(トピックス)13世紀前半の「島畑」の遺構発見 低地を改良 城陽・寺田 木津川右岸

土を盛って周囲の土地より高くした島畑の遺構。右の段差から左側に広がっている

京都府埋蔵文化財調査研究センターは、城陽市寺田の木津川右岸にある水主みぬし神社東遺跡下水主しもみずし遺跡の発掘調査で、低地で畑作をするため土を盛り上げて築いた農地島畑しまばたの遺構を見つけたと発表しました。13世紀前半に造成されたとみられ、配置は現在の水田区画と合致しているとの事。

水主神社東遺跡と下水主遺跡

同センターは、新名神高速道路の整備に伴う遺跡調査を2012年度(2012・4〜)から行なっていて、合わせて1・2ha(ヘクタール)を調査したところ、幅約8〜15m、長さ50〜100m程度、高さ0・6〜0・8mの「島畑」の遺構が確認されました。

「島畑」は水田の底をなるべく地下水位に近づけるため可能な限り深く掘り下げ、その掘り下げた土を盛って畑にしたもので、水田の中に一段高い畑がある、という感じですね。大きな川のそばや水けの悪い土地に多く造られます。

「島畑」の遺構周辺には、弥生時代竪穴住居平安時代の木組みの井戸が見つかり、以前は村落を形成していたとみられます。

同センターは「時代と共に川の位置が変わって洪水に見舞われるようになり、生活場所に適さなくなったため、木津川流域を耕作に適した土地に改良する手段として、島畑を採用したのではないか。中世の土地利用状況が分かり、生産場として栄えていた様子がうかがえる」と分析されています。

事実、現在の城陽市の木津川流域には「島畑」が多数分布し、イチジクなどが作られています。

今回、採取した種子からは当時の栽培作物の特定できなかったようですが、同センターは「島畑を設けるには労力がいるため、商品価値の高い作物を作ろうとしたのでは?」と考察されています。

江戸末期から大正時代の地層からは綿や大麦などの種子が出土し、この地域で綿の栽培が行われたとする、江戸時代の文献記録が裏付けられました。

また、同時に13世紀前半頃の土師はじなどが出土した事から、「島畑」鎌倉時代にあたる13世紀頃には造られ始めめていた事、確認された「島畑」の遺構が現在の「島畑」と同じ形状で造られ、100年に1回程度の割合で補修された形跡があるものの、その配置が鎌倉時代の造成時から現在まで踏襲されてきた事も判明しています。

「島畑」の起源については、条里制のできた7世紀頃まで遡る見解と、13世紀頃からという見解とに分かれていますが、現在は13世紀説が有力で、今回の結果はそれを改めて裏付ける要因となるかもしれませんね。

「島畑」は、日本独特の土地利用の仕方でかつては全国に多くあったが、区画整理などで失われ、大規模に残るのは城陽市や愛知県一宮市などだけになっていると云います。

「島畑」について研究している名古屋大学の溝口常俊名誉教授(歴史地理学)は「鎌倉時代の世の中が落ち着いた頃に、水田と一緒に畑作もする家族経営の日本農業の原型ができたのではないか」と話されています。

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※(参照)京都府埋蔵文化財調査研究センター→


  


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posted by 御堂 at 02:49 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム
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