槇島(眞木嶋)氏ノート(その1)―槇島(眞木嶋)昭光(2)

わが街・宇治―

この地域は古代から中世にかけての時期、古畿内(山城・大和・河内)の分岐点であり、緩衝地帯というべき地域でした。

源平争乱の発端となった治承期(橋合戦)、源氏同士の主導権争いとなった寿永期(河合戦)、鎌倉幕府の軍勢による京都侵攻を許した承久期の三度にわたる宇治川の合戦や、南北朝期南朝方楠木正成による焼き討ち、応仁・文明の争乱を経て戦国の争乱へと展開されていくなか、畠山政長義就による内訌、将又細川京兆家内の内訌など、朝廷や武家の中心都市であった京都につながる道筋にあったのが宇治という街であった訳なんですね。

そうした状況の中で、上山城地方(山城国宇治郡・久世郡・綴喜郡・相楽郡、すなわち南山城地域を指す)の拠点として存在したのが槇島まきのしま城(館)であり、そこには宇治郡槇島地域を本貫地とする眞木嶋(槇島)氏が勢力を張っていました。

元々、眞木嶋(槇島)氏は、室町期の後半期には幕府の奉公衆など将軍家直臣団として名を連ねるなどの地位にあったようです。

そうした中世期から近世期への移行期に活躍したのが眞木嶋(槇島)昭光です。

― ◇ ◇ ◇ ―

さて、昭光については上述のように、

  • 宇治郡槇島まきのしま地域を本貫地とする眞木嶋(槇島)氏である

  • 室町期の後半期には幕府の奉公衆など将軍家直臣団として名を連ねるなどの地位にあった
  • などの記述が多く見られますが、平安後期から連綿と続き「槇長者」「槇島惣官家」と呼称されていた眞木嶋(槇島)氏とは一線を画すものと考えます。

    さて、以下に掲げる史料は、室町将軍足利義昭に祗候していた時期の昭光に関する事項です。

    今日武家御参内…(中略)…三千計上洛云々…(中略)…御走衆左…(中略)…眞木島孫六(『言継卿記』永禄13年〔1570〕2月2日条)史料@
    史料@は足利義昭が禁裏へ参内した際、その御供として随行した幕府軍勢の中に「御走衆」として「眞木島孫六」の名が見える事から、「真木島孫六」としての初見史料と言えます。

    飛鳥井中将をどりの歌三色五首つヽ可作与之由被申被来、眞木島来十五六日に可躍用云々、はねおとり、恋のヽヽヽ、すきのヽヽヽ三色遣之(『言継卿記』元亀2年〔1571〕7月11日条)史料A

    晩頭…(中略)…今夜武家奉公眞木島興行踊、禁裏北御門拔通之外にて四踊有之 燈呂七十三有之云々、種々結構共不及筆舌也(『言継卿記』元亀2年〔1571〕7月17日条)史料B
    史料Aは7月15・16日の両日に催される風流踊の興行を任された「眞木島」のために飛鳥井雅敦山科言継に「をとりの歌」の作詞の依頼したもの。

    史料Bは幕府奉公衆「武家奉公眞木島」)主催で禁裏北門の路次で燈籠73個の随行する風流踊の興行が行われ、その見事さに見物人らが驚嘆したとあります。

    「武家奉公」とあるので、昭光だと思われます。

    (太秦)眞珠院斎に出京、又眞木島玄蕃ヽ所へ礼に被行云々(『言継卿記』元亀2年〔1571〕8月3日条)史料C
    史料Cは「真木島玄蕃ヽ」とあるので、「玄蕃頭」としての初見史料です。

    大外様続目之儀言上段、被聞食訖、証文分明上者、弥存其旨可抽忠勤、猶昭光可申候也、
        十月廿元亀二年日(花押)
          益田次郎とのへ(『足利義昭御内書』〔『益田家文書』2−365号、『大日本古文書』家わけ文書22〕
    史料D

                         眞木嶋玄蕃頭
          益田次郎殿              昭光

    大外様続目之儀、被遂御案内候、証文分明上者、弥被存其旨、可被抽忠功之由、被成_御内書候、尤御面目之至珍重存候、此旨得其意可申入由、被仰出候、恐々謹言、
     元亀貮
      拾月廿日 昭光(花押)
        u田次郎殿(『眞木嶋昭光副狀』〔『益田家文書』2−366号、『大日本古文書』家わけ文書22〕
    史料E
    史料Dと史料Eは足利義昭が石見の益田元祥宛に発給した御内書と、それに添えられた副状ですが、そこには「眞木嶋玄蕃頭 昭光」との署名があり、「昭光」としての初見史料です。

    四日、壬戌、…(前略)…尾州佐久間、向之松田豊前守所借之、武家之大蔵卿局、奉公衆…(中略)…眞木島ヽヽヽ以下数多、…(中略)…音曲囃等有之(『言継卿記』元亀2年〔1571〕11月4日条史料F
    史料Fは「奉公衆…(中略)…真木島ヽヽヽ」とあります。史料Aにおいて「武家奉公眞木島」との表記が見られますが、奉公衆になっていたと断定しきれないので、この史料Dが「奉公衆」としての初見史料と思われます。

    十九日、丙子、…(前略)…八幡宮ヘ御代官槇嶋玄詣云〻(『兼見卿記』元亀3年〔1572〕正月19日条)史料G
    史料Gは将軍足利義昭が自分に代わって、昭光石清水八幡宮寺に年頭の挨拶として代参したものです。

    ― ◇ ◇ ◇ ―

    (参考文献)
    ・源城政好「槇島昭光―流浪将軍義昭を支え続けた側近」(『宇治をめぐる人びと』宇治文庫6〔1995〕、のち『京都文化の伝播と地域社会』思文閣出版〔2006〕に「真木嶋昭光―流浪将軍義昭を支え続けた側近」として収録
    ・木下昌規「真木嶋昭光の地位形成についての基礎的考察―天正元年以降の将軍足利義昭側近として―」(佐藤成順博士古稀記念論文集刊行会編『佐藤成順博士古稀記念論文集・東洋の歴史と文化』、山喜房仏書林、2004)
    ・木下昌規「鞆動座後の将軍足利義昭とその周辺をめぐって」(『戦国期足利将軍家の権力構造』、岩田書院、2014)第三部第三章
    ・高田泰史「信長・秀吉・家康に怖れられた槇島玄蕃頭昭光―最後の将軍足利義昭の忠臣―」(熊本歴史学研究会『史叢』第15号、2011)

    ― ◇ ◇ ◇ ―

    ※(関連)山城国宇治郡と久世郡の境界線―中世期の平等院は宇治郡だった!―→

    ※(参照)槇島(眞木嶋)氏ノート(その2)―昭光以前の眞木嶋氏―→

    ※(参照)槇島(眞木嶋)氏ノート(その1)―槇島(眞木嶋)昭光―→


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    posted by 御堂 at 00:13 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム
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