純愛物語―勧修寺家と“玉の輿”―

説話集で有名な『今昔物語集』巻22(本朝世俗部)には藤原摂関家の歴史が語られています。その中に摂関家の本流ではなく傍流だが、末永く繁栄した一族である勧修寺家の祖先にあたる藤原高藤という人物の純愛物語が記されています。

高藤という人物は幼い頃から鷹狩りが好きで、15、6歳の時、鷹狩りに南山階やましな(山城国宇治郡山科、現在の京都市山科区)の山々を彷徨いました。ところが、急に雨風が強くなり、供の者たちとも離れ離れになってしまい、高藤は馬飼い1人を連れて小さな唐門のある家の庭に馬を引き連れて、寝殿の板敷きに休みました。

そこへ40歳ばかりになるこの家の主人がやってきて、「どういう(身分の)お方ですか」と訊ね聞いたので、馬飼いの男が高藤の身分素性を名乗ると、主人はそれを聞いて「こんなみすぼらしい家ですが、雨の止むまで家に入っていてください。お着物を炙り干して、馬にも草を遣りましょう」と言って奥に招きました。

高藤が横になっていると、暫くして年の頃13、4になる少女が恥ずかしそうに高杯を持ってやってきました。

少女はこのような田舎のとるに足らない家の子とも見えず、極めて美しい容姿でした。

夜も更け寝ようとしたが、先程の少女が心にかかっていたので主人に「独り寝るのも恐ろしい。あの少女にここに来いと言ってくれないか」と言いました。

この言葉通り少女がやってきて、供に寝たが、近くで見ると一層可愛らしい―それで高藤は行く末を約束して、長い秋の夜をまんじりともせずに少女と愛し合いました。

そして夜も明けたので、差していた大刀を形見に置き、「例え親が思慮もなく他の男と結婚させようとしても、決して体を許してはならないぞ」という言葉を残して、その家を去りました。

京の家では高藤が帰らないのをひどく心配していましたが、無事帰ってきたので大変喜び、「幼いうちはあれこれ喧しく止めたりしなかったが、このような事があるので、今後鷹狩りをしてはならないぞ」と厳しく戒められました。

そしてただ1人、家の在り処を知っている馬飼いも田舎へ帰っていったので、高藤はそれ以来二度とあの家を訪れることができず、高藤はあの家の少女の事が気にかかって心は晴れずにいました。

それから6年の月日が流れました。馬飼いが田舎から京へ帰って来たので、高藤は馬飼いに案内させて、再びあの家を訪れました。

家に着くと、思いがけない人の訪れに家の主人は喜んでおり、「あの人はいるか」という問いに、家の主人は「おります」と答えました。

高藤は喜んで、几帳の傍に半ば隠れている姿を見ると、すっかり大人びた女性になり、驚く程美しくなっていました。

また、その傍らには5、6歳ばかりの大層可愛い少女がいました。「これは誰だ」と高藤が問うと、ただただ泣くばかりで、はかばかしい答えもしません。

父親を呼んで問うと、ひれ伏して「あの時、あなたがお出でになった以後、娘には男を近づけませんでした。あの時に懐妊して生れた子が、この子でございます」と言いました。

これを聞いて高藤は憐れに思いましたが、ふと見るとあの形見に授けた大刀が置いてあり、そしてその少女をよく見ると、自分にそっくりでした。

その夜はそこに留まって、日を改めて、その主人の娘であるその女性と少女を京にある高藤の屋敷に連れて行き、その女性を正式に妻としたのです。

この家の主人は宇治郡の大領(=郡司)、宮道みやじの弥益いやますという人物でした。(実際は従五位下、下漏刻博士であったが、藤原氏を映えさせる意図で大領としたようです…)

高藤は生涯この女性だけを妻としました。一夫多妻を常とする平安時代にあって誠に珍しい純愛の美談と言えますよね。

― ◇ ◇ ◇ ―

高藤とその女性との間に生れた少女、胤子は、元慶8年(884)に定省さだみ(光孝天皇第7皇子)と結婚し、長男・維城これざねを産みます。

仁和3年(887)、夫の定省が再び親王宣下して皇籍に復帰し、宇多天皇となり、さらに子の維城も親王宣下、同5年(889)に立太子を経て、同9年(893)に醍醐天皇となります。

しかし、胤子醍醐天皇の即位を見る事なく、寛平8年(896)に亡くなります。胤子にとっては、自分が産んだ子が思いもかけず天皇となった事で、女御という身分になりました。そして、外祖父である高藤は内大臣になり、、宮道弥益も従四位修理大夫となったのです。大領の身分で、時の天皇の外祖父となった事は、異例中の異例であり、誠に稀有な出世というべきでしょう。

昌泰3年(900)、醍醐天皇は母・胤子の菩提を弔うため、この宮道弥益の家を寺にしました。それが現在の勧修寺かじゅうじ(なお、家名や寺名では「かじゅうじ」、地名・住所表記は「かんしゅうじ」と呼称されています…)です。勧修高藤の諡号(おくり名)に由来していて「勧学修身」の略したものだそうです。如何にも真面目な高藤の人生を象徴しているような名ですね。

― ◇ ◇ ◇ ―

高藤の妻となった宮道弥益の娘は、名を列子たまこと言いました。

この列子のエピソードが「玉の輿」という格言の語源と云われています。

『源氏物語』の著者紫式部(藤原為時むすめ)はこの高藤列子の4代の孫にあたり、彼女は一門の繁栄を物語の中で華咲かせようとしました。

実際、宇多天皇を桐壺帝、醍醐天皇を朱雀帝に見立てた紫式部は、その華やかな容姿と実生活から当時“玉光宮”と呼ばれていた弟宮の敦慶親王光源氏のモデルとするのです。(因みに、敦慶親王の正室は兄である醍醐天皇の皇女です。この点も、光源氏の後妻だった朱雀帝の皇女、女三宮と絡み合いますね!)

さらに、末弟である敦実親王宇多天皇第八皇子。まさに宇治八の宮ですよね。面白いのは、この敦実親王の子は臣籍降下し、源雅信、源重信と名乗りますが、彼らが宇治院平等院の前身)を所有していたんですよね。

こうした醍醐天皇敦慶親王敦実親王は皆、宇多天皇胤子との間の産まれた同母兄弟でもあります。まさに一門のサクセス・ストーリーなわけです。

そうした中で、紫式部列子のエピソードを大ヒントにして、明石の君の話を書いたのだそうですよ!


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posted by 御堂 at 03:54 | Comment(2) | TrackBack(0) | 歴史:コラム
この記事へのコメント
元康さん、こんばんは。

そうですね、この列子にすれば、最初から必然的ではなくて、たまたま結婚した夫や息子が巡り合わせで皇族になった…って感じでしょうからね!(^ー^)

ハイ!リンクOKです。よろしくお願いしますm(_ _)m
Posted by 御堂 at 2007年02月21日 20:00
現在「玉の輿」というと、
狙って掴むモノののようなイメージですが・・・
語源はこのような純愛物語だったのですね。
しかし、皇籍に関わりを持つようになるとは、
当時の公家の姫達の羨望の的になったでしょうね〜「愛」は「計算」を超える、のですね(笑)

ところで、僕の方にもリンクはらせていただくことを
ご了承いただければ幸いにございますm(..)m
Posted by 元康 at 2007年02月21日 18:55
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