京都市埋蔵文化財研究所は、元京都市立洛陽工業高等学校の校舎(唐橋校舎)跡地(同市南区)で行われた平安京(城)跡の発掘調査で、平安京(城)の最南端に当たる九条大路と、平安京(城)と京郊外の境目を隔てていた
今回遺構が確認された場所は平安京(城)の玄関口であった羅城門跡から西へ約630mの場所にあり、平安京(城)の右京九条二坊四町にあたります。
発掘されたのは、東西方向に延び、砂利を敷き詰めて舗装した路面跡と、その南北の側溝跡、さらに南側の側溝の外側に砂利と土を締め固めた土壇跡、何れも平安京(城)が造営された9世紀から10世紀頃の遺構で、路面は九条大路、土壇は「羅城」を築いた基底部分とみられます。
桓武天皇が延暦13年(794)に遷都した平安京(城)の規模は、根本法令である律令を補完するため10世紀頃にまとめられた法令集『延喜式』に造営当初の施工計画が記されており、それによると南北1753丈(1丈=3m、約5・3㎞)、東西1508丈(約4・5㎞)で、京域内の南北中心線上にメーンストリートとして朱雀大路が通り、その南端を東西に通る九条大路との接点に玄関口として「羅城門」が建っていました。
九条大路の遺構は路面跡などに残る土器などから9~10世紀のものとみられ、北側の側溝跡、路面跡、南側の側溝跡、側溝と築地塀の間の狭い平地「
南北両側の側溝跡は幅が約1・2m、「犬行」(犬走)跡が約1・5mである事が確認され、北側の側溝跡から南側の側溝跡までの幅は約30メートルで、これが路面の幅とみられます。
『延喜式』には「南
「溝廣」(溝の広さ)は「一丈」なので3m、
「犬行」は「七尺」なので2・1m、
「垣基半」(「羅城」を築いた基礎部分)は「三尺」で0・9m、
「路廣」(路面の広さ)は「十丈」なので約30m、
合わせると、12丈=36mとなり、『延喜式』で定められた「大路十二丈」と一致することが確認されました。
一方で、「羅城」の基底部分にあたる土壇跡は南北方向に幅約3m、東西方向に約4m延び、高さが約15㎝で砂利や小石、土を交互に締め固めた跡が確認されました。
「羅城」とは、都城制を敷いていた古代中国の首都・洛陽や長安において外敵から守るため周囲に築かれた城壁を指し、中国では高い城壁を巡らせて囲っていました。
日本において、平城京(城)では南辺のほぼ全体にあった事が発掘調査などで確認済みですが、平安京(城)の「羅城」については見つかっていませんでした。
通説では、京域内を荘厳に見せるためにその玄関口にあたる「羅城門」と周囲、すなわち国家鎮護の官寺・西寺まで設けられていた、としていて、『延喜式』にも「羅城」の規格は南限の九条大路にしか付記されていません。
発掘を担った同研究所によると、平安京(城)の四辺の境界にあたる道路のうち北、東、西では遺構が確認されていたが今回の南側の発掘で、平安京(城)の南限が考古学的に確定し、『延喜式』に記載された平安京(城)の広さが考古学的に裏付けられたとしています。
また、今回の成果について、西山良平・京都大学名誉教授は「平安京が実際にどの程度まで造営されたかは古代史上の争点だったが、南端までかなり丁寧に高い精度で造られていた事がはっきりとわかった。今後の平安京研究の基準となる大きな成果だ」と話されています。
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