蛍合戦」という逸話が残されています。

実際、「蛍合戦」とは交尾のために多くの蛍が入り乱れて飛ぶ事を指すのですが、民話では少し趣が異なり、

昔、都で平家と源氏が争っていた時の事、宇治川で平家の赤旗、源氏の白旗が入り乱れた激しい合戦があり、結局平家が勝ちました。

勝った平家は、都で栄華を一人占めして次第に横暴になって、随分と悪行を重ねるようになってしまいました。

こんな平家一門は倒さなあかんと以仁王が諸国に散らばっていた源氏に呼び掛けたので、また平家と源氏のいくさが始まっちゃいます。

とりわけ宇治橋での戦いはすさまじいもので、源氏も平家も共に矢に射抜かれた者、刀で切られた人、深みにはまって馬ともども溺れ死んだ者など…武者たちのしかばねが累々と重なり合って、川の水も真っ赤に染まるほどだったそうです。

この合戦を『平家物語』から「橋合戦」と呼んでいます。

やがて、月日は流れ―

いつの頃か、夏間近の夕暮れ時になると、宇治川では蛍の姿が見られるようになりました。

水草の間から飛び立った二、三の蛍が川面に淡い光を映し出し、さらにおびただしい蛍たちが現れ、蛍火が縦横に交じり合い激しい光の渦になるといいます。

旧暦の5月26日は「橋合戦」で源頼政が平等院内の扇の芝において無念の最期を遂げた日ですが、その夜に現れる無数の蛍の姿は、まるで頼政や源氏の武者たちの亡魂が、あたかも平家に戦いを挑んでいるかのように、低空で乱舞している姿を「蛍合戦」と命名したのだとか―
そして、こうした逸話からゲンジボタル(源氏蛍)やヘイケボタル(平家蛍)と呼ばれるようになったのだそうですよ。

― ◇ ◇ ◇ ―

『都名所図会』より「宇治川の蛍狩り」

平等院から宇治川ラインを天ヶ瀬ダム方面に向かう大津南郷宇治線(府道3号線)の道路の途次、白川と宇治川の合流点付近に「蛍塚」と名付けられた石碑があります。

石碑は平成11年(1999)に建てられたもので、この付近は「蛍ヶ渕」と呼ばれ、「蛍合戦の由来」として、上記の「橋合戦」を掲げて刻まれたものです。

この白川が流れる宇治市白川地区は、平等院の南南東約1・5km、平等院から後鳥羽上皇藤原氏に建てさせた宇治離宮があったとされる院ノ御所山(槇尾まきのお山)を隔てた場所に位置し、白川と寺川という二河川によって開かれた南北に長い小盆地帯です。

この盆地帯は西側が急峻な丘陵地であるのに対し、東側は棚田や茶畑などの緩やかな河岸段丘が形成されており、江戸時代に著された山城国についての総合的な地誌である雍州ようしゅう府誌』(「雍州」とは、「都のある地」をさす)にも「山水幽邃の地にて誠に小桃源と謂うべし」と評しているほどです。

白川という地名の由来は、白川と宇治の境界に横たわる折居丘陵群(昔は折居国有林と言ってましたが…)がれき層が浸食してできた丘陵地帯で、随所に白い山肌を晒していましたが、そこから堆積する白砂を洗い清めるほど清流だった事から命名されたものだそうです。

童謡「ほたるこい」にも唄われているように、

 ♪ほう ほう
  ほたる こい
  あっちの水は にがいぞ
  こっちの水は あまいぞ
  ほう ほう
  ほたる こい♪
成虫になった蛍は、水しか飲みません。そして、ゲンジボタル(源氏蛍)は清流に、ヘイケボタル(平家蛍)は満々と張った田植えの後の田んぼに生息するのだとか―

白川の付近はまさに蛍の生息に適した場所だったんですね。

― ◇ ◇ ◇ ―

但し、この白川が「蛍狩り」の地として有名になったのは、江戸時代以降の話だそうで、江戸時代後期にまれた旅行ガイド本ともいうべき『都名所図会』に紹介されています。

ところが、江戸時代以前の「蛍狩り」の名所は別な場所にありました。それについては後日談…


     

posted by 御堂 at 03:15 | Comment(3) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

津波にも“残った!残った!”第9代横綱・秀ノ山雷五郎関像

宮城県気仙沼市、岩井崎にある秀ノ山雷五郎関の等身大の銅像、平成23年(2011)の東北地方太平洋沖地震による大津波に呑み込まれたものの流出する事はなかった

◇秀ノ山像は残った
昨年3月11日に起こった東北地方太平洋沖地震ですが、宮城県気仙沼市は地震発生当日、大津波が押し寄せ、大きな被害をもたらされます。

陸中海岸国立公園の最南端、岩井崎いわいさきは、太平洋の荒波に形造られた海岸がとても美しく、絶好の観光スポットとして有名です。

しかし、そんな岩井崎も周辺にあった一帯の施設や民家は屋根までもがあらかた津波に呑み込まれて大きく損壊してしまいます。

ところが、そんな岩井崎の海岸べりに建つ力士像だけは、周辺と同じ様に津波に呑み込まれたりしたにもかかわらず、、踏ん張り、立ち続けていました。

その力士像こそ、江戸時代に活躍した気仙沼出身の第9代横綱・秀ノ山ひでのやま雷五郎らいごろうの等身大の銅像なんですね。

秀の山雷五郎関像 秀の山雷五郎関像

昭和63年(1988)に秀ノ山雷五郎関の功績を顕彰しようと市民有志の手によって、太平洋を望む岩井崎の先端に建立されたそうですが、大津波でそばにあった秀ノ山雷五郎関を紹介する碑文などは流され、地面も陥没してしまいましたが、等身大の銅像や10トン以上あるという台座は残ってのだとか―

― ◇ ◇ ◇ ―

秀ノ山雷五郎関は、陸奥国本吉郡最知村(現、宮城県気仙沼市最知)出身の力士で、秀の山部屋に所属、初め出雲松江藩、後に陸奥盛岡藩かかえ力士として江戸時代に活躍し、第9代横綱となります。本名は菊田(のち橋本)辰五郎といいます。

文化5年(1808)に生まれ、次兄が草相撲の大関だった影響から力士を志したという。

仙台に居た3番目の兄を頼りに魚問屋に奉公、15歳の文政6年(1823)、江戸に出て相撲部屋の門を叩きます。

しかしながら、小柄であったためになかなか芽が出ず、一度は諦めて油問屋に奉公に出たのが文政5年(1822)の事。

下野国八木宿じゅく(現、栃木県足利市福居町八木)に在ったこの油問屋は、江戸にも商才を鳴り響かせていた高木源之丞の店で、源之丞は油を搾る辰五郎の怪力ぶりを見て、もう一度、相撲取りを目指せと勧め、江戸の秀の山伝次郎もとに送り出します。

再び江戸に出て秀ノ山傳治郎親方の門を叩いたのが文政10年(1827)の事。

翌11年(1828)3月、北山辰五郎四股名しこなで前相撲から取り始め、10月には序ノ口に顔を出します。

天保2年(1831)三段目の時、、出雲松江藩かか“雲州力士”)となり天津風と改名。

同3年(1832)閏11月には下の名も雲右衛門とします。

同8年(1837)正月、幕の内入り。しかし、松江藩の財政事情が悪くなったため、翌9年(1838)頃にお抱えを解かれます。

翌10年(1839)11月に小結、翌11年(1840)2月には関脇に昇進。陸奥盛岡藩お抱えとなり、立神と改名。

同12年(1841)閏正月、大関に昇進しますが、翌13年(1842)10月に関脇に陥落し、岩見潟丈右衛門と改名。

同15年(1844)10月再び大関となって3日目の土俵から亡き師匠の跡を襲って秀ノ山雷五郎を襲名します。

弘化4年(1847)9月、39歳の時に横綱に推挙されます。入門してから横綱の栄誉に浴するまで19年の歳月でした。

秀の山雷五郎関が描かれた浮世絵 秀の山雷五郎関の横綱土俵入り

秀の山雷五郎関は、五尺四寸(163・6cm)という歴代横綱の中では一番低い身長で体重も四十二貫(161・5s)という体格。

優勝相当成績6回。幕内通算27場所112勝21敗33分2預96休(免許後の江戸相撲での戦績はは24勝7敗10分1預48休)、その姿は多くの浮世絵に残されていいます。

引退後は、四股名のまま年寄となり、第12代横綱・陣幕久五郎ら多数の力士を育てました。

― ◇ ◇ ◇ ―

今年の2月に第45回NHK福祉大相撲が両国国技館(東京都墨田区横網)で開催されましたが、ちびっこ豆力士が大関の把瑠都関らに胸を借りる「ちびっこ力士関取に挑戦」ののコーナーで、秀ノ山雷五郎関の末裔という小学生が登場しました。

小学生の父方の祖母が秀ノ山雷五郎関の子孫にあたるのだそうです。わんぱく相撲の全国大会にも出場するなど、「将来は横綱になりたい」と角界入りを目指しているとの事。

― ◇ ◇ ◇ ―

第9代横綱・秀ノ山雷五郎関の銅像は震災後、“大津波に耐えて残った、残った”という感じで報道された事で、被災した人たちに復興への象徴として勇気や希望を与えています。

右手を挙げ、目の前の海に仁王立ちする姿は、第10代横綱・雲龍久吉関が行った雲龍型、第11代横綱・不知火しらぬい光右衛門関が行った不知火型、というそれぞれの土俵入り姿よりも泰然たいぜん自若じじゃくとしていて、まさに“東北魂、ここにあり”って感じですね。

posted by 御堂 at 05:42 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

カード決済で藩士の支出を管理―下総古河藩主・土井利里の藩政改革

江戸時代の中頃から幕末期にかけて、幕府勿論もちろん、各地の諸藩において、藩政改革が施され、成功した藩主は“賢君”、あるいは“名君”とたたえられ、教科書などにも太字の重要事項で名をとどめています。

その一方で、教科書に名が載っていない諸藩の藩主たちはただ何も手の施し様もなく、藩の実力を弱めていった―と思わせる様な感じですよね。

大学の専攻科時代の修士課程で課された近世史の研究テーマで私は二宮尊徳(金次郎)による相模小田原藩藩政改革を採り上げた事があります。

どの諸藩も、誰も手をこまねいていた訳ではなく、改革を実践したが、失敗、挫折していた有様を垣間見る事ができたのを憶えています。

ここに採り上げる下総古河藩主・土井利里藩政改革に取り組んだ1人であったんですよね。

― ◇ ◇ ◇ ―

宝暦12年(1762)、土井利里は肥前唐津から土井家の家祖である利勝が治めていた領地でもある下総古河こがに転封されます。

その当時、利里からすれば、幕府奏者番寺社奉行を務めていたので、古河へ復帰は出世コースへの“近道ルート”という軌道に乗っていたのです。

しかしながら、そうした立身への欲から実力者への“付け届け”はもちろん、古河への転封に要した費用なども含めると、財政難に拍車をかける事は必至でした。

しかも、肥沃な土地である唐津から痩せこけた古河への転封は、同じ表高7万石という数字であっても大きく異なり、古河の年貢徴収量は唐津の半分以下だったのです。

いわゆる、生産力の違いって奴ですね。

そこで、利里藩政改革を実施する旨を家中に命じます―

その内容は主に、明和3年(1766)から5か年計画の下、

  • 経費の節減

  • 人員整理

  • 家臣の俸給(俸禄米=扶持米)50%カット
など、徹底した倹約緊縮政策でした。

ところが、明和6年(1769)3月に家中の憤懣ふんまんが爆発し、改革は途絶してしまいます。

この年、利里京都所司代に就任。ついに老中まであと一歩のところまで昇ります。

しかし、この年の古河領内は空前の大旱魃かんばつに見舞われるなど、1万5000石にも及ぶ損害を出してしまいます。

利里幕府から1万5000両を借用するなど、家中への救済にてますが、家臣たちの窮乏はぬぐえず、或いは脱藩、或いは物乞いに身をやつして農村をうろつく始末…

安永3年(1774)10月、利里は再び藩政改革を断行します。

今度は期間を10年に限った上で、家中に大倹約を奨励し、藩士の豪農や商人への借財を全て藩が肩代わりしてやるのです。

この点では、天保年間に藩政改革に成功した薩摩藩長州藩と違い、まだ理性がある方だと思いますね。何せ、薩摩藩長州藩は借金を踏み倒してますから…(笑)

そうした家中の救済を目的として設立したのが御買物方おかいものかた制度」です。

「御買物方制度」とは、御買物方役所という藩営の施設を通じて、藩士に生活必需品を購入させるシステムで、藩士たちに通帳を作成し、配布します。

藩士たちは、購入希望の品々をそこに記入します。

決まった期日に、御買物方役所の役人が通帳を回収。

通帳に記入された品物を役所が一手に調達し、役所から家臣たちに配布する、というものでした。

現在の生活協同組合(生協)のシステムの先駆といってもいいでしょうね。

代金は、翌月に支給される俸給(俸禄米=扶持米)から差っ引かれる形となり、月賦返済(分割払い)も認められていたと云います。

この藩士たちに与えられた通帳が現在の資本主義経済でいえば、クレッジットカードみたいなものだった感じかな!

むしろ、私が感じて思ったのは、戦時中配給手帳に近かったのでは?という点です。

江戸時代の日本は社会主義(=統制経済)の下で運営されていました。それが明治維新によって西欧化と自由主義(=資本主義)への転換がなされますが、昭和の初め頃に行き詰りを見せ、やがて国家社会主義(=計画経済)に移行しますが、敗戦によってケインズ理論を基にし、資本主義の弊害是正を考慮に容れられた修正資本主義経済の下で私たちは暮らしています。

配給と聞くと、現在の北朝鮮を思い浮かべる人が多いかもしれませんが、物価の高騰などを抑制する場合に、生活必需品などを全体に行き渡らせる有償配給は決して間違った政策ではなと思うんですよね。

― ◇ ◇ ◇ ―

しかし、このシステムはわずか4か月で破綻してしまいます。

家臣の中には、自分の俸給(俸禄米=扶持米)を考慮せず、支払い能力を超える金額を購入する者が続出したからです。

利里が藩主だった時代に出された触書ふれがきを集録した諸御触記しょおふれきには、年末年始の御買物方役所の利用案内が記載(安永3年12月15日条)され、分不相応な買い物についての注意もうながされている。(安永4年2月15日条)にもかかわらず…

差し詰め、クレジットカードによるローン破産というところでしょうか―人間の欲深さが招いた失敗例だと思います。

結果として、またもや家中の反発から、利里の改革は頓挫とんざしてしまうのです。

その2年後、安永6年(1777)、利里は失意の中で亡くなります。

posted by 御堂 at 23:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

(トピックス)「亀井戸」跡復元、「治水公園」として整備

復元作業が進む亀井戸

◇江戸期の最先端「上水道」

香川県高松市の高松丸亀町商店街G街区の再開発に伴う発掘調査で見つかった江戸時代の貯水池「亀井戸」跡の移転復元作業が、旧四番丁小学校跡地(高松市番町)の北側部分において間もなく完了。全国でも早い時期に完成した「上水道」の姿を伝える遺構として、夏以降に一般公開される予定だとか―

― ◇ ◇ ◇ ―

高松市は古来、水質しく、かつ冬夏季の如き往々、涸渇こかつ(枯渇)を免れず…
高松市は気候区分でいえば、瀬戸内型気候区に属するために降水量は少なく日照時間は長いため、年間を通じて温暖な気候です。

但し、夏場に瀬戸内海沿岸特有のなぎや讃岐山脈越えのフェーン現象などの影響で、屡々しばしば猛暑日熱帯夜になる事があります。

降水量が少なく、雨が降ったとしても大きな河川がなく、市街地が直接海に面していて直ぐに海へと流れ出てしまうために水不足をもたらし、旱魃かんばつ害」に見舞われたり、台風が四国付近を通過した際には、場所によっては市街地でも高潮の被害が発生したりするのです。そのため、香川県内では取水制限の実施が毎年の様に起こり、珍しい事ではありません。

また、日照時間が長いために、日照りが続きので高松城下では井戸水に塩分が混じる傾向があるそうです。

それらの対応策としていにしえより施されてきたのが、農地に隣接した土地に大小様々なめ池を造る事だった訳です。

― ◇ ◇ ◇ ―

寛永19年(1642)、その領主としての手腕が不適格とみなされ、幕府より領地を収公された生駒氏に代わって讃岐高松城主となった松平頼重は正保元年(1644)、高松城下の用水を確保するために、大井戸・亀井戸・今井戸など水源7か所を選び出し、地中に配水管を埋めるという本格的な上水道敷設工事を起こします。

「亀井戸」跡とは、江戸時代から明治時代前半にかけて高松城下町の水源として使われていた井戸で、天保年間(1830〜44)頃に描かれた『高松新井戸水本並水掛惣絵図』によればその規模は南北約61・7m、東西約18mの貯水池。その名の由来は、亀井戸の名称の由来は湧き水の出る穴がかめの形をしていたので、甕井(亀井)霊泉と呼ばれた事にるそうです。

その構造は地面を掘って石垣で周りを固め、涌水や地下水を井戸にめておき、土管や木樋もくひ箱樋とい、竹樋などで造った配水管を地下約1・5mの深さに埋設し、そこから侍屋敷や町屋などの井戸まで水を導くのです。

主に現在の高松市内東北部に配水していたと云い、その後本格的な近代設備を擁した用水路が高松に導入されるまでの間、人々の生活用水としてなくてはならない存在だったと云います。

正保元年(1644)に造られた高松城下の上水道は、本格的なものとしてはわが国初めてのものと云われており、同じ本格的な江戸・玉川上水より9年も早かったそうです。

― ◇ ◇ ◇ ―

「亀井戸」跡の復元作業は、構造を分かり易く展示するため、水路や石垣を構成していた石材の一部を丸亀町から移設し、貯水池から町へ水を流すための石垣と取水口、導水管を繋げ、直径10mの土盛りにめ込む形で部分的に再現。部材は出土した石をそのまま使うそうです。

11日には作業が完了する予定で、校舎を改修して文化財を展示する埋蔵文化財センター(仮称)の完成を待って同時にお披露目する予定との事。

担当者は「高松の水道史を知る上で重要な遺構。水に苦労してきた先人たちの知恵を感じて欲しい」とおっしゃっています。

一方、丸亀町グリーンの建設地にあった亀井戸水神社(高松市鍛冶屋町)も、完成した建物西側に移徙わたましされました。

かつては“水神様のお祭り”といって盛大に催され、地域コミュニケーションの場だった亀井戸水神社の水神祭は毎年7月6日に開催されます。

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参照)2010年7月〜9月、G街区再開発エリア内にて亀井戸跡発掘調査が行われました。(高松丸亀町商店街G街区・イベント一覧)→

posted by 御堂 at 20:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

(トピックス)八甲田山の雪中行軍 新資料を発見

青森県・八甲田山で旧大日本帝国陸軍の八甲田山雪中行軍遭難事件が起きた明治35年(1902)、別ルートで雪中行軍に挑んだ弘前歩兵第三十一聯隊(38人)の中隊長による報告書や手記などの資料が12日、陸上自衛隊幹部候補生学校(福岡県久留米市)に寄贈されました。

中隊長の遺族が群馬県の生家で100年以上保管してきた遺品の一部で平成16年(2004)の日露開戦100年を機に寄贈を検討していたのだとか―

歩兵第三十一聯隊の報告書の内容などが公表されたのは初めて。

報告書や手記などを書き残したのは、歩兵第三十一聯隊を中隊長として率いた福島泰蔵大尉。

― ◇ ◇ ◇ ―

Hakkoda route march in the snow.jpg

八甲田山雪中行軍遭難事件とは、明治35年(1902)1月に大日本帝国陸軍第八師団青森歩兵第五聯隊が八甲田山で冬季に雪中行軍の訓練中に遭難した事件をいいます。

当時、大日本帝国陸軍は日清戦争(明治27年〜28年:1894〜95)に勝利するも、冬季期間中における寒冷地での戦闘に苦戦を強いられました。次に極東地域で衝突が避けられない状況にあったのがロシアの脅威であり、厳寒地での戦闘が想定されるであろう対ロシア対策として寒冷地での訓練が急務となっていました。

そこで、第八師団に指示が下り、ロシアとの戦争に備えた寒冷地における戦闘の予行演習として雪中行軍をする事となり、第八師団の中で、青森歩兵第五聯隊弘前第三十一聯隊が立案した計画を基に実演が決定しました。

青森歩兵第五聯隊は、陸奥湾沿いの列車がロシア軍の艦砲射撃によって破壊された際、冬季期間中に「青森〜田代〜三本木〜八戸」のルートで、ソリを用いての補給物資の輸送が可能かどうかを調査する事を主な目的とし、一方、弘前第三十一聯隊は青森歩兵第五聯隊とは別に、弘前から十和田を経て、八甲田山系を西進するルートで雪中行軍を行い、雪中行軍に関する服装や行軍方法などを研究する事を主眼に入れたものでした。

明治35年(1902)1月、青森歩兵第五聯隊弘前第三十一聯隊の両連隊による八甲田山における雪中行軍訓練が行われ、弘前第三十一聯隊は訓練参加者38名のうち、負傷した1人を除く37人が11泊12日の行程で約224kmを無事に青森に到着し雪中行軍に成功します。

しかし、演習当日の天候が北海道で史上最低気温が記録されるなど、例年の冬とは比べものにならない大寒波が到来していた事など、記録的な大吹雪に見舞われてしまい、青森歩兵第五聯隊が訓練参加者210名中死者199名という大惨事を起こしてしますのです。

この事件は新田次郎氏によって『八甲田山死の彷徨』として小説化され、さらにそれが原作となって映画「八甲田山」が公開されました。

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八甲田山雪中行軍中の行動を記した福島泰蔵大尉の手記

寄贈された資料は、雪中行軍に先立つ露営演習から雪中行軍の実施成果などまでを記した福島大尉直筆の報告書や行軍中の手記、行軍後にまとめた雪中戦闘マニュアル、論文、手紙など計241点。

報告書や手記などからは氷点下12℃での露営演習、岩木山の冬季夜間行軍、下見を兼ねた夏季250km行軍など、極寒での最悪の環境を想定して段階的な準備を積んで、八甲田山に挑んだ経緯を裏付けています。

また、「自然に負ける事はロシアに負ける事」との部下への訓示内容や、雪靴の足先部分を油紙で包んで唐辛子の粉末をまぶすと凍傷防止になる、などの防寒対策も記されているといいます。

報告書は軍に提出された後、福島家に返却され、福島大尉の弟の孫にあたる方が、他の資料と共に群馬県伊勢崎市の生家の蔵で保管されていました。

何れも日露戦を前に作成され、当時は遭難事件を受けた軍批判などを防ぐため「門外不出」とされていたそうです。

◇成功の陰に隠れて〜

弘前第三十一聯隊は八甲田山で弘前ルートで入山した38名を率いて雪中行軍を実施し、無事に青森に到着し、参加者全員が無事生還したという形で雪中行軍に成功しました。

その後、軍上層部の箝口令かんこうれいにより、現地で見た事や軍の不利益に繋がる兼ねない言動は全て封印されてしまいます。

なかでも、雪中行軍した兵士たちの道案内で駆り出された地元の一般人たちの悲劇は聞くに堪えません。

弘前歩兵第三十一聯隊が、八甲田山系の最難関を通過後、小峠付近で疲労困憊の案内人たちをその場に置き去りにして部隊だけで田茂木野に行軍して行ったそうです。

必然、道案内に駆り出された人たちは皆、重度あるいは後遺症の残る凍傷を負うなどの被害を受けてしまいます。

その上、遭難の被害を受けた兵士たちには国から十分の補償のあったにも拘わらず、彼らには小額の案内料(1人あたり2円)以外は渡されておらず、何らの補償も謝罪の気持ちさえも示されなかったといいます。

新田次郎氏『八甲田山死の彷徨』の中で、遭難に至った青森歩兵第五聯隊の雪中行軍を「人体実験」と表現していますが、道案内で駆り出された地元の一般人たちはまさにモルモットとしか見なされなかったのではないでしょうか!


  

posted by 御堂 at 06:42 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

(トピックス)戦国末期、能島村上水軍・村上元吉から毛利氏・重臣への書状

村上元吉が毛利氏の重臣・堅田元慶に送った折紙形式の書状 書状末尾の元吉の花押。官名の「村上掃部頭」と日付の「十月六日」の文字が見られる

中世戦国時代末期、瀬戸内沿岸で勢力をふるった海賊・村上水軍を率いて活躍した村上元吉が繋がりの深かった毛利氏の側近に重臣に宛てた書状が見つかりました。

今治市村上水軍博物館(愛媛県今治市宮窪町宮窪)がこの程発表したもので、当時の村上水軍毛利氏との密接な関係がうかがえる貴重な資料という。

書状毛利輝元の重臣・堅田かただ元慶に宛てたもので、大きさは縦31・8cm、横50・2cm。折紙おりがみ形式(=紙を真ん中から横長に二つ折りにして、折り目側を下にして右側から文字を綴っていき、それでも書き足りない場合は、折り目を下のまま裏返して続きを書く文書形式。紙を広げた際、天地が逆になっており、掛け軸などに仕立てられる場合、真ん中部分を裁断してぎ足す風になっている)

内容は、毛利輝元の嫡男・秀就の元服を祝う内容で、「素晴らしいこと。大樽2つと折二重ね」を献上した際の添状と思われ、「秀就様」「我等式迄目出度」(=我々もめでたく存じます)としたためられ、末尾に「十月六日」の日付と元吉の署名・花押がありました。

当時の書状には、日付は記されていても年号が書かれていないために年代の特定が難しい書状が多いが、秀就の元服が慶長4年(1599)9月、元吉関ヶ原の合戦に呼応して伊予国三津浜(現在の松山市古三津)の合戦で加藤嘉明の居城・伊予松前まさき(現、愛媛県伊予郡松前町)を攻撃し、嘉明の家臣・十成かずなりの夜襲に遭って戦死するのが翌5年(1600)9月であるため、慶長4年(1599)10月6日付の書状と特定できるようです。

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村上元吉石像

村上元吉は、瀬戸内沿岸域の芸予諸島を拠点に活動していた村上水軍(海賊衆で能島のしま村上家来島くるしま村上家因島いんのしま村上家の三家の連合帯)のうち、惣領的立場にあった能島村上家を率いる村上武吉の嫡男として生まれます。。

天正4年(1576)の第一次木津川口の合戦では村上水軍を率いて、織田信長の水軍を撃破します。

天正10年(1582)、家督を相続しますが、同16年(1588)に発令された海賊停止令により活動が制限され、苦境に陥ります。

慶長5年(1600)、関ヶ原の合戦の前哨戦として四国に遠征し、阿波国の蜂須賀氏領を攻略しますが、伊予国の加藤嘉明領を攻めた際、戦死してしまいます。

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村上水軍を研究されている山内譲・松山大学法学部教授が鑑定調査を指導され、元吉の花押、時代特有の筆跡や言葉遣い、人物の関係、紙の古さ―などから元吉が発信した書状の原本と断定。村上水軍と取り込もうと企図された村上氏宛ての書状は多いが、村上氏側、なかでも元吉が出した書状は確認されているもので10通に満たない事や、毛利家臣団の一員として親密な関係をよく伝える貴重な発見と評価されています。

村上氏まつわる資料約1300点を所蔵する同館は、今回の古文書発見に合わせて関連する古文書群と共に企画展「特別公開 新発見!村上元吉の手紙」を6月24日まで開催中!観覧無料(常設展示の見学は有料)。問い合わせは今治市村上水軍博物館へ。



   

posted by 御堂 at 21:09 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

(書斎の窓)益田出身、日本初の女性眼科医・右田アサの生涯が小説に!―『高津川 日本初の女性眼科医 右田アサ』

島根県益田市出身でわが国初の女性眼科医、右田アサの活躍を描いた『高津川 日本初の女性眼科医 右田アサ』という小説があります。

執筆されたのは、東京都内で眼科医をしている若倉雅登さん。

右田アサは明治4年(1871)年、寺井孫一郎の長女として島根県益田市に生まれます。5歳の時、代々続く地方の名家・右田隆庸の養女となりますが、右田家は没落しかけていました。アサは自分で家事を取り仕切って家運を回復しようとして医学を志し、明治20年(1887)に上京。長谷川泰によって設立されたわが国最古の私立医科大学で、西洋医学による医師養成学校の済生学舎(現、日本医科大学)に入学し、のちに日本女医会の初代会長になった前田園子女史や同県人で津和野町出身の女医・千坂竹子女史と一緒に学び合い、同26年(1893)に医術開業試験(前期・後期)に合格。同14年(1881)に井上達也によって民間の眼科専門病院として開業した井上眼科病院で3年間修業した後に医籍登録して眼科医となり、将来を嘱望され活躍しますが、ドイツ留学を目前にした同31年(1898)8月、肺病のため26歳の若さで亡くなります。

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地元の益田でも右田アサの事は余り知られていなかったのですが、右田アサを研究する方によって「女醫右田朝子之碑」と呼ばれる石碑が正岡子規が眠る大龍寺(東京都北区田端)で発見されたのです。

碑文をしたためたのは、陸軍省医務局長・石黒忠悳ただのり

研究者からの問い合わせで初めて郷土のアサの存在を知った益田市は、アサの子孫や東京益田会などの協賛の下でアサの足跡を辿り、「日本眼科女医第一号・右田アサ展」という展示会も平成14年(2002)に催しています。

― ◇ ◇ ◇ ―

アサは、自分が病気で回復の見込みがないと判った時に残した遺言の中で「自分の眼球を摘出して病院に保存し、眼科研究の資料としてして下さい」と国内初の眼球献体をした事でも知られています。

物語では、右田アサと共に現代の女性眼科医も登場させ、現在いまもなお潜在する女医蔑視、差別と闘う姿や眼科医療が抱える問題の数々をモチーフに、高津川で2人が時空を越えて出会うなど、2人の人生が重なり合う様に描かれています。

若倉さんは、アサが勤めた井上眼科病院の名誉院長。「アサは苦学して、誰も踏み入れた事のない分野に挑戦しました。それだけに夭折ようせつしたのが残念で、小説を書く事で彼女を生き返らせたかった」とおっしゃっています。

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※(参考)益田市総務部「日本の眼科第1号右田アサの碑発見」(『広報ますだ』2001年2月15日号)


 

posted by 御堂 at 05:30 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

(トピックス)白石城初代城主・片倉小十郎景綱の銅像が建立、除幕 右手に愛用の横笛を持ち、城下町を見詰める姿

建立された片倉小十郎景綱の銅像建立された片倉小十郎景綱の銅像

戦国時代伊達政宗を支え、幕藩体制期に白石しろいし城主を代々務めた初代城主・片倉小十郎景綱銅像が、片倉家歴代城主の菩提寺である傑山寺(宮城県白石市南町)境内に建立されました。

銅像は台座を含めた高さが約4m、小十郎景綱の部分の高さが約1・8mのブロンズ座像。

銅像は右手に愛用の横笛「潮風」を持った姿で、城下町の発展を見詰める格好に仕上げられています。

銅像は文化勲章を受章されている彫刻家の中村晋也さんが制作。

中村さんは「景綱は平和を好んだ人物だと考え、居丈高、好戦的にならないよう、鎧兜でなく平服姿にした。景綱は笛の名手として知られているので、笛を強調した」と話されています。

列席した片倉家第16代当主で青葉神社(宮城県仙台市青葉区)の宮司を務める片倉重信さんは「(景綱が)今も慕われているからこそ、銅像が造られたのでしょう。景綱が生きた時代には達成できなかった平和な世界を築く力になって欲しい」と話されています。

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建立された片倉小十郎景綱の銅像

小十郎景綱は、出羽国置賜郡長井庄(下長井村宮、現山形県長井市宮)に在った米沢八幡宮(※)の社家の出自で、異父姉であり、後に伊達政宗の乳母となる片倉喜多によって養育されます。

伊達輝宗政宗の父)に才能を見い出され、輝宗の徒小姓として出仕。

その後、遠藤基信の推挙によって、政宗の近侍となり、終生伊達家に仕えた重臣。

慶長7年(1602)、白石城を拝領。以後明治維新まで片倉家が歴代城主を務めた。

※ 米沢八幡宮
→候補が3つあるようですね!

 1 成島八幡宮(山形県米沢市広幡町成島)
 2 八幡宮片倉前社(山形県川西町上小松の塩ノ沢地区)
 3 安久津八幡宮(山形県東置賜郡高畠町大字安久津)

→なかでも、小十郎景綱の父が、川西町の小松・黒沢に領地を持っていた事、小十郎景綱を推挙した遠藤基信が小松城(川西町)を領していた事を考えて、照らし合わせると、(3)が一番有力のようですよ!


菩提寺である常英山傑山寺は臨済宗妙心寺派の寺院として同13年(1608)に小十郎景綱が建立。境内には小十郎景綱の墓標とされる「一本杉」が残されており、敵にあばかれないようにえて墓石を造らず、1本の杉を墓標にしたとされます。

杉の木は、小十郎景綱の生き様を感じるが如く、天に向かって真っ直ぐ堂々とそびえ立っているかのようです。

posted by 御堂 at 04:23 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム