(トピックス)「じめさあ」(持明様)にあやかれ 願いをこめて“お化粧直し”

化粧直しされる石像

◇亀寿

鹿児島市城山町、歴史と文化の道と呼ばれる歴史施設が点在する地域の鹿児島市立美術館の敷地内の一角に造られた築山の中、ちょうど西郷隆盛の銅像の真後ろにあたるところに、「じめさあ」(持明院様)と呼ばれる石像がひっそりと佇んでいます。

石像のモデルである「じめさあ」とは戦国期から江戸初期にかけて南九州に勢力をはった島津家第16代・島津義久の娘(三女)で、第18代当主・島津忠恒島津義弘の三男、のち家久)の妻となった亀寿(かめじゅ/かめひさ)姫と云われていて、 彼女の法名持明彭ハ菴主じみょうほううえんあんしゅ興国寺殿」から「持明院様」と呼ばれ、それが薩摩訛りで「じめさあ」と広まったようです。

亀寿(かめじゅ/かめひさ)姫島津家の次期後継者と見込まれた島津久保島津義弘の次男)と結婚し、結婚後は「かミさま」「御上おかみ様」「御つぼね」と尊称されます。

これは亀寿(かめじゅ/かめひさ)姫の地位が「中納言様(=家久)御廉中ごれんじゅう様にて、御本家御相続遊ばされ候」(『末川家文書』口上覚留)とあるように島津家惣領として家督相続や財産相続などの権利を有していた「ご当主様」としての意味合いを持った尊称と思われ、叔父であり、舅でもある義弘からもこの尊称で呼ばれていたようです。

しかし、久保朝鮮出兵後の文禄2年に朝鮮・巨済島コジェドで病死したため、久保の弟・忠恒と再婚します。

亀寿(かめじゅ/かめひさ)姫は最初の夫・久保とは仲睦まじかったのですが、次の夫・忠恒とは非常な不仲で次第に疎んじられていきます。

慶長16年(1611)に父・義久が死去するや、後ろ盾を失った亀寿(かめじゅ/かめひさ)姫は正室の座を追われて本城である鶴丸城(鹿児島城)から父・義久の隠居城だった舞鶴城国分城、鹿児島県霧島市国分)に別居させられ、(これ以降は「国分様」「国分御上様」などと呼ばれるようになります)寛永7年(1630)10月5日、この城で生涯を終えます。

亀寿(かめじゅ/かめひさ)姫は、器量に優れなかったが、その心優しい人柄で人々に慕われていたとの伝承が残っていますが、史実的には島津家の歴代夫人の中でも別格の扱いであったらしく、島津家の女性としては珍しく肖像画が残っていたそうです。

◇「じめさあ」

さて、「じめさあ」石像があるこの場所は明治25年(1892)から昭和12年(1937)までの間、鹿児島市役所があったそうです。

昭和4年(1929)、当時の樺山かばやま可也かなり市長の頃にこの石像が発見されるのですが、発見された一帯がかつ鶴丸城の一部だった事から、石像亀寿(かめじゅ/かめひさ)姫、すなわち「持明院様」と考えられ、「じめさあ」と称するようになり、化粧直しの風習が始まったのはそれ以降のようですが、いつの頃から始まったのかは定かではないようです。

現在では亀寿(かめじゅ/かめひさ)姫の命日にあたる10月5日に鹿児島市役所の女性職員 市の広報課職員が化粧を施すのが恒例となっています。

◇「白地蔵」

実は、この石像ですが、元々は嘗て島津家の祈願所だった大乗院の境内にあったであろう「白地蔵」と呼ばれる石像ではないかと云います。

その所在は幕末・維新期廃仏毀釈あおりで大乗院が廃寺になって以降、行方不明となっていました。

また、この「白地蔵」には 願い事を叶えるために白粉が塗られていた風習があったようですね。

江戸後期、講釈師である伊東凌舎りょうしゃという人物が鹿児島を旅した際に書いた『鹿児島ぶり』という紀行文の中で、凌舎大乗院を訪れて時に「白地蔵」を見学した様子を「白地蔵と云う石像あり。めづらしき像なり。土俗心願あれば、地蔵のおもてに白粉おしろいをぬるなりと云う」と記しています。

さらに、凌舎はその「白地蔵」の絵も描いているのですが、その姿はまさに「じめさあ」石像に酷似しており、その絵には「女子のよく参詣するなり」との説明も付しているそうです。

この「白地蔵」「じめさあ」、すなわち亀寿(かめじゅ/かめひさ)姫と関連付けられた理由として、亀寿(かめじゅ/かめひさ)姫大乗院に深く帰依していた事も関係しているではないか、と考えられています。

◇願い事を叶えてくれるパワースポット

鹿児島市吉野町に在る鶴嶺つるがね神社では、御祭神の1人として亀寿(かめじゅ/かめひさ)姫が祀られています。

昔、島津家の祈願所であった大乗院にあった「白地蔵」は、何時いつしか「じめさあ」の名で親しまれるようになり、鶴嶺つるがね神社にお参りし、神社で分けてもらった紅でお化粧を施せば美しい女性になれる、という信仰が知られるようになり、最近では「じめさあ」石像と共に亀寿(かめじゅ/かめひさ)姫を祀った鶴嶺つるがね神社と共に、理想の女性像に近づきたいという思いを持つ女性が多く参拝に訪れているそうですよ。

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参考)桐野作人執筆「再考 島津義久3女・亀寿の地位」(『さつま人国誌』292、『南日本新聞』平成25年〔2013〕9月16日掲載分)→
※(参考)桐野作人執筆「再考・ジメサアの由来」(『さつま人国誌』211、『南日本新聞』平成23年〔2011〕10月17日掲載分)→



下記のブログランキングに参加しています。
記載された内容が目に留まった際には、クリックをお願いします!
人気ブログランキング
にほんブログ村 歴史ブログ
posted by 御堂 at 00:53 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/442783443
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック