祗園祭の季節といえば…

「池田屋騒動殉難者供養祭」

祗園会(祭)の真っ最中の京都。ぼちぼち山建ても鉾建ても終わり、32基が勢揃いし、17日の山鉾巡行を待ちわびます。

祗園会(祭)のこの時期に忘れてはならないのが池田屋騒動ですね。元治元年(1864)6月5日、尊王攘夷派の志士たちが祗園祭の宵山の最中、京都の市中に放火してその混乱の中で孝明天皇を御所から連れ出そう、という何とも無謀な密議を図っていた池田屋という旅籠に新選組の隊士らが乗り込んで死闘を繰り広げたの末、30数人の死傷者がでました。

その場所となった池田屋は現在は見る影もありません。今は「池田屋騒動之址」の石碑が残るのみです。昨年、NHK大河ドラマ「新選組!」に影響でか放映期間中だけ石碑の横に三条通商店街の方々が大型パネルで池田屋騒動の説明版が設置されていましたが、番組終了後には撤去されました。

今日たまたま、三条通界隈を歩いていたら、三条通商店街が作成された「池田屋騒動殉難者供養祭」のチラシがあったのでGETしちゃいました。


posted by 御堂 at 21:41 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

祗園祭どすえ!

ただいま7月!京都は祗園会(祭)の真っ最中です。

ぼちぼち山建て鉾建ても終わり、32基が勢揃いします。今日は宵々山ですね。

最近では、なんか知らんけど、宵々々山(14日)、宵々山(15日)、宵山(16日)と細かく分けて言うそうです。

昔の古文書や文献を紐解くと、全部一括して宵山といっていたようですが…何だか誰にでも分かるように噛み砕いて説明がなされているみたいで、僕としてはバカにされてるみたいで好きじゃありません。

さて、17日は山鉾巡行です。どの新聞も、どのニュースも“祗園祭のクライマックス”といっていますが、まだそれ以降、2週間も行事はあるんですよ。

17日は八坂(神社の)神さんが神輿に動座されて、洛中の町中にお出でになられます。(神幸祭)それで、宿泊所となる四条寺町の御旅所に1週間鎮座=お泊り、になられるんですよ。

その神輿が氏子さんたちの地域を巡るルートが山鉾巡行のルートなわけで、言ってみれば山や鉾は八坂の神さんが乗ってられる神輿の通り道を先頭に立って掃き浄める露払い的存在なんですよね。

17日から24日までの1週間、氏子地域の生活居住区に鎮座される八坂の神さんに普段は参れそうにない氏子の人たちはこぞって参拝します。僕も毎年、お札を頂いているので、期間中にお参りに行かなきゃ!

1週間滞在された御旅所から八坂神社にお還りになるのが24日です。(還幸祭

んで、この時にまた通り道を掃き浄める役割お務めるのが当日に催される花傘巡行です。

僕は数年前からこの花傘巡行を観て廻ってます。

昔の祗園会(祭)では、17日が先の祭り、24日が後の祭りと山鉾巡行が2度に分けて催されえいたのですが、私的な事情である、交通事情から17日の1日1度きりに変わりました。

そこで、後の祭りの風俗伝承も兼ねて、花傘巡行が始まったといいます。そしてこの花傘巡行はどちらかと言えば祗園町=鴨川以東、八坂神社石段下近隣の氏子さんたちの祭事でもあるんです。

それ故に、17日の山鉾巡行=先の祭りは“山鉾町の祗園祭”、24日の花笠巡行=後の祭りは“祗園町の祗園祭”と呼んでいるんですよ。

posted by 御堂 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

県(あがた)祭

今日からわが街・宇治ではあがたです。

一応知られているのは、「暗闇の奇祭」とかで、6月5日夜11日頃から6日の未明にかけて催される梵天渡御ですかね。でもこれは観光客にとっては見処の1つでしょうが、地元の人間にとっては観ても意味のないイベント事…

中学の時、中間試験の最終日があがた当日と重なってました。

んで、午前中で試験日程が終了し、午後は一斉休校となっちゃうんですが、下校前に体育館で全校集会があって、先生たちから色々な注意事項を承ります。(必要経費は2000円以内とか、友達同士で行った場合は夕方4時まで、親と一緒の場合は午後9時までに帰宅しなさいとか…)

中学の同級生には、親が新町通筋(宇治橋通)商店街に店を構えている友人も多くいたので、そういう処置がなされたものと思われます。

祭りが始まると、一の坂(宇治壱番の辺り)からは歩行者天国になるので、友人たちとの待ち合わせは宇治神社御旅所の付近になり、そこから時計回りに歩くのが暗黙のルール?なので、新町通筋をぶらりとしながらあがた通筋を抜け、本町通筋(県神社御旅線)へ入っていき、1周したところでお開きとなりますが、夜になって、今度は親と一緒に巡ったりします。

あがた江戸期に始まったとされ、神が乗るとされる梵天渡御が見どころとなっています。梵天渡御は午後11時頃、宇治神社御旅所を出発、真っ白な奉書紙を束ねて球状にかたどり太い青竹の先に挟み込んだ直径約2m程の梵天を載せた御輿と雌獅子・雄獅子の各御輿があがた神社までの約2qを練り歩きます。

しかし、今年も昨年と同様、梵天あがた神社側が用意するものと、県祭奉賛会側が用意するものの2基がお目見えする事になってしまいました。

対立するのは、あがた神社梵天御渡の担ぎ手である県祭奉賛会です。県祭奉賛会側は宇治神社御旅所から従来の本町通筋を通らず、都計=都市計画=道路(宇治橋若森線)をを経て宇治橋西詰の間を往復するルートをとります。つまり、あがた神社には立ち寄らないわけですね。これに対し、あがた神社側は境内手前の道路で梵天渡御を行います。

― ◇ ◇ ◇ ―

宇治の街並みは本町通筋とあがた通(大和大路)、新町通筋(宇治橋通)、都計道路の4つの道路で囲まれているのですが、本町通とあがた通は古来より京都から奈良へ抜けるメーン道路の大和大路で、新町通は南北朝期に河内人である楠木正成によって平等院や市街地が丸焼けにされた後に復興した街並みで、江戸期には久世郡宇治郷を支配した上林かんばやし代官屋敷などがあり、本町通に比べて新しく栄えたので、新町通と名がつきました。もう1つの道路は宇治では一番新しい道路で、都市計画整備によって生まれた道路なので、都計道路と呼び、JR宇治駅沿いを通ります。

実際、江戸期に始まったとされるあがたですが、当初は本町通筋とあがた通(大和大路)だけで催されていたそうです。

それに新町通筋(宇治橋通)が新しいルートとして加わったのが大正期の事。

神社側と奉賛会側の対立の構図として、神事ととらえる神社側と祭事ととらえる奉賛会側の思惑があるのでしょう。(奉賛会が行おうとしているルートはJR宇治駅があり、観光集客の玄関口と位置づけられ、宇治市の観光案内所もこちらに移転しちゃってますので…)

由緒正しきは神社側が主張するルートであるのは間違いのない史実!それなのに、道路ができて100年もにも満たない都計道路側をメーンにするなんて、全く観光客を当て込んだ祭事=商業主義にほかなりませんよね。

5〜6月にかけて、宇治地域では3つの神事が催されます。

明治以前、神仏習合宇治神社宇治上神社は1つの社として存在し、離宮社(離宮八幡宮)と呼ばれていて、前者を離宮下社(若宮)、後者を離宮上社(本宮)と呼んでいました。

平安期から室町期にかけて、その、離宮社(離宮八幡宮)摂関家主導で催されていたのが離宮祭というのですが、その名残で、まずは5月1日から5日までの期間、宇治上神社から氏子である宇治市槇島町一帯に神輿渡御が、同じく5月8日から6月8日までの1か月間は宇治神社から氏子である旧宇治郷(現在の宇治市宇治地域、※1)に神輿渡御が、そして、6月5日にここで採り上げるあがたが催される訳です。

※1 旧宇治郷
江戸時代の久世郡宇治郷の領域は現在の宇治市宇治地域、及び神明地区、羽拍子はびょうし町までが範囲で、その範囲内で10の番組(班)に分けられ、各組が当番制で祭事が催されていました。その後、一町一寺社(1つの町に1つのお寺・神社を配置する)といった政策が取られる事になり、神明地区は神明神社が当てられ、、羽拍子はびょうし町には羽拍子はびょうし神社が置かれる事になり、現在の宇治神社のお祭りは10番組(班)から1番組(班)が欠番扱いとなって、9番組(班)で催されています。


私の実家は旧宇治郷=現宇治市宇治地域なので、昔で言えば、宇治神社の氏子に当たります。

実家から通りを挟んで宇治市神明地区になるのですが、こちらは神明神社の氏子さんたちになります。

狂言の演目に「栗駒神明」というのがありますね。これは神明神社を舞台にしたものと云われています。

この神明神社の領域は古代では「栗駒くりこま山、栗駒くりこ山、栗前山」などと称され、天皇や貴族たちが遊猟に訪れたそうです。現在では宅地開発で面影さえなくなりましたが、昔は現在の鴻ノ巣山運動公園(城陽市寺田奥山)まで連なっていて、山道伝いに旧の奈良街道(古北陸道)長池宿の辺り(現、城陽市長池)まで繋がっていたそうです。

あがたあがたというのは、古代の尾張国以西を治めていた頃(大化改新以前)の大和王権の行政単位を指し、あがたを治めていたおさ(長官クラス)を県主あがたぬしと言います。

そのあがたが土地名として残ったのでしょうか、藤原道長平等院の前身である宇治院を別荘(別業)とした以前は、現在のあがた神社の辺りは「あがたの森」と称されていました。

また、『更級日記』の作者である藤原道綱母ふじわらのみちつなのははが初瀬詣(長谷寺参詣)に出かけた安和元年(968)には宇治院とは別に藤原師氏ふじわらのもろうじ道綱母みちつなのははの夫・藤原兼家の叔父)の別業「あがたの院」があったそうです。

道綱母みちつなのははが再度、初瀬詣(長谷寺参詣)に出かけた天禄2年(971)7月には「あがたの院」の所有者であった師氏もろうじは亡くなっており、荒廃してしまった様子が記されています。

その後、藤原道長から宇治別業を譲り受けた頼通宇治別業平等院と成す訳ですが、その際、荒廃していた「あがたの院」の地を平等院の鬼門にあたる事から、あがた神社としたのでは?と考えられます。

― ◇ ◇ ◇ ―

さて本題に戻って、奉賛会側は兵庫県や大阪府など、宇治の人間にとっては他所者よそものの人たちです。反対に、神社側は土着の宇治茶師を継ぐ老舗茶業者など地元の人たちで構成されています。

しかも、この分裂騒ぎでの光明というべきなのかどうか…神社側は担ぎ手に地元の有志を募集されています。

これって、地元の人間にとって嬉しい事じゃないでしょうか?

今までなら、地元の祭りなのに、ただ観てるだけの立場だったのが、「えっ、私たちも参加できるん?」って感じなんですよね。

やはり、あがたは、宇治びとの、宇治びとによる、宇治びとのための祭りなんだから…

どうして、担ぎ手である奉賛会が宇治以外の他所者よそものである兵庫県や大阪府の連中を取り込もうとするのか?―

これは歴史的な背景があって、その昔、宇治の地には菟道稚郎子うぢのわきいらつこといって応神天皇と宇治の木幡あたり(の国といっていた…)に勢力を持っていた大和(奈良県)の三輪王朝の氏族の娘との間の生まれた皇子がいました。応神天皇の支配地は河内地方で三輪王朝の豪族たちとは対立関係にありましたので、応神天皇は遺言で両勢力を融合した形になる菟道稚郎子うぢのわきいらつこを皇太子に指名しました。菟道稚郎子うぢのわきいらつこは現在の宇治神社を離宮(桐原離宮)としそこに住まいます。

菟道稚郎子うぢのわきいらつこ『播磨國風土記』の揖保郡の記載に拠れば「宇治天皇」と呼ばれていたそうです。

応神天皇には大鷦鷯尊おほさざきのみこと(のちの仁徳天皇)という、菟道稚郎子うぢのわきいらつこにとって異母兄にあたる皇子がおり、彼も内心、河内王朝を目指していました。

そこで、大鷦鷯尊おほさざきのみこと菟道稚郎子うぢのわきいらつこを暗殺し、自らが仁徳天皇として即位したのです。

ある言い伝えによれば、あがたでの宇治神社から神輿に乗っていく梵天菟道稚郎子うぢのわきいらつこの事で、離宮にいた菟道稚郎子うぢのわきいらつこが暗殺者によって連れ去られ―梵天は最後に粉々に引き千切られますが―この様子が菟道稚郎子うぢのわきいらつこが殺される様子なんだ、と云うものです。

その後、宇治は河内王朝の支配下になり、以後何度となく、河内出身の人間のよって蹂躙じゅうりんされ尽くします。(先述した南北朝期平等院の現在残っている建物以外、「戦の邪魔になるから」と全て焼き尽くした楠木正成しかり、応仁・文明の乱から山城国一揆の時期に我が物顔で領国を踏み荒らした畠山政長・義就しかり、戦国時代三好氏松永氏しかり…)その名残こそが奉賛会=他所者よそものの連中な訳です。

私の母―ちなみに母の実家は一時期、宇治妙楽に住んでいました―も、あがたの事を「あれは宇治の祭りじゃないから!」と言い切っています。

私も宇治びとの1人として、過去に何度となく蹂躙され尽くしたこの思い入れのある土地を毎度毎度他所者よそものに好いようには踏み荒らされたくはないと感じます。

宇治のイベント事は宇治の人間のみで行うべき!他所者よそものは断固排除してこそ本当の意味で❝宇治びとのとってのあがた❞が成り立つ!と信じます。

しかし、それでもなお他所者よそものによるあがたが続くようなら、いっその事、あがたというイベントをこの世から失くしてしまいましょう!!宇治には宇治神社から氏子である旧宇治郷(現在の宇治市宇治地域に神輿渡御される❝宇治まつり❞がちゃんと存在するのだから…

posted by 御堂 at 00:00 | Comment(6) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

新しいパーパ(教皇)はベネディクトゥス16世

コンクラーヴェによって選出されたベネディクトゥス16世

ローマ・カトリックの信者さんたちの新しいパーパ(教皇(※1))にベネディクトゥス16世(Benedictus XVI)(※2)コンクラーヴェ(Conclave)によって決まりました。

2005年、ローマ教会によるコンクラーヴェ

歴代のベネディクトゥスを称した教皇は主に保守・穏健派が多いようで、急激な改革や革新はなさそう。安定志向の表れかな?

何にせよ、先の教皇ヨハネ・パウロ2世の崩御のよって心の拠り所がポッカリと空いちゃった11億人の信者さんたちにとってもやっと心の落ち着き先が埋まって良かったですよね。


※1 ベネディクトゥス
新聞やラジオ・テレビなどの報道では皆「ベネディクト」と英語表記していますが、本来、ローマ教皇はラテン語表記でないとおかしいはず…なので、「ベネディクトゥス」と書き記しました。

※2 教皇
上記同様、日本では「ローマ法王」とか「ローマ法王庁」といった表記をしていますが、本来ならば「教皇」こそが名称に相応しいはず…実際、世界史では「教皇」と習います。世界基準が一般常識なのに、日本が勝手に改竄している訳ですね。これ、日本もキリスト教国だったら立派に“破門”扱いです(嘲笑!)。


 

posted by 御堂 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世崩御

ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が敗血症のため崩御されました。

ローマ・カトリックの信者さんたちは全世界で11億人とも言われていますが、この数日間とても気が気ではなかったことでしょう。

「教皇」という語はラテン語で「パーパ」というそうです。まさに11億人の信者さんたちにとってのパーパがこの世を召されたわけですからね。深い悲しみとともに言い知れない不安が募っていることでしょう。

この感覚―ごく一般な日本人では頭にピンとこないでしょうね。唯一似たような体感をした世代は昭和天皇を通じて昭和の時代を生きた人たちがそうかもしれません。終戦の詔勅をラジオ放送で聞いた世代、天皇の崩御を聞いた世代には共感できるものがあったかもしれません。

いずれにせよ、次期教皇が決まるまでの間、信者さんたちにとって心が安らげない日々が続くものと思います…

posted by 御堂 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

横浜事件再審開始!

横浜事件の再審開始が横浜地裁において決定したそうです。

横浜事件とは、第二次世界大戦中の昭和20年(1945)8月〜9月にかけて出版関係者たちが言論弾圧として治安維持法違反で検挙され有罪判決を受けた事件です。

問題となるのは、昭和20年(1945)8月〜9月に有罪判決を受けたという点。

再審請求をしている弁護団の根拠となっているのは、昭和20年(1945)8月14日のポツダム宣言受諾をもって治安維持法は失効したから、有罪判決を受けたのは不当だという主張。

僕の見解からいえば、この再審請求弁護団の主張は歴史学的に見てあきらかに間違い!

昭和20年(1945)8月14日のポツダム宣言受諾はあくまでも口約束であって法的には何の根拠もないはず。ましてや、大日本帝国がポツダム宣言の受諾を正式に書面上にて降伏したのは、9月2日。ポツダム宣言受諾に伴い緊急勅令が出されたのが9月20日。さらに10月4日にGHQ指導の下、治安維持法が廃止された、という動かしようのない史実はどう解釈するのか?

ただ、弁護団側がいうように検察側による「自白の強要」に争点を持たせるのなら、冤罪を晴らす―という意味では問題のないところだが…

ポツダム宣言受諾をもって治安維持法は失効」という根拠で、再審請求をした弁護団側、またその訴えを認めた横浜地裁の歴史認識には開いた口がふさがらない!

10月の緊急勅令による治安維持法廃止までは司法判断は有効なわけで、少なくとも、10月4日以後に有罪判決を受けた人たちには再審請求は認められるかもしれない。

冤罪に対する採決ならば納得はいくが、「ポツダム宣言受諾をもって治安維持法は失効」という解釈をどう扱うのか―最高裁判事の言動が気になります。

実証史学主義の僕の個人的意見としては、「ポツダム宣言受諾段階では、治安維持法は失効」していないのだから、横浜地裁の判決時点で原告側に再審請求は絶対させないでしょうね。

関連記事を読む
posted by 御堂 at 00:00 | Comment(2) | TrackBack(0) | 歴史:コラム