「鎌倉幕府」と「鎌倉時代」

「鎌倉幕府」はいつ成立したのでしょう。

史実の上で、この政権の事を「鎌倉幕府」と呼ぶようになるのは、少なくとも江戸時代以降の話です。

「幕府」というとイコール「徳川幕府」とイメージされ、武士による政権の一本化と見られがちです。ほとんどの教科書も、「鎌倉幕府」があたかも「武士が政治を行った」「武士が政権を握った」かのように書かれています。

元来、「幕府」とは将軍の陣営を指し、同義語として「幕営」があります。また、近衛府の長官にあたる大将も唐名で「幕府」と呼ばれていました。この「近衛大将」は官位相当でみると従三位にあたります。三位以上の貴族は国衙や荘園内に政所という家政機関を置く事が許されています。

この当時、政治は内裏で行われていたわけではありません。上皇や法皇などの院政も藤原氏の摂関政治もその邸宅が政所となって、そこから政治を動かしています。

源頼朝は平治元年(1159)の平治の乱で捕らえられ、伊豆に配流となり、右兵衛佐という官職も剥奪されます。(「すけ殿」と呼ばれるのは右兵衛佐からきています)

治承4年(1180)に東国の在庁官人たちと呼応し、「平家打倒」のスローガンを掲げて挙兵。10月6日に父祖以来の拠点だった鎌倉に入った源頼朝は東国武士団の棟梁=「鎌倉殿」として統率します。

但し、朝廷にとって頼朝は「謀反人」として扱われています。

しかし、平将門決起以来の念願だった東国の在庁官人たちにとってみれば、それはそれでOKでした―

同年12月12日、鎌倉を拠点とした「鎌倉殿」に馳せ参じた東国武士団たちは侍所に会し、「これから以降、東国の人々はみな、頼朝の徳ある道を進むのを目にして、鎌倉の主として推戴することになった。」(『吾妻鏡』)のです。これこそが「鎌倉幕府」の出発点だと思われませんか?

転機が訪れたのが寿永2年・治承7年(1183)で、この年頼朝は後白河院から東国における統治権的支配権(東海道・東山道の実質的支配権)を認める十月宣旨(「寿永二年十月宣旨」)を受けます。

宣旨の発布と同時に、頼朝は配流前の官位である従五位下、右兵衛権佐に復し、「謀反人」でなくなります。(年号も改められている)

宣旨を獲得した事で、頼朝が目指す路線は朝廷との協調へとその度合いを強めていきます。

反面、東国独立論は大きく後退していきます。東国独立論を強く主張していた平(上総)広常の暗殺はその一端を示しているものと考えられます。

このように東国における情勢は反乱から内乱へ様変わりします。東国の在庁官人たちにとっては独立勢力でなくなったわけで、ある意味、寝耳に水の話でしょうが…

その後、元暦2年(1185)に平家討滅の功により従二位を叙爵して三位以上の地位を有します。

文治元年(1185)には「日本国惣追捕使・惣地頭使」の勅許を得、支配権は平家没官領などへと侵食してゆきます。

さらに、文治5年(1189)には正二位に叙爵。その間、朝廷内で三つ巴だった藤原摂関家の勢力争い=平家と組んだ(近衛)基実、木曽義仲と組んだ(松殿)基房、頼朝と組んだ(九条)兼実=も兼実が勝利し、頼朝にとって上洛という示威行動を起こせる状況が芽生えます。

そして建久元年(1190)11月、頼朝は上洛して後白河院に謁見、右近衛大将に任官されます。一旦は就職しますが、辞任して鎌倉に帰り、翌建久2年(1191)正月に「前右大将」として「政所吉書始」を行います。

しかも、同じ年の3月に朝廷の国家統治の法制の再確認として発令された「建久二年三月廿二日 宣旨」(建久Ⅰ令、三月廿二日法)17か条のうち、16番目の条項「可令京畿諸国所部官司、搦進海陸盗賊並放火事」(京畿・諸国の所部の官司をして、海陸の盗賊ならびに放火を搦め進むべき事)の中で、

自今以後、慥仰前右近衛大将源朝臣並京畿諸国所部官司等、令搦進件輩

のように海賊・陸賊・放火人の追捕について、京や諸国の担当部局(検非違使など)と共に頼朝に対し職務が命ぜられたのです。

すなわち、国家軍事警察制度上での頼朝の職権が公然と明記された訳ですね。

建久3年(1192)7月には「征夷大将軍」に任官しますが、頼朝自身が「征夷大将軍」への任官を希望したわけではなく「大将軍」と名の付く職だったようで、朝廷では「惣官」「征東大将軍」「征夷大将軍」「上将軍」の4つが候補からの消去法の結果、「征夷大将軍」に推挙されたのです。

頼朝の死後、その子・頼家がその後継者として朝廷から相続を認められたのも実は「征夷大将軍」ではなくて、「日本国惣追捕使・惣地頭使」であった事もわかっています。

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ただし、この「鎌倉幕府」は東海道・東山道、さらに平家没官領などに限定された東国中心の政治組織体です。

この時点で「鎌倉幕府」の命令に従わない武士も西国を中心に存在していました。その事は後に後鳥羽院が北条義時追討の院宣を発した際に上皇側に味方した武士たちがいた事実が物語っています。

―とすれば、「鎌倉時代」の幕開けはいつからでしょうか?

単純に「いい国(1192)作ろう鎌倉幕府」と教科書で覚えたように建久3年(1192)とするのはおかしいですね。上記のように、この年は頼朝が征夷大将軍に任官した年にしか過ぎず、「鎌倉幕府」が始まった時期でもなければ、時代が幕開けした年でもありません。

では、「鎌倉時代」はいつからと考えればいいでしょうか?

時代の節目は政権交替で考える場合が多いのですが、京には未だ天皇を中心とした朝廷が存在しており、幕府はこの時点では鎌倉に拠点を置く一地方政権にしか過ぎません。

むしろ、後鳥羽院が起こした北条義時追討の戦闘(=承久の乱)により鎌倉方が京都方に勝って、朝廷内での発言力が優位な状況にした承久3年(1221)が「鎌倉時代」の始まりと考えるべきではないでしょうか。

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(追記)
この記事の成稿後に、本郷和人氏著『人物を読む 日本中世史―頼朝から信長へ』(講談社選書メチエ361)の中の項目で「九条道家―朝廷再生」を読みました。その中で、示唆に富むヒントかな?と思える内容を発見!

九条道家という人物は、藤原兼実の孫にあたります。承久の乱後に一度失脚しますが、再度復帰し、摂関政治の最後の華を咲かせたとあります。

その内実を見てみると、息子たちは摂政・関白、征夷大将軍のポストを務め、娘は時の天皇の女御となって、親王を出産―外戚として、道家は「太閤」の立場で政務と執ったのです。

「太閤」として、政治の頂点も軍事の頂点も牛耳っていたわけですね。

それが、後嵯峨天皇の即位によって転換期を迎える、というのです。後嵯峨天皇は朝廷内をよりシステマチックに中級実務官人たちによる奉行制を導入し、朝廷政治を一新します。

平安期以来の摂関政治というものは、言ってみれば藤原氏とその血縁者のみによる政治組織といってよく、九条道家の力が没落し、後嵯峨天皇による政治一新も“血縁”から“組織”への変革だったというんですね。

そう考えると、上記の問題提起として「鎌倉時代」の幕開けを後嵯峨天皇の即位(仁治3年=1242)以降と考える観方もありかな?と思ったりしました。

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※(参照)「いいハコつくろう 鎌倉幕府?」

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