(トピックス)マグナ・カルタ〔大憲章〕制定800年

中世イングランド王国(Kingdom of England)で王権の規制を定めた「マグナ・カルタ」(大憲章)〔ラテン語:Magna Carta、英語:the Great Charter of the Liberties of England=イングランドの自由の大憲章〕が制定されてから800年を記念して「マグナ・カルタ」(大憲章)成立の地であるイングランド南東部で、テムズ川河畔の町であるサリー州ラニーミード (Runnymede)で式典が催されました。

「マグナ・カルタ」(大憲章)とは、1215年6月15日、王であっても「法」の支配の下にある事などを明文化した文書で、封建貴族たちが王権を制限、封建貴族の特権を再確認し、当時のイングランド国王である欠地王(失地王)ジョン〔John Lackland〕に認めさせた文書で、前文と63か条から成り立っている。

権利請願(Petition of Right)(※1)、権利章典(Bill of Rights)(※2)と共にイギリスの立憲制の発展に重要な役割(三大法典)を果たした。

ジョン王の家系であるプランタジネット朝(Plantagenet dynasty)はフランスの貴族であったアンジュー伯アンリが1154年にイングランド王ヘンリー2世となり、1399年にリチャード2世が廃されるまで続いた家柄で、長くフランス国内の領土をめぐって抗争が繰り広げられていた。

ジョン王の代になり、1214年までにフランスにおける領地をほとんど喪失。またカンタベリー大司教の任命を巡って、ローマ教皇インノケンティウス3世と対立。教皇ジョン王を破門するや支持していた多くの諸侯から見放され、1213年には謝罪して教皇に屈した。その際、一旦イングランド全土を教皇に献上し、教皇から与えられる形でジョン王に返還されていた。

こうした国内外での政策の失敗に対し、イングランド国内の諸侯から庶民にいたるまでの反発を招き、1215年5月5日に封建貴族たちの怒りが爆発。封建貴族たちはジョン王の廃位を求め、その動きに国民たちも同調する事態になったため、ジョン王は6月15日にラニーミードにおいて、王の権限を制限し、封建貴族や聖職者の権利を認めるという形でマグナ・カルタ(大憲章)が制定されます。しかし、ジョン王を支持する教皇インノケンティウス3世による勅令によりわずか2か月で廃棄されてしまいます。

翌16年にジョン王が死ぬとフランスのルイ王太子がロンドンへ侵攻(第一次バロン戦争)しますが、ジョン王の跡を継いだヘンリー3世マグナ・カルタ(大憲章)の存在で士気を高め、戦争を終結させます。

ところが、ヘンリー3世マグナ・カルタ(大憲章)を遵守しなかったので、何度となく再確認が施され、その際に条文の幾つかは修正されました。現在、現行法として有効とされているものは1225年に修正され、1297年にエドワード1世が確認したものが廃止されずに残っています。

その後、国王と議会が対立するようになった17世紀になり改めて注目されるようになり、イギリスにおいて憲法を構成する法典の1つとして存在しています。

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※1 権利請願(Petition of Right)
1628年5月、イギリス議会が専制的な国王チャールズ1世に提出し、承認させた請願書。国王大権の名の下に献上金の強制、関税の引き上げ、議会の承認なき課税、恣意的な不法逮捕や投獄に対する国王の責任を追及すると共に、「マグナ・カルタ」(大憲章)以来保障されていたイギリス国民の権利と自由の再確認を求めるための請願で、王位の継承が王家に相続されるものであるように、国民の権利や自由も私有財産所有と同様に国民に相続されているものである事を確認したものである。

チャールズ1世は一旦、権利請願を承認したが、翌29年に国王大権を盾にこれを事実上廃止し、これに抗議した議会も解散、親政に踏み切ったため、これに対する議会と国民の反感が清教徒革命を引き起こすさらなる導火線となった。


※2 権利章典(Bill of Rights)
正式名称は「臣民の権利と自由を宣言し、かつ、王位の継承を定める法律」(An Act Declaring the Rights and Liberties of the Subject and Settling the Succession of the Crown)で、イングランド国王の存在を絶対前提とした上で、国王に忠誠を誓う議会および国民のみが享受できる権利と自由を定めた法律。国王といえども否定できない、国民が古来より相続してきた諸々の権利を確認した。

1688年12月、国王ジェームズ2世が国外に逃亡した後、翌89年1月召集された議会において王国の現状を説明するための決議が行われ、新しく王位を継承するオラニエ公ウィレム(ウィリアム3世)に改革要求案である「古来の自由と権利を擁護し、主張するため」の宣言をする。

同年2月、オラニエ公ウィレム(ウィリアム3世)とメアリー(メアリー2世)は共同統治者として王位に就き名誉革命は達成され、12月にイギリス議会が立法化したものが「臣民の権利および自由を宣言し、王位継承を定める法律」、すなわち権利章典である。


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成文憲法を持たないイギリスにおいて、マグナ・カルタ(大憲章)〔1215年〕や権利請願(1628年)、権利章典(1689年)はイギリスの国の形態を定めた最も重要な議会制定法であり、封建領主の要求を国王に認めさせ、イギリス人の伝統的な権利と自由の尊重を要求する、など西欧社会においてイギリスを立憲制近代国家をいち早く成立させる事に成功します。

何よりも、王といえども「法」の下にあって、古来からの慣習を尊重する義務があり、権限を制限される事が文書で確認されたという意味が大きいですね。

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◎欠地王(失地王)ジョン〔John Lackland〕
イギリス王室では、ジョン王の評判が余りに悪いために、以降は誰もジョンを名乗ったものはいないと云います。ジョン王以降、ジョンという名を名乗った王子は何人もいますが、現実として「ジョン2世」は存在しません。さらに、ジョン王の息子であるヘンリー3世自身が長子にジョンと名付けず、エドワードと名付けています。ジョン王に対する抵抗意識、人気のなさを物語っていますね。

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※(参考)「チャールズ」は不吉?→



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posted by 御堂 at 01:39 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム
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