(トピックス)「指月山伏見城、やはりあった!」幻の伏見城、痕跡残る…遺構が初出土場所特定

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豊臣秀吉が自身の隠居場所として、観月の名所として知られていた伏見・指月しげつ丘陵に築いた指月山伏見城とみられる石垣と堀が、伏見区桃山町泰長老での調査で見つかりました。

指月山伏見城は完成から2年後に発生した慶長伏見地震で倒壊した後ぐに埋められたため、これまで所在すらつかめていない「幻の城」でしたが、今回の調査で石垣や巨大な堀、100点超す金箔瓦などが出土するなど、420年ぶりの出現に専門家たちも「やはりあった」「間違いない」と驚きを隠せないようです。

指月山伏見城は、天正20年(1592)8月〜9月に秀吉が隠居屋敷として巨椋おぐら池を望む指月丘陵に着工・建設が始まり、途中から天守を備えた城郭として整備拡張された後の文禄5年(1596)に完成します。しかし、同年閏7月12日深夜から13日にかけて(の刻=午後11時から午前1時頃)に起きた内陸直下型地震であった慶長伏見大地震で石垣や天守閣の上部二層が倒壊・崩落してしまい、直後には北東側の木幡こはた山に木幡山伏見城が築城されます。

そのため、指月山伏見城については絵図などの資料が残っておらず、場所も特定できないでいたために、「当初から木幡山一帯に築かれる予定で、指月山伏見城は実は存在しなかった」との説もあった「幻の城」だったのです。それ故に、今回の発見は指月山伏見城の存在を決定づける上で極めて重要な成果と言われています。

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今回の調査地は、文献などから指月山伏見城の中心部と推定されていた観月橋団地の中央付近で、新たな棟が建設されるのに伴い、約600uを4月から実施していたもので、出土した物からも多くの情報が読み取れるといいます。

今回見つかった指月山伏見城の石垣は、一辺が1mを超す花崗かこう岩や堆積たいせき岩などが主に使われ、高さ約0・5〜1m、長さ約36mで南北に延びていました。地形などから本丸と推定される場所に近く、本丸西側の石垣の一部とみられるといいます。

秀吉時代初期の特徴である加工していない自然石が用いられており、大坂おおざか城本丸跡聚楽第じゅらくていと同様の手法(=穴太積あのうづみ)で積まれたであろうと断定でき、指月山伏見城の全貌が明らかになったとしています。

その石垣に沿って、幅5〜7m、深さ2m以上の堀も確認。堀からは100個以上の瓦片が出土し、こちらも大坂城本丸跡聚楽第跡と同様に五七の桐もんや菊文が描かれた瓦が多く見られ、うち数十個は金箔で装飾されていました。

信長時代は瓦のへこんだ部分に金箔が塗られ、秀吉時代には出っ張った部分に塗られているケースが多い。今回出土した瓦には、まだへこんだ部分に塗る瓦も多く、瓦の様式が切り替わる過程も検証できると言われています。落城した木幡山伏見城と違って、指月山伏見城で出土した瓦は焼けた形跡は見当たらず、地震で倒壊後すぐ堀に埋められたとみられます。

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高さ2・8m、南北14・5mにわたって確認された指月城とみられる石垣と堀跡

さらに、伏見区桃山町泰長老と同区常盤町にまたがる一帯に福祉施設が建設されるのに伴う調査でも指月山伏見城とみられる石垣と堀が見つかりました。

今回見つかった場所は、内堀の石垣や堀が発掘された地から西側に約200mの地点で、江戸時代の絵図面などから城の西側に位置し、城の外堀と内堀の間を区画する中堀の石垣の一部だとみられます。

石垣は東側に正面を向け、南北に14・5m、幅1m、高さ2・8m。

石垣は大きさ、種類共に不揃いな自然のままの石や、表面の凹凸をなくすため、叩き割って平らに加工された割り石が6〜7段積み重ねられた状態で、隙間にはこぶし大の間石あいいしが詰められており、この手法は2度目以降の築城では見られないといいます。

また、石垣に沿って堀の跡も確認され、堀に溜まった泥には、慶長伏見地震で倒壊した建物の一部とみられる木片や瓦の破片が大量に交じっていました。

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◎伏見山荘と伏見殿
指月丘陵は平安時代から観月の名所として知られ、多くの王族や貴族たちが別荘を構えました。

指月の由来は、四月(天の月、川の月、池の月、杯の月)を観賞する場、から「しげつ」と称されるようになったとの事。

中でも、平安後期の“伏見長者”と称されたたちばなの俊綱としつなは、宇治・平等院を開創した父・藤原頼通よりみちにならって、指月丘陵に豪壮な「臥見亭」「臥見別業」(『中右記』寛治7年12月24日条)と呼ばれた伏見山荘を築き、連日のように仲間の公家たちを招き、指月の森や巨椋池がかもし出す風光明媚な様をで、詩歌管弦にふけったり、酒を楽しんだりしたと云われています。

俊綱没後、伏見山荘白河上皇に寄進され、以降は王家の荘園となります。

その後、巡り巡って後白河上皇に伝承された際、上皇は此処に壮麗な伏見殿(船津御所、伏見離宮)を造営します。

鎌倉中期には後嵯峨上皇の後院として使われ、建長3年(1251)には持明院統の所領となって伏見上皇後伏見上皇と伝承されます。

鎌倉末期南北朝期には北朝方となった光厳上皇光明上皇に伝承され、後光厳上皇崇光天皇と伝承されますが、北朝の中で皇位継承に関し正当性を主張する崇光院流室町幕府を味方につけた後光厳院流に分裂が起こります。

貞治2年(1363)光厳法皇崇光上皇の子孫へ所領のほとんどを代々相伝とし、崇光院の皇子である栄仁親王に伝承します。

しかし、後光厳天皇室町幕府も実力行使で後小松天皇に皇位を継承し、また、栄仁親王が相伝するべき所領も崇光院の崩御後、足利義満により所領没収の憂き目に遭います。

後小松天皇称光天皇と続いた後、後光厳院流は男系が途絶え、崇光院流である栄仁親王の次男・貞成さだふさの皇子を猶子とし、後花園天皇とします。

後花園天皇崇光院流の名誉と勢力回復として父宮である貞成親王「後崇光院」の称号を与え、また弟宮である貞常親王に永久的に「伏見殿」(=伏見宮)と称する事を勅許し、ここに伏見宮家が創設されます。

それ以後、伏見宮家は指月の森にある伏見殿かみの御所、巨椋池の船着場である南浜付近に建てた舟戸ふなと御所をしもの御所と称して、繁栄を極めたと云います。

しかし、室町期の動乱、戦国期の争乱を経て、伏見殿も荒廃の一途を辿っていき、やがて安土・桃山期を経て、天正20年(1592)豊臣秀吉によって指月丘陵に指月山伏見城が築城されるのです。

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(参考)秀吉を襲った大地震―地震考古学で戦国史を読む(平凡社新書)


  


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posted by 御堂 at 01:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム
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