(トピックス)明智秀満「湖水渡り」の伝承を裏付ける一端を記した古文書見つかる!

明智秀満が船戦を挑んだことが記された古文書『山岡景以舎系図』

戦国武将・明智光秀の重臣で明智次右衛門光忠・斎藤内蔵助利三・藤田伝五行政・溝尾庄兵衛茂朝らと共に"明智五宿老"と称された明智弥平次秀満、通称、左馬(之)助が、織田信長を急襲した天正10年(1582)6月2日の本能寺の変の直後、近江瀬田城主の山岡景隆と琵琶湖で船戦ふないくさに及んだことを記した古文書東寺真言宗大本山 石山寺(滋賀県大津市石山寺)で発見されました。

― ◇ ◇ ◇ ―

発見された古文書は、同寺の塔頭たっちゅう・世尊院の僧侶も務めた山岡家の由緒や系図がまとめられた『山岡景以舎系図いえのけいず(縦27㎝、横119㎝)で、天正19年(1591)に景隆の七男・景以かげもちによって書かれ、石山寺に奉納されますが、その後、別な人物が寛永18年(1641)3代将軍・徳川家光の命で江戸幕府主導により編纂された『寛永諸家系図伝』の素材資料として幕府に提出するために書き写したものが、同寺の塔頭・法輪院の蔵に保管されていました。

― ◇ ◇ ◇ ―

明智秀満が船戦を挑んだことが記された古文書。秀満を表す「弥平次」の記述が見える

明智光秀の軍勢が本能寺で織田信長の手勢を襲った後、琵琶湖北岸の安土城(滋賀県近江八幡市)へ向かう途上、景隆を味方へと勧誘しますが、景隆に拒まれた上に瀬田の唐橋を焼き落されて進軍をはばまれたことは『信長公記』などによって知られていました。

しかし、今回発見された古文書によると、その軍勢を率いたのが「明智弥平次」、すなわち秀満で瀬田の唐橋が焼き落されて安土城への陸上ルートの進路が阻まれたため、水上ルートとして船で琵琶湖の対岸に渡ろうとしたところ、景隆の軍勢と湖上で戦闘に至っために少なからぬ損害を出し、止むなく先に進めずその後の進軍に遅れをとってしまったことが記されていました。

― ◇ ◇ ◇ ―

明智左馬之介の湖水渡り

やがて、光満は安土城の守備に就きますが、6月13日の山崎の合戦で光秀が敗れて坂本城を目指して落ち延びる途中、山城国宇治郡小栗栖(現・京都府京都市伏見区小栗栖)で落ち武者狩りに遭って殺害されたことを知ると、14日未明、安土城を発して坂本城に向かいます。

しかし、坂本城への道を塞がれた秀満が打出浜から愛馬にまたがったまま柳ヶ崎まで琵琶湖を泳ぎ渡り、坂本城ヘ帰還したという「湖水渡り」の伝承があります。

湖に浮かぶ明智左馬之助秀満湖水渡像の完成予定図

琵琶湖で船戦が行われたことはこれまで知られておらず、当時の明智の軍勢の行動を伝える貴重な発見であり、秀満「湖水渡り」の伝承もこの船戦が伝説につながった可能性があるのでは?と「実像に迫る上で貴重な史料」と話しています。

古文書は10月31日から石山寺の本堂で公開される予定だそうです。

この記事へのコメント