“精忠”岳飛鵬挙

岳飛は、中国・南宋期の武将で、元々は農民でしたが、北宋末期に義勇軍に志願しました。ちょうどその頃は、北宋が女真族の金によって滅ぼされ、漢民族王朝が危機に瀕している時であり、最初に金に抗った宋沢という文官出身の人物が、金の圧倒的な勢いに対し、義勇兵を募ったのです。岳飛は、そのなかに身を投じ、やがて大いに活躍して武名を高め、次第に頭角を現し始めます。

宋という国は文官統制(シビリアン・コントロール)されていたため、官軍はろくに組織されておらず、義勇軍こそが金に対抗し得る主力でした。そんな中で岳飛は軍閥(岳家軍と呼ばれる)を形成し軍功を重ねていきます。金も岳飛のことを“岳爺爺”と畏怖しました。

しかし、軍閥の力に国運を任せるしかない官僚たちは急に力をつけた軍閥を身の危険を感じるようになり、とりわけ岳飛は性格が不遜でありながら学識もあり軍功も第一であったために無用な敵を多く作ることになります。

岳飛“精忠岳飛”の旗を高宗より賜わる程の栄達を見せますが、宰相の秦檜は岳飛の大きくなり過ぎた兵力を危険視し、また金との和平を模索する秦檜にとって主戦論者の筆頭である岳飛は和平への最大の障壁でもあったため、結局秦檜は強引に岳飛を無実の罪で投獄します。

岳飛は謀反を企てていた事の自白を強要され、筆を持たされますが「天日昭昭」(天は全て知っているぞ)と自白を拒絶します。どんな拷問を受けても自白をしない岳飛に秦檜は焦りましたが、その妻王氏が「虎を捉えるのは簡単だけど、それを放つと大変なことになる」と早急に岳飛を殺すよう諭し、秦檜もその言葉で岳飛の殺害を決断し、毒を盛って獄死させました。

のちに秦檜は主戦論者を次々と退け、金王朝との屈辱的な和平を結び、結果、南宋は北宋を凌ぐ程の経済的・文化的発展を遂げます。しかし、中国の人々はそれを誰一人として秦檜のおかげだとは言わず、岳飛たち抗金の名将のおかげだ、と語っています。岳飛は無念の死を遂げましたが、その生涯は金に屈せず、姦吏に屈せず抵抗し続けました。まさに信念に生きたわけです。そんな岳飛を中国の人々は崇拝し続け、杭州に岳飛廟を建て、武神として祀りました。現在でも岳飛廟を参詣する人は絶えないといいます。

その岳飛廟の一角に、岳飛の獄死に係わった人間が繋がれた像もあり、なかでも後ろ手に縛られて跪かされている秦檜とその妻の座像に訪れた人たちは罵声を浴びせ、唾を吐きかけるのだそうです。権勢を極めたまま天寿をまっとうした秦檜は後世まで罵倒され、不幸で不本意な殺され方をした岳飛は神として祀られたわけです。中国で最大の人気を誇る英雄の1人の姿として…

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