"下剋上"と将軍暗殺

室町時代末期の永禄8年(1565)5月19日、二条御所(京都市上京区、東西は烏丸通から新町通、南北は下立売通から丸太町通を囲んだ一帯。現在も武衛陣町という名が残っている)において、当時“下剋上”が叫ばれた社会風潮での典型的な出来事が起こりました。

室町幕府・第13代将軍・足利義輝が松永久秀らの軍勢「一万ばかり(『言継卿記』)に襲われ、奮戦空しく討たれたのです。

松永久秀は、管領・細川京兆家の執事・三好長慶に仕え、博識と狡智と辣腕によって、京都検断職へと成り上がった人物。久秀は長慶が病死すると、義輝を退け、義輝の従兄弟の阿波公方足利義栄を擁立し、その陰で権力を独占しようと企み、義輝の暗殺を計画したのです。

義輝も敏感にそれを察知し、密かに細川藤孝に各地の大名に久秀誅滅の命令を発そうとしていました。

義輝の身辺に諜報網を張り巡らせていた久秀はいち早くその情報を得て、密命が各地の大名に下知される前に一気に義輝を弑殺せんと謀ったのです。

二条御所は四方に深い堀を巡らせ、高い土塁と関を設けた堅固な城郭で、永禄6年(1563)2月には松永・三好方への警戒のために大堀を巡らしていました(『厳助往年記』永禄6年2月4日条)。

久秀は、ちょうど二条御所の門の扉が修復中であるとの情報を得て、清水寺参詣と偽って三好義継と三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)、息子の松永久通と共に、二条御所に軍勢を押し寄せます。松永・三好方の軍勢は「公方さまに訴訟の儀あり」と称して訴状を提出。それを義輝らが見ている間に、時を稼いで二条御所を包囲し、機を見て周囲から一斉に鉄砲を撃ちかけ、あるいは火を放って、御所内に乱入したのです。

不意の夜襲を受けたこの時、二条御所には義輝の他には奉公衆および女房衆合わせて200人。そのうち戦力となり得るのは数十人程度でした。

松永・三好軍襲撃の注進が届き、義輝は御所内にいた奉公衆と女房衆を集めさせ、最後の酒宴を張り、次いで正室(近衛稙家の女)を脱出させます。

奉公衆たちは義輝の御前で最期の舞謡を演じた後、一丸となって松永・三好の軍勢の真っ只中に斬り込んでいきました。

義輝も源氏重代の大鎧で武装し、「五月雨は/露か涙か/ほととぎす/わが名をとげん/雲の上まで」という辞世の句を残すと矢庭に立ちあがり、手に重籐の弓を持ち、傍らに典太光世、鬼丸國綱をはじめ、大包平、九字兼定、朝嵐勝光、綾小路定利、二つ銘則宗、三日月宗近など足利家伝来の秘蔵の銘刀を抜き払い、1本1本畳の上に突き刺し、臨戦態勢を整えます。

体力も運動神経も動体視力も並はずれた義輝は、敵が放った矢を悉くかわし、あるいは切り落とし、対する松永・三好勢には百筋を数える矢を放って、屍の山を築いていきますが、そのうちに、弓の弦も切れ、ついには白兵戦となり、太刀を手にすると、「されば斬り死にせん」と叫び、邸外に踊り出て、敵の手勢を斬って斬って斬りまくりました。

義輝は己の体力が及ぶ限りに敵の手勢を斬り、あるいは刺すなど獅子奮迅の働きを見せ、刀の刃がが血脂で凝り固まるとそれを放り出して邸内にとって返し、新たな1本を抜いてはまた邸外へと舞い戻っていきます。

松永・三好の軍勢も義輝の凄まじい剣腕を恐れ、業を煮やすと、襖と障子を盾にして義輝を取り囲み、そうして四方から義輝を押し包み、背後に控えていた兵士が槍で義輝の臑を払い、義輝がうつ伏せに転んだところに無数の襖と障子で義輝を覆いつくしました。

動きを封じられた義輝はその襖、障子越しに何度もめった刺しにされて遂に絶命します。義輝が最期に手にしていたのは、源頼光が大江山の酒呑童子を退治したといわれている太刀、童子切安綱でした。

三好・松永軍が討ち入ったのが午前8時、奉公衆は闘死、午前11時、義輝も乱刃の中で討死。激闘3時間あまり、戦死者53名のうち、将軍側近とわかる者は31名に上り、義輝の側近の全体数166人( 『永禄六年諸役人付』)のうち、実に約2割弱の者が戦死しました。

女衆の中には義輝の生母慶寿院(近衛尚通女)もいましたが、義輝と共に非業の死を遂げました。

この義輝の死という事件は、将軍という権威が事実上の瓦解した瞬間といえるでしょうね。

この記事へのコメント

  • 御堂

    元康さん、初めまして!来訪&書き込み、ありがとうございます。

    足利義輝は僕も印象深い歴史上の人物です。“滅びの美学”が大好きな僕にとって、義輝のような壮絶な最期は何とも言えません…

    これ以降の時代が鉄砲で生き死にが決まる時代に変わっていく事からしても、“剣豪将軍”というキャッチフレーズが一番似合う人物じゃないでしょうか!

    こういう壮絶極まりない戦闘シーンを映像で表現してほしいと思うんですが…
    2007年02月19日 23:15
  • 元康

    初めまして、元康と申します。
    ブログ村でこちらの記事のタイトルを拝見して、もしや…と思って覗いてみたら、やはり足利義輝についてだったので、寄らせていただきました。

    義輝は最近好きになったのですが、室町幕府の中では珍しく気概のある将軍でしたよね!
    幕府の権威を取り戻そうと動き始めたところに悲劇が…(><

    「剣豪将軍」の名に恥じない、壮絶な死に様もまさに武家の棟梁という感じで見事でした…。
    辞世の最後、「雲の上まで」というところに無念さが滲み出ている気がします。
    本当に惜しい人物を亡くした…と思う次第です。
    2007年02月19日 21:34

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