家格―「国持」大名の身分格式

近世という時期は封建制社会であって、身分の上下に到るまで差別意識が横行していた時代でもあります。

職業・貧富・美醜・強弱…など様々なものが差別の物差しとして扱われました。

“領主さま”とと呼ばれる身分、すなわち大名たちにとっても、そういう観念がついてまわります。

それが「家格」というヤツです。

しかし、「家格」には厳密な尺度がある訳ではなく、こと幕藩体制下では、徳川将軍家に対する親疎の関係、官位の上下、領土の大小…など様々な要素が作用して、ある種の概念が創作されました。

徳川将軍家に対する親疎の関係でいえば、親藩譜代外様という分け方を聞いた事があるでしょう。

但し、固定概念ではなかった―というのが事実です。

例えば、豊後臼杵ぶんごうすきの稲葉氏は初め外様でしたが、分家の稲葉正成いなば まさなりの後妻が春日局かすがのつぼねであった事から譜代に転じています。

また、信濃小諸しなのこもろ、上田、のちに但馬出石たじまいづしに移った仙石せんごく氏は初め譜代だったのが、政明まさあきらが11歳で襲封した時以降、外様に転じています。

外様の身分の多くは、関ヶ原の合戦までは豊臣氏に仕えていた者たちである事に相違ないのですが、その実は、将軍家(の政事)に対して、直接に関与していなければ外様のままで、幕政に参加した時に譜代となるわけです。

例えば、脇坂わきざか氏の場合、藩祖にあたる安治やすはるは、賤ヶ嶽七本槍の1人で、豊臣秀吉恩顧の家臣として淡路洲本あわじすもとを領していましたが、関ヶ原の合戦で徳川氏に翻って、伊予大洲いよおおずに加封。その子の安元やすもとの時には信濃飯田に転封されるなど、外様の典型的な家柄です。

ところが、この安元やすもとの養子に時の老中・堀田正盛ほったまさもりの次男・安政やすまさがなって以降、譜代の身分となり、その後何人かが老中を務めています。

官位の上下に関しても同様の事が言えて、将軍家と血縁関係の濃い者ほど高位高官に昇り、普通の状態であれば、下記のように参議となる外様は加賀前田家に限られています。
  • 従三位じゅさんみ、参議
    →加賀前田家

  • 正四位下しょうしいのげ、近衛中将
    →加賀前田家の家督

  • 従四位上じゅしいのじょう、近衛中将
    →薩摩島津家、仙台伊達家

  • 正四位下しょうしいのげ、近衛少将
    →加賀前田家の嫡子

  • 従四位下じゅしいのげ、近衛少将
    →薩摩島津家、仙台伊達家の家督、広島浅野家、岡山池田家、
     鳥取池田家、佐竹家、藤堂家
領土の大小に関しては、一国一円知行の領主を国持くにもち」大名とか本国持ほんくにもちといいます。例えば、
  • 加賀、能登、越中…前田家
  • 薩摩、大隈、日向…島津家
  • 周防すおう、長門…毛利家
  • 阿波、淡路…蜂須賀家
  • 筑前…黒田家
  • 安芸…浅野家
  • 備前…池田家
  • 土佐…山内家
  • 対馬…宗家
これに続くのが、不完全ではあるが大領土を有する者を大身国持たいしんくにもちと言って、 
  • 陸奥仙台…伊達家
  • 肥後熊本…細川家
  • 肥前佐賀…鍋島家
  • 伊勢安濃津あのうつ、伊賀…藤堂家
  • 筑後久留米…有馬家
  • 出羽秋田…佐竹家
  • 出羽米沢…上杉家
  • 大和郡山…柳沢家
  • 陸奥盛岡…南部家
などが挙げられます。

徳川幕藩体制下の国持くにもち」大名とは、豊臣政権下において徳川家と同輩の関係にあり、徳川幕府が成立した後も大名群の中で抜きんでた存在だと言えるでしょう。

しかし、上記した国持くにもち」大名たちは、実は『柳営秘鑑りゅうえいひかん』(※)などの非公式な私撰の武家故実書に記されているに過ぎず、幕府自体はどの御家が国持くにもち」大名であるかについて、その職務・制度上の名称として使用しているにも拘わらず、公式にはその範囲を特定していません。

※柳営秘鑑
『柳営秘鑑』とは、幕臣である菊池弥門によって書かれた、江戸幕府の年中儀礼、諸士勤務の執務内規、殿中の格式、故事、旧例、武家方の法規などが記載された書物。寛保3年(1743)刊。
但し、内容は江戸時代全般を通してのものではなく、享保年間(1716~1736)を中心に記載されている。これは、徳川吉宗の享保の改革の下、それまでの不文・慣習法志向から成文法へと転換され、『公事方御定書くじかたおさだめがき』などが整備されますが、『柳営秘鑑』の刊行もその流れにのったものだと考えられます。


― ◇ ◇ ◇ ―

面白いエピソードを1つ―大身国持たいしんくにもちの身分だった南部家のエピソードです。

文化5年(1808)12月18日、南部家の当主が利敬としたかの時、寛政11年(1799)から幕府の命で賦役していた蝦夷地えぞち警護の功績によって、10万石だった領知高が高直たかなおしによってかさ上げされ、20万石になり、国持くにもち大名へと昇格が申し渡され、さらに従四位下じゅしいのげに昇進し、侍従じじゅうに任ずる旨が幕府より達せられました。

また翌文化6年(1809)5月3日には将軍家から南部家の祝儀の献上に対する返礼書である御内書ごないしょがもたらされ、7月5日に到来します。

そこには―

それまで「南部大膳大夫だいぜんのだいぶ「南部信濃守」とあった宛て名が「盛岡侍従じじゅうと記載されていたのです。

侍従じじゅうに任じられた事で何が変わるのか―

位階が五位であれば、位記は高家こうけが代理受納し、後に幕府を介して与えられるのですが、侍従じじゅうを含め従四位下じゅしいのげ以上の場合には各自に使者を京に立てて朝廷より受ける事が可能となったのです。

藩主の利敬としたかはこれを機に藩士の江戸往来にあたり、荷札などに「これ迄南部家中何の誰と記載して来たが、今後は盛岡何の誰と記載すること」と申し渡します。

一、江戸往来之節、御家中荷札、是迄南部家中何之誰と一統認来候處、以来盛 岡何之誰と相認可申事、右之趣夫々申渡候様、御目付え申渡之(『御家被仰出おいえおおせいだされ』文化6年〔1809〕8月9日条)

「是迄旅行之節荷札南部家中何之誰と認来候處、已来盛岡誰と認候様被仰出」(『竹田伽良倶理』文化6年(1809)8月10日付)

と書留めています。

こうして、藩士に対し、藩士が旅行に際して所持する荷物等への記載には従来の「南部家中~」何々の誰それ~から、今後は「盛岡~」云々とすべしと命じるのです。

次いで11月11日には領民に対しても、商品荷札に至るまで南部から盛岡への改変―例えば、「奥州盛岡何郡何町何村」の誰それ~のように―と、「南部」と記載することの禁止を通達しています。

一、町々之者并在々御百性共、伊勢参宮罷越候節、笠或は掻器等え、是迄奥州南部何郡何村誰と認持参候様相聞得候、以来南部とは相認申間敷候、依て向後御城下住居之者不限在々之者共、都て奥州盛岡何郡何町何村誰と認可申旨、一統不洩様可申含候、尤、参宮之者斗のみにも無之、商人共売職用事にて、他向諸文通等に至まで、都て所附御国名相記候程之儀有之節とも、南部とは相認不申、奥州盛岡何屋誰と認候様、是又不洩様可申含事、不洩様可申含、是又事、
右之趣、御城下并在々其外共に一統申渡候様、…(下略)…
(『御家被仰出おいえおおせいだされ』文化6年〔1809〕11月11日条)

文化14年(1817)11月3日には従来の「南部~」の名称を藩主の居住する土地の名を取って「盛岡~」に改めるとし、南部藩を盛岡藩に改称すると通達しています。

古来南部領と唱候処、南部は甲州の村名に付、自今盛岡を以通称すべき旨、御用番(御用番老中)阿部備中守殿へ御届(『国統大年譜こくとうだいねんぷ』文化14年〔1817〕11月3日条)

国持くにもちの身分になるか、ならないかでこうも意識が違っていたんですね。

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※(参考)「将軍御内書に『盛岡侍従』」(平成15年5月4日付「盛岡タイムス」)

※(参照)「大名」
※(参照)主君「押込」

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