「蝮(まむし)」散る!…それでも「樅(もみ)ノ木」は残っている―平幹二朗氏逝く!!

俳優の平幹二朗氏が亡くなられました。享年82歳。

平幹二朗氏と言えば、

  • 「三匹の侍」第1シリーズ(昭和38年10月〜39年4月)桔梗鋭之介役

  • 「三匹の侍」第2シリーズ(昭和39年10月〜40年4月)桔梗鋭之介役

  • 「三匹の侍」第3シリーズ(昭和40年10月〜41年4月)桔梗鋭之介役

  • 「三匹の侍」第4シリーズ(昭和41年10月〜42年3月)桔梗鋭之介役

  • 「三匹の侍」第5シリーズ(昭和42年10月〜43年3月)桔梗鋭之介役

  • 「三匹の侍」第6シリーズ(昭和43年10月〜44年3月)桔梗鋭之介役

  • NHK大河ドラマ「樅ノ木は残った」(昭和45年1月〜12月)原田甲斐宗輔役

  • NHK大河ドラマ「国盗り物語」(昭和48年1月〜12月)斎藤道三入道利政役

  • 「幡随院長兵衛お待ちなせえ」(のち「幡随院長兵衛」に改題)(昭和494月〜10月)幡随院長兵衛役

  • 「新選組始末記」(昭和52年4月〜9月)近藤勇役

  • 「不毛地帯」(昭和54年4月〜10月)壱岐正役

  • 「天皇の料理番」(昭和55年10月〜56年3月)在仏日本大使館・安達参事官役

  • 「蒼き狼 成吉思汗の生涯」(昭和55年10月)テムジン〔後の成吉思汗(ジンギスカン)〕の父・エスガイ役

  • NHK大河ドラマ「武田信玄」(昭和63年1月〜12月)武田信虎役

  • NHK大河ドラマ「信長 KING OF ZIPANGU」(平成4年1月〜12月)加納随天役

  • NHK大河ドラマ「北条時宗」(平成13年1月〜12月)極楽寺流北条重時役

  • NHK大河ドラマ「義経」(平成17年1月〜12月)後白河院役

  • NHK大河ドラマ「篤姫」(平成20年1月〜12月)調所笑左衛門広郷役

など数々の作品に出演されておられます。

私自身、個人的に印象深かったのは、

  • NHK大河ドラマ「樅ノ木は残った」の原田甲斐宗輔役

  • NHK大河ドラマ「国盗り物語」の斎藤道三入道利政役

  • MBS「幡随院長兵衛お待ちなせえ」(のち「幡随院長兵衛」に改題)の幡随院長兵衛役

  • MBS「新選組始末記」の近藤勇役

  • NHK大河ドラマ「信長 KING OF ZIPANGU」の加納随天役

かな!

原田甲斐と斎藤道三は再放送(しかも総集編)で観ただけなのですが、インパクトは強烈でした。

幡随院長兵衛も再放送で観たのですが、義に厚い長兵衛の役どころがハマってた気がします。

近藤勇については、この「新選組始末記」自体が初めてリアルタイムで観た時代劇ドラマである点、私に近藤勇のイメージを最初に植え付けたキャラクターだったので、今でも強烈な印象が残っています。

最後の加納随天ですが、最初登場したときは妙にミスマッチかな?という印象でしたが、後半になるにつれてその存在感が増してきて、最終回の本能寺での信長切腹に際しての弁慶の立ち往生ばりの死に様がいまだに強烈なインパクトを残しています。

― ◇ ◇ ◇ ―


これまで数々の作品で私たちを魅了させてくれた平幹二朗氏のご冥福をお祈り申し上げます。


 

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(トピックス)「じめさあ」(持明様)にあやかれ 願いをこめて“お化粧直し”

化粧直しされる石像

◇亀寿

鹿児島市城山町、歴史と文化の道と呼ばれる歴史施設が点在する地域の鹿児島市立美術館の敷地内の一角に造られた築山の中、ちょうど西郷隆盛の銅像の真後ろにあたるところに、「じめさあ」(持明院様)と呼ばれる石像がひっそりと佇んでいます。

石像のモデルである「じめさあ」とは戦国期から江戸初期にかけて南九州に勢力をはった島津家第16代・島津義久の娘(三女)で、第18代当主・島津忠恒島津義弘の三男、のち家久)の妻となった亀寿(かめじゅ/かめひさ)姫と云われていて、 彼女の法名持明彭ハ菴主じみょうほううえんあんしゅ興国寺殿」から「持明院様」と呼ばれ、それが薩摩訛りで「じめさあ」と広まったようです。

亀寿(かめじゅ/かめひさ)姫島津家の次期後継者と見込まれた島津久保島津義弘の次男)と結婚し、結婚後は「かミさま」「御上おかみ様」「御つぼね」と尊称されます。

これは亀寿(かめじゅ/かめひさ)姫の地位が「中納言様(=家久)御廉中ごれんじゅう様にて、御本家御相続遊ばされ候」(『末川家文書』口上覚留)とあるように島津家惣領として家督相続や財産相続などの権利を有していた「ご当主様」としての意味合いを持った尊称と思われ、叔父であり、舅でもある義弘からもこの尊称で呼ばれていたようです。

しかし、久保朝鮮出兵後の文禄2年に朝鮮・巨済島コジェドで病死したため、久保の弟・忠恒と再婚します。

亀寿(かめじゅ/かめひさ)姫は最初の夫・久保とは仲睦まじかったのですが、次の夫・忠恒とは非常な不仲で次第に疎んじられていきます。

慶長16年(1611)に父・義久が死去するや、後ろ盾を失った亀寿(かめじゅ/かめひさ)姫は正室の座を追われて本城である鶴丸城(鹿児島城)から父・義久の隠居城だった舞鶴城国分城、鹿児島県霧島市国分)に別居させられ、(これ以降は「国分様」「国分御上様」などと呼ばれるようになります)寛永7年(1630)10月5日、この城で生涯を終えます。

亀寿(かめじゅ/かめひさ)姫は、器量に優れなかったが、その心優しい人柄で人々に慕われていたとの伝承が残っていますが、史実的には島津家の歴代夫人の中でも別格の扱いであったらしく、島津家の女性としては珍しく肖像画が残っていたそうです。

◇「じめさあ」

さて、「じめさあ」石像があるこの場所は明治25年(1892)から昭和12年(1937)までの間、鹿児島市役所があったそうです。

昭和4年(1929)、当時の樺山かばやま可也かなり市長の頃にこの石像が発見されるのですが、発見された一帯がかつ鶴丸城の一部だった事から、石像亀寿(かめじゅ/かめひさ)姫、すなわち「持明院様」と考えられ、「じめさあ」と称するようになり、化粧直しの風習が始まったのはそれ以降のようですが、いつの頃から始まったのかは定かではないようです。

現在では亀寿(かめじゅ/かめひさ)姫の命日にあたる10月5日に鹿児島市役所の女性職員 市の広報課職員が化粧を施すのが恒例となっています。

◇「白地蔵」

実は、この石像ですが、元々は嘗て島津家の祈願所だった大乗院の境内にあったであろう「白地蔵」と呼ばれる石像ではないかと云います。

その所在は幕末・維新期廃仏毀釈あおりで大乗院が廃寺になって以降、行方不明となっていました。

また、この「白地蔵」には 願い事を叶えるために白粉が塗られていた風習があったようですね。

江戸後期、講釈師である伊東凌舎りょうしゃという人物が鹿児島を旅した際に書いた『鹿児島ぶり』という紀行文の中で、凌舎大乗院を訪れて時に「白地蔵」を見学した様子を「白地蔵と云う石像あり。めづらしき像なり。土俗心願あれば、地蔵のおもてに白粉おしろいをぬるなりと云う」と記しています。

さらに、凌舎はその「白地蔵」の絵も描いているのですが、その姿はまさに「じめさあ」石像に酷似しており、その絵には「女子のよく参詣するなり」との説明も付しているそうです。

この「白地蔵」「じめさあ」、すなわち亀寿(かめじゅ/かめひさ)姫と関連付けられた理由として、亀寿(かめじゅ/かめひさ)姫大乗院に深く帰依していた事も関係しているではないか、と考えられています。

◇願い事を叶えてくれるパワースポット

鹿児島市吉野町に在る鶴嶺つるがね神社では、御祭神の1人として亀寿(かめじゅ/かめひさ)姫が祀られています。

昔、島津家の祈願所であった大乗院にあった「白地蔵」は、何時いつしか「じめさあ」の名で親しまれるようになり、鶴嶺つるがね神社にお参りし、神社で分けてもらった紅でお化粧を施せば美しい女性になれる、という信仰が知られるようになり、最近では「じめさあ」石像と共に亀寿(かめじゅ/かめひさ)姫を祀った鶴嶺つるがね神社と共に、理想の女性像に近づきたいという思いを持つ女性が多く参拝に訪れているそうですよ。

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参考)桐野作人執筆「再考 島津義久3女・亀寿の地位」(『さつま人国誌』292、『南日本新聞』平成25年〔2013〕9月16日掲載分)→
※(参考)桐野作人執筆「再考・ジメサアの由来」(『さつま人国誌』211、『南日本新聞』平成23年〔2011〕10月17日掲載分)→


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温泉マーク発祥地は安中・磯部温泉 江戸初期、幕府公文書に描写

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道後、草津、別府、etc…全国でも名だたる有名温泉地は年間1000万人以上の観光客で賑わっています。

その中でも、群馬県といえば自他共に認める“温泉王国”ですよね―

そうした温泉地を訪れる客を出迎えてくれるのが、“温泉マーク”ですよね。

地図記号や絵文字でお馴染みの“温泉マーク”ですが、実は群馬県安中あんなか市の磯部温泉が発祥の地ではないか、と云われています。

同市の南西部に位置し、天明3年(1783)の浅間山大噴火の影響でさらに湧き出す量が増したと云われる磯部温泉界隈を訪れると、そこかしこに「温泉マーク発祥の地」と書かれた案内看板が立ち並んでいます。

何故、磯部温泉に発祥の由来があるのか―

江戸時代の万治4年(1661)3月25日、上野こうづけ碓氷うすい郡の各村々の百姓たちが草刈り場の入会権をめぐって争った際、江戸の評定所がその収拾をつけるために下した裁定である評決文「上野国碓氷郡上磯部村と中野谷村就野論裁断之覚」群馬県立歴史博物館所蔵)には、いさかいを収めた後の境界線が明示されていました。

その覚書おぼえがきに添付されていた絵図(裁許絵図)上で磯部温泉と記された箇所に温泉を表すための記号、すなわち“温泉マーク”らしき記号が2か所描かれていたのです。

昭和56年(1981)、『磯部温泉史』の編集委員がその記号の存在に気付き、専門家に鑑定を依頼したところ、記号は磯部温泉を示し、その形は温泉が流れる泉から湯気が上がっている様子を具象化されている、とされ、“温泉マーク”としては日本最古のものではないか、と判断したそうです。

日本温泉協会によると、“温泉マーク”明治時代に、当時の内務省の地理調査などで使用され、泉質によって様々な形があったが、「最も分かりやすい形」として、明治後期頃、現在の形になったと云います。

JR磯部駅近くの磯部公園内にある赤城神社には「日本最古の温泉記号」と書かれた石碑が建ち、同じく駅前近くに設置されている足湯の傍らには「上野国碓氷郡磯部村と中野谷村就野論裁断之覚」の裁許絵図に描かれていた“温泉マーク”がデザインされた石碑と共に発祥の由来の説明をした案内板が設置されています。

◇温泉マーク なぜ変える?

ところが、この“温泉マーク”のデザインを見直そうという動きがあるようです。

外国人にとっては、この“温泉マーク”を見てもそれとは判らないと反応する人たちが多いのだとか―

昔に比べて、多くの外国人が日本各地を訪れる事が増えたから、それに対応していこうとの考えでしょうが、「日本ではこうなんだよ!」って日本が発信して世界に根付かせるって考え方があってもいいんじゃないかな?

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(トピックス)奈良の都にペルシア人の役人がいた!―「破斯」木簡に記載

平城宮跡で出土した木簡、ペルシア人を示す文字が確認された
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◇国際的知識で登用か

奈良市佐紀町の平城宮跡で出土した8世紀中頃の木簡に、古代ペルシアを意味する破斯はし(Bōsī)」という名字を持つ役人の名前が書かれていた事が奈良文化財研究所の調査で判りました。

同研究所によると、木簡は昭和41年(1966)8月に、平城宮跡・東南隅の築地塀の「雨落ち溝」で出土されたもので、長さ268o、幅32o。発掘当時は文字が薄く肉眼では一部が判読できずにいたが、今年8月に赤外線撮影をしたところ、文字を判読できたようです。

記載された内容は「大学寮解 申宿直官人事 員外大属破斯清通 天平神護元年」となっており、「天平神護元年(765)」当時の人事を扱う式部省の管轄下にあった役人養成機関である「大学寮」での宿直勤務に関する記録と判明しました。

大属だいさかんとは役職名を示し、「かみ/すけ/じょう/さかん」のうちの四等事務官に当たります。

「員外」は定員の枠外で任じられ事を示すので、恐らくは特別枠で任命されたのだと考えられますね。

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注目すべきは、「破斯清通」と記載された人名です。

破斯はしという名字は、イランの旧称で6世紀頃から唐代まで繁栄したササン朝ペルシアが勃興した、現在のイラン高原南西部に位置したパールサ(Pârsâ)地方(現在のファールス地方:Fārs)から転じたペルシア(Persia)を意味する波斯はしと同音である事から、木簡に記された人物はペルシア人ではないかと判断したようです。

◇平城京 多様な民族往来

国内での出土品でペルシア人を示す木簡が見つかるのは初見であるため、外国人が来日した平城京の国際性を示す史料となりそうです。

『続日本紀』には天平8年(736)8月に第10次遣唐使の副使であった中臣なかとみの名代なしろが帰朝した際、日本に連れ帰ってきた「唐人三人、波斯一人」を率いて、聖武天皇に拝謁したとの記載(『続日本紀』天平8年8月23日条…史料1)や、同年11月に法華寺での法要で唐楽を演奏した唐人・皇甫こうほ東朝とうちょうらと共に、波斯はし密翳みつえいに位階を授けたとの記載(『続日本紀』天平8年11月3日条…史料2)がみえます。(但し、密翳は以後の動向は不明)

史料1
○八月庚午。入唐副使従五位上中臣朝臣名代等。率唐人三人、波斯人一人拝朝。(『続日本紀』天平8年8月庚午条)
史料2
○十一月戊寅。天皇臨朝。詔、授入唐副使従五位上中臣朝臣名代従四位下。故判官正六位上田口朝臣養年富。紀朝臣馬主並贈従五位下。准判官従七位下大伴宿禰首名。唐人皇甫東朝。波斯人李密翳等、授位有差。(『続日本紀』天平8年11月戊寅条)

第12次遣唐使の副使の大伴おおともの古麻呂こまろ「大唐天宝十二載」、日本では天平勝宝5年(753)正月、各国の使節団が唐の玄宗皇帝臨御の朝賀に出席した際、東西2列に並んだ東側の第1席は「新羅」(統一新羅)、第2席は「大食」(アッバース朝イスラム)。西側は第1席は「吐蕃」(チベット)、第2席が「日本」でした。(『続日本紀』天平勝宝6年正月30日条…史料3)

史料3
○丙寅。副使大伴宿禰古麻呂、自唐国至。古麻呂奏曰。大唐天宝十二載。歳在癸巳正月朔癸卯。百官・諸蕃朝賀。天子於蓬莱宮含元殿受朝。是日。以我、次西畔第二吐蕃下。以新羅使、次東畔第一大食国上。(天平勝宝6年正月丙寅条)

天平8年(736)の時点では波斯はしと呼称していたペルシアですが、天平勝宝5年(753)の段階では「大食」となっているのです。

実際、ササン朝ペルシア期のの文献史料では波斯はしという語が使われていた事から、波斯はしは「ササン朝ペルシア期のペルシア人」と解釈され、641年(舒明天皇13)にササン朝イスラム勢力の侵攻によって滅亡し、ペルシア地域がイスラム勢力の支配下に治められて以降は「大食」〔タージ(Tāzī)、あるいはタヂーク(Tāzīk)〕と表記される事が多いのです。(『旧唐書』『新編東洋史辞典』)

この事から、イスラム勢力の侵攻によってペルシア地域を追われた人たちが東方へと移動しての長安まで亡命し、その中の数人が来日したのではないかとも考えられますね。

― ◇ ◇ ◇ ―

調査した奈良文化財研究所は「正倉院シルクロードを経てもたらされた西域の宝物が数多く残るように、当時の奈良の都が中国や朝鮮だけでなく、インドやヴェトナム、そしてペルシアなど西方の肌の色が違う様々な国の人々が分け隔てなく役人に登用する国際色豊かな都市だった事が分かる貴重な資料」としています。

― ◇ ◇ ◇ ―

この木簡は同研究所平城宮跡資料館(奈良市佐紀町)で開かれる秋期特別展「地下の正倉院展 式部省木簡の世界―役人の勤務評価と昇進―」(10月15日〜11月27日)の会期中、第2期目の11月1日〜13日の間展示公開される予定。

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(トピックス)「茶法は武家流に!」秀忠が指示?―織部の史料に記載あり!!

古田織部に関する新たな記述が見つかった『本家系譜 古田氏』  武家流の茶法について記述されている部分

◇通説は「秀吉」

千利休の高弟で茶人として「利休七哲」(『江岑夏書』)の一人として知られ、その作意や趣向から「ヘウゲモノ」(『宗湛日記』)と称えられた古田織部正おりべのかみ重然の親族が伝える史料徳川秀忠織部に武家流の茶の作法を定めるよう命じた記述がある事が分かりました。

― ◇ ◇ ◇ ―

史料織部の娘が嫁いだ豊後岡藩中川家古田家が伝える『本家系譜 古田氏』と題された江戸時代後期に豊後古田家の歴史をまとめたもので、竹田市立歴史資料館に寄贈されています。

それによると、織部はのちに秀忠の茶の湯師範となる訳ですが、秀忠江戸幕府第2代将軍に就任する直前の慶長10年(1605)年4月5日、京の織部宅を訪れた秀忠から「利休の伝える茶法は武門の礼儀にかなわないので、その旨を考えて茶法を改めて定めるように命じられ、織部は新たに武家流の茶法を定め、諸大名にその茶法を伝えた」と記載されています。

従来の通説では、利休の没後、利休に代表される町衆茶道に代わり格式を重んじる武家流に改めるように豊臣秀吉織部に命じた、とされていました。

研究者は「秀忠が将軍となるにあたり、茶道を重要視し、武家の茶道確立する事で文化的に諸大名を従えようとしたのでは」と話されています。

― ◇ ◇ ◇ ―

この史料は、古田織部美術館(京都市北区)で催されている「古田織部の実像―『古田家譜』(豊後古田家伝来)初公開―」展で、織部にまつわる書状や資料、茶道具など約50点と共に公開されています。同展は来年1月15日まで(年末年始は休館)。問い合わせは同美術館まで。


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槇島(眞木嶋)氏ノート(その1)―槇島(眞木嶋)昭光(2)

わが街・宇治―

この地域は古代から中世にかけての時期、古畿内(山城・大和・河内)の分岐点であり、緩衝地帯というべき地域でした。

源平争乱の発端となった治承期(橋合戦)、源氏同士の主導権争いとなった寿永期(河合戦)、鎌倉幕府の軍勢による京都侵攻を許した承久期の三度にわたる宇治川の合戦や、南北朝期南朝方楠木正成による焼き討ち、応仁・文明の争乱を経て戦国の争乱へと展開されていくなか、畠山政長義就による内訌、将又細川京兆家内の内訌など、朝廷や武家の中心都市であった京都につながる道筋にあったのが宇治という街であった訳なんですね。

そうした状況の中で、上山城地方(山城国宇治郡・久世郡・綴喜郡・相楽郡、すなわち南山城地域を指す)の拠点として存在したのが槇島まきのしま城(館)であり、そこには宇治郡槇島地域を本貫地とする眞木嶋(槇島)氏が勢力を張っていました。

元々、眞木嶋(槇島)氏は、室町期の後半期には幕府の奉公衆など将軍家直臣団として名を連ねるなどの地位にあったようです。

そうした中世期から近世期への移行期に活躍したのが眞木嶋(槇島)昭光です。

― ◇ ◇ ◇ ―

さて、昭光については上述のように、

  • 宇治郡槇島まきのしま地域を本貫地とする眞木嶋(槇島)氏である

  • 室町期の後半期には幕府の奉公衆など将軍家直臣団として名を連ねるなどの地位にあった
  • などの記述が多く見られますが、平安後期から連綿と続き「槇長者」「槇島惣官家」と呼称されていた眞木嶋(槇島)氏とは一線を画すものと考えます。

    さて、以下に掲げる史料は、室町将軍足利義昭に祗候していた時期の昭光に関する事項です。

    今日武家御参内…(中略)…三千計上洛云々…(中略)…御走衆左…(中略)…眞木島孫六(『言継卿記』永禄13年〔1570〕2月2日条)史料@
    史料@は足利義昭が禁裏へ参内した際、その御供として随行した幕府軍勢の中に「御走衆」として「眞木島孫六」の名が見える事から、「真木島孫六」としての初見史料と言えます。

    飛鳥井中将をどりの歌三色五首つヽ可作与之由被申被来、眞木島来十五六日に可躍用云々、はねおとり、恋のヽヽヽ、すきのヽヽヽ三色遣之(『言継卿記』元亀2年〔1571〕7月11日条)史料A

    晩頭…(中略)…今夜武家奉公眞木島興行踊、禁裏北御門拔通之外にて四踊有之 燈呂七十三有之云々、種々結構共不及筆舌也(『言継卿記』元亀2年〔1571〕7月17日条)史料B
    史料Aは7月15・16日の両日に催される風流踊の興行を任された「眞木島」のために飛鳥井雅敦山科言継に「をとりの歌」の作詞の依頼したもの。

    史料Bは幕府奉公衆「武家奉公眞木島」)主催で禁裏北門の路次で燈籠73個の随行する風流踊の興行が行われ、その見事さに見物人らが驚嘆したとあります。

    「武家奉公」とあるので、昭光だと思われます。

    (太秦)眞珠院斎に出京、又眞木島玄蕃ヽ所へ礼に被行云々(『言継卿記』元亀2年〔1571〕8月3日条)史料C
    史料Cは「真木島玄蕃ヽ」とあるので、「玄蕃頭」としての初見史料です。

    四日、壬戌、…(前略)…尾州佐久間、向之松田豊前守所借之、武家之大蔵卿局、奉公衆…(中略)…眞木島ヽヽヽ以下数多、…(中略)…音曲囃等有之(『言継卿記』元亀2年〔1571〕11月4日条史料D
    史料Dは「奉公衆…(中略)…真木島ヽヽヽ」とあります。史料Aにおいて「武家奉公眞木島」との表記が見られますが、奉公衆になっていたと断定しきれないので、この史料Dが「奉公衆」としての初見史料と思われます。

    十九日、丙子、…(前略)…八幡宮ヘ御代官槇嶋玄番(蕃)允(頭)〔昭光〕詣云〻(『兼見卿記』元亀3年〔1572〕正月19日条)史料E
    史料Eは将軍足利義昭が自分に代わって、昭光石清水八幡宮寺に年頭の挨拶として代参したものです。

    ― ◇ ◇ ◇ ―

    (参考文献)
    ・源城政好「槇島昭光―流浪将軍義昭を支え続けた側近」(『宇治をめぐる人びと』宇治文庫6〔1995〕、のち『京都文化の伝播と地域社会』思文閣出版〔2006〕に「真木嶋昭光―流浪将軍義昭を支え続けた側近」として収録
    ・木下昌規「真木嶋昭光の地位形成についての基礎的考察―天正元年以降の将軍足利義昭側近として―」(佐藤成順博士古稀記念論文集刊行会編『佐藤成順博士古稀記念論文集・東洋の歴史と文化』、山喜房仏書林、2004)
    ・木下昌規「鞆動座後の将軍足利義昭とその周辺をめぐって」(『戦国期足利将軍家の権力構造』、岩田書院、2014)第三部第三章
    ・高田泰史「信長・秀吉・家康に怖れられた槇島玄蕃頭昭光―最後の将軍足利義昭の忠臣―」(熊本歴史学研究会『史叢』第15号、2011)

    ― ◇ ◇ ◇ ―

    ※(関連)山城国宇治郡と久世郡の境界線―中世期の平等院は宇治郡だった!―→

    ※(参照)槇島(眞木嶋)氏ノート(その2)―昭光以前の眞木嶋氏―→

    ※(参照)槇島(眞木嶋)氏ノート(その1)―槇島(眞木嶋)昭光―→

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    「公暁」の法名は?「クギョウ」でいいのか?―その1(仮)

    建保7年(1219)正月27日、相模国鎌倉郡小林郷北山において、鎌倉殿鎌倉幕府の長、棟梁、のちに日本国惣追捕使及び日本国惣地頭の任免権を持つ者)であり、征夷大将軍、右大臣でもある源実朝が甥(実朝の兄・頼家の子)で猶子(後見人)でもあった「公暁」によって暗殺されました。現在では撤廃されましたが、いわゆる道義的には尊属殺人ですね。

    さて、この「公暁」ですが、一般的に「クギョウ」と呼ぶ事が周知されていますが、最近の研究でこれに疑義を唱える説があるんですよ。

    ― ◇ ◇ ◇ ―

    まずは。「公暁」の略歴を列挙すると、

    「公暁」は幼名を善哉ぜんざいと言いました。

    父である頼家が建仁4年(1204)に北条氏の手によって暗殺された後、祖母である北条政子が引き取り、叔父である実朝の猶子となります。

    建暦元年(1211)9月、12歳で鶴岡つるがおか八幡宮寺の別当職であった定暁の下で得度し、「頼暁」の法名を受けます。

    その後、園城寺おんじょうじ(三井寺)において公胤の門弟として入室して灌頂を受け、「公暁」の法名を受けるのです。

    建保5年(1217)6月、18歳で鎌倉に戻り、鶴岡八幡宮寺の別当職に就任します。

    ― ◇ ◇ ◇ ―

    「公暁」園城寺(三井寺)で師事する公胤は“公家源氏の長”である村上源氏の出自で、その師であり、叔父である公顕も同じ出自です。

    公顕は「コウケン」、公胤は「コウイン」と鎌倉期の史料において呼ばれていた事からすれば、公顕―公胤―公暁、と続く法流である以上、「公暁」の「公」もその流れを相承したものでなければ辻褄が合わないはず―

    事実、江戸期以前の史料において「公暁」「コウキョウ」と呼んでいる史料もあるようで、そうであるならば「クギョウ」ではなく、「コウキョウ」と呼ぶのが相応しいのではないかと指摘されています。

    ― ◇ ◇ ◇ ―

    ※(参考)舘隆志「公暁の法名について」(『印度学佛教学研究』第61巻第1号)


     

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    山城国人・宇治大路氏ノート(その1)

    わが街・宇治―

    その特産品として「宇治茶」が挙げられます。

    「宇治茶」の史料上の初見は、応安7年(1374)4月1日、楽人である豊原信秋から覚王院僧正宗縁「宇治茶」を進上した、という記述があり、これが「宇治茶」の初見史料と言われています。(注1)

    (注1)『日本の茶』

    一日、…(中略)…覚王院(宋縁)ヘ宇治茶遣之(注2)

    (注2)『豊原信秋記』応安7年〔1400〕4月1日条(『大日本史料』第6編42冊)

    以降、茶の産地としての宇治の評価や評判が上がっていくなかで、天皇家や足利将軍家に献上されていた事も判っています。

    なかでも、室町幕府の年中行事を記した『年中恒例記』の正月12日、2月24日の項を見ると「宇治大路氏」という一族が将軍家へ例年の茶献進の役を負っていた事が記されていて、幕府と深い関わりを持っていたようです。(注3)

    (注3)『宇治市史の窓』〔その67〕(『宇治市政だより』1979年〔昭和54年〕11月1日発行)

    (正月)十二日
    一御室。青蓮院殿御参。法中少々幷宇治大路橋本已下出仕。
    …(中略)…
    一久喜。二桶梅つけ。梅むき。宇治大路進上之
    (注4)

    (注4)『年中恒例記』(『続群書類従』第23輯下 武家部6、巻第660所収)

    (二月)廿四日
    一御茶宇治大路奥(興)次郎三郎
    (注5)

    (注5)(注4)参照

    また、中世末に成立した、茶道の成立期の茶法を伝える代表的な茶書の1つである『分類草人木』という書物にも、宇治の名園形成に深い関係を有した人物として「宇治大路氏」の名前を挙げており、3代将軍の義満が伏見に遊んだ折に、仙人に茶を進上され試飲したところこの上もなく良い茶であった事から「無上」という茶銘が興り、「宇治大路氏」にあわせて「七種の園」を造らせ、この七園が室町幕府指定の宇治茶園になったとあります。(注6)

    (注6)『宇治茶の文化史』第一章 宇治茶の誕生 第四節 御茶師以前)

    それを裏付けるかの如く、義満は応永年間の初め頃、宇治に度々訪れています。

    五月十八日、御所(義満)成宇治給云々(注7)

    (注7)『東院毎日雑々記』応永3年〔1396〕5月18日条(『大日本史料』第7編第2冊)

    九月十四日、庚子、晴、伝聞、北山殿(足利義満)今日御出宇治、松茸御賞翫也(注8)

    (注8)『迎陽記』応永8年〔1401〕9月14日条(『史料纂集』古記録編)

    しかし、宇治へ訪れる一番の理由として、側室であった宇治殿と呼ばれる女性の存在があるのです。
    今日於北小路前大納言(裏松重光)亭室町殿(足利義満)若君・姫君等有御祝儀、…(中略)…姫君(義満女)宇治大路息女御腹、右京大夫(細川満元)養君、三歳、御魚味(注9)

    (注9)『迎陽記』応永5年〔1398〕11月21日条(『史料纂集』古記録編)

    これは、義満の子女たちが日野重光てい(邸宅)において著袴ちゃっこ及び魚味まなの儀を行った事を記したものですが、その中で数え年3歳になる娘の出自として「宇治大路息女御腹」あるいは「右京大夫(細川満元)養君」とあるのです。

    つまり、宇治殿を娘に持った「宇治大路氏」義満の外戚として、幕府と深い関わりを得たんですね。

    その後、その褒賞というわけではないでしょうが、「宇治大路氏」は山城国久世郡平河郷馬方里という土地の給人として名が残っています。
    久世郡内
     当給人宇治大路
     平河郷幷十二町 馬方里
    土貢四百石
    (注10)

    (注10)『山城国久世郡内闕所注文案』(『教王護国寺文書』第785号)

    さらに、その関わりは義満の子で6代将軍の義教に至ってより深いものとなります。

    興福寺の塔頭である大乗院の院主尋尊義教の子女たちを記した系図書きの中に、「宝鏡院殿 宇治大路腹と義教の側室として「宇治大路氏」の娘の名がみえます。(注11)

    (注11)『大乗院寺社雑事記』長享2年〔1488〕3月晦日条)

    この宝鏡院殿「日山理永尼」と言うそうです。(注12)

    (注12)湯之上隆「足利氏の女性たちと尼寺」所収「付表 足利氏の女たち」、九州大学国史学研究室編『古代中世史論集』)

    このように「宇治大路氏」は、一族の中より将軍家の側室を生み出し、外戚として早くから将軍の直臣団に加わった家柄であり、一方で近衛家五ヶ庄ごかのしょう の庄官をも兼ねる、この地域の有力な土豪でもあった訳ですね。(注13)

    (注13)(注6)参照

    posted by 御堂 at 14:34 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

    名優死す…加藤武氏死去


    俳優の加藤武氏が亡くなられました。享年86歳。

    ― ◇ ◇ ◇ ―

    加藤武氏と言えば、
    石坂浩二版金田一耕助シリーズの映画作品にて、「よしっ!分かった!」と言って手をポンと叩きながら早合点を繰りかえす警察幹部の役どころが印象深いですよね!
    • 映画「犬神家の一族」(東宝)(昭和51年=1976)橘署長役

    • 映画「悪魔の手毬歌」(東宝)(昭和52年=1977)立花捜査主任役

    • 映画「獄門島」(東宝)(昭和52年=1977)等々力警部役

    • 映画「女王蜂」(東宝)(昭和53年=1978)等々力警部役

    • 映画「病院坂の首縊りの家」(東宝) (昭和54年=1979)等々力警部役
    あと、時代劇で言えば、
    • NHK水曜時代劇「真田太平記」(昭和60年4月〜61年3月=1985〜86)本多平八郎忠勝役

    • NHK大河ドラマ「風林火山」(平成19年=2007)諸角豊後守虎定役
    などがすごく印象に残っています。

    これまで数々の作品で私たちを魅了させてくれた加藤武氏のご冥福をお祈り申し上げます。

    ― ◇ ◇ ◇ ―

    ※(参照)また一人、個性派が逝った…米倉斉加年氏死去→
    ※(参照)また1人、英雄の丘に祀られる!―島航海班長役・仲村秀生氏、逝く→
    ※(参照)クールな二枚目、俳優の竹脇無我氏死去→
    ※(参照)もう「アタックチャンス!」の叫びも聴けなくなるんだね!―児玉清氏死去→
    ※(参照)パッパ、永遠の別れ!―細川俊之氏死去→
    ※(参照)悪代官役、俳優の川合伸旺さん死去→

    posted by 御堂 at 19:40 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

    (トピックス)「指月山伏見城、やはりあった!」幻の伏見城、痕跡残る…遺構が初出土場所特定

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    豊臣秀吉が自身の隠居場所として、観月の名所として知られていた伏見・指月しげつ丘陵に築いた指月山伏見城とみられる石垣と堀が、伏見区桃山町泰長老での調査で見つかりました。

    指月山伏見城は完成から2年後に発生した慶長伏見地震で倒壊した後ぐに埋められたため、これまで所在すらつかめていない「幻の城」でしたが、今回の調査で石垣や巨大な堀、100点超す金箔瓦などが出土するなど、420年ぶりの出現に専門家たちも「やはりあった」「間違いない」と驚きを隠せないようです。

    指月山伏見城は、天正20年(1592)8月〜9月に秀吉が隠居屋敷として巨椋おぐら池を望む指月丘陵に着工・建設が始まり、途中から天守を備えた城郭として整備拡張された後の文禄5年(1596)に完成します。しかし、同年閏7月12日深夜から13日にかけて(の刻=午後11時から午前1時頃)に起きた内陸直下型地震であった慶長伏見大地震で石垣や天守閣の上部二層が倒壊・崩落してしまい、直後には北東側の木幡こはた山に木幡山伏見城が築城されます。

    そのため、指月山伏見城については絵図などの資料が残っておらず、場所も特定できないでいたために、「当初から木幡山一帯に築かれる予定で、指月山伏見城は実は存在しなかった」との説もあった「幻の城」だったのです。それ故に、今回の発見は指月山伏見城の存在を決定づける上で極めて重要な成果と言われています。

    ― ◇ ◇ ◇ ―

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    今回の調査地は、文献などから指月山伏見城の中心部と推定されていた観月橋団地の中央付近で、新たな棟が建設されるのに伴い、約600uを4月から実施していたもので、出土した物からも多くの情報が読み取れるといいます。

    今回見つかった指月山伏見城の石垣は、一辺が1mを超す花崗かこう岩や堆積たいせき岩などが主に使われ、高さ約0・5〜1m、長さ約36mで南北に延びていました。地形などから本丸と推定される場所に近く、本丸西側の石垣の一部とみられるといいます。

    秀吉時代初期の特徴である加工していない自然石が用いられており、大坂おおざか城本丸跡聚楽第じゅらくていと同様の手法(=穴太積あのうづみ)で積まれたであろうと断定でき、指月山伏見城の全貌が明らかになったとしています。

    その石垣に沿って、幅5〜7m、深さ2m以上の堀も確認。堀からは100個以上の瓦片が出土し、こちらも大坂城本丸跡聚楽第跡と同様に五七の桐もんや菊文が描かれた瓦が多く見られ、うち数十個は金箔で装飾されていました。

    信長時代は瓦のへこんだ部分に金箔が塗られ、秀吉時代には出っ張った部分に塗られているケースが多い。今回出土した瓦には、まだへこんだ部分に塗る瓦も多く、瓦の様式が切り替わる過程も検証できると言われています。落城した木幡山伏見城と違って、指月山伏見城で出土した瓦は焼けた形跡は見当たらず、地震で倒壊後すぐ堀に埋められたとみられます。

    ― ◇ ◇ ◇ ―

    高さ2・8m、南北14・5mにわたって確認された指月城とみられる石垣と堀跡

    さらに、伏見区桃山町泰長老と同区常盤町にまたがる一帯に福祉施設が建設されるのに伴う調査でも指月山伏見城とみられる石垣と堀が見つかりました。

    今回見つかった場所は、内堀の石垣や堀が発掘された地から西側に約200mの地点で、江戸時代の絵図面などから城の西側に位置し、城の外堀と内堀の間を区画する中堀の石垣の一部だとみられます。

    石垣は東側に正面を向け、南北に14・5m、幅1m、高さ2・8m。

    石垣は大きさ、種類共に不揃いな自然のままの石や、表面の凹凸をなくすため、叩き割って平らに加工された割り石が6〜7段積み重ねられた状態で、隙間にはこぶし大の間石あいいしが詰められており、この手法は2度目以降の築城では見られないといいます。

    また、石垣に沿って堀の跡も確認され、堀に溜まった泥には、慶長伏見地震で倒壊した建物の一部とみられる木片や瓦の破片が大量に交じっていました。

    ― ◇ ◇ ◇ ―

    ◎伏見山荘と伏見殿
    指月丘陵は平安時代から観月の名所として知られ、多くの王族や貴族たちが別荘を構えました。

    指月の由来は、四月(天の月、川の月、池の月、杯の月)を観賞する場、から「しげつ」と称されるようになったとの事。

    中でも、平安後期の“伏見長者”と称されたたちばなの俊綱としつなは、宇治・平等院を開創した父・藤原頼通よりみちにならって、指月丘陵に豪壮な「臥見亭」「臥見別業」(『中右記』寛治7年12月24日条)と呼ばれた伏見山荘を築き、連日のように仲間の公家たちを招き、指月の森や巨椋池がかもし出す風光明媚な様をで、詩歌管弦にふけったり、酒を楽しんだりしたと云われています。

    俊綱没後、伏見山荘白河上皇に寄進され、以降は王家の荘園となります。

    その後、巡り巡って後白河上皇に伝承された際、上皇は此処に壮麗な伏見殿(船津御所、伏見離宮)を造営します。

    鎌倉中期には後嵯峨上皇の後院として使われ、建長3年(1251)には持明院統の所領となって伏見上皇後伏見上皇と伝承されます。

    鎌倉末期南北朝期には北朝方となった光厳上皇光明上皇に伝承され、後光厳上皇崇光天皇と伝承されますが、北朝の中で皇位継承に関し正当性を主張する崇光院流室町幕府を味方につけた後光厳院流に分裂が起こります。

    貞治2年(1363)光厳法皇崇光上皇の子孫へ所領のほとんどを代々相伝とし、崇光院の皇子である栄仁親王に伝承します。

    しかし、後光厳天皇室町幕府も実力行使で後小松天皇に皇位を継承し、また、栄仁親王が相伝するべき所領も崇光院の崩御後、足利義満により所領没収の憂き目に遭います。

    後小松天皇称光天皇と続いた後、後光厳院流は男系が途絶え、崇光院流である栄仁親王の次男・貞成さだふさの皇子を猶子とし、後花園天皇とします。

    後花園天皇崇光院流の名誉と勢力回復として父宮である貞成親王「後崇光院」の称号を与え、また弟宮である貞常親王に永久的に「伏見殿」(=伏見宮)と称する事を勅許し、ここに伏見宮家が創設されます。

    それ以後、伏見宮家は指月の森にある伏見殿かみの御所、巨椋池の船着場である南浜付近に建てた舟戸ふなと御所をしもの御所と称して、繁栄を極めたと云います。

    しかし、室町期の動乱、戦国期の争乱を経て、伏見殿も荒廃の一途を辿っていき、やがて安土・桃山期を経て、天正20年(1592)豊臣秀吉によって指月丘陵に指月山伏見城が築城されるのです。

    ― ◇ ◇ ◇ ―

    (参考)秀吉を襲った大地震―地震考古学で戦国史を読む(平凡社新書)


      

    posted by 御堂 at 01:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

    (トピックス)マグナ・カルタ〔大憲章〕制定800年

    中世イングランド王国(Kingdom of England)で王権の規制を定めた「マグナ・カルタ」(大憲章)〔ラテン語:Magna Carta、英語:the Great Charter of the Liberties of England=イングランドの自由の大憲章〕が制定されてから800年を記念して「マグナ・カルタ」(大憲章)成立の地であるイングランド南東部で、テムズ川河畔の町であるサリー州ラニーミード (Runnymede)で式典が催されました。

    「マグナ・カルタ」(大憲章)とは、1215年6月15日、王であっても「法」の支配の下にある事などを明文化した文書で、封建貴族たちが王権を制限、封建貴族の特権を再確認し、当時のイングランド国王である欠地王(失地王)ジョン〔John Lackland〕に認めさせた文書で、前文と63か条から成り立っている。

    権利請願(Petition of Right)(※1)、権利章典(Bill of Rights)(※2)と共にイギリスの立憲制の発展に重要な役割(三大法典)を果たした。

    ジョン王の家系であるプランタジネット朝(Plantagenet dynasty)はフランスの貴族であったアンジュー伯アンリが1154年にイングランド王ヘンリー2世となり、1399年にリチャード2世が廃されるまで続いた家柄で、長くフランス国内の領土をめぐって抗争が繰り広げられていた。

    ジョン王の代になり、1214年までにフランスにおける領地をほとんど喪失。またカンタベリー大司教の任命を巡って、ローマ教皇インノケンティウス3世と対立。教皇ジョン王を破門するや支持していた多くの諸侯から見放され、1213年には謝罪して教皇に屈した。その際、一旦イングランド全土を教皇に献上し、教皇から与えられる形でジョン王に返還されていた。

    こうした国内外での政策の失敗に対し、イングランド国内の諸侯から庶民にいたるまでの反発を招き、1215年5月5日に封建貴族たちの怒りが爆発。封建貴族たちはジョン王の廃位を求め、その動きに国民たちも同調する事態になったため、ジョン王は6月15日にラニーミードにおいて、王の権限を制限し、封建貴族や聖職者の権利を認めるという形でマグナ・カルタ(大憲章)が制定されます。しかし、ジョン王を支持する教皇インノケンティウス3世による勅令によりわずか2か月で廃棄されてしまいます。

    翌16年にジョン王が死ぬとフランスのルイ王太子がロンドンへ侵攻(第一次バロン戦争)しますが、ジョン王の跡を継いだヘンリー3世マグナ・カルタ(大憲章)の存在で士気を高め、戦争を終結させます。

    ところが、ヘンリー3世マグナ・カルタ(大憲章)を遵守しなかったので、何度となく再確認が施され、その際に条文の幾つかは修正されました。現在、現行法として有効とされているものは1225年に修正され、1297年にエドワード1世が確認したものが廃止されずに残っています。

    その後、国王と議会が対立するようになった17世紀になり改めて注目されるようになり、イギリスにおいて憲法を構成する法典の1つとして存在しています。

    ― ◇ ◇ ◇ ―

    ※1 権利請願(Petition of Right)
    1628年5月、イギリス議会が専制的な国王チャールズ1世に提出し、承認させた請願書。国王大権の名の下に献上金の強制、関税の引き上げ、議会の承認なき課税、恣意的な不法逮捕や投獄に対する国王の責任を追及すると共に、「マグナ・カルタ」(大憲章)以来保障されていたイギリス国民の権利と自由の再確認を求めるための請願で、王位の継承が王家に相続されるものであるように、国民の権利や自由も私有財産所有と同様に国民に相続されているものである事を確認したものである。

    チャールズ1世は一旦、権利請願を承認したが、翌29年に国王大権を盾にこれを事実上廃止し、これに抗議した議会も解散、親政に踏み切ったため、これに対する議会と国民の反感が清教徒革命を引き起こすさらなる導火線となった。


    ※2 権利章典(Bill of Rights)
    正式名称は「臣民の権利と自由を宣言し、かつ、王位の継承を定める法律」(An Act Declaring the Rights and Liberties of the Subject and Settling the Succession of the Crown)で、イングランド国王の存在を絶対前提とした上で、国王に忠誠を誓う議会および国民のみが享受できる権利と自由を定めた法律。国王といえども否定できない、国民が古来より相続してきた諸々の権利を確認した。

    1688年12月、国王ジェームズ2世が国外に逃亡した後、翌89年1月召集された議会において王国の現状を説明するための決議が行われ、新しく王位を継承するオラニエ公ウィレム(ウィリアム3世)に改革要求案である「古来の自由と権利を擁護し、主張するため」の宣言をする。

    同年2月、オラニエ公ウィレム(ウィリアム3世)とメアリー(メアリー2世)は共同統治者として王位に就き名誉革命は達成され、12月にイギリス議会が立法化したものが「臣民の権利および自由を宣言し、王位継承を定める法律」、すなわち権利章典である。


    ― ◇ ◇ ◇ ―

    成文憲法を持たないイギリスにおいて、マグナ・カルタ(大憲章)〔1215年〕や権利請願(1628年)、権利章典(1689年)はイギリスの国の形態を定めた最も重要な議会制定法であり、封建領主の要求を国王に認めさせ、イギリス人の伝統的な権利と自由の尊重を要求する、など西欧社会においてイギリスを立憲制近代国家をいち早く成立させる事に成功します。

    何よりも、王といえども「法」の下にあって、古来からの慣習を尊重する義務があり、権限を制限される事が文書で確認されたという意味が大きいですね。

    ― ◇ ◇ ◇ ―

    ◎欠地王(失地王)ジョン〔John Lackland〕
    イギリス王室では、ジョン王の評判が余りに悪いために、以降は誰もジョンを名乗ったものはいないと云います。ジョン王以降、ジョンという名を名乗った王子は何人もいますが、現実として「ジョン2世」は存在しません。さらに、ジョン王の息子であるヘンリー3世自身が長子にジョンと名付けず、エドワードと名付けています。ジョン王に対する抵抗意識、人気のなさを物語っていますね。

    ― ◇ ◇ ◇ ―

    ※(参考)「チャールズ」は不吉?→


    posted by 御堂 at 01:39 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

    (トピックス)丹後弁と名古屋弁、どエリャー似とるで 京丹後市教委が研究結果発表

    発刊された調査事業報告書『丹後・東海地方のことばと文化』

    京都府京丹後市と市教育委員会は26日、京都府北部の丹後地域で話される「丹後弁」と、名古屋を中心に使われる「名古屋弁」は共通する言葉が多く、類似性があるとの調査結果を愛知県庁で発表しました。

    調査を担当したのは、同市大宮町出身で龍谷大学の糸井通浩名誉教授(日本語学)や京都文教短大の安本義正学長ら言語学、考古学などの研究者7人で、地元の方言約1700語と「名古屋弁」を比較・調査した内容を基に執筆され、方言と文化・交流の2章で構成しています。

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    報告書では両地方の方言の類似点として、
    1. 「赤い」が「アキャー」、「うまい」が「ウミャー」、「えらい」が「エリャー」など母音が「a(ア)+i(イ)」と重なる部分が子音+半母音の拗音(ようおん)になる事=二重母音の使い方
    2. 「きょうは雨降りだで」「遊びに行ってくるで」など理由、念押しを表す接続助詞、終助詞「で」の使い方
    3. 「書く」など動詞の否定形の表現を、「〜ない」ではなく「〜ん(へん)」を使用して「書かん(書かへん)」という言い方を使用する
    など二重母音の発声法や文法面で多くが共通する事を挙げています。さらに、アクセントも京丹後市は西日本に位置しながら、尾張地方と同じ関東式だそうです。

    方言が似た要因については、方言は文化の中心から同心円状に広がるという説がある。すなわち、京都で生まれた新しい言葉が同心円状に東西南北へ広まり、古い言葉ほど遠方で使用されるとした民俗学者、柳田国男氏方言周圏論だ。平安時代の首都であった京都から名古屋と丹後は共に100q程離れており、この仮説に当てはまる。

    また、戦国時代から江戸時代にかけて丹後地域を支配した一色氏細川氏京極氏などのルーツが尾張周辺地域で、一族の移動と共に方言も伝わった可能性も推測でき得るといいます。

    市と市教委は「方言がなぜ類似しているか分からないため、本年度の途中から更に3か年かけて両地域の共通性について継続調査を実施したい」と発表した。調査報告書『丹後・東海地方のことばと文化〜兄弟のようなことばを持つ両地方〜』はA4判132頁。千部製作、価格は500円。市内の書店で27日から販売する。問い合わせは市教委文化財保護課まで。

     (目次)
     第1章   丹後・東海地方の方言
      第1節  【概説】丹後方言の特徴(糸井通浩執筆)
      第2節  愛知県方言(鏡味明克執筆)
      第3節  〈丹後弁〉と〈尾張弁(名古屋弁)〉の類似性(糸井通浩執筆)
       ※   〔参考資料〕尾張弁(名古屋弁)と丹後弁の共通言い回し
      第4節  丹後方言と名古屋市方言の共通語彙(鏡味明克執筆)
      第5節  丹後弁と名古屋弁の方言会話(井上正一・鏡味明克執筆)
     
     第2章   丹後・東海地方の文化と交流
      第1節  丹後・東海地方をめぐる土器の交流〜弥生時代から古墳時代へ〜(高野陽子執筆)
      第2節  青銅器文化から観えてくる北近畿・東海地方の交流(赤塚次郎執筆)
      第3節  丹後と尾張の赤米(古代米)について(安本義正執筆)
      第4節  伊勢神宮外宮と豊受大神、丹後国風土記の伝承(荊木美行執筆)
      第5節  『海部氏系図』の基礎的研究(鈴木正信執筆)

    posted by 御堂 at 15:44 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

    (トピックス)「奈良京」と呼ばれた平城京、出土木簡に最古の表記

    表面に「奈良京」との表記が見られる木簡。左側の半分は欠けている

    奈良市二条大路南の平城京跡平城京を指す「奈良京(ならのみやこ)」と書かれた木簡が見つかりました。

    「奈良京」は、平城京の名称が一般化する前の都の表記の1つで、和銅3年(710)3月10日の遷都前後に記されたとみられます。

    また、「奈良京」の表記はこれまで天平宝字2年(762)の『正倉院文書』に登場するのが最古とされており、それを半世紀ほど遡る事となります。

    木簡は長さ252o、幅14oで縦に割れ、左半分は欠けています。表に平城京を発信元として示す「奈良亰申」、裏には薬らしいものを運ぶ役夫が逃走した事を伝える内容が書かれていました。

    さらに、同じ土の層から大宝律令により施行された古代日本の地方行政の制度である国郡里制の行政単位「里」を表す木簡(※1)が出土している事から、この木簡も霊亀3年(717)までに書かれたものとみられています。

    「里」を表す木簡
    「里」は、霊亀元年(715)に「郷」と改称され、郷里制に移行した。


    heijoukyo.gif

    ― ◇ ◇ ◇ ―

    古代には同じ音と意味でも様々な漢字が使われるのが一般的でした。

    「なら」の表記についても「那羅」「平城」「寧楽」などと表記されています。

    平城京という呼称は平安時代に定着したものとされています。現在、イトーヨーカドー奈良店が建つ長屋王邸跡(奈良市二条大路南)で出土した木簡「奈良宮」と書かれたものがありますが、「奈良京」と表記されたものは天平宝字2年(762)に書かれた『正倉院文書』でしか確認されておらず、平城京の造営段階から「奈良京」という呼称が一般的だった可能性もある史料として貴重な発見とされています。

    posted by 御堂 at 23:21 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

    日本で最初に飾られたクリスマスツリーは函館だった!

    以前、「日本で最初に飾られたクリスマスツリー―オイレンブルクの万延元年!」というブログ記事を書きましたが、新しい見解がある−とのご指摘を頂き、取り急ぎ調べてみました…

    クリスマスツリー (Christmas Tree)が安政5年(1858)、日本で初めて江戸時代末期、すなわち幕末箱館(「函館」表記は明治9年以降)で立てられた可能性も…

    日本で最初のクリスマスツリーは、一般的には154年前の万延元年(1860)に「プロイセンが派遣した東アジア使節団長、オイレンブルク伯爵が飾った」とドイツ大使館広報部はされていますが、箱館の方が2年早い事になるようですね。

    安政6年(1859)12月22日付で初代駐日ロシア領事ヨシフ・アントノヴィチ・ゴシケーヴィチ(Iosif Antonovich GOSHKEVICH)箱館奉行所の役人(1)や近隣住民との交流を深めようと、奉行所宛に「ロシアの祭礼」への招待状を出していたそうです。そして、そこには―

    「明後日(24日)の祭礼には奉行、副奉行が来て楽しんで欲しい」という内容で、そのために「高い所をきれいに整飾した」クリスマスツリーを思わせる表現があったそうです。

    「高い所」には「ヨルカ(もみの木)を立てた」とするロシア側の資料も判明している事―

    さらに昨年のように役人の子供たちも来ることを望む」との旨が書かれていたのだとか―

    という事は、前年の安政5年(1858)にも催されていた事が分かりますね。

    また、これらの裏付けとして、ゴシケーヴィチ自身がロシア海軍省の機関誌『海事集録』において、寄稿したと思われる、赴任した安政5年(1858)に迎えた箱館の年末年始の様子について報告している記事の中に、

    「私はここの役人社会に接近するために、クリスマス週間(クリスマスから一月六日の主顕節までの期間)に際して色々な楽しい催し物を考え、そしてその目的に達したように思う。クリスマスの前日に、私の所では、彼等の子供たちのためにツリーが建てられ、それを見ようとすべての子供ばかりか、ほとんどすべての役人たちが訪れた」(佐藤守男「ロシア領事館の函館開設とその活動―一八五九年〜一八六二年の『海事集録』を中心に―」第二章第1項「最初の年末年始」より引用)
    と書かれた安政6年(1859)2月1日付の「駐日ロシア領事の手紙の抜粋」(『海事集録』第43巻第9号、雑報欄)があったそうです。

    (1)箱館奉行所の役人
    箱館奉行は竹内下野守保徳、堀織部正利熈、村垣淡路守範正の3名で、2人が箱館在勤、1人が江戸詰めという交代勤務制を執っていました。なお、ゴシケーヴィチが領事として箱館に到着した時期の奉行は竹内下野守保徳だったようです。


    ― ◇ ◇ ◇ ―

    (関連)江戸の町に初めて飾られたクリスマスツリー―オイレンブルクの万延元年!→
    (関連)“戦場のメリークリスマス”―戦国時代のクリスマス休戦→

    (参照)「日本初のツリーは幕末箱館*市民団体代表木村さん 史実に光*ロ領事の祭礼招待状に記述*『高い所をきれいに整飾した』弥生小付近、スギなど代用か」(2010年12月24日付夕刊『北海道新聞』)
    (参照)「Xマスツリー華やかに…元町ホテル前に設置」、2014年11月25日付『函館新聞』より引用)
    (参照)佐藤守男「ロシア領事館の函館開設とその活動―一八五九年〜一八六二年の『海事集録』を中心に―」、北海道大学法学部『北大法学論集』第46巻第3号、1995年9月29日

    posted by 御堂 at 22:19 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

    (トピックス)ジュスト高山右近没後に妻子らは帰国していた!

    宣教師の書簡の写し。指で指している部分に高山右近の娘ルチアら3人の帰国の記述がある

    現在、NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」でも登場中の摂津高槻城主キリシタン大名ジュスト高山右近(※1)加賀前田家に客将の身分として暮していましたが、慶長18年(1613)12月、突如として江戸幕府禁教令を発します。

    翌19年(1614)正月17日、右近らは人々の引き留める中、金沢を退去して、坂本(現、滋賀県大津市)→大坂(現、大阪市中央区)→長崎と護送されます。

    当所、幕府右近の処分を決めかねていたようでした。

    折りから大坂方(豊臣氏)と風雲急を告げる状況であり、大坂方には明石掃部かもん全登てるずみキリシタン浪人が続々と入城しており、右近を処刑でもすれば各地に散らばるキリシタン勢力やシンパたちの反発を買うような、火に油を注ぐ状況をもたらしかねませんでした。

    そこで、苦肉の策として国外追放という前代未聞の処分が下されます。

    ただ、イエズス会年報によれば、10月7日、右近一行らが出港した後、徳川家康にわかに右近らが乗船した船を撃沈してしまおうと思い立ち、長崎奉行に急使を立てたと云われています。

    右近らが乗船した船は、フィリピンのマニラに12月に到着します。

    ようや辿たどり着いたマニラですが、過酷な船旅の無理がたたったのか、右近は高熱を発し床に伏せてしまいます。

    そうして、マニラ到着から約40日後の翌20年正月8日(西暦1615年2月4日)、右近は創造主の許へと召されます。

    ― ◇ ◇ ◇ ―

    さて、右近と共にフィリピンのマニラに渡ったのは、ジュスタ夫人、娘ルチア、亡くなった長男ジョアン夫妻の子で右近の孫にあたるフランシスコら5人ですが、このうち、娘のルチアら家族3人が右近が客死した後にマニラから帰国していた事を記したポルトガル人宣教師の書簡が確認されました。

    右近の没後400年を来年に控え、新たなキリシタン史が掘り起こされた事になりますね。

    ※1 ジュスト高山右近
    洗礼名はポルトガル語で❝正義の人❞を意味するジュストで、高槻城主時代に署名された自筆の花押は「重出」「寿須」「寿子」の文字を当てているので「ジュスト」と発音していたと考えられます。最近では、ローマ・カトリックの共通標準語であるラテン語の「ユスト」と呼称する傾向にあるようですが、過去において、右近「ジュスト」の表音をしている以上、勝手に表現するのはおかしいと感じます。


    ― ◇ ◇ ◇ ―

    書簡には「そこ(加賀藩領内)には、かって右近殿もともに滞在していた。われらの主は、彼をマニラで御許おんもとに召したもうた。彼の妻、娘および、孫たちの一人は日本に戻ってきており、秘密にしているが、キリスト教徒である娘の婿が彼らに会った」と記述されていたそうです。

    この書簡は宣教師が別の神父による加賀領内の報告として元和2年(1616)7月18日付で長崎から発信されており、彼の妻、娘および、孫たちの一人というのは、妻がジュスタ、娘がルチア、孫がフランシスコ(ともに洗礼名)とみられます。

    因みに、
    右近の妻は名は妙、洗礼名をジュスタ
    子女には、

    嫡男に長房(十次郎、左近)、洗礼名をジョアン、
    嫡孫に長房、洗礼名をフランシスコ
    次男に忠右衛門、
    三男に亮之進(助之進)、
    長女に初、洗礼名をルチア
    の名が確認できます。

    キリスト教徒である娘の婿とは、右近の娘ルチアの夫であり、加賀前田家の重臣で筆頭家老の横山長知ながちかの嫡子・康玄やすはるを指します。

    慶長8年(1603)、ルチアが12歳の時に結婚し、高山家の影響を受けて洗礼を受けていたようですが、右近前田家を追放される事になった際に右近からルチアと離縁するよう説得され、受け入れたために、以降、両家は決別したというのがこれまでは定説だったそうです。

    書簡はスペインのトレド文書館に保存されており、元カトリック金沢教会職員の木越邦子さんが、撮影された原文の写しを手に入れ、慶応大学の高瀬弘一郎名誉教授(キリシタン史)が翻訳した。

    ルチアがマニラに向かう際に子どもを預けた伝承が石川県志賀町二所宮にあり、木越さんは「ルチアが帰郷後に能登に匿われた可能性がある。記録が残されていないのも藩が隠した証しでは」と推定。

    高瀬名誉教授は「3人が帰国したという事実は大きい。離縁した夫と会った事も興味深い」と話されています。

    尚、この成果はキリシタン文化研究会編『キリシタン文化研究会報』に発表されたとの事。

    ― ◇ ◇ ◇ ―

    余談ですが、過去に大河ドラマ枠で高山右近を配薬された役者さんは、

    鹿賀丈史さん(『黄金の日日』昭和53年〔1978〕1月〜12月)
    沢村一樹さん(『利家とまつ〜加賀百万石物語〜』平成14年〔2002〕1月〜12月)
    生田斗真さん(『軍師官兵衛』平成26年〔2014年1月〜放映中〕
    の皆さんですが、私個人的には最初に右近として観た鹿賀丈史さんの演技が何というか❝右近らしさ❞がすごく奏でていて未だに鮮烈な印象を持たせて頂いてます。


     

    posted by 御堂 at 00:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

    「鉄眼版」一切経(大蔵経)がもたらしたもの―日本の印刷技術のパイオニアとして―

    JR西日本・京都駅を出発し、奈良線に乗車してJR黄檗駅で下車、あるいは京阪電鉄の宇治線に中書島駅で乗り換えて黄檗駅下車すると、そこから徒歩で5〜10分ほどした場所にたたんでいるのが黄檗山おうばくさん萬福寺まんぷくじです。

    萬福寺中国・大明王朝末期に福建省福州府福清県の黄檗山萬福寺の住持であった隠元いんげん隆gりゅうき禅師によって開基した寺院で、寛文元年(1661)に五摂家の1つ、近衛家の家領で、後陽成天皇女御にょうご水尾みずのお天皇の母である近衛前子さきこ(中和門院)の大和田御殿があった山城国宇治郡五ヶ庄ごかのしょう大和田村(現在、宇治市五ヶ庄ごかしょう三番割)の地を賜り、福建省の自坊と同様に黄檗山萬福寺と名付けます。

    江戸期全般は臨済宗黄檗派と称していましたが明治9年(1876)、臨済宗から独立し宗派を黄檗宗と改宗、黄檗宗総本山として現在に至っています。(禅宗は、日本においては臨済(禅)宗曹洞(禅)宗黄檗(禅)宗の3派に分類されます)

    ― ◇ ◇ ◇ ―

    ちょっと寄り道―

    韓国の史劇ドラマ「武神」を現在視聴中です。この作品の舞台は高麗王朝期で、ちょうど武臣政権期と呼ばれる時期を描いているのですが、ドラマの中でモンゴル(蒙古)軍の侵攻によって焼失する大蔵経の回(第29話、邦題タイトル=燃える大蔵経)がありました。

    武臣政権モンゴル(蒙古)軍の侵攻を追い払い、高麗国教である仏教の力で鎮護国家・怨敵退散の願いを込めて、新たに大蔵経の制作を計画します。

    ところで、第29話で符仁プイン寺に保管されている大蔵経モンゴル(蒙古)軍の侵攻によって焼失する際、大蔵経を守ろうと大蔵経と共に焼け死ぬ僧侶の姿が描かれるのですが、これは焼身供養と言って、「己の身を焼き仏に捧げる」といものなんだとか―

    一瞬思い浮かべたのが、今年のNHK大河「軍師官兵衛」でも描かれましたが、織田信忠甲斐武田氏の征伐として武田氏の分国である甲斐に攻め込んだ際に、恵林寺えりんじ
    (山梨県甲州市塩山)の住職であった快川かいせん紹喜じょうき禅師は織田軍に敵対した「佐々木次郎」六角義定よしさだではないかと云われている)らを匿いました。

    中世という時代においては、寺社領は聖域であると同時に治外法権が適用され、どんなに謀反人であっても、手を出せないという、謂わば社会的通念があったのですが、織田軍による再三の引渡し要求を拒んだ結果、全山焼討ちに遭って焼死します。

    この時、快川禅師は、
    安禅不必須山水(安禅必ずしも山水をもちいず)  
    滅却心頭火自涼(心頭を滅却すれば火もおのずから涼し)
    という『碧巌録へきがんろく』(=宋代に編まれた仏教書で、仏の教えや仏・菩薩の徳を文章化して讃えたもの)の第四十三則のを発しました。

    これが、言わば遺偈(辞世句)を詠った、というシーンで、この折りも快川禅師にとっては「己の身を焼き仏に捧げ」たのかなぁと考えちゃいました。

    ― ◇ ◇ ◇ ―

    脱線しちゃったけど―

    焼失して5年後、新たに大蔵経の制作に向けて計画・準備が練られます。

    大蔵経の経文の版木として使用するために伐採する木は樹齢100年以上の山桜(バラ科の落葉高木)を5千〜1万本ほど必要としました。

    伐採した木材は干潟地に3年間ほど埋めておきます。その方がひび割れなど起きない、ほぼ変化が起きない立派な版木用の木材になるからだそうです。

    きちんと製材された木材は塩水に浸しては乾燥の作業を繰り返し、保存処理として漆を2〜3回重ねて塗っていたといいます。

    ただ、こうして文章を読みだけだと経文の版木を作る事は、版木にただ文字を掘るだけだと思いがちかもしれませんが、そこには並々ならぬ苦労があったようです。

    写字を行うためには数千人の人手を要するし、書体を揃えるためには訓練を積ませる必要があります。剰え、版木を掘る者も育てねばなりません。

    このように大蔵経を製作するために高麗の当時の技術と知恵を総動員したのです。

    その結果として、新しく製作された大蔵経(高麗大蔵経)は、まるで1人の熟練な職人によって作られたかのように、誤字も脱字もほぼなく、とても良好な出来栄えであったようです。

    現在、大韓民国の慶尚南道陜川に在る海印寺に保管されている大蔵経(高麗大蔵経)は、版木の数が8万枚にも至るので「八万大蔵経」とも呼ばれています。

    私自身、前職で大学図書館の事務を務めていた時、宗教系の大学の図書館だったので、この高麗大蔵経を扱った事がありますが、やはり字体が綺麗なので見応えがありましたよ。

    ― ◇ ◇ ◇ ―

    閑話休題、話を戻して―

    さて、その萬福寺が在る黄檗山内にある塔頭たっちゅうの1つに宝蔵院というのがあります。そこに保管されている重要文化財が今回の主人公です―

    その重要文化財とは「鉄眼一切経版木」というもので、黄檗宗の僧侶である鉄眼てつげん道光どうこう禅師が成した成果なのです。

    鉄眼禅師は肥後国益城ましき郡守山村(現在の熊本県宇城うき市小川町)に在る守山八幡宮の社僧を父として生まれ、初めは父の影響で浄土真宗を学び、13歳の時、浄土真宗の僧侶として出家します。

    しかし、真宗門徒では個人の才徳ではなく、寺格の高下によって僧侶の身分が定まる事に嫌気がさしていた処、26歳の時にまだ長崎に居た隠元禅師に出会った事から臨済宗黄檗派に帰依し、畿内を中心に各地の寺院を巡っては般若心経はんにゃしんぎょうの教えを説いてまわります。

    ― ◇ ◇ ◇ ―

    そんな彼が一念発起してでも叶えたい夢がありました―

    仏教思想には、釈迦しゃかが説いたとされる教えをまとめた「経蔵」、規則や道徳観念・生活様相などで戒めとされる事柄をまとめた「律蔵」、釈迦やその弟子たちが「経」や「律」を注釈、解釈したものを集めた「論蔵」の3種類で構成されており、総称して三蔵さんぞう呼ばれます。

    古来インド(印度)で仏典がまとめられた初期仏教などではパーリ語でまとめられ(パーリ語仏典)、現在でもその原型を留めているのですが、大乗だいじょう仏教の流れで伝播した中国仏教やチベット仏教ではこの「三蔵」が原型を留めた形では伝わらず、一切いっさい経」(「大蔵だいぞう経」)という形で再編されています。

    一切経(大蔵経)とは「三蔵」や高僧伝などを幅広く編集して社会全般のあらゆる面を説き明らかにしたもので、仏教百科叢書ともいうべきものです。(中国仏教では南北朝期、北朝の北魏王朝では「一切経」と、南朝の梁王朝では「大蔵経」と呼んでいて、統一政権となった大隋王朝大唐王朝の下で双方が併記されるに至ったそうです)

    因みに、インド(印度)から中国へ大量の経典を持参した人物や経典を大量に訳した訳経僧に付した人物は「三蔵法師」と尊称されると云います。著名なところとして、『西遊記』にも描かれた玄奘げんじょう三蔵がいますよね。

    鉄眼禅師は、仏教国日本に一切経版木の無いことを残念に思い、一切経(大蔵経)を開版(出版)しようとしたのです―

    彼は寛文4年(1664)頃に隠元禅師にその志を相談すると、隠元禅師は感銘を受け、大明王朝万暦ばんれき17年(1589)から大清王朝の康煕15年(1676)にかけて皇帝の勅命で編纂された勅版大蔵経『万暦版大蔵経』、6956巻)と黄檗山内にそれを保管する寺地を授かり、蔵版・印刷所としての宝蔵院を建立、また、洛中・木屋町二条の地に印経房(のちに貝葉ばいよう書院)を設け本格的な事業が始まります。

    順調に開版事業が進むかのようでしたが、大洪水や飢饉ききんなどの災害被害にあえぎ苦しむ人々を目の当たりにした鉄眼禅師は事業を中止しては、全国行脚あんぎゃをなどして苦心して募った資金の全てを難民救済に差し出します。

    そういった艱難辛苦を経てようやく、延宝6年(1678)鉄眼禅師51歳の時に事業は完成したのです。

    1618部7334巻からなる、この一切経(大蔵経)「黄檗版」あるいは「鉄眼版」と呼ばれます。

    翌天和2年(1682)、この一切経(大蔵経)幕府に献上するため、江戸へと旅立とうとした鉄眼禅師ですが、折りしも、畿内に大飢饉が発生した事を聞き及び、直ぐ様大坂にとって返します。

    鉄眼禅師の餓死寸前の人々を救おうとする姿に、口々に救世ぐぜ大士だいし」様と崇めたと云います。

    しかも彼自身、この救済活動の最中に、疫病に感染して入寂にゅうじゃくしてしまうのです…

    一切経(大蔵経)の初版は後水尾法皇に上呈され、彼に「宝蔵国師」おくりなが贈られます。

    鉄眼禅師のこうした救済活動は戦前の尋常小学校の国語読本にも紹介されました―

    鉄眼は「一切経を世にひろむるはもとより必要のことなれども、人の死を救うは更に必要なるにあらずや」と難民救済を最優先した、まさに活仏いきぼとけのようだ

    ― ◇ ◇ ◇ ―

    鉄眼禅師が遺したもの―日本における印刷技術のパイオニア

    日本において、平安鎌倉室町期には殆んどの出版物が仏教関係の著作物や経典類で木版印刷が主流だったようです。但し、一切経(大蔵経)に関しては印刷・刊行された様子はなく、写経で模写するのが多かったようです。

    木版印刷は、木の板に文章や絵を彫って版を作る凸版とっぱん印刷の形態を指し、版に絵の具や墨汁などを塗り、紙をあてて上から馬楝ばれんで摺って制作する作業工程をいいます。

    戦国末期桃山後期江戸初期にかけては、キリスト教宣教師の布教活動で活版印刷技術が伝えられ、古活字本やキリシタン版などの活版印刷が一時的に盛んになり、『伊勢物語』や『徒然草』など、仏教関係でない漢字ひらがな混じりで書かれた書物が多数印刷されました。しかし、鎖国政策による宣教師の追放に伴い、活版印刷の技術は普及しなくなり、寛永期を境として再び木版印刷が主流となってきます。

    この「鉄眼版」一切経(大蔵経)の版木は現在、宝蔵院の収蔵庫にて一般公開されており、生きた文化財として、現在も版木は現役そのものです。

    それ故、多くの印刷業者やデザイン関係者が見学に訪れるのだそうです。

    版木には、版木の材料として最適な吉野山の桜の木を用いており、縦約26p、横約86p、厚さ約1・8p、版木の総数はは6万枚を要しているそうです。

    文字の字体は大明王朝後半に印刷用書体として適した書体として考案された明朝体が使われていて、そこから日本における明朝体のルーツと云われる由縁が生まれました。

    また、明朝体は太く大きいサイズの文字にも適用でき、強いインパクトが要求される見出しや広告などのデザインに使用されることが多いそうですよ。

    明朝体“活字文化の象徴”として捉えられているんですね。

    また、「鉄眼版」一切経(大蔵経)の版木は裏表2枚ずつ、計4枚の版木が刷られますが、そのレイアウトが1行20文字×20行、すなわち20×20の400字詰め原稿用紙サイズの様式なんですね。

    これは鉄眼禅師独自のアイデアなんですよね。実際、元となった勅版大蔵経(『万暦版大蔵経』)は1行17文字が標準形式であったことが実証されていますから…

    すなわち、「鉄眼版」一切経(大蔵経)の版木今日における原稿用紙の基本ベースとも言える訳です。

    そういう意味では、明朝体といい、原稿用紙サイズ様式といい、鉄眼禅師は日本における印刷技術のパイオニアと言っても過言ではないかもしれませんね!

    posted by 御堂 at 23:11 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

    山城国宇治郡と久世郡の境界線―中世期の平等院は宇治郡だった!―

    現在の宇治市域は、昭和26年(1951)に宇治郡の東宇治町と久世郡の宇治町・槇島村・小倉村・大久保村が合併して成立しました。

    宇治郡久世郡の境界線は?というと―

    宇治川を挟んで川筋の

     右岸(東部)が宇治郡
     左岸(西部)が久世郡

    になっていたんですよね。

    ところで、こんな云い伝えがあります―

    宇治に宇治なし、久世に宇治あり
    すなわち、宇治郡には宇治郷がなく、久世郡には宇治郷が存在する、といったものです。

    平安中期の承平年間(931〜938)にしたごう撰による和名類聚抄わみょうるいじゅしょう(あるいは倭名類聚抄、和名抄、倭名抄とも)という、今でいうと国語辞書や漢和辞書など、百科辞書の要素を含んだ書物の最古の写本で平安末期に写された高山寺こうざんじ本には宇治郡宇治郷のみが記載され、久世郡には宇治郷の記載がありません。

    ところが、同書の慶長古活字本(古活字本とは、文禄年間〔1592〜96〕から慶安年間〔1648〜52〕頃までの間に日本国内で刊行された活字印刷本の総称)には宇治郡にも久世郡にも宇治郷が記載されているのです。

    その後、文禄年間に豊臣秀吉による宇治川の河道改修が行なわれて以降、江戸期から現在に至るまで、上記のように宇治郡久世郡の境界線は宇治川を挟んで、右岸(東部)が宇治郡、左岸(西部)が久世郡とされました。

    そのために「宇治に宇治なし、久世に宇治あり」というように皮肉めいた云い伝えが生じたようです。

    ― ◇ ◇ ◇ ―

    さて、かく申す私も宇治市民のはしくれですが、宇治郡久世郡の境界線は宇治川を挟んでのもの―と信じて疑いませんでした。

    しかしながら、槇島まきのしまの事を調べていくうちに面白い発見をしたのです。

    それは、平等院が少なくとも中世期宇治郡に所在していたという事実です。(ちなみに、槇島地域も宇治郡なんですよ…)

    次の史料は治暦4年(1068)3月29日付で出された『太政官牒案』で、ちょうど時期的に藤原氏腹の後冷泉天皇が崩御する直前の緊迫した時期であり、次期帝に藤原氏腹でない後三条天皇が即位するとなると、摂関家も整理の対象となる荘園整理令延久の荘園整理令)が実施行される事が判っていたため、宇治殿=藤原頼通が先手を打って、自領の荘園と寺領(平等院境内地)を私領から整理令の及ばない官省符荘荘園にしたうちの平等院に関するものですが、

    治暦4年(1068)3月29日付『太政官牒案』(『禅定寺ぜんじょうじ文書』、『平安遺文』所収第1024号)

    太政官牒  平等院

     …(中略)…

     四至 東限近江国  南限□□  
        西限久世郡堺 北限浄妙
    その中で平等院を含んだ寺域が記載されているのですが、注目するのは「西限久世郡堺」とある点です。

    すなわち、宇治郡の郡境は宇治川を渡って平等院の西端であって、そこより以西から久世郡であるという事―

    という事は、宇治郡宇治郷は宇治川の両岸にまたがっていた事―

    が判明しました。まとめると、

    中世期において、宇治川上流(宇治橋より)では宇治川を境に宇治郡久世郡が分かれていたのではなく、平等院の西端(現在の宇治市宇治蓮華れんげ)が宇治郡久世郡の境界、すなわちあがた通りを挟んだ宇治市宇治妙楽みょうらくより以西が久世郡だったという事になります。
    それが、文禄年間の豊臣秀吉による宇治川の河道改修や槇島築堤などで宇治川左岸の宇治郡の一部が久世郡に編入された事で、宇治郡久世郡の境界線は宇治川を挟んで、右岸(東部)が宇治郡、左岸(西部)が久世郡とされて現在に至っている訳です。

    ― ◇ ◇ ◇ ―

    では、宇治川左岸の宇治郡の一部が久世郡に編入されたのは何時の時期でしょうか?

    そのヒントとなる史料を見つけました―

    江戸期に入った正保3年(1646)12月に摂関家近衛家の当主・尚嗣ひさつぐ平等院の諸堂の修造に関して記した『平等院由緒書』というものがあり、その中の冒頭部分で「山城國宇治郡平等院」(陽明文庫蔵、『開創九五〇年記念 国宝 平等院展』図録、図版85)と記載しているんですね。

    ―という事は、 この時点ではまだ平等院の所在は宇治郡にあった事になりますね。

    ― ◇ ◇ ◇ ―

    ※(参考)藤本孝一「山城国宇治郡と久世郡境界考―二つの宇治郷を中心にして―」(『中世史料学叢論』思文閣出版)
    ※(参考)藤本孝一「平等院の創建と位置附け」(『鳳翔学叢』第3輯)
    ※(参考)『開創九五〇年記念 国宝 平等院展』図録

    posted by 御堂 at 03:11 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

    (トピックス)13世紀前半の「島畑」の遺構発見 低地を改良 城陽・寺田 木津川右岸

    土を盛って周囲の土地より高くした島畑の遺構。右の段差から左側に広がっている

    京都府埋蔵文化財調査研究センターは、城陽市寺田の木津川右岸にある水主みぬし神社東遺跡下水主しもみずし遺跡の発掘調査で、低地で畑作をするため土を盛り上げて築いた農地島畑しまばたの遺構を見つけたと発表しました。13世紀前半に造成されたとみられ、配置は現在の水田区画と合致しているとの事。

    水主神社東遺跡と下水主遺跡

    同センターは、新名神高速道路の整備に伴う遺跡調査を2012年度(2012・4〜)から行なっていて、合わせて1・2ha(ヘクタール)を調査したところ、幅約8〜15m、長さ50〜100m程度、高さ0・6〜0・8mの「島畑」の遺構が確認されました。

    「島畑」は水田の底をなるべく地下水位に近づけるため可能な限り深く掘り下げ、その掘り下げた土を盛って畑にしたもので、水田の中に一段高い畑がある、という感じですね。大きな川のそばや水けの悪い土地に多く造られます。

    「島畑」の遺構周辺には、弥生時代竪穴住居平安時代の木組みの井戸が見つかり、以前は村落を形成していたとみられます。

    同センターは「時代と共に川の位置が変わって洪水に見舞われるようになり、生活場所に適さなくなったため、木津川流域を耕作に適した土地に改良する手段として、島畑を採用したのではないか。中世の土地利用状況が分かり、生産場として栄えていた様子がうかがえる」と分析されています。

    事実、現在の城陽市の木津川流域には「島畑」が多数分布し、イチジクなどが作られています。

    今回、採取した種子からは当時の栽培作物の特定できなかったようですが、同センターは「島畑を設けるには労力がいるため、商品価値の高い作物を作ろうとしたのでは?」と考察されています。

    江戸末期から大正時代の地層からは綿や大麦などの種子が出土し、この地域で綿の栽培が行われたとする、江戸時代の文献記録が裏付けられました。

    また、同時に13世紀前半頃の土師はじなどが出土した事から、「島畑」鎌倉時代にあたる13世紀頃には造られ始めめていた事、確認された「島畑」の遺構が現在の「島畑」と同じ形状で造られ、100年に1回程度の割合で補修された形跡があるものの、その配置が鎌倉時代の造成時から現在まで踏襲されてきた事も判明しています。

    「島畑」の起源については、条里制のできた7世紀頃まで遡る見解と、13世紀頃からという見解とに分かれていますが、現在は13世紀説が有力で、今回の結果はそれを改めて裏付ける要因となるかもしれませんね。

    「島畑」は、日本独特の土地利用の仕方でかつては全国に多くあったが、区画整理などで失われ、大規模に残るのは城陽市や愛知県一宮市などだけになっていると云います。

    「島畑」について研究している名古屋大学の溝口常俊名誉教授(歴史地理学)は「鎌倉時代の世の中が落ち着いた頃に、水田と一緒に畑作もする家族経営の日本農業の原型ができたのではないか」と話されています。

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    ※(参照)京都府埋蔵文化財調査研究センター→


      

    posted by 御堂 at 02:49 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

    (トピックス)秀吉が築いた「御土居」に地下排水溝 北野天満宮、発掘調査で確認

    北野天満宮の本殿北側の御土居で見つかった取水口。暗渠(排水トンネル)が紙屋川側の排水口まで約19m繋がっている

    豊臣秀吉が長い戦乱で荒れ果てた京都の都市改造の一環として外敵からの来襲に備える防塁と、鴨川や紙屋川(天神川)の氾濫から市街を守る堤防として天正19年(1591)に多くの経費と労力を費やして京都の市街を囲むように築いた土塁御土居おどい跡(国史跡)のうち、遺構が残っている北野天満宮(京都市上京区)境内で「御土居」を貫通し雨水を川へと流す石組みの排水トンネル(=暗渠あんきょ)の取水口京都市埋蔵文化財研究所の調査で確認されました。

    北野天満宮御土居の排水用暗渠(取水口側)。奥に排水口が見える

    取水口は本殿の北側にあり、建物に雨水が流れ込まないようにするために流れてくる雨水を土塁を一旦削って造った後、埋め戻したとみられます。

    豊臣秀吉が築いた御土居の構造

    「御土居」は外敵の侵入や河川の氾濫から京都の市街を守るため、豊臣秀吉が天正19年(1591)閏正月から約2か月程で建設され、高さ約3〜5mの盛り土で構築された台形の形状をした土塁と堀(堀の一部は川や池、沼を利用)を併設したもので、その上には竹が植えられていたと云います。(ルイス・フロイス『日本史』に拠れば「秀吉が御土居に樹木(竹)を植えさせたのは美観のためであった」と書き記しています。秀吉にすれば、美観のための施策でしょうけど、結果的に防水林の役割も果たした事になりますよね)

    その範囲はおおよそ北は鷹ヶ峯・紫竹(現在の北区紫竹、加茂川中学校付近)、南は九条通、東は鴨川(現在の寺町通=当時の東京極通=東辺)を、西は紙屋川を自然の堀として代用するように巡っており、五里26町が囲まれ、南北約8・5km、東西約3・5km、総延長約22・5kmに及びます。

    結果として、平安京(城)という都城制では実施できなかった(→平安京遷都から10年後の延暦24年〔805〕12月、桓武天皇は平安京の造営を中止していますし…)されなかった羅城らじょうという壁で囲まれた都城制が初めて実現したと言えるのかもしれません。

    「御土居」の築造に関しては面白い説があり、「洛中の範囲を明らかにするため」というのがあります。

    これは『拾遺都名所図会』の「洛中惣土堤」の項に『室町殿日記』から引用されているもので、天正18年(1590)頃、秀吉前田玄以里村紹巴を召して「洛中の境」を検分するのですが、明瞭な回答が出ませんでした。

    そこで秀吉細川幽斎平安京(城)の歴史を尋ねると、幽斎「東は京極迄、北は鴨口、南は九条までを九重の都と号せり。…(中略)…されば内裏は代々少しづつ替ると申せども洛中洛外の境は聊かも違うことなし」と答えます。

    秀吉はこれを聴き、「さあらば先ず洛中洛外を定むべし」と諸大名に命じ惣土堤を築かせたと云うんですね。

    これにより、「御土居」の内側を洛中、外側を洛外と呼び、要所には七口を設け,洛外との出入口としました。それらは鞍馬口や丹波口などの地名として残っていますね。

    しかしながら、洛外との出入口が設けられなかった街道にとっては、「御土居」の存在が生活をする上で邪魔になります。

    例えば、祗園社(現在の八坂神社)に通じる四条橋は撤去され、祗園祭の神輿渡御の経路も変更を余儀なくされたり、清水寺への参詣路に位置した五条大橋(現在の松原橋)も移設撤去され、六条坊門通(現在の五条通)の位置に新たに架橋されたりします。

    江戸期以降、そうした生活に支障をきたす箇所は徐々に取り除かれ、大正期に入ると京都市の近代的都市計画による住宅開発などに伴い、大半がその姿を消していきます。

    調査した京都市埋蔵文化財研究所によると、取水口は大きさは高さ約40cm・幅約60cmで、厚さ約20cmの花崗岩の切り石の板を四方に組み、「御土居」の頂上から約5m下を東西に約19・3mにわたって貫かれ、本殿側の取水口から既に確認されていた土塁の外側、すなわち紙屋川側の排水口まで緩やかに傾斜しながら続いています。

    実は取水口の存在は以前から知られており、元禄15年(1702)に描かれた『京都総曲輪ぐるわ御土居絵図』(京都大学総合博物館所蔵)には「悪水抜(き)」と図示されて取水口と排水口が描かれていたのです。今回の調査で絵図に描かれた内容が改めて実証された事になりますね。

    京都大学の藤井譲治名誉教授は、排水口の石に残る矢穴(石を切り出す際の穴)の形や石材の加工方法から、取水口の設置は「御土居」完成直後から約30年後までの間で、豊臣期徳川期かはっきりしないが、石の調査を進めれば年代が判る可能性がある」と仰っています。

    確かに、「御土居」の付け替えや再利用が確認された東本願寺の別邸・渉成園(枳殻邸きこくていなどを見ても、寛永18年(1641)から東本願寺の新たな寺内町じないまちの開発や渉成園(枳殻邸)の建造などが始まっている事実を考えた場合に、豊臣期に改築などはもっての外で、むし徳川期に設置されたのでは?と思うのですが、どうでしょう!

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    「御土居」は築造時、「御土居」とは呼ばれておらず、「京廻堤」「新堤」「洛中惣構え」、その後「土居掘」と定着します。

    ところが、江戸期になって「掘」の呼称が消えてしまい、「土居」という語句で呼ばれ出すのが寛永期(1624〜44)頃で、「御土居」の名称は近代(明治以降)になって成立したと見られます。

    応仁・文明の乱以降、戦国末期にかけては、がまえ、総曲輪、総ぐるわと呼ばれた、中国の城や中世ヨーロッパの都市のごとく、都市全域を堀や城壁で囲む様態が採用されます。

    それは城郭だけでなく、中世都市の代表格である環濠都市・堺や織田信長明智光秀しいされた旧本能寺(北は六角通、東は西洞院通、南は四条坊門小路(現蛸薬師通)、西は油小路通に囲まれた場所)の惣堀しかり…

    戦国末期には後北条氏の拠点、小田原城惣構は二里半(約9km)に及ぶ空堀と土塁で城下町全体を囲んでいますし、秀吉死去以降の大坂城惣構小田原城の惣構同様、周囲二里の長さでした。

    このように見ると、小田原城惣構のように堀と土塁で城下町全体を囲む、すなわち都市全域を堀や城壁で囲む様態こそがセットな訳で、「土居掘」と称してこそ納得できますね。

    最近の研究では、「土居」だけでは堀の部分が含まれない事から、「御土居掘」と呼ぶ事を提唱する動きが見られるようです。

    ※(参照)京都市埋蔵文化財研究所→


     

    posted by 御堂 at 19:52 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム

    (トピックス)安南国(ヴェトナム)発最古の書簡発見!

    京都市内の古書店で見つかった最古の安南国書簡「安南国副都堂福義侯阮書簡」

    九州国立博物館(以下、九博)は安南国(現在のヴェトナム)から日本に送られた最古の書簡が見つかったと発表しました。これまで最古とされてきた徳川家康宛ての書簡を10年さかのぼ天正19年(1591)の日付が記され、当時の日本とヴェトナム(当時は安南国)の交流を知る貴重な史料との事です。

    新発見の書簡(「安南国副都堂ふくとどう福義侯ふくぎこうグエン書簡」)は漢字で書かれ、九博が昨年、京都市内の古書店から購入。

    縦33・3cm、横34・9cm。日付は「光興14年(=天正19年=1591)うるう3月21日」付となっています。

    宛所(差出人)は「福義候阮」という、この当時、ヴェトナム北部から中部を実効支配していた広南阮氏ホアンという人物の関係者から「日本国国王」宛てに送られたもので、「昨年、ちん梁山りょうざんという使節に象牙などを託しました。今年来航した(使節の)りゅうげんは陳という人物を知らないというので、改めて珍しい品々を贈ります」と過去に日本から来た国王の使者から剣や甲冑が贈られた経緯を綴り、日本との「往来交信之義」(通交)を求めるため、象牙などを贈るという内容。

    九博は、書簡に記された天正19年にあたる安南国の年号「光興」(ヴェトナム後レー朝で使用された元号、1578〜1599)と日付にある閏月が当時のヴェトナムの暦と符合する事、「花押」とみられる印章など文書形式が他の安南国の書簡と似ている事、などを確認し、実物と判断したようです。

    ただ、「日本国国王」は特定できず、日本からの公式の使者を装った東南アジア交易に従事した日本の商人に渡した可能性が高いとの事。

    安南国からの書簡は約20通が確認されていますが、これまでは上述した阮潢徳川家康に宛てた「安南国元帥瑞国公上書」(慶長6年=1601)が最古とされていました。

    九博の藤田励夫・保存修復室長は「1591年当時、既に日本とヴェトナムの間で人の行き来があったことを確実に示す貴重な史料」としながらも、「安南国側は日本と通商したいという安南国の強い意思を感じるが、当時天下人だった豊臣秀吉安南国と通信した記録はなく、陳梁山や隆巌という人物も知られていない。当時は日本人商人が東南アジアで積極的に交易を展開しており、交易を円滑に進めるため将軍などの使節を詐称する事例があったので、この書簡も安南国からの贈り物を目当てに、日本の国王からの使者を装って来航した商人に安南国側が託した可能性が高い」」話されています。

    ― ◇ ◇ ◇ ―

    この時期のヴェトナムは、ちょうど大越国後期黎朝の時期ですが大越皇帝は実権を失っていて、実質的には北部の東京トンキン(現在のハノイ)に勢力を拠る安南都統使マクチン氏政権と、南部の順化フエに勢力を拠る広南クァンナム阮氏政権という地方政権が分立する時代でした。

    この書簡が送られた翌年の光興15年(1592)、鄭氏政権の鄭トゥン莫朝の皇帝・莫茂洽マウホップを殺害して莫朝を北東部の一地方政権に追いやり、後期黎朝が再興(中興黎朝)されます。

    それを考慮した場合に、安南国側の思惑が単に交易だけだったのかな、という疑問が生じませんか?

    もしかすれば、阮氏政権鄭氏政権打倒のために討った手立てとして優れた武器の輸入を考えていたのかも!という発想もなきにしもあらず…です。

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    日本の国王からの使者を装って来航した商人
    さて、異国渡海の朱印状は、この書簡が送られた翌年の天正20年(1592)に、豊臣秀吉が長崎の荒木宗太郎、末次平蔵、船本弥平次、糸屋隋右衛門、京都の茶屋四郎次郎、角倉与一、伏見屋、堺の伊勢屋らの豪商たちに授けたのが最初です。

    その中で気になるのが、長崎の豪商荒木宗太郎ですね。元は肥後熊本の武士(一説に肥後国玉名郡高瀬町〔現在の熊本県玉名市高瀬〕に戦国末期に商人としての荒木氏がみられ、宗太郎も当地の人であった可能性があるそうです)でしたが、天正16年(1588)頃、長崎開港と共に長崎に移住し、朱印船の貿易商として暹羅シャム(タイ)や安南地方に数度貿易船を出して活躍した人物です。

    宗太郎は、阮氏に深く信頼され、のちに元和5年(1619)には、阮氏の娘、王加久戸売ワカクトメ(王家旧戸梅)(本名は阮氏梅)を妻とします。

    宗太郎阮氏の信頼を得ていたとみられ、阮氏の親族として貴族の待遇を許され、阮太郎と称したと伝えられています。

    宗太郎は王加久戸売を長崎に連れて帰りますが、彼女は長崎の町民らにアニオーさんと呼ばれ親しまれそうです。

    その豪奢な輿入れの有様は、現在でも長崎くんちでの宗太郎に所縁のある本石灰町の奉納踊り(7年に一度)には帆先に荒木宗太郎とアニオー姫が乗った御朱印船だそうですよ。

    posted by 御堂 at 07:21 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム