「ソドンヨ」(薯童謡)

「ソドンヨ」

CSの衛星劇場で放送されている「ソドンヨ」にハマっています。

舞台設定は4〜5世紀の朝鮮半島に栄えていた百済で、韓国のドラマで百済が題材となったのは初めてとの事。

主人公は第30代百済武王(扶余プヨ<余>チャンという人物です。

朝鮮国内で最初の四句体の郷歌ヒャンガ(=民謡調の詩歌)に薯童謡ソドンヨというのがあって、武王(扶余璋)新羅善花ソンファ公主にまつわる説話が詠われています。

『三国遺事』巻第2・紀異・武王の条(『大正新脩大蔵経』第49冊より抜粋)に記載されている逸話に依ると―

第三十武王名璋。
百済武王はその名をと言った。

母寡居。築室於京師南池邊。池龍文通而生。
その母は、住まいを都の南側にある池のほとりに建てて、やもめ暮らしをしていたところ、池の龍と情を通じ、が生まれたのだと云われている。

小名薯童。
は幼い頃は薯童という名で呼ばれていた。

器量難測。
その才能は大いに優れていて測り知れないくらいだった。

常掘薯蕷。賣為活業。國人因以為名。
常日頃、長芋を掘ってはそれを売って、生計を立てていたので、国の人々は彼の事を薯童(=芋を売る子供)と呼んでいた。

聞新羅真平王第三公主善花(化)美艶無雙。剃髮來京師。以薯蕷餉閭里群童。群童親附之。乃作謠。誘群童而唱之云。
彼は新羅真平王の3番目の公主である善花(善化)姫が他に比べる程もなく艶やかで美しいという事を知り、剃髪して都に上り、携えてきた長芋を子供たちに与えた。それで子どもたちは薯童とすっかり親しくなったので、薯童は、自作の歌を子どもたちに歌わせた。その歌詞というのが、

 善化公主主隠 他密只嫁良置古 薯童房乙夜矣 卯乙抱遺去如
 善花公主は、こっそり嫁入りされて、芋掘り男(薯童)と夜な夜なに密会している

というものでした。


童謠滿京。達於宮禁。
この童謡はは忽ち都中で流行し、その様子は宮中にまで知れ渡ります。

百官極諫。竄流公主於遠方。
宮廷の官人たちは善花公主を厳しく諌めますが、怒った真平王善花公主を宮中から遠く離れた島に追い出す事にします。

將行。王后以純金一斗贈行。
善花公主が出発する日が迫った時、王后(摩耶夫人)は1斗の純金を旅の仕度金としての贈った。

公主將至竄所。薯童出拜途中。將欲侍衛而行。
善花公主が遠島に向かって出発したその道中で、薯童は突然姿を現わし、善花公主の一行を護ってお伴をしたいと申し出ます。

公主雖不識其從來。偶爾信ス。因此隨行。
善花公主は、薯童がどうしてそんな事を言うのか、わからなかったのですが、これも何かの縁と考え、喜んで随伴する事を許します。

潛通焉。
こうして一行に従っていた薯童は、何時の間にかと密かに相通じる仲となります。

然後知薯童名。乃信童謠之驗。
その後、善花公主薯童があの童謡にあったその人であるのを知り、あの童謡が事の起る前触れであったのだと信じるのです。

同至百濟。出母后所贈金。將謀計活。
2人が手を取り合って百済に辿り着いた時、善花公主は母である王后(摩耶夫人)が贈ってくれた純金を取り出し、これを生計の手立てにしようと考えます。

薯童大笑曰。此何物也。主曰。此是黄金。可致百年之富。
薯童は「これは一体何だ」と笑いながら問うたところ、善花公主は「これは黄金です。これだけあれば100年の富でさえ大丈夫でしょう」と答えます。

薯童曰。吾自小掘薯之地。委積如泥土。
薯童は「そのような物なら、自分が小さい時分より、長芋を掘っていた場所にまるで泥土のようにたくさん蓄えてある」と言ったのです。

主聞大驚曰。此是天下至寶。君今知金之所在。則此寶輸送父母宮殿何如。
それを聞いた善花公主は大いに驚いて、「黄金こそ世の中で一番貴重な宝物です。若しあなたが、いま仰ったように、黄金のある場所をご存知ならば、その宝物を父母の宮殿に運はれては如何でしょうか」と頼みます。

薯童曰可。於是聚金。積如丘陵。
薯童は「そうしよう」と善花公主の意見に承知し、黄金を集めて積み上げてみると、その嵩は小高い丘ほどあった。

詣龍華山師子寺知命法師所。問輸金之計。
そこで薯童は龍華山にある師子寺に知命法師を訪ねて、この黄金を輸送する方法を問い質します。

師曰。吾以神力可輸。將金來矣。
すると知命法師は「拙僧が神通力でもって輸送してみせよう。その黄金を此処に持って来なさい」と仰いました。

主作書。并金置於師子前。師以神力。一夜輸置新羅宮中。
善花公主が手紙とその黄金を師子寺の前に置いたところ、知命法師はその神通力で一夜のうちに新羅の宮中に運び込みました。

真平王異其神變尊敬尤甚。常馳書問安否。
真平王は、その神がかり的な出来事に対し、大いに感心し、それ以後は常々善花公主の安否を尋ねる手紙を薯童に遣します。

薯童由此得人心。即王位。
この事があって以降、薯童はすっかり人心を掴んでしまい、やがて王位に就きます。

一日王與夫人欲幸師子寺。至龍華山下大池邊。彌勒三尊出現池中。留駕致敬。
ある日、武王善花王妃を伴い師子寺に行幸しようと思い立ち、龍華山の麓にある大きな池のほとりまで遣って来たところ、弥勒三尊の姿が池の中から現われたので、武王は車駕を停めさせて敬虔な祈りを捧げた。

夫人謂王曰。須創大伽藍於此地。固所願也。
その時善花王妃武王に向かって、「大きなお寺をこの池のある場所に創建しなければならないと思います。ずっと前から心に抱いていた願いなのですが…」と話しかけます。

王許之。詣知命所。問填池事。以神力一夜頽山。填池為平地。
武王はこの願いを聞き入れて、早速、知命法師の許に行き、この池を埋め立てる方法について問い質すと、知命法師は、またもやその神通力で一晩のうちに山を削り取り、その削り取った土でこの池を埋め立て、平らな土地にしてしまいました。

乃法像彌勒三會殿塔廊廡各三所創之。額曰彌勒寺真平王遣百工助之。至今存其寺。
そうして弥勒の尊像三体を安置し、その3か所にそれぞれに会殿と塔と廊閣を創り上げます。扁額には弥勒寺と記された。真平王も、あらゆる部門の工人を差し向けて、その完成のために手助けをしました。その寺は現在もなお存続しています。

―という説話伝承なんですね。因みに薯童(武王)善花公主が結婚したのが威徳王26年・真平王元年にあたる西暦579年の事だそうです。

このような伝承を基本ベースとして、韓国版“ロミオとジュリエット”っぽく、百済新羅の国境を越えたラブストーリーと両国の宮廷裏面史を描いた作品となっています。

― ◇ ◇ ◇ ―

余談ですが…

百済武王善花公主に生まれた王子が義慈王(椅子王、扶余<余>義慈)で、その王子で百済王家最後の王である百済豊王(扶余<余>豊璋)の子孫は日本に亡命し、持統天皇の世に百済王くだらのこにきしを賜っています。

また、桓武天皇の世では桓武天皇の母(高野新笠)が百済系和氏の子孫であったため桓武天皇をして「百済王等者朕之外戚也」『続日本紀』延暦9年=790=2月27日条)と厚遇を受けています。その代表的な例として、その子女たちを桓武天皇嵯峨天皇仁明天皇後宮において、
  • 教法掌膳かしわでのじょう

  • 明信尚侍ないしのかみ

  • 恵信宮人みやびと

  • 明本(宮人)

  • 教仁女御にょうご

  • 貞香(宮人)

  • 真善(女嬬)

  • 貴命(女御)

  • 慶命(尚侍)

  • 永慶(女嬬)
といったように送り込み、後宮を賑わしているんですよね。

余談その2…

百済が栄えていたと同時代、朝鮮半島には高句麗新羅が興隆していましたが、それぞれに中国()に対し朝貢し、冊封された際の違いを以下に示します。

  • 百済の場合…帯方郡王・百済王

  • 高句麗の場合…遼東郡公(遼東郡王)、高句麗国王

  • 新羅の場合…楽浪郡公・新羅王
これを見ると、新羅と同盟を組んで、百済高句麗を滅ぼしたのだから「王」ではなく、「公」扱いだったのがはっきりと見えますね。


  
  
 


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posted by 御堂 at 04:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:ドラマ
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