元箕島高校野球部監督・尾藤公氏死去!


3月6日午前3時37分、元和歌山県立箕島高等学校野球部監督だった尾藤公氏がお亡くなりになりました。享年68歳―

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尾藤さんと言えば、公立高校である和歌山県立箕島高校野球部を春3回、夏1回優勝に導いた名将として知られていますね。

私自身、箕島と共に高校野球ファンとしての人生を歩んできたので、尾藤さんの死は自分の中で1つの節目が区切られた感じです。

尾藤さんの教え子といえば、

第40回センバツ(昭和43年=1968)ベスト4まで勝ち進んだ時のエース、東尾修投手(箕島→西鉄ライオンズ→太平洋クラブライオンズ→クラウンライターライオンズ→西武ライオンズ)
第42回センバツ(昭和45年=1970)に優勝した時のエース、島本講平投手(箕島→南海ホークス→近鉄バファローズ)
第49回センバツ(昭和52年=1977)でセンバツ2度目の優勝を果たした時のエース、東裕司投手(箕島→三菱自動車水島)、二塁手だった上川誠二選手(箕島→三協精機→大昭和製紙→中日ドラゴンズ→ロッテオリオンズ・千葉ロッテマリーンズ)
第51回センバツと第61回選手権大会(昭和54年=1979)で春夏連覇を達成したときのバッテリー、石井毅(木村竹志、箕島→住友金属→西武ライオンズ)、嶋田宗彦(箕島→住友金属→阪神タイガース)
第54回センバツと第65回選手権大会に出場した吉井理人投手(箕島→近鉄バファローズ→ヤクルトスワローズ→ニューヨーク・メッツ→コロラド・ロッキーズ→モントリオール・エクスポズ→オリックス・ブルーウェーブ→オリックス・バファローズ→千葉ロッテマリーンズ)
第66回選手権大会に出場した嶋田章弘投手(箕島→阪神タイガース→近鉄バファローズ→中日ドラゴンズ)

などが知られていますね。

尾藤さん率いる箕島は平成7年(1995)に勇退されるまでに春8回、夏6回甲子園出場を果たされ、以下の戦績をおさめておられます-

◎昭和43年(1968)第40回センバツ…センバツ初出場でベスト4!
 苫小牧東 100 001 000=2
◯箕  島 300 101 00X=5
(苫)熊沢→畑山(箕)東尾

◯箕  島 000 101 000=2
 高 知 商 000 000 001=1
(箕)東尾(高)中川→塩見

 広  陵 000 110 001=3
◯箕  島 220 102 00X=7
(広)宇根(箕)東尾

 大 宮 工 000 200 120=5
●箕  島 210 000 000=3
(大)吉沢(箕)東尾

◎昭和45年(1970)第42回センバツ…北陽高校(大阪府)との延長12回の攻防に決着をつけた島本のサヨナラ安打で優勝!
◯箕   島 001 104 000=6
 東海大相模 000 020 000=2
(箕)島本(東)上原

 三  重 100 000 000=1
◯箕  島 100 210 00X=4
(三)大知(箕)島本

◯箕  島 000 002 010=3
 広  陵 000 000 000=0
(箕)島本(広)佐伯

 北  陽 200 000 100 100=4
◯箕  島 000 120 000 101x=5(延長12回)
(北)永井(箕)島本


◎昭和45年(1970)第52回選手権…春夏連覇を目指すが、好投手・湯口の前に沈黙し、春夏5連勝でストップ!
 北見柏陽 000 000 000=0
◯箕  島 012 032 00X=8
(北)大山(箕)島本


●箕   島 000 010 000=1
 岐阜短大付 200 040 00X=6
(箕)島本(岐)湯口

◎昭和47年(1972)第44回センバツ
●箕  島 010 000 000=1
 倉 敷 工 010 000 01X=2
(箕)奥田→津村(倉)山本

◎昭和52年(1977)第49回センバツ…“二十四の瞳”中村高校(高知県)との優勝争いを制す!
 名古屋電気 000 000 000=0
◯箕   島 000 010 00X=1
(名)鈴木(箕)東

 豊 見 城 000 000 000=0
◯箕  島 002 040 22X=10
(豊)下地→神里(箕)東

 県岐阜商 000 000 003=3
◯箕  島 001 003 03X=7
(岐)関谷(箕)東

 智弁学園 000 000 000=0
◯箕  島 010 001 00X=2
(智)山口(箕)東

 中  村 000 000 000=0
◯箕  島 002 001 00X=3
(中)山沖(箕)東


◎昭和53年(1978)第50回センバツ…連覇を狙ったが、“フェニックス”福井商の前に沈黙!
 黒沢尻工 000 000 000=0
◯箕  島 010 000 00X=1
(黒)千葉(箕)石井毅

 小  倉 000 000 100=1
◯箕  島 010 000 21X=4
(小)大石(箕)石井毅

◯箕  島 000 101 000=2
 PL学園 000 000 000=0
(箕)石井毅(P)西田

 福 井 商 013 400 010=9
●箕  島 000 010 020=3
(福)板倉(箕)石井毅→上野

◎昭和53年(1978)第60回選手権…紀和大会(紀和=奈良・和歌山)で天理など奈良の強豪校に全国大会への出場を阻まれていたが、「1県1校制」に出場枠が増えたために出場を果たす!
 能  代 000 000 000=0
◯箕  島 100 000 00X=1
(能)高松(箕)石井毅

 広 島 工 000 000 100=1
◯箕  島 000 000 60X=6
(広)津田(箕)石井毅


 中  京 002 000 030=5
●箕  島 002 100 100=4
(中)武藤(箕)上野→石井毅

◎昭和54年(1979)第51回センバツ…牛島-“ドカベン”香川のバッテリー&名将・広瀬監督率いる浪商高校(現大体大浪商、大阪府)とのノーガード・ガチンコ対決を制し、3度目の優勝!
◯箕  島 000 501 202=10
 下 関 商 100 010 200=4
(箕)石井(下)山本

 倉 吉 北 000 000 100=1
◯箕  島 111 010 10X=5
(倉)矢田(箕)石井

 PL学園 100 020 000 0=3
◯箕  島 000 100 002 1x=4(延長10回)
(P)中西→阿部(箕)石井

 浪  商 100 003 201=7
◯箕  島 102 101 21X=8
(浪)牛島(箕)石井


◎昭和54年(1979)第61回選手権…箕島の代名詞“サーカス・スクイズ”で決勝点を挙げ、公立高校史上初の“春夏連覇”を達成!
◯箕  島 201 120 001=7
 札 幌 商 000 003 000=3
(箕)石井(札)鈴木→金山

 星  稜 000 100 000 001 000 100=3
◯箕  島 000 100 000 001 000 101x=4
(星)堅田(箕)石井

 城  西 000 100 000=1
◯箕  島 201 100 00X=4
(城)安倍→渡辺(箕)石井

 横 浜 商 000 010 010=2
◯箕  島 101 010 00X=3
(横)宮城(箕)石井

 池  田 100 110 000=3
◯箕  島 100 001 02x=4
(池)橋川(箕)石井


◎昭和55年(1980)第62回選手権…センバツ優勝の“球道くん”率いる高知商を打破するも、箕島のバント戦法を“バントはアウトをプレゼントされたもの”と冷静に無視した横浜野球にあと一歩及ばず、連覇ならず!
◯箕  島 000 021 002=5
 国  立 000 000 000=0
(箕)宮本(国)市川

◯箕  島 111 000 002=5
 高 知 商 000 000 000=0
(箕)宮本(高)中西

◯箕  島 010 201 001=5
 美濃加茂 010 000 020=3
(箕)宮本(加)池戸→奥村


 横  浜 111 000 000=3
●箕  島 000 011 000=2
(横)愛甲(箕)宮本

◎昭和57年(1982)第54回センバツ
◯箕  島 100 300 020=6
 上  尾 000 002 000=2
(箕)上野山(上)日野

 明  徳 000 000 000 000 21=3
◯箕  島 000 000 000 000 22x=4(延長14回)
(明)弘田(箕)上野山

●箕  島 000 000 000=0
 PL学園 001 000 00X=1
(箕)上野山→吉井(P)榎田

◎昭和58年(1983)第65回選手権
 吉  田 001 010 000 000 1=3
◯箕  島 000 000 101 000 2x=4(延長13回)
(吉)三浦(箕)吉井

 駒大岩見沢 100 000 002=3
◯箕   島 030 011 00X=5
(岩)大西(箕)吉井

●箕  島 010 100 000=2
 高 知 商 241 001 00X=8
(箕)吉井→嶋田(高)津野→岡村

◎昭和59年(1984)第66回選手権


 取 手 二 000 000 050=5
●箕  島 110 000 100=3
(取)柏葉→石田(箕)嶋田→杉本

◎平成3年(1991)第63回センバツ
 旭川竜谷 000 010 000=1
◯箕  島 012 002 00X=5
(旭)笹木(箕)山路

●箕  島 101 020 000=4
 大阪桐蔭 100 010 04X=6
(箕)山路(桐)背尾→和田

-以上のように、春センバツに8回出場して指揮をとられ、優勝3回、22勝5敗。夏選手権に6回出場して指揮をとられ、優勝1回、13勝5敗。通算35勝10敗という戦績を遺されました。


尾藤さん箕島、とくればほとんどのファンやマスコミが昭和54年(1979)夏の選手権大会の3回線、vs星稜高校(石川県)戦での延長18回の死闘を挙げるようですが、当時、“箕島野球命”で小学5年生から中学2年生だった私としては、春センバツでの箕島の戦いぶりの方が印象的です。

まずは、






第49回センバツ(昭和52年=1977)の決勝、vs 中村高校(高知県)戦で東裕司投手が3安打完封した試合。東投手といえば、当時箕島にカリキュラムとして存在した定時制課程の生徒で、“部活動・勉強・勤労”3足の草鞋わらじを履きこなしていたんですよね。伝聞した話だと、尾藤さんと同じ工場に務めていて、仕事が終わると尾藤さんが運転する車で一緒に学校に行っていたそうなんですけど、1年生の時、制球力がなくて試合に負け、その次の日から働いていた工場と学校の間、往復20kmを走って足腰を鍛え、その成果としてこの大会では4試合中3試合に完封勝ちという内容で優勝投手となるんですよね。ましてや、定時制に通っていたという事実が、昼間の普通科でのうのうと過ごして来た私にとっては一番衝撃的な現実でした。頑張ればできるんだ、って事を教えてくれた選手であり、試合だったのです。

さらには、

第51回センバツ(昭和54年=1979)の準々決勝、vs 倉吉北高校(鳥取県)で大会記録となる1試合10犠打を記録。なかでも、3番バッター・上野山善久選手は全打席犠打のため、スコア記録は“0打席(打数)”私が面白いなぁーと思っている試合展開は打って勝つ野球ではなくて、地味でもボディボローのように効くバント、走塁、ミスにつけこむ野球が好きなので、まさに理想的なゲーム展開がなされた試合だったと思います。しかも、そうしたバントも投手(ピッチャー)と一塁手(ファースト)と二塁手(セカンド)が守る定位置のちょうど中間点に打球を転がすプッシュバントが得意だったので、記録上は犠打野戦って形でバッターランナーも一塁に生きて、相手方の好投手&堅陣な野手たちへの攻略にはもってこい、な采配だったんですよね!

そして最後に、

]

第51回センバツ(昭和54年=1979)の決勝、vs 浪商高校(大阪府)でのガチンコ勝負!前の試合まで12打数2安打(打率.167)と全く不振だった4番バッター・北野敏史選手(箕島→松下電器)を“お前が箕島の4番だから”と使い続けた尾藤さん。その期待に応えた北野選手は、この試合でセンバツ史上初のサイクルヒットを記録!その最後の打席の時(状況は8回裏、7-6で箕島が1点リード。二死二塁)、浪商ベンチ=広瀬監督は敬遠の指示を伝えますが、牛島-香川のバッテリーはガチンコ勝負に徹します。果たして勝負は、北野選手がツーベースを放ち、点差を広げたという伝説の攻防!こうした追いつ追われつの打撃戦に当時はワクワクしちゃってました。


最後に、箕島高等学校の校歌を書き記します。唄える方は斉唱してみましょう―

♪冬吹きやまぬ西の風
 海からとび立つ黒雲に
 あたりはおどろの闇となる
 さあれ新緑光浴び
 有田の谷にほとばしり
 この学舎に溢る香は
 きびしい冬に耐えて来た
 われらおのこの凛烈の意気
 凛烈の意気♪

尾藤公さん、あなたの甲子園での雄姿はいつまでもあなたが描いた箕島野球と共に私の脳裏にいつまでも輝き続けるでしょう。謹んで、生前のお姿を偲びつつ、ご冥福をお祈りします!

“3度目の正直”成安女子バレーボール部、春高バレー初制覇!

CSのフジテレビNEXTで「春高バレー40周年記念SP!決勝プレイバック!」という企画が放送中なのですが、今月は一番“春高バレー”(全国高校バレーボール選抜優勝大会)にハマっていた時期の決勝戦のシーンなので期待でワクワクしています。

その中でも、成安女子高(現在は京都産業大学附属高)といえば、僕が同世代時期の頃は京都を代表するバレーボールチームでした。

その成安女高バレーボール部が一番盛り上がった時期が、昭和54年(1979)~翌55年(1980)の“春高バレー”2年連続決勝進出だと思います。

先ず昭和54年(1979)の第10回大会では、香川高校(山口県、現在は宇部フロンティア大学附属香川高校)と対戦し、

      15-9
香川高-3 15-7 0-成安女高
      15-9

(香川) 攻 ブ  サ  失
 三輪 04 00 01 00
 土谷 03 01 03 01
 岡崎 02 01 01 01
 中原 07 01 01 02
 斉藤 00 01 00 00
 中田 00 02 00 01
 安田 00 00 00 00       
 大森 00 00 00 00        
――――――――――――
 計  16 06 06 05

(成安) 攻 ブ  サ  失
 佐野 02 00 01 04
 池田 00 00 00 01
 川崎 02 02 02 04
 川口 02 02 03 03
 西山 00 00 01 02
 宮本 00 01 00 02
 畑  01 01 00 01
 木曽 00 00 00 00
 高田 00 00 00 00
――――――――――――
 計  07 06 07 17

と敗退してしまいます。お互いにコンビ・バレーのチーム・カラーだったのですが、成安女高にとっては、ミスの多さが優勝に手が届かなかった要因でしたね。

― ◇ ◇ ◇ ―

翌年の昭和55年(1980)の第11回大会では、前年度の準優勝メンバーから、センターの西山、ツーセッターの川崎、宮本が残り、レギュラー全員が170cmという大型チームという特徴でした。

準決勝では前年度優勝校の香川高(前年度優勝推薦・山口県)を接戦の末下して雪辱し、決勝戦に進出し、

       15-13
成安女高-3 15- 5 1-宇都宮女商(栃木)
       10-15
       15- 9

(成安) 攻 ブ  サ  失
 石川 00 01 01 02
 西山 02 01 03 00
 宮本 03 00 01 00
 川北 03 05 00 04
 渕上 05 01 02 06
 川崎 10 00 01 01
 高田 00 00 01 00
 桧野 00 00 00 00
――――――――――――
 計  23 08 09 13

(宇女) 攻 ブ  サ  失
 沼尾 01 01 01 03
 生井 01 01 01 02
田部井 05 00 02 02
 影山 05 04 00 02
 鈴木 05 01 01 03
 高橋 00 00 00 03
 清宮 00 00 00 00
――――――――――――
 計  17 07 05 15

宇都宮女子商(栃木)を破って、見事に3度目の決勝戦進出で初優勝を成し遂げました。同校校長でもあった南元昭治監督が胴上げされ、1年遅れの学校創立60周年を記念する優勝が叶えられた訳です。

またこの年、成安女子高は全国高等学校バレーボール選抜優勝大会(春高バレー:3月開催)、全国高等学校総合体育大会バレーボール競技大会(インターハイ:8月開催)、国民体育大会(国体:10月開催)の全てに優勝し、“高校三冠”を果たします。

― ◇ ◇ ◇ ―

この“高校三冠”に関してはちょっとした異変が?

春高バレーが平成23年(2011)から1月開催になる?との情報を耳にしました。

何でも、日本バレーボール協会が毎年3月に開催している春高バレーについて平成23年(2011)の第42回大会から1月開催に変更する動きがあるとの事。

3月開催だと、春高バレーは1年生と2年生のみの出場資格にすぎなかったのが、1月開催だと3年生の出場が可能になる―というのが目的のようですね。

バレーボール界の活性化を狙った感じの目論見でしょうが、今度は違った問題が生じそう…

その昔、12月後半から1月前半にかけて開催される高校ラクビーで進学校が勝ち進んだのですが、その学校の主将の生徒が、決勝戦当日がちょうど大学の推薦入試の日にちに当たり、特別に変更してもらった―というニュースを思い出しました。

大学事務(入試担当)経験者の立場で言わせてもらえば、こんなケースは本当に稀なケース。

主将をやっていた生徒にとって、そこが本命だったら、どうだったのでしょうか?

僕はスポーツは体育授業の評価の延長としか考えていないので、あまり好感は持てませんね!

Mr.タイガース・村山実氏の銅像の落ち着き先が宙ぶらりん!

村山実氏の銅像

プロ野球・阪神タイガースの選手及び監督として活躍され、「Mr.タイガース」と呼ばれた故村山実氏の銅像があります。

村山氏の母校・尼崎市立尼崎産業高校に平成16年(2004)8月、卒業生らが「後輩の励みになるように」と寄付金約1000万円を募って、校門近くに建立されたものです。

高さは台座も含めて2・65m。像はほぼ等身大に近い造型です。

昭和34年(1959)の後楽園球場で行われた読売巨人軍との試合=いわゆる「天覧試合」巨人長嶋茂雄選手相手に投げている瞬間がモチーフになっているのだとか―

村山氏の命日である8月22日には同校の教職員が花を供えたり、全国のファンたちも訪れたりしてるそうです。

ところが―

この尼崎市立尼崎産業高校が3年後には別の市立高校と統合し、移転するとかで、村山氏銅像の行方をめぐり、「騒動」が起こっているようです。

市側が校舎の移転計画の中で村山氏銅像の移転場所を全く考慮してなかったのがそもそもの事の発端!

その後も意向を明らかにしない市側に対し、建立した卒業生は「保存先は後輩たちのいる統合校の校内以外は認めない!」と主張しており、大騒動に発展…あの世で村山氏も苦笑いしてるかも!!

「出口のない海」

20060915yo5.jpg

「出口のない海」という映画が公開されています。

(1)「人間兵器」で“海の特攻兵器”と呼ばれた人間魚雷「回天」に搭乗した青年…

(2)野球をこよなく愛し、中等野球で優勝投手になった青年…

それが、市川海老蔵さん演じる主人公・並木浩二のキャラクターです。

(1)だけで言うなら、

東京帝国大学法学部出身のの和田稔氏という海軍士官がモデルの様ですね。

彼は昭和20年(1945)7月25日、回天の訓練中浮上できず行方不明となってしまいます。米軍の空襲が激しく救助もままならないので殉職とされるのです。享年23歳という人生でした。

その年の9月、枕崎台風の波により岸に回天が海岸に浮上し、潮流にのって近くの長島に打ち上げられます。

占領軍の監視下で、その打ち上げられた回天は旧日本兵の手で蓋が開けられると、胡坐姿で眠っているかのような和田稔氏の姿があり、回収された後、荼毘に付されたと云います―

(2)のようなエピソードを絡めた時、

映画の予告編や宣伝広告などを見て、「甲子園の優勝投手で、明大出身?」と知った時、ある人物の姿が頭に浮かび上がりました。

その人物とは、嶋清一選手です―

嶋選手は海草中(和歌山県、現向陽高)時代の昭和14年(1939)の第25回夏の選手権で出場した全5試合を完封シャットアウト。しかも、準決勝の対島田商(静岡県)戦と決勝の対下関商(山口県)戦で連続ノーヒットノーラン(無安打無得点試合)を達成した投手です。(記憶に新しいところでは、平成10年=1998=の第80回夏の選手権の決勝の対京都成章=京都府=戦でノーヒットノーランを達成した松坂大輔選手(神奈川県、横浜高、現西武ライオンズ)を想い出されますね)

ちなみに、「巨人の星」の星飛雄馬は、この嶋選手をモデルにキャラクターされたのだそうですよ。

なるほど、並木浩二のキャラクターイメージは、嶋選手なのか…と感じたわけです。

ただ、嶋選手だけがキャラクターイメージではなさそう…と思ったのは、並木浩二は六大学に入ってから、肘を壊してしまい、新しい「魔球」を完成させて再びマウンドに!と夢見ていたのですが、回天に搭乗する寸前の並木浩二と整備員のキャッチボールのシーン―


このシーンって特攻隊員として沖縄の海に散った石丸進一選手を思い起こしてしまいます。

石丸選手は佐賀商(佐賀県)出身で、「名古屋軍」(現在の中日ドラゴンズ)に所属していたが、日大の夜学にも在学していました。

石丸選手は学業優先での事でしょうが、当時の大日本帝国憲法下では軍に入りたくない(徴兵忌避)の手段の1つに大学に入っておれば安全、って事がありました。

しかし、軍国主義の下ではそれが良しとされなくなり、結局は学徒出陣が生まれちゃいます。(何せ、国家総動員国民徴用ですから…)

石丸選手学徒出陣により召集され、神風特攻隊作戦で零戦に搭乗して沖縄に出撃し、還らぬ人となります。プロ野球では唯一の特攻での戦死者です。

その石丸選手が、特攻出撃を前に仲間を相手にキャッチボールしたエピソード(「最後のキャッチボール」)があって、それが思い浮かんでしまいました。(以前観た映画で、石丸選手を描いた「人間の翼―最後のキャッチボール」などから…)

― ◇ ◇ ◇ ―

戦後61年、野球が好きで甲子園や神宮や職業野球の場での活躍を嘱望されながら、戦争という荒波にその命を散らせた選手が数多居られます。

僕が特に印象的なのは、昭和11年(1936)の第22回夏の選手権に優勝した岐阜商(岐阜県、現県岐阜商)のメンバーの方々で、実に6人が戦争で亡くなっておられます。

投手だった松井栄造選手

松井選手は昭和8年(1933)の第10回春の選抜、同10年(1935)の春の選抜、同11年(1936)の夏の選手権の優勝投手で、岐阜商優勝4回のうちの3回が松井選手の怪腕によって成されました。しかし、昭和18年(1943)5月、中国湖北省宣昌県桃家坊で頭部貫通銃創で戦死されます。享年25歳。

捕手だった加藤三郎選手

昭和20年(1945)4月、最初の神風特別攻撃隊として沖縄の艦船目指して出撃し、戦死。享年26歳。

二塁手だった長良治雄選手

昭和20年(1945)5月、沖縄へ弾薬を輸送する船舶隊を指揮して米軍機に攻撃され戦死。享年26歳。

三塁手だった加藤義男選手

昭和17年(1942)12月、ビルマ(現在のミャンマー)・ラングーン郊外で乗っていたトラックが転覆、野戦病院で手当てを受けたが、ほぼ即死していた。享年22歳。

遊撃手だった近藤清選手

昭和20年(1945)4月、2度目の神風特別攻撃隊として沖縄の艦船目指して出撃し、戦死。享年22歳。

マネージャーだった市川清美さん

昭和16年(1941)に中国方面(満州か?)で戦死。享年22歳。

―以上6人の方々です。現在、高校野球は毎年盛り上がりを見せていますね。毎年8月15日には、無念にも戦争で命を散らせた大先輩の球児の方々の冥福を1分間の黙祷で悼みますよね。(その日の試合に重なった現代っ子である高校球児たちは、インタビューにおいて「試合の事を考えていました」とか言ってるけど、自分たちが何不自由なく、野球ができる幸せの影にこういう方々の大きな犠牲があった事を感じてほしいものです。おそらく無理な話でしょうけど…)

― ◇ ◇ ◇ ―

チョット脱線しますが、僕自身、「戦争を知らない子どもたち」の部類に入ります。

ただし、僕の両親、昭和8年(1933)生まれの父、同10年(1935)生まれの母などは疎開や空襲を経験しています。

父の兄はレイテ島で脚を貫通銃創したのですが、不自由な身がらも農作業をしていたのを僕も憶えています。

母の叔父は美術家になりたい夢がありました。

でも、山師で大谷鉱山で指導していた母の祖父が反対したため夢を断念。

柔道の大会やスキーのジャンプ大会で優勝するなど体格も良かったがため、兵役検査で甲種合格になり、同じくレイテ島で戦死したそうです。(もちろん、遺骨だと渡された中身には遺骨など入ってませんし、遺髪もありません。だから靖国神社自体が“お墓”なんですけどね)

学校で教わった先生方も両親と同じような世代であったり、両親が学生時代に新任の教師になり立てだった先生に習っていました。(ちょうど僕が卒業した年に定年退官されましたが…)

…こんな風にまだ僕は体験談を話してくれる人が身近にいた分だけ、不謹慎ですが“戦争の恐怖”を一部分実感できています。

しかし今では、“「戦争を知らない子どもたち」の子どもたちの子どもたち”の世代であり、ましてや教師自体がそういう世代だったりします。

ますます“戦争の恐怖”が希薄化されてきているのが実情ですね。

でもそれはいけない事―

「出口のない海」はある意味、それを教えてくれそうな作品なのかもしれません…

PS.

つい先だっての話です。何気に新聞記事を読んでいたら、上記に記した、レイテ島で戦死した母の叔父の遺品らしき物…が写っていたのです。その遺品とは、母の祖父が写っている写真が入ったクリアファイルみたいな物を戦利品として持ち帰ったアメリカ兵が遺族に返還してくれ、と依頼した物なんだとか―(今頃になって何だよ、って思うけど…)

それで、母や叔父、叔母に話したところ(母たちは祖父母と一緒に暮らしていたから一番顔を知っているし…)写っていた写真の人は母の祖父であり、その持ち主が戦死したであろう母の叔父の遺品に間違いないと判明しました。

確実な遺品ではなかったので、ちょっと残念な感じですが、戦死されて60年が過ぎ、改めて母の叔父の本当に亡くなった場所が判明しただけでも、すごい事ですよね。(本当はもっと早くに判明して欲しかったけど、やっぱりこれだけの歳月を要さなきゃいけなかったのかな?とも感じました)


「奇跡の背番号1 仲間がくれたマウンド」

全国高校野球選手権大分県大会1回戦で先発した三重高校の廣田一弥君 夏の高校野球大分大会で登板、ガッツポーズする三重高校の広田投手

先程まで「奇跡体験!アンビリバボー」を観てました。チョット感動モノの企画があったので、筆に執ろうと思います。

番組の最後の方のコーナー「感動のアンビリバボー」では「奇跡の背番号1 仲間がくれたマウンド」といった野球にかけた高校生のエピソードがありました。

今から3年前の平成15年(2003)6月、大分県臼杵市の中学生。廣田一弥君はその長身(179㎝)から投げ下ろすダイナミックなフォームで時速130kmの剛速球を武器に、地区大会を優勝するなどの逸材だったそうです。

そうなると、高校野球の強豪校の監督さんたちもこぞって勧誘に訪れたりましすよね。

大分県立三重高校野球部の監督、上尾あがりお隆一さんもその1人でした。

大分県立三重高校…廣田君の住む町から車で30分程の場所にある普通科の高校です。

地区大会を終えて3日後、学校で軽い頭痛を感じた廣田君は保健室で休んでいました。熱はなかったのだが、後頭部に感じていた痛みが少しずつ前に移動し、ついに大きな痛みになって廣田君はその場に倒れ込んだそうです。

すぐに病院に運ばれますが、意識不明の重態。検査の結果、脳の右半分に血が流れない重い脳梗塞と診断されます。

5日後、ようやく意識を回復し一命は取り留めますが、医師からは左半身の完全麻痺という残酷な宣告を受けてしまいます。

野球どころか問題ではない、まずは歩けるようになることが目標だという―

輝かしい未来が一転、叶わぬ夢へとなってしまいました。

幸いにも、記憶や言葉障害に至ることはなく、数日後には運動機能のリハビリが始まりました。

しかし突然降りかかった現実を受け容れるのは、廣田君にとっては酷な話で、動かなくなった左半身を見ようとはしません…

一方、エースが不在のままチームは県大会に出場。その初戦の日、事情を知らない三重高校の上尾監督は廣田君のピッチングを観戦しようと球場に来ますが、廣田君がいないことに気付き、しかも、客席に車椅子姿の廣田君を見つけます。

廣田君にとって、入院から1か月、初めての外出でしたが、容赦ない周囲からの好奇な視線が彼に否応なく突き刺さります。

しかしながら、上尾監督にはこれで終わりだとは何故か思えなかったそうです。

数日後、上尾監督は病院に見舞いに行き、仲間の応援に行った事などを話していると、廣田君の口からは「野球のことはふっきれましたから…」との言葉が…

「これが彼の本心なのか?いや、そんなはずではない」と上尾監督は思ったそうです。

そして後日、再び見舞いに訪れ、硬式ボールを廣田君に渡し、三重高校に来て野球部に入らないかと切り出します。

「野球は諦めた、無理だ」と答える廣田君に、上尾監督は「それでも、君には右腕があるじゃないか。右腕があればボールは投げられる」と訴えかけました。

翌16年(2004)4月、廣田君は上尾監督のいる三重高校に入学します。

ところが、野球部に入部したものの、左半身にはかなりの麻痺が残っており、走ることもできず1人でリハビリを続ける日々が続きます。

ボールを投げてみても、左足の踏ん張りがきかず、力が入らない。しかも左手が不自由なため、ボールを取ることもできない。

みんなと一緒にキャッチボールがしたい―そんな願いも叶わぬまま1年が過ぎ、孤独な日々は2年目を迎えました。

平成17年(2005)の秋、廣田君にとっては最終学年になる新チームでのこと―

練習試合での事、なかなか勝てないチームは目標が持てず、まとまりを欠いていました。

試合後、主将の安藤君と選手たちは意見の違いから衝突してしまいました。

その時、彼らの目に壁を相手にボールを投げている廣田君の姿が飛び込んできました。

まだ左手が使えず、誰かとキャッチボールをすることもできない。けれど、それでも白球に思いをこめて投げ続ける廣田君の姿に安藤君を含め皆が、言い争うのを止め、そして皆で話し合ってある事を決めて、上尾監督にお願いに行きます―

10月、監督は選手たちを集めると重要な報告をします。それは、来年の夏の甲子園予選第1戦目の先発ピッチャーを廣田君に任せる、というものでした。

選手たちは廣田と一緒に戦いたい!廣田のために守りたい!と思って決めた事でした。

そして上尾監督もその気持ちを中途半端にしたくないから、試合後半の中継ぎや敗戦処理のようなポジションで投げさせるのよりも先発ピッチャーで!と決断したのです。

“みんなが一丸となって廣田のために戦う”―チームに大きな目標ができました。

大会までの残された期間は9か月。廣田君は仲間や監督がの期待に応えようと、懸命にリハビリを続けます。

普通に考えて、1年足らずでの左半身の完治は難しいと誰もが感じますが、それでも左足の麻痺は少しずつ快方に向かっていきます。

ですが、左手の動きが不自由なため、フィールディング、すなわちゴロが上手くさばけない―

そこで上尾監督は、廣田君が1人でもランナーを出したら交代、長くても1イニングだけの登板―という条件を出しました。

いよいよその日、7月13日、夏の高校野球・大分県大会の1回戦、対高田高校戦がやってきました。

そして、そこには、エースナンバー1を背負ってマウンドに全力で駈けていく廣田君の姿が映ります。

脳梗塞から3年、夢にまで見たマウンドをチームメートがならしてくれます。

スタンドには息子の晴れ姿を見守るお母さんの姿―

そして、運命のピッチングが幕を開けました!

初球、ボール。高めに上ずりますが廣田君には笑顔が見えます。

2球目、3球目もボール。ストライクが入らず、カウントは0-3。

キャッチャーが廣田君に声をかけます―「次がボールならランナーが出て交代だ」

そして、第4球目、力強い球でストライク!中学時代のフォームのような投球リズム…

第5球目、6球目と相手バッターは辛うじてバットに当ててファール。カウントを2-3まで持ってきました。

運命の第7球目。最後の1球はストライクゾーンをはずれます…この瞬間、廣田君の熱い夏が終わりました。

マウンドを降りると廣田君は帽子を取って、応援してくれた人、支えてくれた人みんなに頭を下げました。

試合後、廣田君は「マウンドはとても暑くて気持ち良いところでした」と笑顔を見せて応えてくれました。

医師によると、脳梗塞になると1年ほどでリハビリの限界が見えることが多いとの事ですが、廣田君はまだ日々回復が続いているのだそうです。

“夢”を持ってリハビリを続けていることが、良い成果を出しているのでは―との事。

後日、廣田君を訪れたスタッフや関係者は、下級生に混じってグラウンドで練習する廣田君の姿を見つけました。

廣田君には新たな目標があるそうです。

―これからも野球を続けて、大学に入っても続けてプロを目指す。

ホント、観ていて感動の嵐でした。ガンバレ、廣田君!


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「三重高・廣田投手、脳梗塞乗り越え魂の7球…大分大会」(読売新聞2006-07-14)

→この時の試合を、実際に観に行っておられた「パリの朝市」様の臨場感漂う「最初で最後の先発投手物語」(←「パリの朝市」さま、掲載の許諾ありがとうございました)

→後日談ですが、廣田君がリハビリを行っているトレーニング施設のサイトで廣田君の記事を発見!…廣田君が7月末に3年生と2年生の送別試合に登板した際に、2イニングを無失点(打者8人に対し2三振)。球速もさらに増しているのだそうですよ。周囲の方も家族の方も驚きと喜びがあったそうです。良かったですね!(→こちら