年末ドラマスペシャル「忠臣蔵~その男、大石内蔵助」

「忠臣蔵」泉岳寺への行進

今年もわが殿=“吉良のお殿様”吉良上野介こうづけのすけ義央が“悪役”にされちゃう時期がやって来ました!―

テレビ朝日系列で放送される「忠臣蔵~その男、大石内蔵助」というものです。

以下、ドラマのあらすじです―
「忠臣蔵」刃傷松の廊下

元禄14年春。播州赤穂藩浅野家家老の大石内蔵助くらのすけは、江戸からの思いも寄らぬ知らせに言葉を失った。

藩主の浅野内匠頭たくみのかみが、殿中松の廊下で高家筆頭・吉良上野介に斬りかかったというのだ。内匠頭は朝廷からの使者を接待する役目“勅使饗応役”を務めていたが、諸式指南役の上野介から悉く意地悪い仕打ちを受け、その屈辱に耐え兼ねての事だった。

更に、時を経ずして届いた続報に、内蔵助は愕然と息を呑む。何と幕府は、殿中における刃傷沙汰を不届き千万として内匠頭に即日切腹を命じ、且つ赤穂5万3000石は取り潰しという裁定を下したのだ。

対する吉良には、一切のお咎めなし。喧嘩両成敗が慣習である当時、余りにも不公平すぎる裁定だった。儚く散った藩主・内匠頭の最後に内蔵助は、静かに無念を募らせる。

そして、浅野内匠頭の正室・阿久里あぐりは、髪を切り、実家である備後三次藩の南部坂下屋敷に引き取られ、“瑤泉院”を名乗るようになった…

城の明け渡しの期日が迫る中、赤穂藩では対応を巡って評定が開かれた。籠城し公儀と戦うべきとする者、追い腹を切って亡き君主の後を追うという者、恭順の意を示し速やかに城を明け渡すべきという者…だが、内蔵助の一言で、抗議の為の籠城、殉死を遂げる事と決まった。

ところが、約束の日、城に集まったのは僅か56名。300人以上居た家臣の多くは離散し、中には卑怯にも姿を晦ました者も居た。

そんな中、集まった忠臣たちに向かって、内蔵助は、遂に秘めていた本心を明かす…!

「この内蔵助の望みは唯一つ。怨敵・吉良上野介の首でござる。本懐を遂げる日まで、この内蔵助を信じ、各々方の命をお預け願いたい」

こうして切腹からひと月余りで赤穂城は明け渡され、浅野家は断絶した。

その後、内蔵助は京・山科の里に妻・りくや子どもたちと共に移り住み、放蕩の日々を送っていた。一力茶屋の花魁おいらん・浮橋太夫に入れあげるあまり、“浮き様”と渾名を付けられ、腰抜け侍と囁かれる日々。それは全て公儀の目を欺き、仇討ちなど毛頭考えていないと油断させる為の行動だった。

だが、御家断絶から1年余りが過ぎたある日。その変貌ぶりに失望した堀部安兵衛が内蔵助に斬りかかる…!
「忠臣蔵」吉良邸討ち入り

さて、主な配役の顔触れは、

  • 大石内蔵助良雄(赤穂浅野家筆頭家老)=田村正和さん


  • 立花左近(九條関白家の用人)=北大路欣也さん


  • 大石りく=岩下志麻さん

  • 大石主税ちから良金(内蔵助の嫡男)=西井幸人さん


  • 浅野内匠頭長矩=玉山鉄二さん


  • 片岡源五右衛門高房(側用人、児小姓頭)=尾美としのりさん

  • 堀部弥兵衛金丸(安兵衛の義父、前江戸留守居)=山本學さん

  • 堀部安兵衛武庸(馬廻)=小澤征悦さん

  • 吉田忠左衛門兼亮(足軽頭、郡奉行)=石田太郎さん

  • 赤垣源蔵(馬廻)=勝村政信さん…赤埴源蔵重賢がモデル

  • 岡野金右衛門包住=石垣佑麿さん

  • 礒貝十郎左衛門正久(側用人、物頭)=正名僕蔵さん

  • 岡嶋八十右衛門常樹(札座勘定奉行)=萩野崇さん

  • 大高源五忠雄(金奉行、膳番元方、腰物方)=田中隆三さん

  • 武林唯七隆重(馬廻)=丹羽貞仁さん


  • 大野九郎兵衛知房(末席家老)=峰蘭太郎さん

  • 高田郡兵衛(江戸詰)=林泰文さん


  • 小林平八郎央通(吉良家家老)=春田純一さん


  • 政五郎(吉良邸を作った大工の棟梁)=小野武彦さん

  • 塩山伊左衛門(赤垣源蔵の兄)=西田健さん


  • 「忠臣蔵」南部坂雪の別れ

  • 阿久里(内匠頭の正室、のち瑤泉院)=檀れいさん

  • 戸田局(小野寺十内の妹)=梶芽衣子さん

  • 浮橋太夫(祗園一力の花魁)=石田ゆり子さん

  • ほり(弥兵衛の娘、安兵衛の妻)=京野ことみさん

  • おみよ(政五郎の娘)=大塚ちひろさん


  • 「忠臣蔵」赤垣源蔵・徳利の別れ

  • おまき(赤垣源蔵の義姉)=角替和枝さん

  • おすぎ(赤垣源蔵の兄・塩山家の女中)=荒井萌さん


  • 多門伝八郎重共(江戸幕府目付役)=永島敏之さん

  • 土屋主税逵直(吉良家本所松坂屋敷の隣に屋敷を構えている旗本)=松平健さん

  • 柳沢出羽守保明(幕府側用人、大老格)=伊武雅刀さん

  • 吉良上野介義央(幕府高家肝煎)=西田敏行さん
の皆さんが競演されます。

放送日時は、12月25日(土)午後9時から放映されますよ!

― ◇ ◇ ◇ ―
「忠臣蔵」大石東下り

さてさて、“正和版”内蔵助はどんな映像を私たちに観せてくれるのでしょう!個人的な期待は、「南部坂の別れ」と立花左近との対峙でしょうかね。正和さんと欣也さんの“目でモノを言う”演技が楽しみなトコロ!

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※(参照)浄瑠璃坂の仇討→
※(参照)「堀部安兵衛~いまこの時のために生まれ~」→
※(参照)新春ワイド時代劇「忠臣蔵 瑤泉院の陰謀」→
※(参照)年号の表記について→
※(参照)吉良のお殿様→


    

「王と私」観賞基礎ノート(3)―内侍と王妃の愛―

金処善

BS日テレにおいて「王と私」(全63話)が現在放送されていますね。

私自身は以前、スカパーのLaLaTVで放送された際に視聴し終えているのですが、その際にまとめ切れなかった事、またBS日テレにて「女人天下」の視聴以降、すっかりハマってしまった父と母に分かり易い様に予備知識を作成しようと思うので、以下まとめてみました。

― ◇ ◇ ◇ ―

この「王と私」の時代背景としては、朝鮮王朝の初期にあたり、第6代国王で、端宗タンジョン3年(1455)に起きた「癸酉靖難ケユジョンナン」によって叔父である首陽大君スヤンテグン(第7代国王・世祖セジョン)に譲位させられてしまった端宗タンジョンが、世祖セジョン2年(1457)に復位を図ろうとした事件(「端宗タンジョン復位事件」)が失敗した辺りから、第10代国王で「戊午士禍ムオサファ」(燕山君ヨンサングン4年:1498)や「甲子士禍カップチャサファ」(燕山君ヨンサングン10年:1504)など、その行き過ぎた施政により、「中宗反正チュンジョンバンジョン」(燕山君ヨンサングン12年:1506)と呼ばれる朝鮮王朝史上最初となる“臣下によるクーデター”で廃位された燕山君ヨンサングンまでの物語です。

その間、端宗タンジョン世祖セジョン睿宗イェジョン成宗ソンジョン燕山君ヨンサングン5代の国王に至るまでの朝鮮宮中を管掌していた内侍ネシたちにスポットを当てています。

― ◇ ◇ ◇ ―

「王と私」は、宦官ファングァン内侍府ネシブに勤務するキム処善チョソンと廃妃ユン氏(斉献王后、ユン素花ソファ)の精神的な愛をモチーフにしたドラマですが、こうした内侍と王室の女性との間のスキャンダルが実際に存在した可能性があるようです。

『朝鮮王朝実録』の『太祖実録』太祖テジョ2年(1393)6月19日条を見ると、
癸巳/誅内竪李万、黜世子賢嬪柳氏(『朝鮮王朝実録』太祖実録、太祖2年癸酉(1393)6月癸巳(19日)条)
という記載が見られます。

太祖テジョ2年(1393)6月19日、太祖テジョ(李成桂)が、宦官内豎ネスである李萬を殺害し、王世子セジャ・宜安大君(李芳碩)の妃(世子嬪)である賢嬪ヒョンビン柳氏ユシを追放し廃妃するという、将に青天の霹靂へきれきともいうべき命令を下します。

賢嬪ヒョンビン柳氏ユシという女性は、太祖テジョの末子ですが王世子に任ぜられた宜安大君(李芳碩)の妃(世子嬪)で、2人は恭譲王元年(1390)に、王世子9歳、世子嬪20歳で結婚していました。賢嬪ヒョンビン柳氏ユシは宜安大君(李芳碩)よりも11歳年上だったんですね。

この突然の太祖テジョの命令に対し、台諌テガンたちが賢嬪ヒョンビン柳氏ユシの事件について、「国民たちの間に様々な憶測がが飛び交っているので、真相を明らかにするように上疏したところ、

乙未/台諫、刑曹上言:窃見内竪李万伏誅、賢嬪柳氏黜还私第、国人未知所以、疑惧不已。愿殿下将左右亲近之人、下法司鞫問、以絶国人之疑。上怒、下右散騎常侍洪保、左拾遺李慥、司憲中丞李寿、侍史李原、刑曹正郞盧湘于巡軍(『朝鮮王朝実録』太祖実録、太祖テジョ2年癸酉(1393)6月乙巳(21日)条)
と、太祖テジョは大いに憤慨して、台諫たちを巡軍獄スングンオク(巡軍万戸府)に投獄してしまったのです。

太祖テジョ(李成桂)は台諌たちに対し、
宮中小竪嬪媵黜罰、我家私事、非外人所得知也(『朝鮮王朝実録』太祖実録、太祖テジョ2年癸酉(1393)6月丙申(22日)条)
と、宮中の小竪(李萬)と嬪媵ビンイン(=嬪と媵妾インチョプ、すなわち賢嬪ヒョンビン柳氏ユシ)を追放して処罰する事は私たちの家(王室=李家)の事だから、外部の人々の知るところではないと返しています。

つまり、太祖テジョ(李成桂)の宦官に対する意識には高麗王朝時代の国王と同様に「汝是家奴」(『高麗史』巻第122『宦者伝』金玄の項)といった感じで、“王室、すなわち李家の使用人”という扱いなのですが、台諫たちにとっては、国王たるべきは例え身内の者であっても、法に基づいて処断してこそ、国の規範が正しく成り立つのだ、と意見が食い違ったんですね。

実際に、これ以降は賢嬪ヒョンビン柳氏ユシに対する記録は何一つ残されていません。本当にスキャンダルがあったのか?どうかは“薮の中”に隠されてしまいました。

しかしながら、太祖テジョ(李成桂)のこうした唐突な行動から、若しかしたら世子嬪と内侍との愛があったのかも?という推論の可能性を導かせてくれるのです。

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※(関連)「王と私」観賞基礎ノート(4)―於乙宇同事件―
※(関連)「王と私」観賞基礎ノート(2)―内侍府―
※(関連)「王と私」観賞基礎ノート―内侍&宦官について―

「王と私」観賞基礎ノート(2)―内侍府―

金処善

BS日テレにおいて「王と私」(全63話)が現在放送されていますね。

私自身は以前、スカパーのLaLaTVで放送された際に視聴し終えているのですが、その際にまとめ切れなかった事、またBS日テレにて「女人天下」の視聴以降、すっかりハマってしまった父と母に分かり易い様に予備知識を作成しようと思うので、以下まとめてみました。

― ◇ ◇ ◇ ―

この「王と私」の時代背景としては、朝鮮王朝の初期にあたり、第6代国王で、端宗タンジョン3年(1455)に起きた「癸酉靖難ケユジョンナン」によって叔父である首陽大君スヤンテグン(第7代国王・世祖セジョン)に譲位させられてしまった端宗タンジョンが、世祖セジョン2年(1457)に復位を図ろうとした事件(「端宗タンジョン復位事件」)が失敗した辺りから、第10代国王で「戊午士禍ムオサファ」(燕山君ヨンサングン4年:1498)や「甲子カップチャ士禍」(燕山君ヨンサングン10年:1504)など、その行き過ぎた施政により、「中宗反正チュンジョンバンジョン」(燕山君ヨンサングン12年:1506)と呼ばれる朝鮮王朝史上最初となる“臣下によるクーデター”で廃位された燕山君ヨンサングンまでの物語です。

その間、端宗タンジョン世祖セジョン睿宗イェジョン成宗ソンジョン燕山君ヨンサングン5代の国王に至るまでの朝鮮宮中を管掌していた内侍ネシたちにスポットを当てています。

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1.内侍府の成立

内侍府、恭愍王五年、改宦官職、設内詹事、内常侍、内侍監、内承直、内給事、宮闈丞、奚官令、後置内侍府、秩比開城府、判事一人、正二品、検校二十八人、同知事二人、従二品、検校三十二人、知事一人、正三品、検校三十八人、僉事一人、従三品、検校二十八人、同知事二人、正四品、同僉事二人、従四品、左承直二人、正五品、右承直二人、従五品、左副承直一人、正六品、右副承直一人、従六品、司謁一人、正七品、謁者一人、従七品、宮闈丞一人、正八品、奚官令一人、従八品、給事一人、正九品、通事一人、従九品、辛禑罷之、恭譲王復之、階三品
(『高麗史』巻77、百官志)

内侍府ネシブは高麗王朝第31代国王・恭愍王コンミンワンの代、すなわち恭愍王コンミンワン5年(1356)に成立した官衙(官庁)で、一旦は次代の王禑ワンウの代で廃止されますが、第34代国王・恭譲王コンヤンワンの代になって改めて復活します。

その職員構成を見ると、成立当初は、
  • 内詹事
  • 内常侍
  • 内侍監
  • 内承直
  • 内給事
  • 宮闈丞
  • 奚官令
その後改変されて、
  • 判事 1人…正二品相当
  • 検校 28人…従二品相当
  • 同知事 2人…従二品相当
  • 検校三 32人…正三品相当
  • 知事 1人…正三品相当
  • 検校 38人…従三品相当
  • 僉事 1人、従三品相当
  • 検校 28人…正四品相当
  • 同知事 2人…正四品相当
  • 同僉事 2人…従四品相当
  • 左承直 2人…正五品相当
  • 右承直 2人…従五品相当
  • 左副承直 1人…正六品相当
  • 右副承直 1人…従六品相当
  • 司謁 1人…正七品相当
  • 謁者 1人…従七品相当
  • 宮闈丞 1人…正八品相当
  • 奚官令 1人…従八品相当
  • 給事 1人…正九品相当
  • 通事 1人…従九品相当
といった構成員になります。

2.内侍府の職掌

やがて、朝鮮王朝が開かれると太祖テジョ元年(1392)に官制改革が施され、

定文武百官之制…(中略)…文武流品之外、別置内侍府為宦官職…(中略)…皆別其散官職事之号、不使雑于流品(『朝鮮王朝実録』太祖実録、太祖元年(1392)7月丁未(28日)条)

の様に、宦官ファングァンの職務として内侍府ネシブが改めて設置されます。

これにより、宦官ファングァンによる内侍府ネシブが朝鮮王朝においても制度上、明文化された事になります。

朝鮮王朝における内侍府ネシブは、「王后与、内侍府」(『朝鮮王朝実録』世宗実録、世宗15年癸丑(1433)5月甲寅(2日)条)とある様に、後宮に所属する官衙でした。

朝鮮王朝後期、高宗コジョンの代に国王の生父である興宣君フンソングン昰応ハウン大院君テウォングン(興宣大院君)となって政治的実権を握ると、勢道セド政治や朋党プンダン政治を改め、王権を強化するための施策の1つとして編纂された『大典会通』(高宗2年:1865)を基に内侍府ネシブの職掌を見てみると、

内侍府
掌大内監膳伝命守門掃除之任
大内(大内裏?)内の食事の監督、王命の伝達、守門・掃除に関する任務を管掌する

共一百四十員四都目
≪全部で140人。1年に4回、都目政事ドモクジョンサ(毎年6月と12月に行われる官員の勤務評定=勤務態度を評価し、異動や任免などを行っていた)を行う

○四品以下依文武官仕数加階三品以上則有特旨乃授
○四品以下は、文武官の勤務日数に準じて昇級させる。三品以上は、王の特旨があれば任命する

<原従功臣則例加至通訓>
<原従功臣ウォンジョンコンシン太祖テジョ成桂ソンゲの朝鮮建国に尽力した人々)の場合、定例によって通訓大夫トンフンデブ(正三品堂下)まで昇級させる>

長番及出入番者毎日給仕一
長番チャンボン(交替勤務ではなく、宿営しながら長期期間、勤務する事)及び出入番チュルイプボン(交替で輪番勤務をする事)の者は、毎日1日分の勤務日数を加算する

<出番亦給>
出番チュルボンにも加算する>

講所読書通給別仕二略通一粗通半不通削仕三
経書(儒教で特に重視される文献)を読ませて解釈試験を行い、「通」で及第すれば特別に2日分の勤務日数を加算し、「略」で及第ならば1日分、「粗」で及第ならば半日分とし、「不通」で落第した場合は、3日分の勤務日数を減算する

<誦亦同>
<経書暗誦試験でも同じ>

講四書中自願一書三処小学三綱行実並三処得通五者加階免学
四書(=『論語』・『孟子』・『大学』・『中庸』)のうち、自分の希望する1つの中から3か所、『小学』・『三綱行実』から合計3か所を解釈させ、「通」を5つ得た者は、品階を昇級させて試験を免除する

<年満三十五亦免>
<年齢が35歳に達しても免除とする>

○聴講日給別仕一毎朔一度講三処依上項給仕毎都目講者則七処誦者則八処倶通倶誦者六品以上則準職七品以下則守職四通三略以上者当受職則陞授其余給仕
○経書解釈試験日は、特別に1日分の勤務日数を加算し、毎月1回3か所を解釈させて、上項に依って勤務日数を加算する。毎回の都目政事において、経書解釈試験で7か所、経書暗誦試験で8か所を全て「通」で及第・暗誦した者は、六品以上ならば準職(品階は昇級せずに俸禄額のみを増やす事)、七品以下ならば守職(品階に相当官職が実際の自分の品階よりも高い状態の官職)に任命する。「通」が4つで「略」が3つ以上の者は、官職を受ける事になっていれば品階を昇級させて任命する。それ以外は、勤務日数のみを加算する

<雖六通七誦有粗則給仕>
<「通」で及第が6つ、暗誦合格が7つだとしても、「粗」が含まれれば勤務日数のみを加算する>

○尚膳二員従二品
尚膳サンソン(定員)2人、従二品相当。宮中において妃嬪ビビン大妃テビ世子セジャなどの食事に関する業務を管掌する者が1人、内侍府の総監する長官が1人

尚醞一員正三品
尚醞サンオン(定員)1人、正三品相当。王室の世話などを管掌する

尚茶一員正三品
尚茶サンダ(定員)1人、正三品相当。王、妃嬪、世子、世子嬪、大妃などの茶菓を接待する業務を管掌する

尚薬二員従三品
尚薬サンヤク(定員)2人、従三品相当。宮中で使用される薬に関する業務を管掌する

尚伝二員正四品
尚伝サンジョン(定員)2人、正四品相当。王命を伝達する業務を管掌する

尚冊三員従四品一鷹坊逓児二大殿薛里酒房対客堂上王妃殿承伝色薛里逓児止此
尚冊サンチェク(定員)3人、従四品相当。うち1人は鷹坊ウンバン(狩猟のための鷹を飼育し、鷹狩に関する業務を管掌する)の逓児職チェアジクとし、2人は大殿テジョン薛里ソルリ(各宮・殿において、王族の傍に近侍する)・酒房・対客堂上(外観上堂上官の様に装い、外国の使節の接待を担当)や王妃殿ワンビジョン承伝色スンジョンセク(王妃の命令を取り次ぐ業務を管掌する)の薛里とする。これらの者の逓児職はここで止まる

尚弧四員正五品大殿鷹坊弓房王妃殿酒房文昭殿薛里世子宮長番逓児止此
尚弧サンホ(定員)4人、正五品相当。大殿の鷹坊・弓房グンバン(政府の武器調達部署である軍器寺クンギシの傘下にあり、戦闘武器としての弓矢などの備品を製造する)、王妃殿の酒房、文昭殿ムンソジョン(太祖李成桂の妃・神懿王后韓氏を祀った殿舎)の薛里、世子宮セジャグンの長番とする。これらの者の逓児職はここで止まる

尚帑四員従五品大殿廂庫灯燭房多人薛里監農世子宮薛里逓児止此
尚帑サンタン(定員)4人、従五品相当。宮廷の財貨を管理する業務を管掌した。大殿の廂庫(宮中の物品を保管する倉庫)1人、灯独房ドゥンチョクバン多人ダイン多人房ダインバンに属する宦官)1人、監農(農事に関する事を管理・監督する宦官)1人、世子宮の薛里1人とし、輪番で業務し、勤務期間中のみ俸禄を受ける。これらの者の逓児職はここで止まる

尚洗四員正六品大殿掌器掌務火薬房司鑰房掌内苑王妃殿灯燭房文昭殿進止世子宮酒房嬪宮薛里酒房逓児止此
尚洗サンセ(定員)4人、正六品相当。大殿の掌器(宮中の器物を管理する業務を管掌する)・掌務チャンム(宮中の一般事務を管理する業務を管掌する)・火薬房ファヤクバン司鑰房サヤクバン(宮城門の鍵を管理する業を管掌する)・掌内苑(宮城の庭園を管理する業務を管掌する)、王妃殿の灯燭房、文昭殿の進止、世子宮の酒房、嬪宮ピングンの薛里・酒房とする。これらの者の逓児職はここで止まる

尚燭四員従六品大殿門差備王妃殿門差備掌務世子宮灯燭房逓児止此
尚燭サンチョク(定員)4人、従六品相当。大殿の門差備ムンチャビ(門番を担当する宦官)、王妃殿の門差備・掌務、世子宮の灯燭房。これらの者の逓児職はここで止まる

尚烜四員正七品世子宮門差備各宮薛里門差備逓児止此
尚烜サンフェ(定員)4人、正七品相当。世子宮の門差備、各宮の薛里・門差備。輪番で業務し、勤務期間中のみ俸禄を受ける。これらの者の逓児職はここで止まる

尚設六員従七品
尚設サンソル(定員)6人、従七品相当。宮殿の補修や宴席を設けるなどの業務を管掌する。輪番で業務し、勤務期間中のみ俸禄を受ける

尚除六員正八品
尚除サンジェ(定員)6人、正八品相当。宮中の掃除業務を管掌する

尚門五員従八品
尚門サンムン(定員)5人、従八品相当。宮門グンムンの守直を担当。輪番で業務し、勤務期間中のみ俸禄を受ける

尚更六員正九品
尚更(定員)6人、正九品相当。王、世子、妃嬪、大妃の日常の世話などの業務を管掌する

尚苑五員従九品≫
尚苑サンウォン(定員)5人、従九品相当>宮廷の庭を育てる業務を管掌する

[増]大殿長番<無定数>出入番<四十二>
[増]大殿長番<定員は設けない>出入番<(定員)42人>

王妃殿出入番<十二>
王妃殿出入番<(定員)12人>

世子宮長番<無定数以大殿長番兼>出入番<十二>
世子宮長番<定員は設けない、大殿長番に兼任させる>、出入番<(定員)12人>

嬪宮出入番<八○各処上直小宦九十>
嬪宮出入番<(定員)8人、○各宮で上直する小宦ソファン(若い宦官)(定員)90人>(「内侍府」『大典会通』巻1、吏典)

3.まとめ

朝鮮王朝における内侍府ネシブは「宮中にて使役される内官」とされ位置付けられ、その職掌は国王(大殿)・妃嬪(中宮や側室)・大妃テビ世子セジャにそれぞれ配属され、侍従と雑務を担っていました。それらの要点をまとめてみると、
  • 内侍府ネシブの定員は140人
  • 職掌は16部門
  • 二品階級の尚膳サンソンから九品階級の尚苑サンウォンまで59人
  • 内侍ネシは、1年に4回、都目政事(毎年6月と12月に行われる官員の勤務評定)で人事査定がなされていた
という事が判っています。

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※(関連)「王と私」観賞基礎ノート(4)―於乙宇同事件―
※(関連)「王と私」観賞基礎ノート(3)―内侍と王妃の愛―
※(関連)「王と私」観賞基礎ノート―内侍&宦官について―

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※(参考)「大典会通 巻1 吏典【内侍府】」『大典会通』日本語訳(「The Korean Peninsula Blog」)
※(参考)矢木毅「高麗時代の内侍と内僚」『高麗官僚制度研究』
※(参考)朴孝信「高麗時代の『内侍』―その独自性と別称―」『駿台史学』19
※(参考)西川孝雄「高麗時代の『宦者伝』研究―立志人物の分析―」『愛知学院大学文学部紀要』34

「王と私」観賞基礎ノート―内侍&宦官について―

金処善

BS日テレにおいて「王と私」(全63話)が現在放送されていますね。

私自身は以前、スカパーのLaLaTVで放送された際に視聴し終えているのですが、その際にまとめ切れなかった事、またBS日テレにて「女人天下」の視聴以降、すっかりハマってしまった父と母に分かり易い様に予備知識を作成しようと思うので、以下まとめてみました。

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この「王と私」の時代背景としては、朝鮮王朝の初期にあたり、第6代国王で、端宗タンジョン3年(1455)に起きた「癸酉靖難ケユジョンナン」によって叔父である首陽大君スヤンテグン(第7代国王・世祖セジョン)に譲位させられてしまった端宗タンジョンが、世祖セジョン2年(1457)に復位を図ろうとした事件(「端宗タンジョン復位事件」)が失敗した辺りから、第10代国王で「戊午士禍ムオサファ」(燕山君ヨンサングン4年:1498)や「甲子士禍カップチャサファ」(燕山君ヨンサングン10年:1504)など、その行き過ぎた施政により、「中宗反正チュンジョンバンジョン」(燕山君ヨンサングン12年:1506)と呼ばれる朝鮮王朝史上最初となる“臣下によるクーデター”で廃位された燕山君ヨンサングンまでの物語です。

その間、端宗タンジョン世祖セジョン睿宗イェジョン成宗ソンジョン燕山君ヨンサングン5代の国王に至るまでの朝鮮宮中を管掌していた内侍ネシたちにスポットを当てています。

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1.内侍とは?

さて、国王が公的な事や私的な事をする場を「宮廷」と云います。(因みに「廷」は「庭」の意味があります)

その「宮廷」内で政治的・公的活動の場を「外廷(外朝)」または「府中」と呼び、国王の私生活としての場を「内廷」または「宮中」と呼称します。このように質的に区分された2つの場において―
  • 公人としての国王に奉仕する外廷官(官僚)と、
  • 私人としての国王に奉仕する内廷官(内僚)が、
或いは対立し、或いは補完し合って国政が展開されて行ったのです。

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朝鮮王朝の初期の頃は、高麗王朝の政策の反省点を活かした官制改革の様態が随所に見られるので、高麗王朝期から遡ってみる必要がありますが…

内廷官、すなわち内僚を構成する役職として、主に次の3つが存在したようです―

内侍ネシ
高麗王朝初期には首都・開京ケギョン(現在の朝鮮民主主義人民共和国・開城ケソン市)へ人質に出された有力家門の子弟たちで構成されていましたが、4代国王・光宗クァンジョンの時に科挙クァゴ制度が初めて導入され、5代国王・成宗ソンジョンの時以降はその人質にされていた子弟たちのうち科挙クァゴに及第した者が次第に官僚化(知職に輔弼する文官と身辺の警護をする武官)されて構成されます。

高麗王朝期の内侍ネシは、王命の草案作成や儒教の経典の講義、王室の財政管理全般を担当し、場合によっては、国王に代わって宮廷の外の民性を探る事などもしていました。

任期を終えた優秀な者は新たに地方官や品官に任命される事があったため、人々の間では栄職であると考えられていました。

しかし、高麗王朝末期には武官が内侍ネシを兼任する様になったり、軍役を忌避しようとした者が争うなど、売官が横行します。

内豎ネス宦官ファングァン
宮中の掖庭署エクジョンソ(「掖庭エクジョン」とは皇宮中の宮女の居住する場所を指し、主に宮女の簿籍の管理などを掌ります)に所属する内廷の員僚で構成されていました。

「王と私」では、キム処善チョソンという宦官ファングァンを中心に描かれていますが、燕山君ヨンサングンの代に専横をふるったキム子猿ジャオンという人物については、『朝鮮王朝実録』によればその身分は内豎ネスとなっており、宦官ファングァン内豎ネスにはどういった差異があったのか、今後に究明すべき点だと思います。

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上記の様に、高麗時代前期においては、宮中の侍従と王命の出納(雑務)を掌る内侍ネシには、去勢された宦官ファングァンではなく、科挙に合格した名門家子弟など優れた人材で構成された、いわば最高のエリート官職だったのです。

例えば、“韓国の孔子”と呼ばれるチェチュンの孫で、高麗第11代国王・文宗ムンジョン
の代に活躍したチェ思諏サチュ、高麗第24代国王・元宗ウォンジョンの代に朱子学を導入し、成均館ソンギュングァン(朝鮮時代最古の教育機関で、現在の成均館ソンギュングァン大学校)の振興を図ったアンヒャングなどが内侍院ネシウォンに召され、内侍ネシ職を歴任した人物たちです。

崔思諏…(中略)…冲之孫自少力学工文文宗朝登第王以思諏名家子博学多聞召入内侍省(『高麗史』巻96、列伝巻第9)

安珦…(中略)…少好学元宗初登第補校書郎遷直翰林院属内侍…(中略)…奉使西道以廉称召喚内侍院(『高麗史』巻105、列伝巻代18)

しかし、武臣政権以降は武臣が内侍ネシを兼任する様になり、尚且つ軍役を忌避しようとする者の売官行為が蔓延はびこったり、更には宦官が国王の寵愛によって内侍ネシに任命されるなど、質の低下が見られ出します。

そんな中で高麗王朝後期に至り、内侍ネシ同様に宮中の侍従と王命の出納(雑務)を掌っていた内豎ネスの存在が目立って大きくなってきます。

内豎ネスは殆んど賤隷民出身者によって構成されており、「以内僚口伝及内侍院伝請」(『高麗史』巻104、金周鼎伝)とある様に口伝で王命の出納(雑務)にあたるという点で内侍ネシとは異なる存在でした。

そもそも、賤隷民出身者による政界進出は、モンゴルへの服属以降に増加していった傾向にあります。

それは、高麗国王の立場が常に不安定なものであったため、国王は側近が絶対の忠誠心を持っている事を最重要視し、賤隷民出身者も寵愛を受けるためにより一層の忠誠を誓い、国王のために必死で功を立てようとするなど、相互の利害関係が一致し深い信頼関係が結ばれた結果、賤隷民出身者はより出世をする事が可能になり、且つ国王は自身の立場の安定を図る事ができたという要因も絡んでいます。

賤隷民出身者の政界進出は、高麗王朝後期のモンゴル服属という背景が国王と忠臣の間の関係をより密接なものにしたために頻繁に起こり得た現象だったのです。

2.宦官とは?

宦官ファングァンとは、去勢(=生殖器を切除する事)を施された官吏の事を云います。「ファン」は「神に仕える奴隷」という意味があり、転じて王宮に仕える者と解され、宮中で用いられた官吏を宦官ファングァンと呼称する様になります。

その存在は、古代中国に始まり、朝鮮やヴェトナムなど、主に中国の版図であった東アジア圏に広まりました。

日本においては、一般的風習としては広がりをみせていませんが、男性器(陰茎と陰嚢)を去勢した例(「羅切らせつ」と呼んでいた…)はあった様です。

例えば、『宇治拾遺物語』第6「中納言師時もろときが法師の男根をあらためた事」での記載や、後鳥羽上皇が熊野参詣中の建永元年(1206)、法然ほうねんの弟子で後鳥羽院の女房たちと密通を働き女犯にょぼんの罪に処された安楽房あんらくぼう遵西じゅんさいは宮刑として「羅切」されています。

また、『後太平記』によれば「建武式目」には宮刑の記述があり、男性は「ヘノコ(陰核)を裂き」(=陰茎や陰嚢を切除)、女性は膣口を縫い潰して塞ぐとあります。

元々、中国において刑罰によって去勢された者や異民族からの捕虜、或いは献上奴隷の者たちが去勢を施された後、皇帝や後宮に仕えるようになったのが宦官ファングァンの始まりと云われています。

皇帝やその寵妃たちに重用され、権勢を誇る者も出現する様になると、自宮じきゅうといって、自ら去勢して宦官ファングァンを志願する者たちも現れるようになります。(但し、去勢した後の傷口から細菌が入って死ぬケースがみられるなど、生存率は約3割弱であったようですが…)

中国で有名な宦官ファングァンといえば、
  • 趙高(戦国末期~秦の政治家)
  • 司馬遷(前漢の歴史家、『史記』の著者)
  • 蔡倫(後漢の宦官ファングァン、製紙法の製造技術を改良)
  • 十常侍(後漢末期に専権をふるった宦官ファングァングループ)
  • 黄皓(蜀漢の宦官ファングァン
  • 鄭和(明の武将、南海への大航海を行使)
らが挙げられますね。

ドラマの舞台である朝鮮では、現存する朝鮮最古の歴史書『三国史記』の巻10『新羅本紀』には、
興徳王立…(中略)…冬十二月 妃章和夫人卒…(中略)…王思不能忘 悵然不楽 群臣表請再納妃 王曰 隻鳥有喪匹之悲 况失良匹 何忍無情遽再娶乎 遂不從 亦不親近女侍 左右使令 唯宦竪而己
とある様に、新羅の第42代国王・興徳王フンドクワンが、王妃の章和チャンファ夫人が興徳王フンドクワン元年(826)に即位後2か月で死去してからは、後妃を迎えず、ましてや後宮の侍女も近づけず、「宦竪」、すなわち宦官ファングァンに身の回りの世話をさせた、記述があり、9世紀頃には既に宦官ファングァン制度が存在した事が判ります。

その後の高麗王朝や朝鮮王朝にも宦官ファングァン制度は存続しています。

また、自国の官僚として使用しただけではなく、自国民を宦官ファングァンにして宦官を宗主国(=歴代の中国王朝)や従属を認めた北方民族(契丹→遼)などに朝貢品の1つとして貢進していた事でも知られています。

元王朝の順帝(トゴン・テムル)時代に皇后ファンフの腹心となり、後宮に権勢を振るったパク不花ブルファという人物は、高麗王朝から貢進された宦官ファングァンであり、また太宗テジョン3年(1403)には、

乙亥朔/朝廷使臣韓帖木児、与還郷宦官朱允端来。有宣諭、選年少無臭気火者六十名以遣。上郊迎、至闕設宴。(『朝鮮王朝実録』太宗実録、太宗3年(1403)11月乙亥(1日)条)

庚申/使臣韓帖木兒還。率被選火者三十五人而赴京也。上餞于西郊、宦者等皆涕泣。(『朝鮮王朝実録』太宗実録、太宗3年(1403)閏11月庚申(17日)条)

の様に、明王朝の皇帝(永楽帝)より「年齢が若く、容姿閑雅、性質利発な「火者」(=宦官ファングァンの別称)60名を選抜して貢進せよ」との聖旨が奉られ、まず35名が選ばれ、以降も人数が選ばれたという記録が残されている。

宦官ファングァンになる者には、
  • 異民族の捕虜に対して雑役に使うために去勢してしまう場合
  • 外国からの貢進や奴隷貿易によって得た奴隷を労役に使うために去勢してしまう場合
  • 罪によって宮刑に処せられ、罰として宮廷に送り込まれる場合
  • 個人的な理由から自ら志願、或いは親の命令によって手術を受け、宮廷に入る場合
などに分別できますが、「王と私」の場合、貧しい者でも内侍になれば王宮に勤める事ができるため、生活に困窮した庶民が幼い息子を内侍に差し出す様子が描かれています。また、宦官ファングァンになって運良く出世すれば、一気に富貴の身になれるし、形式的に妻を娶り養子をとる事で家門を繁栄させている様が描かれていましたね。

去勢の方法としては、
  • 完全去勢
     中国(陰茎と睾丸を切除)、日本(陰茎と陰嚢を切除)、イスラム諸国(陰茎と陰嚢及び睾丸を切除)

  • 不完全去勢
     朝鮮(睾丸のみ切除)、イスラム諸国(陰嚢または両方の睾丸のみ切除)
がありました。朝鮮での去勢は不完全去勢(睾丸のみ切除)だったので、実際に性交渉は可能だったようですね。

刀子匠

現在の大韓民国ソウル特別市永登浦ヨンドンポ区を流れる漢江ハンガンの中州・汝矣島ヨイド龍湫ヨンチェという池の傍に、「王と私」でいう内子院ネジャウォン(私設内侍養成所)とまではいかないけど、内侍が量産された施術所があったそうです。そこでは、
  • 政府公認の去勢手術を行う施術者である刀子匠トジャチャンという職人が従事していた
  • まず白い紐などで志願者の下腹部と足の付け根部分を紐で縛り、次に熱い胡椒湯で性器を念入りに洗う
  • 刀子匠トジャチャンは志願者に対して最後の念押しをする(「後悔するか?、しないか?」とか…この時、少しでも躊躇ためらいの表情が顔に出れば施術は行われない)
  • 本人が納得していれば、刀子匠トジャチャンは鎌状にやや反り返った小さな刃物で根元を緊縛して勃起させた性器を切除し、熱した灰で止血します熱い砂の中に埋めたり、油を塗って止血をする
  • 白蝋はくろう(銅と亜鉛の合金)などの金属の針などを尿道に押し込んで栓をし、傷口は冷水に浸した紙で覆い、注意深く包み込む(傷口が盛り上がって尿道を塞いでしまうのを防ぐため)
  • 介助者に抱えられて2~3時間、部屋の中を歩き回った後、横臥させられる
  • 術後、水を呑まないまま3日間寝たままで過ごす(喉の渇きや傷の痛みのため、相当な苦痛を経験するのだとか―)
  • 3日経って尿道から栓を抜いた時に噴水の様に尿が出れば成功(尿が出ないと場合、施術は失敗で尿毒症による死が待っている…)
  • 刀子匠トジャチャンはかなり高い技術水準だったようで、成功率は97~98%だった模様
  • 術後、傷が癒えて起き上がるまでに100日程度を要したらしい
  • 切除された性器は、刀子匠トジャチャンにより腐敗しない様に加工され、小さな壺に収められる(この壺が宦官ファングァンにとっての身分証明になる)
  • 施術料には身元保証人が必要で、希望者が貧困民の場合、出世払いというケースが多かった
  • 施術料が払えない場合、性器が入った壺が未払いの担保として没収されるという
  • 8歳より前に性器を切除された場合、稀に新しい性器が成長する可能性があるらしい
「王と私」内子院ネジャウォンの生徒の中では唯一、チョン漢守ハンスだけが去勢手術を受けていますよね。去勢後3日間は水が飲めず、地下牢で苦しんでいたシーンが想い出されます。

そんな漢守ハンスは生存率約3割弱を克服した強者と云えましょう(まぁ、お母さんに楽をさせたい一心ってのもあったし…)…しかし何と言っても、刀子匠トジャチャンが腕の確かなケドチだったのも幸いしたのかな!

また、チェ自治ジャチみたく、男性器が生来の不具だったり、切除したのにも拘らず、新しく性器が成長しちゃった挙句に、宦官ファングァンの中には女官と密通しちゃう(=「テサリ」)ケースもよく見かけられたとか―

※余談ですが、ヴェトナムでは1945年に廃止されるまで宦官ファングァン制度が残っていたそうですよ。

3.その後の内侍と宦官

最終的に、内侍府ネシブ宦官ファングァンの職となっていく過程を見ると、
内侍府、恭愍王五年,改宦官職、…(中略)…辛禑罷之、恭譲王復之、階三品(『高麗史』巻77、百官志)
  1. 恭愍王コンミンワンの代、すなわち恭愍王5年(1356)に宦官ファングァンが改変され、成立した官衙(官庁)であった
  2. 王禑ワンウの代になり、廃止したが、恭譲王コンヤンワンの代になり、復活した
恭愍王コンミンワン宦官ファングァンたちを重用するのに対し、
凡宦官職、…以宦官参朝官、無古制…(中略)…宦者、自国初、至慶陵朝、不得参官、近来、以宮中伝命之任、…(中略)…願遵慶陵之制、不許拝朝官、…(中略)…祖宗之制度、宦寺無官、文廟之世、宦寺給事、不過十数人、亦未嘗食禄、忠烈王朝、亦不拝参官、至于玄陵、使宦寺、…(中略)…今復立内侍府、階三品、…(中略)…願宮中給事者、只給衣食、罷内侍府、判曰、自今、不許朝官、毋革内侍府(『高麗史』巻75、選挙志、銓注)

宦寺、本以宮内掃除為職、無与外事、…(中略)…在我祖宗之制、宦官給事、不過数十人、亦未嘗食禄、至于玄陵、刑余熏腐、布列朝班、卒致万生之変、亦殿下之所親見也、殿下即位、復立内侍府、階三品、是殿下以中興之主、復踏亡国之轍也、願自今、宮中宦官給事者、只給衣食、罷内侍府、不聴(『高麗史節要』巻34、恭譲王元年12月条)
として、
  1. 宦官ファングァンは制度上の職制にはなかった
  2. 宦官ファングァンは数十人しかおらず、無給だった
  3. 宦官ファングァンは宮中の掃除など、雑役を担っていた
などを引き合いに立て、内侍ネシを廃止するようにと上疏する者もいたが聞き入れられず、恭愍王コンミンワンの代で宦官ファングァンが国政を議する様になったのです。

定文武百官之制…(中略)…文武流品之外、別置内侍府宦官職、掖廷(庭)署内豎職…(中略)…皆別其散官職事之号、不使雑于流品(『朝鮮王朝実録』太祖実録、太祖元年(1392)7月丁未(28日)条)

やがて、朝鮮王朝が開かれると太祖テジョ元年(1392)に官制改革が施され、掖庭署エクジョンソ内豎ネスのみの職務となり、宦官ファングァンの職務として新たに内侍府ネシブが設置されます。

これによって、内侍ネシたちによる内侍院ネシウォンと、宦官ファングァンたちによる内侍府ネシブが並び立つ訳ですが、「大王与、内侍院;王后与、内侍府」(『朝鮮王朝実録』世宗実録、世祖セジョン15年癸丑(1433)5月甲寅(2日)条)の様に、内侍院ネシウォンは国王に所属する官衙、内侍府ネシブは後宮に所属する官衙とされたのです。

議政府拠吏曹呈啓「内侍院内侍府、名号相同、請改内侍院内直院」従之(『朝鮮王朝実録』世宗実録、世祖セジョン27年(1445)4月庚午(27日)条)
ところが、内侍ネシが勤務する内侍院ネシウォン宦官ファングァンが勤務する内侍府ネシブが名称が混同するので、内侍院ネシウォン内直院ネジクウォンという名称に改められます。この内直院の主な職務は、宦官ファングァンの権力を牽制、監視するために設置された機関です。

吏曹啓「内直司樽別監、皆已革罷、其所任諸事、請令兵曹、用忠義、忠贊衛差定」從之(『朝鮮王朝実録』世祖実録、世祖12年(1445)正月壬子(9日)条)
しかし、結局のところ、行政刷新の波により、内直院ネジクウォンの職務分掌の全てが丞政院、忠義衛、忠贊衛にそれぞれ分離され、高麗初期から続いた内侍院ネシウォンは役割を終える事になります。

4.まとめ

朝鮮王朝における宦官ファングァン「去勢された男子が内侍府ネシブに所属し、宮中にて使役される内官」と規定できます。その内容は国王(大殿)・王妃(中宮)・大妃テビ・(王)世子セジャ(世子宮)に配置され、使命と雑務を担うものでした。初期の頃は僅か数十人に過ぎませんでしたが、その数は140人にも達した程でした。

朝鮮における宦官ファングァン制度光武グァンム皇帝ファンジェ高宗コジョンの時代に行われた甲午改革カボゲヒョク高宗コジョン31年~光武グァンム元年:1894~97)によって廃止されるのです。

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※(関連)「王と私」観賞基礎ノート(4)―於乙宇同事件―
※(関連)「王と私」観賞基礎ノート(3)―内侍と王妃の愛―
※(関連)「王と私」観賞基礎ノート(2)―内侍府―

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※(参考)宦官列伝
※(参考)矢木毅「高麗時代の内侍と内僚」『高麗官僚制度研究』
※(参考)朴孝信「高麗時代の『内侍』―その独自性と別称―」『駿台史学』19
※(参考)西川孝雄「高麗時代の『宦者伝』研究―立志人物の分析―」『愛知学院大学文学部紀要』34

昭和20年8月、樺太の悲劇―その2 ドラマ「天北原野」と三船殉難事件

私が初めて昭和20年(1945)8月の樺太からふと(現在のロシア連邦サハリン州)の悲劇について知ったのは、あるドラマがきっかけでした。

それは、昭和52年(1977)4月6日~8月31日に全22話で放送された天北てんぽく原野」というドラマで、三浦綾子さんの同名小説『天北原野』が原作のドラマでした。

ちなみに、天北原野とは、北海道北オホーツク一帯に属する、天塩川と頓別とんべつ
川の下流から北方の平野地帯を指し、道北地区側のサロベツ原野(豊富町とよとみちょう幌延町ほろのべちょうの海岸線沿いに200k㎡に及ぶ広大な湿原)とオホーツク地区側の猿払さるふつ原野(稚内市、猿払村、浜頓別町、枝幸町えさしちょうの海岸線沿いに500k㎡に及ぶ湿原帯)を指し、北海道にかつて存在した旧塩国と旧見国から一字を採って呼んでいます。

ドラマのあらすじは―

舞台は大正末期から昭和の敗戦直後に道筋を置いており―
北海道ハマベツ。
貧しいこの土地で生まれ育った美しい少女貴乃きのと、小学校校長の息子孝介は、お互いに愛し合い、結婚の約束を結んでいた。
しかし製材所の息子完治の恐ろしいたくらみによって、孝介は遠い樺太へと旅立ち、残された貴乃には完治の執拗な求愛が続く…
激しい運命の嵐に翻弄される貴乃と孝介。二人の仲が引き裂かれるほど、心の奥で愛は静かに燃え上がる。完治はあくどい方法で財をなし、その妹あき子はロシア人の青年イワンとの不倫の恋に苦しむ。
平和に見えた樺太にも戦争の影は近づき、やがてソ連軍が侵入してくる…

といった展開。主な配役は、
  • 菅井貴乃=山本陽子さん
  • 池上孝介=北大路欣也さん

  • 須田原完治=藤岡琢也さん
  • 須田原あき子(完治の妹、孝介の妻)=松坂慶子さん

  • 須田原伊之助(完治の父)=小沢栄太郎さん
  • 須田原フク(完治の母)=赤木春恵さん
  • 須田原達吉(完治の兄?弟?)=松山英太郎さん
  • 須田原加津夫(完治と貴乃の子)=佐久田修さん
  • 須田原弥江(完治と貴乃の子)=杉田かおるさん

  • 池上太郎(孝介の父)=加藤嘉さん
  • 池上定子(孝介の母)=三宅くにこさん
  • 池上京治(孝介の養子、実はあき子とイワンの子)=ジョナサン・クラウセンさん

  • 菅井兼作(貴乃の父)=三国連太郎さん

  • 梅香(完治の愛人)=倍賞美津子さん

  • 五郎治後家(樺太の網元)=清川虹子さん

  • 石田=山本麟一さん

  • イワン・シーモノフ(あき子の浮気相手、京治の実父)=デニス・ファレルさん

  • ナレーション=森繁久彌さん
が演じられています。それぞれ、各話タイトルは、
  1. 冬の花びら
  2. 恋ごころ
  3. 今日をかぎりの
  4. さいはての便り
  5. かなしい再会
  6. 恋の残り火
  7. 女ふたり
  8. 愛の行方
  9. 白夜の宴
  10. 満たされぬ日々
  11. 女のしあわせ
  12. かえれない女
  13. ばらの散る日
  14. 罪の子
  15. 秘密
  16. 孤閨の女たち
  17. 日蔭の女
  18. 別れ
  19. その前夜
  20. 戦火のさなかに
  21. いのち哀し
  22. 海の墓(完)
となっています。

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このドラマの中で、樺太の悲劇を描いたのが第20話以降になりますが、こちらは樺太でも最南端の大都市・豊原とよはら(現在のロシア連邦サハリン州ユジノサハリンスク)が舞台で、まさにソ連軍から避難しようとする樺太在居留民たちの悲劇がまざまざと描かれているのです。

第二新興丸の積み荷で、多数の犠牲者の血で染まっていた「血染めの米」

その主な歴史的事象は「三船殉難事件」が挙げられます。

「三船殉難事件」というのは、昭和20年(1945)8月22日、北海道留萌沖の海上で樺太からの婦女子や老人を主とする引揚者を乗せた日本の引揚船3隻(小笠原丸、第二新興丸、泰東丸)が国籍不明の潜水艦による攻撃を受け、小笠原丸と泰東丸が沈没し、第二新興丸が大破したという、判明しているだけで1708名以上が犠牲となった事件です。

まず、8月22日午前4時20分頃、逓信省の海底ケーブル敷設船小笠原丸が留萌沖の海上で国籍不明の潜水艦の雷撃により撃沈され乗員乗客638名が死亡。生存者はわずか61名でした。

続いて午前5時13分頃、大泊おおどまり(現在のロシア連邦サハリン州コルサコフ)からの引揚者約3400名を乗せていた特設砲艦第二新興丸が留萌沖北西33kmの海上で、同じく国籍不明の潜水艦の魚雷が右舷船倉に命中し、重油が漏れ出します。さらに浮上した2隻の潜水艦により銃撃を受けたため、応戦します。

しかし、第二新興丸は船体に大きな損害を受けたものの機関に異常はなかったため留萌港に入港。船内で確認された遺体は229体。行方不明者も含めると400名近くが犠牲となりました。

同日午前9時52分には、引揚者を乗せていた貨物船泰東丸が北海道留萌小平町沖西方25kmの海上において、浮上した国籍不明の潜水艦の砲撃を受けます。同船には武装設備がなかったため戦時国際法に則り白旗を掲げたのですが、潜水艦はこれを無視して砲撃を続けられて沈没。乗員乗客約780名中、667名が死亡しました。

― ◇ ◇ ◇ ―

さて、「天北原野」の中では、「三船殉難事件」は次の様に描かれています。

貴乃は孝介の母・定子と息子の京治、自分の娘である弥江と共に上記の第二新興丸で樺太からの緊急疎開を図りますが、貴乃と京治が乗り遅れ、定子と弥江が先に乗船して本土に向かったのです。そこに潜水艦による攻撃で第二新興丸が大破し、定子は死亡、弥江は海にさらわれて行方不明となってしまいます。

実際のところ、樺太からの緊急疎開に成功したのは、全樺太住民の1/4以下しか避難できなかったと云われています。

その後、海域はソ連軍により封鎖されてしまい、自力で帰国する術はほとんどなくなったのです。

これらのシーンを観ていた訳ですが、当時小学校6年生だった自分としてはかなり強烈なインパクトがありました。ちょうどまた、歴史の授業を習い始めた学年でもあったので、余計心に残ったのでしょうね!

私の母方の祖母も実は樺太に住んでいた事があって、その親戚の皆さんは稚内や留萌に住んでおられますが、樺太から本土に帰って来られたんですよね。

最初に視聴した時から33年の年月が経ちましたが、再び観てみたい気がします。

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※(参照)北海道新聞社編『慟哭の海―樺太引き揚げ三船遭難の記録』

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※(関連)昭和20年8月、樺太の悲劇―その1 映画「樺太一九四五年夏 氷雪の門」と真岡郵便電信局事件(1)
※(関連)1945年8月15日
※(関連)北方四島の話