(トピックス)秀吉が築いた「御土居」に地下排水溝 北野天満宮、発掘調査で確認

北野天満宮の本殿北側の御土居で見つかった取水口。暗渠(排水トンネル)が紙屋川側の排水口まで約19m繋がっている

豊臣秀吉が長い戦乱で荒れ果てた京都の都市改造の一環として外敵からの来襲に備える防塁と、鴨川や紙屋川(天神川)の氾濫から市街を守る堤防として天正19年(1591)に多くの経費と労力を費やして京都の市街を囲むように築いた土塁御土居おどい跡(国史跡)のうち、遺構が残っている北野天満宮(京都市上京区)境内で「御土居」を貫通し雨水を川へと流す石組みの排水トンネル(=暗渠あんきょ)の取水口京都市埋蔵文化財研究所の調査で確認されました。

北野天満宮御土居の排水用暗渠(取水口側)。奥に排水口が見える

取水口は本殿の北側にあり、建物に雨水が流れ込まないようにするために流れてくる雨水を土塁を一旦削って造った後、埋め戻したとみられます。

豊臣秀吉が築いた御土居の構造

「御土居」は外敵の侵入や河川の氾濫から京都の市街を守るため、豊臣秀吉が天正19年(1591)閏正月から約2か月程で建設され、高さ約3〜5mの盛り土で構築された台形の形状をした土塁と堀(堀の一部は川や池、沼を利用)を併設したもので、その上には竹が植えられていたと云います。(ルイス・フロイス『日本史』に拠れば「秀吉が御土居に樹木(竹)を植えさせたのは美観のためであった」と書き記しています。秀吉にすれば、美観のための施策でしょうけど、結果的に防水林の役割も果たした事になりますよね)

その範囲はおおよそ北は鷹ヶ峯・紫竹(現在の北区紫竹、加茂川中学校付近)、南は九条通、東は鴨川(現在の寺町通=当時の東京極通=東辺)を、西は紙屋川を自然の堀として代用するように巡っており、五里26町が囲まれ、南北約8・5km、東西約3・5km、総延長約22・5kmに及びます。

結果として、平安京(城)という都城制では実施できなかった(→平安京遷都から10年後の延暦24年〔805〕12月、桓武天皇は平安京の造営を中止していますし…)されなかった羅城らじょうという壁で囲まれた都城制が初めて実現したと言えるのかもしれません。

「御土居」の築造に関しては面白い説があり、「洛中の範囲を明らかにするため」というのがあります。

これは『拾遺都名所図会』の「洛中惣土堤」の項に『室町殿日記』から引用されているもので、天正18年(1590)頃、秀吉前田玄以里村紹巴を召して「洛中の境」を検分するのですが、明瞭な回答が出ませんでした。

そこで秀吉細川幽斎平安京(城)の歴史を尋ねると、幽斎「東は京極迄、北は鴨口、南は九条までを九重の都と号せり。…(中略)…されば内裏は代々少しづつ替ると申せども洛中洛外の境は聊かも違うことなし」と答えます。

秀吉はこれを聴き、「さあらば先ず洛中洛外を定むべし」と諸大名に命じ惣土堤を築かせたと云うんですね。

これにより、「御土居」の内側を洛中、外側を洛外と呼び、要所には七口を設け,洛外との出入口としました。それらは鞍馬口や丹波口などの地名として残っていますね。

しかしながら、洛外との出入口が設けられなかった街道にとっては、「御土居」の存在が生活をする上で邪魔になります。

例えば、祗園社(現在の八坂神社)に通じる四条橋は撤去され、祗園祭の神輿渡御の経路も変更を余儀なくされたり、清水寺への参詣路に位置した五条大橋(現在の松原橋)も移設撤去され、六条坊門通(現在の五条通)の位置に新たに架橋されたりします。

江戸期以降、そうした生活に支障をきたす箇所は徐々に取り除かれ、大正期に入ると京都市の近代的都市計画による住宅開発などに伴い、大半がその姿を消していきます。

調査した京都市埋蔵文化財研究所によると、取水口は大きさは高さ約40cm・幅約60cmで、厚さ約20cmの花崗岩の切り石の板を四方に組み、「御土居」の頂上から約5m下を東西に約19・3mにわたって貫かれ、本殿側の取水口から既に確認されていた土塁の外側、すなわち紙屋川側の排水口まで緩やかに傾斜しながら続いています。

実は取水口の存在は以前から知られており、元禄15年(1702)に描かれた『京都総曲輪ぐるわ御土居絵図』(京都大学総合博物館所蔵)には「悪水抜(き)」と図示されて取水口と排水口が描かれていたのです。今回の調査で絵図に描かれた内容が改めて実証された事になりますね。

京都大学の藤井譲治名誉教授は、排水口の石に残る矢穴(石を切り出す際の穴)の形や石材の加工方法から、取水口の設置は「御土居」完成直後から約30年後までの間で、豊臣期徳川期かはっきりしないが、石の調査を進めれば年代が判る可能性がある」と仰っています。

確かに、「御土居」の付け替えや再利用が確認された東本願寺の別邸・渉成園(枳殻邸きこくていなどを見ても、寛永18年(1641)から東本願寺の新たな寺内町じないまちの開発や渉成園(枳殻邸)の建造などが始まっている事実を考えた場合に、豊臣期に改築などはもっての外で、むし徳川期に設置されたのでは?と思うのですが、どうでしょう!

― ◇ ◇ ◇ ―

「御土居」は築造時、「御土居」とは呼ばれておらず、「京廻堤」「新堤」「洛中惣構え」、その後「土居掘」と定着します。

ところが、江戸期になって「掘」の呼称が消えてしまい、「土居」という語句で呼ばれ出すのが寛永期(1624〜44)頃で、「御土居」の名称は近代(明治以降)になって成立したと見られます。

応仁・文明の乱以降、戦国末期にかけては、がまえ、総曲輪、総ぐるわと呼ばれた、中国の城や中世ヨーロッパの都市のごとく、都市全域を堀や城壁で囲む様態が採用されます。

それは城郭だけでなく、中世都市の代表格である環濠都市・堺や織田信長明智光秀しいされた旧本能寺(北は六角通、東は西洞院通、南は四条坊門小路(現蛸薬師通)、西は油小路通に囲まれた場所)の惣堀しかり…

戦国末期には後北条氏の拠点、小田原城惣構は二里半(約9km)に及ぶ空堀と土塁で城下町全体を囲んでいますし、秀吉死去以降の大坂城惣構小田原城の惣構同様、周囲二里の長さでした。

このように見ると、小田原城惣構のように堀と土塁で城下町全体を囲む、すなわち都市全域を堀や城壁で囲む様態こそがセットな訳で、「土居掘」と称してこそ納得できますね。

最近の研究では、「土居」だけでは堀の部分が含まれない事から、「御土居掘」と呼ぶ事を提唱する動きが見られるようです。

※(参照)京都市埋蔵文化財研究所→


 


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posted by 御堂 at 19:52 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史:コラム
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