いいハコつくろう 鎌倉幕府?

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「いいくに(1192)つくろう鎌倉幕府」

歴史を学んだ多くの人が、鎌倉幕府の成立の年号の暗記として憶えた事でしょうね。(私もそのうちの一人ですが…)

東京書籍発行の昭和62年(1987)版の教科書でも、年表の建久3年(1192)に線が引かれ、鎌倉時代の始まりを示し、この年に源頼朝が朝廷から征夷大将軍に任命され、これを鎌倉幕府が成立した、としていました。

ところが、平成19年(2007)版の教科書では文治元年(1185)に線が引かれているのです(上図参照)。平家が滅亡した年であり、同年に頼朝は全国に守護・地頭を設置した年にあたるのですが、東京書籍では、頼朝の号令が普く伝わるようになった点を重視し、平成14年(2002)版頃から、守護・地頭の説明の後に「鎌倉幕府を開いた」と記述しています。

また、山川出版社の高校「日本史B」の問題集は、文治元年(1185)を「鎌倉幕府が確立」とし、建久3年(1192)を「名実ともに成立」と表記しています。

鎌倉幕府の成立時期を考えた場合に、

  1. 治承4年(1180)の侍所設置
  2. 寿永2年・治承7年(1183)の十月宣旨(寿永二年十月宣旨)による東山・東海道の行政権の獲得
  3. 寿永3年・治承8年(1184)の公文所(のち政所)設置
  4. 元暦元年(1184)10月の問注所設置
  5. 文治元年(1185)11月の文治の勅許による守護・地頭の設置
  6. 建久元年(1190)11月の右近衛大将就任
  7. 建久2年(1191)正月の政所吉書始の儀
  8. 建久3年(1192)7月の征夷大将軍就任
  9. 建久3年(1192)8月の征夷大将軍家政所始の儀

などが候補として挙げられます。

先に私見として述べた「『鎌倉幕府』と『鎌倉時代』」においても述べましたが、守護・地頭の設置を起源として鎌倉幕府創設とは考えにくい感じです。

そこで、「守護・地頭の設置」を得た勅許の内容を少し掘り下げて考えてみましょう。

源頼朝は後白河法皇から以下の権限を認められます―

  1. 日本国惣追捕使―謀反人などの逮捕権
  2. 日本国惣地頭―荘園公領の土地の管理権
  3. 諸国在庁・荘園下司支配権―公領を管理する在庁官人と荘園の荘官(下司)に対する支配権
  4. 兵糧米反別五升徴収権―1反の土地ごとに米5升の給与を授受

各地の公領や荘園にいる武士で、頼朝配下の御家人になった場合、上記の権限に基づいて地頭の職が与えられ、一国の中で最も有力な武士が頼朝の追捕使の役目を代行する守護になるわけです。

しかしながら、注意しなければならないのは、「守護・地頭の設置」したからといって、これで源頼朝=「鎌倉殿」の号令が普く伝わるようになった=全国の武士を把握したわけでは決してありません。

確かに、北条氏、千葉氏、三浦氏といった関東の有力な御家人は、守護の地位を利用して領国内の武士との主従関係を拡大し、勢力を伸ばしていきましたが、東大寺の領国になった周防国では、守護は重んじられておらず、国内の主だった武士は、国衙の在庁官人となって、東大寺が送った目代の許に組織されていたのです。

荘園を管理する武士の中にも、朝廷の荘園領主との繋がりを重んじる者と幕府との主従関係に重点を置く者との双方がいたというわけですね。

そもそも鎌倉時代は、朝廷、幕府、大寺社の3つの政権が並び立っていた時代であり、それらは何れも天皇によって権威付けられていました。

それを物語る歴史的事実として、文治2年(1186)2月、後白河法皇が源頼朝に関東の皇室領や貴族たちの荘園の年貢未払い分を指し出せと命じ、頼朝はそれに応じています。

守護・地頭の設置を認めた僅か3か月後の事であり、武家政権は天皇家の下に位置する事を明らかにした事象ですね。

同じように承久の乱も、朝廷 vs 幕府の戦いとして捉えるべきではありません

後鳥羽上皇は武家政権を否定したのではなく、北条氏が動かす幕府は倒すべきと考え、北条氏に代わって都で活躍する中流の武士を集めた幕府を創ろうとしたのです。

現に後鳥羽上皇は西面の武士や在京御家人を自派に引き込んでいます。

西面の武士とは、幕府の政争で不遇をかこった武士や、幕府に組織されていない西国の武士から成る職務で、そういった彼らに対し、後鳥羽上皇は官位を与え、院の西面の警備を務めさせたのです。

在京御家人とは、鎌倉や西国から京の警備のために派遣された武士をいいます。

鎌倉幕府で北条義時に次ぐ地位にあった三浦義村の弟・胤義は、相模国から上京して在京御家人となり、院に接近していますし、また、源氏一門で摂津国など6か国の守護を務める大内惟義・惟信の父子も在京御家人として後鳥羽上皇に従っています。

承久の乱とは、全国の武家が北条派(坂東武者)と反北条派(京武者)とに分かれて戦った合戦といえるでしょう。

結果として、鎌倉時代全般の中では、全ての武士が幕府に従ったのではなく、朝廷の荘園領主との繋がりを重んじる者と幕府との主従関係に重点を置く者との双方が混在していた事実を知っておきましょう。

現実にこのような混在した状態が改善されたのは豊臣秀吉による太閤検地まで待たなければなりませんので…

― ◇ ◇ ◇ ―

では、どの時期が「鎌倉幕府」の成立期と言えるのか?―

治承4年(1180)10月6日に父祖以来の拠点だった鎌倉に入った源頼朝が東国武士団の棟梁=「鎌倉殿」として統治を開始した、と考えた場合に同年12月12日、鎌倉の拠点として相模国鎌倉大倉郷(現神奈川県鎌倉市二階堂・西御門・雪ノ下三丁目一帯)に居を構える(→大倉御所)のですが、同じ日にその「鎌倉殿」に"御恩と奉公"でもって出仕する武士団たちの集合場所である侍所には侍所別当に任じられた和田太郎義盛を先頭に畠山次郎重忠に至る311人がこれに従い、和田義盛が着到状に出欠を記録します。『吾妻鏡』では「これから以降、東国の人々はみな、頼朝の徳ある道を進むのを目にして、鎌倉の主として推戴することになった。」と記しているので、これこそが「鎌倉幕府」の出発点だと考えてもよいのではないでしょうか?

この時点では、まだ平将門や平忠常同様にごく私的な武士団であり、京都から見れば"反乱分子"にしか過ぎません。しかし、そこから幾つかの段階を踏んで朝廷に承認され、やがて「鎌倉殿」を頂点とした独自の権力を確立していったと考えるべきだと思います。

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参照)「『鎌倉幕府』と『鎌倉時代』」

この記事へのコメント

  • 御堂

    返事が遅れたぁ~

    indoor-mamaさん、こんばんは。

    よく中国の歴史や朝鮮の歴史をみると、“初めての武士政権”というニュアンスは王朝の交替であるわけで、それができなかった日本の歴史はやはり特異な感じなのでしょうね。

    教科書への記述も「これが正しい」というのはないと感じます。時代、時代を輪切りに扱うのもおかしな話だと感じますが…
    2007年08月13日 21:40
  • indoor-mama

    深く掘り下げられた意見で、たいへん勉強になりました~。
    そう言えば、鎌倉幕府は初めての武士政権と言いながらも、天皇家の下に位置していた感じもしますね~。
    教科書も変わって来ていると聞きましたが、もはや「いい国つくろう」ではないようですね。

    古い記事ですが、TBもさせていただきました~
    ではでは・・・
    2007年07月22日 21:33

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Excerpt: 建久三年(1192年)7月12日、源頼朝が征夷大将軍に任命され、ここに日本で初め
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Tracked: 2007-07-22 21:25