最後の御茶壺道中

宇治茶師によって描かれた“最後の御茶壺道中”

ずいずいずっころばし
ごまみそ ずい
ちゃつぼに おわれて
トッピンシャン
ぬけたら ドンドコショ
たわらの ねずみが
こめ食って チュウ
チュウ チュウ チュウ
おっとさんが よんでも
おっかさんが よんでも
いきっこなしよ
いどのまわりで おちゃわんかいたの だれ
わらべ歌「ずいずいずっころばし」の歌詞です。この歌詞の中で

ちゃつぼに おわれて
トッピンシャン
ぬけたら ドンドコショ
というフレーズがありますが、今回のお話の主人公でもあるんですよね。

江戸時代徳川幕府将軍家御用たしとして宇治茶を献上させていました。

その役目を担っていたのが、「宇治採茶使」と呼ばれた幕府の役人たちでした。彼らによって、毎年江戸~宇治間を往復していたのです。

慶長18年(1613)に幕府宇治茶の献上を命じる宇治採茶師を初めて派遣したのが始まりで、寛永10年(1633)に制度化されます。

多い時で100個以上あった茶壺を交代制で任命された徒歩かち頭」を中心に、茶道頭茶道衆(茶坊主)、その他御茶壺の警備の役人なども含めて最大で1000名近くの役人が行列をなして江戸城に向かいます。これを「御茶壺道中」といいます。

しかも、その地位は摂家門跡に準じる格式で、御三家クラスの大名でもでも例外ではありませんでした。

例えば、参勤交代の途中でこの御茶壺道中に出くわした大名は、駕籠を降りて下座拝礼をしなければならないのです。

なので、中には御茶壺道中を見つけるとさっと脇道や宿所に入って、その行列を避けたといわれています。

庶民たちは尚の事で、御茶壺通行の節は、被り物などを取って下座拝礼」しなければならないといった京都町奉行所の厳しい御触も出されています。

上記の

ちゃつぼに おわれて
トッピンシャン
ぬけたら ドンドコショ
などは、概ね

御茶壺道中の行列がやって来たので、沿道の住民らは戸口をピシャっと閉めて家に逃げ込み、行列が通り過ぎたら、ホッと胸を撫で下ろして、やれやれ、ホッと一息という感じ…
で、御茶壺道中の物々しさを風刺した歌なんですよね。

ところが、その御茶壺道中も慶応3年(1867)江戸幕府の終焉によって、その役目を終えようとします。

その年、慶応3年(1867)は将軍である徳川慶喜は在洛中であり、随行していた元御数寄屋おすきや組頭鈴木春碩二条城から宇治に来て、必要とするだけの御茶壺を江戸城に向けて発送させています。

つまり、最後の御茶壺道中は、役人が御茶壺に同行せず、御茶壺のみを宿次人足の手に委ねて江戸城へと運送させたわけです。

御茶壺が宇治から出荷したのが、6月10日の事。通過途中の中山道鏡宿では、

六月十一日夜、本陣に小休これ無く、御壺ばかり四棹程、夜八ッ時より夜通しに相仕舞候(『蒲生郡志』)
とあります。

通常の御茶壺道中なら東海道ルートで12日間、中山道甲州街道ルートで13~14日間の行程なのですが、警護の武士も御数寄屋坊主も同行していない、いわば単なる荷物だった事から、通常の御茶壺道中より早く運ばれていたようです。

こうして御茶壺道中は幕を閉じたのです。

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