槇島(眞木嶋)氏ノート(その3)―槇島(眞木嶋)昭光(2)

わが街・宇治―

この地域は古代から中世にかけての時期、古畿内(山城・大和・河内)の分岐点であり、緩衝地帯というべき地域でした。

源平争乱の発端となった治承期(橋合戦)、源氏同士の主導権争いとなった寿永期(河合戦)、鎌倉幕府の軍勢による京都侵攻を許した承久期の三度にわたる宇治川の合戦や、南北朝期に南朝方の楠木正成による焼き討ち、応仁・文明の争乱を経て戦国の争乱へと展開されていくなか、畠山政長・義就による内訌、あるいは細川京兆家けいちょうけ内の内訌など、朝廷や武家の中心都市であった京都につながる道筋にあったのが宇治という街であった訳なんですね。

そうした状況の中で、上山城地方(山城国宇治郡・久世郡・綴喜郡・相楽郡、すなわち南山城地域を指す)の拠点として存在したのが眞木嶋まきのしま(槇島)城(館)であり、そこには宇治郡槇島地域を本貫地とする眞木嶋まきのしま(槇島)氏が勢力を張っていました。

元々、眞木嶋まきのしま(槇島)氏は、室町期の後半期には幕府の奉公衆など将軍家直臣団として名を連ねるなどの地位にあったようです。

そうした中世期から近世期への移行期に活躍したのが眞木嶋(槇島)昭光です。

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さて、昭光については上述のように、
  • 宇治郡槇島まきのしま地域を本貫地とする眞木嶋(槇島)氏である
  • 室町期の後半期には幕府の奉公衆など将軍家直臣団として名を連ねるなどの地位にあった

などの記述が多く見られますが、平安後期から連綿と続き「槇長者」「槇島惣官家」と呼称されていた眞木嶋(槇島)氏とは一線を画すものと考えます。

以下に掲げる史料は、室町将軍・足利義昭に祗候していた時期の昭光に関する事項です。

〔史料①〕
今日武家御参内…(中略)…三千計上洛云々…(中略)…御走衆左…(中略)…眞木島孫六(『言継卿記』永禄13年〔1570〕2月2日条)

史料①は足利義昭が禁裏へ参内した際、その御供として随行した幕府軍勢の中に御走衆おはしりしゅうとして「眞木島孫六」の名が見える事から、「真木島孫六」としての初見史料と言えます。

〔史料②〕
飛鳥井中将をどりの歌三色五首つヽ可作与之由被申被来、眞木島来十五六日に可躍用云々、はねおとり、恋のヽヽヽ、すきのヽヽヽ三色遣之(『言継卿記』元亀2年〔1571〕7月11日条)

史料②は7月15・16日の両日に催される風流踊の興行を任された「眞木島」のために飛鳥井雅敦まさあつが山科言継ときつぐに「をとりの歌」の作詞の依頼したもの。

〔史料③〕
晩頭…(中略)…今夜武家奉公眞木島興行踊、禁裏北御門拔通之外にて四踊有之 燈呂七十三有之云々、種々結構共不及筆舌也(『言継卿記』元亀2年〔1571〕7月17日条)

史料③は幕府奉公衆(「武家奉公眞木島」)主催で禁裏北門の路次で燈籠73個の随行する風流踊の興行が行われ、その見事さに見物人らが驚嘆したとあります。

「武家奉公」とあるので、昭光だと思われます。

〔史料④〕
(太秦)眞珠院斎に出京、又眞木島玄蕃ヽ所へ礼に被行云々(『言継卿記』元亀2年〔1571〕8月3日条)

史料④は「真木島玄蕃ヽ」とあるので、「玄蕃頭」としての初見史料です。

〔史料⑤〕
大外様続目之儀言上段、被聞食訖、証文分明上者、弥存其旨可抽忠勤、猶昭光可申候也、
    十月廿元亀二年日(花押)
      益田次郎とのへ
(『足利義昭御内書』〔『益田家文書』2-365号、『大日本古文書』家わけ文書22〕

〔史料⑥〕
                     眞木嶋玄蕃頭
      益田次郎殿              昭光

大外様続目之儀、被遂御案内候、証文分明上者、弥被存其旨、可被抽忠功之由、被成_御内書候、尤御面目之至珍重存候、此旨得其意可申入由、被仰出候、恐々謹言、
 元亀貮
  拾月廿日 昭光(花押)
    益田次郎殿
(『眞木嶋昭光副狀』〔『益田家文書』2-366号、『大日本古文書』家わけ文書22〕

史料⑤と史料⑥は足利義昭が石見の益田元祥宛に発給した御内書と、それに添えられた副状ですが、そこには「眞木嶋玄蕃頭 昭光」との署名があり、「昭光」としての初見史料です。

〔史料⑦〕
四日、壬戌、…(前略)…尾州佐久間、向之松田豊前守所借之、武家之大蔵卿局、奉公衆…(中略)…眞木島ヽヽヽ以下数多、…(中略)…音曲囃等有之(『言継卿記』元亀2年〔1571〕11月4日条)

史料⑦は「奉公衆…(中略)…真木島ヽヽヽ」とあります。史料②において「武家奉公眞木島」との表記が見られますが、奉公衆になっていたと断定しきれないので、この史料⑤が「奉公衆」としての初見史料と思われます。

〔史料⑧〕
十九日、丙子、…(中略)…八幡宮ヘ御代官槇嶋玄詣云〻(『兼見卿記』元亀3年〔1572〕正月19日条)

史料⑧は将軍・足利義昭が自分に代わって、昭光を石清水八幡宮寺に年頭の挨拶として代参したものです。

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(参考文献)
  • 源城政好「槇島昭光―流浪将軍義昭を支え続けた側近」(『宇治をめぐる人びと』宇治文庫6〔1995〕、のち『京都文化の伝播と地域社会』思文閣出版〔2006〕に「真木嶋昭光―流浪将軍義昭を支え続けた側近」として収録)

  • 木下昌規「真木嶋昭光の地位形成についての基礎的考察―天正元年以降の将軍足利義昭側近として―」(佐藤成順博士古稀記念論文集刊行会編『佐藤成順博士古稀記念論文集・東洋の歴史と文化』、山喜房仏書林、2004)

  • 木下昌規「鞆動座後の将軍足利義昭とその周辺をめぐって」(『戦国期足利将軍家の権力構造』、岩田書院、2014)第三部第三章

  • 高田泰史「信長・秀吉・家康に怖れられた槇島玄蕃頭昭光―最後の将軍足利義昭の忠臣―」(熊本歴史学研究会『史叢』第15号、2011)
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※(参考)禅定寺 熊本藩重臣各家の墓(熊本市中央区)(「ぶらり歴史旅一期一会」のブログサイトより)―
※(参考)禅定寺に祀られている加藤家、細川家の家臣団、その他(禅定寺のブログサイト「歴史遺産の紹介」細川家家臣より)

※(参照)槇島(眞木嶋)氏ノート(その2)―昭光以前の眞木嶋氏―
※(参照)槇島(眞木嶋)氏ノート(その1)―槇島(眞木嶋)昭光

「海にかける虹〜山本五十六と日本海軍」

私が高校3年生の頃に観たドラマ「海にかける虹〜山本五十六と日本海軍」がCSの日本映画専門チャンネルで再び視聴できます。

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「海にかける虹〜山本五十六と日本海軍」は、昭和58年(1983)1月2日にテレビ東京系列で放送された「12時間超ワイドドラマ」(のちの新春ワイド時代劇)の枠で放送されたテレビドラマです。

あらすじとしては―
海軍一筋に生きた山本五十六の生涯を約12時間の6部構成で描いた巨編。テレビ東京系列で1983年の正月番組として放送された。原作の阿川弘之や脚本に名を連ねる新藤兼人らの、多くの犠牲を伴う戦争への痛切な思いを、豪華俳優陣が真摯に体現。戦死を遂げた山本五十六の波乱の生涯を、彼の家族や友人、部下達とのふれあい、そして彼を愛し見守り続けた女性達との絆、歴史の奔流の中で消えていった名も無き人々の哀歓を交えながら描き出す。
といったもの。6部構成の各サブテーマは、

  •  第1部「日本海大海戦の激闘」
  •  第2部「宿命に揺れる初恋」
  •  第3部「決死の霞ヶ浦航空隊」
  •  第4部「日米開戦前夜」
  •  第5部「怒濤の連合艦隊」
  •  第6部「長官機撃墜の謎・戦艦大和の出撃」

  • となっていて、阿川弘之氏の『軍艦長門の生涯』、高橋孟『海軍めしたき物語』などを原作ベースに新藤兼人氏らの脚本で辛辣に当時の様子が描かれています。

    主な配役陣は、

    • 高野五十六(のち山本五十六)=古谷一行さん
      →第26代・第27代連合艦隊司令長官
    • 五十六の妻・礼子=檀ふみさん
    • 佐世保の芸奴・小太郎(鶴島正子)=池上季実子さん
      →五十六の初恋の女性
    • 新橋の芸者・梅龍(河合千代子)=樋口可南子さん
    • 空母「赤城」戦闘機隊長・波木の下宿屋の娘=杉田かおるさん
    • 古川敏子=岩井友見さん
      →料亭「新橋中村家」の女将
    • 五十六の実姉・高野嘉寿子(加壽):河内桃子さん
    • 五十六の従兵・後藤一作=岡本信人さん
    • 東郷平八郎=芦田伸介さん
    • 南雲忠一=金子信雄さん
    • 草鹿任一=平田昭彦さん
    • 草鹿龍之介=中井啓輔さん
    • 大西瀧治郎=藤巻潤さん
    • 古賀峯一=木村四郎さん
    • 堀悌吉=新克利さん
    • 米内光政=渡辺文雄さん
    • 井上成美=仲谷昇さん
    • 反町栄一=山田吾一さん
    • 伏見宮博恭ひろやす王=穂積隆信さん
      →海軍軍令部長→軍令部総長で「伏見軍令部総長宮」と呼ばれた。
    • 近衛文麿=高橋昌也さん

    放送予定は、9月23日、第1部から第6部までの一挙放送になっています。

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    すごく懐かしいです。今まで録画する機会を逸していたので、今回は全編滞りなく録画しようと思っています。

    特に印象に残っているのは、山本五十六の戦死シーンでしょうね。

    昭和18年(1943)4月18日、ブーゲンビル島やショートランド島の前線航空基地の将兵の労をねぎらうため、ラバウル島からブーゲンビル島のブイン基地を経て、ショートランド島の近くにあるバラレ島基地に赴く予定を立てていたのを、アメリカ軍に暗号傍受され、待ち構えていたアメリカ戦闘機にブーゲンビル島上空で襲撃・撃墜されて戦死するのですが、このシーンが(当時としては)割と詳しく描かれていて強烈なイメージを今も思い浮かべています。

    とにかく、36年ぶりに視聴できる「海にかける虹〜山本五十六と日本海軍」というドラマ、しっかり目に焼き付けないと!

    (トピックス)平安京の範囲が確定!「羅城」と「九条大路」を初確認 「延喜式」に合致

    平安京で初めて出土した羅城の土壇跡。九条大路の側溝や路面も初めて見つかった

    京都市埋蔵文化財研究所は、元京都市立洛陽工業高等学校の校舎(唐橋校舎)跡地(同市南区)で行われた平安京(城)跡の発掘調査で、平安京(城)の最南端に当たる九条大路と、平安京(城)と京郊外の境目を隔てていた築地塀ついじべい羅城らじょうの一部の遺構が確認されたと発表しました。

    今回遺構が確認された場所は平安京(城)の玄関口であった羅城門跡から西へ約630mの場所にあり、平安京(城)の右京九条二坊四町にあたります。

    発掘されたのは、東西方向に延び、砂利を敷き詰めて舗装した路面跡と、その南北の側溝跡、さらに南側の側溝の外側に砂利と土を締め固めた土壇跡、何れも平安京(城)が造営された9世紀から10世紀頃の遺構で、路面は九条大路、土壇は「羅城」を築いた基底部分とみられます。

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    平安京右京九条二坊四・五町跡発掘調査現場

    桓武天皇が延暦13年(794)に遷都した平安京(城)の規模は、根本法令である律令を補完するため10世紀頃にまとめられた法令集『延喜式』に造営当初の施工計画が記されており、それによると南北1753丈(1丈=3m、約5・3㎞)、東西1508丈(約4・5㎞)で、京域内の南北中心線上にメーンストリートとして朱雀大路が通り、その南端を東西に通る九条大路との接点に玄関口として「羅城門」が建っていました。

    九条大路の遺構は路面跡などに残る土器などから9~10世紀のものとみられ、北側の側溝跡、路面跡、南側の側溝跡、側溝と築地塀の間の狭い平地「犬行いぬゆき」(犬走いぬばしり)跡がそれぞれ確認されました。

    南北両側の側溝跡は幅が約1・2m、「犬行」(犬走)跡が約1・5mである事が確認され、北側の側溝跡から南側の側溝跡までの幅は約30メートルで、これが路面の幅とみられます。

    『延喜式』には「南きわ大路十二丈。羅城外二丈垣基半三尺,犬行七尺。【溝廣一丈。】路廣十丈」(『延喜式』卷第42 左右京職 東西市司、京程)とあり、

     「溝廣」(溝の広さ)は「一丈」なので3m、
     「犬行」「七尺」なので2・1m、
     「垣基半」「羅城」を築いた基礎部分)は「三尺」で0・9m、
     「路廣」(路面の広さ)は「十丈」なので約30m、

    合わせると、12丈=36mとなり、『延喜式』で定められた「大路十二丈」と一致することが確認されました。

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    一方で、「羅城」の基底部分にあたる土壇跡は南北方向に幅約3m、東西方向に約4m延び、高さが約15㎝で砂利や小石、土を交互に締め固めた跡が確認されました。

    「羅城」とは、都城制を敷いていた古代中国の首都・洛陽や長安において外敵から守るため周囲に築かれた城壁を指し、中国では高い城壁を巡らせて囲っていました。

    日本において、平城京(城)では南辺のほぼ全体にあった事が発掘調査などで確認済みですが、平安京(城)「羅城」については見つかっていませんでした。

    通説では、京域内を荘厳に見せるためにその玄関口にあたる「羅城門」と周囲、すなわち国家鎮護の官寺・西寺まで設けられていた、としていて、『延喜式』にも「羅城」の規格は南限の九条大路にしか付記されていません。

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    発掘を担った同研究所によると、平安京(城)の四辺の境界にあたる道路のうち北、東、西では遺構が確認されていたが今回の南側の発掘で、平安京(城)の南限が考古学的に確定し、『延喜式』に記載された平安京(城)の広さが考古学的に裏付けられたとしています。

    また、今回の成果について、西山良平・京都大学名誉教授は「平安京が実際にどの程度まで造営されたかは古代史上の争点だったが、南端までかなり丁寧に高い精度で造られていた事がはっきりとわかった。今後の平安京研究の基準となる大きな成果だ」と話されています。

    (トピックス)「じめさあ」(持明様)にあやかれ 願いをこめて“お化粧直し”

    化粧直しされる石像

    ◇亀寿

    鹿児島市城山町、歴史と文化の道と呼ばれる歴史施設が点在する地域の鹿児島市立美術館の敷地内の一角に造られた築山の中、ちょうど西郷隆盛の銅像の真後ろにあたるところに、「じめさあ」(持明院様)と呼ばれる石像がひっそりと佇んでいます。

    石像のモデルである「じめさあ」とは戦国期から江戸初期にかけて南九州に勢力をはった島津家第16代・島津義久の娘(三女)で、第18代当主・島津忠恒(島津義弘の三男、のち家久)の妻となった亀寿(かめじゅ/かめひさ)姫と云われていて、 彼女の法名持明彭摠菴主じみょうほううえんあんしゅ興国寺殿」から「持明院様」と呼ばれ、それが薩摩訛りで「じめさあ」と広まったようです。

    亀寿(かめじゅ/かめひさ)姫は島津家の次期後継者と見込まれた島津久保(島津義弘の次男)と結婚し、結婚後は「かミさま」「御上おかみ様」「御つぼね」と尊称されます。

    これは亀寿(かめじゅ/かめひさ)姫の地位が「中納言様(=家久)御廉中ごれんじゅう様にて、御本家御相続遊ばされ候」(『末川家文書』口上覚留)とあるように島津家の惣領として家督相続や財産相続などの権利を有していた「ご当主様」としての意味合いを持った尊称と思われ、叔父であり、舅でもある義弘からもこの尊称で呼ばれていたようです。

    しかし、久保が朝鮮出兵後の文禄2年に朝鮮・巨済島コジェドで病死したため、久保の弟・忠恒と再婚します。

    亀寿(かめじゅ/かめひさ)姫は最初の夫・久保とは仲睦まじかったのですが、次の夫・忠恒とは非常な不仲で次第に疎んじられていきます。

    慶長16年(1611)に父・義久が死去するや、後ろ盾を失った亀寿(かめじゅ/かめひさ)姫は正室の座を追われて本城である鶴丸城(鹿児島城)から父・義久の隠居城だった舞鶴城(国分城、鹿児島県霧島市国分)に別居させられ、(これ以降は「国分様」「国分御上様」などと呼ばれるようになります)寛永7年(1630)10月5日、この城で生涯を終えます。

    亀寿(かめじゅ/かめひさ)姫は、器量に優れなかったが、その心優しい人柄で人々に慕われていたとの伝承が残っていますが、史実的には島津家の歴代夫人の中でも別格の扱いであったらしく、島津家の女性としては珍しく肖像画が残っていたそうです。

    ◇「じめさあ」

    さて、「じめさあ」の石像があるこの場所は明治25年(1892)から昭和12年(1937)までの間、鹿児島市役所があったそうです。

    昭和4年(1929)、当時の樺山かばやま可也かなり市長の頃にこの石像が発見されるのですが、発見された一帯がかつ鶴丸城の一部だった事から、石像は亀寿(かめじゅ/かめひさ)姫、すなわち「持明院様」と考えられ、「じめさあ」と称するようになり、 化粧直しの風習が始まったのはそれ以降のようですが、いつの頃から始まったのかは定かではないようです。

    現在では亀寿(かめじゅ/かめひさ)姫の命日にあたる10月5日に鹿児島市役所の女性職員 市の広報課職員が化粧を施すのが恒例となっています。

    ◇「白地蔵」

    実は、この石像ですが、元々は嘗て島津家の祈願所だった大乗院の境内にあったであろう「白地蔵」と呼ばれる石像ではないかと云います。

    その所在は幕末・維新期の廃仏毀釈のあおりで大乗院が廃寺になって以降、行方不明となっていました。

    また、この「白地蔵」には 願い事を叶えるために白粉が塗られていた風習があったようですね。

    江戸後期、講釈師である伊東凌舎りょうしゃという人物が鹿児島を旅した際に書いた『鹿児島ぶり』という紀行文の中で、凌舎が大乗院を訪れて時に「白地蔵」を見学した様子を「白地蔵と云う石像あり。めづらしき像なり。土俗心願あれば、地蔵のおもてに白粉おしろいをぬるなりと云う」と記しています。

    さらに、凌舎はその「白地蔵」の絵も描いているのですが、その姿はまさに「じめさあ」の石像に酷似しており、その絵には「女子のよく参詣するなり」との説明も付しているそうです。

    この「白地蔵」「じめさあ」、すなわち亀寿(かめじゅ/かめひさ)姫と関連付けられた理由として、亀寿(かめじゅ/かめひさ)姫が大乗院に深く帰依していた事も関係しているではないか、と考えられています。

    ◇願い事を叶えてくれるパワースポット

    鹿児島市吉野町に在る鶴嶺つるがね神社では、御祭神の1人として亀寿(かめじゅ/かめひさ)姫が祀られています。

    昔、島津家の祈願所であった大乗院にあった「白地蔵」は、何時いつしか「じめさあ」の名で親しまれるようになり、鶴嶺つるがね神社にお参りし、神社で分けてもらった紅でお化粧を施せば美しい女性になれる、という信仰が知られるようになり、最近では「じめさあ」の石像と共に亀寿(かめじゅ/かめひさ)姫を祀った鶴嶺つるがね神社と共に、理想の女性像に近づきたいという思いを持つ女性が多く参拝に訪れているそうですよ。

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    ※(参考)桐野作人執筆「再考 島津義久3女・亀寿の地位」(『さつま人国誌』292、『南日本新聞』平成25年〔2013〕9月16日掲載分)
    ※(参考)桐野作人執筆「再考・ジメサアの由来」(『さつま人国誌』211、『南日本新聞』平成23年〔2011〕10月17日掲載分)

    温泉マーク発祥地は安中・磯部温泉 江戸初期、幕府公文書に描写

    温泉マーク発祥の地

    道後、草津、別府、etc…全国でも名だたる有名温泉地は年間1000万人以上の観光客で賑わっています。

    その中でも、群馬県といえば自他共に認める“温泉王国”ですよね―

    そうした温泉地を訪れる客を出迎えてくれるのが、温泉マークですよね。

    地図記号や絵文字でお馴染みの温泉マークですが、実は群馬県安中あんなか市の磯部温泉が発祥の地ではないか、と云われています。

    同市の南西部に位置し、天明3年(1783)の浅間山大噴火の影響でさらに湧き出す量が増したと云われる磯部温泉界隈を訪れると、そこかしこに「温泉マーク発祥の地」と書かれた案内看板が立ち並んでいます。

    何故、磯部温泉に発祥の由来があるのか―

    江戸時代の万治4年(1661)3月25日、上野こうづけ碓氷うすい郡の各村々の百姓たちが草刈り場の入会権をめぐって争った際、江戸の評定所がその収拾をつけるために下した裁定である評決文「上野国碓氷郡上磯部村と中野谷村就野論裁断之覚」群馬県立歴史博物館所蔵)には、いさかいを収めた後の境界線が明示されていました。

    その覚書おぼえがきに添付されていた絵図(裁許絵図)上で磯部温泉と記された箇所に温泉を表すための記号、すなわち温泉マークらしき記号が2か所描かれていたのです。

    昭和56年(1981)、『磯部温泉史』の編集委員がその記号の存在に気付き、専門家に鑑定を依頼したところ、記号は磯部温泉を示し、その形は温泉が流れる泉から湯気が上がっている様子を具象化されている、とされ、温泉マークとしては日本最古のものではないか、と判断したそうです。

    日本温泉協会によると、温泉マークは明治時代に、当時の内務省の地理調査などで使用され、泉質によって様々な形があったが、「最も分かりやすい形」として、明治後期頃、現在の形になったと云います。

    JR磯部駅近くの磯部公園内にある赤城神社には「日本最古の温泉記号」と書かれた石碑が建ち、同じく駅前近くに設置されている足湯の傍らには「上野国碓氷郡磯部村と中野谷村就野論裁断之覚」の裁許絵図に描かれていた温泉マークがデザインされた石碑と共に発祥の由来の説明をした案内板が設置されています。

    ◇温泉マーク なぜ変える?

    ところが、この温泉マークのデザインを見直そうという動きがあるようです。

    外国人にとっては、この温泉マークを見てもそれとは判らないと反応する人たちが多いのだとか―

    昔に比べて、多くの外国人が日本各地を訪れる事が増えたから、それに対応していこうとの考えでしょうが、「日本ではこうなんだよ!」って日本が発信して世界に根付かせるって考え方があってもいいんじゃないかな?