安政伊賀上野地震とその被災記録

この日曜日、能登半島沖でマグニチュード6・9、震度6強の地震が起きましたね。朝、午前9時42分頃の最初の揺れに関しては、現在住んでいるアパートでも揺れを感じましたので、被災地である能登半島周辺部の住民の皆さんの恐怖は如何ばかりだったことでしょう―

今回の能登半島沖地震は、凡そ「横ずれを含む逆断層」運動が起因なんだとか…

日本海側は太平洋側に比べて、はるかに地震の頻度が低いと言われてきました。

実際、日本列島付近は、東からの太平洋プレート、南東からのフィリピン海プレートがぶつかって、日本列島が載っかっているユーラシアプレートの下の沈み込んでいます。

その沈み込む力に引きずられた陸地側のプレートが跳ね上がって起きるプレートテクトニクス運動が地震となるわけですね。

こうしたタイプの地震が現在、発生危険視されている東南海・南海地震なのですが、今回の能登半島沖地震はタイプが異なり、陸地側のプレートの内部のひずみが壊れて地震が起きたのだそうです。

ユーラシアプレートは、先の太平洋プレート、フィリピン海プレートからの沈み込むだけではなく、この2つのプレートから水平方向に押されているらしく、ユーラシア側、と2つの側からの圧縮力でプレートが壊れてしまい、結果地震が起きるのだとか―

その意味では、平成12年(2000) に起きた鳥取県西部地震や、同16年(2004)の新潟県中越地震と同じメカニズムらしくて、こういう地震の発生は日本列島各地のどこで起きてもおかしくないという事ですよ。

さて、かつて江戸時代後半に余震が9年間続いた大地震がありました。いわゆる安政の大地震ですが―
  • 嘉永7年(1854)11月4日に起きた「安政東海地震」(マグニチュード8・4)
  • 嘉永7年(1854)11月5日に起きた「安政南海地震」(マグニチュード8・4)
  • 安政2年(1855)10月2日に起きた「安政江戸地震」(マグニチュード6・9)
を総称したものです。なかでも、「安政東海地震」が発生した32時間後に「安政南海地震」が発生しており、連動型の地震として大規模災害をもたらしています。

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さて、この「安政東海・南海地震」の起こる約半月前の嘉永7年(1854)6月15日にも、三重県伊賀上野市から奈良盆地北部に走る木津川断層を震源地として起きたマグニチュード7・25、震度6~7を記録した「安政伊賀地震」(伊賀上野地震)が起こっています。

東南海・南海地震の発生前後に、近畿や中部地方で内陸地震が増える現象は古くから知られていて、この「安政伊賀地震」(伊賀上野地震)もその1つだったようです。

「安政伊賀地震」(伊賀上野地震)は嘉永7年(1854)6月15日丑刻(午前2時頃)に発生した地震で、震源は伊賀上野(現在の伊賀市近辺)。本震の2日前である6月13日正午頃から地震活動が始まり、その後も規模の大きな余震が7月10日午前2時頃まで続いたことから「安政伊賀上野地震」と総称されています。

木津川断層帯の活動による内陸型の地震と考えられており、全体の被害規模については伊賀だけでなく、大和北東部、山城南東端、近江南部に大きな被害をもたらし、少なくとも1000名近い死傷者を出したと記録されています。さらに小規模ながら、越後、常陸から長門に至る広い範囲でも地震が記録されています。


『大地震難渋日記』表紙『大地震難渋日記』

そうした大地震について、奈良市月ヶ瀬地区の村民がその様子を記録した日記と帳面が残っています。

まず、日記は添上郡石打村(現在の奈良市月ヶ瀬石打)の庄屋であった田北六兵衛が記した『大地震難渋日記』というもので、地震の揺れを「馬の腹ニあぶ喰付、腹のかわをうこかすごとく、なみよるていにゆりうこく」と「馬の腹の皮を動かすごとく」などとユニークな表現で形容しています。

『地震帳』表紙『地震帳』

『地震帳』は添上郡月瀬村の今西伊介という人物が書き記した手記で「大大大大大大大をうぢ志ん(地震)」「大」を7文字書いて地震の大きさを表現しています。

何れも地震体験記で、地震史料としての価値が高いものです。

文面からもの1つ1つから、かつて経験しなかった事態に遭遇していることが読み取れますね。

先人たちのこうした記録が、後世の私たちに地震の構造・メカニズムの究明や、体験などによる救済活動・ボランティアに対する処し方を教えてくれるんですよね。

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※(参照)津波に消えた豊後沖ノ浜
※(参照)実録「岸辺のアルバム」―狛江水害(多摩川水害)
※(参照)生死を分けた15段―天明3年の浅間山大噴火において

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