「公暁」の法名は?「クギョウ」でいいのか?

建保7年(1219)正月27日、相模国鎌倉郡小林郷北山において、鎌倉殿(鎌倉幕府の長、棟梁、のちに日本国惣追捕使及び日本国惣地頭の任免権を持つ者)であり、征夷大将軍、右大臣でもある源実朝が甥(実朝の兄・頼家の子)で猶子(後見人)でもあった「公暁」によって暗殺されました。

さて、この「公暁」ですが、一般的に「クギョウ」と呼ぶ事が周知されていますが、最近の研究でこれに疑義を唱える説があるんですよ。

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まずは。「公暁」の略歴を列挙すると―

「公暁」は幼名を「善哉ぜんざい」と言いました。

父である頼家が建仁4年(1204)に北条氏の手によって暗殺された後、祖母である北条政子が引き取り、叔父である実朝の猶子となります。

建暦元年(1211)9月、12歳で鶴岡つるがおか八幡宮寺の別当職であった定暁の下で得度し、「頼暁」の法名を受けます。

その後、園城寺おんじょうじ三井寺みいでら)において公胤の門弟として入室して灌頂を受け、「公暁」の法名を受けるのです。

建保5年(1217)6月、18歳で鎌倉に戻り、鶴岡八幡宮寺の別当職に就任します。

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「公暁」が園城寺(三井寺)で師事する公胤は公家源氏の長である村上源氏の出自で、その師であり、叔父である公顕も同じ出自です。

公顕は「コウケン」、公胤は「コウイン」と鎌倉期の史料において呼ばれていた事からすれば、公顕―公胤―公暁、と続く法流である以上、「公暁」の「公」もその流れを相承したものでなければ辻褄が合わないはず―

事実、江戸期以前の史料において「公暁」「コウキョウ」と呼んでいる史料もあるようで、そうであるならば「コウキョウ」と呼ぶのが相応しいのではないかと指摘されています。

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※(参考)舘隆志「公暁の法名について」(『印度学佛教学研究』第61巻第1号)

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